2012年8月

2012年8月26日(日)説教「命のパンなるイエス・キリスト」男山教会 禰津省一牧師

CIMG7293.JPG2012年8月26日(日)説教「命のパンなるイエス・キリスト」男山教会 禰津省一牧師

聖書:ヨハネによる福音書6章
1 その後、イエスはガリラヤ湖、すなわちティベリアス湖の向こう岸に渡られた。2 大勢の群衆が後を追った。イエスが病人たちになさったしるしを見たからである。
3 イエスは山に登り、弟子たちと一緒にそこにお座りになった。4 ユダヤ人の祭りである過越祭が近づいていた。
5 イエスは目を上げ、大勢の群衆が御自分の方へ来るのを見て、フィリポに、「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」と言われたが、6 こう言ったのはフィリポを試みるためであって、御自分では何をしようとしているか知っておられたのである。
7 フィリポは、「めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう」と答えた。8 弟子の一人で、シモン・ペトロの兄弟アンデレが、イエスに言った。
9 「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。」
10 イエスは、「人々を座らせなさい」と言われた。そこには草がたくさん生えていた。男たちはそこに座ったが、その数はおよそ五千人であった。11 さて、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた。また、魚も同じようにして、欲しいだけ分け与えられた。12 人々が満腹したとき、イエスは弟子たちに、「少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい」と言われた。13 集めると、人々が五つの大麦パンを食べて、なお残ったパンの屑で、十二の籠がいっぱいになった。14 そこで、人々はイエスのなさったしるしを見て、「まさにこの人こそ、世に来られる預言者である」と言った。
15 イエスは、人々が来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、ひとりでまた山に退かれた。

1、命のパン
 父なる神と御子イエス・キリストの恵みと平和が豊かにありますように。主イエスの御名によって祈ります。アーメン。
 昨年12月の伝道所設立式に引き続いて、再び、この素晴らしい西谷伝道所の建物を訪れ、建物よりももっと素晴らしい、西谷の兄弟姉妹方にお会いすることが出来ましたことを感謝致します。
 ただ今、わたしたちは、主イエス様が5千人以上の人々を祝福して下さり、その一人一人を、もうお腹が一杯になるまで満ちたらせて下さったという「5千人の給食」、あるいは「5千人の養い」と呼ばれている御言葉をお聞きしました。

この物語は、間違いなく、主イエス様がわたしたちに与え下さる「祝福と恵み」について教えているものであります。給食という言葉を使いましたように、今朝の、この「恵み」はまずは食べることに関係する恵みに間違いありません。
けれども、主イエス様の恵みは、ただ単にわたしたちが飢えてしまわない、満腹するというだけのものではないのですね。ある説教者は、この物語は6章全体の流れの中で聞かなければならないと言っております。
 
今朝の御言葉、つまり1節から15節では、パンという言葉が何度も出てきています。そして、それは文字通りの食べるパンのことです。けれども6章全体を見てみますと、そうではないのです。パンという言葉は、文字通りの意味だけでなく、主イエス様ご自身のことをも指していることが分かるのであります。6章35節で主イエス様はこうおっしゃられます。
「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。」
 
そして、最終的には、わたしたちにとって本当に必要なまことのパンは、主イエス様が下さる食べ物や飲み物のことではない、そうではなくて、主イエス様ご自身であると語られています。主イエス様ご自身がわたしたちの命にとって欠くことが出来ない「まことのパン」であると宣言されるのです。

 もちろん、今朝の御言葉で数千人の人々がパンを与えられて喜び、また幸いを得ましたように、主イエス様は、わたしたちの霊的な必要だけでなく、肉体的な必要をもみたして下さる方であります。けれども、わたしたちは肉的な必要が与えられるだけでは、本当の意味で命を得て幸いに、平安に生きる、自分たちも喜び、また神様にも喜んでいただくような人生を送ることが出来ないのであります。主イエス様は、そのことをおっしゃっておられます。そして、そのためには、わたしたちは麦で作ったパンだけでなく、主イエス様ご自身をいただかなければならない、受けなければならないのであります。

6章の終りに書かれていることは、わたくしたちがこれは一体どういうことだろうかと考えさせるような悲しい出来事です。多くの人々が、その中でも弟子と呼ばれていた人々でさえ、この「命のパン」のことを理解できずに、主イエス様のもとを離れ去ったということであります。しかし、6章68節、12弟子だけは決して離れず、主イエス様に従ってゆくと答えました。シモン・ペトロが代表していいます。「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。」

