フィリピの信徒への手紙

2016年10月16日説教「目標を目指して」牧師 金田幸男

説教要旨 フィリピ3:12-14.doc  


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森田泰助兄召天7周年記念墓前礼拝、西宮市白水狭墓地

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2016年10月16日 | カテゴリー: フィリピの信徒への手紙

2015年3月8日説教「キリストの従順」坂部勇神学生(神戸改革派神学校)

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「キリストの従順」

新約聖書

ピリピ人への手紙2章1~11

1 そこで、あなたがたに、キリストによる勧め、愛の励まし、御霊の交わり、熱愛とあわれみとが、いくらかでもあるなら、 2 どうか同じ思いとなり、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、一つ思いになって、わたしの喜びを満たしてほしい。3 何事も党派心や虚栄からするのでなく、へりくだった心をもって互に人を自分よりすぐれた者としなさい。4 おのおの、自分のことばかりでなく、他人のことも考えなさい。 5キリスト・イエスにあっていだいているのと同じ思いを、あなたがたの間でも互に生かしなさい。6 キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、 7 かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、8 おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。 9 それゆえに、神は彼を高く引き上げ、すべての名にまさる名を彼に賜わった。10 それは、イエスの御名によって、天上のもの、地上のもの、地下のものなど、あらゆるものがひざをかがめ、11 また、あらゆる舌が、「イエス・キリストは主である」と告白して、栄光を父なる神に帰するためである。



【自己紹介】

みなさん、はじめまして、神戸改革派神学校から来ました、坂部勇と申します。私は20124月から1年間は全科聴講生として神学校で学びました。翌年の2月の編入試験を受け編入学が許可され、その年の4月から本科生1年第3学期に編入しました。その後、引き続き神学校で学んできました。今は3年生となり、今年の6月に卒業予定です。年齢は46です。私の両親はクリスチャンで、私が小学校一年生の時にホーリネス系の単立教会から改革派教会へと転会しました。それと同時に、小学校の1年生の時に、私は幼児洗礼を受けました。1983520日のことだったと記憶しています。今から32年前です。

これまで様々な紆余曲折がありましたが、一方的な神さまの恵みにより召命感が与えられ、牧師への道を選びました。これまでの私の歩みを支え、導いてくださった主に感謝しています。西谷伝道所に神学校から派遣され、礼拝で奉仕させていただく恵みに与っています。

 

【教会の集まりとは】

さて、教会とは実に興味深い集まりです。様々に人たちが集まっています、年齢、性別、職業、生い立ちの違う人々が集まっています。ここに集まってくる人たちの共通点はこの世的な考えからははかり知ることができません。なぜ教会にはこのように多種多様な人々が集まってくるのでしょうか。

共観福音書にはイエスのガリラヤ伝道が書かれた箇所がありますが、そこには、主イエスの行くところ行くところ様々な人々が集まっていることを記している所が多くあります。 

 主イエス自身の魅力によって人々は主イエスのもとに集まってきていたのです。また、マタイによる福音書1820節から「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」という御言葉があります。主イエスによって、主イエスに導かれて、イエスに合うためにいろいろな人たちが教会に集まっているのだなあと思います。教会を作るのは主イエスであり、そして教会は主イエスにより一つとなっているのだということをその箇所を読むたびごとにしみじみと感じています。

 

【フィリピの教会:教会の一致した実り】

本日はフィリピの信徒の手紙2111節から、教会の一致とは何か、教会の一致の模範について、そして教会が一致した実りについてご一緒に学んでいきたいと思います。

この手紙の書き手である使徒パウロは牢獄に監禁されながらこの手紙を書きました。宛先はパウロ自身が建てたフィリピの教会です。そのフィリピの教会には不一致がありました。内部の論争によって分裂していました。さらに偽教師たちによって間違った教えが入り込んでいました。信徒としてへりくだり隣人のために奉仕することは忘れられてしまいました。自己中心的な利己主義と倣慢の醜い状態がフィリピの教会にはありました。

 

【キリストのへりくだり】

パウロにはこの状態を診断し、治療する必要があったのです。そのため、パウロは「キリストのうちにある」信徒の生活に焦点を当て、信徒たちが見習うべきキリストのへりくだりを描いていたのです。内と外からの攻撃に対抗するためには教会がキリストにあって一つとなることが絶対に必要であったのです。教会が一つとなるためにはへりくだって互いに使えあうことが必要であったのです。

 

【「そこで」】

「そこで」という語は127節からの段落の内容の橋渡しの役割を果たしています。つまり、127-30節まででパウロは、脅威に直面している教会は一致して反対者たちと戦う必要があるという勧告をします。その勧告を受けて、さらに一致して反対者たちと戦うにはどうすべきかを21節から語ります。それは、教会が一致し、調和のとれた共同体の関係を作るようにという呼びかけです。そのために教会内のすべての分派と敵意は解決されるべきであるのです。教会の一致には四つ土台があることをパウロはここで示します。

【一致のための4つの土台】

その4つの土台とはキリストによる励まし、愛の慰め、霊による交わり、慈しみや憐みの心です。これら4つの土台の下にキリストにある教会は一致して建て上げられるのです。これら4つの全ては主イエスにはじまりがあります。イエス・キリストがまず弟子たちに見本としてお示しになりました。そして、パウロがフィリピの教会に教会員一人一人に与えたものなのです。主イエスはパウロを通して教会に一つになりなさいというのです。

 

この箇所は、パウロの熱心な訴えの中にあるフィリピの教会を思う真剣さに心を打たれずにはおれません。それは、仲良くしなさいというような表面的な勧告ではありません。パウロはこの1節のことばで、キリストが父なる神と一つであるように、教会はキリストにあって一つであることを述べます。信徒同志は、神さまと一つされているのならお互いを愛し、お互いを励まし、お互いに仕えあうことができるはずなのです。主にある交わりからはほど遠い分裂した教会へ、また分派分裂のある全ての時代の全ての教会に、これらの深い真理は語られているのです。

【パウロの願い】

パウロの願いは、2節にある教会は「同じ思いとなり」、「同じ愛をいただき」、「心を合わせ」、「思いを一つにして」することです。本質的には、これらも源泉はキリストひとつです。キリストにより一つとなることなのです。一致するのには一致を拒むものが取り除かれなければなりません。

それは反対者たちのような考え方です。もう既に天国は始まっているのだという考えです。その考えから生じてくる何をしても許される、それだから自分勝手に自分のしたいこと好きなことをすればよいのだ。他人のことなど考えなくてもよいのだという考え方です。また、そのような自己中心な思いからは決してパウロの言う同じ思い、同じ愛、心を合わせる、思いを1つにすることは生まれては来ないのです。

教会の一致と健全さ阻むもの、好ましくないものは取り除かれ、一致と愛にある兄弟姉妹の交わりが回復されるべきでした。そのためにパウロはこの4つの「同一」を訴えているのです。パウロはコリントの信徒への手紙1110節において「さて、兄弟たち、私たちの主イエス・キリストの名によってあなたがたに勧告します。皆、勝手なことを言わず、仲たがいせず、心を1つにして思いを1つにして、固く結びあいなさい。」と言っています。もしこのように神様の家族としての一致が教会の中で実現されるなら、パウロの喜びは全きものとなるのです。

 

【自己中心的な利己主義】

フィリピの教会には反対者たちにより自己中心的な利己主義が広まっていました。3節から4節でパウロは教会の一致を回復するためにどうしたら良いのかを実践的に教えています。それは、3節では「何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え」とあります。フィリピの教会は自分の利益ばかりを追い求め他人のことを他の人の益を考えない人々がいたのです。また、自らを他の人々よりも優れたものだと考え、それを誇る人たちがいたのです。それは神様の栄光から見れば取るに足らない栄光です。みんな罪人です。罪人同志が、どちらが優れていると比較し合っても、それはドングリの背比べです。主の栄光から見れば空しいことです。これらの利己心や虚栄心から解放されるためにはどうしたら良いのかでしょうか。

