旧約聖書

2014年1月5日説教「神は私の目を開いてくださる」金田幸男牧師

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2014年1月5日説教「主はわたしの目を開いてくださる」金田幸男牧師

聖書:旧約聖書、詩編1461 ハレルヤ。わたしの魂よ、主を賛美せよ。

2 命のある限り、わたしは主を賛美し/長らえる限り/わたしの神にほめ歌をうたおう。

3 君侯に依り頼んではならない。人間には救う力はない。

4 霊が人間を去れば/人間は自分の属する土に帰り/その日、彼の思いも滅びる。

5 いかに幸いなことか/ヤコブの神を助けと頼み/主なるその神を待ち望む人

6 天地を造り/海とその中にあるすべてのものを造られた神を。とこしえにまことを守られる主は

7 虐げられている人のために裁きをし/飢えている人にパンをお与えになる。主は捕われ人を解き放ち8 主は見えない人の目を開き/主はうずくまっている人を起こされる。主は従う人を愛し

9 主は寄留の民を守り/みなしごとやもめを励まされる。しかし主は、逆らう者の道をくつがえされる。

10 主はとこしえに王。シオンよ、あなたの神は代々に王。ハレルヤ。

 

参照:ヨハネ福音書9章1~12節

 

要旨 

【ハレルヤ詩編集】 

詩編146から150までは、ハレルヤという言葉で始まる、まとまった部分で、ハレルヤ詩編集と分類されています。そのほかにハレルヤ詩編集は三つあり、113-118(エジプト・ハレルヤ集)、120-136(大ハレルヤ詩編集)となっています。

なお、111と112もハレルヤという言葉が含まれていますが、省かれています。「ハレルヤ」はヘブライ語で、聖書がギリシヤ誤訳されたときでも翻訳されず、原語のまま残されました。アーメンとか、インマヌエルという語もそうです。翻訳されなかったのは、ギリシヤ語に変えてしまえば語彙が持っている意味と音の響きの結合が失われると思われたからではないかと思います。音の響きが宗教生活において聞きなれていたせいかもしれません。「ハレルヤ」とは「主を賛美せよ」という意味です。神賛美に促す歌です。

 

【人生の中で最も重要な営みとは?】

 ところで、人生の中で最も重要な営みは何であるか考えます。あまり深くこんなことを考えたことがないかもしれません。人間が人間である最も根本的な行為、生き方は何か。

ただ食べたり、飲んだりだけの、いわば本能に従って生きているだけではどうなのでしょうか。人間の格好はしているでしょうけれど人間らしい生き方とはいえません.

人間とは何か。人間が人間であるためには何が決め手なのか。現在は人間と人間でないものの境界があいまいでぼんやりしてきている時代になったのではないでしょうか。

しかし、私たちは人間です。人間が人間であることの特質とは何か。有名な哲学者は「人間は考える葦だ」といいました。思惟すること、思索すること人間の固有性を保証するというのです。わたしは、意図して意識的に礼拝する人間、これこそ他の被造物と区別される特色ではないかと思います。人間とは礼拝する存在です。

 

【牧師として】

 わたしは牧師として教会で40年以上礼拝のために奉仕をしてきました。牧師としていったい今まで何をしてきたのかと思います。説教を1万回くらいしてきました(1年に250回以上説教をしたら。たぶんそれ以上やっていると思います)。葬儀や結婚式の司式を何度かやってきました。

 

成果はともかく、伝道、牧会も精一杯しました。信徒の世話も何とかやってきました。でもわたしは牧師として一番力をこめたのは何であったのか。礼拝の遵守、特に主の日を礼拝の日とするために労してきたと思わざるを得ません。

 

【神礼拝】

礼拝は、人生の中で最も基本的で肝心な営みです。そのことに奉仕的たことは光栄でありました。思い通りの理想的な礼拝を守れたわけではありません。礼拝出席者を増やすこと、安息日厳守を訓練すること、充実した喜びに満ちた礼拝を守ること。こういうことを列挙するとわたしは恥ずかしくなります。でも、わたし自身、人生の下部構造として、40年以上、信徒が礼拝を守るために奉仕をしてきました。

 礼拝なしの人生は宗教のない人生です。礼拝なしの人生とは神なしの人生です。現代人は自己責任を強調されて生きています。神などなくして、自分の決断、判断で行動し、その結果責任は当人が負うというものです。

しかし、神なしに、自分の力だけで生きていく人生は、いつも恐怖と不安に付きまとわれます。特に、私たちは老いてついには死んでいかねばなりません。誰かが看取ってくれていても一人で死ぬほかはありません。充実した人生も一寸先の将来は見えません。先がどうなるか分からない人生は不安に付きまとわれます。不明の将来に突進する人生に耐えられる人はいません。

神を礼拝するということは、そのような宗教なき人生、神なき人生の対極にある生き方です。私たちは何か分けが分からない相手を拝んだり礼拝したりしたりしているのではありません。神がどうのようなお方であるかを知るからこそ確信して礼拝できます。

 

【礼拝とは】

 礼拝とは何か、改めて考えます。ある人は説教を聞くことと思っています。ある人はミサ儀礼のような儀式(プロテスタントでは聖餐)にあずかることと思っています。ある人は祈りに行くことだと思っています。ある人信徒同士の交わりに参加することと考えています。これらは間違いではありませんが礼拝の一面を見ているだけです。

礼拝の中で肝心な部分を占めているのは賛美です。賛美は礼拝の業の中で筆頭を占めていると考えることは間違っていません。神を賛美することのない礼拝は人間中心の、人間が工夫している儀式に終わります。

 礼拝とは賛美することと定義できます。賛美のない礼拝はありえます。聖書研究、聖書講義だけの礼拝もありえます。儀式、香をたいたり、ともし火を挙げたりする行為を伴う恭しい礼拝もあります。集まって祈っているだけの礼拝もありえます。

でも、それだけではあまりにも単純、無味乾燥した礼拝であるといってもよろしいでしょう。賛美なしの礼拝は考えられません。礼拝において、私たちは賛美します。ハレルヤと神に叫びます。

ただ、わたしたちの教会の礼拝においての賛美の営みは、賛美歌を歌うことによります。ですから、礼拝の奏楽者の役割は決して小さいものではありません。会衆の歌はとても価値があります。

そして、賛美は祈りの重要な要素です。私たちはまず賛美から祈りを始めるのが普通です。

さらに、説教の中でも神が賛美されますし、賛美に促されます。賛美は礼拝の中で重層的に行われます。礼拝は賛美そのものでもあります。

 

礼拝は神をほめたたえることです。ではどのようにして私たちは神を心から賛美できるのでしょうか。相手も分からないままに真実な礼拝はできません。漠然と何かを礼拝しているか分からないままにただの恐れから礼拝することもありえます。ありがたい,霊験あらたかな神的なものに礼拝を捧げているのです。それは礼拝には違いありませんが、相手がどういう言う方であるか知って礼拝することと、相手も分からないで礼拝することは全く特質が異なります。

 

【礼拝の対象】

礼拝は礼拝する相手を深く知る機会でもあります。礼拝において、神を正しく賛美できるのは、この詩編の作者が教えてくれています。礼拝とは、つまり賛美とは、一生の営みです(2節)。気が向いたときとか人生のわずかの時間だけ礼拝するべきではありません。礼拝となると、いのちのある限りでなければなりません。礼拝は長時間であればいいというのではありませんが、礼拝は人生の中で繰り返されるとき、私たちは神を深く知り、神がどういうことをなされるか分かります。

礼拝なしに宗教なし、信仰なし、そして神なしと行っても過言ではありません。礼拝なしの年限が多くなってきたこの時代は神をもたない人が圧倒的に多くなってきたことを示します。それが時代の風潮だと決め付けることはできません。神なしの人生こそ最も不幸なことなのです(5節)。

  

【君侯に頼るな】

どうすれば、私たちは心から神を賛美できるでしょうか。この詩編は二つのことを教えています。ひとつは人間に賛美を帰すべきではないということです(3-4節)。君侯は古代世界では権力の保持者でした。君侯が国民に平和と繁栄をもたらすと信じられていました。君侯、つまり政治や、政治の仕組みが人間の魂を救うとまで期待されています。何でもかんでも政府の力が頼りです。私たちは人生のさまざまな局面で制度や体制が安心を与えてくれると思っています。

しかし、私たちは経験上それらが本当に頼りにならないことを知っています。究極的には政治の仕組み、福祉政策が人間の幸福を保証しません。時代と共に変化します。そして、頼りになりません。

人間は、その中に自分も含まれていますが、所詮、土から造られた人間は土に帰るだけです。そのようなものに頼れない、これは地上的もの、人間的なものに信をおけない以上は、それらを賛美などできないという結論に導かれます。神賛美に向かわざるを得ません。

 だから、人間的なものの救いを断念すれば、神に賛美を向けざるを得ません。その神はどういうことをされたのか。7節以下に列挙されています。                                                                                      

      ①   虐待されている人に正当なさばき、正義に基づく裁判を行われます。人間の裁判には間違いがあります。人間の判断には不正があります。神はそうではありません。

      ②   神はその人間として最も基本的な生の糧を用意されるかたです。

       ③   捕虜を解放されます。戦争捕虜だけではなく、私たちを縛り付けているものは多くあります。そのために不自由な目にあっています。

私たちは多くの欲望、願望に縛られ、人間関係に縛り付けられています。ある人は運命や宿命に縛られていてがんじがらめとなっています。主はあらゆることの解放者です。

見えないの目を空けてくださる方です。私たちは見えるべきものも見ていません。特に真実が見えていません。見えなければ闇に住んでいます。神は私たちに真理の光を提供してくださいます。

   うずくまり、打ちのめされ、打ちひしがれている人がいます。立ち上がることができず、苦悩のどん底に呻いている人がいますが、主は立ち上がらせてくださいます。

   社会的に弱者といわれている人は不当な扱いを受けてきています。しかし、神は寄留の外国人、孤児や寡婦を豊かに守られます。神は大王であって、ここで列記されていることを実現することができる方です。

 

しかし、ここに書かれているような神を体験できなく、それどころか神の助けを期待できない目に遭うものです。私たちの人生は不幸と不運に見舞われます。そのような時、とても神を賛美できない心境になるものです。神に恨みでも言いたくなるかもしれません。

そのとき礼拝から遠ざかるのではなく、礼拝においてますます神を知る、神がどういうことをして下さるかを知り、その真実を信じます。

信仰から、たとえ失望のどん底にあっても神を礼拝して、神を知ります。その神を信じます。この循環、つまり、礼拝、信仰、賛美、礼拝、信仰、賛美を繰り返すときに、私たちの礼拝は喜びと幸いの源泉となるでしょう。(おわり)




2014年01月05日 | カテゴリー: ヨハネによる福音書 , 新約聖書 , 旧約聖書 , 詩篇

2013年12月8日説教「落ち着いて静かにしていられるために」赤石純也牧師

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マタイによる福音書1章18~23節

イザヤ書7章1~14節
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2,013128日.説教「落ち着いて静かにしていられるために」伊丹教会赤石純也牧師 


新約聖書:マタイによる福音書118 イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。

19 夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。

20 このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。21 マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」

22 このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。

23 「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。                              

 

説教(天野千尋子姉、内田いさ姉受洗記念説教)  

【処女が妊って男の子を産む、その名はインマヌエル】

今日お読みしたところはよく知られているクリスマスの箇所ですけれども、今日は思い切ってこの23節のみ言葉のみに集中したいと思います。

23 「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。                              

 

つまりどうしてこのクリスマスにキリストがお生まれになったか。何故ここに23節のみ言葉が引用されているかと言うことですね。「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」

 

どうして旧約聖書のこの言葉を新約聖書は引用したかと言うことの意味を今日はハッキリさせたいと思います。ここにクリスマスの意味が非常に明確な言葉で書かれているからです。

 

【イザヤの預言】

そこで今日はこの新約聖書のページを離れて元々の旧約聖書の箇所であるイザヤ書7章に移りたいと思います。7章の1節ですから14節をお読みしましょう。

イザヤ書71 ユダの王ウジヤの孫であり、ヨタムの子であるアハズの治世のことである。アラムの王レツィンとレマルヤの子、イスラエルの王ペカが、エルサレムを攻めるため上って来たが、攻撃を仕掛けることはできなかった。

2 しかし、アラムがエフライムと同盟したという知らせは、ダビデの家に伝えられ、王の心も民の心も、森の木々が風に揺れ動くように動揺した。

3 主はイザヤに言われた。「あなたは息子のシェアル・ヤシュブと共に出て行って、布さらしの野に至る大通りに沿う、上貯水池からの水路の外れでアハズに会い、彼に言いなさい。落ち着いて、静かにしていなさい。恐れることはない。アラムを率いるレツィンとレマルヤの子が激しても、この二つの燃え残ってくすぶる切り株のゆえに心を弱くしてはならない。

5 アラムがエフライムとレマルヤの子を語らって、あなたに対して災いを謀り、6 『ユダに攻め上って脅かし、我々に従わせ、タベアルの子をそこに王として即位させよう』と言っているが、7 主なる神はこう言われる。それは実現せず、成就しない。

8 アラムの頭はダマスコ、ダマスコの頭はレツィン。(六十五年たてばエフライムの民は消滅する)エフライムの頭はサマリア/サマリアの頭はレマルヤの子。信じなければ、あなたがたは確かにされない。」

10 主は更にアハズに向かって言われた。11 「主なるあなたの神に、しるしを求めよ。深く陰府の方に、あるいは高く天の方に。」

12 しかし、アハズは言った。「わたしは求めない。主を試すようなことはしない。」

13 イザヤは言った。「ダビデの家よ聞け。あなたたちは人間に/もどかしい思いをさせるだけでは足りず/わたしの神にも、もどかしい思いをさせるのか。

14 それゆえ、わたしの主が御自ら/あなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み/その名をインマヌエルと呼ぶ。

 

今日はこの箇所から説教をしましょう。一読してもなんだか分かりづらいですね。歴史上の人の名前だとか国の名前が出てまいります。

今日は思い切って過去の歴史の国の名前や王様の名前を考えずに、込められているメッセージだけを取り出したいと思います。ここに込められている意味は何なのか、そのことだけをはっきりさせたいと思います。

 

【木々が風にゆれ動くように動揺した】

まずは歴史の事件は置いておいて今どういう状況なのかを見ていきたいと思います。7章の2節あたりをご覧ください。どこかの国とどっかの国が同盟し、そういう報がユダの王に届きました。その時にこう書いてあります、「王の心も民の心も森の木々が風にゆれ動くように動揺した」。

 

聖書の中でも珍しい見事な比喩、聖書の中にこんな文章があるんですね。森の木々が風に揺らぐように動揺した。いま民の心も王の心も動揺している時だと思います。風に揺れ動くように私たちの心が揺れ動くときを想像して頂きたいと思います。その時に何が言われるかということですね。

 

【深く陰府に、あるいは高く天に】

動揺している王様に主は言われた。何を言われたか。4「主なるあなたの神に印を求めよ。深く陰府のほうに、あるいは高く、天のほうに」、どっちなのでしょうか。高いんでしょうか、深いんでしょうか、どちらにしても今のあなたの立っている場所でなく、別の次元で神の答えを求めよ。神の印を求めてみよと言われます。

 

10節の頭で主はさらにアハズ王に向かって言われた。動揺しているこの王様に向かって預言者イザヤを通して言われたのです。私たちで言えば説教を通して神は私たちに何かを問われる。その時に今なんと言われたかというと「神に印を求めてみよ。高いか、深いか、いずれにしても今のあなたの立ち位置でなく、別の次元から神がお答えになるから、その神に求めてみよ」と言われています。

動揺している民たち、王たちという事は、今あなたの問題や悩みがあるでしょう。あなたの身の回りに具体的な問題があるでしょう。だからあなたの心は森の木々が風に揺れ動くように動揺する。その時に説教を聞いて別の次元で答えてくださる神に求めてみよ、いうことが言われています。

私たちがそれぞれの生活、事情、身の回りの事柄がありますが、そういう中で心が揺れ動く、私たちは自分の立ち位置であれこれ悩むしかありませんけれども、今言われる事は神に求めてみよ。その時に今のあなたが立っているその立ち位置から違った次元から神の答えが与えられる。それは説教の中で与えられる。こんな状況なんですね。

 

【あなたは神にも、もどかしい思いをさせる】

それに対して王様はなんと言うでしょうか。12節をご覧下さい。「私は求めない。主を試すようなことはしない」。何かもっともらしいですね。神様はそんな試してみてもいいような方ではない、こんなもっともらしいことを言っている。今自分の心はゆれ動いているけれども、こんなささいな問題で神様を試すなんて、そんな事を私は求めない、そんな風にずいぶん強がっている感じですね。

それに対してイザヤと言う預言者の説教の最後の言葉、結論が13節です。「よく聞け、あなたは神にも、もどかしい思いをさせている」こういうのですね、今のあなたの現実の問題がある、その中であなたは強がって神様に求めたりしない、そのような強がりは実は神にもどかしい思いをさせているのだ。聖書はこう言うのですね。

 

どうやら神様は私たち一人ひとりがいろんな出来事の中で、心が揺れ動く時に、もう助けようと思って待ち構えていてくださる方なんでしょうね。

 

【信仰以前の自分】

それなのに私たちは何か強がっている。尤もらしいことを言う。心は本当に揺れ動いているのに神様には頼られない。こんなふうに思っているようですね。私にも覚えがありますけれども私たちは誰しも信仰というものに入る前は皆こうだったんじゃないでしょうか。

 

神様に求めるなんて私は私で頑張る。身の回りにいろんな問題がある、悩みがあるけれどもそんな風に言って私たちは誰しも信仰より前の時代と言うものに覚えがあるわけです。

 

【不確かな自分】

そのことは実は神様には、もどかしいことだと言われているんですね。9節の最後をみてください。「信じなければあなた方は確かにされない」

今私たちにはこの言葉がよく分かると思います。かって信じていなかった自分が、どれほど確かでなかったか。

 

それに比べて今は神様に求め、身の回りのどんな出来事もその解決を神様に求める、神様を信じていいんだ。そういう信仰生活に入っている時に、やっぱり私たちは誰しも、確かさというものを感じることができる。それは自分には無いはずの確かさなんですね。信じなければ私たちは確かにされないのです。今日、天野さんとイサさんが信じるという告白を神と教会の前にされました。

 

今日からお二人は確かにされたと言ってよいのであります。身の回りの色々なことに心を揺れ動かすような出来事がありますが神に頼ることができる、信じて行くことができる。信じなければあれこれ思い悩むだけではないですか。

だけど今日からお二人は信じていい、他には無い確かな生活をこれから立てて行くことと思います。

 

【信仰生活の長い者も】

皆さんの多くの方々はずっと信仰生活をされています。けれども私たち長く信仰生活を送ってきた者たちでもやっぱり心が揺れ動くという事は毎日の生活の中でも出てきます。

しかも信仰を与えられた後も私たちの内にはどこか強がっている信仰があるということがありうると思います。

 

あるいは先の王様のように尤もらしいことを言うだけで本当は心は様々に揺れ動いている。「神様を試すようなことをしない」こんな風に尤もらしい事を言っている態度では、やっぱり神様は遠くにいることになってしまう。

そして神様はそんな風に強がっている私たちのことをもどかしく思っておられるかもしれません。

 

【様々に揺れ動くわたしたち】

具体的な毎日の現実の中で私たちの心は当然様々に揺れ動きます。そういう全く身近な悩みの中でそのまま私たちが神様に向かわないなら、それは神様にはもどかしいことなんだ。

そういうとき私たちは実は「確かにされていないんだ」ということが言えそうです。

わが身を振り返ってみると確かにそうだと言えそうです。だとすればすでに何10年も前に洗礼を受けた私たちも、そして今日洗礼を受けられたお二人も、なお現実の生活の中で様々なことがあるわけです。心が動揺するわけですね。

天野さんもイサさんも、私たちも含めて私たちを確かで無くするいろんなことが、やっぱり起こってくる。いろんな試練というものがあるでしょう。人には言えない、人には共有できない自分の問題というものがあるでしょう。

あるいは身内の死ということだって起こりますね、最終的には自分の死と言うものが近づいてきますね。そんな時に私たちの心が揺れ動いて当然ではないですか。

 

【主は共におられる】

私たちは確かな心でいられなくなるのが当然ではないですか。そういう時、実は神様はいつも待っておられるのですね。

信じなければあなた方は確かにされない。心の動揺を抱えたまま神様に求めるという事を私たちはいつもやり直していいんですね。

そしてこのクリスマスのような機会にこそ私たちはもう一度自分の問題というものをはっきり見据えてこの現実の中から神様に頼っているということを意識してきてみてよさそうですね。

その時、違う次元から自分が確かにされると言う事がもう一度起こる。こう言うんじゃないですか。14節。

 

イザヤ書714 それゆえ、わたしの主が御自ら/あなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み/その名をインマヌエルと呼ぶ。」すなわちイエス・キリストです。

 

先程イサさんと天野さんはこのイエス・キリストを信じますと誓約しました。この方のみを受け入れると誓約された。この誓約をもってお二人は確かにされた。イエス・キリストのことを「その名をインマヌエルと呼ぶ」と言ってますね。最初にお読みしたマタイの福音書がインマヌエルという意味を教えてくれましたね、「神は我々と共にいる」。

 

キリストによって神は我々と共におられる。これが「乙女が身ごもって男の子をクリスマスに産んだ」という意味です。

キリストを受け入れる、キリストを信じるという事は神を味方につけた、神が我々と共におられるということで、神様は遠くにおられるのではなく、遥か上に居られて、遠い空の下でその方を私たちはただ拝むんだ、そういうことでは無いのです。

神は我々と共におられる方だ。なんだかもっともらしいことを言って遠ざけてしまうお方では無いのです。もっともらしい信仰の言葉なんか言わなくていいんじゃないですか。

そんな風に神様を遠くに敬って、遠くから拝んでいるというのではなく、そんな信仰は私たちの信仰には無いんですね、神様はそんな神様でなくて、揺れ動くあなたの隣にいてくださる、来てくださっている神様です。それが「インマヌエル」、「我等と共におられる神」です。

 

【主はクリスマスに来たりたもう】

イエス・キリストを味方につけたのですから、あなたの具体的な問題の解決を求めていいのです。求めることができるのです。そのためのクリスマスだ。

そのためにこそ、いま現に悩んで心を迷わしているあなたのすぐ隣にまで降りて来てくださった。それがクリスマスなのだ。

そして今新たに思いもよらないような解決をいわば別次元からあなたに与えてくださるために主はクリスマスに生まれてくださった。

確かでなかったあなたに確かなあなたにされるためにクリスマスがある。

 

いかがでしょうか。今天野さんとイサさんはそういう確かさに入った。私たちはともどもにもう一度この確かさ帰って行く事が出来る、それがクリスマスだということが言えそうですね。

 

【落ち着いて静かにしていられるために】

最後にもう一つだけ4節の言葉を見ていただきたいと思います。

「落ち着いて静かにしてなさい」。今こんなふうにいわれてるこの人は落ち着いていることのできない状況にあった。静かにしていることができない状況にあった。何かその試練に襲われようとしていた時です。

どうしてその人は落ち着いてることができなかったでしょうか。静かにしていることができなかったでしょうか。それはさきほどの12節の言葉に現れています。

彼は言った「私は求めないし、試すようなことはしない」。こんなふうに強がっているから、神様に頼っていないから聖書の事柄が知識に終わっているからです。

だったら私たちのそのような信仰は神様にはもどかしいことですね。

私たちが聖書の解き明かしを礼拝ごとに聞いても、その聖書の言葉がただの知識に終わってしまって、そんなことを置いていて自分ひとりでそんなことに悩み強がっているなら、それは神様にはもどかしいことです。私たちはそんな風に自分で強がって神様に頼るるということをしないなら、私たちは落ち着いてることができません。悩みばかりのせわしないばかりの人生ではないですか。

 

次から次に問題が起こってくるではないですか。落ち着いていることなんかできませんよ。

私たちは本当は落ち着くことができる。落ち着いていいんですね。静かにしていていいんですね。あたふたしなくていい。

そういう確かさを、落ち着いていられる生活を、これが私たちに与えられた最大の恵みでないですか。そういう生活の中に今日天野さんとイサさんが加わってくれました。

これは全くクリスマスのシーズンにふさわしい。私はともどもに今年のクリスマスを喜ぶことができます。

繰り返します。クリスマスは私たちが強がることをやめて、そして真実に神様に頼るという事を、それによって「落ち着いて静かにしていることができる」ための祝いです。

せわしなく自分の悩みと戦い体調と戦い、また様々の試練と戦うだけであったら私たちの人生は忙しさと虚しさだけしか残らない。それでは生きた心地がしないからクリスマスが今年も来たのです。クリスマスにこそ私たちはもう一度本来の私たちの落ち着きを取り戻すことができる。

 

そのために「見よ。乙女が身ごもって男の子を産む」だのですね。

あっという間に2013年も終わりです。振り返ってみると今年も私たちにはそれぞれ揺れ動くことがあったと思います。

だからこそ今年もクリスマスがきた。私たちがもう一度「落ち着いて静かにして確かな自分というものを取り戻す」。そのために今年もクリスマスが巡ってきました。

 

【クリスマスに与えられたイエス・キリストとともに歩む】

確かに私たちはこのクリスマスにせっかく与えられたイエス・キリストと共に生きるものです。

この方に真実頼る私たち、それが落ち着いて静かにしていられる私たちなのですね。

これからだって来年も様々なことが起こると思います。

今年中にも色々な事が起こってくる。しかしその中にあって私たちは落ち着いて静かにしておれる。ゆったりとした心で静かにしていることができる。

不安な病があるでしょう。あるいはだんだん年齢を重ねて身内の死ということを味わい、また自分の死というものが思いよぎってきます。そんな時に私たちの強がりは何にもなりません。

強がっている限り私たちの心は森の木々が風に揺れ動くように動揺している。皆そうです。だからそれが「もどかしい」から神様はクリスマスを約束してくださった。その時を今私たちは過ごしているんですね。

 

皆さんの中にはまだ洗礼を受けておられない方もおられるでしょう。どうぞこの確かな生活にその方々にも入っていただきたいと思います。

安心して静かに落ち着いていられる、そのゆったりとした命の味わいという物を本当に味わっていただきたいと思います。どうぞ自分のことを例外だと思わないで、洗礼を受けていただきたい。

 

【光と確かな道を】

やはり光の道というものはあるのです。そしてこのクリスマスに私たちの光の道が確かに示されているのですね。

試練が、身内を襲う様々な事柄に、自分も向かっていかなければならない死という恐ろしさ、そんな物を前にして私たちは怖じ惑うばかり、心配ばかりです。

だけどここに別の次元から神様は本当の確かさというものをお与え下さった。この道を本当に見つめたいと思いますね。

そして私たちは皆、この道に入ることができるという、この道を共に安心して歩んでいくことができる。どうぞ皆さんお一人ももれなくこの道を、ともに歩みたいと思います。

 

その光の道を今日、天野さん、イサさんは歩きはじめられました。私たちもともどもに歩みを続けたいと思います。

 

【祈り】

お祈りしましょう。クリスマスは私たち一人一人にとって本当に喜ばしい命の祝祭です。

本当に安息できる生き方を、神様が今日、天野さんとイサさんお二人に与えてくださったことを心から感謝いたします。

これからも担っていくべき課題がお二人にはあると思いますが、私たちにも皆ありますけれども、どうぞそのような時に私たちは一人一人静かに落ち着いて神様に助けられると言うことを味わうことができるように、神様に助けを求めればよいのだということを、私たちはそれぞれの現実の中で味わうことができるように、クリスマスに、そしてこれからの私たちの歩みを祝福してください。主イエスの名によってお祈りします。
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2013年12月08日 | カテゴリー: イザヤ書 , 旧約聖書

2013年11月10日、説教「主、備えたもう―神の摂理への信仰―」市川康則牧師(神戸改革派神学校校長)

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20131110日、説教「主、備えたもう―神の摂理への信仰―」市川康則牧師(神戸改革派神学校校長)

          創世記22章1-19節

1 これらのことの後で、神はアブラハムを試された。神が、「アブラハムよ」と呼びかけ、彼が、「はい」と答えると、

2 神は命じられた。「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。わたしが命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい。」

3 次の朝早く、アブラハムはろばに鞍を置き、献げ物に用いる薪を割り、二人の若者と息子イサクを連れ、神の命じられた所に向かって行った。4 三日目になって、アブラハムが目を凝らすと、遠くにその場所が見えたので、

5 アブラハムは若者に言った。「お前たちは、ろばと一緒にここで待っていなさい。わたしと息子はあそこへ行って、礼拝をして、また戻ってくる。」

6 アブラハムは、焼き尽くす献げ物に用いる薪を取って、息子イサクに背負わせ、自分は火と刃物を手に持った。二人は一緒に歩いて行った。7 イサクは父アブラハムに、「わたしのお父さん」と呼びかけた。彼が、「ここにいる。わたしの子よ」と答えると、イサクは言った。「火と薪はここにありますが、焼き尽くす献げ物にする小羊はどこにいるのですか。」8 アブラハムは答えた。「わたしの子よ、焼き尽くす献げ物の小羊はきっと神が備えてくださる。」二人は一緒に歩いて行った。

9 神が命じられた場所に着くと、アブラハムはそこに祭壇を築き、薪を並べ、息子イサクを縛って祭壇の薪の上に載せた。10 そしてアブラハムは、手を伸ばして刃物を取り、息子を屠ろうとした。

11 そのとき、天から主の御使いが、「アブラハム、アブラハム」と呼びかけた。彼が、「はい」と答えると、

12 御使いは言った。「その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった。」

13 アブラハムは目を凝らして見回した。すると、後ろの木の茂みに一匹の雄羊が角をとられていた。アブラハムは行ってその雄羊を捕まえ、息子の代わりに焼き尽くす献げ物としてささげた。14 アブラハムはその場所をヤーウェ・イルエ(主は備えてくださる)と名付けた。そこで、人々は今日でも「主の山に、備えあり(イエラエ)」と言っている。

15 主の御使いは、再び天からアブラハムに呼びかけた。16 御使いは言った。「わたしは自らにかけて誓う、と主は言われる。あなたがこの事を行い、自分の独り子である息子すら惜しまなかったので、17 あなたを豊かに祝福し、あなたの子孫を天の星のように、海辺の砂のように増やそう。あなたの子孫は敵の城門を勝ち取る。18 地上の諸国民はすべて、あなたの子孫によって祝福を得る。あなたがわたしの声に聞き従ったからである。」19 アブラハムは若者のいるところへ戻り、共にベエル・シェバへ向かった。アブラハムはベエル・シェバに住んだ

 

(説教要訳 文責近藤)

 

【信仰の試練と摂理】

摂理という言葉をよく使うことがあります。

神様がご自身の計画に従ってすべての事を、ご自身の栄光のために、そして私たちの祝福のためにご支配し、用いられるということです。一般論としてはその通りで、神は永遠のご計画に従って万事をすべてご自身のために、その民のために支配なさると。しかし、もう少し正確に言うと、摂理というのは信仰の試練に出会う時、その時だけとは言いませんが、その時に体験する神様の恵みであると言わなければならない。

 

摂理とは、他人ごと、一般論ではありません。神学校では、イエスにおける神の聖定などと言いますが、神はご自身の栄光のために万事を聖く用いられることによってご支配されるというのは間違いではありませんが、神様を信じる事によって困難なことを覚える、それでも神様を信じる。試練や悩みを超えて結果的に強くなる、それが摂理です。

 

信仰の困難を覚えない時に摂理信仰とは単に口先だけのことになると学生に話します。今日の朗読箇所は摂理信仰を表す典型的な御言葉であります。2番目に典型的な箇所ですが。1番目は何かといえばイエス・キリストの十字架であります。これはまた後ほど申します。

 

【アブラハムの最大の試練】

さて創世記12章以来長いアブラハム物語が始まりまして、25章ではこのアブラハム物語のクライマックス、頂点でありますが、アブラハムの長い人生のクライマックスであります。神様がこれまで導いてこられたことを凝縮して、ここではこれまでもそういうことがありましたが、ここは代表的なところであります。

 

さて先ほど申しましたように信仰の試練という事の中で神の摂理ということを本当に体験することができるのですが、アブラハムは最大の試練に今見舞われております。

 

創世記22章の1節~、

1 これらのことの後で、神はアブラハムを試された。神が、「アブラハムよ」と呼びかけ、彼が、「はい」と答えると、2 神は命じられた。「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。わたしが命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい。」

 

【息子イサク】

これまで波瀾万丈の人生を歩んできたアブラハムですが、アブラハムには子供が与えられませんでした。古代人にとって跡継ぎがないということは致命的なことであります。

 

漸く神様の約束が実現しました。99歳になっている妻サラから子供が生まれた、アブラハムは100歳、普通ありえないことですが、神様はそれを実現してくださいました(21章参照)。

 

【神様のご命令】

やっと子供が与えられた、ところがこともあろうに、その子を神様は捧げ物にせよと命じられた。これがもし異教の神の命令なら「神様、助けてください、こんな目に合っています」とお願いすることができますが、これは神様のご命令です。これはもう神様の中に飛び込むしかありません。命じられたとおりするということです。

 

子供も与えられ、後継もでき、異教の王アビメルクとの契約関係もうまくいき、漸くアブラハムの生涯はやがて締めくくられようとする、その時に思いがけず神様からの試練を与えられます。物語そのものはアブラハムの心境、胸中一切は語りません。もの事を淡々と叙述します。

 

【献げ物にする小羊は?】

7節にイサクが「父さん、火と薪がありますが焼き尽くす献げ物にする小羊がありません」と言います。それがお前だとは答えられません。「神様が備えてくださる」としか言いようがありません。

 

そうした会話も淡々と描写しております。そうであるだけにアブラハムの心中、胸中が見えてくる。どれほど穏やかでなかったか。神の試練を間接的に描写するために、「あなたの息子、あなたの愛する、あなたのひとり子を捧げなさい」、「イサクを捧げなさい」と言えば済むことですが、「あなたの愛するひとり子」、これを失えば後はない、これが神様の命令です。

 

「焼き尽くす捧げ物」を口語訳では「全焼の生贄」、火のまわりを速くするために、手足を切り落とす、胴体を切り刻む、それは動物でも大変酷いことですが、それを自分の子供にせよというのです。しかしアブラハムはそれを即座に従います。

 

ここに契約というものがどういうものかがよく現れております。しかし何度もいうことですが、例えば今日、契約と言えば横の関係、対等の関係であります。互恵契約といいます。どちらからでも解約するのは自由です。

 

【神とその民との間の契約】

けれども聖書に出てくる古代の契約、少なくとも神とその民との間の契約は上下主従の関係であります。契約を維持すること、成就することにおいて神様は一方的でアブラハムと相談して契約を結ぶということはありません。アブラハムは一方的に従うしかありません。契約に生きるという事はこういうことです。

 

【はい:いつでもお仕えできます】

1節で、アブラハムは「はい」と答えます。「はい」いうのは意訳でして、良い訳ではないと思います。本来「見よ、我ここにあり」ということです。神様に偉そうなことは言えませんので、「ご覧ください、私はここにおります」というのが直訳です。

 

「ここにおります」。神様にそんなこと言わなくても神様はご存知です。そういう意味ではありません。「神様、私はいつもあなたのお側近くにいます。いつでもお仕えできます」ということですね。

 

【侍:はべる】

横道に少しそれますが「侍」と言う日本語がありますね。大体言葉の意味を知らずに使っておりますが、「侍、ジャパン」と。本来は、刀を振り回す、そのような人のことを言うのではなく、文語で「さぶろう」、「侍る、はべる」ということです。

お側近くにいる、ということです。常に近くに志向して、何かあればすぐにご主人の命令を行う、そういう人のこと「侍」といいます。

「武士は二君に仕えず」と言いますが、一人の主君に忠誠を尽くすという事で、「ご覧ください。私はここにおります、いつもあなたの前におります」。

 

【また戻ってくる】

5節に、アブラハムは下僕たちに言います「5 アブラハムは若者に言った。「お前たちは、ろばと一緒にここで待っていなさい。わたしと息子はあそこへ行って、礼拝をして、また戻ってくる。」と。「また戻ってくる、一人で」とは言えません。彼らに対してもイサクに対してもですね。

 

アブラハムは神様の命令ですからイサクを捧げることを決心しているわけです。「また戻ってくる」と言ってもイサクは薪を背負っているわけです。イサクはまさか自分が殺されるとは夢にも思っておりません。

 

イサクが聞きます、7節「火と薪はここにありまが焼き尽くす捧げ物の子羊はどこに居るのですか」。「それがお前だ」とは口が裂けても答えられません。アブラハムが最も聞かれたくない質問であったと思います。

 

【主、備え給う】

それに対するアブラハムの答えは「私の子よ。焼き尽くす犠牲の子羊はきっと神が備えてくださる」と申しましたが、これは優等生の模範答案ではございません。アブラハムは必ずそうなると、「お前に代わって神が雄羊を備えてくださる」と彼が確信していたわけでありませんが、うまく表現できないですが、神様がして下さる、神様に逃れる意外に他に答える道がなかったからです。

 

異教の王の命令ならば、神様に逃れて助けを願うことができますが、神様の命令には、有り体のことでは無いですが、そうなる確信はないですが、神様のなさる事だから神様に任せようという気持ちもありまして、「神が備えてくださる」と答えました。そう答える以外なかった。

 

イサクはそうなったときにどう反応したかは一切書いておりません。抵抗したか、逃げたとしましてもね、結果として捧げる場所を用意してイサクを縛って薪の上におきました。今まさに刃物でイサクを屠ろうとしたその瞬間に、神の御使いがアブラハムの手を押しとどめた。ここでも「ハイ」と答えておりますが、今、行うとしておる、その子に手を下すことに待ったをかけられました。

 

【神を畏れるもの】

12節「あなたが神を畏れるものであることが今わかった」。これは神様がそれまで知らなかったという訳ではありません。これは本当に私を信じているか試してやろうということではありません。

 

試すと言う意味合いはあっても、「試された」と書いてありますから、しかし本当に神様を信じる信仰があるかないか試そうと言うのではありません。

 

アブラハムが信仰の人であることを神様はご存知です。これまでいろんなことがありました。その信仰を最終的に確証した、確立した。神様は初めからご存知ですがアブラハム自身が自分が本当に神を畏れもるのである事を納得して受け入れるように導いてくださったということであります。イサクもまたそれを感じ取ったことでしょう。

 

12 節後半、「あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった。

 

【一匹の雄羊が角をとられて】

13 節「アブラハムは目を凝らして見回した。すると、後ろの木の茂みに一匹の雄羊が角をとられていた。アブラハムは行ってその雄羊を捕まえ、息子の代わりに焼き尽くす献げ物としてささげた」。

 

雄羊が、なぜ子羊でなかったのかわかりませんが、角を取られていた。それば神様が備えて下さった、神様が受け入れてくださる、捧げものであります。

【息子イサクは死んだ】

これは息子を失わずに済んだ、やれやれと思ってはなりません。

アブラハムの信仰ではもう既に息子を捧げております、息子は既に一旦死んだのです。

 

しかし神様はアブラハムの信仰を祝福して、あるいは信仰による契約関係における彼の応答を豊かに祝福し、また過分な評価をしてくださいました。それに代わる、いやそれに勝る捧げ物を自ら用意してくださった。

 

結果として見ますと雄羊がイサクに代わって捧げられたのです。

 

【信仰によって】

ヘブライ人への手紙の1117節以下で

17 信仰によって、アブラハムは、試練を受けたとき、イサクを献げました。つまり、約束を受けていた者が、独り子を献げようとしたのです。18 この独り子については、『イサクから生まれる者が、あなたの子孫と呼ばれる』と言われていました。19 アブラハムは、神が人を死者の中から生き返らせることもおできになると信じたのです。それで彼は、イサクを返してもらいましたが、それは死者の中から返してもらったも同然です」。

 

【信仰よってアブラハムはイサクを捧げた:殺した】

さっき言いましたように可愛い一人息子を捧げなくて良かったという程度では無いのです。

アブラハムはその信仰において神様との関係においてイサクを殺した。神様の命令に従ってイサクを捧げたわけです。

 

そこで神様もこのアブラハムの信仰の応答を豊かに祝福してくださいました。すなわち雄羊を自ら用意してくださったのです。ということはイサクは一旦死んだのですが、その雄羊の犠牲によって生き返らされて、死者から生きかえらせて、息を吹き返してくださった、復活させられて返してくださったということであります。

 

【イエスの十字架と復活】

もちろんアブラハムが2,000年後に、ナザレのイエスという方が十字架にかかり復活なさるという事は知っておりません。

 

しかしヘブライ人への手紙の記者はその出来事を知っておりますので、イエス様の出来事の光の中でアブラハムの行為を解釈し直したわけです。

 

【さらに勝った仕方で】

こうしてそれ自身まことに辛い神様の命令、人間的には理不尽な神様の要求に、しかし「ハイ」という言葉に聞かれますように、契約関係の中で従順に生きるアブラハムは即座に従った。どうなるか分からないけど、神様が何とかして下さるという曖昧な信仰であったかもしれませんが、アブラハムはそれを実行しました。神様をそれに大いに勝った仕方で祝福してイサクを生きて返してくださった。

 

【キリストは死んで蘇ってくださった】

イエス・キリストと言う犠牲は神様ご自身が用意してくださったものであります。

イエス・キリストの死と復活、これによってキリストを信じるもの全てが生きて返されます。キリストの死と復活に預かるもの、私たちもまたやがて復活するだけではなく今、永遠の命に生かされている。キリストの死と復活に与る洗礼を受けた私たちは、パウロも言うように、ロマ6章にありますが、キリストは死んで蘇ってくださった。私たちは今、永遠の命に生かされています。十分の形で顕されるのが復活の時であります。

 

