使徒言行録

2019年5月5日説教「だから私の心は楽しむ」赤石純也牧師(伊丹教会)

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今日は伊丹教会・西谷伝道所講壇交換日で

190505_001(変換後)(変換後).mp3←クリックして説教をお聴きください。使徒言行録2章22~28

2019年05月06日 | カテゴリー: 使徒言行録

2018年5月27日説教「神の御業のなされ方」赤石純也牧師

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2018年05月27日 | カテゴリー: 使徒言行録

2014年8月10日説 教「決して動揺しない生き方へ!」赤石純也牧師

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新約聖書
使徒言行録
2:25 ダビデは、イエスについてこう言っています。『わたしは、いつも目の前に主を見ていた。主がわたしの右におられるので、/わたしは決して動揺しない。
2:26 だから、わたしの心は楽しみ、/舌は喜びたたえる。体も希望のうちに生きるであろう。
2:27 あなたは、わたしの魂を陰府に捨てておかず、/あなたの聖なる者を/朽ち果てるままにしておかれない。
2:28 あなたは、命に至る道をわたしに示し、/御前にいるわたしを喜びで満たしてくださる。』

旧約聖書
詩編
16:1 【ミクタム。ダビデの詩。】神よ、守ってください/あなたを避けどころとするわたしを。
16:2 主に申します。「あなたはわたしの主。あなたのほかにわたしの幸いはありません。」
16:3 この地の聖なる人々/わたしの愛する尊い人々に申します。
16:4 「ほかの神の後を追う者には苦しみが加わる。わたしは血を注ぐ彼らの祭りを行わず/彼らの神の名を唇に上らせません。」
16:5 主はわたしに与えられた分、わたしの杯。主はわたしの運命を支える方。
16:6 測り縄は麗しい地を示し/わたしは輝かしい嗣業を受けました。
16:7 わたしは主をたたえます。主はわたしの思いを励まし/わたしの心を夜ごと諭してくださいます。


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2014年08月10日 | カテゴリー: 使徒言行録

2013.5.19.ペンテコステ礼拝説教「体も希望のうちに生きる」赤石純也牧師

2013.5.19.説教「体も希望のうちに生きる」赤石純也牧師
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新約聖書 使徒言行録2章(ペトロの説教)

14 すると、ペトロは十一人と共に立って、声を張り上げ、話し始めた。「ユダヤの方々、またエルサレムに住むすべての人たち、知っていただきたいことがあります。わたしの言葉に耳を傾けてください。15 今は朝の九時ですから、この人たちは、あなたがたが考えているように、酒に酔っているのではありません。16 そうではなく、これこそ預言者ヨエルを通して言われていたことなのです。17 『神は言われる。終わりの時に、/わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、/若者は幻を見、老人は夢を見る。18 わたしの僕やはしためにも、/そのときには、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。19 上では、天に不思議な業を、/下では、地に徴を示そう。血と火と立ちこめる煙が、それだ20 主の偉大な輝かしい日が来る前に、/太陽は暗くなり、/月は血のように赤くなる。21 主の名を呼び求める者は皆、救われる。』

22 イスラエルの人たち、これから話すことを聞いてください。ナザレの人イエスこそ、神から遣わされた方です。神は、イエスを通してあなたがたの間で行われた奇跡と、不思議な業と、しるしとによって、そのことをあなたがたに証明なさいました。あなたがた自身が既に知っているとおりです。23 このイエスを神は、お定めになった計画により、あらかじめご存じのうえで、あなたがたに引き渡されたのですが、あなたがたは律法を知らない者たちの手を借りて、十字架につけて殺してしまったのです。

24 しかし、神はこのイエスを死の苦しみから解放して、復活させられました。イエスが死に支配されたままでおられるなどということは、ありえなかったからです。

25 ダビデは、イエスについてこう言っています。『わたしは、いつも目の前に主を見ていた。主がわたしの右におられるので、/わたしは決して動揺しない。26 だから、わたしの心は楽しみ、/舌は喜びたたえる。体も希望のうちに生きるであろう。

27 あなたは、わたしの魂を陰府に捨てておかず、/あなたの聖なる者を/朽ち果てるままにしておかれない。

28 あなたは、命に至る道をわたしに示し、/御前にいるわたしを喜びで満たしてくださる。』

 

説教要約(文責 近藤)

今日の聖句の前にルカによる福音書23章44~45節を開いてください。

 

ルカによる福音書2344 既に昼の十二時ごろであった。全地は暗くなり、それが三時まで続いた。45 太陽は光を失っていた。神殿の垂れ幕が真ん中から裂けた。

 

【太陽は光を失い全地が暗くなった】

主イエスの十字架の死により全地は太陽が光を失い暗くなったと書かれてあります。

またルカによる福音書は2427 を見ますと復活された主は聖書全体を説明してこの書は御自分について書かれていることを言われたのです。

27『そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された』。

 

【聖霊降臨と教会最初の説教】

そして今日の聖書の箇所に移ります。使徒言行録214~28節(前掲)。

 

14『すると、ペトロは十一人と共に立って、声を張り上げ、話し始めた』

これは五旬祭の日になされた史上最初の説教です。主イエスの復活から50日目のことです。

 