 

【へりくだって、互いに相手を・・】

パウロは続けます。「へりくだって、互いに相手を自分よりも優れたものと考え」といいます。「へりくだる」、すなわち謙遜は、その謙遜とは神様の前にへりくだる、謙遜になることです。私たち自身はその存在の全てを神様に頼っています。私たちは神様には謙遜になれるはずです。神様の前での謙遜が、私たちを他の人々との関係の中での謙遜へと導きます。神の力強い御手の下にへりくだるように「互いに謙遜を」身に着けることが大切なのです。神様に対して、また人に対して、へりくだって接することから、自分の弱さや失敗に気づくことを可能にします。そして、これが後に続く、「互いに相手を自分よりも優れたものと考え」の理由です。4節では「めいめい自分のことだけでなく、他人のことも注意を払いなさい。」とパウロは勧告します。自分の中には無い他の人たちが持っている良い点、賜物に目をとめること、他の人々を評価すること、これはなかなか難しいことです。人間は、どうしても他人よりも自分の方が優れていると思いたいですよね。他人を認めることができないことが多いですね。しかし、もし、素直に他の人の優れたところを認めることができるなら、そして、その人の優れた点から学ぶことが出来るなら、さらに、それが教会の中で用いられるのなら、教会の祝福となります。

しかし、「利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れたものと考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。」とは難しいことですね。人間の本性は全くこれらの逆ですからね。(間をあける。)

 

【神学校での私の体験】

神学校では、毎朝630分から朝祷会があり、神学生が日替わりで司会とリジョイスで示されるその日の聖書箇所から奨励をします。私はこれをなかなか御言葉として聞くことができなのですね。それは、自分が担当した時の奨励と比較してしますからです。他の神学生のメッセージから自分にない者や足りない部分を吸収しようという思いをもてばよいのですが、なかなか難しいですね。無意識のうちに自分のメッセージを中心にして聞いてしまっています。自分が同じ個所からメッセージをするのならばこんなことは言わない、ここは解釈が違うのではないか、自分ならもっと良いメッセージをするなどという思いを持ちながら聞くのです。他の神学生を自分よりも低くしています。パウロの言うへりくだりとは全く正反対のことをしています。そんな思い・雑念をもって朝の奨励を聞いていますので、一日のはじめに御言葉に聞く大切な時間なのに、一日をはじめるエネルギーを頂くときにもかかわらず、そうならずに、モヤモヤばかりが残ります。その日の司会者に素直に感謝することができない自分がいます。そんな自分自身に嫌悪感を抱きます。私自身がまず今日の御言葉に聞かなくてはなりません。

 

【パウロの模範】

なぜパウロはフィリピの教会の一致のためにこんな困難な勧告をしたのでしょうね。パウロの中には飛び切り良い、他とは比べ物にならないモデルあったのです。それは、他でもない主イエスでした。

主イエスは神の御子でした。その神の御子としての身分を捨て、人間と同じ姿をとりこの世に下ってこられました。地上での生涯を歩まれました。僕として、それは父なる神様の僕として地上生涯を歩まれたのです。それは、救い主としての使命でありました。父なる神様からの御命令でした。主イエスは決して神としてのご人格を捨ててしまわれてわけではありません。主イエスは地上の生涯を歩まれた間も神の御子であられました。神の御子であり、そして人間であられたのです。神のご人格に、完全なる神の性質と完全な人間の性質とを持っていたのです。

しかし、主イエスは神の御子としての栄光を捨てられました。私たちにはその奥義を理解することは難しいですが、御言葉の通りに受け入れたいと思います。そして、8「へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」

大工の息子として馬小屋でお生まれになりました。当時、社会的に軽んじられていた人々である取税人や罪人と食事を共にしました。汚れているとされている病人に手を伸ばし、その体に触れられて癒されました。ご自分の弟子たちの足を洗われました。

そして、謙遜の極みである十字架での死の時までも従順になり、服従されたのです。それは、他でもないフィリピの教会のため、全ての教会、信徒のためでした。そして、神さまはこの徹底的に従順であったキリストを高く上げられたのです。ここにへりくだりの、謙遜の模範を見ます。

パウロはこのキリストを思い起こしてみなさいと、フィリピの教会に訴えるのです。さらに、このキリストの父なる神様に対する従順によってあなたがたは救われたのですと言っているのです。そのキリストの絶大なる従順によって救われた者同士の集まりである教会には不一致はあるはずはないのです。

確かに、教会にはいろいろな人が集まっています。自分と生い立ちや経歴や考え方が似ている人とはうまくやっていきやすいかもしれません。しかし、教会に集まってくる人はそんな自分と似た人ばかりではありません。自分とは生い立ちも考え方も全く違う人もいます。時には教会員同士で衝突することもあるかもしれません。しかし、みんな許し合いお互いを受け入れ合えるはずです。

私にも理解することが難しい神学生がいます。しかし、その人も私も同じキリストの従順によって罪が許され、救われたのです。私自身にもその神学生を理解し、受け入れるというチャレンジがあります。いつかきっとそうできると思います。それは、みんなキリストにあって一つだからです。同じキリストにより、その従順により救われた者同士は、キリストに結びついている者たちには人間の考え、思い、欲望を越えたところでの高くて深くて広い一致があるのです。

主イエスは神様によって天上にあげられ、神様によってあらゆる名にまさる名をあたえられました。主イエスはそうなることを願って、地上の僕としての生涯を歩まれたわけでは決してありません。主イエスが僕として神様に従順に従ったからこそ神様は主イエスをあげられたのです。

だから、同じ心となり、一つ思いとなり「イエス・キリストは主である。」とのべて、父である神様をほめたたえることができるのです。

このパウロの勧告はフィリピの教会だけに言われているのではありません。全てのクリスチャンにすべての教会が学ぶべきこととして述べられています。キリストの従順は私たちに兄弟姉妹へのへりくだりと謙遜を教えています。そして、教会の一致を教えています。11節に、すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、とある通り、教会全体でイエス・キリストは私たちの主であると心から伝えていきたいと思います。神様の栄光は主イエスによって私たちに現されています。そして、主イエスを公に伝えることが、私たちが神様の栄光をあらわすことになるのです。キリストの従順、それは私たちに救いと一致とを与えるものです。そして、みんなが同じ主を見上げることから心合わせた讃美が生まれてきます。祈ります。(おわり)

2015年03月08日 | カテゴリー: フィリピの信徒への手紙

2013.5.26.説教「始められたことを成し遂げられる神」ウイリアム・モーア宣教師

2013.5.26.説教「始められたことを成し遂げられる神」ウイリアム・モーア宣教師

聖書:新約聖書フィリピの信徒への手紙1

3 わたしは、あなたがたのことを思い起こす度に、わたしの神に感謝し、

4 あなたがた一同のために祈る度に、いつも喜びをもって祈っています。

5 それは、あなたがたが最初の日から今日まで、福音にあずかっているからです。

6 あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています。

 

説教要約(文責近藤)

 

【夢に見る完璧な教会】

皆さん、完璧なキリスト教会について考えてみましょう。

私が夢の幻にみる完璧な教会は、人々は一つになって、教会の益を求め、神の栄光の為に励みます。良いことばかりを励み、相手を自分より偉いと心から尊び、教会員は悪口を言わず、相手について言うことは良いことばかりです。

 

讃美歌を唄うと天使の歌声のようです。更にこの完璧な教会の牧師の姿を見ると、彼の説教は毎週、信者のニーズを満たし、聞く者は信仰がますます豊かになって成長します。完璧な教会の牧師の説教はいつも面白くて聞く者の注意を集めます。

