エフェソの信徒への手紙

2015年8月30日説教「最も小さい者であるわたし」宮崎契一牧師

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聖書:エフェソの信徒への手紙
3:1 こういうわけで、あなたがた異邦人のためにキリスト・イエスの囚人となっているわたしパウロは......。
3:2 あなたがたのために神がわたしに恵みをお与えになった次第について、あなたがたは聞いたにちがいありません。
3:3 初めに手短に書いたように、秘められた計画が啓示によってわたしに知らされました。
3:4 あなたがたは、それを読めば、キリストによって実現されるこの計画を、わたしがどのように理解しているかが分かると思います。
3:5 この計画は、キリスト以前の時代には人の子らに知らされていませんでしたが、今や"霊"によって、キリストの聖なる使徒たちや預言者たちに啓示されました。
3:6 すなわち、異邦人が福音によってキリスト・イエスにおいて、約束されたものをわたしたちと一緒に受け継ぐ者、同じ体に属する者、同じ約束にあずかる者となるということです。
3:7 神は、その力を働かせてわたしに恵みを賜り、この福音に仕える者としてくださいました。
3:8 この恵みは、聖なる者たちすべての中で最もつまらない者であるわたしに与えられました。わたしは、この恵みにより、キリストの計り知れない富について、異邦人に福音を告げ知らせており、
3:9 すべてのものをお造りになった神の内に世の初めから隠されていた秘められた計画が、どのように実現されるのかを、すべての人々に説き明かしています。
3:10 こうして、いろいろの働きをする神の知恵は、今や教会によって、天上の支配や権威に知らされるようになったのですが、
3:11 これは、神がわたしたちの主キリスト・イエスによって実現された永遠の計画に沿うものです。
3:12 わたしたちは主キリストに結ばれており、キリストに対する信仰により、確信をもって、大胆に神に近づくことができます。
3:13 だから、あなたがたのためにわたしが受けている苦難を見て、落胆しないでください。この苦難はあなたがたの栄光なのです。


2015830 説教「最も小さい者であるわたし」宮崎契一牧師 

 

 今日は西谷伝道所での奉仕が許されて感謝しています。初めて、この新会堂に来ることができて嬉しく思っています。私が以前奉仕に来たのは、おそらく45年ほど前のことだったと思います。まだ新会堂ができる前です。

 

 今朝お読みしました、エフェソの信徒への手紙を書いたパウロという人も、キリストの教会を建て上げることに用いられた人です。しかし、教会を建て上げると言っても、パウロが手紙の中で言っていることは、単にこの建物を建てるということではありません。キリストの恵みによって、信仰によって、この教会という建物を成長させていくという中身の成長をその手紙の中で語っています。このことがどの教会にとっても大事なのだと思うのです。

 

パウロの務め

 そして、教会の成長という時に、それは私自身の成長、ということと切り離して考えることはできません。聖書には、教会はキリストの体であり、一人一人はその部分だと言われています。一人一人が教会の一部分で、それぞれの働きによって、この体は成長されていくと言われるのです。教会という場所は一人一人のことが大切であり、必要です。私自身がどのような恵みに生かされているのか、ということが大事なのだと思います。それは、全体の成長につながります。この3章でパウロは、そのような恵みを受けたわたし、について語るのです。教会という場所は、もちろん全体としての歩みですけれども、その部分であるわたしということがまた大事です。

 

 パウロは2節で、「あなたがたのために神がわたしに恵みをお与えになった次第について、あなたがたは聞いたにちがいありません。」と言っています。神がわたしに恵みをお与えになった次第、こうパウロは言うのです。では、そのわたしに恵みが与えられたことによって、わたしはどういう者にされたのか。恵みが与えられるということを考える時に、私たちは毎日の生活の中で、いろいろなことを想像するかもしれません。何か自分の欲しいものが与えられた、自分の願っていたことが実現された、など。しかし、パウロにとって、神の恵みを受けるということはどういうことだったでしょうか。それは、自分が救われて、この福音に仕える者にされた、ということでした。これが、何よりのことだったのです。信仰者にとって忘れることのできない出来事です。神がわたしに恵みをお与えになった次第、ということに続けて、パウロはそのようなわたしのことを語っています。

 

 パウロは3節で「秘められた計画が啓示によってわたしに知らされました。」と自分に与えられた恵みについて展開しています。秘められた計画、というのはどういうことでしょう。パウロは続く4節で、そのことについて「キリストによって実現されるこの計画」と言っています。この「秘められた計画」というのは、それまで人々に明らかにされていなかった隠されたご計画です。それが、キリストというお方によって実現された、そういう神様の救いのご計画のことです。

 

 5節では、「この計画は、キリスト以前の時代には人の子らに知らされていませんでしたが、今や"霊"によって、キリストの聖なる使徒たちや預言者たちに啓示されました。」と言われています。キリストによって実現される神様の救いのご計画ですから、イエス・キリスト以前の時代、旧約聖書の時代にまだこの計画は人々には明らかにされていませんでした。しかし、イエス・キリストが地上においでくださった。そのことによって、今や聖霊によって、使徒たちや預言者といった人たちにそのことが啓示をされた。そして、この使徒たちや預言者たちによって、この隠された神様の救いのご計画が人々に大胆に語られるようになった。そういう神様のご計画が私にも啓示された、そういうことをパウロはここで言っているのです。

 

その計画というのは、6節でも言われていますように、選びの民とされていた旧約以来のユダヤ人だけではなく、異邦人も、このイエス・キリストの福音とは無関係ではない、ということでした。それをわたしたちと一緒に受け継ぐ者、同じ体に属する者だし、同じ約束にあずかる者だ、と言うのです。全く変わらないのです。ユダヤ人にとって、それ以外の外国人、異邦人というのは、汚れた存在です。律法の無い人たち。救われることのない人たち見なされていました。そういう区別があったのです。だから、交際することも禁じられていました。外国人を訪問することも禁じられていた、こういうことが聖書に記されています。

 