使徒言行録の初めのところ第1章を開いてください。

 

約束の聖霊】

3 『イエスは苦難を受けた後、御自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された』

 

その後に今日のペンテコステの出来事が預言されています。

使徒言行録18 あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。

ここには聖霊が降ると、あなたがたは力を受けると書かれています。

 

使徒言行録11 節を見ますと『テオフィロさま、わたしは先に第一巻を著して、イエスが行い、また教え始めてから、お選びになった使徒たちに聖霊を通して指図を与え、天に上げられた日までのすべてのことについて書き記しました』とあります。

 

第一巻とはルカ福音書です。使徒言行録はその第2巻になります。

 

【聖霊が降る】

第一巻のルカ福音書の最後には主イエスが復活されて四十日にわたって弟子たちに現れ、神の国について話された後昇天されたことが記されています。さらに10日後の五旬祭の日に、今日の箇所の前ですが、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。 そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまったと書かれています。そうすると弟子たちは自分たちの国の言葉で語りだしたのです。聞く者には自分たちの国語で語られる言葉には力がありました。

 

使徒言行録2

1 五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、2 突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。3 そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。4 すると、一同は聖霊に満たされ、"霊"が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」。

 

聖霊が主の復活50日目五旬祭(ペンテコステ)の日に正に降ったのです。そしてペテロがした説教は教会最初の説教です。ペテロは次のように話し出しました。

 

【ペテロの説教】使徒言行録2

14 すると、ペトロは十一人と共に立って、声を張り上げ、話し始めた。「ユダヤの方々、またエルサレムに住むすべての人たち、知っていただきたいことがあります。わたしの言葉に耳を傾けてください。15 今は朝の九時ですから、この人たちは、あなたがたが考えているように、酒に酔っているのではありません。16 そうではなく、これこそ預言者ヨエルを通して言われていたことなのです。』

 

これこそ預言者ヨエルの預言の成就ですとペテロは語ります。

 

17 節以下『神は言われる。終わりの時に、/わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、/若者は幻を見、老人は夢を見る。18 わたしの僕やはしためにも、/そのときには、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。19 上では、天に不思議な業を、/下では、地に徴を示そう。血と火と立ちこめる煙が、それだ。20 主の偉大な輝かしい日が来る前に、/太陽は暗くなり、/月は血のように赤くなる。21 主の名を呼び求める者は皆、救われる。』

 

【聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける】

『あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける』と言うことが起こると言われるのです。

 

預言するとは真の神様のことをを語ることができるということです。

 

『炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった』とき弟子たちは力を受けたのです。聖霊は力です。

 

17後半『するとあなたたちの息子と娘は預言し、/若者は幻を見、老人は夢を見る』

若者は幻を見るとはヴィジョンを与えられること、これは力です。

老人は夢を見るとは希望を持つことが出来る。これも力です。こういう世界が開ける。

 

【全ての人に力が与えられると言うヨエルの預言】

18節『 わたしの僕やはしためにも、/そのときには、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する』

主のの霊を持った人でなくても全ての人に力が与えられるのです。

 

子どもたちも神さまについて語るという力が与えられると書かれています。それが21節の終わりに書いてあります。これは救われると言うことです。21 主の名を呼び求める者は皆、救われる。』

 

しかしその前に、主が十字架に架けられた日に太陽が暗くなったと書かれています。

 

20 主の偉大な輝かしい日が来る前に、/太陽は暗くなり、』太陽が主の十字架の場面で歴史上の事実として暗くなったと預言の成就が書かれています。

 

21『主の名を呼び求める者は皆、救われる』とは救いの輝かしい日がきて一人一人に力が与えられる日が来た。これは預言者ヨエルによって与えられた預言の成就だといわれます。これが今日覚えるべき一つ目の事柄です。

 

【ダビデの預言】

もう一つの事柄とは25節以下を見てください、旧約聖書のダビデの預言が言われます。

25 ダビデは、イエスについてこう言っています。『わたしは、いつも目の前に主を見ていた。主がわたしの右におられるので、/わたしは決して動揺しない。26 だから、わたしの心は楽しみ、/舌は喜びたたえる。体も希望のうちに生きるであろう。

27 あなたは、わたしの魂を陰府に捨てておかず、/あなたの聖なる者を/朽ち果てるままにしておかれない。28 あなたは、命に至る道をわたしに示し、/御前にいるわたしを喜びで満たしてくださる。

 

【ペテロの証】

預言者の言葉をペテロは自分の言葉のように語っています。

説教で聖書の言葉が自分の身の上に起ったことだとペテロは自身の言葉として語ります。

 

かってペテロは第一部の人生では希望を失い、命に至る道を見失い、どんなに涙を流したことか。そのペテロが変えられたのです。目の前に主を見て、いつも主を信じて生きる生き方へと変えられたのです。その力が今日与えられた。またこの力は誰にでも与えられているという勧めです。

 

25『主がわたしの右におられるので、/わたしは決して動揺しない』

26 だから、わたしの心は楽しみ、/舌は喜びたたえる。体も希望のうちに生きるであろう』。

 