牧師は魅力的性格と溢れる信仰をもって会員をいつも喜ばせます。

 

実は私は夢の幻にこのような完璧な教会を見ると目が覚めてしまいます。なぜなら私がこの群れの牧師になったらこの教会の完璧さが壊されてしまうことが分かるからです。

 

冗談に誰かがこういいました、もし完璧な教会を発見したらその教会に属してはいけません。なぜなら自分がその教会に入ると、その完璧さを壊してしまうからです。

 

【この世には完璧な教会はない】

実はこの世には完璧な教会は存在しません。使徒パウロは言いました『「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。わたしは、その罪人の中で最たる者です(テモテへの手紙一 1:15)』

 

ここでいう罪人とは、一般に言う犯罪人のことでなく、聖書のいう罪人とはこの世の定義と異なります。はじめ神と人は平和で互いに愛し合いました。しかし人は神のもとの自由を悪用し自分の目に正しいと思うことをして自己中心的になりました。自己中心的な行為と態度を聖書は罪といい、全ての人は罪人です。

 

【教会は罪人の病院】

それ故、教会は完璧な人の集まりではなく罪人の病院です。教会で罪という病気は癒されるのです。

 

主イエスは言われた「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである(ルカによる福音書5:31)」。

 

完璧でない私たちは教会で神の救いと赦し受け、「私に従いなさい」と主イエスが教えて下さった生き方に従うのです。

 

【初代教会も罪人の集まりであった】

皆さんは新約聖書の初代教会は今日の教会より優れたものとして憧れます。皆が主の証を立てました。しかし実を言うと今日の教会と変わらず罪人の集まりで、自己中心的であり愛に欠けました。しかし罪の赦しと主が教えて下さった生き方により癒されました。

 

【フィリピで始められた教会】

今日の聖書はフィリピの教会に送られたパウロの手紙の一節です。パウロと他の二人の弟子がAD50年ころフィリピに来て伝道しました。使徒言行録16章を見てください。

 

使徒言行録16

12 そこから、マケドニア州第一区の都市で、ローマの植民都市であるフィリピに行った。そして、この町に数日間滞在した。13 安息日に町の門を出て、祈りの場所があると思われる川岸に行った。そして、わたしたちもそこに座って、集まっていた婦人たちに話をした。

14 ティアティラ市出身の紫布を商う人で、神をあがめるリディアという婦人も話を聞いていたが、主が彼女の心を開かれたので、彼女はパウロの話を注意深く聞いた。

15 そして、彼女も家族の者も洗礼を受けたが、そのとき、「私が主を信じる者だとお思いでしたら、どうぞ、私の家に来てお泊まりください」と言ってわたしたちを招待し、無理に承知させた。

 

フィリピのリディアという婦人が洗礼を受け、このリディアの家で集会が始められたのです。迫害のなかにも奇跡的に神に守られ教会は成長したのでパウロは他の地に伝道に行きました。その後10年間に二度ばかりフィリピ教会をパウロは尋ね信者を励ましました。またフィリピの教会はパウロの為にも捧げ祈りました。

 

パウロは伝道の結果多くの教会を建てあげましたが、パウロは迫害されローマに連れていかれました。フィリピの信者がパウロのもとに献金をもって行きました。

 

【フィリピ教会も完全でなかった】

しかしフィリピの教会は完全ではありませんでした。それでパウロはこのように書き送りました。

 

フィリピの信徒への手紙2

2 同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください。3 何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、4 めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。

 

これは完璧な教会に書き送ったものではありません。教会の中に争いがあり、自己中心的な罪が教会の中にありました。パウロは又こう書き送りました。

 

フィリピの信徒への手紙3

18 何度も言ってきたし、今また涙ながらに言いますが、キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多いのです。19 彼らの行き着くところは滅びです。彼らは腹を神とし、恥ずべきものを誇りとし、この世のことしか考えていません。

 

フィリピ教会も罪人の集まりでした。又パウロは書きました。

 

フィリピの信徒への手紙4

2 わたしはエボディアに勧め、またシンティケに勧めます。主において同じ思いを抱きなさい。3 なお、真実の協力者よ、あなたにもお願いします。この二人の婦人を支えてあげてください。二人は、命の書に名を記されているクレメンスや他の協力者たちと力を合わせて、福音のためにわたしと共に戦ってくれたのです。

 

二人の熱心な信者エボディアとシンティケが大喧嘩になりました。パウロの願いは二人の和解でした。そしてフィリピ教会の将来に確信してこう書きました。

 

それが今日の聖書の箇所です。

フィリピの信徒への手紙1

3 わたしは、あなたがたのことを思い起こす度に、わたしの神に感謝し、

4 あなたがた一同のために祈る度に、いつも喜びをもって祈っています。

5 それは、あなたがたが最初の日から今日まで、福音にあずかっているからです。

6 あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています。

 

【パウロの確信】

神が成し遂げられた教会は罪人の集まりであってもパウロは確信しました。

「あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています」。

 

【始められたことを成し遂げてくださる神】

その大きな信仰と希望は何処から来たのでしょうか。それは6節に記されています。

6 あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています」。

 

【主がフィリピで、西谷で始められた良き業】

神がフィリピで良き業を始められました。川岸でパウロがリディアに出会い彼女に神が信仰を豊かに授けられました。自分ではなくパウロは神こそがフィリピで伝道を始められたと確信しました。忠実である私たちの神は御自身が始められたことを成し遂げて下さるのは理の当然とパウロは信じました。私たちの主は始められたことを成し遂げてくださる全能の神だからです。始められた時からイエス・キリストの再臨の日まで神はずっと働き良い結果を保障してくださいます。

 

愛する兄弟姉妹、この神の保証はこの西谷教会にも当てはまります。小さな群れでありながら愛する神は西谷教会を成長させ16年近くにわたり忠実に守って導いて下さいました。

 

これから主の再臨の日まで主イエスが始められたことを成し遂げられ成長させてくださると私は確信しています。(おわり)

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2013年05月26日 | カテゴリー: フィリピの信徒への手紙 , 新約聖書

2013.3.3.説教「キリストを模範とせよ」ウイリアム・モーア宣教師

2013.3.3.説教「キリストを模範とせよ」ウイリアム・モーア宣教師

 

聖書:フィリピの信徒への手紙2- キリストを模範とせよ-

1 そこで、あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、"霊"による交わり、それに慈しみや憐れみの心があるなら、2 同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください。

3 何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、4 めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。

5 互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです。

6 キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、

7 かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、8 へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。

9 このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。

10 こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、

11 すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。

 

説教要約(文責 近藤)

 

【キリスト者とはイエスに倣う者】

この世にある間、クリスチャンは一つの目的があります。それは救い主イエス・キリストに似ることです。クリスチャンとはキリストに似る者です。キリスト者はイエス・キリストに似ることが父なる神の御旨であって神を喜ばせることを知っています。

 

今日の御言葉は私たちがどうすればイエスに似るかを教えます。

主イエスに似ようとすれば、私たちは主と同じ態度をとらねばなりません。

 

パウロはピリピのクリスチャンに語りました。5節「 互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです」

原文は「キリストと同じ考え、同じ態度をとりなさい」となります。

イエスの価値観と行動を模範とすることで私たちは主に似て行きます。

 

イエスに似るために今日は3つの態度を覚えましょう。

 

【愛をもって人に仕える】

1、主イエスと同じように人を、隣人を愛さねばなりません。

隣人を愛することは次のように言われます。

マタイによる福音書 712 だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。

 

私たちは主イエスを模範として良いときにもそうでないときも積極的に人に仕えます。

 