けれども、神様という方は、人を分け隔てなさらない。異邦人は駄目だ、それ以外にも私たちの生きている世の中にはいろいろな区別とか差別があるのだと思います。この人は良い、この人は駄目だ、違う、こういう区別が私たちの現実にはあると思います。そういうものを人間は造り出してしまうと思うのです。しかし、神様の前ではそういう区別はありません。だから、異邦人もユダヤ人と全く同じように、同じ一つの体であり、共に神様の約束に与かる者だということ。キリストの救いは、あらゆる人に分け隔てなく向けられているということ。そういうこれまで秘められていたキリストによって実現される救いの計画を、パウロは啓示されて、使徒としてそれを伝えていました。神様の救い、この福音は全ての人に向けられているものなのです。

 

一番小さな者

 改めて、パウロという人のすごさを教えられるように思います。それまで人々には秘められていた神様の計画が彼に啓示されました。そして、それを伝えているという、本当に新しく大きな働きをパウロはするようになりました。

 

 しかし、そのパウロ自身は一体自分のことをどのように考えていたのでしょうか。7節と8節でパウロはこう言っています。「神は、その力を働かせてわたしに恵みを賜り、この福音に仕える者としてくださいました。この恵みは、聖なる者たちすべての中で最もつまらない者であるわたしに与えられました。」。彼は福音に仕える者とされた自分について、こう言うのです。

 

 ここで私たちの目を引くのは、パウロが自分について「聖なる者たちすべての中で最もつまらない者であるわたし」と言っていることです。「聖なる者たち」とは、神様に救われた者たちのこと、教会の一人一人のことです。その全ての者たちです。教会の中で立派な働きをしている人たちや、中心的な働きをしている人たちのことを言っているのではありません。その全ての人たちの中で、最もわたしはつまらない者だ、これほどのことをこのパウロが告白しているのです。「つまらない者」とは、小さな者、という意味です。最も小さな者だと、彼は「わたし」のことを言っています。

 

 パウロは、自分の小ささについて、コリントの信徒への手紙(159節)の中でこう言っています。「わたしは、神の教会を迫害したのですから、使徒たちの中でもいちばん小さな者であり、使徒と呼ばれる値打ちのない者です。」。パウロは、以前は激しく神の教会を憎み迫害していました。そのような自分の過去を振り返って、私は使徒の中で一番小さな者、その値打ちの無い者だと言います。ここでも、いちばん小さな者、という言葉が出てきました。また、パウロはテモテへの手紙の中では、「わたしは、その罪人の中で最たる者です。」とも言っています。

 

 ここで、最も小さな者、とパウロが言っていることがどういう小ささなのか、ということです。何か単に謙遜ぶって小さな人、と言っているのでしょうか。謙虚な人、立派な人であることを見せようとしているのでしょうか。16世紀フランスの宗教改革者ジャン・カルヴァンという人がいます。私たちの改革派教会のルーツと言って良い人です。カルヴァンはエフェソ38節でパウロについて、「かれがこのように自分を低めるのは、決して駆け引きのためではない。」と言います。そして、彼は「ほんとうは心の中が傲慢で満ちていながら、謙遜であるごとくにみられようとするものがたくさんいる」と言うのです。「たいへんな尊敬に値するとみなされたがっていながらも、いうことだけは最も小さいもののようにいうひとが、たくさんいるのだけれども、パウロはほんとうに心から自分の小ささを認めていたのだ」と言うのです。

 

 500年前の人ですけれども、ここでカルヴァンが言っていることは、案外その通りなのかもしれません。人間の心というのは、その中が傲慢で満ちていながら、謙遜であるように見られたがっている者がたくさんいる。尊敬に値すると見なされたがって、言うことだけは最も小さいもののように言う人がたくさんいる、と言うのです。私たち人間の謙遜というのは、案外こんなものなのかもしれません。言うことだけは最も小さい者であるかのように言うことがあります。人から立派に見られたがっている。しかし、その心の内側は、傲慢に満ちているというのです。私たちの謙遜には、いつもこういう限界があるのだと思います。しかし、ここでパウロが言っている小ささは、「罪人の中で最たる者です」と言うように、罪深いという小ささです。何よりも神に対して、あるいは、人に対して、自分は罪のある者である、そういう神の前での自分を知っている人こそ、本当に謙遜な人なのです。

 

恵みによって

 しかし、パウロは何で、こんなにも自らが最も小さいということを知ったのでしょうか。聖なる者たち、信仰者の中で自分は一番小さく、罪深いとまで彼は知ったのでしょうか。この言葉は、本当に砕かれた人の言葉です。本当の自分を良く知っている人の言葉なのです。

 

パウロがこのような自分を知ったのは、それは彼に神様の恵みが与えられたからです。7節には、「神は、その偉大な力を働かせてわたしに恵みを賜った」と言われています。これが与えられる中で、この恵みは最もつまらない者である自分に与えられた、と自分自身の姿が明らかにされます。この恵みは、神様の偉大な力によって与えられているというほどの恵みです。だから、パウロは自分の姿が露わにされる中で、しかし、ただこの自分に与えられた恵みだけが、罪深い自分を生かす、ということを確信していました。恵みが与えられた人は、この恵みを喜んで受け取り感謝する人です。そして、それが与えられた自分は、本当に小さな者、神様の前に一切何も誇るところのない自分であることを良く知らされた人なのです。

 

先ほども言いましたように、パウロは、以前は神の教会を憎み迫害していました。しかし、その彼に恵みが与えられて、全く彼は変えられます。恵みは人の生き方を変えます。「この福音に仕える者としてくださいました。」こう言うのです。最も小さな者、また最も罪深く神の教会を迫害していた者が、福音に仕える者にされた。これは全く変えられたのです。ここにありますように、恵みはその人を全く新しくします。これが神様の恵みだと、聖書は言うのです。

 

パウロは、コリントの信徒への手紙(15910節)の中で神の恵みについて、「神の恵みによって今日のわたしがあるのです。そして、わたしに与えられた神の恵みは無駄にならず、わたしは他のすべての使徒よりずっと多く働きました。しかし、働いたのは、実はわたしではなく、わたしと共にある神の恵みなのです。」と言いました。「神の恵みによって今日のわたしがある。」これは、全ての信仰者が心から言うことのできる言葉だと思います。何か自分だけで頑張ってここまで教会生活やってこられました。自分の能力でここまできました。信仰者は、そのように言うことはできません。なぜなら、恵みが与えられているからです。神の恵みとは、何よりもそれによって今日の自分がある、そう心から言うことのできるものです。