【あなたの子孫をの星のように増やそう】

こうすることによって神様はアブラハムの信仰と従順を嘉し祝福してくださった。そればかりか、ご自身の約束を今一度確証してくださったのであります。

 

16節以下、御使いの言葉でありますが、これは神様ご自身の言われる事で、

創世記2216 御使いは言った。『わたしは自らにかけて誓う、と主は言われる。あなたがこの事を行い、自分の独り子である息子すら惜しまなかったので、17 あなたを豊かに祝福し、あなたの子孫を天の星のように、海辺の砂のように増やそう。あなたの子孫は敵の城門を勝ち取る』」。

「私は自らにかけて誓う」と言われる。これまでもあったのですが、今ここでもう一度17節に「あなたを豊かに祝福しあなたの子孫をの星のように増やそう」。これは今までもありました。

12章でまだアブラムと名乗っておりましたの時から、その約束はありました。「あなたの子孫を天の星のように海辺の砂のように増やそう」。

 

【敵の城門を勝ち取り】

その後のところに、「あなたは敵の城門を勝ち取り」とあります。

当時は戦争は絶えませんでしたから、戦いのイメージを用いていますけれども、神様の敵とは究極的にサタンです。イスラエルの的とはペリシテとかアシリアとかありましたが、神と神の民の究極の敵は悪魔サタンです。

 

アダムをエバを通じて誘惑した、蛇の形をしたサタン、神様の最大の敵サタンは最後には討ち滅ぼされます。あなたの子孫であるイエス・キリストは敵、サタンを完全に討ち滅ぼす。

それによって地上の諸国民は、その子孫イエス・キリストによって祝福を受ける。福音宣教を通して救われるということであります。

 

【この「子孫」とは、キリスト】

これに言及しましたパウロはガラテヤの信徒への手紙3

16 ところで、アブラハムとその子孫に対して約束が告げられましたが、その際、多くの人を指して「子孫たちとに」とは言われず、一人の人を指して「あなたの子孫とに」と言われています。この「子孫」とは、キリストのことです。

 

「あなたの子孫は敵の城門を勝ち取る」というのは、一人の人、イエス・キリストがサタンの王国を打ち滅ぼして、神を信頼し信じるものが神を畏れることを真に可能にしてくださるのであります。

 

【永遠に生きる】

そして神様と共に生きる。神様と共に生きるという事は、新約聖書の言葉で言えば永遠に生きるという事であります。イエス・キリストはこのことを果たしてくださったのであります。

 

アブラハムの長い生涯の中で神様は理不尽な要求をアブラハムに与えられたが、これは神様が先を見越しての、アブラハムをご自身の祝福の大いなる器とするとの出来事であり、経験させられたのであります。

 

【ヤハウエ・イルエ:主は見る】

アブラハムはその場所を「ヤハウエ・イルエ、主備えたもう」、この様に訳すことも可能ですが、別の聖書の欄外注には「主は見る」と訳すのもあり、「ヤハウエ・イルエ:ヤハウエは見る」という意味です。「イエラエ」も同じです。あらかじめ見ているから備えることができるのであります。摂理のことを英語でプロビデンスと申します。「前もって見る」ということです。ラテン語から来ています。インターネットのプロバイダーという言葉、プロバイダとは提供する、供給する、備えるのがプロバイダですね。provideをローマ字読みにしますと、プロビデ、前もって見る、ということになります。

 

【最大の備え:イエス・キリスト】

我々は前もって見ることはできませんが、神様はちゃんと見ておられます。だからそれにふさわしい備えができるということです。私たちは先を見ることはできません。「備えあれば憂いなし」と言うが、的確な備えができません。しかし神様は先の事をちゃんと見ておられるですから我々のために備えてくださる訳です。その最大の備えはイエス・キリストってございます。

 

【キリストの十字架】

キリストの場合はアブラハムと違って、キリストの十字架というのは、人間の側から言えば、これは悪意がなしたことです。もう邪魔になる、権力に楯突くナザレのイエスはけしからんということで、ポンテオ・ピラトが死刑を命じた。

 

ピラトはイエスには死刑に当たる罪はないと知っていたのですが、暴動が起こると自分の首がないと。それで理不尽ではあるけれども保身のためにイエス様を十字架にかけたのであります。ユダヤの人々はナザレのイエスが変なことを教えている。それで十字架にかけられた。イエスが亡くなると、私たちが勝ったと思ったのです。ローマの役人もユダヤの官憲も。ところがの十字架は罪を犯した人間に対する神の裁きであった。神様はあらかじめご存知だったので罪のないイエス様を罰することにおいて、罪人の処罰をされたのであります。

もし私たち一人一人が罪のために罰せられたならば、なるほど罪の処罰は出来ます。

しかし元々神様のためにつくられ、神様と共に生きる、永遠の命を生きるという事は出来ません。

 

神は人間の罪をさばきつつ、それを赦して再び生きる道を講じてくださった。人間には不可能なことです。罪なきナザレのイエスが罪人の代表として十字架で裁かれ、また神を信じる正しい人の代表として先駆けとなって蘇ってくださった。キリストの十字架は、罪人に対する神の裁きである。キリストの復活は、キリストが神の前に正しい人であるということ、義であったという確証です。

 

【聖書の初めから終わりまで全て摂理信仰】

アブラハムに約束してくださったことを、このような形で神様は成就してくださいました。このように見てまいりますとその時理不尽に思えても、神様の約束を信頼して、神様の命令という事で何でも従うと、自分が考えているはるかにを勝る大きな仕事を、神様を称える仕方で導いて下さる。これが摂理信仰であります。その意味で聖書の初めから終わりまで全て摂理信仰であります。

例外が一箇所あります。それは創造です。創世記1章「はじめに神は天と地を造られた」。それは創造でありますが、そこからは黙示録の最後まで全部摂理であるといっても言い過ぎではありません。

創造ですら摂理に受け継がれますので、後のことを切り離して単発のことではありません。聖書全体はまさに摂理信仰に生きてといると言うことであります。私たちもその摂理の道に歩みたいと思います。

 

【まとめ】

最後に2、3のことをポイントだけワンセンテンスで纏めます。

契約とは神と民との上下主従の関係であります。このことを覚えてほしい。神様がこうしてくださると私たちはそうします、ということではありません。人間同士の契約はそれでいいが、神様は上から下への契約であります。

 

摂理と試練の中でこそ、信仰の試練の中でこそ、キリストを信じるという試練の中でこそ神様は恵み深い守りと導きがありますね。

 

苦しい時の神頼み」という言葉があります。私たちは世俗的な意味でそれを拒否していますが、苦しいときだけ神社、仏閣に参ると言うのは、キリスト信仰から見るととんでもないことですが、言葉の本来の意味で、苦しい時に頼みにならない神は神でない。

都合の良い時だけ御札を売って儲けて、本当に死にそうな時に、知らん顔する神は神でない。詐欺ですね。聖書の神こそが真実、頼りになる神であることを改めて憶えたいのです。

 

神様が知らない試練は無い。神は全てを知っておられる。

場合によってはそれを用いてもくださる。だから逆に神様に逃れることもできる。アブラハムはイサクに問われて答えられません。確かに「主は備えてくださるだろう」。まさにこれは苦しい時の神頼みの答えであります。正しい意味においてその通りだと思います。

 

二番目、神様への捧げ物は、自分にとって最も大切なもの、かけがえのないものを捧げなければなりません。

 

神様はイエス・キリストと言うかけ替えのないものを捧げてくださいました。

アブラハムは息子を捧げる時に、心の苦しさを覚えたでしょうけれども、最も大事なものを捧げたのです。親の人情としては「神様、私の命を取って下さい」と思ったかもしれない。これが人情です。しかし神様はそうではない、「あなたの愛する子を捧げなさい」と言われた。捧げ物とは自分にとって最も大事なもの、ある種の犠牲を伴わないものではないということであります。今週も神様の摂理のなかで神様の摂理の恵みを体験させていただきながら歩みたいと思います。アーメン。

2013年11月10日 | カテゴリー: 創世記 , 旧約聖書

2013年9月1日説教「神様はどういうお方ですか」崔 宰鉉(チェ ジェヒョン)牧師

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201391日説教「神様はどういうお方ですか」崔 宰鉉(チェ ジェヒョン)牧師

聖書:創世記125-31

25 神はそれぞれの地の獣、それぞれの家畜、それぞれの土を這うものを造られた。神はこれを見て、良しとされた。26 神は言われた。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」

27 神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。28 神は彼らを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。」

29 神は言われた。「見よ、全地に生える、種を持つ草と種を持つ実をつける木を、すべてあなたたちに与えよう。それがあなたたちの食べ物となる。30 地の獣、空の鳥、地を這うものなど、すべて命あるものにはあらゆる青草を食べさせよう。」そのようになった。

31 神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。夕べがあり、朝があった。第六の日である。

 

(説教要約 文責近藤)

【人の生きる主な目的は何か】

クリスチャンとして私たちが生涯を通して為すべき一つの事は何ですか。

それは神を知ることではないでしょうか。礼拝を通して聖書を読むこと、祈ることを通して神を悟る事では無いかと思いすが事は簡単なことではありません。目に見える人間の親についても十分に知り尽くすことが難しいわけですが、まして霊なる神様について暗闇にいる人間は知ることはなおさらです。

 

【盲人と象】

限りある人間が目に見えない神について知ることは非常に難しいことです。

目の見えない3人が象を触って言いました。はじめの人はこれは柱ですと鼻を触って言いました。次の人は、これは壁であると、その腹をさわって言いました。3人目の人は天井だと象の背中を触って言いました。

 

すべての人は神を知っていると思っておりますが人は本当は何も分かりません。私たちは神の御前に立つ時まで神のことを完全に知る事は出来ません。しかし人は礼拝で祈り、聖書を読む事によって聖霊の助けによって神様を完全ではないけれども知ることができるのであります。

 

【神様はどういうお方ですか】

今日そのひとつ神様はどういうお方ですかという趣旨のことを語りたいと思います。

 

【その1、創造主】

神様は創造主です。創世記11節に「始めに神は天と地とを創造された」と五つの単語で御自身を簡単に語っておられます。「初めに、神は、天と、地と、創造された」と単語を知っても、この世の人はだれもこの五つの意味を一生かかっても完全に知る事は出来ません。

 

【罪人は創造主を知りえない】

神について罪人である人間は完全に神を知る事は出来ません。

この世に降られたイエス・キリストは肉体をとって人となり、罪びとの贖いとなられましたが、それでも神の御心を知るために謙って熱心に祈られました。イエス様でさえこのように祈られたわけです。まして罪のある人間は神様の御心を計り知る事はできません。また天と地の大きさを測る人はありません。200億光年離れた星を最新の観測機器では観測できますが、これは全体ではなく天と地のほんの一部です。

 

【愚か者は創造の秘密を知らない】

最後に創造の秘密を知る人はこの世にいるでしょうか。人は自分の体を自由に動かせますが、髪の毛一本も人は支配できません。私も白髪が生えたきました。しかし自分で白髪が生えるのを止めることも出来ません。医学が進歩しても人は自分の骨をまた自分の血液を作る事は出来ません。創造の秘密を知らないからです。創世記11節は人間の知恵では神の天地創造の秘密を知りえない領域を語ります。これは純粋に信仰の領域であると、このことを信じられない人は、偶然の存在として宇宙や人間の存在を見ていますが、そして自分の好きなように行動しますが、それは愚かなことです。

 

韓国のある医者の話ですが自分の健康に自信を持っていましたが、ある時検診でガンとわかりました。同僚の医者は手術をしましたが、ガン細胞はすでに全身に広がっており、どうしようもありません。彼は数週間後に亡くなりました。

 

人間は自分が自分の主人になるにはあまりにも小さな存在です。私たちは神が創造主である事を知り、聖書は被造物に対する使用説明書だと言うことが分からなければなりません。

この世の物はそれを造った会社があります。例えばここにマイクがありますが、マイクを作った会社の使用説明書によって、このマイクを正しく扱うことができます。だれもその使用説明書を疑う人はいません。

 

神が創造主であると信じる人は、使用説明書である聖書を疑わないで従うと高価な自分の命を正しく育てることができます。

聖書と言う使用説明書を通して人は人間の命を作られた神様と神の目的を知り、そしてその説明書である聖書を通して高価な自分の命を正しく育てることができるのであります。

 

【その2、神は男と女を創造された】

二番目は神様は父性と母性を持っておられるということです。創世記1章27節をいっしょに読みましょう。

創世記127 神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された」。

 

多くの人には神さまは男性のように思われますが、それは全てではありません。ここ創世記1章で神は男と女を創造されたのです。神は確かに父性の特性を備えておられます。神はその大きな父性を現されました。

それは出エジプト記では紅海を開いて、イスラエル民族を渡らせました。

また185,000人のアッシリアのセナケリブの軍隊を滅ぼされました。神様は父性の強さを表しますが、母親の繊細さや柔らかさが足りません。真の強さは両性を兼ね備えていると思います。

 

【母親の愛】

子供が高熱を出すとき母親は看病ができますが、そして母親は子供の泣く意味も分もわかりますが、父親はなぜ泣いているかその意味がわかりません。母親の愛は父にないものです。私たちの神は父性とともに母性を備えておられる事実はわたしたちに大きな慰めになります。

 

詩編121篇の3節、4節を見てください。

3 どうか、主があなたを助けて/足がよろめかないようにし/まどろむことなく見守ってくださるように。4 見よ、イスラエルを見守る方は/まどろむことなく、眠ることもない」。

 

もう一つイザヤ書4915節を読んでください。

イザヤ書4915 「女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。母親が自分の産んだ子を憐れまないであろうか。たとえ、女たちが忘れようとも/わたしがあなたを忘れることは決してない」。

 

この御言葉は神の母性の証拠であります。私たちの神様は母性を備えた方であるということは私たちに大きな慰めになりますね。

 

【イ・ジェチョル先生の思い出】

韓国の有名な牧師イ・ジェチョル先生は私が尊敬する牧師ですが、朝鮮戦争の直後、母親の愛について証しております。彼が5歳の時、兄は軍隊で軍人でした。そしてその兄を見舞いに行った時のことです。行は軍用車で行きましたが帰りは汽車で帰らなければなりませんでした。それは寒く-20度の気温でした。汽車は古く、吹きさらしの列車でありました。1番辛かったのは寒さで足が凍り付いたことです。私は冷たさに泣きました。母は私に自分の靴下を脱いで履かせました。そして私は暖かくなりましたが、ソウル駅に着いた時、母親を見るとその足は青く凍傷になっていました。イ・ジェチョル牧師と一緒にいたのが母でなく父親だったら「男なら我慢しろ」というでしょう。私は7年間海兵隊で働きましたので、私なら「立て、走ってみろ、温まるから」と言ったでしょう。しかし母親は自分の命のことを顧みません。

 

神はこのような母性を備えておられ、人間に永遠の命を与えるために御子を犠牲にしてくださった。このように嵐の世を生きるときに私たちの生きる力の源になって下さったのは神の母性のお蔭です。

母性は神の最高のプレゼントで、それは優しくあたたかく、繊細な愛であります。

神は父性と母性で私たちを愛し守り祝福してくださいます。神がともにおられれば私たちは幸せになれない事はありません。

 

【その3、神様は祝福されるお方】

神様はどのようなお方ですか。その三番目は神様は祝福されるお方であるということです。

創世記12728を読みましょう。

創世記1

27 神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。28 神は彼らを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。」

 

また5節~2節を読みましょう

世記5

1 これはアダムの系図の書である。神は人を創造された日、神に似せてこれを造られ、2、 男と女に創造された。創造の日に、彼らを祝福されて、人と名付けられた。

 

何事も肝心なのは始めが大切だということです。それは後に続くことを規制します。

神は人を創造して初めにされた事はなんでしょうか。それはすぐに作られた人を祝福されたことです。ところで神の祝福とはなんでしょうか。

 

神様の祝福とは一言でいうと、被造物に対するアフターサービスであります。高価な物にはちゃんとしたアフターサービスがあるのでその製品は確かであります。アフターサービスのない製品には信頼がありません。人間は神のアフターサービスがなければ人間らしくなれません、凶器になりかわります。

 

創世記52

「男と女に創造された。創造の日に、彼らを祝福されて、人と名付けられた」。

 

ここで注意すべきは人は神のご利益のみを求めてはなりません。神でなく祝福のみを求めるのは偶像礼拝者であります。偶像は人の心を破壊する凶器であります。神は御自身の栄光のために人を創造されました。私たちの求むべきは祝福の源である神様です。

 

今日神様について三つのことを知りましたが、これは神様の一部にしか過ぎません。

神様を知るのは知らない人に神を知る助けとなるためです。

その為に神様を詳しく知る必要があります。私ももっともっと神様について学び神を知らない人に神様をわかりやすく伝えたいと思います。そして御前に美しいクリスチャンでありたいのです。(おわり)

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2013年09月01日 | カテゴリー: 創世記 , 旧約聖書

2013.4.28.説教「羊の為に命を捨てる良い羊飼い」赤石めぐみ先生

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2013.4.28.説教「羊の為に命を捨てる良い羊飼い」赤石めぐみ先生

新約聖書、ヨハネによる福音書107~18

7 イエスはまた言われた。「はっきり言っておく。わたしは羊の門である。8 わたしより前に来た者は皆、盗人であり、強盗である。しかし、羊は彼らの言うことを聞かなかった。

9 わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。

 

10 盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。

11 わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。

12 羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。13 彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである。

 

14 わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。

15 それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる。

16 わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。10:17 わたしは命を、再び受けるために、捨てる。それゆえ、父はわたしを愛してくださる。18 だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父から受けた掟である。」

 

説教要約(文責近藤)

【私は有るという者】

他の福音書には見られない「わたしは良い羊飼いである」という御言葉は神学的に練られた言葉であってユダヤ人、パリサイ派の人びとと言った旧約聖書に精通した人に語られた言葉ではないかと思います。

 

ヨハネの福音書には「私は・・である」と主イエスは御自身を語られることがよくあります。「わたしは良い羊飼いである」、「私は命のパンである」などなど。

英語では「I am・・」。聖書の書かれたギリシャ語では「エゴ(我」エイミ(有る、存在する)」です。

 

神様が御自身を「私は有るという者」だと御自身の名前を最初に明かされたのは旧約聖書の出エジプト記3章にある芝の書でモーセを召しだされた記事に出てきます。

 

モーセが民に「神様、あなたの名を民から尋ねられたら何と答えればよいでしょか」と主なる神様に言いますと、神はモーセに『「私は有る」という者』だと言われました。

 

「私は・・である」と言われたイエス様が神様を示す「私は有る」という者だと、すなわち主イエスは神と同じだと語られたのです。

 

【良い羊飼い】

「良い羊飼い」とは「良い牧者」とも言われます。詩編23篇にも「主は羊飼い」とありますが、今日は旧約聖書エゼキエル書34章の預言から主イエス様が御自身を「良き牧者」と言われた旧約聖書の御言葉の成就について語ります。

 

旧約聖書エゼキエル書34

11 まことに、主なる神はこう言われる。見よ、わたしは自ら自分の群れを探し出し、彼らの世話をする。12 牧者が、自分の羊がちりぢりになっているときに、その群れを探すように、わたしは自分の羊を探す。わたしは雲と密雲の日に散らされた群れを、すべての場所から救い出す。

13 わたしは彼らを諸国の民の中から連れ出し、諸国から集めて彼らの土地に導く。わたしはイスラエルの山々、谷間、また居住地で彼らを養う。

14 わたしは良い牧草地で彼らを養う。イスラエルの高い山々は彼らの牧場となる。彼らはイスラエルの山々で憩い、良い牧場と肥沃な牧草地で養われる。15 わたしがわたしの群れを養い、憩わせる、と主なる神は言われる。

16 わたしは失われたものを尋ね求め、追われたものを連れ戻し、傷ついたものを包み、弱ったものを強くする。しかし、肥えたものと強いものを滅ぼす。わたしは公平をもって彼らを養う。

17 お前たち、わたしの群れよ。主なる神はこう言われる。わたしは羊と羊、雄羊と雄山羊との間を裁く。18 お前たちは良い牧草地で養われていながら、牧草の残りを足で踏み荒らし、自分たちは澄んだ水を飲みながら、残りを足でかき回すことは、小さいことだろうか。

19 わたしの群れは、お前たちが足で踏み荒らした草を食べ、足でかき回した水を飲んでいる。

20 それゆえ、主なる神は彼らにこう言われる。わたし自身が、肥えた羊とやせた羊の間を裁く。21 お前たちは、脇腹と肩ですべての弱いものを押しのけ、角で突き飛ばし、ついには外へ追いやった。22 しかし、わたしはわが群れを救い、二度と略奪にさらされないようにする。そして、羊と羊との間を裁く。

 

【イスラエルの偶像崇拝と民の指導者】

ここに「良い牧者」が語られる。

民の指導者が偶像礼拝に陥り神殿の中には偶像がはびこっていたことに神の怒りが落とされイスラエルは北も南も滅ぼされました。

 

当時のイスラエルの指導者はどんな悪事を働いたかエゼキエル書342~10節に「イスラエルの牧者」と言われ次のように語られている、

2 「人の子よ、イスラエルの牧者たちに対して預言し、牧者である彼らに語りなさい。主なる神はこう言われる。災いだ、自分自身を養うイスラエルの牧者たちは。牧者は群れを養うべきではないか。

3 お前たちは乳を飲み、羊毛を身にまとい、肥えた動物を屠るが、群れを養おうとはしない。

4 お前たちは弱いものを強めず、病めるものをいやさず、傷ついたものを包んでやらなかった。また、追われたものを連れ戻さず、失われたものを探し求めず、かえって力ずくで、苛酷に群れを支配した。

5 彼らは飼う者がいないので散らされ、あらゆる野の獣の餌食となり、ちりぢりになった。

6 わたしの群れは、すべての山、すべての高い丘の上で迷う。また、わたしの群れは地の全面に散らされ、だれひとり、探す者もなく、尋ね求める者もない。

 

7 それゆえ、牧者たちよ。主の言葉を聞け。

8 わたしは生きている、と主なる神は言われる。まことに、わたしの群れは略奪にさらされ、わたしの群れは牧者がいないため、あらゆる野の獣の餌食になろうとしているのに、わたしの牧者たちは群れを探しもしない。牧者は群れを養わず、自分自身を養っている。

9 それゆえ牧者たちよ、主の言葉を聞け。

10 主なる神はこう言われる。見よ、わたしは牧者たちに立ち向かう。わたしの群れを彼らの手から求め、彼らに群れを飼うことをやめさせる。牧者たちが、自分自身を養うことはもはやできない。わたしが彼らの口から群れを救い出し、彼らの餌食にはさせないからだ。

 

48節にあるようにイスラエルの指導者、牧者は羊である民を養わず「まことに、わたしの群れは略奪にさらされ、わたしの群れは牧者がいないため、あらゆる野の獣の餌食になろうとしているのに、わたしの牧者たちは群れを探しもしない。牧者は群れを養わず、自分自身を養っている」と言われる。

 

今日与えられた御言葉のヨハネ108 では「わたしより前に来た者は皆、盗人であり、強盗である。」と主イエスは語られる。

 

私より前に来た牧者は、宗教指導者も王も盗人であり、強盗であると主は言われる。ここに人間の牧者たちの姿があります。

 

彼らは羊の群れを散らし失わせ傷つけるのです。それでも羊は牧者に付いていくしかない。

 

【主なる神は世の牧者たちに立ち向かう】

神はご自分の民がこのような牧者にさらされ導かれることに耐えられません。

 

そこで主イエスが遣わされたのです。

ヨハネ1010節後半「わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである」と言われます。

 

エゼキエル書34章後半で神は「私はイスラエルの牧者に立ち向かい彼らから羊の群れを取り戻す」と言われます。

10 主なる神はこう言われる。見よ、わたしは牧者たちに立ち向かう。わたしの群れを彼らの手から求め、彼らに群れを飼うことをやめさせる。牧者たちが、自分自身を養うことはもはやできない。わたしが彼らの口から群れを救い出し、彼らの餌食にはさせないからだ。」

 

主なる神がその羊である民を牧すること、この良い牧者こそ主イエスであると御言葉は言うのです。

 

神とイエスは違うのではないか?と疑問に思われるかも知れません。

 

ヨハネ福音書1027節以下でユダヤ人に主イエスは答えられています、

27 わたしの羊はわたしの声に聞き従う。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしについて来る。28 わたしは、彼らに永遠の命を与える。だから、彼らはいつまでも滅びることがなく、また、彼らをわたしの手から奪い去る者はない。

29 わたしの父がわたしに下さったものは、すべてにまさるものである。そしてだれも父のみ手から、それを奪い取ることはできない。

:30 わたしと父とは一つである」。

わたしと父とは一つである。」と。「私がそれである」と。

 

あのエゼキエル書で預言された、あの良い羊飼いこそ私であると主イエスは言われた。

 

確かに主イエスが言われたことは旧約聖書の助けから分かりますが、主イエスが言われるのはこの程度の読みでは終わりません。

 

【良い羊飼いは羊の為に命を捨てる】

「良い羊飼いは羊の為に命を捨てる」と言われます。

この命を捨てると言う言葉は旧約聖書の何処にあるでしょうか。

ユダヤ人には羊の為に命を捨てるとは尋常ではないと考えられたが、イエス様の読みの深さはもう一度エゼキエル書34章から気づかされる。

旧約聖書エゼキエル書3422~23節「 22しかし、わたしはわが群れを救い、二度と略奪にさらされないようにする。そして、羊と羊との間を裁く。23わたしは彼らのために一人の牧者を起こし、彼らを牧させる。それは、わが僕ダビデである。彼は彼らを養い、その牧者となる」。

 

ここに「一人の牧者を起こし」という言葉に注目してください。「起し」これは原語で「復活させる」と同じ言葉であります。復活させられるためには神の群れを救うために死ななければならない。「群れの為に命を捨てる良い羊飼い」がここに預言されています。

 

ゼキエル書3422 節と23節との間の言葉の意味を主イエスは読み取られたのです。「良い羊飼いは羊の為に命を捨てる」のです。

 

私たちが従うべき良い羊飼いは主イエス御独りです。

 

【西谷の牧者】

西谷からモーア先生が去られるので西谷に牧者がいなくなる心配が皆さんにおありかも知れませんが今日伝えたかったことは真の牧者はイエス様御独りであると言うことを信じたいのです。

 

主のお声は小さく聞き分けにくいですが羊の為に命を捨てる良い牧者イエス様を信じて行きたく思います。主の御声を聞くとき他の悪い牧者に付いていくことはありません。

また西谷にも囲いの外にいる多くの羊がいると思います。そのような羊とも一緒になって主の民を養う牧者が与えられることをお祈りいたします。(おわり)

2013年04月28日 | カテゴリー: エゼキエル書 , ヨハネによる福音書 , 新約聖書 , 旧約聖書

2013年1月13日、説教「知恵の初め」ウイリアム・モーア宣教師

2013113日、説教「知恵の初め」ウイリアム・モーア宣教師

 

旧約聖書箴言11 イスラエルの王、ダビデの子、ソロモンの箴言。

2 これは知恵と諭しをわきまえ/分別ある言葉を理解するため

3 諭しを受け入れて/正義と裁きと公平に目覚めるため。

4 未熟な者に熟慮を教え/若者に知識と慎重さを与えるため。

5 これに聞き従えば、賢人もなお説得力を加え/聡明な人も指導力を増すであろう。

6 また、格言、寓話/賢人らの言葉と謎を理解するため。

7 主を畏れることは知恵の初め。無知な者は知恵をも諭しをも侮る。

 

説教要約(文責 近藤)

【あなたは何を願いますか】

始めに皆さんに質問があります。

ある日、神様が現れてあなたの一つの願を聞いてあげようと言われたら神様から何を戴きたいですか?

 

人によって答えは違うでしょう。飢えた人なら食べ物を、病気に悩む人なら癒しを、経済的に困っている人にはお金を、さびしい人には話相手となる友を願うでしょう。

 

【ソロモンは知恵を求めた】

ある日、神はイスラエルの王となったソロモンの夢に現れ「あなたの願うものは何でも叶えてあげよう」と言われた。

ソロモンは神様にただ知恵を願いました。「どうか、あなたの民を正しく裁き、善と悪を判断することができるようにこの僕に聞き分ける心をお与えください。そうでなければ、この数多いあなたの民を裁くことが、誰にできましょう。」

と。

 

旧約聖書列王記上35 10

5その夜、主はギブオンでソロモンの夢枕に立ち、「何事でも願うがよい。あなたに与えよう」と言われた。6 ソロモンは答えた。「あなたの僕、わたしの父ダビデは忠実に、憐れみ深く正しい心をもって御前を歩んだので、あなたは父に豊かな慈しみをお示しになりました。またあなたはその豊かな慈しみを絶やすことなくお示しになって、今日、その王座につく子を父に与えられました。

7 わが神、主よ、あなたは父ダビデに代わる王として、この僕をお立てになりました。しかし、わたしは取るに足らない若者で、どのようにふるまうべきかを知りません。8 僕はあなたのお選びになった民の中にいますが、その民は多く、数えることも調べることもできないほどです。

9 どうか、あなたの民を正しく裁き、善と悪を判断することができるように、この僕に聞き分ける心をお与えください。そうでなければ、この数多いあなたの民を裁くことが、誰にできましょう。」

10 主はソロモンのこの願いをお喜びになった」。

 

【神の大いなる祝福】

神様は、自分のために長寿や富、敵の命を求めず知恵を求めたソロモンに、その賢明な知恵を与えたもうのみならず、彼の求めなかった富と栄光、生涯誰にも比べられない繁栄を与えると、約束されました。

 

列王記上

3:10 主はソロモンのこの願いをお喜びになった。

3:11 神はこう言われた。「あなたは自分のために長寿を求めず、富を求めず、また敵の命も求めることなく、訴えを正しく聞き分ける知恵を求めた。

3:12 見よ、わたしはあなたの言葉に従って、今あなたに知恵に満ちた賢明な心を与える。あなたの先にも後にもあなたに並ぶ者はいない。

3:13 わたしはまた、あなたの求めなかったもの、富と栄光も与える。生涯にわたってあなたと肩を並べうる王は一人もいない。

 

ソロモンの知恵は箴言に記され私たちの日々の生活に用いられています。例えば

 

箴言1019 口数が多ければ罪は避けえない。唇を制すれば成功する

 

箴言143 1 弱者を虐げる者は造り主を嘲る。造り主を尊ぶ人は乏しい人を憐れむ。。

箴言221 名誉は多くの富よりも望ましく/品位は金銀にまさる。

箴言2617 通行人が自分に関係のない争いに興奮するのは/犬の耳をつかむようなものだ。

これらの知恵は経験から知られたものです。

 

【箴言の目的】

箴言の目的は

箴言12 6

2これは知恵と諭しをわきまえ/分別ある言葉を理解するため

3 諭しを受け入れて/正義と裁きと公平に目覚めるため。

4 未熟な者に熟慮を教え/若者に知識と慎重さを与えるため。

5 これに聞き従えば、賢人もなお説得力を加え/聡明な人も指導力を増すであろう。

6 また、格言、寓話/賢人らの言葉と謎を理解するため。」

であると書かれています。

 

神のすばらしい知恵を日常生活に応用するとき神を喜ばせる正しい道に導かれ、神の豊かな祝福が与えられるのです。

 

聖書の知恵は頭が良いと言うこととは異なります。聖書の知恵は神から学ぶ正しい生き方です。学力は知恵を保証しません。学力あるものが知恵に欠けた行動をとるのを現実に見ることが多くあります。

 

私たちが生きるための知恵を得ようとする意志がありますか。

キリスト者として知恵ある生活を生きたいですね。

しかしどこから始めるでしょうか。

 

【主を畏れることは知恵の初め】

7節に答えがあります。

箴言17 主を畏れることは知恵の初め。無知な者は知恵をも諭しをも侮る」。

ここには大事な真理があります。神を畏れることから出発しないと本当の知恵はありません。

 

【畏れるとは】

畏れるという言葉を正しく理解することが必要です。これは恐れる、怖がるという意味ではありません。聖書の神は愛で御自身の被造物を愛されます。神は人と親しい交わりを持つために人を創られましたので人は恐れで神から逃げる必要はありません。神に近ずきなさい。そうすれば神は近づいて下さいます。

 

【世人を愛される神】

神が独り子をこの世に遣わされたのは人びとを愛されたからで、神を恐れることはありません。神を畏れるべきです。力と愛と正義なる神に畏敬の心を持つべきです。

 

私たちの神は全てを創り、すべてを知り、はじめも終わりもありません。そのお方が罪人の私たちに手を差し伸べて愛して下さっています。私たちはその神に畏敬の念を持つべきです。

 

神は私たちを神の子どもとして霊的にも物質的にも恵んで下さいますので、当然神様との関係を大事に常に尊重すべきです。それ故、神の御子イエス・キリストが教えて下さった道に従うべきです。

 

何より主を畏れる事こそ知恵の初めです。

 

【無知な者は知恵をも諭しをも侮る】

逆に神の教えを無視し自分が主との関係に責任がないと思うと愚かになり回りに害になります。

 

神を離れ自分の目に正しいと思うことを行えば道徳は混乱し、隣人との人間関係は崩壊します。家族の関係も損なわれます。

 

【無神論者】

箴言1:7後半「無知な者は知恵をも諭しをも侮る」。と書かれているにもかかわらず無神論者たちは聖書を蔑にして、宗教は戦争の根源だと言います。

 

勿論、宗教を悪用して戦争を正当化する人も居ます。

現在のテロリストはイスラム教の教えを曲解して自分たちを正当化します。

キリスト教も歴史を見るとキリストの名でひどいことが行われました。それはイエスの教えを無視したもので決して神の御心ではありませんでした。

 

しかし無神論の害ははるかに大きい。ヒットラー、スターリン、毛沢東、金日成は何億人を犠牲にしました。

 

神が存在しないと思うと全てのことが許され反対するものを簡単に処分します。

 

誰でも知恵を得ようとすれば神を畏れなければなりません。主を畏れることは知恵の初めだからです。

 

【知恵は神様の賜物】

知恵は神様の賜物ですから主に願うべきです。新約聖書ヤコブの手紙1

5 「あなたがたの中で知恵の欠けている人がいれば、だれにでも惜しみなくとがめだてしないでお与えになる神に願いなさい。そうすれば、与えられます」

 

愛する兄弟姉妹。自分が正しいと思うままに行動するのでなく主の知恵と道を導きに従って祈り歩みましょう。(おわり)

 

 

2013年01月14日 | カテゴリー: 旧約聖書 , 箴言

2012.12.30説教「味わい見よ、主の恵み深さを」ウイリアム・モーア宣教師

2012.12.30説教「味わい見よ、主の恵み深さを」ウイリアム・モーア宣教師

 

聖書:詩編341 【ダビデの詩。ダビデがアビメレクの前で狂気の人を装い、追放されたときに。】

2 どのようなときも、わたしは主をたたえ/わたしの口は絶えることなく賛美を歌う

3 わたしの魂は主を賛美する。貧しい人よ、それを聞いて喜び祝え。

4 わたしと共に主をたたえよ。ひとつになって御名をあがめよう。

5 わたしは主に求め/主は答えてくださった。脅かすものから常に救い出してくださった。

6 主を仰ぎ見る人は光と輝き/辱めに顔を伏せることはない。

7 この貧しい人が呼び求める声を主は聞き/苦難から常に救ってくださった。

8 主の使いはその周りに陣を敷き/主を畏れる人を守り助けてくださった。

9 味わい、見よ、主の恵み深さを。いかに幸いなことか、御もとに身を寄せる人は。

10 主の聖なる人々よ、主を畏れ敬え。主を畏れる人には何も欠けることがない。

11 若獅子は獲物がなくて飢えても/主に求める人には良いものの欠けることがない。

 

説教要約(文責 近藤)

 

今年もあと数時間です。もう戻ってきません。

今年を振り返ってみると国内的にも国際的にも喜ばしいことは少なかった。

個人的チャレンジもあったでしょう。経済的問題、病気の問題、肉親を失ったことなど試練が大きかったですが、将来にも同じことがあると思うと不安になります。

 

【どのような時も神に感謝と讃美を】

この詩編を書いたダビデも同じ気持ちを味わいました。

サウル王から逃げるダビデは近くのガドに亡命するつもりでしたが身分がばれるとダビデは気違いの振りをして無事脱出できました。

 

この詩編はこの時の彼の証しと告白です。

ダビデの証は不安、恐れを感じる私たちに力を与えてくれます。ダビデは恐れをどのように克服したでしょうか。

彼はこの詩編342節「どのようなときも、わたしは主をたたえ/わたしの口は絶えることなく賛美を歌う」と告白しました。

 

【不安の時にこそ】

不安の時には神に感謝と讃美を捧げることです。

良いときにはこれは容易なことであっても、不安や恐れの時にこそ主を讃え主に讃美を捧げるなら恐れに打ち克ち、力と勇気を神から与えられます。そして勝利が与えられます。

 

【使徒パウロの告白】

使徒パウロはローマの信徒への手紙 835 節以下にこう記しています。

35 だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。36わたしたちは、あなたのために/一日中死にさらされ、/屠られる羊のように見られている」と書いてあるとおりです。

37 しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。

38 わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、39 高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです」。

 

パウロはダビデと同じように迫害を受けてもあきらめず神と人に仕えました。使徒パウロはどのような時にも「わたしは主をたたえ/わたしの口は絶えることなく賛美を歌う」と言うことが出来ました。

 

【わたしの魂は主を賛美する】

次の詩編34篇「3 わたしの魂は主を賛美する。貧しい人よ、それを聞いて喜び祝え。

4 わたしと共に主をたたえよ。ひとつになって御名をあがめよう」について。

 

私たちは毎日曜日ここに集い讃美を歌いますが、讃美と主を褒め称えることは私たちのために必要です。勇気が与えられ恐れに勝利します。

讃美を歌うとき歌の意味に集中して讃美しましょう。

 

【死の陰の谷を行くときも】

詩編345節「 わたしは主に求め/主は答えてくださった。脅かすものから常に救い出してください」。

どんなことがあってもダビデは恐れませんでした。ダビデはかれの残りの生涯にも決して恐れに負けませんでした。

 

詩編23篇「4 死の陰の谷を行くときも/わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖/それがわたしを力づける」とダビデはどんなことがあっても主は彼を支え勇気と信仰を与えて下さる神様を信じました。

 

【味わい、見よ、主の恵み深さを】

詩編349節に「 味わい、見よ、主の恵み深さを。いかに幸いなことか、御もとに身を寄せる人は」と告白しました。

 

「味わう」とは自分の経験で知ることです。やってみないと悟られないと言うことです。

 

【聖餐式】

聖餐式を通して主の恵みを味わうのです。

パンと葡萄酒は十字架で裂かれた主イエスの体と流された血を味合うのです。

主イエスはご自分の命を捨てて私たちの贖いとなり人を愛してくださいましたので私たちの不安と恐れを取り除いて下さいます。

 

「死の陰の谷を行くときも/わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる」。どのような難しいときも力づけて下さる主の恵みを聖餐式を通して与えられることを感謝しましょう。(おわり)

2012年12月30日 | カテゴリー: 旧約聖書 , 詩篇

2012年12月16日説教「天を裂いて降られた神」ウイリアム・モーア宣教師

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20121216日説教「天を裂いて降られた神」ウイリアム・モーア宣教師

聖書:イザヤ書

旧約聖書

イザヤ書6319どうか天を裂いて降ってください。御前に山々が揺れ動くように。

641 柴が火に燃えれば、湯が煮えたつように/あなたの御名が敵に示されれば/国々は御前に震える。2 期待もしなかった恐るべき業と共に降られれば/あなたの御前に山々は揺れ動く。3 あなたを待つ者に計らってくださる方は/神よ、あなたのほかにはありません。昔から、ほかに聞いた者も耳にした者も/目に見た者もありません。

4 喜んで正しいことを行い/あなたの道に従って、あなたを心に留める者を/あなたは迎えてくださいます。あなたは憤られました/わたしたちが罪を犯したからです。しかし、あなたの御業によって/わたしたちはとこしえに救われます。

5 わたしたちは皆、汚れた者となり/正しい業もすべて汚れた着物のようになった。わたしたちは皆、枯れ葉のようになり/わたしたちの悪は風のように/わたしたちを運び去った。6 あなたの御名を呼ぶ者はなくなり/奮い立ってあなたにすがろうとする者もない。あなたはわたしたちから御顔を隠し/わたしたちの悪のゆえに、力を奪われた。

7 しかし、主よ、あなたは我らの父。わたしたちは粘土、あなたは陶工/わたしたちは皆、あなたの御手の業。8 どうか主が、激しく怒られることなく/いつまでも悪に心を留められることなく/あなたの民であるわたしたちすべてに/目を留めてくださるように。

 

説教要約(文責 近藤)

 

【人類の願い】

イザヤ書63章後半「どうか天を裂いて降ってください。」と今日の箇所で神の民は切に祈りました。「どうか天を裂いて降ってください。」は人類の願です。遠い天国を去り降ってきて私たちを助けてくださいと大昔のユダヤ人は願いました。

 

【人の罪】

当時の人々だけでなく多くの人の願でもあります。この切なる理由が少し考えただけで私たちにも分かると思います。どんな楽観的な人でも自分と周りの人と社会を見ればあらゆる点で良くないことに気付くはずです。人はあらゆる点で罪と欠点の存在であると分かります。自己の我侭で悪いと知りながら隣人に罪を犯し、そのことを正当化します。愛する者をさえ傷つけます。ニュースを見ると日々実にひどい事件があり、犯罪、殺人、暴力、暴行、戦争などがあり、これが普通だと思われると絶望的になることもあります。

 

【人は進歩したか】

私たち人間は素晴らしい存在だと言うものもあります。昔と違い人類は科学において素晴らしい進歩を遂げました。科学を通して神の創造が理解できます。ロケットを飛ばして宇宙でロボットを使い調べることなどは素晴らしく進歩しました。