例えば友のない者の友となり、職場の弱い者に手を伸ばし、物質的に困っている者を助け、病人を慰め、人の悲しみも慰め、希望のない者に希望を与えることはキリスト者の使命です。

主イエスがこの世を歩まれたとき主はこれら全てにおいて人に愛の業をなさいました。

主イエスに似たい私たちもそうすべきです。

 

【相手を自分よりも優れた者とする】

今日の御言葉に更にこう書かれているキリストの精神を学びましょう。

3節「 何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、4 めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい」。

 

主イエスと同じように自分の立場と自分の利益より相手のことをより大事にし、そのうえ相手を自分より優れた者とすることです。それは難しいことです。私たちは本能的に自分の知恵、判断力、自分の正義感に自信があり、相手より優れた者として自分の価値を確認する者です。

相手の失敗、欠点をあげて喜び、こうして自分をそれらの人より良い人だと信じたいからです。

しかしイエスによると相手を自分より優れた者として心から尊敬すると、そうすることで私たちは精神が変わり主イエスに似てきます。

 

【トラブルの原因】

実に大抵のトラブルは自分が相手より優れた者とすることで生じます。

しかし逆に互いに相手を自分より優れた者とするなら、そして自分の都合と気持ちよりも相手のことを大事にするなら全ての問題は解決しお互い平和に暮らせます。

 

相手を自分自身よりも心より優れたものとして考え扱っていますか。この態度に立つなら、そうすれば私たちは主に似る者になり正しい道を歩んでいます。

 

続いて5節から見ましょう。

5 互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです。6 キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、7 かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。

 

【奴隷のように】

私たちの模範である主イエスは全人類の為に僕になり、私たちに仕えるためこの世に来られた。

主は全能の神の身分があって永遠の昔から天国の全ての栄光を経験されたが、人に仕えるためすべてを捨て、人としてこの世に誕生されました。またこの世では良い条件のもとではなく貧しい植民地で貧しい家族に生まれ、権力も富もなく普通の人よりも謙って僕として生きられました。

ここで僕と訳された単語はは奴隷のことです。

人類の為に永遠の神主イエスは奴隷の身分を自ら進んでとって私たちに仕えるためにこの世に来られた。

 

【すべての人の僕に】

マルコによる福音書に主イエスのお言葉がこう記されています。 10章「42あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。43 しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、44 いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。45 人の子(イエス様のこと)は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。

 

主イエスは自ら進んで僕になられた。私たちも主に似たいなら進んでキリストのように人の僕にならねばなりません。

 

そうすることで主に似る者となり、この世に人生の意味と歓びを持って生きられます。

これはこの世の常識とは反対ですね。この世では人に仕えられることは幸せだと考えられています。しかし実際、人は仕えられるほど虚しく惨めになります。社会にその例がよく見られます。有名になりお金で人に仕えられると人生の意味は虚しく惨めになります。

 

そうでなく気が滅入ってきたら一番良い薬は人に仕えることです。人に仕えると、殊に自分の助けを必要とする人に仕えると、自分の問題を忘れて人生の本当の目的を悟るのです。

 

小さいことでも人に仕えるなら主に似ますので主と同様に僕の心をもって積極的にその道を探しましょう。

 

【謙遜を学ぶ】

2、次に主イエスに似たいものは謙遜を学びましょう。

 

6 キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず7かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。

 

「自分を無にする」とは原文では「自分を空っぽにした」となります。

 

【主イエスの洗足】

主は自分を守るため神の力を用いず、自ら進んで人としてこの世を生き、模範として身を低くして弟子の足を洗われました。

当時足を洗うのは奴隷の仕事でした。

主は弟子たちの足を洗うことで謙遜を教えられた。サンダルを履くので足がきたなくなって、家に帰るとそれを洗うのは奴隷の仕事でした。

主は弟子の足を洗うことで彼らに謙遜を示され人に仕えることを教えられました。

 

わつしたちは昔偉かった自分の立場を忘れず、まだ捨てられませんか。

これはすべて泡のようなものです。

私たちも社会的地位に関わらず主に倣って謙遜をもって謙って周りに仕えるなら主イエスに似る者になります。

 

【従順に神に従うこと】

3、最後は従順に神に従うことで主に似る者になります。

 

8 節「へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」

主イエスの使命は人の贖いとなって十字架で御自身の命を捨てることでした。

受難節にある私たちは主の最も重要な御業を学び、心に未解決の問題を十字架の主に委ねませんか。私たちが主の十字架を思うと許せない者があるでしょうか。

 

主の十字架の従順のお蔭で私たちの罪が許され、そのうえ私たちは神の家族に入れられました。

 

しかし主イエスに似たいのなら神に従わなければなりません。御言葉の教えを学び主と同じように毎日の生活にその教えを実行します。神の為に犠牲になっても従います。

 

それは私たちの使命であり、わたしたちの特権でもあります。私たちの全ての行動は私たちの愛する子供や孫や周りの人が見ています。私たちが行うことを彼らも学び同じように実行します。

 

【十字架の死に至るまで父なる神に従順であられた主イエス】

愛をもって人に仕えること、心から謙遜になること、従順に神の教えに従い実行することを主イエスに似る者は現します。主は私たちに仕え私たちに謙遜を顕し、そして私たちのために死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで父なる神に従順であられました。

 

どうか私たち一人一人も神の助けで全てにおいて主イエスを模範としましょう。主に段段に似ることは神を喜ばせ私たちにも平安と歓びの日を迎えることになるでしょう。(おわり)

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2013年03月03日 | カテゴリー: フィリピの信徒への手紙

「自分の置かれた境遇に満足する」ウイリアム・モア2010.7.4.

フィリピの信徒への手紙4章10−14

10:さて、あなたがたがわたしへの心遣いを、ついにまた表してくれたことを、わたしは主において非常に喜びました。今までは思いはあっても、それを表す機会がなかったのでしょう。11:物欲しさにこう言っているのではありません。わたしは、自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えたのです。12:貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています。満腹していても、空腹であっても、物が有り余っていても不足していても、いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています。13:わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です。14:それにしても、あなたがたは、よくわたしと苦しみを共にしてくれました。

 

【秘訣の魅力】

我々人間は秘訣を好む心が結構あります。特に、ある事を行うのに最もよい効果的方法、しかも、めったに他人が知らない奥義を得たいのです。そして、あまり努力しなくても、秘訣でよい結果が直ぐ出たら私達は大変喜びます。それは秘訣のおもな魅力ではないかと思います。何よりも、頑張らなくても、待たなくても素晴らしい物、偉い事を手に入れたいのです。

2010年07月04日 | カテゴリー: フィリピの信徒への手紙 , 新約聖書

「無常の時代に住むための信仰:祈り」ウイリアム・モーア2010.1.31

聖書:フィリピの信徒への手紙4章

6:どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。

  7:そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。

 

【シートベルト・サイン】

飛行機に乗ると、シートベルト・サインのライトがつくと、大抵三つの意味が含まれています。それはもうすぐ離陸するか、着陸に入るか、それとも激しい揺れが間もなく来ると言う事です。離陸と着陸の事は十分予想出来ますので大した事ではありません。しかし、シートベルト・サインのライトが飛行中輝くと少し心配になります。

 

と言うのは、もうすぐやって来る事はちょっとした揺れか、激しい激動のような揺れかが予測つかないからです。

2010年01月31日 | カテゴリー: フィリピの信徒への手紙

「まことの愛において一つになる」神戸改革派神学校生 國安 光

神戸改革派神学校生 國安 光


聖書:フィリピの信徒への手紙2章1~11
◆キリストを模範とせよ

1:そこで、あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、"霊"による交わり、それに慈しみや憐れみの心があるなら、2:同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください。3:何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、4:めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。5:互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです。6:キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、7:かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、  8:へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。9:このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。10:こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、11:すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。