 

そして、この恵みが、キリストを信じる一人一人に与えられている。これが、今日の聖書の言葉が私たちに語り掛けていることです。神の恵みを見失いやすい、毎日の生活の中で私たちはそういうことが多いのではないでしょうか。恵みを与えられた者として、仕える、ということも全く考えないかもしれません。仕えることよりも、とにかく他人はどうであっても、自分自身のことで精一杯、ということもあるかもしれません。

 

しかし、ここで神様の導きを共に覚えたいと思うのですけれども、神様はイエス・キリストという救い主を通して、私たちを御自分の近くに引き寄せてくださるのです。12節にこうあります。「わたしたちは主キリストに結ばれており、キリストに対する信仰により、確信をもって、大胆に神に近づくことができます。」これは、信仰者のことです。私たち一人一人の姿です。私たちも、最もつまらない者、最も小さな者でした。しかし、その人にもキリストへの信仰は与えられ、これまでも見向きもしなかった神というお方に心を向けて近づく人にされたのです。そして、イエス・キリストというお方が、私たち罪人のために御自分が小さくなられ死んで甦ってくださいました。そのように、私たちも身を献げてこの場所で仕えていく。そういう神様への導き、仕えるための恵みが、私たちには与えられています。

 

 私たちが神様に祈り求めるものは何でしょうか。それは、小さな者に与えられる恵みです。パウロは、本当に恵みが与えられたことを感謝して、喜びながら7節のことを言ったのだと思います。最も小さい者に恵みが与えられる、このことは喜び以外の何ものでもありません。私たちは毎日の信仰生活の中で、自分自身の小ささ、つまらなさを思わずにはおれません。しかし、そこに与えられるのがこの神の恵みだと言われるのですから、この神が賜るものを受け取るというところに、私たちの成長があります。そして、教会の成長もあるのです。私たちは今週一週間も、それぞれ遣わされている場所で、恵みによって、キリストが私たちのためにしてくださったように、仕える歩みを、キリストを差し示す歩みをしたいと思うのです。そのために、神様はその力を働かせてくださいます。

 

 

 



2015年08月31日 | カテゴリー: エフェソの信徒への手紙

「時をよく用いなさい」ウイリアム・モーア

聖書;エフェソの信徒への手紙5章15−20

 

【新しい年の玄関に】

新年おめでとうございます。今朝私たちは新しい年、主イエス・キリストの2011年の玄関に立っております。毎年、新年を迎える時、私たちは過ぎ去った年に「さようなら」と言い、大きな希望をもって新しい年の新しい出発を歓迎します。特に、私たちはこの際、積極的に自分の生活をよりよいものへと変えようとします。

2011年01月02日 | カテゴリー: エフェソの信徒への手紙 , 新約聖書

「神の傑作である私たち」ウイリアム・モーア2010.8.22

聖書:エフェソの信徒への手紙2章1−10

1:さて、あなたがたは、以前は自分の過ちと罪のために死んでいたのです。2:この世を支配する者、かの空中に勢力を持つ者、すなわち、不従順な者たちの内に今も働く霊に従い、過ちと罪を犯して歩んでいました。3:わたしたちも皆、こういう者たちの中にいて、以前は肉の欲望の赴くままに生活し、肉や心の欲するままに行動していたのであり、ほかの人々と同じように、生まれながら神の怒りを受けるべき者でした。4:しかし、憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛してくださり、その愛によって、5:罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし、――あなたがたの救われたのは恵みによるのです――6:キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました。  7:こうして、神は、キリスト・イエスにおいてわたしたちにお示しになった慈しみにより、その限りなく豊かな恵みを、来るべき世に現そうとされたのです。8:事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。9:行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです。10:なぜなら、わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。わたしたちは、その善い業を行って歩むのです。

 

【ダイエット広告】

新聞のチラシによく見かける物ですが、人の前と後の写真を用いる広告は面白いです。その前の写真と後の写真で物やサービスを売る訳です。特にダイエット薬や美容整形の広告にその手段を使います。 皆さんも見た事でしょう。ダイエットの前の人の写真はあんまり素敵ではありません。実は、まるで警察で撮る逮捕者のような最低な写真です。事実よりも大変太く見える、ださい服装を着て、悲しそうな顔をする、とてもへつらわない写真になります。

 

その反面、ダイエット後の写真は全く逆です。飲めば痩せる薬を買って用いると、もっぱら素敵なタレントのような様子です。すごく細長くなり、流行のスタイルを示すとても素敵な人になりました。しかも、自信満々の笑顔をします。その前の写真と比べると全く別人のようになります。そして、その新しく変わった写真を見て、誰でもがすぐにでもその薬を注文したくなります。

2010年08月22日 | カテゴリー: エフェソの信徒への手紙 , 新約聖書

神に倣う者となりなさい ウイリアム・モーア

聖書:エフェソの信徒への手紙4章25−5章2

◆新しい生き方

 25:だから、偽りを捨て、それぞれ隣人に対して真実を語りなさい。わたしたちは、互いに体の一部なのです。26:怒ることがあっても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで怒ったままでいてはいけません。27:悪魔にすきを与えてはなりません。28:盗みを働いていた者は、今からは盗んではいけません。むしろ、労苦して自分の手で正当な収入を得、困っている人々に分け与えるようにしなさい。29:悪い言葉を一切口にしてはなりません。ただ、聞く人に恵みが与えられるように、その人を造り上げるのに役立つ言葉を、必要に応じて語りなさい。30:神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、聖霊により、贖いの日に対して保証されているのです。31:無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりなどすべてを、一切の悪意と一緒に捨てなさい。32:互いに親切にし、憐れみの心で接し、神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい。5章1:あなたがたは神に愛されている子供ですから、神に倣う者となりなさい。 2:キリストがわたしたちを愛して、御自分を香りのよい供え物、つまり、いけにえとしてわたしたちのために神に献げてくださったように、あなたがたも愛によって歩みなさい。