 

【人の本性は変わらない】

しかし残念ながら人間の性質は昔と一つも変わりません。少しでも良くなったでしょうか。実は昔と全く同じです。人は自己中心的です。神が人を創られたとき人間の幸福のために神の戒めを守るように教えられました。しかし人は自分の知恵に頼り自分の思いで歩むようになりました。その結果、悲しみ、苦しみが起こってきました。聖書ではこの状態を罪と言います。

 

イザヤ書645節に記されたとおりです。

わたしたちは皆、汚れた者となり/正しい業もすべて汚れた着物のようになった。わたしたちは皆、枯れ葉のようになり/わたしたちの悪は風のように/わたしたちを運び去った。」

 

私たちが神を拒否することで神と人の関係は悪くなり、人と人との関係も悪くなりました。ある人はキリスト教は罪を強調するので暗い宗教だと言います。

 

人は嫌なことや悪いことに関して言いたくないので隠す傾向があります。例えば福島では放射線から逃れたいけれど、他に選択のない人は黙って耐えてそこに住むしかないのです。

嫌なことは避けたい忘れたいのですが、それで決して問題が無くなるわけではありません。

 

【罪から逃れられない人間】

罪もそうです。ある人は人間は基本的に良い存在と言い、本能的にふるまえば大丈夫だと言います。私もそう考えたいです。醜い社会の罪は忘れたい。しかしその考えは間違っている。罪のことを考えなかったら罪は無くなりません。ストレートに言えば罪を認めるしかありません。罪は明らかなことで避けられないことです。

 

この深刻な問題に直面した預言者イザヤと同じように神に「どうか天を裂いて降ってください」と祈り願うしかありません。罪の力があまりに強いので自己の力で解決しようとすれば絶望するしかありません。私たちの力で罪は解決できません。

 

【御子の受肉】

憐れみ深い全能の神は人間のこの切なる願いを聞き、丁度良い時に天からキリストを私たちを助けるために遣わして下さいました。神こそが天を裂いて降って下さいました。

 

そればかりか神は謙遜になって天の栄光を捨てて人間になりこの世に来られました。聖書によると

言葉、すなわち神の御子キリストは肉体となり私たちの内に宿りました。

 

来週はこの素晴らしいニュースを聞きます。神が人となり私たちと同じ誘惑と闘い、同じ疲れ、同じ歓びと悲しみを経験してくださいました。それはイエス・キリストを通してです。

 

【幼子イエス様】

愛する創造主なる全能の神が栄光と力を捨てて人間の赤ちゃんとなられました。これは驚くべきことです。私たち罪人の為に天国のあらゆる特権をイエス様は自ら捨てて私たちのために人間の赤ちゃんになられたのです。イエス様は私とあなたのために人間になって下さいました。しかしイエス様は罪を全く犯されませんでした。父の神に完全に従われました。

 

【ある家出した妻】

ある若い婦人が何不自由のない生活をしていましたが、毎日のつまらない変化のない生活から我慢できなくなり逃げ出したくなりました。

 

そして家出をしました。その夜夫に電話して自分は大丈夫だが、もう家には帰らないと言いました。夫は妻を愛しているから直に帰ってくるように懇願しました。しかし妻はそれを断りました。妻は何度か家に電話し、そのたびに夫は妻を愛しているから早く帰るように頼みました。

 

遂に寂しくなった夫は探偵を雇い彼女の居場所を探してもらいました。ある遠い街の宿屋にいることがわかったので夫はすぐに飛行機で彼女の所に飛びました。妻のいる部屋の戸を夫は震えながら開けました。彼女は夫を見て一瞬驚きましたが、途端に夫に抱き着き泣き出しました。そして家に一緒に帰りました。

 

帰ってから夫は妻に聞きました。なぜ電話で貴女を愛していると何度も言ったのに帰ってくれなかったかと。彼女は夫に答えました。あなたはいつも愛していると言ってくれたが、それは口先ばかりの愛ではないかと思ったのです。しかし私を探してわざわざ私の所まで来てくれたのであなたの愛を確信できましたと答えました。だから帰ろうと思ったのです。

 

【神の愛】

全能の神様は口先ばかりの愛でなく犠牲的愛でその証拠をお示し下さいました。主イエスはこの世に来られたばかりか、もっと大きな問題、罪を解決するために御自身を十字架に架けて死んで下さいました。その贖いの御業によって神様の御前に出る特権が与えられました。

 

私たちは神の愛された子供となりその父なる神様の全ての祝福を与えられました。

 

愛する兄弟姉妹。私たちにとって御降誕のイエス様は飼葉桶の可愛らしい赤ちゃんに過ぎないだけでしょうか。それともこの世の救い主、あなたの救い主ですか。

 

主が天を裂いて肉体をとって世に降られた神の愛に私たちは驚きを覚えますか。主イエス・キリストを通して天のあらゆる恵みを下さいます。そのことを覚えて心からの感謝を主なる神に捧げましょう。(おわり)

 

 

 

 

 

 

 

 

2012年12月16日 | カテゴリー: イザヤ書 , 旧約聖書

2012年12月2日説教「クリスマスの準備」ウイリアム・モーア宣教師

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2012122日説教「クリスマスの準備」ウイリアム・モーア宣教師

 

聖書:旧約聖書イザヤ書401~5

1 慰めよ、わたしの民を慰めよと/あなたたちの神は言われる。2 エルサレムの心に語りかけ/彼女に呼びかけよ/苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた、と。罪のすべてに倍する報いを/主の御手から受けた、と。

3 呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備え/わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。4 谷はすべて身を起こし、山と丘は身を低くせよ。険しい道は平らに、狭い道は広い谷となれ。5 主の栄光がこうして現れるのを/肉なる者は共に見る。主の口がこう宣言される。

 

説教要約(文責 近藤)

【預言者イザヤ】

今日は教会歴ではAdvent待降節の第1主の日です。1223日クリスマスの4週前になります。

キリスト教会はこの季節に特に救い主の来臨と再臨について学びます。御子イエス・キリストの誕生は預言者を通して啓示してくださいました。今日はクリスマスの準備のために旧約聖書におけるイエス・キリスト来臨についての預言を新たに学びます。

 

今日与えられた御言葉の背景を簡単に説明します。

イザヤは主の御降誕の前700年にイスラエルで活躍し神の御言葉のメッセンジャーとして働きました。

当時のユダヤ人は主の恵みと教えを忘れ周りの国々に倣って偶像礼拝に陥り反省も悔い改めもせず、預言者の声にも聞かず、それゆえに主はアッシリア帝国を用いて紀元前722年北イスラエルを滅ぼされました。その住民はアッシリアに連れて行かれました。

 

【神の懲らしめと慰め】

更にイザヤは紀元前586年南ユダのバビロン捕囚を預言し、それは100年後に実現しユダヤ人はバビロンに連れていかれました。神の民には神の懲らしめが必要でしたが同時に神は慰めと希望のメッセージをも与えてくださいました。それは懲らしめはいつまでも続くことなく捕囚からの解放と故国帰還の預言です。イザヤ書40章1~2節の御言葉に預言されています。

 

イザヤ書401 慰めよ、わたしの民を慰めよと/あなたたちの神は言われる。

2 エルサレムの心に語りかけ/彼女に呼びかけよ/苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた、と。罪のすべてに倍する報いを/主の御手から受けた、と。

 

この預言は赦しの宣言です。主は憐れみの神ですから私たち人間を赦し神との良き正しい関係を復帰させたいのです。それ故にこの素晴らしい赦しの約束を宣言しました。2節後半、

 

「・・苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた、と。罪のすべてに倍する報いを/主の御手から受けた、と。」

 

まことに嬉しいメッセージです。外国でイスラエルの民は主の懲らしめを受けたが、もう一度主の豊かな恵みを受ける確かな希望です。実にこれは主イエス・キリスト来臨の預言です。

 

人の罪を赦すことのできるお方は神の御子イエス様だけです。

2012年前、初めてのクリスマスに神は私たちを慰めるため、主イエスを遣わして、主イエスはすべての罪の咎を私たちに代わって贖ってくださいました。主は私たちの罪の全てに倍する報いを受けられました。

 

それが2節の御言葉です、2 エルサレムの心に語りかけ/彼女に呼びかけよ/苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた、と。罪のすべてに倍する報いを/主の御手から受けた、と。」

 

【救い主の到来の備え】

私たちがこの救いを受けるためには準備が必要です。

 

3節以下の御言葉、3 呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備え/わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。4 谷はすべて身を起こし、山と丘は身を低くせよ。険しい道は平らに、狭い道は広い谷となれ。5 主の栄光がこうして現れるのを/肉なる者は共に見る。主の口がこう宣言される。」

 

大昔、中東では大王が領土を通るとき、その道が安全であるかどうかを調べるために使者を送りました。道が悪ければ道を整えました。そうして王は速やかに安全に道を通ることができました。王の王、主の主なる救い主を迎えるために整えられた道路とは私たち人間の心の準備です。

 

私たち人間が世界と宇宙の創造者、王の王、主の主である御子を受け入れるのに為すべき準備とは何でしょうか。

 

【預言が成就】

イザヤから700年後にこの預言が成就しました。

新約聖書マタイ福音書3章に書かれています。それは主の道を整えるために洗礼者ヨハネが現れました。

 

1 そのころ、洗礼者ヨハネが現れて、ユダヤの荒れ野で宣べ伝え、2 「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言った。3 これは預言者イザヤによってこう言われている人である。「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、/その道筋をまっすぐにせよ。』」。

 

【クリスマスの準備:悔い改め】

クリスマスの準備とは悔い改めることです。私たちの罪が道を曲げています。罪を自覚しそれを失くすことの第一歩は悔い改めることです。誤った自己中心を改め、何よりも自分が変わること、自分の罪を認め、悔い改めて神との正しい関係に入ることです。そのことによって主イエスの霊は私たちの心に入る余地があります。

 

皆さん、尊敬する客人を家に迎えるには準備します。家を掃除してきれいにします。おいしい料理でもてなしをして客を歓迎します。同様に悔い改めると私たちの心に主を歓迎することになります。

 

今年のアドベントに自身を吟味し自分の罪の掃除をしませんか。家を清めるのと同じように、心を清めることで神の御子なる主イエスをお迎えするのです。

 

プレゼントや料理も良いですが第一にすべき準備とは悔い改めること、自分中心に考えるのでなく、相手を中心に考えると、わたしたちの行動もずいぶん変わります。主にあって私たちは一つになれるのです。

 

親が変われば子も変わるという言葉があります。私が変われば周囲も変わる。

アドベントに際して悔い改めることによってこの世の唯一の救い主、主イエスの御降誕を祝う準備ができます。

 

【主の再臨を迎える準備】

アドベントに際してこれから来られる主の再臨も切に待ち望みます。主は再び来られます。再臨のとき全ての人は主の御栄光をはっきりと仰ぎます。

主の再臨を迎える準備は主のアドベントの準備と同じです。

 

「悔い改めよ。天の国が近づいた」。今悔い改め救い主イエス・キリストを心から受け入れ主に従うことは同時に再臨の準備になります。

愛する兄弟姉妹。今年も共に恵まれた待降節を過ごしたいと主は願っておられます。(おわり)

 

 

 

 

2012年12月02日 | カテゴリー: イザヤ書 , 旧約聖書

2012年9月9日説教「赦しの恵み」ウイリアム・モーア宣教師

2012年9月9日説教「赦しの恵み」ウイリアム・モーア宣教師

聖書:詩編23篇1~11.

1 【ダビデの詩。マスキール。】いかに幸いなことでしょう/背きを赦され、罪を覆っていただいた者は。2 いかに幸いなことでしょう/主に咎を数えられず、心に欺きのない人は。

3 わたしは黙し続けて/絶え間ない呻きに骨まで朽ち果てました。4 御手は昼も夜もわたしの上に重く/わたしの力は/夏の日照りにあって衰え果てました。〔セラ
5 わたしは罪をあなたに示し/咎を隠しませんでした。わたしは言いました/「主にわたしの背きを告白しよう」と。そのとき、あなたはわたしの罪と過ちを/赦してくださいました。〔セラ

6 あなたの慈しみに生きる人は皆/あなたを見いだしうる間にあなたに祈ります。大水が溢れ流れるときにも/その人に及ぶことは決してありません。
7 あなたはわたしの隠れが。苦難から守ってくださる方。救いの喜びをもって/わたしを囲んでくださる方。〔セラ

8 わたしはあなたを目覚めさせ/行くべき道を教えよう。あなたの上に目を注ぎ、勧めを与えよう。9 分別のない馬やらばのようにふるまうな。それはくつわと手綱で動きを抑えねばならない。そのようなものをあなたに近づけるな。10 神に逆らう者は悩みが多く/主に信頼する者は慈しみに囲まれる。11 神に従う人よ、主によって喜び躍れ。すべて心の正しい人よ、喜びの声をあげよ。

説教要約(文責近藤)

【10人の有名人】
英国人の俳優で劇作家のノエル・ハーワードはロンドンに住む10人の有名人にイタズラをしかけました。「わたしはあなたが犯した行為を知っている。それを公表しないならロンドンを去ってもらう」と書いて匿名で手紙を送りました。この10人は6か月以内に全てロンドンから去りました。それは彼ら10人は自分の罪が知られることを好まず余儀なく自らロンドンを去りました。罪がなかったらその手紙を無視したでしょう。
箴言に「神に逆らう者は追う者もないのに逃げる」(28:1)とあります。
10人は自分の罪を隠したかった。しかしいつか明らかにされる不安と罪の意識に苛まれて生涯を歩まねばなりませんでした。

【罪を隠すこと】
私たちは小さな罪にも良心が痛みます。それが明らかにされる心配があります。
罪を隠すことで周りの人との良い交わりが壊されます。過去に行った罪の囚人になり前に進むことが困難になります。

赦されない未解決の罪は神との関係を損ないます。私たちは全て一人残らず罪人です。罪は殺人や強盗、盗みなどの大きな罪に限らず神の正義に逆らう小さな罪もあります。
コヘレトの言葉7章20「 善のみ行って罪を犯さないような人間は/この地上にはいない。」とあります。

今日の詩編32篇の御言葉は罪の唯一の解決の道です。それは神の赦しです。

【罪を赦されたダビデ王】
ダビデはイスラエルの王として忠実に神の前に生涯を歩もうとしましたが大きな罪も小さな罪も犯しました。大きな罪とは将軍ウリアの妻バテシバと姦淫し、それを隠そうとウリアを戦場の最前線で戦わせてひそかに彼を殺したことです。
ダビデは許された罪人としてこの詩編を書きました。

まず、その罪が許された者の歓びを歌いその恵みを讃美したのが詩編32篇1~2節です。

【幸いなこと】
詩編32篇1 【ダビデの詩。マスキール。】いかに幸いなことでしょう/背きを赦され、罪を覆っていただいた者は。2 いかに幸いなことでしょう/主に咎を数えられず、心に欺きのない人は。

詩編1篇1~2節にも「1 いかに幸いなことか/神に逆らう者の計らいに従って歩まず/罪ある者の道にとどまらず/傲慢な者と共に座らず、2 主の教えを愛し/その教えを昼も夜も口ずさむ人。」とありますように罪を犯さないことは一番幸いなことです。

しかし罪を犯しても罪を告白し神の赦しを戴くことも幸いであり主の祝福になります。

ここで罪は3つの言葉で説明されます。
1背き:「神の教えに逆らうこと」、
2罪:神の定められた標準に達しないこと。したこと、しないことで神の御旨に従わないこと。
3咎:堕落したこと。

過ちが許されるとこの3つの罪が許されます。
赦しとは持ち去って下さること、完全に処分してくださることです。

【ゴミの処分】
家のゴミを出すのは私の仕事です。それは気持ちの悪いことではありません。汚いゴミが持ち去られ焼却処分されるとスッキリします。捨てたゴミはもう私と関係ありません。もはや存在しないものとなります。

罪が処分されることは詩編103篇12 節にこう記されています。
「東が西から遠い程/わたしたちの背きの罪を遠ざけてくださる。」

罪を告白し悔い改めると神は完全にそれを処分してくださいます。神との良い関係が回復され罪の意識が取り除かれます。

【罪を告白しないとき】
反面、罪を告白しないときの状態が3節に記されています、ダビデ王はいいます、
「3 わたしは黙し続けて/絶え間ない呻きに骨まで朽ち果てました。4 御手は昼も夜もわたしの上に重く/わたしの力は/夏の日照りにあって衰え果てました。」

罪を告白しないと霊的に病気になり、精神的にも肉体的にも及びました。ダビデは罪を隠そうとすると苦しく、辛かった。さらにダビデは神の懲らしめを受けました。
4節を見てください、
「 御手は昼も夜もわたしの上に重く/わたしの力は/夏の日照りにあって衰え果てました。」

我に返らせるため、罪を告白させるため神の聖霊がダビデに罪の意識を拡大させダビデは大変苦しくなり、耐えられなくなってやっと神に自分の罪を告白しました。彼は瞬時に癒されました。5節を見てください、
  5節、わたしは罪をあなたに示し/咎を隠しませんでした。わたしは言いました/「主にわたしの背きを告白しよう」と。そのとき、あなたはわたしの罪と過ちを/赦してくださいました。

【罪の告白】
ダビデは自分の罪を告白し悔い改めました。悔い改めとはその罪を嘆くことでなく、繰り返おさないこと、神とともに正しい方向に歩むことが、本当の悔い改めになります。

愛する兄弟姉妹、
神の赦しを戴くのに主に乞うことも許しのために善行をすることも必要ありません。

私たちが許していただきたい気持ち以上に、神御自身は何よりも私たちを赦したいのです。

神は私たちを赦すために御自身の独り子をこの世に遣わしてくださいました。
主イエスは十字架の上で私たちの罪を贖ってくださいました。
主イエスは私たちに代わって十字架で死んでくださり私たちの報酬を払い神の赦しを保証して砕いました。

ヨハネの手紙一 1章9 節にこう書かれています。
「自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。」

主イエスの救いを信じて、神に告白していない罪、ゴミをいつまでも持つ必要はありません。告白すればダビデ王と同じ歓びを経験できます。

ダビデとともに詩編32篇1~2節をもう一度歌いましょう。
「いかに幸いなことでしょう/背きを赦され、罪を覆っていただいた者は。2 いかに幸いなことでしょう/主に咎を数えられず、心に欺きのない人は。」(おわり)

2012年09月09日 | カテゴリー: 旧約聖書 , 詩篇

2012年8月12日説教「罪の伝達と拡大―神の裁きと憐れみの緊張関係で―」神戸改革派神学校校長 市川康則牧師

 

 2012812日説教「罪の伝達と拡大―神の裁きと憐れみの緊張関係で―」神戸改革派神学校校長 市川康則牧師

         創世記4章1ー26

1 さて、アダムは妻エバを知った。彼女は身ごもってカインを産み、「わたしは主によって男子を得た」と言った。2 彼女はまたその弟アベルを産んだ。アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった。3 時を経て、カインは土の実りを主のもとに献げ物として持って来た。4 アベルは羊の群れの中から肥えた初子を持って来た。主はアベルとその献げ物に目を留められたが、5 カインとその献げ物には目を留められなかった。カインは激しく怒って顔を伏せた。6 主はカインに言われた。「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。7 もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない。」

8 カインが弟アベルに言葉をかけ、二人が野原に着いたとき、カインは弟アベルを襲って殺した。9 主はカインに言われた。「お前の弟アベルは、どこにいるのか。」カインは答えた。「知りません。わたしは弟の番人でしょうか。」10 主は言われた。「何ということをしたのか。お前の弟の血が土の中からわたしに向かって叫んでいる。11 今、お前は呪われる者となった。お前が流した弟の血を、口を開けて飲み込んだ土よりもなお、呪われる。

12 土を耕しても、土はもはやお前のために作物を産み出すことはない。お前は地上をさまよい、さすらう者となる。」13 カインは主に言った。「わたしの罪は重すぎて負いきれません。14 今日、あなたがわたしをこの土地から追放なさり、わたしが御顔から隠されて、地上をさまよい、さすらう者となってしまえば、わたしに出会う者はだれであれ、わたしを殺すでしょう。」15 主はカインに言われた。「いや、それゆえカインを殺す者は、だれであれ七倍の復讐を受けるであろう。」主はカインに出会う者がだれも彼を撃つことのないように、カインにしるしを付けられた。16 カインは主の前を去り、エデンの東、ノド(さすらい)の地に住んだ。17 カインは妻を知った。彼女は身ごもってエノクを産んだ。カインは町を建てていたが、その町を息子の名前にちなんでエノクと名付けた。

18 エノクにはイラドが生まれた。イラドはメフヤエルの父となり、メフヤエルはメトシャエルの父となり、メトシャエルはレメクの父となった。19 レメクは二人の妻をめとった。一人はアダ、もう一人はツィラといった。20 アダはヤバルを産んだ。ヤバルは、家畜を飼い天幕に住む者の先祖となった。21 その弟はユバルといい、竪琴や笛を奏でる者すべての先祖となった。22 ツィラもまた、トバル・カインを産んだ。彼は青銅や鉄でさまざまの道具を作る者となった。トバル・カインの妹はナアマといった。

23 さて、レメクは妻に言った。「アダとツィラよ、わが声を聞け。レメクの妻たちよ、わが言葉に耳を傾けよ。わたしは傷の報いに男を殺し/打ち傷の報いに若者を殺す。

24 カインのための復讐が七倍なら/レメクのためには七十七倍。」

25 再び、アダムは妻を知った。彼女は男の子を産み、セトと名付けた。カインがアベルを殺したので、神が彼に代わる子を授け(シャト)られたからである。26 セトにも男の子が生まれた。彼はその子をエノシュと名付けた。主の御名を呼び始めたのは、この時代のことである。

 

【罪の伝達と拡大―神の裁きと憐れみとの緊張関係のなかで】

今日の説教題にのせましたのは「罪の伝達と拡大―神の裁きと憐れみとの緊張関係のなかで」。

人間の罪は単に継承されるのではなく拡大する、分かりやすく言いますと人間は文明を発達させることができます。発達させて来ました。これはどんな動物にもできません。

猿がどんなに賢くてもできません。しかしその結果、被害、弊害も大きくなってきました。

 

【原発事故、この世の災害の根源】

昨年起こった原発の事故はそれを雄弁に物語ります。原発が良い、悪いを申してるのではありません。原子力発電は素晴らしい力を発揮しました。そのために助かってるものも多いです。しかし一旦何かが起こると、もう被害はとてつもなく大きいのです。これは何も原発に限りません。例えば包丁もそうです。台所に欠かせませんが、包丁は人を刺すことにも使えます。その種の犯罪が多ございます。一面人間は文化の歴史を発達させることができますが、その弊害もまた大きくなったのは事実であります。

 

さて創世記4章の物語から人間の罪が継承される、しかも増大していく。これに対して神の裁きも大きくなっていくが、神の哀れみもまた忘れられず、大きくなると言うことを覚えたい。

 

申し加えますが原発の被害、それが神の裁きだとは言えませんし、言っておりません。

被災した人が、それに値した神の裁きに遭わされたということでもありません。

が人類全体の規模から見るなら「神様の警鐘」という事は言えなくもありません。これは何も震災に限りません。よその国で起こった津波もそうです。よその国で起こった犯罪もそうです。日本人も含めて人類全体が犯した罪の結果という事は一面言えると思います。

そうですが個々の出来事に対する神様の裁きとは言えません。

 

【人類の始祖アダムトエヴァ】

さて堕落したカインの罪は最初ではありません。4章の前に、3章がありますが、その初めにカインの親、アダムとその妻エヴァ、彼らが最初に罪を犯しました。

まぁ杓子定規に言えば、まず初めにエヴァが罪を犯した。しかしエヴァは人類の代表ではありません。アダムが罪を犯すまでは神様は怒りを顕わにされませんでした。

これは私の想像です、カッコしてお聞きください。創世記3章の始まりを見ますと蛇、即ち悪魔がエヴァを誘惑して神に背かせました。そしてエヴァはアダムに果物を食べるよう話しましたが、「園の中央にある善悪の知識を食べるな」と言う神様の命令を直々に受けたのはアダムです。

 

エヴァが木の実をとって食べても、神に背いたとしても、アダムがしなかったなら人類に対して、おそらく神は怒りを発せられなかったでしょう。わたしの推測ですが。

しかし聖書に書いてありますように、残念ながらアダムはエヴァを通じて間接的でありますがサタンの誘惑に屈しました。そしてそれで神様は創世記の3章の中程のところで、最初に言われたように呪いを発せられました。

 

【罪の結果】

創世記317 神はアダムに向かって言われた。「お前は女の声に従い/取って食べるなと命じた木から食べた。お前のゆえに、土は呪われるものとなった。お前は、生涯食べ物を得ようと苦しむ。18 お前に対して/土は茨とあざみを生えいでさせる/野の草を食べようとするお前に。

土は不毛となり、いばらやあざみしか生じない。これは不毛の象徴です。顔に汗して働いても土はいばらやアザミしか生えない。罪の結果、労働は苦しみでしかない。エバはまた生みの苦しみを負う。こうしたことは罪に対する神の人間に対する裁きであります。

 

【神の義】

もう一度申しますが神様は恵み深いお方、憐れみ深いお方です。が罪を多目に見られる方ではありません。きっちりと後始末を付けられる正義の神であります。そうでなければ私たち人間社会は無法状態になります。哀れみ、哀れみ、愛、愛と言って罪を許しておれば、我々人間社会はどうなりますか。悪ばかりが横行いたします。犯罪が起こればその罪に対してきちんと対応すべきであります。後始末をつけるべきです。それは神様がそうされるからですね。

 

【伴侶】

そのように最初にアダムとエヴァは罪を犯しました。神様はアダムをお造りになって、そしてアダムのためにふさわしい助け手をお与えになりました。エヴァをお造りになりました。アダムはエヴァを受け入れ、これこそ「私の骨の骨、肉の肉」と言い、その分身であるかのように、最も近い関係、これをある人は愛の賛歌といいます。男から取ったので女と呼ぼう。日本語では分かりませんがヘブライ語の聖書では、イシュから取ったのでイシャーと呼ぼう。

 

【責任転嫁】

男と女はもちろん区別されますが、アダムとエヴァは別人です。がしかし人間としては同質です。こういう近い関係であったアダムが、罪をおかしてから、アダムは神様から「とって食べるなと命じた木から食べたのか」と言われると、そうするとアダムは「あなたが私のために造って下さったエヴァが私にくれたので私が食べたのです」。自分の罪の責任転嫁を最初にしたのです。

ここでエヴァを自分の罪を擦り付ける対象にした、当然、人間関係が断絶いたします。神に背くと神との関係に亀裂が生じるという事は人間関係においても亀裂が生じるという最初の出来事であります。

 

【殺人の罪】

しかしながらアダムはエヴァを自分の罪の責任転嫁の対象としましたが、しかし、ここではまだ殺人の罪は起こっていません。カインの時になりまして、罪を犯した人間を神は怒っておられる、人間は神に呪われたのとして、アダムもエヴァもカインもそして殺されたアベルも皆同じ罪人です。

 

【罪はエスカレートする】

しかしその罪深さが現れる、現れ方がエスカレートすると、その次が、この4章のこの物語なります。

 

4章の前半を見ますと神様はエヴァとアダムを哀れみ、罪を犯してエデンの園を追放される二人ですけど、なお神様は彼らに哀れみを確保してくださり、エヴァ、命と言う名ですが、その名にふさわしい働きができるように、つまり母となることができるように、人間の命の源となるようにしてくださいました。それが出産です。エデンの園から追放されたにもかかわらず、アダムは尚、命を受け取ることが出来ました。

それが一つです、アダムはエヴァを知ったことでカインを生んだ。エヴァは言った、「わたしは主によって男子を得た」。神様に栄光を帰すると言う素晴らしい表現です。

 

生まれてきた子供が長男カイン、次男アベル、その次の物語が私たちを悩ましますが、カインは土を耕す者となって農耕に従事した。アベルは羊を飼って牧畜に従事した。それぞれ自分の仕事の稔、地の産物または初子を神に捧げた。カインの捧げ物が悪かったと、どこにも書いてありません。何故かわかりませんけれども神様はアベルの捧げ物を嘉し給いました。新改訳聖書では「肥えた羊」が、「最上の羊を群れから取って神様に捧げた」とあります。

それを神様は受け入れられたというのです。

 

カインとその捧げ物には目を止められなかった。目を止められなかったとは受け入れられなかったという事です。神様ですから人間のようにものを直接食べると言う事をいたしません。神様が肉は好きとか嫌いだとは言われません。神様は気まぐれではありませんから、原因が当然あるはずだと言います。

 

【人間の罪深さを暴きだすため】

カインの捧げ物が悪かった。アベルはよかったと言う風に人は見るわけですが、しかし聖書自体の中にはそのことの言及はありません。なぜ神はそうなさったかと言うことですが、この物語がなぜ書かれているかということにですが、聖書の意図を汲み取らねばなりません。これはカインに象徴される人間の罪深さを暴きだすため、描き出すための出来ごとです。

 

実際起こらなかったけれども、作者がそういう風に書いたということでもありません。実際に起こったことですけれども、なんでそんなことが起こったかということです。カインに象徴される人間の罪深さはどれほどのものか、それを明らかにするのが目的でございます。

神様はカインに、なぜ怒るのか、もしお前が正しいのなら、自分の捧げ物にやましいことがなければ、例え弟の捧げ物を神が喜ばれた、受け入れられたとしても自分自身は卑下することはないでしょう。しかしこれができないのが罪人なのです。

 

【サウル王】

ダビデがまだ王となる前のことです。サウル王の家来だった頃、イスラエルの敵ペリシテ人に巨人ゴリアテと言う大将がいて、これにダビデが勝利した。それまでイスラエルはペリシテ人の前に風前の灯火でありました。ダビデがゴリアテを倒したために形勢逆転、イスラエルは大勝利をしました。

 

そしてサウルやダヴィデたちが帰ってきました時に、エルサレムで婦人たちが、「サウルは千を撃ち、ダヴィデは万を撃った」と歌います。サウル王は「王である私が千、家臣のダビデが万」と、これを聞いてそれからダビデを憎むようになりました。愚かなことです。しかしこういうことが人間には起こるのです。

 

人が褒められたら自分が貶されたように思う。それが人間の習性です。自分よりも遥かにえらい牧師先生がいい説教した。あれは良い説教だなぁと何とも思いませんが、自分と同輩の牧師が褒められるとすると、また後輩が褒められたとすると自分は貶されたように思うのですね。自分にも子供がありますが下の子を褒めたのですね、そうすると上の子が自分のことを褒めたのですね。これから子供を褒める時はよく注意しなければならないと思いました。教訓になりましたが、この類のことなんですね。

 

【自分の罪を制することが出来ない】

神様は何もカインを臭しているわけではありませんね。お前の捧げ物は駄目と言っておられるわけではありません。何かわかりませんけれどもアベルの捧げ物を受け取られました。

それでカインは腹を立て、この時、自分の罪深さを制することが出来ない程になっている、それがこれから明らかになります。神は言いました、「もしお前が正しいのなら顔をあげればいいでしょう」。つまり「私を見ることができるはずだ」と言われました。

 

7節後半、「正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない。」と罪を制御せよとの警告です。

 

【最初の殺人】

カインはアベルと野に行ったのですが、その時にアベルを襲って殺してしまいました。カインは当然質問されます。「お前の弟アベルはどこに行ったか」。それはちょうど最初に罪を犯したアダムが神様を恐れて木の根元に身を寄せて隠れた。「お前はどこに居るのか」。神様はお見通しですが、罪を犯した人間が神様を直視できないことがわかる象徴的な出来事です。

「お前はどこにいるか」と。「あなたを恐れて隠れています」。

今度は「弟アベルはどこにいるか」。そうしたらカインは「知りません」と答える。こんな大胆不敵な答えはありません。「知りません」というのはもう「関わりはありません」ということです。

 

私は弟の番人でしょうか」、番人と訳されております言葉は世話をする、保護をするという意味もあります。世話人、保護者。新約聖書の、特にイエス様の言葉を大胆に用いますと、隣人という意味です。それは世話をする、保護すべき相手です。「私は弟の番人でしょうか。知りません。

 

こうしてアダムが既に罪人でありましたが、まだアダムが犯さなかった殺人という大罪をカインは犯しました。しかしこれはカイン個人の問題ではありません。もしカインがアベルを殺さなかったならアベルはそのまま大きくなったでしょう。がアベルも神様の前には罪人です。人間の罪はこうして増大します。

 

【失楽園】

17節、カインは神様にエデンの園を追放されます。カインは追放されてノド、カッコして「さすらい」という地に移ります。住み着いた、定住したところが「さすらい」の地、矛盾しています。「さすらい」とは「定住しない」ことです。神に命を守られながらも、自覚の上では神様を捨てる、神から去っていく、放浪するということを表している。相応しいの町の名前であると思います。

 

【二人の妻を娶ったレメク】

その子孫に子供が生まれます。そして18節、レメクという人物が登場します。このレメクは傲慢な服を着ている人間で、19節、二人の妻を娶った。神様がアダムに妻としてお与えになったのはエヴァ一人でした。一人の夫、一人の妻、そこで二人は霊肉ともに一体となることができる、真実な交わりを深めることができるのです。

 

二人の妻を娶るという事は、一夫多妻ですが、そこでは真に一対一の人格関係は生まれません。一夫多妻はなんのためにあるのか。それは人間が堕落した結果でありますが、古代社会のことを考えますと今のように医学は発達していませんので、しかも家系を絶やさぬことがなく一門の繁榮のために、子孫が繁榮しなければなりません。そういうことから一夫多妻が普遍化されますが、もう一つは女性を男の欲望の手段とするということです。

レメクが二人の妻を娶ったというのは人間を自分の欲望の手段と化したというとんでもないことです。

 

【無制限な復讐】

23節、そしてレメクの言葉は、創世記4

23 さて、レメクは妻に言った。「アダとツィラよ、わが声を聞け。レメクの妻たちよ、わが言葉に耳を傾けよ。わたしは傷の報いに男を殺し/打ち傷の報いに若者を殺す。

4:24 カインのための復讐が七倍なら/レメクのためには七十七倍。」

 

カインのための復讐が七倍なら/レメクのためには七十七倍」、この復讐は神様の定められた限界を遥かに超えています。自分を神よりも上に置いています。どういうことかと言いますと、カインがアベルを殺しました。そして神様の怒りに触れて御許から去っていきます。彼は恐れます。

 

14節を見ますと「14 今日、あなたがわたしをこの土地から追放なさり、わたしが御顔から隠されて、地上をさまよい、さすらう者となってしまえば、わたしに出会う者はだれであれ、わたしを殺すでしょう」。質問、カインに誰が出会うでしょう。カインとアベル二人しかいない世界です。

 

【額に印を】

5章を見ますとアダムはカインとアベル、セト、この後にまた男と女をもうけて二人の子供だけではありません、いずれにせよ、カインは自分は殺人をしておいて自分が殺されるのを恐れた得手勝手な人間です。カインが殺されないようにカインに印をつけられたと書かれてあります。

 

もし誰かがカインを殺したなら神様はその復讐をなさる。その復讐は7倍、誰かがカインの命を取れば取ったものから7倍の復讐をすると言われます。そんなことできないことですが、これは殺人の罪がどんなに重いことかと言うことを表します。それを神は許さないということを語る明瞭な神の意思表示です。

 

殺人を犯したカインですら、そのカインを殺すなら神様は7倍の復讐をすると。今レメクはどうか。カインのための復讐が7倍ならばレメクための復讐は77倍、無制約、無限ということです。7というのは完全数、77倍というのはもう無制限に復讐するということ、しかも神様はカインが殺されたら、そうするということですが、レメクは殺されなくても、傷だけでも人を殺すというのです。23節、「傷の報いに男を殺し、打ち傷の報いに若者を殺す」。

 

自分が殺されるのでもない、ただ傷を負う、それでも相手を殺す。復讐心が増大するということ、つまり罪は増大するということであります。

それは神様の呪いが増大するからであります。こうして人の罪に対する神の怒りは増大します。

 

しかし神様は一方で哀れみをもお忘れになりません。エスカレートする罪と怒りをなお抑制される。神様がカインに命じられた、

4:7 もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない。」

お前は罪を支配しなければならない。それができなかったですね。神様は罪に対して怒り心頭に達しておられます。

 

悪いのは人間ですからこの地球を滅ぼしても、罪を犯した始めの時点で神は人を滅ぼしたとしても、神様には不正、落ち度はありません。が神様はそうなさらなかった。罪を犯して罪を制御できない人間に対し神は怒り心頭に達していても、なおご自分を自制されるのであります。それがカインに対する、また人間に対する憐れみであります。

 

いま申しましたように自分は殺人を犯しながら自分が殺されることを恐れる。そのカインに対して神様はエデンの園から、つまりご自分との交わりからは追放なさいます。けれどもそれでも尚カインが殺されないように処置を講じられました。その額に一つの印をつけられたとあります。その印は何であったか詮索する、知る必要はありませんが、いろんなことを考えます。刺青のようなものでなかったか。いずれにせよカインを保護されたということであります。

 

【カインは街をたてた】

それだけではなくカインがノドーさすらいと言う名前のついた街でありますけれども、

17節で、街を建てています。街とは共同生活の象徴であります。創世記126節以下を見ますとは神は、他の被造物はその種類に従って造られたわけですが、人間だけは神に似せて、「我々に似せて」、つまり神に象って人を創ろうと言われました。

神様はお一人ですが、不思議なことに、ご自分のことを「我々」と言われます。「我々」と呼ばれる神様の像に人間を造られた。人間は複数の存在であります。だからアダムからエヴァを作られたのであります。アダムとエヴァからカインとアベル、セトが増えるようになりました。

 

人は初めから複数に、皆で営みます。みんなで生きるのです。その象徴が街を建てるという事であります。街を建てるという事は、街で一緒に生活するということです。

 

街で一緒に生活できないとどうなるか。仙人になるしかありません。

 

何の材料を用いて街を建てたか分かりません。れんがであれ木であれ、何であれ神様が創造において自然の中に与えておられるものを用いて造られました。

 

カインが加工したかも知れませんが、それを用いて街を造った。神様は罪を犯した人間がなお共同生活ができるように、人間にふさわしい生活ができるようにしてくださいました。

 

そしてレメクに子供が生まれます。

一人はアダ、もう一人はツィラといった。20 アダはヤバルを産んだ。ヤバルは、家畜を飼い天幕に住む者の先祖となった。21 その弟はユバルといい、竪琴や笛を奏でる者すべての先祖となった。22 ツィラもまた、トバル・カインを産んだ。彼は青銅や鉄でさまざまの道具を作る者となった。

 

【人類文化文明の発展】

ヤバルは牧畜を営むものの先祖となる。ユバルは竪琴や笛を奏でるもの音楽、芸術の祖、それからトバルカインは青銅や鉄で様々なものを創る工業の祖となりました。大工の工、鉱業の鉱、どちらの意味でも産業ですね。

 

牧畜の延長線上に農耕。様々な産業。つまり神様は堕落して、人を殺すほどに、堕落した人類に尚共同生活を、単なる共同生活ではなく、猿でも共同生活します、その程度ではありません。文化を営むことができるようにされました。歴史を形成するために文化を達成されたのであります。個人としても、共同体としても、肉体的にも精神的にも、文化的にも社会的にも、人類が生きる事ができるように神様はして下さったのです。

 

【音楽の賜物】

宗教改革者のカルバンは神様がカインの子孫に音楽の賜物を与えたことについて、御霊の賜物、聖霊の神様は侮るべからず、音楽は御霊の賜物であると賞賛したほどです。通常御霊の賜物というのは福音、信仰の成長ということで用いられますが、カルバンは、断りまして、ここはいかなる意味でも救いではないが、しかしそれでも侮ってはいけない。神様が人類にお与えになった御霊の賜物である。神は罪を犯し続ける人間を怒られますけれども同時に哀れんでくださる。

 

【主のみ名を呼び始めた】

創世記425 再び、アダムは妻を知った。彼女は男の子を産み、セトと名付けた。カインがアベルを殺したので、神が彼に代わる子を授け(シャト)られたからである。

 

25節を見ますと再びアダムはエバを知った。先に2人の子供が与えられたが、一人は兄弟によって殺された。一人は追放された。後を継ぐ者がいなくなった。しかしそれでも神様はアダムを哀れんでくださり、エバがその名前の通り、「命の源」となることができるように、もう1人の男の子供をお与えになりました。カインがアベルを殺したのでアベルに変わる子を授けられた。「授ける」と言うことから「セト」と名付けました。

 

神は罪人に対してこの上なく厳しく怒られ、同時に罪は罪として裁かれますが、人そのものを憐れみ、尚生きることができるように、しかも身体的にも精神的の文化的にも豊かな意味に於いて生きることができるように神はしてくださいました。

 

【命の継承】

そして25節を見ますと、セトにも子供が生まれた。カインに象徴される人間は、神にのみ属するという命というもの、命は神にのみ所有権がありますが、カインに象徴される人間は命を奪います。それでも神は人類から命がなくならないように、人類が命を継承する、あるいは伝達することができるようにしてくださいました。そしてセトが生まれました。

 

そしてセトがエノシュを産みました。主のみ名を呼び始めたのはこの時代のことである。主のみ名を呼ぶという事は、わかり易く言えば礼拝するということです。それまで神様を礼拝しなかったと言う訳ではない、どんな形式で礼拝するかわかりませんけれども、積極的に神様を礼拝するという事が起こりました。こうしてこの創世記4章は神様の憐れみで始まった。

 

アダムとエヴァから命の継承を象徴する出来事、子供の出生という神様の哀れみが始まります。人間はそれを台無しにし、神様はそれを怒られますが、それでも神様は哀れんでくださって人間の子孫が絶えることのないように、むしろそれを豊かに発展、継承させるために、そして再び神様の命の継承、和解で閉じられます。

 

そして次の5章へと展開します。神は再三申しますが、罪に対して大目に見ることはなさいません、後始末を付けられます。

 

【主イエス・キリスト】

しかし、それを許す手立ても講じられます。この時から何年たったかわかりませんが、遥か後代でありますけれども、イエス・キリストと言う方が来られます。このイエス・キリストはカインとは正反対で全く罪を犯されなかった。

 

誘惑に逢われましたが、その誘惑をことごとく退けて神様に対して完全であられました。それを聖書は義と申します。ところがこの義人イエスを人類の罪をすべてこのイエスに負わ人類の身代わりに否人類の代表として罪の王国の王として厳罰に処せられた。

 

【十字架刑】

それは十字架に付けるということですが、十字架刑はイスラエルの伝承では神に呪われたもの、石打の刑よりもっと呪われたもの、木に架けられたということですが、時代はローマのものは時代ですからローマ帝国では十字架刑は通常用いられませんでした。少なくともローマの市民には用いられませんでした。国家に対する反逆や大罪といったものにのみ用いられる、例外的なでありました。それが十字架刑で、ナザレのイエスはローマ帝国からも、ユダヤの伝統からも裁かれたということです。何のため裁かれたか、それは人類の罪を裁くためです。人類の罪を裁くための神様の処置であったのです。こうして神様はナザレのイエスを十字架につけられて、怒りを爆発されました。しかしこのナザレのイエスは30年半余りの生涯で、罪を全く犯されなく義であられました。そのことを神様ご自身が示されたのが復活であります。こうしてイエス・キリスト信じるものは、イエス・キリストの十字架の処罰が信じる者、私自身の罪に対する神の処罰であります。それで私の罪は許され、帳消しにしてくださいます。

 

さらに自分自身では守れない神の戒めを、神のみ心を、それをイエス・キリストが完璧に守ってくださって神の前に義であると、信じる私もまた主イエス・キリストの故に義と認めていただけるということであります。神様はイエス・キリストの死と復活、二〇〇〇年経っていますが、それを信じない者、罪を悔い改めないものに、それを求められます。

 

罪の処罰は間違いなくあります。しかし主イエスを信じる者には裁かれません。キリストを信じる人々の主として神様は、それを要求されません。それは主イエス・キリストの復活の命を豊かに注いで下さり、豊かに生きることができるようにしてくださいます。

 

イエス・キリストより遥か昔に起こった出来事はそれを表します。私たちはこれから先何が起こるかわかりませんが、イエス・キリストによって神様に守られている。キリストの死と復活が私の罪の処置と生きる力である。それを信じて私たちは生きたいと願います。そして主にある恵みを人々に証していきたい、共有していきたいと思いますね。(おわり)

 

 

 

 

2012年08月12日 | カテゴリー: 創世記 , 旧約聖書

「あなたに従う道を教えてください」ウイリアム・モーア2011.6.26

【ダビデ王の生涯】

今日、私達は詩編の学びを続けたいと思います。私達は詩編を第一編からずっと順番に学んで来て、今日第25編が与えられました。全体的に見れば、詩編は神の御言葉として何よりも私達に信仰を教えて下さいます。すなわち、神を信じ、頼る私達に相応しい態度と精神を悟らせます。

 

詩編の作者ダビデ王は自分の生涯において色んな経験がありました。大勝利の時があったら、どん底まで落ちた時もありました。とても元気な時期を過ごしても、力が全部抜けて病気の体験も結構ありました。イスラエルの王としてダビデは権力がありながらでも、同時に沢山の敵に襲われて、常に危機に直面しました。彼は色々な家庭内の問題もあって、悩まされました。ダビデ王は人生に高い山と深い谷のような本当に激しい人生を送りました。私達よりも遥かにもっと劇的な生涯ではないかと思います。しかし、ダビデ王は与えられた誠の信仰から離れず、いつも神の助けで失望せず立ち上がる事が出来、正しく、積極的に生きました。

 

2011年06月26日 | カテゴリー: 旧約聖書 , 詩篇

「主こそ栄光に輝く王」ウイリアム・モーア2011.5.8.