今朝の御言葉は、五千人の養いの物語です。しかしこの物語は、わたしたちが今も礼拝の中で行っています、聖餐式と深いかかわりがあることが分かります。今朝の御言葉で、主イエス様は、ご自身でパンを取り、感謝してこれを裂き、一人一人にまるでご自身の恵みそのものを分けて下さるように与えてくださっています。そして私たちが聖餐式でいただくパンとブドウ酒は、6章の後半で明かされている通り、今も主イエス様ご自身のしるしであり、それも十字架の上でわたしたちに本当の命を与えて下さる主イエス様のしるしなのであります。

2、群衆を祝福する
 1節をもう一度お読みします。「1 その後、イエスはガリラヤ湖、すなわちティベリアス湖の向こう岸に渡られた。」
 季節は、4節にあるように、過越し祭りが近づいていた頃、春の終わり頃でありました。過越しの祭りは、昔、イスラエルの人々がエジプトを脱出したときに定められた祭りです。エジプトの王ファラオが神に従わず、イスラエルの人々を逃がさないので神様の怒りは最高潮に達していました。そのときイスラエルの人々は、神がモーセに命じた通りに家ごとに子羊を屠り、つまり殺して、その血を自分が住んでいる家の柱と鴨居に塗って置きました。それによって、エジプト全土に神の災いが及び、子供が殺されてしまうと言うときに、イスラエルの人々の家だけは災いが過越してゆき、全員が命を得たのであります。

 ヨハネによる福音書では、過越し祭という語は、7回か8回出ますけれども、「過越し祭が近づいた」と書かれているのは今朝の箇所を含めて三度であります。最初は2章13節、カナの婚礼のあと主イエス様の宮清めと呼ばれている箇所です。そして三度目は、11章55節、主イエス様が十字架につけられるその過越し祭の箇所です。今朝の箇所は、その間にあって、主イエス様が、自分は命のパンであると人々に宣言されるのであります。いわば三年間にわたって主イエス様が伝道される、そして過越しの祭りに際して、重要な御業をなさる、その三度の過越し祭の二回目、中間点にあるのが今朝の物語であります。
 
ガリラヤ湖の向こう側と書かれています。このあと、17節で一行は湖の向こう側のカファルナウムに戻ったとありますから、今朝の物語の舞台は、その対岸にあるベトサイダの近くの山であると思われます。このとき、主イエス様のまわりには、弟子たちだけでなく、大勢の群衆がつき従っていました。主イエス様が見ると、その群集が主イエス様のあとを追って山に上ってくるのが見えました。そして弟子の一人であり、近くのベトサイダの町出身であるフィリポに言いました。
「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」

これは、フィリポの信仰を試すためであったと6節に書かれています。弟子たちがパンを買ってきて、これだけの人を養うのは難しい、それは分かり切ったことでした。あなたならどうするか、こう問いかけられたのです。フィリポは答えます。「「めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう」
 
このとき、彼らの手元にパンがあったわけではありません。二百デナリオンと言いますと、二百人分の日給、一デナリオンは人一人の一日の給料ですから、二百デナリオンは弟子たち十二人が、一~二週間くらいは生活できるお金です。おそらく主イエス様と旅をしている12弟子の会計にはそれくらいのお金があったと思われます。今あるお金を全部使っても足りません、フィリポはこう言っているのです。これを聞いていたアンデレが言いました。「ここに大麦のパン五つと魚二匹をもっている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では何の役にも立たないでしょう」どうやらアンデレは、自分の近くにいる少年が食べ物を持っていることに気がついて、こう言ったのです。そして少年からそれを受け取って、主イエス様のもとに持ってきました。しかし、こう付け加えます。「何の役にも立たないでしょう」。やはり、どうしようもない、フィリポ、アンデレ、二人の結論は、これだけの人に食べさせる方法はありませんということです。人間の力では、どうすること出来ない、そんな状況ですと言うのです。
 
当時のパンは小麦で作ることが普通だったのですが、少年が持っていたのは大麦のパンでした。大麦のパンは貧しい人たちが食べるものであったそうです。少年と訳されることばは、子供というよりも若者に近い年齢の少年を意味する言葉です。信頼できる辞書によれば、それは若い奴隷を意味する言葉でもあります。もし奴隷であるとするなら、主人に連れられてきたのかもしれません。彼らの弁当は貧しい人が食べる大麦のパン五つと二匹の魚でした。魚は干魚と訳している聖書もありますが、何か手を加えたおかずとしての魚で、魚のピクルスと訳している辞書もあります。
 