25節では、ペテロは神を信じて生きる者となって、主がいつもともにおられるので決して動揺しないものになった。それは全ての人にも与えられている生まれ変わらせる力です。

 

【人生の第一部と第二部】

まとめてみましょう。人生の第一部で仮にあなたが試練にあい動揺ばかりして希望を失っても、たとい道を失ったとしても、涙が止まらなかったとしても今日からは生きるヴィジョンを持った人生の第二部を生きることが出来る。そういう力が誰にでも与えられるのです。

 

ペテロの第一部を紹介します。「なぜ聖書が分からないのか」と主イエスから何度も言われたペテロです。それなのにやけに自分に自信を持っていて他の弟子の誰もが主に従わなくて死んでも私は主に従いますと。この彼の虚栄が崩れてしまって涙にくれるペテロでした。

 

私たちも自分を鼓舞し頑張るのです。しかし辛い試練が起ります。たとえば病、家族の病、に襲われ歯を食いしばって生きた人生の第一部を持っています。

 

【教会から始まる第二部の人生】

しかし今日、人生の第二部を始めることが出来ます。一同が教会に集まっていた時に第二部のドラマが始まったのです。これは私たちにも起こります。教会で神様が新しい人生の第二部を与えられる。それは教会で聖書の解き明かしを聞くときです。第一部では辛すぎました。病や職場の戦い、人生いろんな問題でへとへとです。辛すぎる人生です。生きる喜びも無くなっている。しかしこれは神様の御心ではありません。どうか教会で人生の第二部を備えてください。

 

それが今日です。今日に限らず毎週の礼拝に集うとき聖霊の稲妻が降るのです。

毎日ヘトヘトの生活している中でこういうヴィジョンが見えないです。

悩み、悲しみ、虚しく生きるのは主の御旨ではありません。

 

どんな人生の重荷があっても感謝して今日生きることを神様は願っておられます。

 

教会に行くことをやめ、自分で歯を食いしばって生きて年老いた時に希望があるでしょうか。

死んで無の世界に入るかと心に動揺を覚えても当然ですが、神様はこんな人生の第一部をもって不安のまま死んでいくことを望まれません。

 

第二部の人生を今日から始めること、今週もそして来週も、毎週ごとに与えられる確かな希望を持って生きることを神様は待っておられます。

第二部の人生が教会で、礼拝で与えられる。そしてたとい現実の状況は変わらなくても第二部の人生を生きることが出来るのです。

 

教会こそ確かなヴィジョン、希望をもって生きる力が与えられるところです、教会以外にこの力は与えられません。この真理は教会以外のほかのどこでも与えられません。

人生の第二部を生きる力を教会で、礼拝で、説教で、神の言葉から受けてください(おわり)。

 

 

 

2013年05月19日 | カテゴリー: ルカによる福音書 , 使徒言行録

2012.5.20.「使徒たちの熱心な祈り」大木信神学生

2012.5.20.「使徒たちの熱心な祈り」大木信神学生。

【説教要約】文責近藤

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聖書:使徒言行録1章12~14「それから彼らは、オリブという山を下ってエルサレムに帰った。この山はエルサレムに近く、安息日に許されている距離のところにある。

 彼らは、市内に行って、その泊まっていた屋上の間にあがった。その人たちは、ペテロ、ヨハネ、ヤコブ、アンデレ、ピリポとトマス、バルトロマイとマタイ、アルパヨの子ヤコブと熱心党のシモンとヤコブの子ユダとであった。 彼らはみな、婦人たち、特にイエスの母マリヤ、およびイエスの兄弟たちと共に、心を合わせて、ひたすら祈をしていた。」

 

ペンテコステ前の出来事:聖霊降臨の約束

主イエスは復活後40日にわたって弟子たちに現れ、最後の40日目にオリーブ山から昇天されるとき弟子たちに聖霊降臨を約束された。

 

オリーブ山で:今日の御言葉の背景

使徒言行録14 そして食事を共にしているとき、彼らにお命じになった、『エルサレムから離れないで、かねてわたしから聞いていた父の約束を待っているがよい。5 すなわち、ヨハネは水でバプテスマを授けたが、あなたがたは間もなく聖霊によって、バプテスマを授けられるであろう』。6 さて、弟子たちが一緒に集まったとき、イエスに問うて言った、『主よ、イスラエルのために国を復興なさるのは、この時なのですか』。7 彼らに言われた、『時期や場合は、父がご自分の権威によって定めておられるのであって、あなたがたの知る限りではない。8 ただ、聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地のはてまで、わたしの証人となるであろう』。9 こう言い終ると、イエスは彼らの見ている前で天に上げられ、雲に迎えられて、その姿が見えなくなった。10 イエスの上って行かれるとき、彼らが天を見つめていると、見よ、白い衣を着たふたりの人が、彼らのそばに立っていて11 言った、『ガリラヤの人たちよ、なぜ天を仰いで立っているのか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになるであろう』。」

 

オリーブ山から弟子たちはエルサレムに戻った。112節、 使徒たちは、「オリーブ畑」と呼ばれる山からエルサレムに戻って来た。この山はエルサレムに近く、安息日にも歩くことが許される距離の所にある。」