 

聖書:詩編第24篇1−10

 

【神の本質と人間との関わり】

皆さん、今日与えられた御言葉、詩編第24篇を通して神様は、私達に誠の信仰の最も大事な真理を啓示して下さいます。

 

それは、神御自身はどのような神なのか、神が私達人間とどう言う関係を求めておられるのかという事です。

 

実は、この二つの基本的な事が分からなかったら、本当の信仰は不可能になります。ですから、少なくとも信仰の対象である神の事と、その神と私達の関わりが分かる必要があります。そうしないと、信仰はあまりにも漠然な物になり、意味はあまりありません。

2011年05月08日 | カテゴリー: 旧約聖書 , 詩篇

「二つの誘惑」ウイリアム・モーア2011.3.27

創世記2章15−17;3章1−7

マタイによる福音書4章1−11

 

【空腹の子】

ある小学生の男の子は学校の帰りに一人で近所のスーパーに入り、お菓子の所へ行きました。そして、お腹が空いて来た彼は一番好きなお菓子を手に取り、ずっと眺めました。それを買って食べたいけれども、一円も持って来なかったので買う事は無理だと分かりました。しかし、お菓子を眺める程、腹ぺこになり、うっかりそのお菓子を開けてしまいました。

 

その瞬間お店の人がそれを見て、男の子に、「君は何をしたの」と聞きました。そして、男の子は、慌てて、「何もしてないよ、何もしてないよ」と言いました。店員さんは、「君はお菓子を開けて食べようとしたじゃないか」と聞くと、坊やは泣きながらこう返事しました。「違うよ。まだ食べてない。僕はただお菓子を食べないように頑張っていたよ」と言いました。

 

【二つの誘惑】

私たちは一人も残らず坊やの気持ちがよく分かると思います。それは誘惑を受ける事と誘惑と戦う事です。今朝、誘惑の事について一緒に考えたいと思います。今日与えられた二つの聖書の個所は、御言葉の中の最も有名な誘惑のお話になります。

 

最初の人間アダムとその妻エバの誘惑と、神の御子イエス・キリストの誘惑であります。両方は誘惑されましたが、アダムとエバは誘惑に負けて、エデンの園から追い出されました。その反対に、主イエス・キリストは誘惑の上に勝利を得て、人類の為に大きな恵みをもたらして下さいました。ですから、私たちは両方の誘惑から学ぶとき、誘惑に対する私たちの正しい戦略と態度を習得します。

 

2011年03月27日 | カテゴリー: マタイによる福音書 , 創世記 , 新約聖書 , 旧約聖書

「主は羊飼い」ウイリアム・モーア2011.2.20

聖書:詩編23篇1−6

 

【私には何も欠ける事がない】

「わたしには何も欠ける事がない。」それは詩編第23編に於けるダビデ王の素晴らしい告白です。自分の長い人生を振り返って見ると、「わたしには何も欠ける事がない」と言う事が出来ました。

 

つまり、自分の経験では、生涯、全ての必要な事が備えられたのです。乏しい事が全然ありませんでした。私たちも自分自身について同じような告白が出来るでしょうか。自分の生活について何も欠ける事がないと言えるのでしょうか。

 

恐らく私たちはダビデ王の告白を聞くと羨(うらや)ましくなります。と言うのは、自分自身の状態について考えますと、なかなか正直に、「わたしには何も欠ける事がない」と言えません。「健康さえ満足だったら何でも出来る。」「人間関係がもう少し上手な人であったら、何でも旨くいくのに。」「お金がもう少しあれば、どんなに助かるか。」「コネがあったら子供は良い就職が出来たのに。」「頭が回らない。兄のように賢かったら、もっと成功したのに。」皆さん、心当たりがありますか。

 

本来の人間の状態だと思いますが、私たちは自分の足りない事をよく考えて、いつも持ってない、あるいは不十分な事を欲しがっています。小さい時には、おもちゃや好きな食べ物ぐらいで、割合に簡単な要求でしたが、青年と大人になると、様々な事、色々な物が足りないと言う気持ちでいっぱいになるのは普通だと見えます。

 

ダビデ王の告白、「わたしには何も欠ける事がない」は到達出来ない夢のような状態だと思われます。「いつかそう言う気持ちになったら、大変有り難いのですが、今はちょっと難しい」と思う人が数え切れません。

 

ダビデ王はどうしてそういう告白が出来ましたか。恐らく、イスラエルの国王だった為、彼は「わたしには何も欠ける事がない」と言えたのでしょうか。確かにダビデはイスラエルの王になってから、物質的に豊かになりました。国の一番良い物はエルサレムの宮殿に豊かに入りました。しかし、ダビデ王は物質的に豊かになっても、様々な問題と悲劇にぶつかりました。聖書にはダビデの生涯のストーリーが全部記されています。

 

2011年02月20日 | カテゴリー: 旧約聖書 , 詩篇

「見捨てられたと思った時」ウイリアム・モーア2011.1.23

聖書:詩編22篇2−32

 

 

【神の沈黙】

皆さん、神によって見捨てられた気持ちになった事がありますか。大変困った時、必死に神に祈りましたが、答えが帰って来るどころか、何も変わりがなく、沈黙しか聞こえなかった事がありましたか。自分の祈願が無駄だと思い、神の御臨在が自分から遠ざかっていった気持ちのした経験がありますか。

 

【重病の祖母】

私は12歳の頃、初めてそのような経験をしました。祖母が急に病気になり、病院へ運ばれました。治療があまりうまくいかなかった為、命が危ない状態になりました。ですから離れて住んでいたうちの家族は急いで祖母の病院へ訪ねました。病室に入ると幼い私はショックを受けました。以前はとても元気で、活発なお祖母さんが意識を失い、重体の状態でした。そして、一生懸命に息を吸おうしていましたが、祖母の努力はあんまり効果がなかったです。その大変な光景を見た私は何よりもお祖母さんを助けたい気持ちがあったのですが、何も出来なかった為、とても無力なフィーリングでした。そして、私は祈りました。「神様、病気になったお祖母さんを助けて下さい。息が出来ないから命が危ない。あなたは神様ですから、お祖母さんを治す事が出来る。お願いだから元気なお祖母さんを私に返して下さい」と心から祈りました。

 

2011年01月23日 | カテゴリー: 旧約聖書 , 詩篇

「人間に語ってくださる神」ウイリアム・モーア2010.8.15

詩編19篇1−14

1:【指揮者によって。賛歌。ダビデの詩。】2:天は神の栄光を物語り/大空は御手の業を示す。3:昼は昼に語り伝え/夜は夜に知識を送る。4:話すことも、語ることもなく/声は聞こえなくても5:その響きは全地に/その言葉は世界の果てに向かう。そこに、神は太陽の幕屋を設けられた。6:太陽は、花婿が天蓋から出るように/勇士が喜び勇んで道を走るように7:天の果てを出で立ち/天の果てを目指して行く。その熱から隠れうるものはない。  8:主の律法は完全で、魂を生き返らせ/主の定めは真実で、無知な人に知恵を与える。9:主の命令はまっすぐで、心に喜びを与え/主の戒めは清らかで、目に光を与える。10:主への畏れは清く、いつまでも続き/主の裁きはまことで、ことごとく正しい。11:金にまさり、多くの純金にまさって望ましく/蜜よりも、蜂の巣の滴りよりも甘い。12:あなたの僕はそれらのことを熟慮し/それらを守って大きな報いを受けます。13:知らずに犯した過ち、隠れた罪から/どうかわたしを清めてください。14:あなたの僕を驕りから引き離し/支配されないようにしてください。そうすれば、重い背きの罪から清められ/わたしは完全になるでしょう。

 

【詩編第19篇のすばらしさ】

今日与えられた詩編第19篇は全ての詩編の中で特別な存在があります。有名な作家と神学者であるC.S.ルイスは詩編第19篇についてこのように述べました。「 第19篇に勝る詩編もないし、更に、世界の歴史上、優れた詩の中の一つであります。」この詩の言い回しはとても美しいが、神の御言葉としてその内容は更に素晴らしいものです。

2010年08月15日 | カテゴリー: 旧約聖書 , 詩篇

「まことに主がこの場所におられる」ウイリアム・モーア2010.7.11

創世記28章10−22(讃美歌 320)

◆ヤコブの夢

 10:ヤコブはベエル・シェバを立ってハランへ向かった。11:とある場所に来たとき、日が沈んだので、そこで一夜を過ごすことにした。ヤコブはその場所にあった石を一つ取って枕にして、その場所に横たわった。12:すると、彼は夢を見た。先端が天まで達する階段が地に向かって伸びており、しかも、神の御使いたちがそれを上ったり下ったりしていた。

 13:見よ、主が傍らに立って言われた。「わたしは、あなたの父祖アブラハムの神、イサクの神、主である。あなたが今横たわっているこの土地を、あなたとあなたの子孫に与える。14:あなたの子孫は大地の砂粒のように多くなり、西へ、東へ、北へ、南へと広がっていくであろう。地上の氏族はすべて、あなたとあなたの子孫によって祝福に入る。15:見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない。」

 16:ヤコブは眠りから覚めて言った。「まことに主がこの場所におられるのに、わたしは知らなかった。」17:そして、恐れおののいて言った。「ここは、なんと畏れ多い場所だろう。これはまさしく神の家である。そうだ、ここは天の門だ。」18:ヤコブは次の朝早く起きて、枕にしていた石を取り、それを記念碑として立て、先端に油を注いで、19:その場所をベテル(神の家)と名付けた。ちなみに、その町の名はかつてルズと呼ばれていた。20:ヤコブはまた、誓願を立てて言った。「神がわたしと共におられ、    わたしが歩むこの旅路を守り、食べ物、着る物を与え、21:無事に父の家に帰らせてくださり、主がわたしの神となられるなら、22:わたしが記念碑として立てたこの石を神の家とし、すべて、あなたがわたしに与えられるものの十分の一をささげます。」

 

【夢】

心理学者によりますと、私達人間は眠る時、誰でも、夢を見るそうです。特に、ラム睡眠(急速眼球運動サイクル)の時、私達はよく夢を見ます。そして、目覚めると、ある人々は見た夢をよく覚え、生々しくその内容を語る事が出来ます。うちの家内はそのような人です。実は、家内の夢には自分の両親や子供がよく現れます。その場合、家内は心配して夢に出て来た人に直ぐ電話してその調子を確認します。もっと酷い時は夜中の3時に自分の母親が病気かもしれないと起された事もあります。

 

2010年07月11日 | カテゴリー: 創世記 , 旧約聖書

「ダビデの証」ウイリアム・モーア2010.6.6

詩編18篇24

2:主よ、わたしの力よ、わたしはあなたを慕う。

3:主はわたしの岩、砦、逃れ場/わたしの神、大岩、避けどころ/わたしの盾、救いの角、砦の塔。

4:ほむべき方、主をわたしは呼び求め/敵から救われる。

 

【ダビデ王の神体験】

今日与えられた御言葉は何よりもダビデ王の信仰の証になります。つまり、この詩編第18編はダビデの神体験を語ります。ダビデの生涯に於いて主の救いと、慈しみと、力と、御臨在を豊かに表現します。また、ダビデはこの証を通して神とどのような関係と交わりを持ったかをはっきり示しています。

 

言うまでもなく、ダビデは信仰の英雄であって、自分の信仰の故に神によって豊かに用いられていました。更に、彼は聖書に於いて「御心に適う人」と呼ばれています。ですからダビデは信仰に於いて私達の為に立派な模範を示します。

 

信仰の英雄と立派な模範を示しても、ダビデは決してスーパーマンではありませんでした。私達と同じような人間であって、弱さも結構ありました。

 

実は、神がダビデに立派な信仰を授けたのです。彼は自分の力でそれを作り上げた訳ではなかったのです。しかし、ダビデは与えられた信仰を精一杯生かして、実行する強い意志がありました。

 

愛する神は、私達一人一人にもその同じような信仰を賜りたいのです。実は、ダビデのような信仰は普通になるはずです。つまり、神様の目から見るとそのような信仰は標準なのです。私達に大きな恵み、また大きな働きを賜る為に神様はダビデ程の信仰を私達に授けたいです。ですから、私達は何よりもダビデのような信仰を持ちたいのです。

 

2010年06月06日 | カテゴリー: 旧約聖書 , 詩篇

「神よ、わたしに答えてください」ウイリアム・モーア2010.4.25

聖書:詩編17篇【全】

 

【ダビデ王の試練】

私は詩編を読むと色々な印象を受けますが、一つは、多くの詩編を書いた人物、ダビデは、生涯に於いて大変なトラブルや試練などを経験しました。私達は今日で、詩編第1篇から第17篇まで順番に学んで来ましたが、その中の大部分がダビデの作品です。そして、その中の7割程はトラブルや病気や敵の攻撃などからの解放と助けのお祈りになります。

2010年04月25日 | カテゴリー: 旧約聖書 , 詩篇

「真の富」ウイリアム・モーア2010.4.18

聖書:箴言10章22「人間を豊かにするのは主の祝福である。人間が苦労しても何も加えることはできない。」

 

 

【マクブライドとボートライト長老】

この間、ニュウースで驚くべき記事を見ました。それは二人の男の人がアメリカの宝くじで一等に当たって、318億ドルを儲けました。それは日本円で3万億円になります。人が宝くじで一等に当たったのはそれ程珍しい話ではないけれども、その背景と賞金の使い方はびっくりしました。一等に当たったのはオハイオ州のマクブライドさんとジョージア州のボートライトさんです。

2010年04月18日 | カテゴリー: 旧約聖書 , 箴言

「無常の時代に住むための信仰(2)思い起こす」ウイリアム・モア2010.2.7

【写真:アメリカ合衆国長老教会アジア太平洋宣教局長ハドソン師Rev.David Hudsonとモーア宣教師】


ヨシュア記4章1−7◆記念の十二の石

  1:民がすべてヨルダン川を渡り終わったとき、主はヨシュアに言われた。 2:「民の中から部族ごとに一人ずつ、計十二人を選び出し、3:彼らに命じて、ヨルダン川の真ん中の、祭司たちが足を置いた場所から、石を十二個拾わせ、それを携えて行き、今夜野営する場所に据えさせなさい。」

  4:ヨシュアはイスラエルの各部族から一人ずつ、かねて決めておいた十二人を呼び寄せて、5:言った。「ヨルダン川の真ん中の、あなたたちの神、主の箱の前に行き、イスラエルの人々の部族の数に合わせて、石を一つずつ肩に    担いで来い。6:それはあなたたちの間でしるしとなるであろう。後日、あなたたちの子供が、これらの石は何を意味するのですかと尋ねるときには、7:こう答えなさい。『ヨルダン川の流れは、主の契約の箱の前でせき止められた。箱がヨルダン川を渡るとき、ヨルダン川の流れはせき止められた。これらの石は、永久にイスラエルの人々の記念となる』と。」

 

 

【無常の時代に住むための信仰】

先週から私達は無常の時代に住むための相応しい信仰の学びを始めました。現代のこの世は目まぐるしい程変化して、その変化の影響により私達の生活がますます変わります。変化をもたらすグローバリゼーションやテロや温暖化や科学技術などは色んな問題を起こしてしまいました。そして、その結果はストレスと思い煩いです。

 


2010年02月07日 | カテゴリー: ヨシュア記 , 旧約聖書

わが救いの神を待つ ウイリアム・モーア 2009.12.06

ミカ書7章1−7◆民の腐敗

  1:悲しいかな/わたしは夏の果物を集める者のように/ぶどうの残りを摘む者のようになった。もはや、食べられるぶどうの実はなく/わたしの好む初なりのいちじくもない。2:主の慈しみに生きる者はこの国から滅び/人々の中に正しい者はいなくなった。皆、ひそかに人の命をねらい/互いに網で捕らえようとする。3:彼らの手は悪事にたけ/役人も裁判官も報酬を目当てとし/名士も私欲をもって語る。しかも、彼らはそれを包み隠す。4:彼らの中の最善の者も茨のようであり/正しい者も茨の垣に劣る。お前の見張りの者が告げる日/お前の刑罰の日が来た。今や、彼らに大混乱が起こる。5:隣人を信じてはならない。親しい者にも信頼するな。お前のふところに安らう女にも/お前の口の扉を守れ。6:息子は父を侮り/娘は母に、嫁はしゅうとめに立ち向かう。人の敵はその家の者だ。

  7:しかし、わたしは主を仰ぎ/わが救いの神を待つ。わが神は、わたしの願いを聞かれる。

 

 

【最近、新聞が見たくなくなった】

小学校の4年生頃から私は新聞を読む習慣がありました。毎日学校が終わって家に帰ると、必ず新聞を手に取って、前から後ろまで貪り読みました。殆ど何でも読みましたが、スポーツの記事だけはあんまり興味がなかったのです。今もそうです。恐らくそれはスポーツが得意ではなかったかもしれません。とにかく、新聞を読む事によって色んな事を学んで来て、様々な情報を得る事が出来ました。

 

【アルビノ狩り】

しかしながら、最近一つの記事を読む事によって私の新聞読書の趣味が随分楽しくなくなりました。実は、その悲しい記事の為に新聞契約をキャンセルする気持ちにもなっています。それ程気がかりな事であったからです。

それは、最近東アフリカで白皮症を患う人、すなわちアルビノ達は文字通りに獲物になってしまう事です。

2009年12月06日 | カテゴリー: ミカ書 , 旧約聖書

とこしえに揺らぐことがない者 ウイリアム・モーア

聖書:詩編15篇1−5

1:【賛歌。ダビデの詩。】主よ、どのような人が、あなたの幕屋に宿り/聖なる山に住むことができるのでしょうか。2:それは、完全な道を歩き、正しいことを行う人。心には真実の言葉があり3:舌には中傷をもたない人。友に災いをもたらさず、親しい人を嘲らない人。4:主の目にかなわないものは退け/主を畏れる人を尊び/悪事をしないとの誓いを守る人。5:金を貸しても利息を取らず/賄賂を受けて無実の人を陥れたりしない人。これらのことを守る人は/とこしえに揺らぐことがないでしょう。

          
【主の日の礼拝】
今朝私達は神を礼拝する為にこの所に集って参りました。毎週、日曜日の朝ごとにここに集まる動機は色々あると思いますが、基本的に私達は恵み深い誠の生ける神を誉め讃える為に、暇だからではなく、心こめて主の日の礼拝に参加します。
 
この美しい世界と莫大な宇宙を無から創造し、全人類一人一人も貴重にお造りになりました。思い返せば、日々の生活が全能の神によって守られ、支えられる事にすぐ気付きますので、そういう神に感謝を持って主の御前に出たいのです。ですから、愛する神に感謝と讃美を示す目的で、今朝ここに集いました。何よりも、その為に私達は御言葉を持って讃美し、感謝のお祈りを捧げます。

2009年11月08日 | カテゴリー: マタイによる福音書 , ヨハネの手紙一 , 新約聖書 , 旧約聖書 , 詩篇

わたしは、あなたの住んでいる所を知っている ウイリアム・モーア

聖書:ヨハネの黙示録2章12−17

12:ペルガモンにある教会の天使にこう書き送れ。『鋭い両刃の剣を持っている方が、次のように言われる。13:「わたしは、あなたの住んでいる所を知っている。そこにはサタンの王座がある。しかし、あなたはわたしの名をしっかり守って、わたしの忠実な証人アンティパスが、サタンの住むあなたがたの所で殺されたときでさえ、わたしに対する信仰を捨てなかった。  14:しかし、あなたに対して少しばかり言うべきことがある。あなたのところには、バラムの教えを奉ずる者がいる。バラムは、イスラエルの子らの前につまずきとなるものを置くようにバラクに教えた。それは、彼らに偶像に献げた肉を食べさせ、みだらなことをさせるためだった。15:同じように、あなたのところにもニコライ派の教えを奉ずる者たち    がいる。16:だから、悔い改めよ。さもなければ、すぐにあなたのところへ行って、わたしの口の剣でその者どもと戦おう。17:耳ある者は、"霊"が諸教会に告げることを聞くがよい。勝利を得る者には隠されていたマンナを与えよう。また、白い小石を与えよう。その小石には、これを受ける者のほかにはだれにも分からぬ新しい名が記されている。」』

 
【マクドナルドで】
少し前、アメリカ滞在中に次男ポールの大学卒業式の為に南部のノースカロライナ州から北部のボストン市まで往復約3、000キロの旅をしました。長い旅ですから、コーヒを飲む為によく高速道路のマクドナルドに車を止めました。そして、ある朝早くの事ですがコーヒを注文すると、レジの請求がメニューに載ってある値段より、半分位安くなっていました。それはめったにない事ですから、不思議に思いながらでも、うれしくって、店の人に言わずにまず席に戻りました。でも、やはり私は安いコーヒーの理由が知りたかったのです。ですからコーヒのレシートをよく見ると、コーヒの代わりに「snrdrnk」と言う、分からない言葉が書いてありました。

2009年11月01日 | カテゴリー: ヨハネによる福音書 , ヨハネの黙示録 , 新約聖書 , 旧約聖書 , 詩篇

「神はおられるのか」 淀川キリスト教病院伝道部長田村英典牧師

淀川キリスト教病院伝道部長田村英典牧師


聖書:ヨハネ福音書1章14~18

14:言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。15:ヨハネは、この方について証しをし、声を張り上げて言った。「『わたしの後から来られる方は、わたしより優れている。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のこ とである。」 16:わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。17:律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。  18:いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。  


【神はおられるのか?】
今朝は、神はおられるのか、という根本的なことをお話させていただきたいと思います。
一体、この天地万物を無から造られ、今も一切を導いておられる永遠者、また絶対者なる真の神はおられるのでしょうか。私は、20歳の時クリスチャンになりましたが、その前はこのことでかなり迷いました。もし神が本当におられるのなら、神を信じ、神に従うのは当然のことであり、何ら特別なことではありません。
 
しかし、神が存在しないのなら、そういったことは全くナンセンスです。存在もしないのに、存在するかのように信じて生きること程、愚かで馬鹿げたことはありません。ではどちらなのでしょうか。どちらでもないということは、あり得ません。必ず、どちらかなのです。しかし、それが分らず、かつては私も随分迷いました。
 
いずれにせよ、これは私たちの生きる意味や目的とも関係し、また私たちが死んだ後、どうなるのかということにも関る重大なことです。
そこで幾つかの点から見てみたいと思います。

2009年10月25日 | カテゴリー: コヘレトの言葉 , ヨハネによる福音書 , ローマの信徒への手紙 , 使徒言行録 , 新約聖書 , 旧約聖書 , 詩篇

「目を上げて、救いの神を仰ぐ」詩編121篇 神戸改革派神学校教授 牧野信成

聖書:詩編121篇

1:【都に上る歌。】目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。わたしの助けはどこから来るのか。 2:わたしの助けは来る/天地を造られた主のもとから。 3:どうか、主があなたを助けて/足がよろめかないようにし/まどろむことなく見守ってくださるように。 4:見よ、イスラエルを見守る方は/まどろむことなく、眠ることもない。5:主はあなたを見守る方/あなたを覆う陰、あなたの右にいます方。6:昼、太陽はあなたを撃つことがなく/夜、月もあなたを撃つことがない。7:主がすべての災いを遠ざけて/あなたを見守り/あなたの魂を見守ってくださるように。8:あなたの出で立つのも帰るのも/主が見守ってくださるように。今も、そしてとこしえに。 

                                【巡礼の詩】 今朝は、多くの信仰者に愛されてきた詩編の一つから、信仰の導きを与えられたいと願っています。先ほどお読みしました、詩編121篇です。信仰者の巡礼の旅を歌う詩であり、祈りです。「巡礼歌」、字義通り翻訳しますと「上る歌」となりますが、詩編120篇から始まっています一連の巡礼歌は、一続きの文脈を形作っている、つまりそこにはドラマがありますので、それを意識して続けて読まれることをお勧めします。もちろん、今までのように、一篇一篇をそれぞれに味読して良いのですけれども、段落全体のまとまりを念頭に読みますと、より聖書に即した読み方ができます。

2009年09月06日 | カテゴリー: 旧約聖書 , 詩篇

足のともし火 江戸浩三伊丹教会長老

 江戸浩三伊丹教会長老

聖書:詩篇119篇105

"あなたのみことばは私の足のともし火、私の道の光です"  ルカ福音書8章16~17 ともし火をともして、それを器で覆い隠したり、寝台の下に置いたりする人はいない。入ってくる人に光が見えるように、燭台の上に置く。隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、人に知られず、公にならないものはない。

  
 
【ともし火】
きょう、皆さんにお伝えする言葉は、ともしび、です。ともし火と聞くと小さな火を連想できます。とろとろと燃えている火をともし火、と表現しますが電気の光でも、ともし火と言えるでしょう。遠方に見える、ぼんやり見える小さな光。
どこかの外灯かもしれません。歩く動きに合わせて左右に揺れる提灯の灯り。
 
霧のなかの灯台の灯り。小さく見えて頼りなさそうな一筋の光ですがとても重要な役目を持っていることは言うまでもありません。その光を頼りに難を逃れて目的地にたどり着けることはほんとうにうれしいことです。

2009年08月09日 | カテゴリー: 旧約聖書 , 詩篇

神との契約に生きる ―その恵みと厳粛さ― 神戸改革派神学校校長市川康則牧師

聖書:士師記11章29‐40節

士師エフタの誓願29:主の霊がエフタに臨んだ。彼はギレアドとマナセを通り、更にギレアドのミツパを通り、ギレアドのミツパからアンモン人に向かって兵を進めた。30:エフタは主に誓いを立てて言った。「もしあなたがアンモン人をわたしの手に渡してくださるなら、31:わたしがアンモンとの戦いから無事に帰るとき、わたしの家の戸口からわたしを迎えに出て来る者を主のものといたします。わたしはその者を、焼き尽くす献げ物といたします。」32:こうしてエフタは進んで行き、アンモン人と戦った。主は彼らをエフタの手にお渡しになった。33:彼はアロエルからミニトに至るまでの二十の町とアベル・ケラミムに至るまでのアンモン人を徹底的に撃ったので、アンモン人はイスラエルの人々に屈服した。

エフタの一人娘34:エフタがミツパにある自分の家に帰ったとき、自分の娘が鼓を打ち鳴らし、踊りながら迎えに出て来た。彼女は一人娘で、彼にはほかに息子も娘もいなかった。35:彼はその娘を見ると、衣を引き裂いて言った。「ああ、わたしの娘よ。お前がわたしを打ちのめし、お前がわたしを苦しめる者になるとは。わたしは主の御前で口を開いてしまった。取り返しがつかない。」36:彼女は言った。「父上。あなたは主の御前で口を開かれました。どうか、わたしを、その口でおっしゃったとおりにしてください。主はあなたに、あなたの敵アンモン人に対して復讐させてくださったのですから。」 37:彼女は更に言った。「わたしにこうさせていただきたいのです。二か月の間、わたしを自由にしてください。わたしは友達と共に出かけて山々をさまよい、わたしが処女のままであることを泣き悲しみたいのです。」38:彼は「行くがよい」と言って、娘を二か月の間去らせた。彼女は友達と共に出かけ、山々で、処女のままであることを泣き悲しんだ。39:二か月が過ぎ、彼女が父のもとに帰って来ると、エフタは立てた誓いどおりに娘をささげた。彼女は男を知ることがなかったので、イスラエルに次のようなしきたりができた。40:来る年も来る年も、年に四日間、イスラエルの娘たちは、ギレアドの人エフタの娘の死を悼んで家を出るのである。


 

【士師(しし)エフタの請願と悲嘆】

旧約時代、イスラエルの民が安定した王朝国家形成をする前、「士師(しし)」と呼ばれた指導者がその時々の必要に応じて神に立てられ、イスラエルを統治、指導していた時代のことです。士師記にはギデオン、サムソンなど有名な士師が登場しますが、エフタもその一人です。エフタに関する記事は11章1節から12章7節ですが、ここで目を引くのは、11章29‐40に記される、主に対するエフタの請願が引き起こした"悲劇"でしょう。すなわち、自分の請願のために一人娘を神に捧げなければならなかったことです。

2009年08月02日 | カテゴリー: 士師記 , 旧約聖書

井戸端会議 ウイリアム・モーア宣教師

詩編42篇2−3a

2:涸れた谷に鹿が水を求めるように/神よ、わたしの魂はあなたを求める。3:神に、命の神に、わたしの魂は渇く。

ヨハネによる福音書4章◆イエスとサマリアの女

1:さて、イエスがヨハネよりも多くの弟子をつくり、洗礼を授けておられるということが、ファリサイ派の人々の耳に入った。イエスはそれを知ると、2:――洗礼を授けていたのは、イエス御自身ではなく、弟子たちである――3:ユダヤを去り、再びガリラヤへ行かれた。4:しかし、サマリアを通らねばならなかった。5:それで、ヤコブがその子ヨセフに与えた土地の近くにある、シカルというサマリアの町に来られた。6:そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅に疲れて、そのまま井戸のそばに座っておられた。正午ごろのことである。

7:サマリアの女が水をくみに来た。イエスは、「水を飲ませてください」と言われた。8:弟子たちは食べ物を買うために町に行っていた。9:すると、サマリアの女は、「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」と言った。ユダヤ人はサマリア人とは交際しないからである。10:イエスは答えて言われた。「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。」11:女は言った。「主よ、あなたはくむ物をお持ちでないし、井戸は深いのです。どこからその生きた水を手にお入れになるのですか。12:あなたは、わたしたちの父ヤコブよりも偉いのですか。ヤコブがこの井戸をわたしたちに与え、彼自身も、その子供や家畜も、この井戸から水を飲んだのです。」

13:イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。14:しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」15:女は言った。「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。」16:イエスが、「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」と言われると、17:女は答えて、「わたしには夫はいません」と言った。イエスは言われた。「『夫はいません』とは、まさにそのとおりだ。18:あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。あなたは、ありのままを言ったわけだ。」19:女は言った。「主よ、あなたは預言者だとお見受けします。20:わたしどもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」21:イエスは言われた。「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。22:あなたがたは知らないものを礼拝しているが、わたしたちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。23:しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。

24:神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」25:女が言った。「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます。」26:イエスは言われた。「それは、あなたと話をしているこのわたしである。」


【渇きの記憶】
皆さん、喉が大変渇いた覚えがありますか。夏にお庭や畑で働いて汗をかくと、冷たい麦茶はとても美味しいですね。でもそれは本当の渇きではありません。もし本当に渇いたら、飲む事しか考えられなくなります。喉だけではなく、口も渇いて来て、倒れるかと思う程の渇きの体験がありますか。

私はその体験が一度ありました。それは12歳ぐらいの時なんですけれども、父と一緒に山の奥の小屋に上る時でした。夏の一番暑い時期、空に雲一つない焼きつくような日でした。道の先に泉があると思ったので、水筒の水を全部飲んでしまいました。眩しい日の下に山を登りながら、その泉の爽やかな水に憧れました。ようやく泉の所に着いた時、すぐ水のもとに行って、飲もうと走って行きました。しかし、冷たい湧き出る水の代わりに、乾いた石と泥しか残っていませんでした。やはり長い間雨が降らなかった為、泉の水が枯れてしまいました。言うまでもなく、私は大変がっかりした。しかし、水が沢山ある山の頂きまでには、まだまだ時間がかかりましたが、山の上に向けて頑張るしかありませんでした。渇いた口を少しでも楽にさせる為、父が小さい石を拾って口の中に入れて下さって、舐めるように言われたけれども、それはあんまり効果がありませんでした。そして、今度は足が疲れて来て、痙攣を起こして、殆ど歩けなくなりました。

皆さん、笑ってしまうかも知れませんが、私は山道の中で死ぬかと想像しました。しかし、父が側で助けて、何とかして山の頂上に着きました。すぐその時、素晴らしい水を一杯飲む事が出来ました。それだけではなく、頭も足にも爽やかな水を掛けました。その瞬間まるで生き返るような気がしました。その40何年程前の事は今も生々しく覚えています。

2009年04月26日 | カテゴリー: 旧約聖書 , 詩篇

神を無視する者 ウイリアム・モーア宣教師

詩編14篇1−7

1:【指揮者によって。ダビデの詩。】神を知らぬ者は心に言う/「神などない」と。人々は腐敗している。忌むべき行いをする。善を行う者はいない。

2:主は天から人の子らを見渡し、探される/目覚めた人、神を求める人はいないか、と。

3:だれもかれも背き去った。皆ともに、汚れている。善を行う者はいない。ひとりもいない。

4:悪を行う者は知っているはずではないか。パンを食らうかのようにわたしの民を食らい/主を呼び求めることをしない者よ。5:そのゆえにこそ、大いに恐れるがよい。神は従う人々の群れにいます。

6:貧しい人の計らいをお前たちが挫折させても/主は必ず、避けどころとなってくださる。7:どうか、イスラエルの救いが/シオンから起こるように。主が御自分の民、捕われ人を連れ帰られるとき/ヤコブは喜び躍り/イスラエルは喜び祝うであろう。


【熊に襲われた無神論者】
ある日一人の無神論者が深い山に入り、進化論がもたらした美しい大自然を敬服しながら歩き回りました。突然、後ろからの酷いウオーと唸る声を聞いて、振り返って見ると背丈2メートル程の巨大な熊が自分の方へ襲って来ました。無神論者は出来るだけ速く逃げましたが、熊は段々追い迫ってきました。彼は一生懸命に速く走ったけれども、熊は益々近づき、今すぐでも熊に食われる状況でした。心臓がドキドキしていた彼は必死でしたが、ついに石に躓いて転びました。そして、立ち上がろうとしたが、熊は彼の上に立って、前の足で攻撃するところでした。言うまでもなく、無神論者は非常に恐怖を感じ、われ知らずに、「神よ、助けて下さい」と叫びました。

2009年02月08日 | カテゴリー: 旧約聖書 , 詩篇

恐れてはならない ウイリアム・モーア宣教師

出エジプト記14章1−16◆葦の海の奇跡

1:主はモーセに仰せになった。2:「イスラエルの人々に、引き返してミグドルと海との間のピ・ハヒロトの手前で宿営するよう命じなさい。バアル・ツェフォンの前に、それに面して、海辺に宿営するのだ。3:するとファラオは、イスラエルの人々が慌ててあの地方で道に迷い、荒れ野が彼らの行く手をふさいだと思うであろう。4:わたしはファラオの心をかたくなにし、彼らの後を追わせる。しかし、わたしはファラオとその全軍を破って栄光を現すので、エジプト人は、わたしが主であることを知るようになる。」彼らは言われたとおりにした。

5:民が逃亡したとの報告を受けると、エジプト王ファラオとその家臣は、民に対する考えを一変して言った。「ああ、我々は何ということをしたのだろう。イスラエル人を労役から解放して去らせてしまったとは。」

6:ファラオは戦車に馬をつなぎ、自ら軍勢を率い、7:えり抜きの戦車六百をはじめ、エジプトの戦車すべてを動員し、それぞれに士官を乗り込ませた。8:主がエジプト王ファラオの心をかたくなにされたので、王はイスラエルの人々の後を追った。イスラエルの人々は、意気揚々と出て行ったが、9:エジプト軍は彼らの後を追い、ファラオの馬と戦車、騎兵と歩兵は、ピ・ハヒロトの傍らで、バアル・ツェフォンの前の海辺に宿営している彼らに追いついた。 10:ファラオは既に間近に迫り、イスラエルの人々が目を上げて見ると、エジプト軍は既に背後に襲いかかろうとしていた。イスラエルの人々は非常に恐れて主に向かって叫び、 11:また、モーセに言った。「我々を連れ出したのは、エジプトに墓がないからですか。荒れ野で死なせるためですか。一体、何をするためにエジプトから導き出したのですか。 12:我々はエジプトで、『ほうっておいてください。自分たちはエジプト人に仕えます。荒れ野で死ぬよりエジプト人に仕える方がましです』と言ったではありませんか。」13:モーセは民に答えた。「恐れてはならない。落ち着いて、今日、あなたたちのために行われる主の救いを見なさい。あなたたちは今日、エジプト人を見ているが、もう二度と、永久に彼らを見ることはない。14:主があなたたちのために戦われる。あなたたちは静かにしていなさい。」

15:主はモーセに言われた。「なぜ、わたしに向かって叫ぶのか。イスラエルの人々に命じて出発させなさい。16:杖を高く上げ、手を海に向かって差し伸べて、海を二つに分けなさい。そうすれば、イスラエルの民は海の中の乾いた所を通ることができる。


【嵐の夜のこと】
ある嵐の夜、お母さんが自分の小さい息子を寝かしてつけようとしました。しかし、雷が落ちそうな激しい音でゴロゴロと鳴った為、坊やは恐れて、なかなか落ち着いて寝られませんでした。お母さんはライトを消し部屋を出ようとした時、坊やは、「ママ、雷が恐いから、ずっと朝まで行かないでよ」と頼みました。そして、お母さんは坊やをやさしく抱いてこう言いました。「ご免ね、ママはパパの部屋で寝なくちゃならない、だから、それは出来ないよ。」その事を聞いて坊やは、「ほら、ママも雷が怖いんでしょう」と泣きそうな声で返事しました。

2009年01月25日 | カテゴリー: 出エジプト記 , 旧約聖書

いつまで、主よ ウイリアム・モーア宣教師

詩編13編1:【指揮者によって。賛歌。ダビデの詩。】

2:いつまで、主よ/わたしを忘れておられるのか。いつまで、御顔をわたしから隠しておられるのか。

3:いつまで、わたしの魂は思い煩い/日々の嘆きが心を去らないのか。いつまで、敵はわたしに向かって誇るのか。

4:わたしの神、主よ、顧みてわたしに答え/わたしの目に光を与えてください/死の眠りに就くことのないように5:敵が勝ったと思うことのないように/わたしを苦しめる者が/動揺するわたしを見て喜ぶことのないように。