ささやかな食料です。しかし主イエス様は、この乏しいものを用いて素晴らしい御業をなさいました。 主イエス様は、まず全員を草の上に座らせたのです。座ると訳されている言葉は、リクライニング、あるいは横たわるという意味の言葉で、当時のユダヤ人が宴会をするときに必ずとる姿勢です。これから宴会をすると言うのです。
 
まず主イエス様は五つのパンを次々ととって、人々に分け与え、そして魚の方も同じように致しました。「感謝の祈りを唱え」とあります。大地の実り、海山の産物を与えて、わたしたちを養って下さる父なる神への感謝です。主イエス様は、人々に欲しい分だけ、つまり無制限に分け与えることがお出来なりました。
 この宴の席が終わった時、主イエス様は弟子たちに命じられました。「少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい」
 弟子たちが、集め終わると、12のかごに「いっぱい」になりました。ちょうど、12人いる弟子たちのために主イエス様は、配慮して下さったのです。どうすることもできないと思ったにもかかわらず主イエス様の恵みが溢れるほどに与えられ、具体的な必要が全て満たされた。弟子たちの心は感謝と喜びにあふれていたと思われます。

3、人々の思惑に抗するイエス
さて、この時のパンくずのように、当時は、人々が食べ残したもの、あるいは収穫し残したものが、貧しいものたちのために用いられました。これは旧約聖書の律法に命じられていることです。レビ記19章、申命記24章には穀物や果物の畑から収穫する時、隅々まで刈り尽くさず、角のところを少し残しておくことや、落ち穂を拾わないで残すようにと命じられます。貧しい人たちがそれを集めるのです。

 ここでは弟子たちが、食べ残しを集めました。そのことによって、12弟子たち、また主イエス様は、貧しいものとして、人々に奉仕する僕としての働きをしており、主役はあくまで、主イエス様の宴席に与る人々であったことが分かります。しかし、それほどまでに恵みを受けた群衆は、その恵みにも関わらず、主イエス様の御心にはかなわないことをしようと致します。14節で人々は、「まさにこの人こそ、世に来られる預言者である」と言って、主イエス様を王にするために連れて行こうとしたと書かれています。

過越し祭りのもとになった出エジプト、昔、奴隷として圧迫されていたイスラエルの民がエジプトを脱出することが出来たのは、モーセという指導者が立てられたことによります。モーセは神様から言葉を預かって民を導いた預言者でした。イスラエルには、そののち、モーセのような預言者が再び立てられると旧約聖書には、告げられています。人々はそれを信じ、強く期待していたのです。特に、主イエス様の時代には、イスラエルはローマ帝国の植民地になっており、再び独立を取り戻すことが民族の悲願でありました。群衆は、主イエス様を王にしてローマ帝国に対抗しようとしたのです。しかし、主イエス様は、これを見て、一人山へと退かれました。姿を消されたのです。

 わたしたちが毎日の生活を送るために食べる物や着るもの、住むところが必要です。このような物質的なものの価値を聖書は決して否定することはありません。聖書が否定するのは、それがすべてであって、それさえあれば人間は幸いに生きることが出来るという無神論的な生活です。旧約聖書申命記8章3節にこのように書かれています。
「人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きる」

神様は、このことを悟らせるためにイスラエルの民がエジプトを出て荒れ野で生活した時に、天からの不思議な食物であるマナを与えたのだとモーセは人々に告げました。
 主イエス様は、この申命記の御言葉を用いて、荒れ野の誘惑においてサタンに対抗しました。サタン、悪魔は、断食を終えたばかりの主イエス様に対して、これらの石がパンになるように命じたらどうだと誘惑しました。主イエス様の神の力、奇蹟をさえ行うことが出来るその御力を物質的な豊かさのために用い、この世界にこの世的な王国を造れという誘惑でした。主イエス様はサタンに答えられました。マタイによる福音書4章4節、
「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』/と書いてある。」こと、それらを自分自身の生き方とすることがわたしたちを本当の意味で幸いに導きます。その

 人が本当の意味で生きる、命を持って生きるためには、麦で作ったパンだけでは不十分です。神の言葉、神の御心に適って生きるためには、わたしたちは罪を悔い改め、新しく生まれ買わなければなりません。
 ヨハネによる福音書は、1章1節から2節で、「初めに言葉があった、言葉は神と共にあった、言葉は神であった」と書いて、主イエス様こそが「神の言葉」であると宣言しました。

すなわち、人はパンだけで生きるのではなく、主イエス・キリストによって生きる、それによってこそわたしたちは本当に生きることが出来るのです。群衆は、主イエス様にそのことを求めず、この世的なパンを求めて、主イエス様をこの世の王にしようとしました。この世の王国を求める、そのことによって、主イエス様を通して本当の神の国に入ることを自分から絶ち切ってしまったのです。
 