 

【ハロウイーン】

この10月31日、 アメリカからの帰りで私は関西空港から六甲アイランド行きのリムジン・バスに乗りました。丁度バスが六甲アイランド停留所に着いた時、窓からとても意外な光景を目にしました。それは十数人の小学生の仲間がハロウイーン・コスチュームの姿で歩いていた事です。ミイラや妖精、魔女、オバマ大統領、スーパーマンなどの姿で夢のように現れました。そして、旅の疲れや時差ぼけの影響で、それを見た瞬間、私はまだロサンジェルスにいて、日本に本当に帰っていないのではと錯覚してしまいそうでした。最近、日本でも10月31日のハロウイーンが流行ってきて、楽しい子供の祭りのようになりました。この世はだんだん小さくなるのだなーと思いました。

2009年11月15日 | カテゴリー: エフェソの信徒への手紙 , ヨハネによる福音書 , 新約聖書

「信じる自分を見つめるときに」山中恵一神学生

山中恵一神学生


聖書:エフェソの信徒への手紙1章3‐6節

◆キリストにおいて満ちあふれる神の恵み

3:わたしたちの主イエス・キリストの父である神は、ほめたたえられますように。神は、わたしたちをキリストにおいて、天のあらゆる霊的な祝福で満たしてくださいました。

4:天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。5:イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです。

6:神がその愛する御子によって与えてくださった輝かしい恵みを、わたしたちがたたえるためです。


【あいさつ】
今朝はこのように、学びの途上にある神学生に御言葉の奉仕を許していただきまして、ありがとうございます。この場に遣わしてくださった神様と、迎えてくださった皆様に心から、感謝をいたします。また、私どものいます神学校が、みなさまからの本当に多くのお祈りと献金とに支えられていますことを神学校に変わりまして心より感謝をいたします。

2009年06月07日 | カテゴリー: エフェソの信徒への手紙 , 新約聖書

神の招きにふさわしく歩もう ウイリアム・モーア宣教師

エフェソの信徒への手紙4章1−6

【聖墳墓教会の争い】
大昔の言い伝えによりますと、エルサレムにある聖墳墓教会はイエス・キリストが復活させられるまで横たわっていたお墓の上に建てられています。しかし、残念ながら何百年前から現在いたるまで色んなキリスト教宗派がその聖地の管理を主張して来ました。その問題はあんまり深刻になりましたので、1752年に、当時パレスチナを治めたオスマン帝国の君主が聖墳墓教会を六つの部分に分けて、その部分それぞれを六つの宗派に与えました。教会の屋上はエチオピア正教会の物になりましたが、1800年代の流行病のため、エジプト•コプト教会が屋上の管理を取りました。しかしながら、1970年頃、エジプト•コプト教会の修道士が屋上からちょっと留守の間、 エチオピア正教会が百年ぶりにもう一度屋上を占領しました。もちろん、コプト教会はその行為を争って、自分の修道士を屋上へ行かせ、その時から両方の宗派の代表が屋上に暮らしていました。しかし、そのライバルの二人はあんまり良い関係を持ってなかった為、2002年の夏に殴り合いなりました。両方の仲間がその騒ぎを聞くと、屋上へ飛んで来て、大変な喧嘩が起こりました。修道士11人が怪我になり、一人が無意識状態で病院へ運ばれました。主イエス・キリストのお墓と復活の聖地なのに、そう言う事件が実際に起こってしまいました。

2007年11月18日 | カテゴリー: エフェソの信徒への手紙 , テモテへの手紙一 , 新約聖書

「聖なる祭司として」
淀川キリスト教病院牧師 田村英典

聖書:ペトロの手紙Ⅰ 2章1~10

◆生きた石、聖なる国民   1:だから、悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口をみな捨て去って、2:生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。これを飲んで成長し、救われるようになるためです。3:あなたがたは、主が恵み深い方だということを味わいました。4:この主のもとに来なさい。主は、人々からは見捨てられたのですが、神にとっては選ばれた、尊い、生きた石なのです。5:あなたがた自身も生きた石として用いられ、霊的な家に造り上げられるようにしなさい。そして聖なる祭司となって神に喜ばれる霊的ないけにえを、イエス・キリストを通して献げなさい。6:聖書にこう書いてあるからです。「見よ、わたしは、選ばれた尊いかなめ石を、/シオンに置く。これを信じる者は、決して失望することはない。」7:従って、この石は、信じているあなたがたには掛けがえのないものですが、信じない者たちにとっては、/「家を建てる者の捨てた石、/これが隅の親石となった」のであり、8:また、/「つまずきの石、/妨げの岩」なのです。彼らは御言葉を信じないのでつまずくのですが、実は、そうなるように以前から定められているのです。   9:しかし、あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。それは、あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです。10:あなたがたは、/「かつては神の民ではなかったが、/今は神の民であり、/憐れみを受けなかったが、/今は憐れみを受けている」のです。

 


【宗教改革】
毎年10月31日は宗教改革記念日ですので、今朝はそれを覚えて説教をさせていただきます。
御承知のように、ヨーロッパの宗教改革は実際には中世の終りから色々な人たちが始めていま
した。イギリスではウィクリフ、ボヘミヤではフス、フィレンツェではサヴォナローラなど、当時の教会の腐敗に多くの人が心を痛めていたのです。ただ、全体的運動には至りませんでした。
 
それを変えたのがルターでした。1517年10月31日、ヴィッテンベルク城の教会の扉にルターは95か条の公開質問状を張り付けました。これは特に過激な方法ではなく、当時よく使われたものです。ルターは自分の疑問について公に討論をしたかっただけで、大ごとになるとは全く考えていませんでした。彼の思想も神学もまだ十分整理されていませんでした。
 
しかし、印刷技術の発達やその他の理由で、事態は思わぬ大きな展開を見せ、その中で彼の考えも整理され、展開し、成熟していきました。更にルターだけでなく、ブーツァー、ツヴィングリ、カルヴァン、ノックスなど、当時のヨーロッパの色々な人たちにこの運動は広がり、大きな困難の中にも定着していきました。改革派教会は、この宗教改革に源流を持つ教会です。