この「オリーブ畑」と呼ばれる思い出深い場所で、主は弟子たちに「いつも目を覚まして祈りなさい」と諭されました。

 

いつも目を覚まして祈りなさい

ルカ福音書2134節~37節、

34 『放縦や深酒や生活の煩いで、心が鈍くならないように注意しなさい。さもないと、その日が不意に罠のようにあなたがたを襲うことになる。35 その日は、地の表のあらゆる所に住む人々すべてに襲いかかるからである。36 しかし、あなたがたは、起ころうとしているこれらすべてのことから逃れて、人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈りなさい。』37 それからイエスは、日中は神殿の境内で教え、夜は出て行って「オリーブ畑」と呼ばれる山で過ごされた。」

 

実際ルカ福音書の主イエスはマルコ福音書にくらべ、よく祈られた。

 

同じくルカ福音書2239節以下でも「いつものように、いつもの場所(オリーブ山)」主は弟子たちに誘惑に陥らないように起きて祈りなさいと諭されたが弟子たちは眠り込んでしまいました。オリーブ山は実に苦い思い出の場所でもあり、喜怒哀楽の凝縮された場所がこのオリ

ーブ畑なのです。私たちの人生においてもこのようなことがあります。

 

ルカによる福音書22

39 イエスがそこを出て、いつものようにオリーブ山に行かれると、弟子たちも従った。

40 いつもの場所に来ると、イエスは弟子たちに、『誘惑に陥らないように祈りなさい』と言われた。41 そして自分は、石を投げて届くほどの所に離れ、ひざまずいてこう祈られた。

42 『父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。』43 すると、天使が天から現れて、イエスを力づけた。44 イエスは苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた。汗が血の滴るように地面に落ちた。45 イエスが祈り終わって立ち上がり、弟子たちのところに戻って御覧になると、彼らは悲しみの果てに眠り込んでいた。46 イエスは言われた。『なぜ眠っているのか。誘惑に陥らぬよう、起きて祈っていなさい。』」

 

オリーブ山は主と弟子たちの最後の出会いの場所であり、主の昇天を見届けた場所です。

今日の箇所はその後エルサレムに帰って祈っていた一室での出来事です。

 

14節「心を一つにして熱心に祈っていた」。何が彼らを変えたか。その理由として、

1、弟子たちが、主の兄弟も母も、主の十字架と復活をみたこと。

2、ルカによる福音書2231~(ペテロの裏切りの箇所から)

31 『シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。32 しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。』33 するとシモンは、『主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております』と言った。34 イエスは言われた。『ペトロ、言っておくが、あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言うだろう。』」

 

私たちもペテロと同じで主を裏切るものです。けれども主は私たちを御存じで愛して執成して祈ってくださる。この信仰があってこそ私たちは祈れるのです。告白できるのです。

 

まず主のお言葉があります

使徒言行録18「『 あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。』」

復活の主は彼らに現れ食事をされ「地の果てに至るまで、わたしの証人となる」という具体的祈りの課題を、約束として与えられた。それで祈れるのです。まず主のお言葉があります。

 

ヨハネの手紙一514 何事でも神の御心に適うことをわたしたちが願うなら、神は聞き入れてくださる。」これが神に対するわたしたちの確信です。

この世の祈りはそうでありません。自分中心です。私たちの祈りはまず神の御言葉を聞いてそれをオウム返しに祈ることが大切です。まず神に祈りの課題を打ち明けてから祈るべきです。これは教会的な祈りで、教会の祈りには神の確かな約束があります。

 

使徒18節のように御言葉に押し進められて福音は前進する。熱心な祈りの応答として聖霊が下された。ことの前に、事の後に祈ることが大切。主の証人となる使命が祈りの課題として与えられた。それで熱心に祈ったはずです。

 

3、聖霊降臨は弟子たちが祈ったから与えられたか?そうではなく聖霊によって導かれたから熱心に一つになって祈れた。

 

聖霊が下るためには準備が必要、悔い改めたから神の国がきたのではない。ひたすら祈ることは私たちの思いで゙はできないが、御霊がそうさせて下さる。聖霊が働いてくださるから祈れたのです。主御自身の約束と働きが彼らを一つにさせ熱心に祈らせて下さった。

わたしたちが大胆に語ろうとすれば反対する力も強く働くが、主の証人となるには確信をもって御言葉に聞き熱心に聖霊を求めて祈りましょう。(終わり)

 

2012年05月20日 | カテゴリー: 使徒言行録

「神に導かれて」ウイリアム・モーア

聖書:使徒言行録8章26~40

要約:復活の主は聖霊降臨の約束を弟子たちに賜った。そして聖霊降臨のあるまではエルサレムにとどまって祈りまつようにと。

ペンテコステの日に約束の聖霊降臨をうけた弟子たちは大胆に力強く福音宣教に立ち上がったので教会は大きく成長した。しかしそれとともにユダヤ人の迫害も大きくなったのでエルサレムの信者たちは地方に散って行った。そこでも福音を述べ伝えたので信じる者が多く起こされた。

 