今日、キリスト教会には、洗礼と聖餐という二つの大切な儀式、礼典があります。洗礼は、私たちが十字架と復活のイエス様に結びなおされ、新しく生まれたことのしるしであり、聖餐は、そのようにして生まれた者が主イエス様の肉と血とを食べて、霊の養いを受けることを表わします。いずれもが主イエス様との結合、交わりを意味する礼典であります。

 主イエス様は、貧しい少年が差し出した、五つのパンと二匹の魚のような乏しいものを用いて、5000人以上の人々を無制限に養うという素晴らしい命の力を持つお方です。教会には、このお方が確かにおられます。主イエス様が共にいて下さるなら、わたしたちは決して飢え死にしません。それどころか豊かな恵みをいつも頂くことが出来ます。
しかし、わたしたちは、五つのパンと二匹の魚から、多くの人々が満ちたりるほどの大量の見える食料が与えられたこと、その主イエス様の奇蹟の力だけに心を奪われては決してなりません。

わたしたちは、この次の過越しの祭りで主イエス様がなさったことに心を向けなければなりません。それは主イエス様が本当の命を与える過越しの子羊となられたことです。十字架にお掛かりになり、死なれたことです。わたしたちのすべての不幸、災い、苦しみの源である罪を解決して下さったことです。主イエス様と結ばれる人、このお方を信じる人は、誰でも罪の赦しの恵みが与えられ、そして新しい命をいただくことが出来ます。わたしたちは、このお方を礼拝し、この方から恵みを受け、このお方から命を受け続けて、養われて行くのです。主イエス様を喜び賛美致します。祈ります。

神様は、あなたは主イエス様をわたしたちに与え下さり罪の赦しと永遠の命をすべての信じる人に与えて下さいます。その恵みは無制限であり、満ちあふれるほど豊かであって、わたしたちを満ちたらせて下さる素晴らしいものです。どうか、一人でも多くの方々が、この主イエス・キリストを受け入れ、信じ、救いの恵みにあづかることが出来ますよう、どうぞ助け導いて下さい。主の御名によって祈ります。アーメン。(おわり)

2012年08月26日 | カテゴリー: ヨハネによる福音書

2012年8月19日説教「主イエス・キリストの記念」ウイリアム・モーア

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聖書:ルカによる福音書22章14~20節
説教要約(文責 近藤)

【記念碑】
人類は大昔から重要な出来事や人物を忘れないために記念碑やモニュメントを建ててきた。例えば明治天皇を記念して明治神宮を、エジプトの王はピラミッドを造り、アメリカのワシントンにはリンカン記念堂や戦没者追悼碑があります。ここには重要な人物や出来事を忘れないでくださいという願いがあります。しかしこれらの古代の記念碑はやがて崩れ去って忘れ去られます。世界一の記念碑ピラミッドさえも建てられた時には表面はピカピカの大理石でしたが今は荒れた石がむき出しです。これら記念物は年月とともにちりに帰ります。

【永遠の記念碑】
しかし世界で一つだけキリスト者の心に生きている聖餐という礼典は今も変わらずに残っています。
出エジプトの記念として過越の食事をユダヤ人は祝いました。主イエスが最後の過越祭を祝った時、その行事に新しい意味を付け加えました。ルカ福音書22章14-20節にそのことが書かれています。

ルカによる福音書22章
14 時刻になったので、イエスは食事の席に着かれたが、使徒たちも一緒だった。
15 イエスは言われた。「苦しみを受ける前に、あなたがたと共にこの過越の食事をしたいと、わたしは切に願っていた。16 言っておくが、神の国で過越が成し遂げられるまで、わたしは決してこの過越の食事をとることはない。」
17 そして、イエスは杯を取り上げ、感謝の祈りを唱えてから言われた。「これを取り、互いに回して飲みなさい。18 言っておくが、神の国が来るまで、わたしは今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい。」

19 それから、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えて、それを裂き、使徒たちに与えて言われた。「これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい。」20 食事を終えてから、杯も同じようにして言われた。「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である。

【私の記念として】
主イエスはもうすぐに起こるご自分の贖い死を通して誰でも信じる者に永遠の救いと命を約束されました。
「私の記念としてこのように行いなさい」と主は弟子たちに教えられました。キリスト者は当時から現代まで2000年間この教えを守ってきました。
聖餐式に参加することによってイエスの贖い死を感謝して記念します。