6:あなたの慈しみに依り頼みます。わたしの心は御救いに喜び躍り/主に向かって歌います/「主はわたしに報いてくださった」と。


【リンカン大統領の悩み】
恐らくリンカン大統領はアメリカの全ての大統領の中、最も偉大な指導者でありました。特に南北戦争の大変な危機の間、リンカン大統領は国の統一を守り、そして戦争後、国の傷を癒す為、敗北した南部に対して寛大な政策を採用しました。

リンカン大統領は南北戦争では非常に悩みました。同国民の間に70万人程の戦死者があって、戦傷者の人数も酷かったのです。そして、その戦争の悩みの上にリンカン大統領は更に個人的な悩みもありました。その南北戦争の間に11歳の最愛の息子ウィリー君が腸チフスになりました。ウィリー君が 一ヵ月間病気と戦かっている間、リンカン大統領と奥さんはその病床から殆ど離れませんでした。目撃者の話によりますと、大統領は寝ずに息子の看病をしていて、繰り返し繰り返し、このように嘆いたそうです。「これは一生の一番辛い試練だ。どうして、どうして、私がこの酷い目にあうんだろう。」そして遂にウィリー君が息を引き取ると、悲しみに沈んだリンカン大統領は泣きながらこう言いました。「私の可哀想な息子よ。この世ではあんまり善い子だったので、神様がウィリーを天に召されたのね。天国はこの世よりもっと良い所だと信じていても、我々はどれほどこの子を愛したか。死なれたら、辛くてたまりません。」

私たち皆は子であり、親であるので、このリンカン大統領の気持ちが十分分かると思います。そして、いつかは誰でもリンカン大統領が経験した試練を受ける事になると思います。それが重い病気や、深刻な家族の問題や、経済的危機や、愛する者の死や、砕かれてしまった夢などのようなものかもしれませんが、いつか私達にも直面する時が来ます。そして、その霊魂の暗闇に私達はリンカン大統領のように「どうして、どうして、私がこの酷い目にあうんだろうか」と神に叫びます。

2009年01月11日 | カテゴリー: 旧約聖書 , 詩篇

株からひとつの芽が萌えでた ウイリアム・モーア宣教師

イザヤ書11章1−10◆平和の王

1:エッサイの株からひとつの芽が萌えいで/その根からひとつの若枝が育ち2:その上に主の霊がとどまる。知恵と識別の霊/思慮と勇気の霊/主を知り、畏れ敬う霊。3:彼は主を畏れ敬う霊に満たされる。目に見えるところによって裁き を行わず/耳にするところによって弁護することはない。 4:弱い人のために正当な裁きを行い/この地の貧しい人を公平に弁護する。その口の鞭をもって地を打ち/唇の勢いをもって逆らう者を死に至らせる。5:正義をその腰の帯とし/真実をその身に帯びる。6:狼は小羊と共に宿り/豹は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち/小さい子供がそれらを導く。7:牛も熊も共に草をはみ/その子らは共に伏し/獅子も牛もひとしく干し草を食らう。8:乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ/幼子は蝮の巣に手を入れる。9:わたしの聖なる山においては/何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。水が海を覆っているように/大地は主を知る知識で満たされる。10:その日が来れば/エッサイの根は/すべての民の旗印として立てられ/国々はそれを求めて集う。そのとどまるところは栄光に輝く。


【近所の空地】
うちの近所を散歩する時、いつもある空き地を通ります。その空き地はただ何もない駐車場のような所ではないし、また、手入れを全然していない雑草のジャングルでもありません。誰かがその空き地で美しいお庭を作りました。オリブの木とか、ハーブとか、お花も奇麗に植えてあります。その所を通ると、特に立ちこめるハーブの香りは歩く人を引き付けます。ですから、私達も例外ではありません。散歩する度に、家内と私はその所でよく足を止め、一分でも庭を眺め、楽しむのが習慣のようになりました。

2008年11月30日 | カテゴリー: イザヤ書 , 旧約聖書

人の言葉と神の言葉 ウイリアム・モーア宣教師

詩編12篇1:【指揮者によって。第八調。賛歌。ダビデの詩。】

2:主よ、お救いください。主の慈しみに生きる人は絶え/人の子らの中から/信仰のある人は消え去りました。3:人は友に向かって偽りを言い/滑らかな唇、二心をもって話します。4:主よ、すべて滅ぼしてください/滑らかな唇と威張って語る舌を。5:彼らは言います。「舌によって力を振るおう。自分の唇は自分のためだ。わたしたちに主人などはない。」

6:主は言われます。「虐げに苦しむ者と/呻いている貧しい者のために/今、わたしは立ち上がり/彼らがあえぎ望む救いを与えよう。」7:主の仰せは清い。土の炉で七たび練り清めた銀。8:主よ、あなたはその仰せを守り/この代からとこしえに至るまで/わたしたちを見守ってくださいます。9:主に逆らう者は勝手にふるまいます/人の子らの中に/卑しむべきことがもてはやされるこのとき。


【ホロコースト博物館】
最近、私は新聞の記事で感動させられました。その記事はロサンジェルスにあるホロコースト博物館の事についてでした。そのホロコースト博物館は第二次大戦中のナチスドイツによるユダヤ人大虐殺の惨劇を記録にとどめる為のものです。博物館にホロコーストの色んな資料が展示され、六百万人の犠牲者をもたらしたそのような惨劇が二度と再び起らないように証を立てています。博物館は様々なプローグラムを提供しますが、一つには、ホロコーストの生存者は自分の収容所の体験を語ります。その生存者達は今80歳前後ですけれども、ボランテイアとして、毎週博物館へ行って、自分のホロコーストのストーリを生々しくお客さんに伝えます。

【ホロコースト証人イーヴア•ブラウン婦人】
生存者の一人はハンガリー出身のイーヴア•ブラウン婦人です。七年に亘ってブラウンさんは一千回以上、自分のホロコーストの体験を博物館の来客に語って来ました。「皆が私の叫び、私の悲しみと私の損失を聞いて欲しいです。毎日人の前でその事を覚えるのは辛いですけれども、黙ってはいられません。そのような大虐殺が再び起らないよう、皆に知らせなければなりません」と彼女は言います。ブラウンさんは16歳で収容され、家族皆がアウシュヴィッツで殺されたり、病気や飢餓などで死んだりしていました。

家族と親戚の中、彼女一人だけで生き残りました。収容所の毎日の生活は地獄のような有様で、若いブラウンさんは言い尽くせない程恐ろしいものを目撃し経験しました。

2008年11月16日 | カテゴリー: 旧約聖書 , 詩篇

世の秩序が覆(くつがえ)っているとき ウイリアム・モーア宣教師

詩編第11編

1:【指揮者によって。ダビデの詩。】主を、わたしは避けどころとしている。どうしてあなたたちはわたしの魂に言うのか/「鳥のように山へ逃れよ。

2:見よ、主に逆らう者が弓を張り、弦に矢をつがえ/闇の中から心のまっすぐな人を射ようとしている。 3:世の秩序が覆っているのに/主に従う人に何ができようか」と。

4:主は聖なる宮にいます。主は天に御座を置かれる。御目は人の子らを見渡し/そのまぶたは人の子らを調べる。

5:主は、主に従う人と逆らう者を調べ/不法を愛する者を憎み 6:逆らう者に災いの火を降らせ、熱風を送り/燃える硫黄をその杯に注がれる。

7:主は正しくいまし、恵みの業を愛し/御顔を心のまっすぐな人に向けてくださる。



【リーマンブラザース破綻】
最近のニュースや新聞報道を見れば、誰でも分かりますけれども、世界の経済制度は今、危機的時期を迎ています。不良債権の問題でアメリカの経済だけではなく、世界中の国々の経済安定が脅かされています。銀行と投資信託会社が財政的資格のない会社や個人に資金を高い利子で貸しました。しかし、おもに不動産の暴落の為、多くの客さんはそのローンを返済する事が出来なくなり、一方貸し出した方は潰れかけ、金融機関は倒産してしまいました。

その倒産した機関の一つはリーマンブラザースと言う投資銀行でした。リーマンブラザースは150年以上の歴史があってニューヨーク市のウオール街の有名な会社でした。去年には「最も憧れた証券機関」と言う賞を受けたばかりでした。リーマンブラザースに入社すれば、ボーナスで絶対に金持ちになると言う評判がありました。また、従業員は沢山の交際費を頂き、結構豪華な生活が出来ると言う会社でした。

リーマンブラザースが潰れた直後、テレビの記者がその社員の一人をインタビューしました。その社員は課長であって、二十年以上リーマンブラザースで働いていました。そして、会社を信じていたので、長年にわたってその株だけを沢山買いました。数億ドルの株を持っていました。しかし、会社は破綻すると、全てが失われてしまいました。「私の純資産は今ゼロです。信じられません。私の純資産はゼロになった。しかも職場も失いました。初めての失業の経験です」と何回も繰り返しました。表情を見ると、彼は大変なショックを受けた事が明確でした。どうしようもない気持ちでした。これからの人生は真っ黒になりました。

2008年09月28日 | カテゴリー: 旧約聖書 , 詩篇

恐れから信仰へ ウイリアム・モーア宣教師

出エジプト記3章◆モーセの召命

1:モーセは、しゅうとでありミディアンの祭司であるエトロの羊の群れを飼っていたが、あるとき、その群れを荒れ野の奥へ追って行き、神の山ホレブに来た。2:そのとき、柴の間に燃え上がっている炎の中に主の御使いが現れた。彼が見ると、見よ、柴は火に燃えているのに、柴は燃え尽きない。

3:モーセは言った。「道をそれて、この不思議な光景を見届けよう。どうしてあの柴は燃え尽きないのだろう。」

4:主は、モーセが道をそれて見に来るのを御覧になった。神は柴の間から声をかけられ、「モーセよ、モーセよ」と言われた。彼が、「はい」と答えると、

5:神が言われた。「ここに近づいてはならない。足から履物を脱ぎなさい。あなたの立っている場所は聖なる土地だから。」6:神は続けて言われた。「わたしはあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」モーセは、神を見ることを恐れて顔を覆った。

7:主は言われた。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った。8:それゆえ、わたしは降って行き、エジプト人の手から彼らを救い出し、この国から、広々としたすばらしい土地、乳と蜜の流れる土地、カナン人、ヘト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の住む所へ彼らを導き上る。9:見よ、イスラエルの人々の叫び声が、今、わたしのもとに届いた。また、エジプト人が彼らを圧迫する有様を見た。10:今、行きなさい。わたしはあなたをファラオのもとに遣わす。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ。」

11:モーセは神に言った。「わたしは何者でしょう。どうして、ファラオのもとに行き、しかもイスラエルの人々をエジプトから導き出さねばならないのですか。」

12:神は言われた。「わたしは必ずあなたと共にいる。このことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである。あなたが民をエジプトから導き出したとき、あなたたちはこの山で神に仕える。」

13:モーセは神に尋ねた。「わたしは、今、イスラエルの人々のところへ参ります。彼らに、『あなたたちの先祖の神が、わたしをここに遣わされたのです』と言えば、彼らは、『その名は一体何か』と問うにちがいありません。彼らに何と答えるべきでしょうか。」

14:神はモーセに、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われ、また、「イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと。」15:神は、更に続けてモーセに命じられた。「イスラエルの人々にこう言うがよい。あなたたちの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である主がわたしをあなたたちのもとに遣わされた。これこそ、とこしえにわたしの名/これこそ、世々にわたしの呼び名。16:さあ、行って、イスラエルの長老たちを集め、言うがよい。『あなたたちの先祖の神、アブラハム、イサク、ヤコブの神である主がわたしに現れて、こう言われた。わたしはあなたたちを顧み、あなたたちがエジプトで受けてきた仕打ちをつぶさに見た。17:あなたたちを苦しみのエジプトから、カナン人、ヘト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の住む乳と蜜の流れる土地へ導き上ろうと決心した』と。18:彼らはあなたの言葉に従うであろう。あなたはイスラエルの長老たちを伴い、エジプト王のもとに行って彼に言いなさい。『ヘブライ人の神、主がわたしたちに出現されました。どうか、今、三日の道のりを荒れ野に行かせて、わたしたちの神、主に犠牲をささげさせてください。』

19:しかしわたしは、強い手を用いなければ、エジプト王が行かせないことを知っている。20:わたしは自ら手を下しあらゆる驚くべき業をエジプトの中で行い、これを打つ。その後初めて、王はあなたたちを去らせるであろう。21:そのとき、わたしは、この民にエジプト人の好意を得させるようにしよう。出国に際して、あなたたちは何も持たずに出ることはない。22:女は皆、隣近所や同居の女たちに金銀の装身具や外套を求め、それを自分の息子、娘の身に着けさせ、エジプト人からの分捕り物としなさい。」


4章◆使命に伴うしるし

1:モーセは逆らって、「それでも彼らは、『主がお前などに現れるはずがない』と言って、信用せず、わたしの言うことを聞かないでしょう」と言うと、2:主は彼に、「あなたが手に持っているものは何か」と言われた。彼が、「杖です」と答えると、3:主は、「それを地面に投げよ」と言われた。彼が杖を地面に投げると、それが蛇になったのでモーセは飛びのいた。

4:主はモーセに、「手を伸ばして、尾をつかめ」と言われた。モーセが手を伸ばしてつかむと、それは手の中で杖に戻った。5:「こうすれば、彼らは先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、主があなたに現れたことを信じる。」

6:主は更に、「あなたの手をふところに入れなさい」と言われた。モーセは手をふところに入れ、それから出してみると、驚いたことには、手は重い皮膚病にかかり、雪のように白くなっていた。

7:主が、「手をふところに戻すがよい」と言われたので、ふところに戻し、それから出してみると、元の肌になっていた。8:「たとえ、彼らがあなたを信用せず、最初のしるしが告げることを聞かないとしても、後のしるしが告げることは信じる。9:しかし、この二つのしるしのどちらも信ぜず、またあなたの言うことも聞かないならば、ナイル川の水をくんできて乾いた地面にまくがよい。川からくんできた水は地面で血に変わるであろう。」

10:それでもなお、モーセは主に言った。「ああ、主よ。わたしはもともと弁が立つ方ではありません。あなたが僕にお言葉をかけてくださった今でもやはりそうです。全くわたしは口が重く、舌の重い者なのです。」

11:主は彼に言われた。「一体、誰が人間に口を与えたのか。一体、誰が口を利けないようにし、耳を聞こえないようにし、目を見えるようにし、また見えなくするのか。主なるわたしではないか。12:さあ、行くがよい。このわたしがあなたの口と共にあって、あなたが語るべきことを教えよう。」

13:モーセは、なおも言った。「ああ主よ。どうぞ、だれかほかの人を見つけてお遣わしください。」

14:主はついに、モーセに向かって怒りを発して言われた。

「あなたにはレビ人アロンという兄弟がいるではないか。わたしは彼が雄弁なことを知っている。その彼が今、あなたに会おうとして、こちらに向かっている。あなたに会ったら、心から喜ぶであろう。15:彼によく話し、語るべき言葉を彼の口に託すがよい。わたしはあなたの口と共にあり、また彼の口と共にあって、あなたたちのなすべきことを教えよう。16:彼はあなたに代わって民に語る。彼はあなたの口となり、あなたは彼に対して神の代わりとなる。17:あなたはこの杖を手に取って、しるしを行うがよい。」


【モーセ】
皆さん、旧約聖書のモーセと言う重要な人物の名前を聞くと、どういうイメージが心に浮かびますか。信仰の模範?神の民をエジプトの奴隷の家から導き出した英雄?その民をエジプトの軍から逃れる為、海を分けた奇跡の人?神の掟を人々に伝えた立法者?

モーセは確かにそのような印象強い人物でした。彼について聖書はこう語ります。モーセは「仕える者として神の家全体の中で忠実でした。」また、「主の僕」とモーセを呼びます。そして、「主は人がその友と語るように、顔と顔を合わせてモーセに語られた」と記されています。

2008年09月21日 | カテゴリー: 出エジプト記 , 旧約聖書

祝福の源となるように ウイリアム・モーア宣教師

聖書 創世記12章1−4◆アブラムの召命と移住

1:主はアブラムに言われた。「あなたは生まれ故郷/父の家を離れて/わたしが示す地に行きなさい。2:わたしはあなたを大いなる国民にし/あなたを祝福し、あなたの名 を高める/祝福の源となるように。3:あなたを祝福する人をわたしは祝福し/あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて/あなたによって祝福に入る。」

4:アブラムは、主の言葉に従って旅立った。ロトも共に行った。アブラムは、ハランを出発したとき七十五歳であった。


【神との損得勘定】

ある会計士が自分と神との計算書を作成しました。彼はよく考えて、その会計書に神から頂いた恵みと祝福を全部記帳しようとしました。自分の命や日々の糧や健康や住む家や友人や家族や信仰などを会計帳簿に詳細に記入しました。そして考えれば考える程記入が多くなり、計算帳簿はいっぱいになりました。それから会計士は自分が神様の為にした事を記帳始めました。積んだ善行を記入しようとしたが、あんまり立派なものではありませんでした。ある程度の施しや人助けなどを計算帳簿に記入しましたが、あまり思い出せませんでした。神から授けられた恵みと比べると本当に僅かでした。彼は道徳的に生きようとしましたけれども失敗が少なくなかったのです。更に信仰の歩みも色んな面で欠けていました。計算帳簿を見ると、差し引き勘定をする事が全く不可能であるとよく分かりました。「間違えなく神様は私の貸し主で、私は赤字から抜け出す事が出来ません。主から頂いた恵みと比べると私がした事は計算する価値がない」と告白しました。

2008年09月07日 | カテゴリー: 創世記 , 旧約聖書

主よ、なぜ遠く離れて立ち、苦難の時に隠れておられるのか ウイリアム・モーア宣教師

詩編10篇(アルファベットによる詩)

1:主よ、なぜ遠く離れて立ち/苦難の時に隠れておられるのか。2:貧しい人が神に逆らう傲慢な者に責め立てられて/その策略に陥ろうとしているのに。3:神に逆らう者は自分の欲望を誇る。貪欲であり、主をたたえながら、侮っている。4:神に逆らう者は高慢で神を求めず/何事も神を無視してたくらむ。5:あなたの裁きは彼にとってはあまりにも高い。彼の道はどのようなときにも力をもち/自分に反対する者に自分を誇示し6:「わたしは揺らぐことなく、代々に幸せで/災いに遭うことはない」と心に思う。7:口に呪い、詐欺、搾取を満たし/舌に災いと悪を隠す。8:村はずれの物陰に待ち伏せし/不運な人に目を付け、罪もない人をひそかに殺す。9:茂みの陰の獅子のように隠れ、待ち伏せ/貧しい人を捕えようと待ち伏せ/貧しい人を網に捕えて引いて行く。10:不運な人はその手に陥り/倒れ、うずくまり11:心に思う/「神はわたしをお忘れになった。御顔を隠し、永久に顧みてくださらない」と。

12:立ち上がってください、主よ。神よ、御手を上げてください。貧しい人を忘れないでください。13:なぜ、逆らう者は神を侮り/罰などはない、と心に思うのでしょう。

14:あなたは必ず御覧になって/御手に労苦と悩みをゆだねる人を/顧みてくださいます。不運な人はあなたにすべてをおまかせします。あなたはみなしごをお助けになります。15:逆らう者、悪事を働く者の腕を挫き/彼の反逆を余すところなく罰してください。

16:主は世々限りなく王。主の地から異邦の民は消え去るでしょう。17:主よ、あなたは貧しい人に耳を傾け/その願いを聞き、彼らの心を確かにし18:みなしごと虐げられている人のために/裁きをしてくださいます。この地に住む人は/再び脅かされることがないでしょう。


【9・11事件】
おそらく皆さんも私と同じようにメデイアで特に酷いニュースを聞くと、口がきけない程の驚きと恐怖を感じ、ぞっとします。例えば、ニュヨーク市の世界貿易センターの9•11事件はそうでした。全く思い掛けなく、テロリストが飛行機を爆弾にして、無差別的に数千人の命を無残にも奪ってしまいました。

2008年08月31日 | カテゴリー: 旧約聖書 , 詩篇

私達はどのような神に仕えていますか ウイリアム・モーア宣教師

聖書 燃え盛る炉に投げ込まれた三人
ダニエル書3章8−30

8:さてこのとき、何人かのカルデア人がユダヤ人を中傷しようと進み出て、9:ネブカドネツァル王にこう言った。「王様がとこしえまでも生き永らえられますように。10:御命令によりますと、角笛、横笛、六絃琴、竪琴、十三絃琴、風琴などあらゆる楽器の音楽が聞こえたなら、だれでも金の像にひれ伏して拝め、ということでした。11:そうしなければ、燃え盛る炉に投げ込まれるはずです。12:バビロン州には、その行政をお任せになっているユダヤ人シャドラク、メシャク、アベド・ネゴの三人がおりますが、この人々は御命令を無視して、王様の神に仕えず、お建てになった金の像を拝もうとしません。」

13:これを聞いたネブカドネツァル王は怒りに燃え、シャドラク、メシャク、アベド・ネゴを連れて来るよう命じ、この三人は王の前に引き出された。14:王は彼らに言った。「シャドラク、メシャク、アベド・ネゴ、お前たちがわたしの神に仕えず、わたしの建てた金の像を拝まないとい うのは本当か。15:今、角笛、横笛、六絃琴、竪琴、十三絃琴、風琴などあらゆる楽器の音楽が聞こえると同時にひれ伏し、わたしの建てた金の像を拝むつもりでいるなら、それでよい。もしも拝まないなら、直ちに燃え盛る炉に投げ込ませる。お前たちをわたしの手から救い出す神があろうか。」

16:シャドラク、メシャク、アベド・ネゴはネブカドネツァル王に答えた。「このお定めにつきまして、お答えする必要はございません。17:わたしたちのお仕えする神は、その燃え盛る炉や王様の手からわたしたちを救うことができますし、必ず救ってくださいます。18:そうでなくとも、御承知ください。わたしたちは王様の神々に仕えることも、お建てになった金の像を拝むことも、決していたしません。」19:ネブカドネツァル王はシャドラク、メシャク、アベド・ネゴに対して血相を変えて怒り、炉をいつもの七倍も熱く燃やすように命じた。20:そして兵士の中でも特に強い者に命じて、シャドラク、メシャク、アベド・ネゴを縛り上げ、燃え盛る炉に投げ込ませた。21:彼らは上着、下着、帽子、その他の衣服を着けたまま縛られ、燃え盛る炉に投げ込まれた。22:王の命令は厳しく、炉は激しく燃え上がっていたので、噴き出る炎はシャドラク、メシャク、アベド・ネゴを引いて行った男たちをさえ焼き殺した。23:シャドラク、メシャク、アベド・ネゴの三人は縛られたまま燃え盛る炉の中に落ち込んで行った。24:間もなく王は驚きの色を見せ、急に立ち上がり、側近たちに尋ねた。「あの三人の男は、縛ったまま炉に投げ込んだはずではなかったか。」彼らは答えた。「王様、そのとおりでございます。」25:王は言った。「だが、わたしには四人の者が火の中を自由に歩いているのが見える。そして何の害も受けていない。それに四人目の者は神の子のような姿をしている。」26:ネブカドネツァル王は燃え盛る炉の口に近づいて呼びかけた。「シャドラク、メシャク、アベド・ネゴ、いと高き神に仕える人々よ、出て来なさい。」すると、シャドラク、メシャク、アベド・ネゴは炉の中から出て来た。27:総督、執政官、地方長官、王の側近たちは集まって三人を調べたが、火はその体を損なわず、髪の毛も焦げてはおらず、上着も元のままで火のにおいすらなかった。28:ネブカドネツァル王は言った。「シャドラク、メシャク、アベド・ ネゴの神をたたえよ。彼らは王の命令に背き、体を犠牲にしても自分の神に依り頼み、自分の神以外にはいかなる神にも仕えず、拝もうともしなかったので、この僕たちを、神は御使いを送って救われた。29:わたしは命令する。いかなる国、民族、言語に属する者も、シャドラク、メシャク、アベド・ネゴの神をののしる者があれば、その体は八つ裂きにされ、その家は破壊される。まことに人間をこのよう  に救うことのできる神はほかにはない。」 30:こうして王は、シャドラク、メシャク、アベド・ネゴをバビロン州で高い位につけた。


【最近の恐ろしい出来事】
最近新聞に大きく取り上げられたニュースです。 「八王子殺傷、現場近くで包丁購入『誰でもよかった』。 消費者物価1.9%上昇、92年来の上げ幅。 千葉で民家火災、焼け跡から母子4人の遺体。 秋葉原通り魔事件、男が通行人や警察官17人を車ではねて刺す、3人死亡。 東北地方で震度6強地震。 14歳が東名高速でバスジャック。」

2008年07月27日 | カテゴリー: イザヤ書 , ダニエル書 , ヨハネによる福音書 , ローマの信徒への手紙 , 新約聖書 , 旧約聖書 , 詩篇

御名を知る人 ウイリアム・モーア宣教師

詩編9:1−21

1:【指揮者によって。ムトラベンに/合わせて。賛歌。ダビデの詩。】

2:わたしは心を尽くして主に感謝をささげ/驚くべき御業をすべて語り伝えよう。3:いと高き神よ、わたしは喜び、誇り/御名をほめ歌おう。4:御顔を向けられて敵は退き/倒れて、滅び去った。5:あなたは御座に就き、正しく裁き/わたしの訴えを取り上げて裁いてくださる。6:異邦の民を叱咤し、逆らう者を滅ぼし/その名を世々限りなく消し去られる。7:敵はすべて滅び、永遠の廃虚が残り/あなたに滅ぼされた町々の記憶も消え去った。8:主は裁きのために御座を固く据え/とこしえに御座に着いておられ る。9:御自ら世界を正しく治め/国々の民を公平に裁かれる。10:虐げられている人に/主が砦の塔となってくださるように/苦難の時の砦の塔となってくださるように。

11:主よ、御名を知る人はあなたに依り頼む。あなたを尋ね求める人は見捨てられることがない。12:シオンにいます主をほめ歌い/諸国の民に御業を告げ知らせよ。13:主は流された血に心を留めて/それに報いてくださる。貧しい人の叫びをお忘れになることはない。14:憐れんでください、主よ/死の門からわたしを引き上げてくださる方よ。御覧ください/わたしを憎む者がわたしを苦しめているのを。

15:おとめシオンの城門で/あなたの賛美をひとつひとつ物語り/御救いに喜び躍ることができますように。16:異邦の民は自ら掘った穴に落ち/隠して張った網に足をとられる。17:主が現れて裁きをされるとき/逆らう者は/自分の手が仕掛けた罠にかかり〔ヒガヨン・セラ

18:神に逆らう者、神を忘れる者/異邦の民はことごとく、陰府に退く。

19:乏しい人は永遠に忘れられることなく/貧しい人の希望は決して失われない。20:立ち上がってください、主よ。人間が思い上がるのを許さず/御顔を向けて異邦の民を裁いてください。

21:主よ、異邦の民を恐れさせ/思い知らせてください/彼らが人間にすぎないことを。〔セラ


【あるインデイアンの成人式】
昔のアメリカインデイアンのある部族には青年の訓練の独特のやり方がありました。先ず、13歳位になる青年達は一人前になる為にその父親はもちろん、部族の長老達によって色んな技術を教えてもらいました。魚釣り、狩猟、乗馬、弓術などのような必要な事をしっかり訓練させられました。そして、最後には青年達は試練を受けなければなりませんでした。それは独りで森林の中で一夜を過ごす事です。その時点まで青年はいつも家族の保護に囲まれ、部族から離れた事が一度もありませんでした。しかし、試練の夜、彼は目隠しされ、深い森の中の知らない所へ案内されました。そして、「暫く目隠しを取ってはいけない」と注意されてから、案内する人が去ってしまいました。言うまでもないが、青年は目隠しを外した時、恐れを感じました。暗い夜に色んな不気味な音が聞こえました。そして、その全ての音は襲って来る野獣の現れだと想像したのです。寂しくなってどうしても家に帰りたかったのです。更に、夜の寒さを感じると、震えました。眠る事が出来なくて、地面に座り泣きたいのを我慢し、声も出さず息を抑えて、ただじっとするしかなかったのです。

2008年07月13日 | カテゴリー: イザヤ書 , マタイによる福音書 , 新約聖書 , 旧約聖書 , 詩篇

「主イエスを信じて死ぬ幸い」 宝塚教会牧師 国方敏治

宝塚教会牧師 国方敏治

ヨハネ福音書11章17-44節

◆イエスは復活と命  17:さて、イエスが行って御覧になると、ラザロは墓に葬られて既に四日もたっていた。18:ベタニアはエルサレムに近く、十五スタディオンほどのところにあった。19:マルタとマリアのところには、多くのユダヤ人が、兄弟ラザロのことで慰めに来ていた。20:マルタは、イエスが来られたと聞いて、迎えに行ったが、マリアは家の中に座っていた。  21:マルタはイエスに言った。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。  22:しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。」  23:イエスが、「あなたの兄弟は復活する」と言われると、  24:マルタは、「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と言った。25:イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。26:生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」27:マルタは言った。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」 ◆イエス、涙を流す  28:マルタは、こう言ってから、家に帰って姉妹のマリアを呼び、「先生がいらして、あなたをお呼びです」と耳打ちした。29:マリアはこれを聞くと、すぐに立ち上がり、イエスのもとに行った。30:イエスはまだ村には入らず、マルタが出迎えた場所におられた。31:家の中でマリアと一緒にいて、慰めていたユダヤ人たちは、彼女が急に立ち上がって出て行くのを見て、墓に泣きに行くのだろうと思い、後を追った。32:マリアはイエスのおられる所に来て、イエスを見るなり足もとにひれ伏し、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と言った。33:イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、心に憤りを覚え、興奮して、34:言われた。「どこに葬ったのか。」彼らは、「主よ、来て、御覧ください」と言った。 35:イエスは涙を流された。  36:ユダヤ人たちは、「御覧なさい、どんなにラザロを愛しておられたことか」と言った。37:しかし、中には、「盲人の目を開けたこの人も、ラザロが死なないようにはできなかったのか」と言う者もいた。 ◆イエス、ラザロを生き返らせる  38:イエスは、再び心に憤りを覚えて、墓に来られた。墓は洞穴で、石でふさがれていた。39:イエスが、「その石を取りのけなさい」と言われると、死んだラザロの姉妹マルタが、「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」と言った。40:イエスは、「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」と言われた。41:人々が石を取りのけると、イエスは天を仰いで言われた。「父よ、    わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。42:わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています。しかし、わたしがこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです。」  43:こう言ってから、「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれた。44:すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た。顔は覆いで包まれていた。イエスは人々に、「ほどいてやって、行かせなさい」と言われた。  

 


【死は幸い?】
私たちにとって「死」とは、死ぬ事は最大の不幸、最大の災いと考えられています。
けれども、聖書には「今から後、主(イエス)に結ばれて死ぬ人(死人)は幸いである」(黙示14:13)と言われています。教会やキリスト信者の葬られた墓の墓碑に、しばしばこの御言葉が記されているのを見るのです。では、死が幸いであるとは、どういう事か。今朝は、この驚くべき福音の言葉を共に聞き取りたいと願っています。

2008年06月22日 | カテゴリー: エゼキエル書 , ヨハネによる福音書 , 新約聖書 , 旧約聖書

避けどころなる神、主 ウイリアム・モーア宣教師

詩編7篇1−18

1:【シガヨン。ダビデの詩。ベニヤミン人クシュのことについてダビデが主に向かって歌ったもの。】2:わたしの神、主よ、あなたを避けどころとします。わたしを助け、追い迫る者から救ってください。3:獅子のようにわたしの魂を餌食とする者から/だれも奪い返し、助けてくれないのです。4:わたしの神、主よ/もしわたしがこのようなことをしたのなら/わたしの手に不正があり5:仲間に災いをこうむらせ/敵をいたずらに見逃したなら6:敵がわたしの魂に追い迫り、追いつき/わたしの命を地に踏みにじり/わたしの誉れを塵に伏せさせても当然です。〔セラ   7:主よ、敵に対して怒りをもって立ち上がり/憤りをもって身を起こし/わたしに味方して奮い立ち/裁きを命じてください。8:諸国をあなたの周りに集わせ/彼らを超えて高い御座に再び就いてください。9:主よ、諸国の民を裁いてください。主よ、裁きを行って宣言してく    ださい/お前は正しい、とがめるところはないと。10:あなたに逆らう者を災いに遭わせて滅ぼし/あなたに従う者を固く立たせてください。心とはらわたを調べる方/神は正しくいます。 11:心のまっすぐな人を救う方/神はわたしの盾。12:正しく裁く神/日ごとに憤りを表す神。 13:立ち帰らない者に向かっては、剣を鋭くし/弓を引き絞って構え14:殺戮の武器を備え/炎の矢を射かけられます。15:御覧ください、彼らは悪をみごもり/災いをはらみ、偽りを生む者です。16:落とし穴を掘り、深くしています/仕掛けたその穴に自分が落ちますように。17:災いが頭上に帰り/不法な業が自分の頭にふりかかりますように。18:正しくいます主にわたしは感謝をささげ/いと高き神、主の御名をほめ歌います。

 
【ダビデの敵】
今日、私達はもう一度詩編に注意を向けて、詩編第7編を通して神の御言葉を学びたいと思います。この詩編は旧約聖書の人物ダビデの作品で、その背景は彼にとって大変辛い事件でした。つまり、ダビデを滅ぼす為、敵は彼に対して中傷的な噂を立てました。ダビデの敵についてあんまり知られていませんが、今日の詩編の一節を見ますと、彼の名前が記されています。「ベニヤミン人クシュの事についてダビデが主に向かって歌ったもの」と書いてあります。クシュはこの所以外、聖書に載っていませんから、彼について詳しい事はあんまり分かりません。しかし、彼はベニヤミン族の出身と知らされている事は重要です。何故なら、その当時のイスラエルの国王はサウルでした。そして、サウル王もベニヤミン人で、彼の家来と顧問も殆ど皆は同じベニヤミン族出身でした。しかし、ベツレヘム出身のダビデは例外でした。自分の忠実と実力で、ダビデはサウルの信頼されたよろい持ちになり、王ととても近くなり、宮殿で偉くなりました。
 
【ベニヤミン族出身のサウル王】
残念ながら、サウル王は神に従わなかったので、主は預言者を通してサウル政権の崩壊を宣言されました。更に、神はサウルの後任になる王としてダビデを任命したのです。言うまでもないが、その事でダビデは大変な立場でした。サウル王はもちろん自分の地位と権力を失いたくなかったので、彼はダビデを敵として扱うようになりました。ダビデはサウルに対して忠実であって、決してサウルに代わって王になるつもりはなかったのです。しかし、神こそがダビデを王として任命されると、サウルは彼を妬(ねた)んで、滅ぼうとしました。ダビデは国民に大変な人気があったから、サウルは彼を簡単に殺す訳にもいきません。他の方法でダビデを倒す必要がありました。それはダビデに対して中傷的な噂を立てました。その噂の内容ははっきり分かりませんが、恐らくそれはダビデがサウル家に、反逆罪的な行為を企んでいる事でしょう。

2008年05月04日 | カテゴリー: ペトロの手紙一 , 新約聖書 , 旧約聖書 , 詩篇

主イエスの食べ物 ウイリアム・モーア宣教師

ヨハネによる福音書4章27−42

27:ちょうどそのとき、弟子たちが帰って来て、イエスが女の人と話をしておられるのに驚いた。しかし、「何か御用ですか」とか、「何をこの人と話しておられるのですか」と言う者はいなかった。28:女は、水がめをそこに置いたまま町に行き、人々に言った。29:「さあ、見に来てください。わたしが行ったことをすべて、言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかもしれません。」 30:人々は町を出て、イエスのもとへやって来た。 31:その間に、弟子たちが「ラビ、食事をどうぞ」と勧めると、32:イエスは、「わたしにはあなたがたの知らない食べ物がある」と言われた。 33:弟子たちは、「だれかが食べ物を持って来たのだろうか」と互いに言った。 34:イエスは言われた。「わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしにな    った方の御心を行い、その業を成し遂げることである。35:あなたがたは、『刈り入れまでまだ四か月もある』と言っているではないか。わたしは言っておく。目を上げて畑を見るがよい。色づいて刈り入れを待っている。既に、36:刈り入れる人は報酬を受け、永遠の命に至る実を集めている。こうして、種を蒔く人も刈る人も、共に喜ぶのである。37:そこで、『一人が種を蒔き、別の人が刈り入れる』ということわざのとおりになる。38:あなたがたが自分では労苦しなかったものを刈り入れるために、わたしはあなたがたを遣わした。他の人々が労苦し、あなたがたはその労苦の実りにあずかっている。」39:さて、その町の多くのサマリア人は、「この方が、わたしの行ったことをすべて言い当てました」と証言した女の言葉によって、イエスを信じた。40:そこで、このサマリア人たちはイエスのもとにやって来て、自分たちのところにとどまるようにと頼んだ。イエスは、二日間そこに滞在された。41:そして、更に多くの人々が、イエスの言葉を聞いて信じた。42:彼らは女に言った。「わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。わたしたちは自分で聞いて、この方が本当    に世の救い主であると分かったからです。」

 
【主イエスの福音宣教】
今日の御言葉は主イエスと弟子達の旅での事件を語ります。主は出来るだけ沢山の人々に福音を伝える為、巡回伝道師の生活をしていて、 家と呼ぶ所がない程、常に移動しました。その時代、一般の人は旅をする時、歩いて行きました。ローマ帝国の役人やお金持ちなどは馬車か馬やロバに乗って旅をしましたが、平民は自分の足に頼らなければなりませんでした。
 
【サマリア人の町シカル】
今日の個所は、主が弟子達と共に都エルサレムから出身地のガリラヤ地方までの約120キロの旅中の事件を記録しています。彼等はお昼頃、シカルと言う町に着いて、そこで食事を食べ、旅の疲れから少し休もうとしました。ところで、シカルはサマリア地方の町でした。そこに住むサマリア人はユダヤ人から軽蔑され、長年お互いの恨みをいだいてしまいました。その理由はおもに宗教上でした。

2008年04月20日 | カテゴリー: コヘレトの言葉 , 旧約聖書

主はわたしの嘆きを聞き ウイリアム・モーア宣教師

詩編6篇1−11

1:【指揮者によって。伴奏付き。第八調。賛歌。ダビデの詩。】   2:主よ、怒ってわたしを責めないでください/憤って懲らしめないでください。3:主よ、憐れんでください/わたしは嘆き悲しんでいます。主よ、癒してください、わたしの骨は恐れ  4:わたしの魂は恐れおののいています。主よ、いつまでなのでしょう。5:主よ、立ち帰り/わたしの魂を助け出してください。あなたの慈しみにふさわしく/わたしを救ってください。  6:死の国へ行けば、だれもあなたの名を唱えず/陰府に入れば/だれもあなたに感謝をささげません。7:わたしは嘆き疲れました。夜ごと涙は床に溢れ、寝床は漂うほどです。 8:苦悩にわたしの目は衰えて行き/わたしを苦しめる者のゆえに/老いてしまいました。  9:悪を行う者よ、皆わたしを離れよ。主はわたしの泣く声を聞き10:主はわたしの嘆きを聞き/主はわたしの祈りを受け入れてくださる。11:敵は皆、恥に落とされて恐れおののき/たちまち退いて、恥に落とされる。  


【重い病に苦しむダビデ】
今日、与えられた詩編第六編は重い病に苦しんでいる者の嘆きと信仰を力強く表現します。その病気の名前は分かりませんが、イスラエルの王ダビデはこの御言葉を通して遠慮なく自分の心を主なる神に打ち明けました。「主よ、憐れんでください、わたしは嘆き悲しんでいます。主よ、癒してください。わたしの骨は恐れ、わたしの魂は恐れおののいています。主よ、いつまでなのでしょう」とダビデは必死に神に祈りました。肉体的な苦しみは結構酷かったのだと思います。「わたしの骨は恐れ」と言う表現はその痛みを現します。又、その苦しみの故にダビデは寝る事がなかなか出来ませんでした。
7節を見ますと、こう書いてあります。
「わたしは嘆き疲れました。夜ごと涙は床に溢れ、寝床は漂うほどです。」
 
実は、ダビデは自分の命が危ないと信じ、神の救いがなければ近いうちにきっと死ぬだろうと思いました。

2008年04月06日 | カテゴリー: 出エジプト記 , 旧約聖書 , 詩篇

盾となる神のお守り ウイリアム・モーア宣教師

詩編5篇1−13
 1:

【指揮者によって。笛に合わせて。賛歌。ダビデの詩。】   2:主よ、わたしの言葉に耳を傾け/つぶやきを聞き分けてください。3:わたしの王、わたしの神よ/助けを求めて叫ぶ声を聞いてください。 あなたに向かって祈ります。   4:主よ、朝ごとに、わたしの声を聞いてください。朝ごとに、わたしは御前に訴え出て/あなたを仰ぎ望みます。5:あなたは、決して/逆らう者を喜ぶ神ではありません。悪人は御もとに宿ることを許されず6:誇り高い者は御目に向かって立つことができず/悪を行う者はすべて憎まれます。   7:主よ、あなたは偽って語る者を滅ぼし/流血の罪を犯す者、欺く者をいとわれます。   8:しかしわたしは、深い慈しみをいただいて/あなたの家に入り、聖なる宮に向かってひれ伏し/あなたを畏れ敬います。   9:主よ、恵みの御業のうちにわたしを導き/まっすぐにあなたの道を歩ませてください。わたしを陥れようとする者がいます。10:彼らの口は正しいことを語らず、舌は滑らかで/喉は開いた墓、腹は滅びの淵。11:神よ、彼らを罪に定め/そのたくらみのゆえに打ち倒してください。彼らは背きに背きを重ねる反逆の者。彼らを追い落としてください。  12:あなたを避けどころとする者は皆、喜び祝い/とこしえに喜び歌います。御名を愛する者はあなたに守られ/あなたによって喜び誇ります。13:主よ、あなたは従う人を祝福し/御旨のままに、盾となってお守りくださいます。