ここにフィリポという弟子、彼はエルサレム教会の執事であったが、使徒言行録8章4~13に書かれているようにまずサマリヤに下って行った。

 


2012年05月05日 | カテゴリー: 使徒言行録

「ペンテコステ」ウイリアム・モーア2010.5.23

使徒言行録2章1−21

◆聖霊が降る

 

  1:五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、2:突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っ ていた家中に響いた。3:そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。4:すると、一同は聖霊に満たされ、"霊"が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。

  5:さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、6:この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。7:人々は驚き怪しんで言った。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。8:どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。9:わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、10:フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、11:ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」12:人々は皆驚き、とまどい、「いったい、これはどういうことなのか」と互いに言った。13:しかし、「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言って、あざける者もいた。

◆ペトロの説教

 14:すると、ペトロは十一人と共に立って、声を張り上げ、話し始めた。「ユダヤの方々、またエルサレムに住むすべての人たち、知っていただきたいことがあります。わたしの言葉に耳を傾けてください。15:今は朝の九時ですから、この人たちは、あなたがたが考えているように、酒に酔っているのではありません。16:そうではなく、これこそ預言者ヨエルを通して言われていたことなのです。17:『神は言われる。終わりの時に、/わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、/若者は幻を見、老人は夢を見る。18:わたしの僕やはしためにも、/そのときには、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。19:上では、天に不思議な業を、/下では、地に徴を示そう。血と火と立ちこめる煙が、それだ。20:主の偉大な輝かしい日が来る前に、/太陽は暗くなり、/月は血のように赤くなる。21:主の名を呼び求める者は皆、救われる。』

 

【教会の誕生】

皆さん、今日、私達は大事な誕生日をお祝いします。その誕生日は私達にとってとても重要であり、その誕生日がなければ、私達は今朝こちらに集わなかったと思います。もちろんそれは私の誕生日ではありません。私はは四月生まれですが、今日祝う誕生日は一人の人の誕生日よりも遥かに重要であります。

 

2010年05月23日 | カテゴリー: 使徒言行録 , 新約聖書

「神はおられるのか」 淀川キリスト教病院伝道部長田村英典牧師

淀川キリスト教病院伝道部長田村英典牧師


聖書:ヨハネ福音書1章14~18

14:言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。15:ヨハネは、この方について証しをし、声を張り上げて言った。「『わたしの後から来られる方は、わたしより優れている。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のこ とである。」 16:わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。17:律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。  18:いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。  


【神はおられるのか?】
今朝は、神はおられるのか、という根本的なことをお話させていただきたいと思います。
一体、この天地万物を無から造られ、今も一切を導いておられる永遠者、また絶対者なる真の神はおられるのでしょうか。私は、20歳の時クリスチャンになりましたが、その前はこのことでかなり迷いました。もし神が本当におられるのなら、神を信じ、神に従うのは当然のことであり、何ら特別なことではありません。
 
しかし、神が存在しないのなら、そういったことは全くナンセンスです。存在もしないのに、存在するかのように信じて生きること程、愚かで馬鹿げたことはありません。ではどちらなのでしょうか。どちらでもないということは、あり得ません。必ず、どちらかなのです。しかし、それが分らず、かつては私も随分迷いました。
 
いずれにせよ、これは私たちの生きる意味や目的とも関係し、また私たちが死んだ後、どうなるのかということにも関る重大なことです。
そこで幾つかの点から見てみたいと思います。