今もどこの国でもどこの教会でも主の日には教会で礼拝を守り聖餐を受けることができます。この西谷でも聖餐を受けられます。主は大きな記念碑を作ることを命じられませんでした。しかしこの聖餐は年月とともに世界中に広がり信者の各世代でもっと輝き磨かれます。

【最初の聖餐式】
12人の弟子に囲まれエルサレムにある二階の間で初めての聖餐式を主イエスは執り行われました。

その出来事は大きな霊的意味があります。これは主御自身の為でなく初めから終わりまで私たちの為です。この礼典で主の希望に満ちた新しい命が与えられました。聖餐式でイエスの死を覚え感謝をもってその意味を覚えます。そして主が再び来られるまでこの聖餐式を守ります。

『イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えて、それを裂き、使徒たちに与えて言われた。「これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい。」食事を終えてから、杯も同じようにして言われた。「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である。」

【聖餐式の意義】
私たちは聖餐のパンと葡萄酒を拝みませんが、主の犠牲のシンボルであるパンと葡萄酒を戴くことは私たちの信仰の告白になり、主の犠牲の記念になります。

【招き】
主はご自分を信頼するものを聖餐に招かれます。そうすると「わたしの記念としてこのように行いなさい。」と言われた主イエスの教えを守ることができます。

愛する兄弟姉妹、大きな感謝と希望をもってこの聖餐を戴きましょう。(おわり)

2012年08月21日 | カテゴリー: ルカによる福音書

2012年8月12日説教「罪の伝達と拡大―神の裁きと憐れみの緊張関係で―」神戸改革派神学校校長 市川康則牧師

 

 2012812日説教「罪の伝達と拡大―神の裁きと憐れみの緊張関係で―」神戸改革派神学校校長 市川康則牧師

         創世記4章1ー26

1 さて、アダムは妻エバを知った。彼女は身ごもってカインを産み、「わたしは主によって男子を得た」と言った。2 彼女はまたその弟アベルを産んだ。アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった。3 時を経て、カインは土の実りを主のもとに献げ物として持って来た。4 アベルは羊の群れの中から肥えた初子を持って来た。主はアベルとその献げ物に目を留められたが、5 カインとその献げ物には目を留められなかった。カインは激しく怒って顔を伏せた。6 主はカインに言われた。「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。7 もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない。」

8 カインが弟アベルに言葉をかけ、二人が野原に着いたとき、カインは弟アベルを襲って殺した。9 主はカインに言われた。「お前の弟アベルは、どこにいるのか。」カインは答えた。「知りません。わたしは弟の番人でしょうか。」10 主は言われた。「何ということをしたのか。お前の弟の血が土の中からわたしに向かって叫んでいる。11 今、お前は呪われる者となった。お前が流した弟の血を、口を開けて飲み込んだ土よりもなお、呪われる。

12 土を耕しても、土はもはやお前のために作物を産み出すことはない。お前は地上をさまよい、さすらう者となる。」13 カインは主に言った。「わたしの罪は重すぎて負いきれません。14 今日、あなたがわたしをこの土地から追放なさり、わたしが御顔から隠されて、地上をさまよい、さすらう者となってしまえば、わたしに出会う者はだれであれ、わたしを殺すでしょう。」15 主はカインに言われた。「いや、それゆえカインを殺す者は、だれであれ七倍の復讐を受けるであろう。」主はカインに出会う者がだれも彼を撃つことのないように、カインにしるしを付けられた。16 カインは主の前を去り、エデンの東、ノド(さすらい)の地に住んだ。17 カインは妻を知った。彼女は身ごもってエノクを産んだ。カインは町を建てていたが、その町を息子の名前にちなんでエノクと名付けた。

18 エノクにはイラドが生まれた。イラドはメフヤエルの父となり、メフヤエルはメトシャエルの父となり、メトシャエルはレメクの父となった。19 レメクは二人の妻をめとった。一人はアダ、もう一人はツィラといった。20 アダはヤバルを産んだ。ヤバルは、家畜を飼い天幕に住む者の先祖となった。21 その弟はユバルといい、竪琴や笛を奏でる者すべての先祖となった。22 ツィラもまた、トバル・カインを産んだ。彼は青銅や鉄でさまざまの道具を作る者となった。トバル・カインの妹はナアマといった。

23 さて、レメクは妻に言った。「アダとツィラよ、わが声を聞け。レメクの妻たちよ、わが言葉に耳を傾けよ。わたしは傷の報いに男を殺し/打ち傷の報いに若者を殺す。

24 カインのための復讐が七倍なら/レメクのためには七十七倍。」

25 再び、アダムは妻を知った。彼女は男の子を産み、セトと名付けた。カインがアベルを殺したので、神が彼に代わる子を授け(シャト)られたからである。26 セトにも男の子が生まれた。彼はその子をエノシュと名付けた。主の御名を呼び始めたのは、この時代のことである。