 
【はじめに:フィリピの教会】
今朝は、フィリピの信徒の手紙よりみなさまと共に神様のみことばに聞いてまいりたいと思います。この手紙は、使徒パウロが牢獄の中で筆を執り、フィリピの教会の信者たちに送った手紙であったといわれております。はじめにフィリピがどこにあるかを確認しましょう。フィリピの場所を知る手がかかりとして、聖書の巻末に地図があります。8パウロの宣教旅行2・3という地図にその場所が記されております。

2009年10月11日 | カテゴリー: フィリピの信徒への手紙 , 新約聖書

神の平安 ウイリアム・モーア宣教師

フィリピの信徒への手紙4章4−9

4:主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。

5:あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい。主はす

ぐ近くにおられます。

6:どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込

めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。

7:そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と

考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。

8:終わりに、兄弟たち、すべて真実なこと、すべて気高いこと、すべ

て正しいこと、すべて清いこと、すべて愛すべきこと、すべて名誉

なことを、また、徳や称賛に値することがあれば、それを心に留め

なさい。

9:わたしから学んだこと、受けたこと、わたしについて聞いたこと、

見たことを実行しなさい。そうすれば、平和の神はあなたがたと共

におられます。


【初任給1千万円?】
就職活動に励むある大学の四年生が会計仕事の口を探す為、小企業の社長と面接を受けました。そして、面接に社長はこう言いました。「私は社長だから心配があまりに多いよ。特に不景気でお金の心配が多いから嫌なんだ。だから、うちの会社に入れば、あなたが私の全てのお金の問題を取り扱うんだよ。」青年はそれを聞いて、「会計は私の分野だから、興味がありますが、ところで、年収はどのぐらい頂けるのでしょうか」と聞きました。社長は、「あなたは賢そうな青年だから、始めは一千万円はいかがでしょうか」と返事しました。青年はそれを聞いて大喜びしました。「一千万円!それは結構な話ですよ。十分足ります。しかし、ちょっと知りたい事がありますが、小企業の御社はどうして新入社員に一千万円もの年俸が払えるのですか。」社長は青年を見詰めながらこう答えました。「君、実は、それこそが会計のあなたの最初の心配だよ。」

私達は誰でも心配、あるいは思い煩いを経験する事があります。そして、心配しはじめたら、心配事は限りありません。誰かがこう言いました。「人間は心配の全く無い時が折々あります。そして、その一時休止は『パニック』と言います。」

2009年02月22日 | カテゴリー: フィリピの信徒への手紙 , 新約聖書

ホームシック ウイリアム・モーア宣教師

聖書:コリントの信徒への手紙二5章1−10

1:わたしたちの地上の住みかである幕屋が滅びても、神によって建物が備えられていることを、わたしたちは知っています。人の手で造られたものではない天にある永遠の住みかです。2:わたしたちは、天から与えられる住みかを上に着たいと切に願って、この地上の幕屋にあって苦しみもだえています。3:それを脱いでも、わたしたちは裸のままではおりません。4:この幕屋に住むわたしたちは重荷を負ってうめいておりますが、それは、地上の住みかを脱ぎ捨てたいからではありません。死ぬはずのものが命に飲み込まれてしまうために、天から与えられる住みかを上に着たいからです。5:わたしたちを、このようになるのにふさわしい者としてくださったのは、神です。神は、その保証として"霊"を与えてくださったのです。6:それで、わたしたちはいつも心強いのですが、体を住みかとしているかぎり、主から離れていることも知っています。7:目に見えるものによらず、信仰によって歩んでいるからです。

8:わたしたちは、心強い。そして、体を離れて、主のもとに住むことをむしろ望んでいます。9:だから、体を住みかとしていても、体を離れているにしても、ひたすら主に喜ばれる者でありたい。10:なぜなら、わたしたちは皆、キリストの裁きの座の前に立ち、善であれ悪であれ、めいめい体を住みかとしていたときに行ったことに応じて、報いを受けねばならないからです。


【ホームシック】
今年の春に中国の上海に行きました。初めての中国の旅ですから、とても面白かったです。特に向こうのキリスト教会の現状と中国の経済的発展を自分の目で見る事は良い勉強になりました。しかしながら、そのツアーの最後の日になると、不思議にどうしても家に帰りたい気持ちがあったのです。

その気持ちになったのは別に上海が嫌い訳ではありませんでした。本当に刺激的な所で、いつかもう一度また来てみたいと思いました。けれども、向こうの環境の違いの故に、家を憧れ帰りたかったのです。言葉は通じなし、食べ物も慣れていませんでした。ホテルのベッドは板のように固くてよく眠れませんでした。また、上海の道が分からなくて自由に動きが取れないと言うのも不便でした。ですから、馴染みが深い神戸と我が家を憧れ帰りたかったのです。と言うのは。

恐らく私はちょっとホームシックになったかも知れません。誰でも遠く離れると、いくら良いと言っても、やはり、楽にさせる家の事や慣れて来た環境をなつかしく思う心があります。

2008年08月03日 | カテゴリー: コリントの信徒への手紙二 , フィリピの信徒への手紙 , ヨハネの黙示録 , 新約聖書

自分を無にする事 ウイリアム・モーア宣教師 

聖書:フィリピの信徒への手紙2章1−11

 ◆キリストを模範とせよ   1:そこで、あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰     め、"霊"による交わり、それに慈しみや憐れみの心があるなら、   2:同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、     わたしの喜びを満たしてください。   3:何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに     相手を自分よりも優れた者と考え、   4:めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。   5:互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみら     れるものです。   6:キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固     執しようとは思わず、   7:かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられ     ました。人間の姿で現れ、   8:へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順で     した。   9:このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与     えになりました。  10:こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエス     の御名にひざまずき、  11:すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父     である神をたたえるのです。  

 

【キリストに似ること】
この世にいる間、私達キリスト者はおもに一つの目的を持って生きています。それは私達の救い主イエス・キリストにだんだん似て行く事です。何故なら、キリストに従って、似て行く者はキリスト者です。そして、同時に、キリスト者はキリストに従って似て行く者であります。その上、私達はキリストに似て行く事が何よりも父なる神の御旨であり、何よりも主を喜ばせる事であるとよく知っています。
 
【イエス・キリストに似て行く道】
今日の御言葉はイエス・キリストに似て行く道を教えて下さいます。この個所は私達がどういうふうに主イエスにより近づけるかを説明します。今日与えられた御言葉によりますと、イエスのようになろうとしたら、私達は先ず主との同じ態度をとらなければなりません。フィリピの信徒への手紙2章5節の所を見て下さい。使徒パウロはこのようにフィリピと言う町にいるキリスト者に語りました。「互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト•イエスにもみられるものです。」
 
原文を調べると、その表現は、「キリスト•イエスの同じ考え方、あるいは同じ態度をとりなさい」となります。つまり、主イエスの態度と価値観が自分のものになると、私達の動機と行動が変わり、徐々にイエスに似ていきます。

2008年03月02日 | カテゴリー: フィリピの信徒への手紙 , マルコによる福音書 , 新約聖書

自分の救いを達成するように努めなさい ウイリアム・モーア宣教師

フィリピの信徒への手紙2章12−18
 
【牢獄のパウロ】
使徒パウロは先程読ませて頂いた御言葉を牢から書きました。彼は信仰の故にローマ帝国の当局によって逮捕され、裁判を受ける間、閉じ込められました。私達はその告発が詳しく分かりませんが、イエス・キリストの信仰を大胆に人々に伝えたので、牢に入れられ、これから死刑される可能性が十分ありました。
 