 
【讃美の歌】
今日は私達の詩編の学びを続けたいと思います。月一回、順に詩編の教えを受けて来ました。そして、今日は詩編第5編になります。覚えていらっしゃると思いますが、「詩編」と訳されたヘブライ語の単語の意味は「讃美」あるいは、「讃美の歌」です。ですから、信仰において私達の先祖は個人と集団の礼拝に詩編を歌いました。私達が讃美歌を歌うように、彼等は詩編を歌ったのです。実は、私達が歌う多くの讃美歌は詩編の歌詞に基づいています。例えば、先程歌いました讃美歌88番は詩編90編の影響を受けました。
 
【慰められ、喜ぶ事】
聖書の全ての書の中で詩編は特別な役割があります。特に、傷つけられた時、落胆の時、又、危機に陥っている時、詩編を読むと、魂が生き返られ、悲しみの中にいても、慰められ、喜ぶ事が出来ます。
 
【ダビデの詩】
今日の御言葉の一節によりますと、詩編第5編はイスラエルの王ダビデの詩です。ダビデは自分の生涯に色んな事を経験し、良い時があれば難しい時も沢山ありました。彼はもちろん正しい行いもすれば、罪も結構犯してしまいました。しかし、ダビデはその全てにおいて、神との関係を何よりも大事にし、常に主の御前に生きたのです。神御自身が彼を「御心に適う人」と呼んだのです。(サムエル記上13:14)

2008年02月10日 | カテゴリー: サムエル記上 , 旧約聖書 , 詩篇

私達の金の子牛は何か ウイリアム・モーア宣教師

聖書 出エジプト記32:1−14
 
【出エジプトと十戒】
今日与えられた御言葉は旧約聖書の劇的な出来事の中でも、非常に印象的であります。もしデミル監督の有名な映画、「十戒」を見られたら、今日の個所を描写する場面をよく覚えていると思います。
 
【モーセとアロン】
イスラエルの民族が全能の神の奇跡的力によってエジプトの奴隷の家から導き出された時です。エジプトから約束された地カナンまで旅中の事件ですが、彼等のリーダー・モーセは神から十戒を含んだ律法を頂く為、独りでシナイ山に登りました。その帰りが遅いと思った人々はモーセの兄弟また助手であるアロンに行って、このように願いました。「さあ、我々に先立って進む神々を造って下さい。エジプトの国から我々を導き上った人、あのモーセがどうなってしまったのか、分からないからです。」
 
【金の子牛】
そして、不思議に思うのですが、アロンはその願いに応じて、皆が寄付した金の耳輪で、拝む為に子牛の鋳像(ちゅうぞう)を造りました。そしてその偶像を見ると人々はこのように言いました。「イスラエルよ、これこそあなたをエジプトの国から導き上ったあなたの神々だ。」
 
【モーセの怒り】
すると、アロンは祭壇を作り、翌日に行うお祭りを宣言しました。人々は金の子牛を拝んで、飲み食いし、わいわいしました。モーセは山から下り、その光景を見ると大変怒りました。救い主である本当の生ける神の戒めをすぐ忘れ、偶像を造って拝むと言うのは信じられませんでした。モーセは子牛の像を取り、粉々に砕いて、水の上にまきちらし、罰として人々にそれを飲ませました。

2008年02月03日 | カテゴリー: マタイによる福音書 , ヨハネによる福音書 , 出エジプト記 , 新約聖書 , 旧約聖書

罪を犯す時 ウイリアム・モーア宣教師

ヨハネの手紙一1章5−2章6
 
【だれの奥さん?】
ある男の人が急に耐えられない程、神経質になり、慌てて、掛かり付けの医者へ飛んで行きました。彼は、「私は今日、一日中精神的不安定で、ノイローゼになってしまいそうです。その為に何か良い薬がありますか」と医師に言いました。医師は、患者の問題の原因を知る為、「最近、何か気を転倒させる事がありましたか。例えば、生活に大きな変化があったのでしょうか」と男の人に尋ねました。男の人は、「実は、今朝、この手紙が届いて来ました。」そして、彼は手紙をポケットから出して医者に見せました。その手紙には男の人に対して色々な激しい事が書いてありました。そして、手紙の最後にはこの脅すような言葉があったのです。「もし家の女房との交際を止めないと、あなたは命が無い」と書いてありました。
 
医者は、「あなたの問題の解決は簡単です。常識ですが、手紙を書いた人の妻とこれから会わない事ですね。その行為を早速止めたら、どうでしょうか。」しかし、そのアドバイスを聞いた男の人はあんまり喜ばなかったのです。「手紙をよく見て下さい。送り主は本当に馬鹿ですよ。何故なら、彼は自分の名前を書きませんでした。彼の名前が分からないと、僕はいったいどうして、その妻の身元が分かるはずですか。どちらの奥さんの事でしょうか。」
 
【古い、罪のある自分】
「早速止めたら、どうでしょうか。」ただ止めるのは良い事ですが、ある時、止める事は私達にとって簡単ではありません。私達、皆は神と人間に対する罪を犯す事を完全に止めたいと思います。キリスト者としてそれは私達の目標であります。神の光の中で歩んで、私達の生活の全ての事を通して主を喜ばすのは私達の最大の使命です。しかし、私達一人一人の中の古き、自然の人間は罪を好んでいます。神によって造り変えられた新しい私達の性質が罪を憎みますが、古い性質は罪に引き付けられています。その結果、罪は私達の魂に対して攻めてきます。

2008年01月20日 | カテゴリー: ヨハネの手紙一 , ローマの信徒への手紙 , 新約聖書 , 旧約聖書 , 詩篇

嵐の中にも神の平安と喜び ウイリアム・モーア宣教師

詩編4篇1−9:

【指揮者によって。伴奏付き。賛歌。ダビデの詩。】 2:呼び求めるわたしに答えてください/わたしの正しさを認めてくださる神よ。苦難から解き放ってください/憐れんで、祈りを聞いてください。3:人の子らよ/いつまでわたしの名誉を辱めにさらすのか/むなしさを愛し、偽りを求めるのか。〔セラ   4:主の慈しみに生きる人を主は見分けて/呼び求める声を聞いてくださると知れ。5:おののいて罪を離れよ。横たわるときも自らの心と語り/そして沈黙に入れ。〔セラ   6:ふさわしい献げ物をささげて、主に依り頼め。   7:恵みを示す者があろうかと、多くの人は問います。主よ、わたしたちに御顔の光を向けてください。8:人々は麦とぶどうを豊かに取り入れて喜びます。それにもまさる喜    びを/わたしの心にお与えください。9:平和のうちに身を横たえ、わたしは眠ります。主よ、あなただけが、確かに/わたしをここに住まわせてくださるのです。  


【苦悩の叫び】
「呼び求めるわたしに答えてください」とダビデ王は今日の詩編で神に祈願をこめました。「呼び求めるわたしに答えてください。」私達はその同じようなお祈りを聞いた事がありますか。あるいは、自分自身の口からそのようなお祈りを心から捧げた事がありますか。多分、私達一人も残らず、いつかその同じような祈りを神に捧げた事があるのではないでしょうか。そして、恐らくある難しい時期、毎日のように、「呼び求めるわたしに答えてください」と祈願した事があるに違いありません。
 
【ダビデ王の苦悩、その原因と結果】
詩編第4編を書いた人物ダビデ王はその祈りを何回も捧げた事がありました。ダビデはイスラエルの王として力がありましたけれども、それと同時に、敵も試練も誘惑も結構あったのです。今日与えられた詩編の背景が記されていないんですが、先月学んだ詩編第3編と同じ状態で書かれていると思われています。ダビデはイスラエル軍の幹部であるウリヤの妻バド•シェバを無理に自分の妻として取ってしまいました。そして、その罪を揉み消す為、もっと酷い罪を犯してしまいました。ダビデ王はわざわざバド•シェバの夫ウリヤを戦場の最も危険な所へ行かせて、結局彼の死を起こしました。その事件のずっと後の事ですが、アムノンと言うダビデの息子が自分の異母姉妹タマルに惚れて彼女に対して暴行を起こしてしまいました。それからタマルの同父母の兄弟アブサロムがその暴行を聞いて、アムノンに復讐する機会を狙(ねら)って、彼を殺してしまいました。しかし、ダビデ王はアブサロムの罪をちゃんと扱いませんでした。息子を罰する為にただ彼を都エルサレムから追放したのです。その軽い罰の理由は、ダビデ王も同じ殺人罪を犯した事があったからです。結局、その為、ダビデが道徳的権威を失ってしまいました。

2008年01月13日 | カテゴリー: サムエル記上 , マタイによる福音書 , 新約聖書 , 旧約聖書 , 詩篇

幼子イエスに出会ったシメオンとアンナ ウイリアム・モーア宣教師

ルカによる福音書2章22−40
 
 
2007年のクリスマスはもう終わりました。先週まで何所へ行っても聞こえて来たクリスマスキャロルは聞こえて来ません。クリスマスの飾りは来年の為にもう物置きに納められています。子供達は既に憧れたクリスマスプレゼントを忘れ、来年に頂きたい物を考えています。あっと言う間にクリスマスが終わってしまい、お正月と故郷帰りの準備で皆はばたばたしています。
 
【幼子イエスのお宮参り】
同じように、2007年前に、最初のクリスマスが済んでから、幼子イエスの両親、マリアとヨセフは忙しくなりました。しかし、それはお正月と親戚の訪問の為ではありません。実は、大事な宗教上の儀式を行わなければなりませんでした。それは長子イエスをエルサレムの神殿へ連れて、ユダヤ教の掟に従ってその子を神に献げる事です。旧約聖書の律法によりますと、

「人であれ、家畜であれ、主にささげられる生き物の初子はすべて、あなたのものとなる。ただし、人の初子は必ず贖わねばならない。また、汚れた家畜の初子も贖わねばならない。初子は、生後一ヶ月を経た後、銀5シェケル、つまり1シェケル当たり20ゲラの聖所シェケルの贖い金を支払う。」


(民数記18:15−16)

2007年12月30日 | カテゴリー: イザヤ書 , ルカによる福音書 , 新約聖書 , 旧約聖書 , 民数記

驚くべき恵み ウイリアム・モーア宣教師

ルカによる福音書2章1−20節
 
【日本でもクリスマス?】
毎年、クリスマスが近づくとアメリカの教会の人々からこのような手紙をよく頂きます。「日本のクリスマスはどうですか。そちらはキリスト者があまりいないと聞くので、大変寂しいでしょう。わたしの町はクリスマスの為にとても明るくなりましたが、日本はそうではないでしょう。辛く、寂しいけれども頑張って下さい。」
 
返事として私はこのように書きます。「多くの日本人はクリスマスを一生懸命に祝って下さいますので私達の事は心配しないで下さい。ここでは、十一月上旬からクリスマスの宣伝が始まります。どこでもサンタクロースとクリスマスツリーの姿が見えるし、店のスピーカではクリスマスキャロルもアメリカに負けない程よく聞こえます。クリスマスパーテイーも流行っていますし、クリスマスプレゼントを買う為に人々はデパートへ押し寄せます。その上、日本では我々アメリカ人にないクリスマスの伝統も結構あります。ここは12月24日にケンタキー•フライド•チキンとクリスマスケーキを食べます。また、青年達はクリスマスイブに特別なデートをします。私達の事を考えて下さって大変有りがたいのですが、日本人はクリスマスが大好きですので、私達の事は心配しなくてもよいのです。」
 
今年も、日本とアメリカだけではなく、全世界の多くの人々はクリスマスを祝っています。アフリカでは太鼓の音と激しいダンスでクリスマスの喜びを表しています。ヨーロッパでは色々な昔からのクリスマス伝統が守られています。南米では教会はクリスマスの為に満員になります。そして、パレスチナでは人々は主イエス・キリストがお生まれになった町ベツレヘムへ集まって礼拝を行います。本当にクリスマスは全世界の人々のものになり、一番良く守られた祭日ではないかと思います。

2007年12月23日 | カテゴリー: イザヤ書 , ヨハネによる福音書 , ルカによる福音書 , 新約聖書 , 旧約聖書

占星術の学者達から学ぶ事 ウイリアム・モーア宣教師

聖書:マタイによる福音書2章1−12節
 
【東方から来た占星術学者】
今日の御言葉に於ける占星術学者達の物語は神秘に包まれています。と言うのは、その人物の事についてあんまり知られていません。聖書には彼等の 国と人数、また名前さえも載ってありません。ただ、「占星術の学者達が東の方からエルサレムに来た」と記されています。ですから、長年にわたってその学者達について伝統が結構生じて来ました。例えば、彼等は主イエスに黄金(おうごん)、乳香(にゅうこう)、モツ薬の三つのお贈り物を献げたので、恐らく学者達三人で来たと思われますが、聖書を注意深く読んで見ると、それは確かな事ではありません。また、国はペルシア、つまり現代のイランと言う伝統がありますが、聖書にはただ、彼等は「東の方から」来たと書いてあります。ですから彼等はバビロニアかアラビアから来た可能性もあります。伝統によりますと学者達の名前はガスパルと、メルチオルと、バルテャザルですが、実際にその名前も不明です。さらに彼等はラクダに乗って来たと言う固定的なイメージがありますけれども、それも憶測に過ぎません。
 
【占星術の学者とは】
「占星術の学者」と日本語に訳されたギリシャ語の原語は「マゴイ」です。マゴイはその時代の学問が一番優れた人物でした。色んな課目を学んだ彼等は、当時の学者、あるいは博士でした。彼等の優れた学問の故、中東の諸国でマゴイは国王の顧問になり、地位のとても高い者でした。そして、彼等が学んだ課目の中で天文学と占星術が重要でした。星と惑星の位置と運行によって人や国家の運命が分かると信じた彼等は常に夜の空を研究しました。

2007年12月16日 | カテゴリー: サムエル記下 , ヘブライ人への手紙 , マタイによる福音書 , ヨハネによる福音書 , ローマの信徒への手紙 , 創世記 , 新約聖書 , 旧約聖書

インマヌエル-神は我々と共におられる ウイリアム・モーア宣教師

マタイによる福音書1章18−25
 
【主イエスの呼称】
聖書には主イエスが数多くのお名前で呼ばれています。例えば、平和の君、キリスト、救い主、世の光、ユダヤ人の王、神なる言(ことば)、油注がれた者、アルファでありオメガである。それぞれの素晴らしいお名前は私達に主の役割と重要性と存在を豊かに教えます。つまり、そのお名前を通して私達は主イエスがどう言うお方であるかを悟るのです。
 
今、アドベントを守っている私達には主イエスの多くの名前の中でもっとも意味深いものが一つがあります。そのお名前は先程読ませて頂いた個所に載ってあります。マタイによる福音書1章22と23を見ますと、こう書いてあります。

「このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。『見よ、おとめが身ごもって男の子を生む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』この名は、『神は我々と共におられる』と言う意味である。」

 
【インマヌエル】
インマヌエル、すなわち、神は我々と共におられる。実は、神の独り子イエス・キリストが人間の赤ちゃんになり、この世に誕生されました。天国の全ての特権と栄光を捨てて、我々と共におられる為、又、私達を罪から救って下さる為、この世に生まれました。しかも、神の御子は貴族や大金持ちなどの家庭に誕生されませんでした。却って、普通の大工と許嫁(いいなずけ)になっている若い娘に生まれました。そして、宿がなかったので、主の生まれた所は馬小屋で、ベッドは飼い葉桶でした。御自分の救いは全人類の為であるので、人間としてこの世に入った時、主イエスが自分を非常に低くして我々と共におられました。

2007年12月09日 | カテゴリー: イザヤ書 , マタイによる福音書 , ヨハネによる福音書 , 新約聖書 , 旧約聖書

イエス・キリストのアドベント ウイリアム・モーア宣教師

聖書:マラキ書3章1−4
 
【アドベント:明けましておめでとうございます】
皆さん、明けましておめでとうございます。そうです。明けましておめでとうございます。実は、今日は正にアドベント、すなわち待降節の始まりの日で、キリスト教暦年の元日になります。大昔からキリスト教会はクリスマス前の約四週間の間、世界の唯一の救い主であるイエス・キリストの御降誕を祝う心の準備をして来ました。そして、更に、将来、主が再びいらっしゃる事、主の再臨を私達はアドベントに心から待ち望みます。アドベントと言う単語の文字通り意味は、「出現」、あるいは、「いらっしゃる(来臨)」と言う事です。ですから、アドベントに私達は喜びを持って主イエスの降臨を記念すると同時に、大きな希望を抱き、これからの主の御再臨を待っています。
 
キリスト教会は結局主イエスの御降誕に起源を持ているので、当然教会暦年はアドベントで始まります。2007年前に父なる神は御自分の独り子イエス・キリストをこの世に遣わして下さいました。そして、主イエスの救いを通して私達は新しい命と新しい希望が与えられたのです。その比類なき程素晴らしい再出発を記念して、今日私達はアドベントの始まりと教会暦年の元日を覚え祝います。明けましておめでとうございます!
 
【アドベント•リース】
アドベントを豊かに守るように、毎年のように、今年も津村姉妹がまた私達の為にアドベント•リースを準備して下さいました。長い伝統ですから、リースはシンボルとして色々な深い意味を生じて来ました。先ず、リースの円形によって私達は神が始めもなければ終わりもない永久の神である事を覚えます。また、神の愛と憐れみは限りがないと言う意味もあります。そして、リースの常緑の葉っぱはイエス・キリストが賜って下さる新しい誕生と永遠の命を示します。更に、ろうそくの火は神の光、イエス・キリストのシンボルになります。
 
【世の光・主イエス】
世の光である主イエスの御降誕の際に、神、御自身がこの世にいらしゃって、救いと愛の光を全人類に照らして下さいました。アドベントの毎週、主の日に、外側のろうそくを一本ずつ点す事によって、イエス・キリストの御降誕を待ち望んでいると言う意味なのです。そして、真ん中のろうそくは「キリストのろうそく」と言われています。私達はやがてクリスマス礼拝を迎えるとそのろうそくを点します。神の光である主イエスはクリスマスの中心だけではなく、この世の歴史の中心である事の印になります。
 
外側の赤いろうそくは、一本、一本も特別な意味があります。それは主イエスの御降誕から来る、私達が頂いた賜物なのです。今日点すろうそくは希望を現します。来週のろうそくは平和を意味します。そして、その次のろうそくは喜びと、その次は愛を表します。今年のアドベントにその四つの貴重な賜物を覚えながらクリスマスを迎える準備を皆さん一人一人と共にしたいと思います。アドベント•リースを用いて私達は今年もクリスマスを記念し、共にその神の賜物、希望と平和と喜びと愛を新たに経験したいです。

2007年12月02日 | カテゴリー: マタイによる福音書 , マラキ書 , ルカによる福音書 , 旧約聖書

私達の頭を高く上げて下さる方 ウイリアム・モーア宣教師

聖書 詩編3篇1−9
 
【様々な生涯の出来事】
私は自分の50数年の生涯にわたって、少なくとも一つの事が確実に分かって来ました。それはこの世での歩みには様々な事があります。私達には想像以外の事も起きると言う事です。単純に言えば、喜びの日があれば、悲しみの日もあります。全てが旨くいく時期がありますけれども、全てが失敗になるような時もきっと来ます。だからこそ、けっして私達は天狗になれません。今うまく行くからって自分を自慢する事は出来ないのです。又、今いくら元気だからっていつまでも続く保証はありません。いつかは病気が歓迎されない客のように生涯に立ち入ってしまう時もあります。更に、ある日は心配事がちっともない気持ちで溢れますが、時間があんまり経たない内に思い煩う事で不安を強く感じます。恐らく、私達皆は、落胆してお先真っ暗だと思い込んでしまう経験があるんじゃないでしょうか。
 
【逃れの砦:神の御言葉】
そんな時どうしますか。その時こそ私達キリスト者は襲われた人のように神の御言葉へ逃げ込みます。そして、御言葉に於ける神の変わらぬ約束と愛と慰めと救いを受けると、不思議に、新たな力と希望が与えられ、勇気を持って、どんな事でも積極的に迎えられ、勝利を期待する事が出来ます。
 
【ダビデ王と詩編】
永年に渡って、落胆と危機の時、キリスト者は特に詩編を通して神の助けと慰めと希望を得る事が出来ました。神の霊に導かれ、詩編を書いた人物・ダビデ王は生涯に色々な事を経験しました。イスラエルの力強い国王として宮殿の栄えを味わいましたが不幸のどん底に沈む時もかなりありました。しかし、ダビデ王はどんな時でも唯一の全能の神との関係と恵みを大事にして、主を常に賛美し、主から力と希望を得る事が出来ました。トラブルと悲しみと危機の中にいても、ダビデ王は主なる神を

「頭を高くあげて下さる方」


として経験されました。

2007年11月11日 | カテゴリー: 旧約聖書 , 詩篇

神によって選ばれた民 ウイリアム・モーア宣教師

申命記7:6−8
ローマ人への手紙8:28−39
 
【予定論の誤解】
改革主義教会の教理の中で多分一番有名な教えは予定論だと思います。信者の聖化や神の主権や御言葉を解き明かす事のような他の改革神学の特徴よりも、予定論は良く知られているでしょう。アメリカでも我々長老教会と予定論はいつも人から関連ずけられます。人々は長老教会員と話すと、「じゃ、あなたは運命予定説を信じますね」と言われる事がよくあります。改革主義と予定論とは相伴って行くべきものですけれども、予定論はよく誤解されている教理だと思います。
 
予定論はいったい何でしょうか。具体的に信者にとってどんな意味を持っているのでしょうか。今、その事について一緒に考えさせて頂きたいと思います。
 
先ず覚えて頂きたい事は、改革主義キリスト者は予定論を信じません。それはつまり、私達の信仰の対象はその教理ではありません。予定論を信じるよりは寧ろ私達は唯一の全能の愛である神のみを信じ、頼ります。
 
【予定論は神の愛を表現する】
と言うのは、予定論と呼ばれる教理はキリスト者の歩みの中で経験された、神の愛を表現するものなのです。だからこそ、予定論は信じる事よりも、私達の神様の経験を一番良く説明する表現であるし、御言葉の証言も正しく表すものなのです。

2007年11月04日 | カテゴリー: ローマの信徒への手紙 , 新約聖書 , 旧約聖書 , 申命記 , 詩篇

知恵の初め ウイリアム・モーア宣教師

聖書:箴言1章1−7
 
【ソロモンの願い】
皆さん、突然の質問ですけれども、もしある日、神様があなたに現れ、一つの願いを聞いてあげようと約束されたら、どう言う事を願うのでしょうか。その事について考えた事がありますか。何よりも、神からどう言うものを頂きたいですか。多分人によってその答えが異なると思います。例えば、飢えている者には、食べ物を願うでしょう。病気で苦しむ者だったら、何よりもその病気から癒されるのを切に願う事でしょう。経済的に困っている人にはもちろんお金を願い、そして、寂しい人は多分相手になる友人を求めるでしょう。
 
実は、聖書によりますと、ある日神はイスラエルの王になったばかりのソロモンの夢に現れ、このようにおっしゃいました。「何事でも願うがよい。あなたに与えよう」と約束しました。ソロモンには欲しい事が何でも頂ける一生のチャンスでした。もし、彼は富や、幸せや、権力や長命などを願ったら、きっとそのものは手に入れられるけれども、彼はそのようなものを神に願いませんでした。その代わりに、ソロモンは知恵を神に願ったのです。このように願いました。「どうか、あなたの民を正しく裁き、善と悪を判断する事が出来るように、この僕に聞き分ける心をお与え下さい。そうでなければ、この数多いあなたの民を裁く事が、誰に出来ましょう。」(列王記上3:9)ソロモンは神の民に仕える為、神から知恵を願ったのです。
 
神はその願いを聞いて、喜びました。そして、ソロモンに言われました。

「あなたは自分の為に長寿を求めず、富を求めず、また敵の命も求める事なく、訴えを正しく聞き分ける知恵を求めた。見よ、私はあなたの言葉に従って、今あなたに知恵に満ちた賢明な心を与える。あなたの先にも後にもあなたに並ぶ者はいない。私はまた、あなたの求めなかったもの、富と栄光をあたえる。生涯にわたってあなたと肩(かた)を並べうる王は一人もいない」


(列王記上3:10−13)とソロモンに約束しました。
 
ソロモン王は一番貴重なもの、知恵を願いましたので、神は知恵だけではなく、他にも祝福を豊かに与えて下さいました。列王記上5:9によりますと、

「神はソロモンに非常に豊かな知恵と洞察力と海辺の砂浜のような広い心をお授けになった。」

    ソロモン王は神から本当に価値あるものを頂きましたね。そして、

「あらゆる国の民が、ソロモンの知恵をうわさに聞いた全世界の王侯のもとから送られて来て、その知恵に耳を傾けた」

(列王記上5:14)と書いてあります。          

2007年10月14日 | カテゴリー: 列王記上 , 旧約聖書 , 箴言

私達の避けどころ ウイリアム・モーア宣教師

聖書:詩編2篇(全)
 
【毎朝の新聞】
私は毎朝起きると、すぐメールボクスへ行って、新聞を取って読みます。それは私の永年の習慣になりました。何故なら、新聞は何よりも、私を眠りから目覚めさせる力があるからです。ある人はコーヒを飲む事によって目が覚めると言います。また、他の人はシャワーを浴びると言いますが、私には新聞を読むのが一番効果的な目覚め方です。と言うのは新聞を読むと、すぐに心拍数が上がり、目が大きくなります。恐ろしい事と、とんでもない事と、腹が立つ事と、涙を流せる事ばっかりで、眠気が完全に消え、すっかり目覚めて、新しい一日を迎えます。特に戦争の事はその効果があります。アフガンとイラクの終わりのない戦争、テロの事、又、北朝鮮とイランの核兵器問題は震えさせ、煩いの種になります。
 
【主に逆らう支配者たち】
以前より、今の時代は特別に恐ろしいようですね。確かにテロの脅しと核兵器拡散は新しい心配の種になります。しかし、考えて見ますと戦争の事と暴力行為と国際不安定は決して新しい現象ではありません。約2,300年前にある詩人が神の霊に導かれ、このように書き記しました。

「何故、国々は騒ぎ立ち、人々は空しく声をあげるのか。何故、地上の王は構え、支配者は結束して、主に逆らうのか。」

2007年10月07日 | カテゴリー: 旧約聖書 , 詩篇

愛する神と悪の諸問題 ウイリアム・モーア宣教師

ローマの信徒への手紙8章28節
 
【偶然の悲しい出来事】
この間、ロスアンジェルス•タイムズと言う新聞でこの悲しい記事を読みました。記事の題は、「生まれたての赤ちゃんが流れ弾で殺された」とありました。「ベビーカーに寝っていた23日の新生児がロスアンジェルスのマッカーサー公園で流れ弾に撃たれました。日曜日の午後9時30頃、母親が赤ちゃんを公園へ連れたときに撃ち合いに巻き込まれました。三人のラテン・アメリカ系男性と屋台の主人との間で射撃事件が起きて、一人の男も銃で打たれました。彼は病院へ運ばれ、安定した状態で治療を受けています。しかし、赤ちゃんルイス•ガシアが午後10時過ぎに病院で死を宣告されました。当局は事件を調べていますが、犯人達とその動機はまだ不明だそうです。
          
公園の周辺には小さい売店と屋台が沢山あり、その殆ど全部はラテン系の人の経営です。事件の近くの店の店長が事件についてこのように語りました。「多くの家族が買い物と公園に、ここに集まって来るのに、 残念ながら、ここは危険な所です。 近辺は暴力で悪名になってしまいました。」
 
皆さん、このような悲惨な出来事を聞くと、その赤ちゃんの家族の悲しみと怒りを容易に想像出来ると思います。もし、自分の家族にそのような酷い乱暴があったら、もちろん悔しくてたまりません。産まれたばかり無邪気な赤ちゃんがそのように無意味に殺されたのは悲劇の中の悲劇になります。その事件はこの世にあるもっとも酷い悪の縮図であると思います。

2007年09月23日 | カテゴリー: イザヤ書 , ガラテヤの信徒への手紙 , ヤコブの手紙 , ルカによる福音書 , ローマの信徒への手紙 , 新約聖書 , 旧約聖書 , 民数記 , 詩篇

祝福への道 ウイリアム・モーア宣教師

聖書:詩編1篇

【詩編について】
早速ですが、聖書のクイズで今日の説教を始めたいと思います。良いですか。聖書の66巻の中でどこに一番短い章がありますか。また、一番長い章がある所は?それから600年程にわたって書かれた書は何ですか。もう少しクルーをあげますと聖書を手にとって、ほぼ真ん中を開くと何と言う書になりますか。この書は聖書の中で一番長い書でもあります。もう答えがお分かりになるでしょう。詩編は2節を持つ第117編は聖書の一番短い章で、176節で形成された詩編第119編は一番長い章です。詩編は600年にわたって書かれました一番長い書で丁度、聖書の真ん中にあります。クイズの全ての正しい答えは「詩編」であります。

 

【詩編と教会】
恐らく旧約聖書の全ての書の中で、詩編の影響はキリスト教会に一番強かったと思います。詩編は特にキリスト教の礼拝に大変重要な役割を演じて参りました。詩編は文字通りに詩の本です。そして、礼拝に古代ユダヤ人はその詩を神に歌いました。現在も私達が歌う多くの讃美歌は詩編に基づいています。詩編は詩を通してユダヤ人の歴史とその歴史の中の神の御業を語ります。神の民をエジプトの奴隷から解放したモーセから、イスラエルと言う国の発展をもたらしたダビデ王とその息子ソロモン王まで、詩編には神の民の歩みが記録されています。しかし、詩編は詩ですから、その歴史の中の出来事をただ理知的に語るのではなく、信仰と感情と賛美を通してその神の御業を述べてあります。詩編は神の民の勝利と喜びの時を賛美で表現しています。

2007年09月02日 | カテゴリー: 旧約聖書 , 詩篇

真の自由 ウイリアム・モーア宣教師

聖書:ヨハネによる福音書8章31−38
 
 
【ウオレス将軍】
「パッション」と言う映画で有名になったメル•ギブソン監督は1995年に「ブレイブハート」と言う他の映画でスコットランド人のウオレス将軍の役を務めました。その映画はウオレス将軍が無残なイギリスから自分の国スコットランドの自由を回復しようとするストーリです。ウオレス将軍は立派にイギリス軍と戦って多くの勝利を得ましたが、最後に彼は友人によって裏切られ、イギリスの王に渡されてしまいました。そして、イギリスの王はウオレス将軍を処刑するつもりでした。しかし、処刑する前にイギリスの王はウオレス将軍に恥をかかせる為、慈悲を乞わせようとしました。ウオレス将軍はあざける群衆の前に連れ出され、唾を吐かれたり、物を投げられたりしました。それから、死刑執行人は拷問をかけ始め、ウオレス将軍に言いました。「もし、慈悲を乞うなら、死刑を速く進めよう、しなかったら、もっと酷い拷問をかける」と脅しました。また、ウオレス将軍の声が聞こえるように、執行人は群衆を黙らせました。しかし、将軍は恥をかきませんでした。むしろ、残った力を全部奮(ふる)い起こして、大きい声で「自由」と叫びました。
 
【自由】
「自由。」その言葉は力強いです。自由の為に多くの人々は自分の命を犠牲にしました。又、自由の為に敵を殺す事も少なくありませんでした。歴史が始まった以来、自由の為に数え切れない程の戦争が起りました。又、現在も自由はいたるところで重んじられています。自分の自由を束縛されたいと思う人は珍しい事でしょう。

2007年08月19日 | カテゴリー: イザヤ書 , エフェソの信徒への手紙 , マタイによる福音書 , ヨハネによる福音書 , 新約聖書 , 旧約聖書

霊の結ぶ実:誠実 ウイリアム・モーア宣教師

詩編33
ガラテヤの信徒への手紙5:22−23
 
 
【アマンドと父の約束】
1988年に旧ソ連の共和国アルメニアでサミュエルとダニエルと言う両親は自分の幼い息子アマンドを小学校へ送り出しました。いつものように、お父さんサミュエルは息子を見て言いました。「学校でよく勉強してね。そして、万が一、あなたに何かが起きたら、どんな事があってもパパはあなたをすぐ助けに来る事を忘れないで。」そして、サミュエルは息子を強く抱きしめてから学校へ行かせました。
 
数時間後、力強い地震がその地域を揺らしました。大混乱の中でサミュエルとダニエルは息子の事を尋ねようとしましたが、情報は何もなかったのです。ただ、ラジオのニュースは、「何千人の犠牲者が出た」と伝えるだけです。その事を聞くと、サミュエルは忽ち学校へ走り出しましたが、現場へ着くと悪夢のような光景でした。アマンドの小学校は瓦礫の山と化してしまいました。そして、多くの生徒の家族は泣き悲しんでその酷い場を見詰めていました。
 
しかし、サミュエルはアマンドの教室があった所を捜し、自分の素手で瓦礫を取り始めました。コンクリートの塊と壊れた木の柱と割れた瓦も必死に取り除きました。
 
ある父親は、「何をやってますか」と彼に聞きました。そして、「息子を掘り出している」と返事をすると、「止めなさい、瓦礫は不安定なので、もっと悪くする」と言いました。しかし、サミュエルは続けて瓦礫を取り除こうとしました。彼を見ている他の両親たちは一人ずつ帰りましたが、サミュエルはその作業を止めませんでした。やっと、消防士が来た時、サミュエルは、「助けて下さい、私の息子がこの中にいるんです」と願いましたが、消防士も彼を止めさせようとして、やがて帰りました。
 
サミュエルは休まず一人でその晩ずっと努めました。そして、朝になると生徒の家族は現場に来て子供の写真とお花を瓦礫の前に置いて帰りました。しかしながら、サミュエルは瓦礫を掘るのを止めませんでした。大きな柱を動かそうとした瞬間、「助けて、助けて」と言う子供の小さい叫び声を聞きました。そして、少し後で、「パパ?、パパ?」と言う聞き慣れた声も耳に入りました。そのアマンドの声を聞くとサミュエルは鬼のように瓦礫を掘りました。やっと、 瓦礫の中の空洞に息子の姿を見ました。ほっとひと息つくと、「速く上って来い」とサミュエルは叫びました。しかし、アマンドは、「パパはきっと私を救うから、友達を先に出させて、お願い」と言ったのです。それから、生徒達一人一人はサミェルが掘った穴から出て来ました。最後に小さいアマンドがお父さんの腕に入ってこう言いました。「友達にパパがどんな事があっても僕を助けに来ると言っていたので、みな心配しなかった。」一人のお父さんが誠実であったので、その日14人の命が助けられました。

2007年07月08日 | カテゴリー: ガラテヤの信徒への手紙 , フィリピの信徒への手紙 , 新約聖書 , 旧約聖書 , 詩篇

霊の結ぶ実:善意 ウイリアム・モーア宣教師

マルコによる福音書10:17−22
ガラテヤの信徒への手紙5:22−23
 
【あなたは善人ですか】
皆さん、少し想像してみて下さい。もし電車を乗っている時、誰かがあなたの側に座り、突然、「あなたは善い人ですか」と尋ねられると、どう答えられますか。赤の他人にそのように聞かれると、多分びっくりするでしょう。又、恐らく、その人は正気かと疑うかも知れません。誰がそのような個人的な質問を知らない人に聞くでしょうか。しかし、もしその質問、「あなたは善い人ですか」に答えようとしたら、どう答えられますか。実は、人間誰でも自分が善い人だと思いたいのです。「私は善くない人、悪い人」と言う者はめったにありません。
 
アメリカの教会を牧会した間、私は長年刑務所の訪問を毎月しました。教会の会員の息子が殺人で投獄され、私は彼に会いに行きました。行く度に彼は自分の無罪を主張して、不正な判決を嘆きました。彼が犯した罪の証拠が沢山あったのに、最後まで「他人がやった」と言い張りました。結局、そのような犯罪を認めれば、自分が善い人ではない事を認める事になりますので、なかなか自白出来なかったと思います。
 
私達人間は「自分が善いのだ」と思いたいのです。また、回りの人々に善い人として思われたいでしょう。それは自己像の大事な一部ですから、「あなたは善い人ですか」と聞かれると、それに対して答えるとしたら、殆ど誰でも、「私は善い人だと思う」と答える事でしょう。
 
【聖霊の結ぶ実「善意」】
今日、聖霊なる神の結ぶ実の学びを再び始めたいと思います。今まで愛と喜びと平和と寛容と親切を学んで来ました。覚えていると思いますが、聖霊の結ぶ実は神の賜物です。つまり、キリスト者なら、神の霊は私達に宿って下さり、霊の結ぶ実、愛と喜びと平和など、そのものは自分のものになりました。しかし、その徳目を現す為、私達の内に聖霊の働きを許さなければなりません。それぞれの徳目を実行する意志が必要です。すなわち、神の助けでその賜物を生かす訳です。今朝は「善意」と言う徳目について一緒に考えたいです。神はキリスト者にその実をもう既に授けたのです。ですから、私達はその聖霊の結ぶ実「善意」を豊かに現すべきです。
 
エフェソの信徒への手紙2章10節にこの大事な聖句が記されています。

「私達は神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備して下さった善い業の為に、キリスト•イエスにおいて造られたからです。私達は、その善い業を行って歩むのです。」


書かれた通りに、私達は善い業、つまり善意の業を行う為に神によって特別に造られました。迷わず言える事ですが、それは主から与えられた私達の目的と使命です。その事を通して造り主と救い主なる愛する神の栄光を現します。ですから、私達はこの徳目「善意」を特に注目すべきです。

2007年07月01日 | カテゴリー: エフェソの信徒への手紙 , ガラテヤの信徒への手紙 , マルコによる福音書 , ローマの信徒への手紙 , 新約聖書 , 旧約聖書 , 歴代誌上

霊の結ぶ実:寛容 ウイリアム・モーア宣教師

マタイによる福音書18章21−35(本文参照)
 
ガラテヤの信徒への手紙5章22−23

霊の結ぶ実は愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。

 
【些細な事を許せない!】
読売新聞によりますと、最近、行儀が悪い人に対して暴力事件が増えて来ているそうです。関東の方ですけれども、ある28歳の高校先生は電車に乗って、足を組んで座っている青年の足に触れられました。先生はその事で怒り出し、青年を大声で叱って、頭を殴りました。
 
又、他の事件で57歳の警察官が逮捕されました。それは、彼は山の手線に乗っている若い女性の髪の毛を強く引っ張ったからです。尋問されると、警察官はこのように自分の行為を説明しました。「彼女は携帯電話でうるさく長話をして、態度が悪かったんです。」
 
又、28歳の女性の人も逮捕されました。彼女は空気銃で人の車を撃ちました。信号待ちの時、その車が彼女の車の前へ割り込んだからです。

2007年06月03日 | カテゴリー: ペトロの手紙二 , マタイによる福音書 , 新約聖書 , 旧約聖書 , 詩篇

わたしの母とはだれか ウイリアム・モーア宣教師

マタイによる福音書12章46−50

  ◆イエスの母、兄弟 46:イエスがなお群衆に話しておられるとき、その母と兄弟たちが、話したいことがあって外に立っていた。47:そこで、ある人がイエスに、「御覧なさい。母上と御兄弟たちが、お話ししたいと外に立っておられます」と言った。48:しかし、イエスはその人にお答えになった。「わたしの母とはだれか。わたしの兄弟とはだれか。」49:そして、弟子たちの方を指して言われた。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。  50:だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である。」  


【今日は母の日】
御存じのように、今日は母の日です。母の日に私達はお母さんを覚え、特別に敬う日なのです。私達それぞれは、誰でもどんな人でも、母がいますので、皆この日に参加する事が出来ます。今日は世界中で、数え切れない人がこの日を覚え、祝っています。北、中、南米の殆ど全ての国は5月の第二の主の日に母の日を祝います。そして、ヨーロッパとアフリカ諸国も今日、母の日を祝っています。アジアだったら、フィリビン、シンガポール、マレーシア、韓国、もちろん日本などにも母の日は大切に守られています。実は、最近中国さえも多くの人々は今日、自分のお母さんを特別に覚えています。

2007年05月13日 | カテゴリー: エフェソの信徒への手紙 , マタイによる福音書 , 列王記上 , 新約聖書 , 旧約聖書

新しいことを行ってくださる神 ウイリアム・モーア宣教師

イザヤ書43章

18:初めからのことを思い出すな。昔のことを思いめぐらすな。 19:見よ、新しいことをわたしは行う。今や、それは芽生えている。あなたたちはそれを悟らないのか。わたしは荒れ野に道を敷き/砂漠に大河を流れさせる。  20:野の獣、山犬や駝鳥もわたしをあがめる。荒れ野に水を、砂漠に大河を流れさせ/わたしの選んだ民に水を飲ませるからだ。  21:わたしはこの民をわたしのために造った。彼らはわたしの栄誉を語らねばならない。  22:しかし、ヤコブよ、あなたはわたしを呼ばず/イスラエルよ、あなたはわたしを重荷とした。  23:あなたは羊をわたしへの焼き尽くす献げ物とせず/いけにえをもってわたしを敬おうとしなかった。わたしは穀物の献げ物のために/あなたを苦しめたことはない。乳香のために重荷を負わせたこともない。 24:あなたは香水萱をわたしのために買おうと/銀を量ることもせず/いけにえの脂肪をもって/わたしを飽き足らせようともしなかった。むしろ、あなたの罪のためにわたしを苦しめ/あなたの悪のために、わたしに重荷を負わせた。  25:わたし、このわたしは、わたし自身のために/あなたの背きの罪をぬぐい/あなたの罪を思い出さないことにする。