 

【罪の伝達と拡大―神の裁きと憐れみとの緊張関係のなかで】

今日の説教題にのせましたのは「罪の伝達と拡大―神の裁きと憐れみとの緊張関係のなかで」。

人間の罪は単に継承されるのではなく拡大する、分かりやすく言いますと人間は文明を発達させることができます。発達させて来ました。これはどんな動物にもできません。

猿がどんなに賢くてもできません。しかしその結果、被害、弊害も大きくなってきました。

 

【原発事故、この世の災害の根源】

昨年起こった原発の事故はそれを雄弁に物語ります。原発が良い、悪いを申してるのではありません。原子力発電は素晴らしい力を発揮しました。そのために助かってるものも多いです。しかし一旦何かが起こると、もう被害はとてつもなく大きいのです。これは何も原発に限りません。例えば包丁もそうです。台所に欠かせませんが、包丁は人を刺すことにも使えます。その種の犯罪が多ございます。一面人間は文化の歴史を発達させることができますが、その弊害もまた大きくなったのは事実であります。

 

さて創世記4章の物語から人間の罪が継承される、しかも増大していく。これに対して神の裁きも大きくなっていくが、神の哀れみもまた忘れられず、大きくなると言うことを覚えたい。

 

申し加えますが原発の被害、それが神の裁きだとは言えませんし、言っておりません。

被災した人が、それに値した神の裁きに遭わされたということでもありません。

が人類全体の規模から見るなら「神様の警鐘」という事は言えなくもありません。これは何も震災に限りません。よその国で起こった津波もそうです。よその国で起こった犯罪もそうです。日本人も含めて人類全体が犯した罪の結果という事は一面言えると思います。

そうですが個々の出来事に対する神様の裁きとは言えません。

 

【人類の始祖アダムトエヴァ】

さて堕落したカインの罪は最初ではありません。4章の前に、3章がありますが、その初めにカインの親、アダムとその妻エヴァ、彼らが最初に罪を犯しました。

まぁ杓子定規に言えば、まず初めにエヴァが罪を犯した。しかしエヴァは人類の代表ではありません。アダムが罪を犯すまでは神様は怒りを顕わにされませんでした。

これは私の想像です、カッコしてお聞きください。創世記3章の始まりを見ますと蛇、即ち悪魔がエヴァを誘惑して神に背かせました。そしてエヴァはアダムに果物を食べるよう話しましたが、「園の中央にある善悪の知識を食べるな」と言う神様の命令を直々に受けたのはアダムです。

 

エヴァが木の実をとって食べても、神に背いたとしても、アダムがしなかったなら人類に対して、おそらく神は怒りを発せられなかったでしょう。わたしの推測ですが。

しかし聖書に書いてありますように、残念ながらアダムはエヴァを通じて間接的でありますがサタンの誘惑に屈しました。そしてそれで神様は創世記の3章の中程のところで、最初に言われたように呪いを発せられました。

 

【罪の結果】

創世記317 神はアダムに向かって言われた。「お前は女の声に従い/取って食べるなと命じた木から食べた。お前のゆえに、土は呪われるものとなった。お前は、生涯食べ物を得ようと苦しむ。18 お前に対して/土は茨とあざみを生えいでさせる/野の草を食べようとするお前に。

土は不毛となり、いばらやあざみしか生じない。これは不毛の象徴です。顔に汗して働いても土はいばらやアザミしか生えない。罪の結果、労働は苦しみでしかない。エバはまた生みの苦しみを負う。こうしたことは罪に対する神の人間に対する裁きであります。

 

【神の義】

もう一度申しますが神様は恵み深いお方、憐れみ深いお方です。が罪を多目に見られる方ではありません。きっちりと後始末を付けられる正義の神であります。そうでなければ私たち人間社会は無法状態になります。哀れみ、哀れみ、愛、愛と言って罪を許しておれば、我々人間社会はどうなりますか。悪ばかりが横行いたします。犯罪が起こればその罪に対してきちんと対応すべきであります。後始末をつけるべきです。それは神様がそうされるからですね。

 

【伴侶】

そのように最初にアダムとエヴァは罪を犯しました。神様はアダムをお造りになって、そしてアダムのためにふさわしい助け手をお与えになりました。エヴァをお造りになりました。アダムはエヴァを受け入れ、これこそ「私の骨の骨、肉の肉」と言い、その分身であるかのように、最も近い関係、これをある人は愛の賛歌といいます。男から取ったので女と呼ぼう。日本語では分かりませんがヘブライ語の聖書では、イシュから取ったのでイシャーと呼ぼう。