2009年10月25日 | カテゴリー: コヘレトの言葉 , ヨハネによる福音書 , ローマの信徒への手紙 , 使徒言行録 , 新約聖書 , 旧約聖書 , 詩篇

『熱心な祈り』伊丹教会長老植田昌彦

伊丹教会長老 植田昌彦

聖書:使徒言行録12章1~24節



◆ヤコブの殺害とペトロの投獄
  1:そのころ、ヘロデ王は教会のある人々に迫害の手を伸ばし、  2:ヨハネの兄弟ヤコブを剣で殺した。3:そして、それがユダヤ人に喜ばれるのを見て、更にペトロをも捕らえようとした。それは、除酵祭の時期であった。4:ヘロデはペトロを捕らえて牢に入れ、四人一組の兵士四組に引き渡して監視させた。過越祭の後で民衆の前に引き出すつもりであった。5:こうして、ペトロは牢に入れられていた。教会では彼のために熱心な祈りが神にささげられていた。
◆ペトロ、牢から救い出される
  6:ヘロデがペトロを引き出そうとしていた日の前夜、ペトロは二本の鎖でつながれ、二人の兵士の間で眠っていた。番兵たちは戸口で牢を見張っていた。7:すると、主の天使がそばに立ち、光が牢の中を照らした。天使はペトロのわき腹をつついて起こし、「急いで起き上がりなさい」と言った。すると、鎖が彼の手から外れ落ちた。8:天使が、「帯を締め、履物を履きなさい」と言ったので、ペトロはそのとおりにした。また天使は、「上着を着て、ついて来なさい」と言った。9:それで、ペトロは外に出てついて行ったが、天使のしていることが現実のこととは思われなかった。幻を見ているのだと思った。10:第一、第二の衛兵所を過ぎ、町に通じる鉄の門の所まで来ると、門    がひとりでに開いたので、そこを出て、ある通りを進んで行くと、急に天使は離れ去った。11:ペトロは我に返って言った。「今、初めて本当のことが分かった。主が天使を遣わして、ヘロデの手から、またユダヤ民衆のあらゆるもくろみから、わたしを救い出してくださったのだ。」12:こう分かるとペトロは、マルコと呼ばれていたヨハネの母マリアの家に行った。そこには、大勢の人が集まって祈っていた。
◆女中ロデと信者たち
13:門の戸をたたくと、ロデという女中が取り次ぎに出て来た。14:ペトロの声だと分かると、喜びのあまり門を開けもしないで家に駆け込み、ペトロが門の前に立っていると告げた。15:人々は、「あなたは気が変になっているのだ」と言ったが、ロデは、本当だと言い張った。彼らは、「それはペトロを守る天使だろう」 と言い出した。 16:しかし、ペトロは戸をたたき続けた。彼らが開けてみると、そこにペトロがいたので非常に驚いた。17:ペトロは手で制して彼らを静かにさせ、主が牢から連れ出してくださった次第を説明し、「このことをヤコブと兄弟たちに伝えなさい」と言った。そして、そこを出てほかの所へ行った。18:夜が明けると、兵士たちの間で、ペトロはいったいどうなったのだろうと、大騒ぎになった。19:ヘロデはペトロを捜しても見つからないので、番兵たちを取り調べたうえで死刑にするように命じ、ユダヤからカイサリアに下って、そこに滞在していた。
◆ヘロデ王の急死
 20:ヘロデ王は、ティルスとシドンの住民にひどく腹を立てていた。そこで、住民たちはそろって王を訪ね、その侍従ブラストに取り入って和解を願い出た。彼らの地方が、王の国から食糧を得ていたからである。21:定められた日に、ヘロデが王の服を着けて座に着き、演説をすると、22:集まった人々は、「神の声だ。人間の声ではない」と叫び続けた。23:するとたちまち、主の天使がヘロデを撃ち倒した。神に栄光を帰さなかったからである。ヘロデは、蛆に食い荒らされて息絶えた。24:神の言葉はますます栄え、広がって行った。


 
【神とサタン:この世の二大勢力】

世の中の動きには、必ず神様のご計画を進めるものと、それに反する、それを妨げようとする2つの勢力のせめぎあいがあります。私たちの日々の生活の中で、そのことを明確に感じる事は、それほど有るわけでは無いかもかもしれませんが、しかし神様には、ご計画はいつもあり、またそれを妨げようとする人間の動きサタンの働きが常にあります。私たちは信仰の歩みの中で、いつも注意深くそれらを見分けていなければなりません。

 

勿論人間的思いで勝手に決め付けてはならないことで、最終の判断は神様に委ねる謙虚さも常に持つ必要があります。

2009年08月30日 | カテゴリー: 使徒言行録 , 新約聖書

「聖霊を信じる」淀川キリスト教病院伝道部長 田村英典

淀川キリスト教病院伝道部長 田村英典

使徒言行録2章◆聖霊が降る

1:五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、2:突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。3:そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。4:すると、一同は聖霊に満たされ、"霊"が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。

5:さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、6:この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。7:人々は驚き怪しんで言った。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。8:どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。9:わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、10:フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、11:ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」

12:人々は皆驚き、とまどい、「いったい、これはどういうことなのか」と互いに言った。13:しかし、「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言って、あざける者もいた。


【ペンテコステ「五旬祭」と聖霊】
今年のペンテコステ礼拝は次の日曜日になります。従って、一週間早くなるのですが、今朝はこれに関連して、聖霊についてお話させていただきます。

使徒2章1に「五旬祭」(50日目の祭)とあります。これをギリシア語でペンテコステと言います。ユダヤでは、過越祭直後の日曜日から7週目(50日目)にも、神をたたえる祭をしてきましたが、新たにこれは教会にとっても重要な記念日となりました。この日はイエスが十字架の死より復活されて50日目にも当り、1~13節が伝えるように、神の"霊"、聖霊が弟子たちに驚くべき形で臨まれ、この時以来、彼らは聖霊の力を受けて教会の一番大切な福音宣教の働きを始めたのでした。ですから、この日は教会の誕生日とも言われます。

ここに見られるような特別な出来事は一回きりでした。しかし、この後、使徒言行録が伝えるように、聖霊は様々な形で臨まれ、弟子たちはイエスの福音を伝え、真の神も救いも知らなかった世界中のおびただしい数の人が罪と永遠の滅びから救われていきました。今や福音は日本にも伝えられ、真の神を信じ、福音に生き、多くの人に救いの喜びを伝えたい真実な信仰者が起されています。その全てが、実は父なる神と御子イエスの遣わされた聖霊の御業なのでございます。