          
【難船の男】
ある男が難船の故に独りで大海の中の小さい無人島に流れ着きました。彼は半死半生の状態でしたが、やっと雨と太陽から身を守る為に流木で小屋を建てる事が出来ました。彼は救われるように毎日一生懸命に神に祈りましたけれども、何週間経っても助けられませんでした。ある日、彼は食べ物を漁り歩いてから、小屋に帰ると、酷い光景を見ました。稲妻が小屋を打って、もうもうたる煙が立っていました。小屋は全焼してしまったので、男の人は怒りと悲痛で神に叫びました。「神よ、どうしてこんな酷い目に遭わせたのですか。もう我慢出来ません。私の命を取って下さい。」

2007年04月29日 | カテゴリー: イザヤ書 , コリントの信徒への手紙二 , 列王記下 , 新約聖書 , 旧約聖書

神の世の管理者なる私たち ウイリアム・モーア宣教師

創世記1章26−31節26:

神は言われた。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」 27:神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。28:神は彼らを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。」 29:神は言われた。「見よ、全地に生える、種を持つ草と種を持つ実をつける木を、すべてあなたたちに与えよう。それがあなたたちの食べ物となる。30:地の獣、空の鳥、地を這うものなど、すべて命あるものにはあらゆる青草を食べさせよう。」そのようになった。31:神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。夕べがあり、朝があった。第六の日である。

 
【環境破壊の原因】
最近、 マスメデイアのお陰で私達は世界の環境問題について益々承知されるようになりました。殆ど毎日、ニュースで環境についての新しい情報を見る事が出来ます。そして、言うまでもなく、その情報はあんまり喜ばしくはありません。地球の温暖化が進んで来て、色んな害を起してしまいます。絶滅した動物と植物の種類がだんだん増えて、ある被造物は完全に消えてしまいました。平均して毎日、三つの種類がこの世から去ってしまうんだそうです。大都市で大気汚染は酷くなり住民の健康を害します。ゴミは海に入り、その大量が南太平洋の島の砂浜に流れ着きます。更に、多くの国に淡水の量が足りなくて、農業生産が脅(おびや)かされるどころか、きれいな飲む水も乏しいです。また他に環境問題が沢山ありますが、殆ど全は共通点があります。それは、その問題は全て人間の行動で起こりました。私達の行動と生き方の故に大気と海が汚れて来て、また多くの動物が絶滅しました。つまり、私達人間の為で今、地球はその深刻な問題に直面しています。証拠を客観的に見ると、明白に私達人間には責任があります。

2007年04月22日 | カテゴリー: ヨハネによる福音書 , 創世記 , 新約聖書 , 旧約聖書

復活の約束 ウイリアム・モーア宣教師

マタイによる福音書28章1−10
 
【守られない選挙公約】
皆さんも十分お気付きと思いますが、私達は選挙シーズンに入りました。何所へ行っても宣伝車が走り回り、政治家、あるいは政治家になりたい者は車のスピーカで国民にアピールをしています。また、駅前でも、昨日のような雨でも、政治家は選挙運動に励んでいます。他の時は分かりませんが、選挙のシーズンの政治家は大変だと思います。一票でも取る為に必死の努力をしているようです。朝早くから夜遅くまであちこちへ行って住民に顔を売っています。彼らはスピーカで色んな事を叫びますが、そのお話の中で約束事が多いようです。たとえば、「私が国家議員になったら、日本は美しい国になる。」「明るい政治の為に私を選出して下さい。」「我が党は安定した生活を保証します。」何所の国でも同じ事だと思いますが、選挙に勝つ為に、政治家は国民に約束する事が多いのです。しかし、多くの場合、約束を果たすのは全く別の事になります。政治家は約束する時、恐らく皆は心からその約束を守りたいですが、色々な理由で誓った事を実現出来ません。政治的力が足りないか、約束した事は実際的でなかったりします。あるいは、事情があって止むなく約束した事を実現出来ない。また、政治家は選挙に勝つと、選挙の時、約束した事をすっかり忘れる場合もあるかも知れません。とにかく、色々な理由で政治家の言う事を割引して聞いた方が良いと思います。

2007年04月08日 | カテゴリー: イザヤ書 , エレミヤ書 , マタイによる福音書 , ヨハネによる福音書 , 創世記 , 新約聖書 , 旧約聖書

イエス・キリストの犠牲 ウイリアム・モーア宣教師

マルコによる福音書15章33−39
 
【主イエスの受難】
私達の主イエス・キリストの受難記念日はもうすぐです。実は、今週の金曜日になります。主イエスの受難の全ての犠牲はあなたの為、私の為でしたので、この際、主の犠牲を改めて思案すべきだと思います。来週、いよいよイエス・キリストの復活をお祝いします。しかし、この受難がなければ、復活もなかった事でしょう。そして、イエス・キリストの十字架の死の意味が分からなかったら、その復活の意味と喜びも分かるはずがありません。ですから、今朝、主イエスの犠牲について一緒に思案したいと思います。
 
イエス・キリストの犠牲を考えるとき、すぐに残酷な十字架を思い出します。十字架に掛けられた間、イエスが言い尽くせない程、肉体的苦しみを経験されました。ローマ帝国の処刑の方法として、十字架の死は一番酷い拷問でした。普通の犯罪者は他のもっと速い方法で死刑に処されたのですが、国に対して謀反(むほん)のような重い罪を犯した場合、十字架刑を使いました。つまり、これ以上の厳しい刑罰がありませんでした。一日の拷問に限られなくて、死ぬまで大抵二日、三日程の時間がかかりました。あまり残酷なので、私達は主イエスの十字架の死の肉体的苦しみを十分想像出来ないと思います。

2007年04月01日 | カテゴリー: イザヤ書 , マタイによる福音書 , マルコによる福音書 , ルカによる福音書 , 新約聖書 , 旧約聖書

私達の弁護者 ウイリアム・モーア宣教師

聖書:ヨハネの手紙一2章1−6節
 
 
【高価なシガーに保険を掛けたずる賢い弁護士】
 アメリカで実際に起こった事件です。ある弁護士が一箱の非常に高価なシガー、すなわち葉巻を購入しました。ちょっと信じがたいですが、その24本の葉巻を手に入れる為に1万五千ドル(約170万円)程の代金を支払いました。あんまり高かったので弁護士はそのシガーに火災保険をかけました。そして、彼は一ヶ月以内でその24本の高価なシガーを全部吸ってしまいました。そうすると、彼は保険会社に対して要求を起こしました。葉巻が一連の小さい火事で焼けてしまったと弁護士は主張しました。保険会社は弁護士が通常のようにシガーを消費したともちろん支払いを拒否したのです。しかし、弁護士はその判断を受け入れなかった為、保険会社に対して訴訟を起こしました。そして、驚くことに彼は勝ちました。裁判管は原告の主張が軽薄であると保険会社に同意しました。しかし、保険の契約書にはどのような火事は当たらないと言う事が詳しく載ってないので、残念ながら、保険会社は原告の要求を払う義務があると裁判官が述べました。その判決を受けると保険会社は弁護士にシガーの価値、1万5千ドルをちゃんと払いました。そして、保険のお陰で無料でその優れたシガーを楽しめたと弁護士は大笑いしました。
 
しかし、弁護士がその代金を受け取ると、保険会社は弁護士を裁判での証言に基づいて、すぐに放火罪で彼を逮捕させました。そして、弁護士は保険をかけられた資産を故意に燃やした罪で有罪判決を受けてしまいました。放火罪で彼は刑務所の24ヶ月と2万4千ドルの罰金を宣告されました。驚きますが、この事件は本当にあったのです。

2007年03月18日 | カテゴリー: イザヤ書 , ヨハネの手紙一 , ローマの信徒への手紙 , 新約聖書 , 旧約聖書

主は備えてくださる ウイリアム・モーア宣教師

創世記22章1−19
 
【男はなぜ溺れ死んだか】
急な大洪水の故にある男の人は避難出来なくて、自分の家に閉じ込められてしまいました。洪水が家の一階に入ると二階へ逃げました。そして、二階にも水が上がって来たので、屋根に上りました。やがて、ヘリコプターが飛んで来て、彼を救う為に梯子を屋根まで下ろしました。ヘリコプターの人が、「梯子を引っ掴んで下さい。上まで引っ張るから」と叫びました。そして、男の人はこう断りました。「結構です。神が私を救うから、いいですよ。私の神は備えて下さる。」洪水の水がだんだん上がるとまた救助隊が今度は船でやって来て男の人を救おうとしました。「溺れてしまうから、船に乗って下さい」と言いましたのに、男の人はまたこのように答えました。 「結構です。神が私を救うから、いいですよ。私の神は備えて下さる。」水が屋根の天辺まで上がった時、 救命胴衣(どうい)を引っ張った犬が男の人の方へ泳いで来ました。しかし、彼はもう一度、「結構です。神が私を救うから、いいですよ。私の神は備えて下さる」と断りました。
 
丁度その瞬間、大きな波が襲って来て、男の人を屋根からさらわれ、彼は溺れ死んでしまいました。彼はイエス・キリストを信じたので天国に着きました。そして、彼は早速主に聞きました。「どうして私を洪水から救いませんでしたか。大きな信仰を持って神の助けを待ちました。神が備えて下さると信じたのに。」そうすると、主は彼を見てこのように返事をしました。「私はヘリコプターと船と犬までもあなたに送ってやりましたが、あなたはその全てを断ってしまったね。それは私が備えてやったのに。」

2007年03月04日 | カテゴリー: 創世記 , 旧約聖書 , 詩篇

「平和を実現する人々は幸いである」田村英典

聖書:マタイによる福音書5章9節

「平和を実現する人々は幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる。」

 

【平和を実現する】

今朝はマタイ福音書5章9節に注目します。イエスは言われます。

「平和を実現する人々は幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる。」


何度もお話していますが、イエスは3~10節で、真の信仰者の幸いな特徴、特質を8つの角度から光を当てて描かれ、全てのクリスチャンがこうであることを強く願っておられます。で、真のクリスチャンの7つ目の特徴が「平和を実現する」、あるいは平和を造り出すことです。

まず私たちは、これが人間の様々なあり方や行動の中でも最も価値あることの一つであることを深く心に刻みたいと思います。私たちはこの世で生きる上で色々なことに携わり、様々な行動が要求されます。

勉強すること、働くこと、社会的、文化的なことに関与するなど、多くのことがあります。しかし、最終的に平和を私たちの周りに造り出すことに貢献しないようなものは、主イエスによれば余り価値がないとさえ言えます。

聖書で言う平和は、単に戦争や争いがないだけではありません。平和とは、国と国、人と人が、互いに愛をもって理解し、助け合い、そうしていわば人が人として造り主なる神の前で完成される上で必要な大切な環境と条件と言えます。大国も小国も、大企業も中小企業も、健康な者も病める者も、皆が夫々の固有性を失わず、全体の益のためにも夫々の存在を守られ支えられ、最終的には造り主なる神に喜ばれるように自らを完成することの出来る環境と条件。これが聖書の言う真の平和と言えます。そうだとするなら、これは極めて尊いものであり、本当は全ての人間が意識的にこのために貢献すべきことと言えます。

2007年02月11日 | カテゴリー: イザヤ書 , テサロニケの信徒への手紙一 , マタイによる福音書 , マルコによる福音書 , ヤコブの手紙 , ローマの信徒への手紙 , 新約聖書 , 旧約聖書 , 詩篇

満ち足りた生活の秘訣 ウイリアム・モーア宣教師

ヘブライ人への手紙13:1−8

【突然の遺産相続】
ある日、二人の友人が久しぶりに道端でばったり出会いました。一人はとても悲しそうな顔をして、目に涙がにじんでいました。その様子を見ると友人が驚き、「一体どうかしましたか」と尋ねる、彼はこのように説明しました。「三週間前に伯父が亡くなって遺言で500万円を頂いた」と言いました。「それは嬉しい事じゃないか。どうして悲しいですか」と友人が聞きました。「実は、二週間前にあまりよく知らなかったいとこも死んで私に一千万円を残してくれたのよ」と悲しい友人は述べました。「あなたは運が本当に良いですね」と友人は返事すると相手は言いました。「どうして私の気持ちを理解してくれないの。先週大おばも急に息を引き取って、三千万円を譲ってくれた」と言いました。そうすると、納得出来なかった友人はこう聞きました。「こんなに恵まれているあなたは涙を流す必要がないのに、どうして悲しいですか。言って下さい。」「あなたはまだ私の気持ちが分からないの?。実は、今週は、誰一人死んでないので、一円も今週貰ってないから悔しいのよ」と彼は言いました。

【満ち足りる事とは】
今日、12月31日、私達は正に新しい年、2007年の玄関に立っています。後13時間ぐらいで2006年は完全に過ぎ去り、主イエス・キリストの2007年を迎える事が出来ます。この際、新しい年に入る私達は満ち足りる事について一緒に考えたいと思います。つまり、新しい年にはどういうふうに満ち足りた人生を歩む事が出来るのでしょうか。

2006年12月31日 | カテゴリー: フィリピの信徒への手紙 , ヘブライ人への手紙 , マタイによる福音書 , 新約聖書 , 旧約聖書 , 詩篇

子供のようにクリスマスを ウイリアム・モーア宣教師

ルカによる福音書2章1−20
 
【最初のクリスマス】
皆さん、メリークリスマス!私達は大きな喜びを持って、この世の唯一の希望、私達の救い主、イエス・キリストの御降誕をお祝い致します。
2006年前にマリアと言う乙女が全能の神の独り子をベツレヘムと言う町にある馬小屋でお産みになりました。宿屋には彼らの泊る場所がなかった為、マリアはその御子を布にくるんで飼い葉桶に寝かせた、と聖書に記されています。万物の造り主で永遠の神は自ら進んで非常に低くなり、この世に下って、人間として私達と共に宿りました。そして、主は、「神の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」と書いてあります。ですから、クリスマスは非常に大切な記念日になります。唯一の神が天から下って人間の赤ちゃんの姿でこの世に入るのは決して普通の事ではありません。歴史上、その最も素晴らしい出来事を通して神は私達に対する御自分の驚くべき愛を具体的に表されました。
 
愛する兄弟姉妹、私達は救い主である、神の御子の誕生の記念日をどういうふうに祝うべきでしょうか。この世の人々は色々なかたちでクリスマスを迎えようとしていますが、恐らく、私達は今年、幼子のようにクリスマスを迎え祝いたいのです。

そして幼子のようにクリスマスを迎え祝う事によって神の恵みと祝福をより豊かに受けたいと思います。
 
先程読ませて頂いた聖書の箇所はクリスマス•ストーリーです。その中に「初めての子」と「乳飲み子」と言う表現が見られます。神は御自分の全ての栄光と力ある姿で私達に現れる事が十分お出来になりました。しかし、主はわざわざ防御出来ない人間の赤ちゃんとしてこの世に下りました。全能の神が御自分の全勢で私達に現れたら皆は恐れる事でしょう。その故に皆が見た事がある可愛らしい赤ちゃんの姿で私達の世に現れて下さいました。
 
ですから、幼な子が現れないうちはクリスマスの出来事が不可能のように、私達は子供のようにならないと、クリスマスを豊かに祝う事が出来ません。主イエスはこのように言われました。

「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入る事は出来ない。自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国で一番偉いのだ。」(マタイ18:3−4)

2006年12月24日 | カテゴリー: イザヤ書 , マタイによる福音書 , ルカによる福音書 , 新約聖書 , 旧約聖書

神の信実・神への忠信 ―ダビデ王とその家臣― 市川康則牧師/神戸改革派神学校教授

(歴代誌上11章15‐19)

序.
 歴代誌上11章15‐19は、ダビデとその家臣が共々に、またそれぞれに、神に対して忠義であり、真に献身したことを伺わせる一つのエピソードを記しています。この箇所の並行記事がサムエル記下23章13‐17にありますが、そこでは、三勇士の武勲は、ダビデの生涯と事績を記す一連の物語の終わりのほうに位置しています。今朝の箇所では対照的に、ダビデがサウルに代わって登場してくるのを書き始める部分―長いダビデ物語の初めのほう―に位置しています。
 
神の民、イスラエル王国の要とも言うべきダビデ王朝の勃興・形成の物語の最初期から、ダビデ自身の事績のみならず、彼の忠義な家臣団が―各自の名前が連ねられて―述べられていることは意義深いことです。イスラエル王国の基礎固めがなされ、それを通して主なる神の主権的支配が着実に進んで行く背景には、ダビデだけなく―ダビデ一人ではどうにもなりません!―彼が自らの王の任務を遂行することができるように、彼に仕えた多くのイスラエルの家臣がいたことが、読者には初めから印象付けられます。神はご自身の御業の遂行のために、ダビデの忠実な家来をも(ダビデと共に)用いられたのです。

2006年11月26日 | カテゴリー: コリントの信徒への手紙二 , サムエル記下 , ヨハネによる福音書 , ルカによる福音書 , 創世記 , 新約聖書 , 旧約聖書 , 歴代誌上

「憐れみ深い人々は幸いである」田村英典牧師/淀川キリスト教病院伝道部長

聖書:マタイ5章7節

【真のクリスチャンの幸いとは】

5章3節からのイエス・キリストの幸福の教えの中で、今日は5番目、7節に進みますが、その前にイエスの教えを正しく理解するために三つの点を確認しておきます。第一に、これら一連の教えは、全て信仰により霊的に生れ変った信仰者が聖霊によって与えられる新しい特質を描いたものです。キリスト教信仰に生きる人はこういう人だということです。

第二に、これらは全体として適用されなくてはなりません。真のクリスチャンは3節「心の貧しい」、つまり謙遜な人ですが、同時に6節「義に飢え渇」き、9節「平和を実現」し、いいえ、 3~10節の全ての特徴を持っている人です。これらの内の一つを持っているだけで満足することは、主の御心ではありません。

第三に、これらは私たち自身の人間性と信仰を探り、私たちの心をテストします。これらを学んで「これは私の考えとは違う。私には合わない」というなら、それはその人がまだ本物のキリスト教信仰から遠い存在であることを意味します。逆に、これらの教えに自分を照らして見て、「あぁ、私はまだまだ信仰の薄い者だ。だが、これらは確かに真理だ。私もこうありたい」と心底願うなら、その人は本物のキリスト教信仰を持ち、救いの道を既に歩み始めています。このように、これらは私たち自身をテストします。以上、三つの点を確認しました。

2006年11月12日 | カテゴリー: マタイによる福音書 , ローマの信徒への手紙 , 新約聖書 , 旧約聖書 , 詩篇

「落ち着いた生活」グラハム・スミスKGK主事/CMS宣教師

聖書:1テサロニケ4章11−12節、2テサロニケ3章6−13節
 
1.イントロダクション:聖書は日常生活の指南書
今日はテサロニケの信徒への手紙から神様のみことばに耳を傾けようとしています。みことばに対してどんな期待を持って聞くでしょうか。多くの人々にとって聖書は日常生活と関係が全くないものです。聖書に触れたことがないからです。聖書を読んだことがない人が多いです。
 
読みたくない理由をあげると古い本で、わかりにくい言葉と内容があるからだと言われます。それは確かにそうですが、聖書は日常生活と関係がないという意見は誤解です。聖書は創造者なる神様から出た言葉ですから、人間のすべてに語られているものです。人生の大きなテーマ(人間存在や生ける意味など)だけではなく、細かいテーマまで語られています。
 
例えば、セックスについてとか家庭やお金や言葉使いや環境や健康や人間関係などのテーマに言及します。今日の箇所でも重要なテーマが出てきます。「仕事」というテーマです。11節に簡単に語られています、

「自分の仕事に励み、自分の手で働くように務めなさい」。

2006年11月05日 | カテゴリー: コヘレトの言葉 , テサロニケの信徒への手紙一 , 新約聖書 , 旧約聖書 , 箴言

世代を貫く神の契約的信実 ―キリスト教の"因果応報"― 市川康則神戸改革派神学校教授

(聖書:サムエル記下21章1‐14)
 
序―因果応報
 「因果応報」はすぐれて仏教的な言葉ですが、しかし、単純に「原因結果」の意味に取れば、キリスト教信仰にも当てはまります。キリストを信じるなら(原因)、罪を赦され、救われます(結果)。ある哲学者は、キリスト教が日本で受容されない原因の一つは、祖先崇拝を粗末にしてきたからだと言います。私たちは祖先を「崇拝」しませんが、しかし、祖先がいたから私たちが今ここにいるということは事実です。そればかりか、私たちはしばしば、良きにつけ悪しきにつけ、祖先のしたことに影響を受けたり、条件付けられたりします。私たちは前後の時代の人々といっしょに歴史を担っており、その中で自分たちの役割を果たします。よく果たせば、次の代の人たちは助かりますが、しかし、悪く果たすと、迷惑な置き土産をすることになります。

こういうことは信仰生活や教会形成にも当てはまります。今朝学びます聖書の箇所も、このことを教えています。しかし、最も重要なことは、単に先祖と私たちの間の、また私たちと子孫の間の因果関係だけを意識するのではなく、すべての時代にわたって恵み深く主権的に支配しておられる神に、私たちの意識を向け、神様にこそ信実、忠実に関わることです。神への誠実・礼節こそ、人々へのふさわしい態度をとることができる土台です。祖先をいたずらに美化したり、あるいは非難することなく、神の御心―聖書の教え―に照らして、良いことは良い、悪いことは悪いと判断、評価できるのです。

2006年10月22日 | カテゴリー: サムエル記下 , 旧約聖書

「義に飢え渇く人々は幸いである」 田村英典牧師/淀川キリスト教病院伝道部長

マタイ5章6節
「義に飢え渇く人々は幸いである。その人たちは満たされる。」

 
マタイ5章初めの幸福の教えを続けて学んでいます。今日は4番目の6節に進みます。イエスは言われました。「義に飢え渇く人々は幸いである。」
 
【義に飢え渇く】
私は20歳の時、初めて聖書のここを読みました。正直なところ、良く分りませんでした。

「義」


とは何か。

「義に飢え渇く人々」


とは強い表現だが、どういう人のことなのか。こういう疑問を抱いたことを今も覚えています。
 

2006年10月17日 | カテゴリー: コリントの信徒への手紙一 , フィリピの信徒への手紙 , マタイによる福音書 , ヨハネによる福音書 , ルカによる福音書 , 使徒言行録 , 新約聖書 , 旧約聖書 , 詩篇

「柔和な人々は幸いである」 田村英典牧師/淀川キリスト教病院伝道部長

マタイ福音書5章5節 「柔和な人々は幸いである。その人たちは地を受け継ぐ」

 
【幸いな者とは】
イエス・キリストの語られたマタイ5~7章にある山上の説教の冒頭の「幸福の教え」の三つ目、5:5「柔和な人々は幸いである。その人たちは地を受け継ぐ」を今朝は学びます。イエスは3~10節で真に幸いな信仰者がどういう特徴、特質を持つ人かを八つの側面から描かれますが、その三つ目の特徴、特質が柔和ということです。
 
【柔和な人々は幸いである】
柔和な人々は幸い!しかし、これは当時の多くのユダヤ人たちに違和感を与えただろうと言われます。何故なら、紀元1世紀のユダヤはローマ帝国の支配下にあり、それをユダヤ人たちは非常な屈辱と感じ、事あらば、武力に訴えてでもローマの支配をはね返そうという反抗心が常にくすぶっていたからです。
「世の中、何だかんだ言っても、力がものを言う。強い人間が勝って、得をするんだ。」これが当時の多くのユダヤ人が体で覚えた人生哲学でした。これは支配者であるローマ人にしても同じだったでしょう。「結局、力だ。強引さだよ。幸せになりたいなら、これだ。」
こういう考えは、今日にも見られると思います。確かに「人にも自然にも優しく」という言葉に見られますように、優しくあることの良さが、近年、言われ出しました。でも、根本ではどうでしょう。「ほしいものを手に入れたいなら、やはり力だ」という思いが根強いのではないでしょうか。しかし、人間とその永遠の運命をも全てご存じの神の御子イエスは断言されます。「柔和な人々は幸いである。」

2006年10月08日 | カテゴリー: マタイによる福音書 , 新約聖書 , 旧約聖書 , 詩篇

「さらに愛し合う教会」 グラハム・スミスKGK主事/CMS宣教師

詩編133篇1--3

1:【都に上る歌。ダビデの詩。】見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び。

2:かぐわしい油が頭に注がれ、ひげに滴り/衣の襟に垂れるアロンのひげに滴り

3:ヘルモンにおく露のように/シオンの山々に滴り落ちる。シオンで、主は布告された/祝福と、とこしえの命を。

テサロニケの信徒への手紙一4章9--10

【1.愛がないと。】

(スキット:持ち物をめぐる争い)

先のふたりの間の会話と行動を見てどう感じましたか。びっくりしたでしょう。恥ずかしかったでしょう。気持ちがわるかったでしょう。

これはスキットに過ぎませんでしたが、残念ながら、日常生活ではこのようなことが繰り返して起こっています。家庭とか会社とか学校の中で似ている問題が起こっています。我が家では下の二人の子供の間では、本当につまらないことで争いがしばしば起こっています。「兄弟喧嘩」と呼ばれていますね。大人は子供よりコントロールができますから目立つ程の喧嘩にならない場合が多いですが、心のレベルでの戦いは態度や言葉使いなどによって起こります。

先のスキットのように、心の感情が外に出ると大変な経験になります。喧嘩の姿がばれるといやな気持ちがしますね。

教会のなかでも愛がないと本当に辛いです。メンバーに傷つけられたり、外への証のつまずきになります。そうならないようにパウロの言葉に聞きましょう。パウロは兄弟愛について語っています。

2006年10月01日 | カテゴリー: エフェソの信徒への手紙 , ガラテヤの信徒への手紙 , コリントの信徒への手紙一 , テサロニケの信徒への手紙一 , テトスへの手紙 , マルコによる福音書 , ヨハネによる福音書 , ヨハネの手紙一 , ルカによる福音書 , ローマの信徒への手紙 , 新約聖書 , 旧約聖書 , 詩篇

神の前に一人の人間として ―ダビデ王の信仰と悔い改め― 市川康則牧師/神戸改革派神学校教授

聖書:サムエル記下12章13‐23

13:ダビデはナタンに言った。「わたしは主に罪を犯した。」ナタンはダビデに言った。「その主があなたの罪を取り除かれる。あなたは死の罰を免れる。 14:しかし、このようなことをして主を甚だしく軽んじたのだから、生まれてくるあなたの子は必ず死ぬ。」 15:ナタンは自分の家に帰って行った。主はウリヤの妻が産んだダビデの子を打たれ、その子は弱っていった。
16:ダビデはその子のために神に願い求め、断食した。彼は引きこもり、地面に横たわって夜を過ごした。 17:王家の長老たちはその傍らに立って、王を地面から起き上がらせようとしたが、ダビデはそれを望まず、彼らと共に食事をとろうともしなかった。
18:七日目にその子は死んだ。家臣たちは、その子が死んだとダビデに告げるのを恐れ、こう話し合った。「お子様がまだ生きておられたときですら、何を申し上げてもわたしたちの声に耳を傾けてくださらなかったのに、どうして亡くなられたとお伝えできよう。何かよくないことをなさりはしまいか。」19:ダビデは家臣がささやき合っているのを見て、子が死んだと悟り、言った。「あの子は死んだのか。」彼らは答えた。「お亡くなりになりました。」 20:ダビデは地面から起き上がり、身を洗って香油を塗り、衣を替え、主の家に行って礼拝した。王宮に戻ると、命じて食べ物を用意させ、食事をした。
21:家臣は尋ねた。「どうしてこのようにふるまわれるのですか。お子様の生きておられるときは断食してお泣きになり、お子様が亡くなられると起き上がって食事をなさいます。」22:彼は言った。「子がまだ生きている間は、主がわたしを憐れみ、子を生かしてくださるかもしれないと思ったからこそ、断食して泣いたのだ。 23:だが死んでしまった。断食したところで、何になろう。あの子を呼び戻せようか。わたしはいずれあの子のところに行く。しかし、あの子がわたしのもとに帰って来ることはない。」

【はじめに】
 ダビデ王と言えば、イスラエルの名君であり、今日でもイスラエル国旗は「ダビデの星」と言われるデザインのものです。また旧約時代、将来現われる真の救い主が「ダビデの子(子孫)」と言われたほどに、ダビデは神の救いのみ業において大きく用いられた人物でした。しかし、ダビデは決して"聖人君子"ではありません。欠けがあり、弱さがある罪人に過ぎません。彼は一国の王として一般国民とは比べ物にならない大きな権力を行使でき、これによって、神のみ業を前進させ、そして神から大きな祝福を受けることもできます。しかし、その反面、罪を犯し、神に罰せられることにおいても、国民にまさっています。

2006年09月24日 | カテゴリー: サムエル記下 , 旧約聖書

「悲しむ人々は幸いである」 田村英典牧師/淀川キリスト教病院伝道部長

聖書:マタイ5章4節「悲しむ人々は幸いである。その人たちは慰められる。」

【悲しむ人々は幸いである】
今朝は、イエスの語られた山上の説教の冒頭の「幸福の教え」の二つ目に進みます。4節「悲しむ人々は幸いである。その人たちは慰められる。」

ここですぐ疑問が湧いてきます。「ちょっと待ってほしい。悲しみは不幸以外の何ものでもないではないか。何故こんなことが言えるのか。」恐らく誰もがこういう疑問を抱くと思います。

「悲しむ人々は幸い。」この逆説はどういうことでしょうか。イエスはどういう意味でこう言われるのでしょうか。

最初に一つのことを確認しておきます。イエスは悲しむ人の誰もがこうだと言われるのではありません。前回も申し上げましたが、ここの教えは皆、イエスを神の御子、また私たち人間を罪と永遠の滅びから救うことのできる、ただ一人の救い主と心から信じる真の信仰者、真のクリスチャンの幸いな特徴、特質を八つの角度から描いたものです。これはクリスチャンでない人たちを締め出すというのではありません。ただ、真のクリスチャンとはどういう人で、どういうことが真に幸いか、ということです。

次のような誤解もあります。これは世間にしばしば見られ、クリスチャンですら時に誤解しているものです。つまり、クリスチャンはいつも笑顔で明るいというものです。成程、教会へ行くと皆明るい。笑顔で挨拶し、爽やかな印象を与えます。「私はクリスチャンだから、人につまずきを与える苦しそうな暗い顔をしてはいけない。明るくなくては」と思って努力する人もいます。中には、常に明るいことを自分のトレードマークとし、他のクリスチャンにもそれを要求する人もいます。これでは、クリスチャンは悩んではならず、悲しむことはキリスト教信仰と相容れないみたいです。

2006年09月17日 | カテゴリー: コヘレトの言葉 , コリントの信徒への手紙一 , マタイによる福音書 , ヨハネによる福音書 , ローマの信徒への手紙 , 新約聖書 , 旧約聖書 , 詩篇

「心の貧しい人々は幸いである」 田村英典牧師/淀川キリスト教病院伝道部長

マタイによる福音書5章 ◆山上の説教を始める 1:イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。2:そこで、イエスは口を開き、教えられた。 ◆幸い 3:「心の貧しい人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。 4:悲しむ人々は、幸いである、/その人たちは慰められる。 5:柔和な人々は、幸いである、/その人たちは地を受け継ぐ。 6:義に飢え渇く人々は、幸いである、/その人たちは満たされる。 7:憐れみ深い人々は、幸いである、/その人たちは憐れみを受ける。 8:心の清い人々は、幸いである、/その人たちは神を見る。 9:平和を実現する人々は、幸いである、/その人たちは神の子と呼ばれる。 10:義のために迫害される人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。 11:わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。 12:喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。


【山上の説教】

今朝は、主イエスの語られた山上の説教の冒頭の教えに注目したいと思います。

3~10節で主は


「~は幸いである」

と言われます。どういう人のことを、主は語っておられるのでしょう。実は真の信仰者、真のクリスチャンとは、どういう特徴を持つ人かを、8つの角度から描いておられるのです。従って、これらにより、私たちはクリスチャンとしての自分を様々な角度から吟味することができ、また何が真に幸いなのかも再確認できます。

2006年09月10日 | カテゴリー: イザヤ書 , コリントの信徒への手紙一 , コリントの信徒への手紙二 , テモテへの手紙一 , マタイによる福音書 , ヤコブの手紙 , ルカによる福音書 , ローマの信徒への手紙 , 出エジプト記 , 新約聖書 , 旧約聖書

「神に背負われる幸せ」 田村英典牧師・淀川キリスト教病院伝道部長

聖書:イザヤ書46章1~4節

1:ベルはかがみ込み、ネボは倒れ伏す。彼らの像は獣や家畜に負わされ/お前たちの担いでいたものは重荷となって/疲れた動物に負わされる。 2:彼らも共にかがみ込み、倒れ伏す。その重荷を救い出すことはできず/彼ら自身も捕らわれて行く。

3:わたしに聞け、ヤコブの家よ/イスラエルの家の残りの者よ、共に。

あなたたちは生まれた時から負われ/胎を出た時から担われてきた。4:同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで/白髪になるまで、背負って行こう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す。

【キリスト教信仰が私たちに与える祝福】
キリスト教信仰が私たちに与える祝福には色々あります。一番大切なものはイエス・キリストの十字架の死と復活が、そのイエスを心から信じ依り頼む者に罪の赦しと永遠の命を与えることです。

しかし、これだけでなく、この中心的なものの回りに様々な祝福があります。例えば、ガラテヤの信徒への手紙5章22、23は、主を心から信じる者に御霊が結ばせて下さる実を9つ上げます。

霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。

愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制で、どれも尊いです。これらが私たちの内に形成されるなら、どんなに幸いでしょう。

他に忍耐力もあります。聖書によると、忍耐力とは、物事がうまく進まず、万事が私たちの願っていることと正反対の状態にあると思える時でも、私たちが尚前進して行くことのできる力です。これもキリスト教信仰の与える優れた祝福の一つです。しかし、今朝はイザヤ46章4節の伝える

「神に背負われる幸せ」

を学びます。

【無力な偶像の神々】
ここはバビロンで崇められていた偶像の神々ベルやネボと比べて真の神はどういう方かを、神御自身が語られた所です。偶像は金銀で如何にうまくできていても、自分では動けず、動物に背負われて運ばれました。その動物が躓いたなら、偶像も転げ落ち、壊れます。偶像には何の力もありません。そんなものを信じていたら、人も疲れ、その挙句に悲惨な目に遭います。

【私たちを背負われる神】
真の神は違います。古代イスラエルは不信仰のために色々懲らしめを受けましたが、ここで神は、ご自分がどれ程慈しみ豊かであるかを示し、彼らに悔い改めを促されたのでした。それはともかく、ここで一番私たちの心に響くのは、神が私たち信仰者を背負って下さることだと思います。

少し想像してみます。親に背負われてスヤスヤ眠り、あるいは親の背中で嬉しさと喜びで一杯の幼子!何とも言えない心和む光景です。それを見る者にも温かいものが伝わって来ます。親に背負われている幼子程、平安で幸せなものはないでしょう。実はイエス・キリストへの信仰の故に神の子とされた者も、同じように神に背負われる幸せに与っているのです。聖書はこの素晴らしい事実を教え、私達を励まします。

2006年08月20日 | カテゴリー: イザヤ書 , ヘブライ人への手紙 , 新約聖書 , 旧約聖書

神の手にいる ウイリアム・モーア

ヨハネによる福音書10章22−30節

【羊】
バイブル・クイズではないんですが、聖書の中でどんな動物が一番多く言及されていますか。牛ですか。ラクダですか。馬ですか。それともウサギですか。そうですね。その動物も聖書に載ってあるんですが、ある動物は遥かにもっと出て来ます。実は、今日の聖書の朗読は質問の手掛かりになります。やはり、聖書には全ての動物の中で、羊は一番多く言及され、羊という単語は500回以上の所に載ってあります。

羊はなぜ聖書にそんなによく出て来るものなのでしょうか。それは、聖書の時代のパレスチナの人々には日常生活を通してもっとも必要とする大事な動物であったからです。例えば、その毛で布を織って着物を作りました。その乳を飲み、何よりもその肉はおもな食肉となりました。そして、その皮までも色々なところで物を作るのに使われました。ですから、羊はお金のような物になって、何かを買う時、羊で払う事が出来ました。更に、人々は神殿で生け贄をする時、羊を捧げました。社会に羊はなくてはならないものでしたが、また何処にでもいる家畜でもありました。それで皆は羊の事がよく分かりました。誰でも羊の性格と特徴までも詳しく知っていました。ですから、聖書は羊と羊飼いをシンボルとして何回も、何回も用いています。

【主は羊飼い】
旧約聖書の詩編23編にはこの有名な御言葉があります。

「主は羊飼い、私には何も欠ける事がない。主は私を青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴い、魂を生き返らせて下さる。」

そして、預言者エレミヤを通して神はイスラエルの人々にこのように約束しました。

エレミヤ書23章3−4節「この私が、群れの残った羊を、追いやったあらゆる国々から集め、もとの牧場に帰らせる。群れは子を産み、数を増やす。彼らを牧する牧者を私は立てる。群れはもはや恐れる事も、おびえる事もなく、また迷い出る事もないと主は言われる。」

イザヤ書40章11節にこの御言葉があります。

「主は羊飼いとして群れを養い、御腕をもって集め、子羊をふところに抱き、その母を導いて行かれる。」

このように、聖書には羊飼いを愛する神のシンボルに、そして、羊は神の民、私達を表します。

2006年07月16日 | カテゴリー: エレミヤ書 , マルコによる福音書 , ヨハネによる福音書 , 新約聖書 , 旧約聖書 , 詩篇

愚かな者にならないように ウイリアム・モーア

聖書:詩編53編2-3

【愚かな者】


「神を知らぬ者は心に言う、『神などない』と」

と今日の御言葉、詩編第53編に記されています。それは新共同訳聖書ですが、1955年改訳聖書はこのようにヘブライ語の原文を翻訳します。

「愚かな者は心のうちに『神はない』と言う。」

「神を知らぬ者」と「愚かな者」、相違があるから、どちらが良い翻訳かを調べました。原文を見ると「愚かな者」が正しい訳と思います。つまり、

「愚かな者は心のうちに『神はない』と言う」

の方が原文により近いです。はっきり分りませんけれども、恐らく、

「愚かな者」

と言う表現はあまり強いので、新共同訳聖書は

「神を知らぬ者」

を用います。しかし、聖書には、神を知らない事と愚かな事は全く同じ意味になります。例えば、箴言にはこの御言葉があります。

「主を恐れる事は知恵の初め、聖なる方を知る事は分別の初め。」(9:10)

逆に言えば、「主を畏れない事は愚かである、神を知らぬ事は分別のない表れになります。」結局、聖書に於ける「愚かな者」と「神を知らぬ者」は同じ者です。しかしながら、ここでの「愚かな者」はばか者、あるいは白痴ではありません。ここでの愚かな者は、現実について大間違いをする人です。つまり、現実について間違った仮定のもとに自分の判断と行いを築く者です。

【神の存在を疑う愚かさ】
ですから、今日の詩編第53編によりますと、「神はない」と思う者は大変間違った仮定の上に現実を判断してしまいます。その故に、彼らは愚かな者です。神の存在はあまりに明白な事実ですから、「神はない」と主張する者の理解力が乏しいと言う意味です。詩編第19編はこの事について聖書の思想を明白に表します。

「天は神の栄光を物語り、大空は御手の業を示す。昼は昼に語り伝え、夜は夜に知識を送る。話す事も、語る事もなく、声は聞こえなくても、そのひびきは全地に、その言葉は世界の果てに向かう。」

2006年05月07日 | カテゴリー: 旧約聖書 , 詩篇

自尊心はどこから来ますか ウイリアム・モーア

聖書:エレミヤ書1章4-10

【確かな希望】
先週の説教に私達は希望の重要性を一緒に学びました。確かな生き生きとした希望があれば、私達はどんな事があっても絶望せず、積極的に、力強く生きられます。さらにその希望が全能の唯一の神の約束と愛に基づいているのであれば、私達はその希望に徹底的に委ねる事が出来るのです。神の御子イエス・キリストが提供して下さる永遠の救いを受け入れると、私達の生涯は大きな意味と素晴しい目的地を得て、神の賜物、真の希望を豊に経験します。常に変わりつつある周りの環境から来る希望と違って、神が授けて下さる希望は誰も、何も、私達から取り上げられません。豊に生きる為には、神からの大きな、また、確かな希望が絶対に必要であります。

【神に喜ばれる適切な自尊心】
今日は、また人間には絶対に必要なものについて考えたいと思います。それは自尊心です。つまり、それは自分の尊厳と価値を正しく意識する事です。適切な自尊心があると、私達は自信を得て、生涯に起こる事を積極的に扱う事が出来、勝利と成功を経験します。また、自分を正しく評価する事によって、人間関係がより豊になります。なぜなら、自分自身を適切に愛すると、周りの者も愛し尊敬出来ます。

【自尊心の欠如】
その反面、自尊心が足りなかったら、自信を失う事があり、惨じめになります。そして、生涯に襲って来るチャレンジに積極的に扱う事が出来ず、失敗が大きくなります。さらに、自尊心が少ない場合、人間関係が上手く行く事が難しくなります。やはり、自分自身をあんまり愛さないと、相手の愛を信じ、受ける事が困難であります。最近、引きこもりの問題が深刻になりました。原因は色々あると思いますが、恐らく自尊心を段々と失った結果であると思います。

【過度の自尊心】
自尊心が足りない場合があれば、自尊心があり過ぎる場合もあると思います。つまり、適切な自尊心が自負心と高慢になります。自分が誰よりも優れていると言う態度をとり、周りの者の存在はただ自分に仕える為であると思い込んでしまいます。もちろん、そう言う自己中心的態度をとると、人間関係がすぐ駄目になり、極端な場合、人に対して酷い事をします。

2006年04月30日 | カテゴリー: イザヤ書 , エレミヤ書 , コリントの信徒への手紙一 , フィリピの信徒への手紙 , ヨハネによる福音書 , 創世記 , 新約聖書 , 旧約聖書

