コヘレトの言葉

「神はおられるのか」 淀川キリスト教病院伝道部長田村英典牧師

淀川キリスト教病院伝道部長田村英典牧師


聖書:ヨハネ福音書1章14~18

14:言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。15:ヨハネは、この方について証しをし、声を張り上げて言った。「『わたしの後から来られる方は、わたしより優れている。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のこ とである。」 16:わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。17:律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。  18:いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。  


【神はおられるのか?】
今朝は、神はおられるのか、という根本的なことをお話させていただきたいと思います。
一体、この天地万物を無から造られ、今も一切を導いておられる永遠者、また絶対者なる真の神はおられるのでしょうか。私は、20歳の時クリスチャンになりましたが、その前はこのことでかなり迷いました。もし神が本当におられるのなら、神を信じ、神に従うのは当然のことであり、何ら特別なことではありません。
 
しかし、神が存在しないのなら、そういったことは全くナンセンスです。存在もしないのに、存在するかのように信じて生きること程、愚かで馬鹿げたことはありません。ではどちらなのでしょうか。どちらでもないということは、あり得ません。必ず、どちらかなのです。しかし、それが分らず、かつては私も随分迷いました。
 
いずれにせよ、これは私たちの生きる意味や目的とも関係し、また私たちが死んだ後、どうなるのかということにも関る重大なことです。
そこで幾つかの点から見てみたいと思います。

2009年10月25日 | カテゴリー: コヘレトの言葉 , ヨハネによる福音書 , ローマの信徒への手紙 , 使徒言行録 , 新約聖書 , 旧約聖書 , 詩篇

主イエスの食べ物 ウイリアム・モーア宣教師

ヨハネによる福音書4章27−42

27:ちょうどそのとき、弟子たちが帰って来て、イエスが女の人と話をしておられるのに驚いた。しかし、「何か御用ですか」とか、「何をこの人と話しておられるのですか」と言う者はいなかった。28:女は、水がめをそこに置いたまま町に行き、人々に言った。29:「さあ、見に来てください。わたしが行ったことをすべて、言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかもしれません。」 30:人々は町を出て、イエスのもとへやって来た。 31:その間に、弟子たちが「ラビ、食事をどうぞ」と勧めると、32:イエスは、「わたしにはあなたがたの知らない食べ物がある」と言われた。 33:弟子たちは、「だれかが食べ物を持って来たのだろうか」と互いに言った。 34:イエスは言われた。「わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしにな    った方の御心を行い、その業を成し遂げることである。35:あなたがたは、『刈り入れまでまだ四か月もある』と言っているではないか。わたしは言っておく。目を上げて畑を見るがよい。色づいて刈り入れを待っている。既に、36:刈り入れる人は報酬を受け、永遠の命に至る実を集めている。こうして、種を蒔く人も刈る人も、共に喜ぶのである。37:そこで、『一人が種を蒔き、別の人が刈り入れる』ということわざのとおりになる。38:あなたがたが自分では労苦しなかったものを刈り入れるために、わたしはあなたがたを遣わした。他の人々が労苦し、あなたがたはその労苦の実りにあずかっている。」39:さて、その町の多くのサマリア人は、「この方が、わたしの行ったことをすべて言い当てました」と証言した女の言葉によって、イエスを信じた。40:そこで、このサマリア人たちはイエスのもとにやって来て、自分たちのところにとどまるようにと頼んだ。イエスは、二日間そこに滞在された。41:そして、更に多くの人々が、イエスの言葉を聞いて信じた。42:彼らは女に言った。「わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。わたしたちは自分で聞いて、この方が本当    に世の救い主であると分かったからです。」

 
【主イエスの福音宣教】
今日の御言葉は主イエスと弟子達の旅での事件を語ります。主は出来るだけ沢山の人々に福音を伝える為、巡回伝道師の生活をしていて、 家と呼ぶ所がない程、常に移動しました。その時代、一般の人は旅をする時、歩いて行きました。ローマ帝国の役人やお金持ちなどは馬車か馬やロバに乗って旅をしましたが、平民は自分の足に頼らなければなりませんでした。
 