そこで今朝は、素晴らしい働きをしておられるこの聖霊を信じることの大切さを再確認したいと思います。

2009年05月24日 | カテゴリー: 使徒言行録 , 新約聖書

神への道は多いのでしょうか ウイリアム・モーア宣教師

使徒言行録17:22−34

◆アテネで   22:パウロは、アレオパゴスの真ん中に立って言った。「アテネの皆さん、あらゆる点においてあなたがたが信仰のあつい方であることを、わたしは認めます。23:道を歩きながら、あなたがたが拝むいろいろなものを見ていると、『知られざる神に』と刻まれている祭壇さえ見つけたからです。それで、あなたがたが知らずに拝んでいるもの、それをわたしはお知らせしましょう。24:世界とその中の万物とを造られた神が、その方です。この神は天地の主ですから、手で造った神殿などにはお住みになりません。25:また、何か足りないことでもあるかのように、人の手によって仕えてもらう必要もありません。すべての人に命と息と、その他すべてのものを与えてくださるのは、この神だからです。  26:神は、一人の人からすべての民族を造り出して、地上の至るところに住まわせ、季節を決め、彼らの居住地の境界をお決めになりました。27:これは、人に神を求めさせるためであり、また、彼らが探し求めさえすれば、神を見いだすことができるようにということなのです。実際、神はわたしたち一人一人から遠く離れてはおられません。28:皆さんのうちのある詩人たちも、/『我らは神の中に生き、動き、存在する』/『我らもその子孫である』と、/言っているとおりです。29:わたしたちは神の子孫なのですから、神である方を、人間の技や考えで造った金、銀、石などの像と同じものと考えてはなりません。30:さて、神はこのような無知な時代を、大目に見てくださいましたが、今はどこにいる人でも皆悔い改めるようにと、命じておられます。  31:それは、先にお選びになった一人の方によって、この世を正しく裁く日をお決めになったからです。神はこの方を死者の中から復活させて、すべての人にそのことの確証をお与えになったのです。」32:死者の復活ということを聞くと、ある者はあざ笑い、ある者は、「それについては、いずれまた聞かせてもらうことにしよう」と言った。33:それで、パウロはその場を立ち去った。34:しかし、彼について行って信仰に入った者も、何人かいた。その中にはアレオパゴスの議員ディオニシオ、またダマリスという婦人やその他の人々もいた。

   

【定年退職した男の話】
ある男の人は長いキャリアを経て、やっと退職の日がまいりました。そして、その記念すべき日と自分の第二の人生の始まりを祝う為に、旅行の計画を立ちました。それは世界一周の旅でした。ずっと仕事で忙しかったので、見に行きたい所が沢山ありました。古代エジプトのピラミッド、アメリカのグランドキャニオン、スイスの風景、アフリカの野生動物などを自分の目で見たかったのです。旅行の出発の日を楽しみに待ちながら自分にこのように言いました。「私は長い間頑張りました。真面目な生活をして、同僚と家族の者に迷惑をあんまりかけませんでした。ちゃんと国に税金も払って、一度も警察のお世話にならなかったのです。しかも、出来るだけ困っている人に手を延ばし、助けて来ました。ですから、私は誰よりもこの旅行に値するべきです。」

2008年06月29日 | カテゴリー: 使徒言行録 , 新約聖書

聖書に於ける最も大事な質問 ウイリアム・モーア宣教師

使徒言行録16章25−34
 
 【聖書に於ける最も大事な質問:救われるためにはどうすべきか】
聖書には色々な大切な質問が問われていると思います。たとえば、創世記で神に逆らったアダムとエバが善悪の知識の木から実を取って食べると、彼らはその罪の故に神の顔を避けて自分たちの身を隠しました。そうすると、主なる神はアダムを探し出す為に、このような質問を問いました。「どこにいるのか。」また、新約聖書で主イエス・キリストは御自分の弟子達にこの重要な質問をしました。「あなたがたは私を何者だと言うのか。」そう聞かれると、シモン•ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答え、始めてのキリスト信仰の告白をしました。(マタイ16:15−16)。この二つの質問は大事で意味深い問ですけれども、恐らく今日の御言葉に問われた質問はもっと大事であると思います。そして、その答えは私達には、いや、私達だけではなく、この世界の全ての人々に最も重要であります。その質問は今日の朗読の30節にあります。つまり、

「先生方、救われるためにはどうすべきでしょうか。」


それは使徒パウロとシラスに問われたフィリピと言う町の監獄の看守の質問でした。

2007年03月25日 | カテゴリー: 使徒言行録 , 新約聖書

「義に飢え渇く人々は幸いである」 田村英典牧師/淀川キリスト教病院伝道部長

マタイ5章6節
「義に飢え渇く人々は幸いである。その人たちは満たされる。」

 
マタイ5章初めの幸福の教えを続けて学んでいます。今日は4番目の6節に進みます。イエスは言われました。「義に飢え渇く人々は幸いである。」
 
【義に飢え渇く】
私は20歳の時、初めて聖書のここを読みました。正直なところ、良く分りませんでした。

「義」


とは何か。

「義に飢え渇く人々」


とは強い表現だが、どういう人のことなのか。こういう疑問を抱いたことを今も覚えています。
 

2006年10月17日 | カテゴリー: コリントの信徒への手紙一 , フィリピの信徒への手紙 , マタイによる福音書 , ヨハネによる福音書 , ルカによる福音書 , 使徒言行録 , 新約聖書 , 旧約聖書 , 詩篇