2007年10月28日 | カテゴリー: エフェソの信徒への手紙 , ペトロの手紙一 , ヨハネの黙示録 , 新約聖書

教会の交わり ウイリアム・モーア宣教師

エフェソの信徒への手紙2章19−22
 
【100人の子供】
最近新聞で次の驚くべき記事を読みました。「78人 の子供を持つ一本足のアラブ首長国連邦の市民ダアド•ムラド•ムハンマド•アブドウル•ラーマンさんは次の二人の妻を募集しています。何故なら、彼は2015年までに100人の子供を儲けたいからだそうです。60歳のアブドウルル•ラーマンさんは今まで15人のお嫁さんがありましたが、イスラム教は同時に妻4人しか許されないので、その中、13人の妻を離婚しました。「2015年に私は68歳になり、子供100人を目標にしています。それに成功したら、新しい結婚はもうしません」とアブドウルル•ラーマンさんが言いました。地元の新聞は第一面に78人の子供に囲まれた彼の写真を載せました。長男は36歳で、末っ子は産まれてわずか20日です。そして、現在、二人の妻は妊娠中です。
 
アブドウルル•ラーマンさんによりますと、自分の大家族は15件の家に住んでいます。退役軍人である彼は年金と国の援助で家族を支えるんだそうです。
 
この世には色々な家族がありますね。アブドウルル•ラーマンさんは何故そんなに大きな家族を築いたのかは分かりません。恐らく子供が大変好きなんでしょう。あるいは、子供を儲ける事によって有名になりたがったのかも知れません。しかし、それは決して楽な年金生活ではないと思います。子供の名前を覚える事さえも大変です。それぞれの妻との関係も確かに複雑です。 気の毒ながら事業自得です。

2007年08月26日 | カテゴリー: エフェソの信徒への手紙 , コロサイの信徒への手紙 , ヘブライ人への手紙 , ペトロの手紙一 , ヤコブの手紙 , 新約聖書

真の自由 ウイリアム・モーア宣教師

聖書:ヨハネによる福音書8章31−38
 
 
【ウオレス将軍】
「パッション」と言う映画で有名になったメル•ギブソン監督は1995年に「ブレイブハート」と言う他の映画でスコットランド人のウオレス将軍の役を務めました。その映画はウオレス将軍が無残なイギリスから自分の国スコットランドの自由を回復しようとするストーリです。ウオレス将軍は立派にイギリス軍と戦って多くの勝利を得ましたが、最後に彼は友人によって裏切られ、イギリスの王に渡されてしまいました。そして、イギリスの王はウオレス将軍を処刑するつもりでした。しかし、処刑する前にイギリスの王はウオレス将軍に恥をかかせる為、慈悲を乞わせようとしました。ウオレス将軍はあざける群衆の前に連れ出され、唾を吐かれたり、物を投げられたりしました。それから、死刑執行人は拷問をかけ始め、ウオレス将軍に言いました。「もし、慈悲を乞うなら、死刑を速く進めよう、しなかったら、もっと酷い拷問をかける」と脅しました。また、ウオレス将軍の声が聞こえるように、執行人は群衆を黙らせました。しかし、将軍は恥をかきませんでした。むしろ、残った力を全部奮(ふる)い起こして、大きい声で「自由」と叫びました。
 
【自由】
「自由。」その言葉は力強いです。自由の為に多くの人々は自分の命を犠牲にしました。又、自由の為に敵を殺す事も少なくありませんでした。歴史が始まった以来、自由の為に数え切れない程の戦争が起りました。又、現在も自由はいたるところで重んじられています。自分の自由を束縛されたいと思う人は珍しい事でしょう。

2007年08月19日 | カテゴリー: イザヤ書 , エフェソの信徒への手紙 , マタイによる福音書 , ヨハネによる福音書 , 新約聖書 , 旧約聖書

霊の結ぶ実:善意 ウイリアム・モーア宣教師

マルコによる福音書10:17−22
ガラテヤの信徒への手紙5:22−23
 
【あなたは善人ですか】
皆さん、少し想像してみて下さい。もし電車を乗っている時、誰かがあなたの側に座り、突然、「あなたは善い人ですか」と尋ねられると、どう答えられますか。赤の他人にそのように聞かれると、多分びっくりするでしょう。又、恐らく、その人は正気かと疑うかも知れません。誰がそのような個人的な質問を知らない人に聞くでしょうか。しかし、もしその質問、「あなたは善い人ですか」に答えようとしたら、どう答えられますか。実は、人間誰でも自分が善い人だと思いたいのです。「私は善くない人、悪い人」と言う者はめったにありません。
 
アメリカの教会を牧会した間、私は長年刑務所の訪問を毎月しました。教会の会員の息子が殺人で投獄され、私は彼に会いに行きました。行く度に彼は自分の無罪を主張して、不正な判決を嘆きました。彼が犯した罪の証拠が沢山あったのに、最後まで「他人がやった」と言い張りました。結局、そのような犯罪を認めれば、自分が善い人ではない事を認める事になりますので、なかなか自白出来なかったと思います。
 
私達人間は「自分が善いのだ」と思いたいのです。また、回りの人々に善い人として思われたいでしょう。それは自己像の大事な一部ですから、「あなたは善い人ですか」と聞かれると、それに対して答えるとしたら、殆ど誰でも、「私は善い人だと思う」と答える事でしょう。
 
【聖霊の結ぶ実「善意」】
今日、聖霊なる神の結ぶ実の学びを再び始めたいと思います。今まで愛と喜びと平和と寛容と親切を学んで来ました。覚えていると思いますが、聖霊の結ぶ実は神の賜物です。つまり、キリスト者なら、神の霊は私達に宿って下さり、霊の結ぶ実、愛と喜びと平和など、そのものは自分のものになりました。しかし、その徳目を現す為、私達の内に聖霊の働きを許さなければなりません。それぞれの徳目を実行する意志が必要です。すなわち、神の助けでその賜物を生かす訳です。今朝は「善意」と言う徳目について一緒に考えたいです。神はキリスト者にその実をもう既に授けたのです。ですから、私達はその聖霊の結ぶ実「善意」を豊かに現すべきです。
 