牢に入れられた使徒パウロはその大変不安な時を、どのように日々を過ごしたでしょうか。彼が自分の不安と困苦と法的問題で落ち込んでいたら私達はその気持ちが十分分かります。また、信仰の為にそうなったので使徒パウロが神に失望していたら、それも私達は十分理解出来ると思います。「神様、どうして私はこんなに酷い目にあったのですか。長い間主イエス・キリストの福音を忠実に述べ伝えたのに、どうして私を守りませんでしたか。」もしパウロは気が滅入って来て、そのように呟いても、誰も彼を責めるものはなかったでしょう。しかし、パウロは監獄の大変な生活の中で大きいな喜びを持って、続けて積極的にイエス・キリストの僕として一所懸命に励みました。自分の投獄についてこのように書きました。「兄弟たち、私の身に起こった事が、かえって福音の前進に役立ったと知って欲しい。つまり、私が監禁されているのはキリストの為であると、兵営全体、その他のすべての人々に知れ渡り、主に結ばれた兄弟たちの中で多くの者が、私の捕われているのを見て確信を得、恐れることなく、ますます勇敢に、御言葉を語るようになったのです。」(フィリピの信徒への手紙1:12−14)

2007年11月25日 | カテゴリー: コリントの信徒への手紙一 , コリントの信徒への手紙二 , フィリピの信徒への手紙 , 新約聖書

わたしの父の家には ウイリアム・モーア宣教師

聖書:ヨハネによる福音書14章1−3
 
 
【モリソン宣教師夫妻】
略100年前の事ですが、モリソンと言う宣教師御夫妻は長年のアフリカでの奉仕後、定年を迎えアメリカのニューヨークに帰る事になりました。二人の健康は衰え、年金もなかったので、モリソン御夫妻は色んな心配がありました。偶然の事ですが、彼等はアメリカの大統領セオドア•ルースヴェルトと一緒に同じ客船に乗りました。探険旅行帰りの大統領は一等スウィートルームに泊まりましたが、モリソン夫妻は薄暗い三等船室でした。大統領とその仲間はVIP待遇を受けていましたけれども、誰も宣教師達に留意しませんでした。
 
まだ航海中に、先生は奥さんにこう呟きました。「これは大変不公平ですよ。我々はアフリカで辛苦に耐えながら一生を捧げましたのに、誰一人私達の事を覚えてくれる人はいませんね。しかし、大統領はただヴァカンスから帰りだけなのに、皆は大騒ぎではありませんか。」
 
客船がニューヨックに着いた時、ブラスバンドが大統領を歓迎して、大勢の高位高官にある人々は出迎えに来ました。新聞も大統領の帰りを大きく取り扱いました。その反面、誰一人宣教師の帰りを気づく人はいませんでした。その二人はただカバンを持って船から降りて安いアパートを捜し回りました。それから、生活をする為に、仕事を捜そうとしたのです。

2007年08月12日 | カテゴリー: コリントの信徒への手紙一 , フィリピの信徒への手紙 , ヘブライ人への手紙 , マタイによる福音書 , ヨハネによる福音書 , ヨハネの手紙一 , ヨハネの黙示録 , 新約聖書

霊の結ぶ実:誠実 ウイリアム・モーア宣教師

詩編33
ガラテヤの信徒への手紙5:22−23
 
 
【アマンドと父の約束】
1988年に旧ソ連の共和国アルメニアでサミュエルとダニエルと言う両親は自分の幼い息子アマンドを小学校へ送り出しました。いつものように、お父さんサミュエルは息子を見て言いました。「学校でよく勉強してね。そして、万が一、あなたに何かが起きたら、どんな事があってもパパはあなたをすぐ助けに来る事を忘れないで。」そして、サミュエルは息子を強く抱きしめてから学校へ行かせました。
 
数時間後、力強い地震がその地域を揺らしました。大混乱の中でサミュエルとダニエルは息子の事を尋ねようとしましたが、情報は何もなかったのです。ただ、ラジオのニュースは、「何千人の犠牲者が出た」と伝えるだけです。その事を聞くと、サミュエルは忽ち学校へ走り出しましたが、現場へ着くと悪夢のような光景でした。アマンドの小学校は瓦礫の山と化してしまいました。そして、多くの生徒の家族は泣き悲しんでその酷い場を見詰めていました。
 
しかし、サミュエルはアマンドの教室があった所を捜し、自分の素手で瓦礫を取り始めました。コンクリートの塊と壊れた木の柱と割れた瓦も必死に取り除きました。
 
ある父親は、「何をやってますか」と彼に聞きました。そして、「息子を掘り出している」と返事をすると、「止めなさい、瓦礫は不安定なので、もっと悪くする」と言いました。しかし、サミュエルは続けて瓦礫を取り除こうとしました。彼を見ている他の両親たちは一人ずつ帰りましたが、サミュエルはその作業を止めませんでした。やっと、消防士が来た時、サミュエルは、「助けて下さい、私の息子がこの中にいるんです」と願いましたが、消防士も彼を止めさせようとして、やがて帰りました。
 
サミュエルは休まず一人でその晩ずっと努めました。そして、朝になると生徒の家族は現場に来て子供の写真とお花を瓦礫の前に置いて帰りました。しかしながら、サミュエルは瓦礫を掘るのを止めませんでした。大きな柱を動かそうとした瞬間、「助けて、助けて」と言う子供の小さい叫び声を聞きました。そして、少し後で、「パパ?、パパ?」と言う聞き慣れた声も耳に入りました。そのアマンドの声を聞くとサミュエルは鬼のように瓦礫を掘りました。やっと、 瓦礫の中の空洞に息子の姿を見ました。ほっとひと息つくと、「速く上って来い」とサミュエルは叫びました。しかし、アマンドは、「パパはきっと私を救うから、友達を先に出させて、お願い」と言ったのです。それから、生徒達一人一人はサミェルが掘った穴から出て来ました。最後に小さいアマンドがお父さんの腕に入ってこう言いました。「友達にパパがどんな事があっても僕を助けに来ると言っていたので、みな心配しなかった。」一人のお父さんが誠実であったので、その日14人の命が助けられました。

2007年07月08日 | カテゴリー: ガラテヤの信徒への手紙 , フィリピの信徒への手紙 , 新約聖書 , 旧約聖書 , 詩篇

満ち足りた生活の秘訣 ウイリアム・モーア宣教師

ヘブライ人への手紙13:1−8

【突然の遺産相続】
ある日、二人の友人が久しぶりに道端でばったり出会いました。一人はとても悲しそうな顔をして、目に涙がにじんでいました。その様子を見ると友人が驚き、「一体どうかしましたか」と尋ねる、彼はこのように説明しました。「三週間前に伯父が亡くなって遺言で500万円を頂いた」と言いました。「それは嬉しい事じゃないか。どうして悲しいですか」と友人が聞きました。「実は、二週間前にあまりよく知らなかったいとこも死んで私に一千万円を残してくれたのよ」と悲しい友人は述べました。「あなたは運が本当に良いですね」と友人は返事すると相手は言いました。「どうして私の気持ちを理解してくれないの。先週大おばも急に息を引き取って、三千万円を譲ってくれた」と言いました。そうすると、納得出来なかった友人はこう聞きました。「こんなに恵まれているあなたは涙を流す必要がないのに、どうして悲しいですか。言って下さい。」「あなたはまだ私の気持ちが分からないの?。実は、今週は、誰一人死んでないので、一円も今週貰ってないから悔しいのよ」と彼は言いました。

【満ち足りる事とは】
今日、12月31日、私達は正に新しい年、2007年の玄関に立っています。後13時間ぐらいで2006年は完全に過ぎ去り、主イエス・キリストの2007年を迎える事が出来ます。この際、新しい年に入る私達は満ち足りる事について一緒に考えたいと思います。つまり、新しい年にはどういうふうに満ち足りた人生を歩む事が出来るのでしょうか。