【サマリア人の町シカル】
今日の個所は、主が弟子達と共に都エルサレムから出身地のガリラヤ地方までの約120キロの旅中の事件を記録しています。彼等はお昼頃、シカルと言う町に着いて、そこで食事を食べ、旅の疲れから少し休もうとしました。ところで、シカルはサマリア地方の町でした。そこに住むサマリア人はユダヤ人から軽蔑され、長年お互いの恨みをいだいてしまいました。その理由はおもに宗教上でした。

2008年04月20日 | カテゴリー: コヘレトの言葉 , 旧約聖書

「落ち着いた生活」グラハム・スミスKGK主事/CMS宣教師

聖書:1テサロニケ4章11−12節、2テサロニケ3章6−13節
 
1.イントロダクション:聖書は日常生活の指南書
今日はテサロニケの信徒への手紙から神様のみことばに耳を傾けようとしています。みことばに対してどんな期待を持って聞くでしょうか。多くの人々にとって聖書は日常生活と関係が全くないものです。聖書に触れたことがないからです。聖書を読んだことがない人が多いです。
 
読みたくない理由をあげると古い本で、わかりにくい言葉と内容があるからだと言われます。それは確かにそうですが、聖書は日常生活と関係がないという意見は誤解です。聖書は創造者なる神様から出た言葉ですから、人間のすべてに語られているものです。人生の大きなテーマ(人間存在や生ける意味など)だけではなく、細かいテーマまで語られています。
 
例えば、セックスについてとか家庭やお金や言葉使いや環境や健康や人間関係などのテーマに言及します。今日の箇所でも重要なテーマが出てきます。「仕事」というテーマです。11節に簡単に語られています、

「自分の仕事に励み、自分の手で働くように務めなさい」。

2006年11月05日 | カテゴリー: コヘレトの言葉 , テサロニケの信徒への手紙一 , 新約聖書 , 旧約聖書 , 箴言

「悲しむ人々は幸いである」 田村英典牧師/淀川キリスト教病院伝道部長

聖書:マタイ5章4節「悲しむ人々は幸いである。その人たちは慰められる。」

【悲しむ人々は幸いである】
今朝は、イエスの語られた山上の説教の冒頭の「幸福の教え」の二つ目に進みます。4節「悲しむ人々は幸いである。その人たちは慰められる。」

ここですぐ疑問が湧いてきます。「ちょっと待ってほしい。悲しみは不幸以外の何ものでもないではないか。何故こんなことが言えるのか。」恐らく誰もがこういう疑問を抱くと思います。

「悲しむ人々は幸い。」この逆説はどういうことでしょうか。イエスはどういう意味でこう言われるのでしょうか。

最初に一つのことを確認しておきます。イエスは悲しむ人の誰もがこうだと言われるのではありません。前回も申し上げましたが、ここの教えは皆、イエスを神の御子、また私たち人間を罪と永遠の滅びから救うことのできる、ただ一人の救い主と心から信じる真の信仰者、真のクリスチャンの幸いな特徴、特質を八つの角度から描いたものです。これはクリスチャンでない人たちを締め出すというのではありません。ただ、真のクリスチャンとはどういう人で、どういうことが真に幸いか、ということです。

次のような誤解もあります。これは世間にしばしば見られ、クリスチャンですら時に誤解しているものです。つまり、クリスチャンはいつも笑顔で明るいというものです。成程、教会へ行くと皆明るい。笑顔で挨拶し、爽やかな印象を与えます。「私はクリスチャンだから、人につまずきを与える苦しそうな暗い顔をしてはいけない。明るくなくては」と思って努力する人もいます。中には、常に明るいことを自分のトレードマークとし、他のクリスチャンにもそれを要求する人もいます。これでは、クリスチャンは悩んではならず、悲しむことはキリスト教信仰と相容れないみたいです。

2006年09月17日 | カテゴリー: コヘレトの言葉 , コリントの信徒への手紙一 , マタイによる福音書 , ヨハネによる福音書 , ローマの信徒への手紙 , 新約聖書 , 旧約聖書 , 詩篇