十字架上の御言葉(その4):「我が神、我が神、なぜ私をお見捨てになったのですか」ウイリアム・モーア

聖書:マタイによる福音書27章45-50

【父に縁を切られたエリザベス】
英国の詩人エリザベス・バレットは四十一歳で詩人同士のロバート・ブラウニングと結婚しました。しかし、残念ながらエリザベスの父親はその結婚を認めず、娘との縁を切ってしまいました。何故なら、奥さんを亡くした彼には、今度は娘がお嫁に行く事は大変辛かったからです。ですから、エリザベスが家を出た時から、父は彼女とまったく連絡せず、彼女を死んだ者のように扱いました。

結婚してからエリザベスとロバートはイタリアへ移りました。年月が経つにつれて、お父さんの心が和らいで来ると信じたエリザベスは、毎週お父さんに手紙を書きました。その手紙に彼女はお父さんに対する愛を表し、これからどうしても父と和解したい熱望も伝えたのです。しかし、彼女が父に数百枚の手紙を書いたのにも関わらず、返事は全く帰って来ませんでした。

エリザベスはやがて英国に帰りました。そして彼女は仲介者を通して父との関係を回復しようとしました。ある日、突然父からの小包が届きました。しかし、小包を開けて見ると、心が沈みました。そこには彼女が今まで父に送った手紙が全部入ってありました。そして、手紙を詳しく見ると、エリザベスは大変なショックを受けてしまいました。それは父がその手紙の一つも開けなかった事が明白になりました。心の慰めのない状態で父によって見捨てられた彼女は国をもう一度出て、終生愛した父と会う事はありませんでした。

見捨てられる事。きっとそれは我々人間には大変恐ろしい事です。特に、愛した者によって縁が切られる事は、涙と心痛と耐えられない孤独感を伴います。

【十字架上の第四のお言葉】
今日、続けてイエス・キリストの十字架からおっしゃった御言葉を学びたいと思います。そして、今日与えられた第四の御言葉はこの苦悶に満ちた主イエスの叫べです。


「我が神、我が神、なぜ私をお見捨てになったのですか。」

聖書に記されていますが、主イエス・キリストの処刑は6時間程かかりました。朝9時頃兵士達は主イエスの手と足を釘で打ち十字架につけました。そして、9時から12時の間に、苦しみを受けながら最初の三つの御言葉をおっしゃいました。皆さんはそれを覚えているでしょうか。第一は、

「父よ、彼らをお赦し下さい。自分が何をしているのか知らないのです」

と主が祈られました。そして、第二は、共に十字架に掛けられた一人の犯罪人に永遠の救いの約束をして下さいました。

「あなたは今日私と一緒に楽園にいる。」

また、先週学びましたけれども、第三の御言葉として御自分の母マリヤに弟子ヨハネについてこのように言われました。

「婦人よ、ご覧なさい。あなたの子です。」

次に、ヨハネに向いて、マリアの事について、

「見なさい。あなたの母です」

とおっしゃって、マリアの将来を保証しました。

2006年04月02日 | カテゴリー: イザヤ書 , マタイによる福音書 , 新約聖書 , 旧約聖書

十字架からの御言葉(その3):「婦人よ、ご覧なさい。あなたの子です」 ウイリアム・L・モーア

ヨハネによる福音書19章23-27

【十字架上のお言葉(3)】
イエス・キリストの十字架からの御言葉を学び続けたいと思います。覚えていらっしゃると思いますが、主イエスは十字架に掛けられた間、御自分の唇から七つの大事な御言葉をおっしゃいました。私達は受難節の際にもうすでにその二つを覚えました。第一は赦しの言葉

「父よ、彼らをお赦し下さい。自分が何をしているのか知らないのです。」

そして、神はそのお祈りを叶えて、十字架の贖いを通して、御自分の御子を救い主として信じる者は、誰でも罪の赦しを与えて下さいました。

先週学んだ主イエスの第二の御言葉は永遠の救いの約束でした。傍らの十字架に掛けられた犯罪人は主に、

「イエスよ、あなたの御国においでになる時には、私を思い出して下さい」

と心から願いました。その願いは悔い改めと信仰を表しましたので、イエスはこの素晴しい約束を彼にしました。

「あなたは今日私と一緒に楽園にいる。」

その同じ悔い改めと信仰を表すならば、私達の為にも神は天国の戸を開いて下さいます。罪の赦しと永遠の救い。その二つの御言葉で、唯一の全能の神は私達の個人的、また、全人類の一番大事なニーズにお答えになりました。

【二つのグループ】
さて、十字架から第三の主イエスの御言葉の背景を見てみましょう。実は、今日与えられた聖句は著しい対照をなしています。と言うのは、主イエスの十字架の前で二つの全く違っているグループが立っていました。一方にはイエスを苦しませ、死刑を実行した四人の兵士達でした。そして、他方には主を誰よりも愛した五人がいました。

【兵士たちがしたこと:預言の成就】
先ず兵士達を見てみましょう。主イエスは四人組の兵士に付きそわれて、形場へ着くと,彼らは主を十字架に付けました。そして、当番で処刑の任務についたこの兵士達の役得は、受刑者の着けていた衣服でした。ユダヤ人は通常五種類の衣具をつけていました。サンダル、ターバン(すなわち頭に巻く頭巾)、帯(おび)、下着、それに外套。兵士は四人、衣服は五品目でありました。彼らは賽を投げてそれらの取りっこをしました。それぞれが自分に当たった物を取り、下着だけが残りました。それは縫い目がなく、一つ織りの物でした。それを四つに裂けば、勿体ないので、それが誰の物になるかを決める為に、もう一度、賽が投げられました。こうして、兵士達は十字架のもとで賭け事をしました。不思議にその事は旧約聖書の預言を成就しました。詩編に救い主についてこの預言があります。

「私の着物をわけ、衣を取ろうとしてくじを引く。」(詩編22:19)

2006年03月26日 | カテゴリー: ヨハネによる福音書 , 新約聖書 , 旧約聖書 , 詩篇

十字架上のお言葉(その2):「あなたは今日私と一緒に楽園にいる」 ウイリアム・L・モーア

ルカによる福音書23章39-43節

【有名人物の最期の言葉】
有名な人物の最期の言葉はその者の性格と価値観をよく表しますから、意味深くて大変面白いです。美術家で科学者でもあり、建築家でもある、天才と呼ばれた、イタリア人レオナルド・ダ・ダヴィンチは亡くなる直前にこのように言いました。「私の作品は物足りなかったので、私は神と人間に対して罪を犯しました。」また、アメリカの大統領グローバ・クリ−ウ゛ランドの死にぎわの言葉は、「私は一生懸命に正しい事をしようとしました。」また、有名な映画プロデューサー、ルイス・マイヤーはこのように言いました。「何もかもない。全ては空しいです。」そして、メキシコの革命家パンチョ・ウ゛ィヤは最期の言葉として補佐官にこのように言ったそうです。「このまま終わってはいけません。私が偉いと皆に知らせてくれ。」共産主義の創始者カール・マルクスは死にかかっていた時、家政婦が、「書き記す為、臨終の言葉をおっしゃって下さい」と言うと、このように返事して亡くなったんだそうです。「速く出て行け。臨終の言葉何かない。そんな事は大事な言葉を言った事のない人の為だ。」

先週から始まりましたが、受難節の際に、私達はイエス・キリストの十字架からの御言葉を学んでいます。その七つの言葉は結局、主イエスの大事な最期の言葉になります。目的と意味と愛に満ちているお話です。実は、その主の最期の言葉は神が御子の十字架の贖いの死を通して、どのようにして、私達人間の最も重要なニーズに答えたかをはっきりと啓示されます。つまり、神は十字架を持って、どのような救いを私達に提供するかを説明して下さいます。

先週私達は十字架上の主イエスの第一の御言葉を学びました。それは、御自分に罪を犯す者、また、御自分の敵の為の赦しの言葉です。

「父よ、彼らをお赦し下さい。自分が何をしているのか知らないのです」

とおっしゃいました。つまり、十字架の贖いを通してイエス・キリストを救い主として信じる者は誰でも神から罪の赦しを受けられます。自由に主イエスの義を頂き、神の愛された子供のように受け入れています。その赦しの言葉が十字架上の第一の御言葉です。

【十字架上の第二のみ言葉:「あなたは今日私と一緒に楽園にいる」】
今日の第二の御言葉は永遠の救いの御言葉です。主イエスは

「あなたは今日私と一緒に楽園にいる」

と側の十字架に掛けられていた犯罪人の一人に約束して下さいました。

2006年03月19日 | カテゴリー: イザヤ書 , マルコによる福音書 , ルカによる福音書 , ローマの信徒への手紙 , 新約聖書 , 旧約聖書

神を愛する事 ウイリアム・モーア

マタイによる福音書22章34-40 ◆最も重要な掟 34:ファリサイ派の人々は、イエスがサドカイ派の人々を言い込められたと聞いて、一緒に集まった。 35:そのうちの一人、律法の専門家が、イエスを試そうとして尋ねた。 36:「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」 37:イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』 38:これが最も重要な第一の掟である。 39:第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』 40:律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」

【613の掟】 今日の御言葉によりますと、ある日、ユダヤ教の律法専門家がやって来て主イエスにこのように尋ねました。「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」その当時、律法はユダヤ教の中心になり、宗教の律法を守る事によって、信者は神を喜ばせようとしました。ですから、専門家達が律法を研究して、御言葉の中から613程の掟を見つけました。そして、その613の掟を「重い」、つまり重要なものと「軽い」すなわち、それ程大事ではない掟に分けました。

またある学者によりますと、律法を重いものと軽いものに分けてはいけない事だそうです。なぜなら、もし神から授けられたものだったら、全ての掟は同じく重要であり、従わなければならないものなのです。ですから、律法を区別する事は神に対して罪になります。ユダヤ教の学者達がこの二つの立場を激しく議論しましたけれども、なかなか決定する事が出来ませんでした。

【最も重要な二つの掟】
恐らく律法の専門家が主イエスをこの問題に巻き込む為、また、試そうとして、

「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか」

と聞きました。そして、イエスは迷わずにはっきりとこのように答えられました。

「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」

主イエスのお答えは真に素晴らしいものでした。その二つの掟に神の全ての律法が纏められています。何故なら、もし神を本当に愛するならば、真の神をおいて他の神を拝まないし、神の名をみだりに唱えません。また、神を愛する者は安息日を心に留め、聖別します。同様に、もし隣人を愛するならば、もちろん隣人を殺さないし、その物を盗まないし、彼に関して偽証などをもしません。つまり、愛の掟に従ったら、神の御旨に従って生きる事が出来ます。

「律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている」

と主が言われました。もし心からこの二つの掟だけを守ろうとしたら、同時に残りの611の掟も守る事になります。

2006年02月19日 | カテゴリー: マタイによる福音書 , ヨハネの手紙一 , 新約聖書 , 旧約聖書 , 詩篇

神は本当に私を愛するか ウイリアム・モーア

サムエル記下9章1-13

【旧約聖書のお話】
毎月のバイブル・クイズを通して私達は旧約聖書に於けるお話を少しづつ学んで来ました。ハンナとその息子サムエルの事や、イスラエルとペリシテの戦いや、国王サウルの政権や、ダビデと巨人ゴリアトの決闘などについて学びました。ある面でこのお話は面白いです。何千年前の人の考え方と行動が映画の場面のように目に浮かびます。その劇的な王と預言者のストーリは今を住んでいる私達に興味を起こさせます。しかし、旧約聖書のお話はいくら面白くても、その出来事の数千年後に生きる私達と何の関係がありますか。キリストの教会はその大昔のストーリを現在も、「御言葉」、すなわち、私達の為の神からのお話としてなぜ大事にするのでしょうか。

【選民イスラエル】
実は、旧約聖書のおもなお話は全能の唯一の神と御自分が特別に選んだ民イスラエルとの関係を記録してあります。つまり、その民の為の神の愛と恩寵が語られています。ですから、主イエス・キリストの贖いによって神の家族に加わえられた私達は、旧約聖書のお話を通して父なる神の愛が分って来ます。変わらぬ神はイスラエルを愛したように私達も愛して下さいますので、その古代のストーリは私達のストーリになって、それを学んで大事にします。

【サウル王の孫メフィボシェット】
今朝、与えられた個所は、ダビデ王とサウル家の物語ですけれども、実際にこのお話を通して私達に対する神の愛と恵みが悟らされます。

まだ小さい子供だったサウル王の孫メフィボシェットは、一生その恐ろしい日を忘れる事が出来ませんでした。戦地から宮殿にこの悲しいニュースが届きました。「サウル王と息子三人は戦死されてしまいました。」イスラエルの長年の敵ペリシテは戦争でイスラエルの王と息子達を皆殺しました。その上、内戦の相手ダビデはサウルに代って、イスラエルの王になりました。ですから、祖父サウルとお父さんヨナタンを亡くした若いメフィボシェットは自分の命も危なかったのです。その時代、王家が代ると、勝った方が負けた王家を全滅しました。なぜなら、前の王家を二度と立ち上がらせない為でした。

2006年01月08日 | カテゴリー: サムエル記下 , 旧約聖書

賢い者として新年を歩みましょう ウイリアム・モーア

エフェソの信徒への手紙5章15-17

讃美歌 15

【評判の良くない兄弟】

ある町に二人の兄弟がいました。その二人は双子のようにとても仲良く、いつも何でも共にしました。兄弟の仲は良いですけれども、町での評判はあんまり良くありませんでした。飲み過ぎて人と喧嘩したり、乱暴な言葉をよく吐きました。そして彼等はお金があったのにも係らず、あちこちで勘定をためて、なかなか払いませんでした。更に、自分の会社の従業員を厳しく扱いましたので、皆に嫌われていました。

ある日、兄弟の一人が急に病気で亡くなりました。そして、残った一人は町の教会へ行ってお葬式の為に牧師と相談しに訪ねました。彼は、牧師に一つ頼みがあると言いました。それは「お葬式の時、是非兄を『聖人』と呼んで欲しい。そうすると、家族に大きな慰めになるから」と頼みました。牧師は、「それはちょっと難しいですよ。町の人は皆、お兄さんの事をよく知っていますから、『聖人』と呼んだら笑われるかもしれません。しかし、弟は願い続けて、「お願いだ。お葬式の時、兄を聖人と呼んで下さい。そうすれば、教会に$1、000献金します」と約束しました。

仕方なく、牧師はお葬式の時、そうする事にしました。そして、お葬式の際、牧師は立ち上がって、皆の前でこのようにお話をしました。「故人は乱暴で、長い間我々の町に迷惑ばかり掛けました。その上、勘定も沢山残して亡くなりました。しかし、とても嬉しい事ですが、故人について少なくとも一つの良い事を言えると思います。それは、弟さんに比べると故人は本当に聖人だったと正直に言えます。」

2006年01月01日 | カテゴリー: エフェソの信徒への手紙 , 新約聖書 , 旧約聖書 , 詩篇

クリスマスの平和 ウイリアム・モーア

ルカによる福音書2章1−20

【パックス・ロマ−ナ】
真っ暗なパレスティナの夜でした。羊は牧場の草の中でぐっすり眠っていました。しかし、羊飼い達は狼や泥棒などの危険の為、寝ずに夜番をして、羊の群れを見守っていました。夜は寒いので羊飼い達は焚き火を囲んで体を暖めました。そして彼等は長い夜の時間を潰す為、羊の群れの番をしながら、ゆっくりとお互いに色んな話をしました。町に住んでいる自分の家族の事や、次の日の予定や、病気の羊の問題や、最近のうわさ話などもしました。話は様々ですが、最後に彼等はいつも一つの話題に戻っていました。それは自分の国イスラエルの不幸な状態です。つまり、長い間、外国の支配を受けて、イスラエルはローマ帝国の三流植民地になってしまいました。以前は独立した国としての自由な存在であったのに、ローマの兵士は自分の国に侵攻して、剣で住民を食い物にしてしまいました。ローマの暴君によってこの状態は「パックス・ロマ−ナ」と呼ばれました。すなわち、the peace of Rome 、ローマの支配による平和と言う意味です。しかし、イスラエルの人々にはそれは決して平和ではありませんでした。却って、何よりもテロの状態でした。イスラエルの住民はローマの政権に厳しく監督され、ローマの市民ではないから、人権は殆ど守られていなかったのです。更に、貧しい者からも無理に税金が徴集されました。また、ローマの政権は全ての反対者を冷酷に扱いました。必ず謀反の報酬は拷問と残酷な死でした。

羊飼い達は自分の国の悲惨な現状を話し合うと、彼等にとって一つの事が明白になりました。いくら言っても、外国の兵士の靴がイスラエルの土地を踏む限り、平和は自分の国に来ません。何よりもローマの圧迫からの解放の日を待ち望んでいました。イスラエルの預言者イザヤはその日を予告して、このように宣言しました。

「主は、御自分の右の手にかけて力ある御腕にかけて、誓われた。私は再びあなたの穀物を敵の食物とはさせず、あなたの労苦による新しい酒を異邦人に飲ませる事も決してない。穀物を刈り入れた者はそれを食べて、主を賛美しぶどうを取り入れた者は聖所の庭でそれを飲む。」(イザヤ書62:8--9)

2005年12月04日 | カテゴリー: イザヤ書 , ルカによる福音書 , 新約聖書 , 旧約聖書

ひとりのみどりご ウイリアム・モーア

イザヤ書9章1-6

【巷のクリスマス】
歳月は本当に速いですね。私だけがそう思うのでしょうか。もうすぐクリスマスをまた迎えます。もう二週間前から神戸の町はクリスマス・ツリーが飾られているのです。あちこちではクリスマス・パーテイーが計画され、人々のスケジュールは12月はもう一杯だそうです。また多くの人はクリスマスの買い物で忙しいです。昨日、アメリカのニュースで、クリスマス・セールの為に人々は遠い所から朝早くショピングに来て並んでいました。そして、セールの商品の量が限られているから、その物を勝ち取る為、客さんが殴り合う映像が流れていました。

【アドベント(来臨)】
一般社会よりちょっと遅れていますが、実は、キリスト教会のクリスマスの準備は今日から始まります。今日はアドベント(来臨)、すなわち待降節(又は来臨節)の始まりです。待降節はイエス・キリストの誕生日の前の四番目の主の日から始まり、クリスマス・イブに終わります。大昔からキリスト教会は、特にアドベントの間に主イエスの御降誕の意味を新に覚え、クリスマスを祝う準備をしました。そして、同時に、将来、主が再びいらっしゃる主の再臨を心から待ち望んで来ました。

【アドベント・リース】
待降節を祝う為に毎年の事ですが、津村姉妹が今年もまた私達の為にアドベント・リースを準備して下さいました。長い伝統ですから、リースはシンボルとして色々な深い意味が生じましたが、簡単に説明します。始めに、リースの円形によって、父なる神の素晴しさを覚えさせられます。リースと同じように神は始めもなければ終わりもありません。つまり、永遠の神です。また、神の愛と憐れみは限りがないと言う意味もあります。そして、リースにある緑色は大事な徴(しるし)になります。常緑の葉っぱはイエス・キリストが賜る新しい生まれと永遠の命を示します。さらに、ろうそくは神の光、イエス・キリストのシンボルです。世の光である主イエスの御降誕は、神、御自身がこの世にいらしゃって、救いと愛の光を私達に照らして下さいました。

今日の聖書の朗読に書いたように、主の御降誕の際


「暗闇の中を歩む民は、大いなる光を見、死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。」(イザヤ書9:1)

アドベントの毎週、主の日に、外側の赤いろうそくを一本ずつ灯す事によって、イエス・キリストの御降誕を待ち望んでいると言う意味なのです。そして、真ん中のろうそくは「キリストのろうそく」と言われています。私達はクリスマスの日、来月の25日に、そのろうそくを灯します。神の光であるイエス・キリストはクリスマスの中心であり、主イエスのいないクリスマスは全く意味のない空しい事になってしまうと言う徴(しるし)なのです。

2005年11月27日 | カテゴリー: イザヤ書 , ヨハネの黙示録 , 新約聖書 , 旧約聖書

命を選びましょう ウイリアム・モーア

マタイ7章13-29

【豊かな命を与える主イエスの教え】
今朝の与えられた個所はイエス・キリストの山上の説教の結末になります。二ヶ月に渡って私達は山上の説教を通して、主イエスの基本的な教えを学んで来ました。主の八福や、心からの義と心からの敬虔や、お金の使い方や、人を裁かない事や、神に求める事などを一緒に学んで来ました。この主イエスの一番大事な教えを新に覚え毎日の生活に活用して、私達の信仰がよりもっと元気なものになったでしょうか。また、その主の教えに従う事によって、私達は周りの者に、よりもっと大きな祝福と証になりましたか。

イエス・キリストの教えを聞いて、それを実際に行うと、きっとその実を結びます。更に、イエス・キリストを心から信じ、主御自身の教えに従う事によって、私達は神が賜る本当の命を歩みます。すなわち、真の希望と目的、また力ある生活が与えられます。その意味で主イエスはこのように宣言しました。


「私が来たのは、彼等が命を受ける為、しかも豊に受ける為である。」(ヨハネによる福音書10:10)

【二つの門、二つの道】

山上の説教の結末にイエス・キリストは御自分のみが提供するその「豊かな命」を受ける為、色々な大事なアドバイスを私達に与えて下さいます。

今朝の御言葉の13と14節に、この主イエスの御言葉が記されています。

「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。」

2005年11月20日 | カテゴリー: イザヤ書 , マタイによる福音書 , ヤコブの手紙 , ヨハネによる福音書 , 新約聖書 , 旧約聖書

心からの義II ウイリアム・モーア

マタイ5章27-48

【律法を完成する者】

先週、主イエス・キリストが教えて下さった「心からの義」を一緒に学びました。今日も引き続き「心からの義II」を学びたいと思います。さて、覚えておられると思いますが、主は山上の説教でこのような意味深い宣言をしました。「私が来たのは律法や預言者を廃止する為だと思ってはならない。廃止する為ではなく、完成する為である。」つまり、主イエスによりますと、神の掟をただ表面的に守るのは不十分であり、神を喜ばせる事が出来ません。なぜなら、神と隣人に対して、愛のない、また心が曲がった人でも表面的に十分律法に従えます。実は、主は私達に心からの義を求めておられます。すなわち、神は掟の本当の目的とスピリットを守ろうとする精神を私達の中に見たいのです。主は私達の表面だけを見るのではなく、私達一人一人の心の奥そこまで見られます。何故なら、私達の態度と動機は神には大事であるからです。

【神の恵みを頂くのに相応しい態度】

しかし、神はどうしてそんなに私達の態度と動機に対して関心を持たれるのでしょうか。表面的でも、人間が御自身の掟を守るだけで十分ではありませんか。私達の思いまでも監督するのはちょっと求め過ぎだと思われる人がいるかも知れません。実は、神は私達一人一人を愛して下さいますので、正しい態度と動機を望んでおられるのです。つまり、主の豊な祝福を受けるように、特に霊的な祝福を受ける為に、相応しい態度と動機が必要であります。神が授けて下さった掟は神御自身の益の為ではありません。却って、それは私達個人と、社会全体の幸福の為に定められました。そして、それを喜んで心から守ると、主の祝福を豊に経験出来ます。その反面、心からではなく、ただ掟の表面的な要求だけに従うと、その祝福は余り分らなくなります。

2005年10月16日 | カテゴリー: エレミヤ書 , マタイによる福音書 , ローマの信徒への手紙 , 新約聖書 , 旧約聖書

山上の説教 ウイリアム・モーア

◆山上の説教を始める(マタイによる福音書5章1-2)

1:イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。2:そこで、イエスは口を開き、教えられた。

讃美歌501

【クリスチャン生活の中心と基盤】
当然な事ですけれども、主イエスの教えは我々キリスト者にとって生活の中心と基盤になります。毎日の生活にその教えを覚え、心から従う事によってこそ、私達は本当のキリスト者になります。ですから、私達は常にその教えを学んで、毎日具体的に実行する必要があります。そうしないと私達の信仰はただ形式的なものとなり、主イエスが約束した豊な命を経験出来ず、空しい状態になります。

この最も大事な事について主イエスはこのように語られました。「そこで、私のこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである。私のこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかると、倒れて、その倒れ方がひどかった」(マタイ7:24~27)と主イエスが言われました。
神の御子イエス・キリストの御言葉、すなわち御自分の教えははっきりと聖書に残されています。ですから、それを学ぶ為、聖書を開く必要があります。しかし、聖書を何処から学べば良いのか分からなくなる時があります。聖書の中で色々なお話が載ってありますので、イエスの教えとなる良い出発点は何処なのでしょうか。

【山上の説教:キリスト教の憲法】

実は、主イエス・キリストの基本的な教えを覚えようとしたら、一つのところを勧めたいと思います。それはマタイによる福音書に於けるイエスの「山上の説教」と言われるお話です。マタイによる福音書5章、6章、7章にあるこの山上の説教は何処の個所よりも主イエスの一番大事なお話を纏めています。ですから、ある人は山上の説教を「キリスト教の憲法」と呼びました。このマタイによる福音書の5~7章だけをマスターしたら、主イエスの教えの一番重要な点を理解出来るようになります。そして、その教えに従って、毎日の生活に実行すると、主の約束通りに「岩の上に自分の家を建てる人」になります。どんな事が襲って来ても、しっかり立つ事が出来、神は豊に勝利と恵みを授けて下さいます。

2005年09月11日 | カテゴリー: マタイによる福音書 , 出エジプト記 , 新約聖書 , 旧約聖書

神の祝福である私たちの子供 ウイリアム・モーア

箴言22章6:若者を歩むべき道の初めに教育せよ。年老いてもそこから離れることがないであろう。

マタイによる福音書18章1-4

1:そのとき、弟子たちがイエスのところに来て、「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」と言った。 2:そこで、イエスは一人の子供を呼び寄せ、彼らの中に立たせて、 3:言われた。「はっきりいっておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。4:自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ。



マタイによる福音書19章13-15

13:そのとき、イエスに手を置いて祈っていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。 14:しかし、イエスは言われた。「子供たちを来させなさい。わたしのところに来るのを妨げてはならない。天の国はこのような者たちのものである。」15:そして、子供たちに手を置いてから、そこを立ち去られた。

2005年9月4日子供達

【子供の頃】
子供の頃のどんな思い出が残っていますか。よく考えて見たら色々な思い出が溢れるように出て来ると思います。楽しい思い出、辛い思い出、沢山あるでしょう。幼い頃の思い出の一つとして父と一緒に町ヘ出掛けることでした。町に用事がある時、父は「私と町に行きたい人はいるか」と聞きました。もしいれば、車に乗せて用事の所へ一緒に連れてってくれました。私はいつも喜んで、すぐ父と行きました。色々な店や役所があって、郊外に住むわたしにとって、町はすごく面白かったです。私にとっては町に行く事は楽しい冒険になりました。でも父が側にいるからいつも安全な冒険でした。ほかにも色々な楽しい思い出が沢山あります。

2005年09月04日 | カテゴリー: マタイによる福音書 , 創世記 , 新約聖書 , 旧約聖書

「死を覚え、よく生きる」淀川キリスト教病院伝道部長・田村英典牧師

2005年8月28日淀川キリスト教病院伝道部長・田村英典牧師

聖書:詩編90編12:生涯の日を正しく数えるように教えてください。知恵ある心を得ることができますように。

「生涯の日を正しく数えるように教えてください」

今朝は「死を覚え、よく生きる」と題して、一時お話させて頂きます。

先程、お読みしました詩編90編12節に「生涯の日を正しく数える」とありますが、死で終る自分の人生の残りがどれ程かをしっかり心に留めるという事でしょう。作者はそのように自分を「教えて下さい」と神に祈るのです。ではそれは何の為でしょうか。
「知恵ある心を得る事が出来る」為だと言います。

「知恵ある心」とは、神の御前で自らの一生を真に意味あるもの、そして終には永遠の天の御国に入れる心と言えましょう。

特に人生最後の時、「辛い事も悲しい事も沢山あったが、生きてきて良かった。感謝です」と、神にも人にも自分にも言う事が出来、平安と感謝の内に天国に召して頂けるような心のあり方でしょう。

注目したいのは、自らの死を覚える事と、真に意義深い人生を送る知恵ある心を得る事が、密接不可分な関係にある事だということです。

2005年08月28日 | カテゴリー: フィリピの信徒への手紙 , ローマの信徒への手紙 , 新約聖書 , 旧約聖書 , 詩篇

「生きることの意味」神戸改革派神学校校長・牧田吉和先生(要約・文責近藤)

2005年8月7日 神戸改革派神学校校長・牧田吉和先生


聖 書:創世記第5章1-32節

はじめに

今日は、初めて皆様の西谷聖書集会にお招きを受け、説教奉仕を許されて心から感謝します。

今自分が一番考えさせらていることとは何かといいますと、"人生"、"生きること"についてです。私は、年令的に還暦を少し過ぎました。私の年令は、昔で言えば一通りの人生を終えたことを意味する年令になると思います。さらに、個人的なことになりますが、母親の死んだ年令(59歳)をわずかに超え、母親の死とも重ねあわせ、自分の死についても考えさせられ、「人生とは、生きるとは何か」という問いを最近深く考えさせられています。

長寿は生命の賛歌?

この聖書の個所を読んで、恐らく誰が読んでも第一に目に入るのは、ここに出てくる人たちの年齢の長さでしょう。天文学的数字です。「5:5 アダムは全部で930年生きた。こうして彼は死んだ。」、「5:8 セツの一生は912年であった。こうして彼は死んだ。」、「5:14 ケナンの一生は910年であった。こうして彼は死んだ。」 何百何十年という人生の長さに、多くの方々がこのような天文学的数字をどう理解したらよいか疑問に思われることでしょう。聖書の学問的研究では色々の考え方があります。しかし、聖書の語ろうとすることを読み取る上では、素朴に個人の歴史が記されていると理解して読むときに、語ろうとすることを的確に読み取ることができます。

2005年08月07日 | カテゴリー: 創世記 , 旧約聖書

川の方が良い ウイリアム・モーア

聖書:詩編46篇

【四万十川】
先々週、木曜日と土曜日に、四国で二つの学校の理事会がありました。その間の金曜日が暇になりましたので、高知県の四万十川を私のゴム・カヤックで下りました。実は、去年から、「日本の最後の清流」と呼ばれる四万十川を下りたかったのです。去年の秋、会議の帰りに一度川を調べに行きました。山の奥の源流から河口(かこう)までの196キロの全長を車で辿りました。そうすると、四万十川の美しさが分かりました。工場や大きな町がない田舎の田舎ですから、大自然が奇麗に残されています。しかも、川は山地を流れているので、景色はすごく美しいです。その時から、私の気持ちは近いうちに四万十川を下ろうと強くなりました。

2005年07月17日 | カテゴリー: ローマの信徒への手紙 , 旧約聖書 , 詩篇

神への献身ーダビデ王に見る感謝・喜び・希望の人生ー 市川康則 神戸改革派神学校教授

◆神殿建築のための寄贈     歴代誌上29章1~9節
1:ダビデ王は全会衆を前にして言った。「わが子ソロモンを神はただ一人お選びになったが、まだ若くて力弱く、この工事は大きい。この宮は人のためではなく神なる主のためのものだからである。
2:わたしは、わたしの神の神殿のために力を尽くして準備してきた。金のために金を、銀のために銀を、青銅のために青銅を、鉄のために鉄を、木材のために木材を、縞めのうの石、象眼用の飾り石、淡い色の石、色彩豊かな石などあらゆる種類の宝石と大量の大理石を調えた。
3:更にわたしは、わたしの神の神殿に対するあつい思いのゆえに、わたし個人の財産である金銀を、聖所のために準備したこれらすべてに加えて、わたしの神の神殿のために寄贈する。4:建物の壁を覆うためにオフィル産の金を三千キカル、精錬された銀を七千キカル寄贈す。
5:金は金製品のため、銀は銀製品のためであり、職人の手によるすべての作業に用いられる。今日、自ら進んで手を満たし、主に差し出す者はいないか。」 6:すると、家系の長たち、イスラエル諸部族の部族長たち、千人隊と百人隊の長たち、それに王の執務に携わる高官たちは、自ら進んで、7:神殿に奉仕するために金五千キカル一万ダリク、銀一万キカル、青銅一万八千キカル、鉄十万キカルを寄贈した。
8:宝石を持つ者は、それをゲルション一族のエヒエルの手に託して主の神殿の宝物庫に寄贈した。
9:民は彼らが自ら進んでささげたことを喜んだ。彼らが全き心をもって自ら進んで主にささげたからである。ダビデ王も大いに喜んだ。


【Ⅰ.王としてのダビデの願い―神殿建立】
 
歴代誌上29章1‐20節は、ダビデ王による神殿建立の準備と、その直後のダビデの祈りを記しています。これは、神に対するダビデの熱心さと献身振りがよく現われた言動です。しかし、このダビデの言動は単に熱心な献身振り、あるいは民への良き模範ということだけではなく、実に、神の前における王たる者の謙遜で従順な行為です。ここに記されるダビデの神殿建設に向けた大いなる寄進には背景があります。それは、全会衆とソロモンとに対するダビデの説明の言葉に明らかですが(28:1‐10)、その元の出来事は17章1‐15節に記されています。ダビデは元々、神殿を建てること自体を発願しました(17:1以下)。これは王であるダビデにとって重要であり、また当然でした。
 古代国家は押し並べて祭政一致国家でした。特に異教国では王が神格化されることが多く、また宗教家が政治に関与することも普通でした。たとえ実際には政治権力者と宗教従事者が異なっていても、しばしば、そのいずれかがもう一方の領域にも関与し、あるいはは支配していました。イスラエルではもちろん、王は直接に宗教祭儀に従事しませんでしたが、しかし、政治であれ、宗教であれ、他の何であれ、すべては主なる神の統一的支配の下に置かれていました。
 
イスラエルの民はダビデ王の時代に初めて、国内統一および外国との和平が成りました。既に移動遊牧社会から農耕を主とした定住社会を形成し、政治体制もその時代に適合して、隣接列強諸国のそれと相俟って、王朝国家となりました。この国には確かに真の神がいますということを、時代状況にふさわしい方で表現することが必要でした。もちろん、生けるまことの神は天地の創造者であり、万物を超越しておられますから、幕屋であろうが、神殿であろうが、神の臨在と働きには何の変わりもありません。幕屋から神殿に変わったところで、神の救いの効果に違いが生じる訳ではありません。しかし、諸国民の只中にいるイスラエルにとっては、神殿と幕屋とでは、その政治的、社会的、心理的影響は大きく異なります。
神殿は、イスラエルにおける主なる神の臨在と救いの、旧約時代における最も典型的な象徴でした。したがって、神の救いの歴史的進展という観点からも、統一王国の成立にとって、神の臨在と救いの象徴形態が幕屋から神殿に変わることはふさわしいことでした。それゆえ、ダビデは王としての権限と責任から、神殿建立を目指した訳です。

2005年02月27日 | カテゴリー: 旧約聖書 , 歴代誌上

神と津波 ウイリアム・モーア宣教師

2004年12月19日ウイリアム・モーア宣教師 


詩編34編
2:どのようなときも、わたしは主をたたえ/わたしの口は絶えることなく賛美を歌う。
3:わたしの魂は主を賛美する。貧しい人よ、それを聞いて喜び祝え。
4:わたしと共に主をたたえよ。ひとつになって御名をあがめよう。
5:わたしは主に求め/主は答えてくださった。脅かすものから常に救い出してくださった。
6:主を仰ぎ見る人は光と輝き/辱めに顔を伏せることはない。
7:この貧しい人が呼び求める声を主は聞き/苦難から常に救ってくださった。
8:主の使いはその周りに陣を敷き/主を畏れる人を守り助けてくださった。
9:味わい、見よ、主の恵み深さを。いかに幸いなことか、御もとに身を寄せる人は。
10:主の聖なる人々よ、主を畏れ敬え。主を畏れる人には何も欠けることがない。
11:若獅子は獲物がなくて飢えても/主に求める人には良いものの欠けることがない。

【巨大津波】
一人残らず、私達はこの間の恐ろしい津波の事でぞっとさせられたと思います。このところ毎日、テレビを通してその生々しい現場が見られ、私達の想像を超えた津波の破壊的力に驚くばかりです。現場から遠く離れていても、被害統計を聞くと、津波がもたらした災害の範囲が分かってきます。死者は15万人以上、家族のメンバーを無くした者と怪我人は数十万人、住む家を失った人は5百万人、職場を無くした人は数百万人、そして飢えている人は2百万人程です。国連によりますと、今回の自然災害の被害の程度は60年ぶりだそうです。津波の為の精神的と肉体的の苦しみはきっと私達の想像を超えるものです。

【神は何故】
その災害がもたらしたひどい悪に対して、多くの人はこのような質問を聞いています。もしこの世と宇宙を創造された神が愛する全知全能の完璧な神であるなら、いったいどうして津波のような大きな災害を許すのでしょうか。本当に力があるなら、善い神は御自分の被造物をそのような非常な災いから守るべきではないでしょうか。
ある人は神を弁護するかのように、こう語ります。「神には力があるんですが、津波までは足りてないのです。神は実際に全ての悪をこの世から除去したいけれども、地震や津波のような自然災害の場合は神の手におえません。」
その反対に、ある人は神の全能を認めますが、神の善と愛を疑います。すなわち、「主は実際に天地万物を治める力がありますが、ただ巨大な宇宙の中にいる小さい私達までは忘れているのです。」あるいは、「神は私達を見るのですが、哀れみをあんまり感じてません。」

2005年01月09日 | カテゴリー: イザヤ書 , ヨハネの黙示録 , 新約聖書 , 旧約聖書 , 詩篇

罪と弱さの中にも神の恵みが!―名将ダビデの人口調査令― 市川康則神戸改革派神学校教授

2004年7月11日市川康則神戸改革派神学校教授


◆ダビデの人口調査          歴代誌上21章
1:サタンがイスラエルに対して立ち、イスラエルの人口を数えるようにダビデを誘った。 2:ダビデはヨアブと民の将軍たちに命じた。「出かけて行って、ベエル・シェバからダンに及ぶイスラエル人の数を数え、その結果をわたしに報告せよ。その数を知りたい。」 3:ヨアブは言った。「主がその民を百倍にも増やしてくださいますように。主君、王よ、彼らは皆主君の僕ではありませんか。主君はなぜ、このようなことをお望みになるのですか。どうしてイスラエルを罪のあるものとなさるのですか。」 4:しかし、ヨアブに対する王の命令は厳しかったので、ヨアブは退き、イスラエルをくまなく巡ってエルサレムに帰還した。 5:ヨアブは調べた民の数をダビデに報告した。全イスラエルには剣を取りうる男子が百十万、ユダには剣を取りうる男子が四十七万であ った。
6:ヨアブにとって王の命令は忌まわしいものであったので、彼はその際レビ人とベニヤミンの調査はしなかった。 7:神はこのことを悪と見なされ、イスラエルを撃たれた。 8:ダビデは神に言った。「わたしはこのようなことを行って重い罪を犯しました。どうか僕の悪をお見逃しください。大変愚かなことをしました。」
9:主はダビデの先見者ガドに告げられた。 10:「行ってダビデに告げよ。主はこう言われる。『わたしはあなたに三つの事を示す。その一つを選ぶがよい。わたしはそれを実行する』 と。」
11:ガドはダビデのもとに来て告げた。「主はこう言われる。『いずれかを受け取るがよい。 12:三年間の飢饉か、三か月間敵に蹂躙され、仇の剣に攻められること か、三日間この国に主の剣、疫病が起こり、主の御使いによってイスラエル全土に破滅がもたらされることか。』わたしを遣わされた方にどうお答えすべきか、決めてください。」 13:ダビデはガドに言った。「大変な苦しみだ。主の御手にかかって倒れよう。主の慈悲は大きい。人間の手にはかかりたくない。」 14:主はそこでイスラエルに疫病をもたらされ、イスラエル人のうち七万人が倒れた。 15:神は御使いをエルサレムに遣わし、これを滅ぼしてしまおうとされたが、御使いが滅ぼそうとするのを主は御覧になり、この災いを思い返され、滅ぼそうとする御使いに言われた。「もう十分だ。その 手を下ろせ。」主の御使いはエブス人オルナンの麦打ち場に立っていた。
16:ダビデが目を凝らすと主の御使いが地と天の間に立ち、剣を抜いて手に持ち、エルサレムに向けているのが見えた。粗布に身を包んでいたダビデと長老たちは地に顔をつけて伏した。 17:ダビデは神に言った。「民を数えることを命じたのはわたしではありませんか。罪を犯し、悪を行ったのはこのわたしです。この羊の群れが何をしたのでしょうか。わたしの神、主よ、どうか御手がわたしとわたしの父の家に下りますように。あなたの民を災難に遭わせないでください。」

2004年08月08日 | カテゴリー: 旧約聖書 , 歴代誌上

【イエス・キリストによる神のみ言葉(預言)の実現】ウイリアム・モーア 待降節第2週

ウイリアム・モーア先生

ルカによる福音書4章16:イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。
17:預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある個所が目に留まった。
18:「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、
/主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、
/捕らわれている人に解放を、
/目の見えない人に視力の回復を告げ、
/圧迫されている人を自由にし、
19:主の恵みの年を告げるためである。」
20:イエスは巻物を巻き、係の者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。
21:そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。



(旧約聖書)イザヤ書61章1~3
◆貧しい者への福音
1:主はわたしに油を注ぎ/主なる神の霊がわたしをとらえた。わたしを遣わして/貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心を包み/捕らわれ人には自由を/つながれている人には解放を告知させるために。
2:主が恵みをお与えになる年/わたしたちの神が報復される日を告知して/嘆いている人々を慰め 3:シオンのゆえに嘆いている人々に/灰に代えて冠をかぶらせ/嘆きに代えて喜びの香油を/暗い心に代えて賛美の衣をまとわせるために。彼らは主が輝きを現すために植えられた/正義の樫の木と呼ばれる。

2003年12月07日 | カテゴリー: イザヤ書 , ルカによる福音書 , 新約聖書 , 旧約聖書