エフェソの信徒への手紙2章10節にこの大事な聖句が記されています。

「私達は神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備して下さった善い業の為に、キリスト•イエスにおいて造られたからです。私達は、その善い業を行って歩むのです。」


書かれた通りに、私達は善い業、つまり善意の業を行う為に神によって特別に造られました。迷わず言える事ですが、それは主から与えられた私達の目的と使命です。その事を通して造り主と救い主なる愛する神の栄光を現します。ですから、私達はこの徳目「善意」を特に注目すべきです。

2007年07月01日 | カテゴリー: エフェソの信徒への手紙 , ガラテヤの信徒への手紙 , マルコによる福音書 , ローマの信徒への手紙 , 新約聖書 , 旧約聖書 , 歴代誌上

わたしの母とはだれか ウイリアム・モーア宣教師

マタイによる福音書12章46−50

  ◆イエスの母、兄弟 46:イエスがなお群衆に話しておられるとき、その母と兄弟たちが、話したいことがあって外に立っていた。47:そこで、ある人がイエスに、「御覧なさい。母上と御兄弟たちが、お話ししたいと外に立っておられます」と言った。48:しかし、イエスはその人にお答えになった。「わたしの母とはだれか。わたしの兄弟とはだれか。」49:そして、弟子たちの方を指して言われた。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。  50:だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である。」  


【今日は母の日】
御存じのように、今日は母の日です。母の日に私達はお母さんを覚え、特別に敬う日なのです。私達それぞれは、誰でもどんな人でも、母がいますので、皆この日に参加する事が出来ます。今日は世界中で、数え切れない人がこの日を覚え、祝っています。北、中、南米の殆ど全ての国は5月の第二の主の日に母の日を祝います。そして、ヨーロッパとアフリカ諸国も今日、母の日を祝っています。アジアだったら、フィリビン、シンガポール、マレーシア、韓国、もちろん日本などにも母の日は大切に守られています。実は、最近中国さえも多くの人々は今日、自分のお母さんを特別に覚えています。

2007年05月13日 | カテゴリー: エフェソの信徒への手紙 , マタイによる福音書 , 列王記上 , 新約聖書 , 旧約聖書

霊の結ぶ実:愛 ウイリアム・モーア宣教師

聖書:ガラテヤの信徒への手紙5章16−25

【霊の実と肉の業】  16:わたしが言いたいのは、こういうことです。霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。  17:肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反するからです。肉と霊とが対立し合っているので、あなたがたは、自分のしたいと思うことができないのです。  18:しかし、霊に導かれているなら、あなたがたは、律法の下にはいません。  19:肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、20:偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、21:ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。以前言っておいたように、ここでも前もって言いますが、このようなことを行う者は、神の国を受け継ぐことはできません。  22:これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、23:柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。  24:キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。25:わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう。26:うぬぼれて、互いに挑み合ったり、ねたみ合ったりするのはやめましょう。

 
【キリスト者とは?】
皆さん、「キリスト者であると言うのは、どんな事ですか」と聞かれると、どう答えられますか。その事について考えた事がありますか。多分色んな正しい答え方があるのですが、やはり一番大事なのは、キリスト者はイエス・キリストを唯一の救い主として信じ、頼ります。そして、更にキリスト者は毎日の生活にイエス・キリストに従って生きようとする者なのです。つまり、私達は主イエスを模範として生きたい。又、主イエスに似て行く熱望を持っています。

2007年05月06日 | カテゴリー: エフェソの信徒への手紙 , ガラテヤの信徒への手紙 , コリントの信徒への手紙一 , コロサイの信徒への手紙 , ヨハネによる福音書 , ヨハネの手紙一 , ルカによる福音書 , 新約聖書

私たちは神の作品 ウイリアム・モーア宣教師

エペソの信徒への手紙2章8−10

8:事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。9:行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです。10:なぜなら、わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。わたしたちは、その善い業を行って歩むのです。  


【牛乳差しを壊した坊や】
1800年代の末ごろ、ヘンリー•ムーアハウスと言う英国人の伝道者はアメリカを巡回して伝道大会を行いました。ある町に着くと、ムーアハウス先生は地域の現状を見る為、貧しい所を尋ねました。そして、そこらを歩いていると、お店から出て来る小さい坊やを見つけました。小さいのに坊やは両手で大きい牛乳差しを持って、家へ帰ろうとしました。突然、彼は石に躓いて転び、陶器の牛乳差しが手からすべり落ちて、めちゃくちゃに壊れてしまいました。もちろん、牛乳も溢(こぼ)れ落ちました。
 
ムーアハウス先生は坊やの方へ走り、彼を立たせて、怪我がなかった事を確かめました。怪我がなかったけれども坊やはあまりの恐れて大声で泣き出しました。「ママが私を叩く、ママが私を叩く」と坊やが泣きながら叫び続けました。坊やを慰める事が出来なかったムーアハウス先生は彼を自分の手に抱いて、近くにあるお店に入り、新しい牛乳差しを買ってあげました。そして、また牛乳の店へ戻り、容器を牛乳で一杯にしてから、一緒に坊やの家へ向かいました。家の前に着くと、ムーアハウス先生は坊やを下ろして、新しい容器と牛乳を渡し、このように聞きました。「ママが今でも僕を叩くの?」そして、その涙の跡だらけの顔から大きい笑いが現れ、坊やが返事しました。「新しい牛乳差しが壊した物よりずっと良いから、大丈夫だ」と言って、心強く家に入りました。