「クリスチャンが気になるものは?」グラハム・スミス-CMS宣教師・KGK主事

聖書:1テサロニケ2:17--3:10 

1.大事なもの
人生を過ごしながら、何が大事か、何がつまらないか、わきまえるようになります。人生の経験を重ねることによって、判断する知恵が与えられ、成長します。大抵、子どもは物を大切にします。食べ物や飲み物やおもちゃなど。また、今、すぐに得るものを欲しがります。子どもを買い物に連れていくとその傾向は明らかです。

大人はどうでしょうか。どんなことを大事にしようとしているでしょうか。頭では愛とか、平和とか、健康とか、家族を大切にしていると言われるでしょう。でも、日常生活を見ると、大人も物を大事にしています。利益になるものや自分を満たすものにはまっています。

普通の生活では何が大事かあまり深く考えないですが、時々何かのきっかけで考えさせられます。数年前に私の26歳の妹が原因不明で亡くなりました。そのことで、私と残された家族は大分変わりました。大人らしくなったり、つまらない話をさけたり、不完全なことを気にしなくなったり、「今」という時の意識が強くなって、生きている特権をいつも覚えるようになりました。

人が病気になると何が大事か反省するようになる場合が多いです。この前、旅行の直前、連れていく親戚の子どもが病気なりました。長い間計画を立てて、待ち望んだ休みをとれないような状態になりました。その時の思いを振り返えって見るとすごく恥ずかしいです。子どもの健康のことよりも、自分のことしか考えなかった。7万円の新幹線切符の損、宿泊費の損、バケーションのキャンセルの損ばかり考えました。病気の子どものことは気にせずに、自分のことだけ考えてしまいました。親戚の子供だったので、その親に対する怒りもありました。

もちろん、さまざまな経験から何が大事であるかを考えさせられますが、聖書を読むとその課題がよく出てきます。今日の箇所では、パウロとテサロニケの人々との関わり方から、本当に大事なことは何であるかが見えてきます。別な翻訳では「生きがい」という言葉が出てきます。パウロの生きる意味、生きる目的は何であるか、はっきり書かれています。私たちのいきがいと比べることができます。

2006年08月13日 | カテゴリー: コリントの信徒への手紙一 , テサロニケの信徒への手紙一 , 使徒言行録 , 新約聖書

十字架からの御言葉(その5,6):「渇く」と「為しとげられた」ウイリアム・モーア

ヨハネによる福音書19章28-30

聖書によりますと、イエス・キリストは十字架に掛けられた間に、七つの御言葉をおっしゃいました。 今日は5番目と6番目の二つの十字架からの御言葉を学びたいと思います。それは

「渇く」と「成し遂げられた。」

です。

【渇く】
先ず「渇く」を学びましょう。実は、先の四つの意味深い発言に比べると「渇く」と言う単純な表現はあんまり大した御言葉ではないかのように見えます。私達も何度もそのような言葉を言った事があるし、子供から聞いた事も結構あります。喉が渇いた事、誰でもその経験があります。人間の体重の約7割は水だそうです。そして、身体の正しい働きは水に頼っています。人間は食べなくても結構長く生きられますが、水が飲めないと大低数日が限界です。

【脱水】
私はカリフォルニアに行く度に山歩きをします。いつも泊る所はロサンジェルスの近い郊外になります。そして、そこには鹿と熊と山猫が出るMt.Wilsonと言う高い山があります。南カリフォルニアは乾燥した砂漠のような気候ですから、山歩きをすると、十分な水を持って行く事は何よりも大事です。そして、喉の渇きを感じる前に少しずつ水を飲む必要があります。そうしないと、脱水状態になって、倒れます。実は、山道に迷って脱水で亡くなる人も珍しくはありません。

十字架につけられたイエス・キリストは大変な渇きを覚えました。出血と厳しい日差しと比べられない程の苦痛の故に喉が酷く渇いて来て、「渇く」と言われました。実際に、誰でも同じ状態だったら、「渇く」と言って、飲み物を願うでしょう。間違いなく、主イエスの右と左に十字架につけられた犯罪人も激しい乾きに苦しめられていました。ですから、イエス・キリストの「渇く」と言う御言葉を通して、主は人間であることを確かめられます。主イエスは100%真に神でありながら、同時に100%真に人間でもありました。

【人間となられたイエス】
私とあなたのように痛みを本当に感じ、私とあなたのように喉も渇いて来ました。主は本当に人間である事はなぜそんなに大事でしょうか。実際に、イエスが人間を贖おうとしたのなら、イエスは人間にならなければなりませんでした。私達をイエスのようにする為には、イエスが先ず、私達のようにならなければなりませんでした。だからと言っても、全く清い人間だけが私達の代わりに罪の罰を受ける事が出来、私達を神と和解させて下さいます。イエスが渇きを覚えた事を通して御自身が人間である事は明白になります。真の人間として十字架の痛みと苦悩とを経験されました。「渇く」という主イエスの発言は人間として御自分の苦しみが現実なものである事を保証します。

2006年04月09日 | カテゴリー: ヨハネによる福音書 , ローマの信徒への手紙 , 使徒言行録 , 新約聖書