 

【責任転嫁】

男と女はもちろん区別されますが、アダムとエヴァは別人です。がしかし人間としては同質です。こういう近い関係であったアダムが、罪をおかしてから、アダムは神様から「とって食べるなと命じた木から食べたのか」と言われると、そうするとアダムは「あなたが私のために造って下さったエヴァが私にくれたので私が食べたのです」。自分の罪の責任転嫁を最初にしたのです。

ここでエヴァを自分の罪を擦り付ける対象にした、当然、人間関係が断絶いたします。神に背くと神との関係に亀裂が生じるという事は人間関係においても亀裂が生じるという最初の出来事であります。

 

【殺人の罪】

しかしながらアダムはエヴァを自分の罪の責任転嫁の対象としましたが、しかし、ここではまだ殺人の罪は起こっていません。カインの時になりまして、罪を犯した人間を神は怒っておられる、人間は神に呪われたのとして、アダムもエヴァもカインもそして殺されたアベルも皆同じ罪人です。

 

【罪はエスカレートする】

しかしその罪深さが現れる、現れ方がエスカレートすると、その次が、この4章のこの物語なります。

 

4章の前半を見ますと神様はエヴァとアダムを哀れみ、罪を犯してエデンの園を追放される二人ですけど、なお神様は彼らに哀れみを確保してくださり、エヴァ、命と言う名ですが、その名にふさわしい働きができるように、つまり母となることができるように、人間の命の源となるようにしてくださいました。それが出産です。エデンの園から追放されたにもかかわらず、アダムは尚、命を受け取ることが出来ました。

それが一つです、アダムはエヴァを知ったことでカインを生んだ。エヴァは言った、「わたしは主によって男子を得た」。神様に栄光を帰すると言う素晴らしい表現です。

 

生まれてきた子供が長男カイン、次男アベル、その次の物語が私たちを悩ましますが、カインは土を耕す者となって農耕に従事した。アベルは羊を飼って牧畜に従事した。それぞれ自分の仕事の稔、地の産物または初子を神に捧げた。カインの捧げ物が悪かったと、どこにも書いてありません。何故かわかりませんけれども神様はアベルの捧げ物を嘉し給いました。新改訳聖書では「肥えた羊」が、「最上の羊を群れから取って神様に捧げた」とあります。

それを神様は受け入れられたというのです。

 

カインとその捧げ物には目を止められなかった。目を止められなかったとは受け入れられなかったという事です。神様ですから人間のようにものを直接食べると言う事をいたしません。神様が肉は好きとか嫌いだとは言われません。神様は気まぐれではありませんから、原因が当然あるはずだと言います。

 

【人間の罪深さを暴きだすため】

カインの捧げ物が悪かった。アベルはよかったと言う風に人は見るわけですが、しかし聖書自体の中にはそのことの言及はありません。なぜ神はそうなさったかと言うことですが、この物語がなぜ書かれているかということにですが、聖書の意図を汲み取らねばなりません。これはカインに象徴される人間の罪深さを暴きだすため、描き出すための出来ごとです。

 

実際起こらなかったけれども、作者がそういう風に書いたということでもありません。実際に起こったことですけれども、なんでそんなことが起こったかということです。カインに象徴される人間の罪深さはどれほどのものか、それを明らかにするのが目的でございます。

神様はカインに、なぜ怒るのか、もしお前が正しいのなら、自分の捧げ物にやましいことがなければ、例え弟の捧げ物を神が喜ばれた、受け入れられたとしても自分自身は卑下することはないでしょう。しかしこれができないのが罪人なのです。

 

【サウル王】

ダビデがまだ王となる前のことです。サウル王の家来だった頃、イスラエルの敵ペリシテ人に巨人ゴリアテと言う大将がいて、これにダビデが勝利した。それまでイスラエルはペリシテ人の前に風前の灯火でありました。ダビデがゴリアテを倒したために形勢逆転、イスラエルは大勝利をしました。

 

そしてサウルやダヴィデたちが帰ってきました時に、エルサレムで婦人たちが、「サウルは千を撃ち、ダヴィデは万を撃った」と歌います。サウル王は「王である私が千、家臣のダビデが万」と、これを聞いてそれからダビデを憎むようになりました。愚かなことです。しかしこういうことが人間には起こるのです。

 