2006年12月31日 | カテゴリー: フィリピの信徒への手紙 , ヘブライ人への手紙 , マタイによる福音書 , 新約聖書 , 旧約聖書 , 詩篇

「義に飢え渇く人々は幸いである」 田村英典牧師/淀川キリスト教病院伝道部長

マタイ5章6節
「義に飢え渇く人々は幸いである。その人たちは満たされる。」

 
マタイ5章初めの幸福の教えを続けて学んでいます。今日は4番目の6節に進みます。イエスは言われました。「義に飢え渇く人々は幸いである。」
 
【義に飢え渇く】
私は20歳の時、初めて聖書のここを読みました。正直なところ、良く分りませんでした。

「義」


とは何か。

「義に飢え渇く人々」


とは強い表現だが、どういう人のことなのか。こういう疑問を抱いたことを今も覚えています。
 

2006年10月17日 | カテゴリー: コリントの信徒への手紙一 , フィリピの信徒への手紙 , マタイによる福音書 , ヨハネによる福音書 , ルカによる福音書 , 使徒言行録 , 新約聖書 , 旧約聖書 , 詩篇

イエス・キリストは現在私の為に何を なさっていますか ウイリアム・モーア

フィリピの信徒への手紙2章18b−26節

【リストラされたあるサラリーマン】
あるサラリーマンが30年間忠実に会社の為に働きました。しかし、ある日突然リストラされてしまったのです。職場を失われた彼は年金を貰うにはまだ若いのであちこちへ行って新しい仕事を探しました。しかし、いくら探しても雇ってくれる人がいませんでした。そして、時間が経つとともに彼が貰った退職金が乏しくなり、生活が苦しくなりかけました。何かをしなければならないと思った彼は自分の甥の事を思い出しました。20年間、甥に会ってないですけれども、甥は実業家として成功し、結構盛んな会社を経営していました。仕方なく、彼はプライドを捨てて、働き口を得る為に甥を訪ねて行きました。しかし、頼むとこのように冷たくに言われました。「伯父さん、残念ながら、今は新社員を募集していません。」

そう言う事を聞くと彼はちょっと必死になって、 「肉親だから助けてくれ。あなたが五歳の時、私は魚釣りに連れてやったんじゃないか。覚えてるでしょう」と言いました。甥はそれを聞いてこのように返事しました。「そうですね、その事を覚えてますよ。御陰さまで今も魚釣りが好きです。実は、明日息子を連れて釣りに行く予定です。」

それを聞いて伯父さんは勇気づけられ、また言いました。「あなたは高校の野球をした時、私はいつも試合に行って応援したよね。覚えてるかい。」すると、「ええ、もちろんその事を覚えてますよ。伯父さんがいるからこそ励まされました」と甥が言いました。

そして、伯父は更に言いました。「大学の時、家の車をよく貸してやっただろう。夏休みに私の車で仲間と一緒に海に遊びにいったんじゃないか。」すると、「そうですね、伯父さんは本当に優しかったです」と甥が答えました。

話がうまく進むと思って、伯父は続けて言いました。「結婚した時、あなたがお金に困っていたので私は新婚旅行をプレゼントをした事も覚えてるわよね。一生のお願いだから、私をどうか助けてくれ。」

甥は少し考えこむように頭をうなずきながらこう言い始めました。「伯父さん、昔あなたがした事をもちろんよく覚えています。伯父さんは本当に気前の良い人でした。しかし、今になってちょっと問題があります。それは伯父さんは最近私の為にいったい何をしてくれましたか」と甥が平然と聞きました。

2006年07月02日 | カテゴリー: フィリピの信徒への手紙 , ヨハネによる福音書 , ローマの信徒への手紙 , 新約聖書

思い煩いからの解放 ウイリアム・モーア

聖書:フィリピの信徒への手紙4章4-7節

【思い煩い】
「思い煩い」は誰にでもあると思います。夜中に目が覚めて、思い出し、眠れません。朝起きると、やはり同じ思い煩いが頭の中を巡っています。「ああ、この悩みさえ解決されれば、私はどんなに幸せか」と思って、一ヶ月も、二ヶ月も、心の中は黒い雲のように晴れません。「あんな事さえしなければ、良かったのに」、「あの人が悪い」と自分を責めて、また、人を責めます。

しかし、一つの思い煩いが去っても、しばらくしてまた別な事が起って来ます。自分の中で、家庭で、職場で、また友人の間で。いつまで経っても生活から思い煩いは消えません。

そして、どうしますか。独りになって考えます。また、人に相談します。話すと少し気が楽になったようですが、またそれ以上の思い煩いになります。人は信頼出来なくなったので、今度はお金を払って占い師を訪ねる人もいます。このような方法で一時の慰めを得ても、決して思い煩いをなくしてしまう事は出来ません。

【思い煩いという病原菌】
しかし、考えて見ると、この世の中では思い煩う事は無理もないと思います。誰でもよく知っていますが、この世は危険な所だからです。色々な恐ろしい病気があるし、事故や天災などは珍しくはありません。そして御存知のように人間関係が齎す思い煩いには限りがありません。

それで「誰にでも思い煩いはある事さ。引きずって生きていこう」と心に決めていませんか。「解決の方法はない」と諦めていませんか。しかし、思い煩いを甘く見てはいけません。思い煩いは、全ての人の心の中にあって、人を死にまで追いやる、しつこい病原菌です。思い煩いによって病気になる人は大勢おります。内科医師の弟によると彼の患者の病因の半分ぐらいは精神的な事だそうです。そして、その思い煩いは精神的の原因の中で一番大きくて、万病の元だそうです。

でも思い煩いは病気の元になると言う理由の為だけではなく、また色々な理由でも無くした方が良いのです。第一は先ず、あんまり心配すると毎日の生活は自分を希望と挑戦と成長するよりも、退歩し、自分の生活が面倒臭くなって、楽しくはありません。自分の人生を精神的に豊に生きる事が出来ません。そして、思い煩いを引きずって生きていると、自分の仕事はもちろん良く出来ない、周りの人まで迷惑を掛ける事があります。持っているあなたの才能を半減させます。

【どのようにして思い煩いから解放されるか】
私達皆は思い煩いが良くない事であると認めると思います。思い煩いで悩んだ事のある人は良く分っていらっしゃると思います。しかし、どのように思い煩いからの解放を得るのでしょうか。自分の力で解決出来る方法はありますか。もし自分の精神をもう少ししっかりコントロールするなら、解決出来ますか。もし自分の問題をもっと積極的に扱ったら、心配する理由がなくなるのでしょうか。自分のあらゆる力を使って自分の思い煩いから解放して見て下さい。そうするとその方法は駄目であると言う事が分って来ると思います。

2006年06月04日 | カテゴリー: コリントの信徒への手紙一 , フィリピの信徒への手紙 , マタイによる福音書 , 新約聖書

自尊心はどこから来ますか ウイリアム・モーア

聖書:エレミヤ書1章4-10

【確かな希望】
先週の説教に私達は希望の重要性を一緒に学びました。確かな生き生きとした希望があれば、私達はどんな事があっても絶望せず、積極的に、力強く生きられます。さらにその希望が全能の唯一の神の約束と愛に基づいているのであれば、私達はその希望に徹底的に委ねる事が出来るのです。神の御子イエス・キリストが提供して下さる永遠の救いを受け入れると、私達の生涯は大きな意味と素晴しい目的地を得て、神の賜物、真の希望を豊に経験します。常に変わりつつある周りの環境から来る希望と違って、神が授けて下さる希望は誰も、何も、私達から取り上げられません。豊に生きる為には、神からの大きな、また、確かな希望が絶対に必要であります。