2007年04月15日 | カテゴリー: エフェソの信徒への手紙 , 新約聖書

キリスト者の為のチェックリスト:その2 ウイリアム・モーア宣教師

ローマの信徒への手紙12:9−13

【天国に入るには】
ある人が亡くなって天国の門に着きました。そうすると、主イエスの弟子ペトロは彼を迎えに来てこう言いました。「天国に入るには一千点が必要です。あなたは何点をお持ちでしょうか。」そして、その人は、「何点を持っているかと聞かれると、困りますよ。溜まった点数の合計はさっぱり知りません。」「それでは、あなたの生涯を調べて見ましょう」とペテロが返事しました。「あなたが実行した全ての善い行いを教えて下さい。私が点数を計算します。」そうすると、その人は一生懸命に自分が行なった善い行動を思い出し、全てをペテロに語り始めました。小さい親切から大きい善行まで一つ一つを数え上げました。彼がやっと終わった時、ペテロはその点数を計算して、全部で百点しかないと知らせました。天国に入る為に一千点が必要なのに、ただの百点しか持っていないその人は大変がっかりしてしまいました。彼は、「やっぱりとても無理ですね。一生頑張ったのに、百点しか溜まらなかった」とペトロに言いました。「神の恵みでなければ決してこの所には入れないですね」と彼は呟きました。その事を彼の口から聞いたペテロは大変喜んで、こう言いました。「実は、神の恵みは九百点の価値がある。どうぞ、入って下さい。」
 
【神の恵みのみ】
我々キリスト者は神の恵みのみで救われ、神の恵みのみに頼ります。罪人である私達はいくら頑張っても私達の救いを勝ち得る事が出来ません。イエス・キリストを信じる事によって神の賜物、御自分の救いを自由に受けられます。使徒パウロが書いた通りに、

「私達は信仰によって義とされたのだから、私達の主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。」


(ローマの信徒への手紙5:1−2)

2007年02月18日 | カテゴリー: エフェソの信徒への手紙 , ヤコブの手紙 , ヨハネによる福音書 , ローマの信徒への手紙 , 新約聖書

「さらに愛し合う教会」 グラハム・スミスKGK主事/CMS宣教師

詩編133篇1--3

1:【都に上る歌。ダビデの詩。】見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び。

2:かぐわしい油が頭に注がれ、ひげに滴り/衣の襟に垂れるアロンのひげに滴り

3:ヘルモンにおく露のように/シオンの山々に滴り落ちる。シオンで、主は布告された/祝福と、とこしえの命を。

テサロニケの信徒への手紙一4章9--10

【1.愛がないと。】

(スキット:持ち物をめぐる争い)

先のふたりの間の会話と行動を見てどう感じましたか。びっくりしたでしょう。恥ずかしかったでしょう。気持ちがわるかったでしょう。

これはスキットに過ぎませんでしたが、残念ながら、日常生活ではこのようなことが繰り返して起こっています。家庭とか会社とか学校の中で似ている問題が起こっています。我が家では下の二人の子供の間では、本当につまらないことで争いがしばしば起こっています。「兄弟喧嘩」と呼ばれていますね。大人は子供よりコントロールができますから目立つ程の喧嘩にならない場合が多いですが、心のレベルでの戦いは態度や言葉使いなどによって起こります。

先のスキットのように、心の感情が外に出ると大変な経験になります。喧嘩の姿がばれるといやな気持ちがしますね。

教会のなかでも愛がないと本当に辛いです。メンバーに傷つけられたり、外への証のつまずきになります。そうならないようにパウロの言葉に聞きましょう。パウロは兄弟愛について語っています。

2006年10月01日 | カテゴリー: エフェソの信徒への手紙 , ガラテヤの信徒への手紙 , コリントの信徒への手紙一 , テサロニケの信徒への手紙一 , テトスへの手紙 , マルコによる福音書 , ヨハネによる福音書 , ヨハネの手紙一 , ルカによる福音書 , ローマの信徒への手紙 , 新約聖書 , 旧約聖書 , 詩篇

主イエスを怒らせる事 ウイリアム・モーア

マルコによる福音書11:12−19

【イエスの御性格と怒り】
私達は神の御子イエス・キリストを考えるとき、どんなイメージが心に浮かぶでしょうか。先ず、愛を説いた優しい人物である事を思い出します。例えば、小さい子供達を抱いて、彼らを祝福しました。また、主は数えきれない病人を憐れんで癒して下さいました。そして、主は許しを大事にして、「あなたがたの中で罪を犯した事のない者が、先ず、この女に石を投げなさい」と言われました。更にイエスは全ての侮辱に耐えて、復讐する気持ちがちっともありませんでした。実に、主は御自分の敵の為に命を捨てて下さいました。しかし、今日の御言葉を聞くと驚きます。確かに、今日の個所はちょっと変わっていると思います。何故なら、主イエス・キリストがいちじくの木を呪った事と神殿から商人を追い出した事は御自分の性格にあんまり合わない行動に見えるからです。 今日、与えられた御言葉は二つの出来事を語ります。先ず、主イエスは実らないいちじくの木を呪って、その木が枯れてしまいました。そして、それから主はエルサレムにある神殿へ行って、境内で商売をする商人と両替人を神殿から追い出して、その腰掛けをひっくり返しました。いくら言っても今日の個所は主の怒りをはっきりと現します。実は、その時、イエスはいきどうりに燃えていました。

ここでは問題点がありそうですね。と言うのは、怒りは罪ではありませんか。しかし、聖書の証によりますと、イエス・キリストは罪を一つも犯されないお方です。その故こそ主は私達の罪を償う事が出来ました。この矛盾した点についてどう解釈しますか。恐らくその道は怒りの正しい理解にあります。

【悪に対する怒り】
あるクリスチャン心理学者は怒りについてこのように書きました。「悪に対して怒りを感じられない人は実際に善について熱意があんまりありません。悪と不正を憎まない者は、正義の為の愛が疑わしいです。」その言明はエフェソの信徒への手紙にあるこの御言葉をよく説明すると思います。その御言葉は、

「怒ることがあっても、罪を犯してはなりません。」(エフェソ5:26)。

つまり、自己中心的怒りはいつも罪です。怒る事を通して自分の立場と権威を守る為であるなら、それは悪です。癇癪を起こす事や、怒りを持って下品な言葉を言う事や、個人攻撃と脅しなどはいつも罪です。しかし、私達は悪と罪と不正に対して怒りを感じるべきです。そうしないと、神の正義が分からなくなります。