【神に喜ばれる適切な自尊心】
今日は、また人間には絶対に必要なものについて考えたいと思います。それは自尊心です。つまり、それは自分の尊厳と価値を正しく意識する事です。適切な自尊心があると、私達は自信を得て、生涯に起こる事を積極的に扱う事が出来、勝利と成功を経験します。また、自分を正しく評価する事によって、人間関係がより豊になります。なぜなら、自分自身を適切に愛すると、周りの者も愛し尊敬出来ます。

【自尊心の欠如】
その反面、自尊心が足りなかったら、自信を失う事があり、惨じめになります。そして、生涯に襲って来るチャレンジに積極的に扱う事が出来ず、失敗が大きくなります。さらに、自尊心が少ない場合、人間関係が上手く行く事が難しくなります。やはり、自分自身をあんまり愛さないと、相手の愛を信じ、受ける事が困難であります。最近、引きこもりの問題が深刻になりました。原因は色々あると思いますが、恐らく自尊心を段々と失った結果であると思います。

【過度の自尊心】
自尊心が足りない場合があれば、自尊心があり過ぎる場合もあると思います。つまり、適切な自尊心が自負心と高慢になります。自分が誰よりも優れていると言う態度をとり、周りの者の存在はただ自分に仕える為であると思い込んでしまいます。もちろん、そう言う自己中心的態度をとると、人間関係がすぐ駄目になり、極端な場合、人に対して酷い事をします。

2006年04月30日 | カテゴリー: イザヤ書 , エレミヤ書 , コリントの信徒への手紙一 , フィリピの信徒への手紙 , ヨハネによる福音書 , 創世記 , 新約聖書 , 旧約聖書

わたしは、戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走りとおし、信仰を守り抜きました わたしは、戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走りとおし、信仰を守り抜きました ウイリアム・モーア

テモテへの手紙二4章6-8

【告知】
この間、私はある人と共に死について話し合いました。私は牧師だから他の人よりも、恐らくそういう機会が多く与えられています。その時、相手の人は数カ月前に亡くなった家族の一員の事を語りました。実は、その方は亡くなる一年前に、自分が病気で死にかかっている事が分っていたそうです。それから話が、人は先立って自分の死を告知される方が良いかどうかと言うことになりました。自分の死が先立って分っていたら色々と準備が出来るので良い事もあると言いました。逆に、分らないと残りの時間を黒い雲のような状態で過ごさなくてもすむから良い面もあると話しました。皆さんはどうでしょうか。

【死刑囚パウロ】
今日、与えられた御言葉を書いた人物は、自分には限られた日しか残ってない事が分っていました。実は、彼、使徒パウロは信仰の故にローマ帝国の囚人になり、死刑宣告を受けてしまいました。暗い死刑囚監房(かんぼう)に閉じこめられたパウロはどんな気持ちで自分の日を待っていたのでしょうか。来るべき死刑実行を恐れて惨じめな気持ちでしたか。あるいは、不正な判決の為に敵に対する恨みをいだきましたか。少なくとも彼は気持ちが落ち込んでいたはずだと思います。長い間、福音宣教の為に励んで、宣教師として数え切れない程の犠牲を払って来ました。迫害と様々な困難の故に決して楽な生活ではありませんでした。そして、その報いは何だったか。ついに死刑という悲惨な運命になりました。使徒パウロが絶望したとしても、ちっともおかしくありませんね。 しかし、彼は絶望しませんでした。敵と自分の運命をののしりませんでした。却って、その代わりに手紙を書きました。希望と勝利と信仰に満ちた素晴らしい手紙を書いて、自分が開拓した教会と協力者に送りました。自分の遺言と思って、受け継いだ信仰を守るようにと信者を励み続けました。

使徒パウロは今日の個所をテモテに書いて送りました。割合若いテモテはパウロと共に伝道に励んで、パウロの弟子のようになりました。手紙にパウロはテモテを「愛する子」と呼びましたので、間違いなく彼等は親子のような親しい関係を持っていました。そして、死に直面したパウロはテモテに自分の信仰と死に対する確信を伝えたかったのです。与えられた信仰のお陰でパウロは勝利者として死に向かい、恐れませんでした。

私達も使徒パウロの言葉から学ぶ事があります。特にイエス・キリストを信じ頼る者として私達には、パウロの証は大事であると思います。

2006年01月22日 | カテゴリー: テモテへの手紙二 , フィリピの信徒への手紙 , ローマの信徒への手紙 , 新約聖書

クリスマスの愛 ウイリアム・モーア

フィリピの信徒への手紙2章1-11

【クリスマスの愛】
私達のアドベントの旅は大分進んで参りました。

丁度来週の主の日はクリスマス、イエス・キリストの御降誕の記念日になります。毎週の説教を通して私達はクリスマスの準備が出来ました。「 クリスマスの希望」と、「 クリスマスの平和」と、「 クリスマスの喜び」を一緒に学びました。そして、今日は「「 「 クリスマスの愛」について共に考えたいと思います。実は、何よりもクリスマスの出来事は私達人間に対する神の愛を現します。そして、神の愛の故に私達はクリスマスの他の恵み、希望と平和と喜びを経験する事が出来ます。今日は主イエスの御降誕を通して神が私達に現わされた愛を新に見ましょう。

【フィリピの教会に】
使徒パウロは今日の聖書の個所をフィリピと言う町に住んでいるキリスト者に手紙の形で送りました。パウロはフィリピの教会を開拓しましたけれども、信仰の理由で牢に入れられフィリピの信徒を訪ねる事が出来ませんでした。ですから使徒パウロは手紙で彼等を励まし、教えました。特に、キリスト者としての相応しい態度と生き方を教えました。彼等を主イエスの愛の手本に思い返させて、その手本に従うようにと奨励しました。

イエス・キリストが示して下さった愛と献身が自分達のものになると、彼等は一つになって、そして、更に、信仰の力の証人になります。つまり使徒パウロはフィリピの信徒にこのように言いました。

「お互いに『クリスマスの愛』を示して下さい。」

そして、その「クリスマスの愛」とは何でしたか。今日のテキストの6節の所を見て下さい。フィリピの信徒への手紙2章6節

「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」

とパウロはフィリピの信徒に思い起こさせました。

2005年12月18日 | カテゴリー: フィリピの信徒への手紙 , ヨハネによる福音書 , 新約聖書

「死を覚え、よく生きる」淀川キリスト教病院伝道部長・田村英典牧師

2005年8月28日淀川キリスト教病院伝道部長・田村英典牧師

聖書:詩編90編12:生涯の日を正しく数えるように教えてください。知恵ある心を得ることができますように。

「生涯の日を正しく数えるように教えてください」

今朝は「死を覚え、よく生きる」と題して、一時お話させて頂きます。

先程、お読みしました詩編90編12節に「生涯の日を正しく数える」とありますが、死で終る自分の人生の残りがどれ程かをしっかり心に留めるという事でしょう。作者はそのように自分を「教えて下さい」と神に祈るのです。ではそれは何の為でしょうか。
「知恵ある心を得る事が出来る」為だと言います。

「知恵ある心」とは、神の御前で自らの一生を真に意味あるもの、そして終には永遠の天の御国に入れる心と言えましょう。

特に人生最後の時、「辛い事も悲しい事も沢山あったが、生きてきて良かった。感謝です」と、神にも人にも自分にも言う事が出来、平安と感謝の内に天国に召して頂けるような心のあり方でしょう。

注目したいのは、自らの死を覚える事と、真に意義深い人生を送る知恵ある心を得る事が、密接不可分な関係にある事だということです。

2005年08月28日 | カテゴリー: フィリピの信徒への手紙 , ローマの信徒への手紙 , 新約聖書 , 旧約聖書 , 詩篇