2006年08月06日 | カテゴリー: エフェソの信徒への手紙 , マルコによる福音書 , 新約聖書

十字架からの御言葉(その7):「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」ウイリアム・モーア

ルカによる福音書23章44-24章12

【イースター】
御存じのように今日はイースターです。今日、私達と全世界の教会は神の御子イエス・キリストの復活を祝い、主を死から蘇らさせた父なる神を讃美し、誉めたたえます。実は、その初めのイースターで起こった事は私達の信仰に最も重要な素晴しい出来事になります。何故なら、復活を通して全能の神はイエス・キリストがなさった事と言われた事を承認されたことの保証になるからです。主イエスの約束と教え、そして、最も大事な御自身与える救いは本当である事が復活を通して証明されました。その事が本当でなければ、真理の源、唯一の神は決して主イエスを蘇せるはずがなかったのです。ですから、私達は今日、復活の印と勝利を心から記念し、お祝いします。

【十字架上の七番目の発言】
今日、イースターの出来事がもっと深く分るようにイエス・キリストの十字架からの最後の御言葉を学びたいと思います。主イエスは十字架から七つの発言をなさいました。そして、今までその貴重な御言葉を通して私達はイエス・キリストについて重要な事を学んで来ました。私達罪人の為の御自身の赦しと愛と救い。また、十字架につけられた主の霊的と肉体的苦しみは私達の唯一の贖いになった事も学びました。そして、今日の最後の御言葉を通して、イエス・キリストの復活の信仰が分って来ます。今日与えられた聖書の個所によりますと、

「イエスは大声で叫ばれた。『父よ、私の霊を御手にゆだねます。』こう言って息を引き取られた」

と記されています。

「父よ、私の霊を御手にゆだねます。」

実はイエスはここで詩編を引用して発言なさいました。 詩編第31編6節にこの御言葉が書いてあります。

「まことの神、主よ、御手に私の霊をゆだねます。」

これはダビデの詩です。ダビデは敵によって苦しめられ、また、友人に見捨てられた大変困難な時、この信仰を告白しました。

「まことの神、主よ、御手に私の霊をゆだねます。」

そして、十字架で死ぬ直前に主イエスは最期の言葉として同じ信仰を告白しました。皆が聞こえるように大声で叫びました。

「父よ、私の霊を御手にゆだねます。」

2006年04月16日 | カテゴリー: エフェソの信徒への手紙 , ルカによる福音書 , 新約聖書

世の光であるイエス・キリスト ウイリアム・モーア

ヨハネによる福音書9章1--11

【ひと間違い】
このような経験がありますか。遠くから人を見て、その人が知人だと思って手を振りました。そして、挨拶しに近づくと、その人は実は全く知らない人でした。恥ずかしいですね。または、電話の声で相手を「なになにさん」だと思って、直ぐ会話を始めましたが、一分、二分しゃべると、実は相手が違う人だと気付きました。それも恥ずかしいですね。

この間の話ですが、家に電話がかかってきました。電話を取ると、「Hey, what's up?」つまり、「おい、どうしてる」と言う声が聞こえました。ちょっと可笑しい挨拶だなと思ったんですが、声がアメリカにいる長男らしいので、色んな話に入りました。しかし、突然、相手が、「Who are you?」つまり、「あなたは誰ですか」と私に聞きました。その瞬間ピンと来ました。相手は実は次男の友人で、ポールと話したかったんですが、私の声をポールと間違えたようでした。その事件は家で大笑いになりました。

【相手の身元を知る】
相手の身元を知るのは大切な事です。それが分らなかったら、相手と話す事さえも難しいです。どんな身分や、何処の人などが不明の場合は、その人と関係を結ぶのはなかなか難しいです。その反面、相手の身元が十分分かると、適当な関係を持つ事が出来ます。だからこそ、初めて人に会う時、よく名刺を交換します。名刺を見たら、相手の身元が分かって、適切に扱う事が出来ます。

【イエス・キリストの身元】
同じようにイエス・キリストの身元もちゃんと分かった方が良いと思います。主イエスは世界歴史の一番重要な人物だし、今も主の教えはキリスト教信徒だけではなく、社会にも大きな影響を与えて来ました。

さて、イエス・キリストはいったい誰ですか。どんな役割を果たしましたか。そう、その事が分かるには、先ずイエス・キリストが御自分について何と言われたかを調べるのが良いと思います。すなわち、もしイエス・キリストに名刺があたら御自分について何と書いたのでしょうか。

2006年01月15日 | カテゴリー: エフェソの信徒への手紙 , ヨハネによる福音書 , 新約聖書

賢い者として新年を歩みましょう ウイリアム・モーア

エフェソの信徒への手紙5章15-17

讃美歌 15

【評判の良くない兄弟】

ある町に二人の兄弟がいました。その二人は双子のようにとても仲良く、いつも何でも共にしました。兄弟の仲は良いですけれども、町での評判はあんまり良くありませんでした。飲み過ぎて人と喧嘩したり、乱暴な言葉をよく吐きました。そして彼等はお金があったのにも係らず、あちこちで勘定をためて、なかなか払いませんでした。更に、自分の会社の従業員を厳しく扱いましたので、皆に嫌われていました。

ある日、兄弟の一人が急に病気で亡くなりました。そして、残った一人は町の教会へ行ってお葬式の為に牧師と相談しに訪ねました。彼は、牧師に一つ頼みがあると言いました。それは「お葬式の時、是非兄を『聖人』と呼んで欲しい。そうすると、家族に大きな慰めになるから」と頼みました。牧師は、「それはちょっと難しいですよ。町の人は皆、お兄さんの事をよく知っていますから、『聖人』と呼んだら笑われるかもしれません。しかし、弟は願い続けて、「お願いだ。お葬式の時、兄を聖人と呼んで下さい。そうすれば、教会に$1、000献金します」と約束しました。

仕方なく、牧師はお葬式の時、そうする事にしました。そして、お葬式の際、牧師は立ち上がって、皆の前でこのようにお話をしました。「故人は乱暴で、長い間我々の町に迷惑ばかり掛けました。その上、勘定も沢山残して亡くなりました。しかし、とても嬉しい事ですが、故人について少なくとも一つの良い事を言えると思います。それは、弟さんに比べると故人は本当に聖人だったと正直に言えます。」

2006年01月01日 | カテゴリー: エフェソの信徒への手紙 , 新約聖書 , 旧約聖書 , 詩篇