人が褒められたら自分が貶されたように思う。それが人間の習性です。自分よりも遥かにえらい牧師先生がいい説教した。あれは良い説教だなぁと何とも思いませんが、自分と同輩の牧師が褒められるとすると、また後輩が褒められたとすると自分は貶されたように思うのですね。自分にも子供がありますが下の子を褒めたのですね、そうすると上の子が自分のことを褒めたのですね。これから子供を褒める時はよく注意しなければならないと思いました。教訓になりましたが、この類のことなんですね。

 

【自分の罪を制することが出来ない】

神様は何もカインを臭しているわけではありませんね。お前の捧げ物は駄目と言っておられるわけではありません。何かわかりませんけれどもアベルの捧げ物を受け取られました。

それでカインは腹を立て、この時、自分の罪深さを制することが出来ない程になっている、それがこれから明らかになります。神は言いました、「もしお前が正しいのなら顔をあげればいいでしょう」。つまり「私を見ることができるはずだ」と言われました。

 

7節後半、「正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない。」と罪を制御せよとの警告です。

 

【最初の殺人】

カインはアベルと野に行ったのですが、その時にアベルを襲って殺してしまいました。カインは当然質問されます。「お前の弟アベルはどこに行ったか」。それはちょうど最初に罪を犯したアダムが神様を恐れて木の根元に身を寄せて隠れた。「お前はどこに居るのか」。神様はお見通しですが、罪を犯した人間が神様を直視できないことがわかる象徴的な出来事です。

「お前はどこにいるか」と。「あなたを恐れて隠れています」。

今度は「弟アベルはどこにいるか」。そうしたらカインは「知りません」と答える。こんな大胆不敵な答えはありません。「知りません」というのはもう「関わりはありません」ということです。

 

私は弟の番人でしょうか」、番人と訳されております言葉は世話をする、保護をするという意味もあります。世話人、保護者。新約聖書の、特にイエス様の言葉を大胆に用いますと、隣人という意味です。それは世話をする、保護すべき相手です。「私は弟の番人でしょうか。知りません。

 

こうしてアダムが既に罪人でありましたが、まだアダムが犯さなかった殺人という大罪をカインは犯しました。しかしこれはカイン個人の問題ではありません。もしカインがアベルを殺さなかったならアベルはそのまま大きくなったでしょう。がアベルも神様の前には罪人です。人間の罪はこうして増大します。

 

【失楽園】

17節、カインは神様にエデンの園を追放されます。カインは追放されてノド、カッコして「さすらい」という地に移ります。住み着いた、定住したところが「さすらい」の地、矛盾しています。「さすらい」とは「定住しない」ことです。神に命を守られながらも、自覚の上では神様を捨てる、神から去っていく、放浪するということを表している。相応しいの町の名前であると思います。

 

【二人の妻を娶ったレメク】

その子孫に子供が生まれます。そして18節、レメクという人物が登場します。このレメクは傲慢な服を着ている人間で、19節、二人の妻を娶った。神様がアダムに妻としてお与えになったのはエヴァ一人でした。一人の夫、一人の妻、そこで二人は霊肉ともに一体となることができる、真実な交わりを深めることができるのです。

 

二人の妻を娶るという事は、一夫多妻ですが、そこでは真に一対一の人格関係は生まれません。一夫多妻はなんのためにあるのか。それは人間が堕落した結果でありますが、古代社会のことを考えますと今のように医学は発達していませんので、しかも家系を絶やさぬことがなく一門の繁榮のために、子孫が繁榮しなければなりません。そういうことから一夫多妻が普遍化されますが、もう一つは女性を男の欲望の手段とするということです。

レメクが二人の妻を娶ったというのは人間を自分の欲望の手段と化したというとんでもないことです。

 

【無制限な復讐】

23節、そしてレメクの言葉は、創世記4

23 さて、レメクは妻に言った。「アダとツィラよ、わが声を聞け。レメクの妻たちよ、わが言葉に耳を傾けよ。わたしは傷の報いに男を殺し/打ち傷の報いに若者を殺す。

4:24 カインのための復讐が七倍なら/レメクのためには七十七倍。」

 

カインのための復讐が七倍なら/レメクのためには七十七倍」、この復讐は神様の定められた限界を遥かに超えています。自分を神よりも上に置いています。どういうことかと言いますと、カインがアベルを殺しました。そして神様の怒りに触れて御許から去っていきます。彼は恐れます。

 

14節を見ますと「14 今日、あなたがわたしをこの土地から追放なさり、わたしが御顔から隠されて、地上をさまよい、さすらう者となってしまえば、わたしに出会う者はだれであれ、わたしを殺すでしょう」。質問、カインに誰が出会うでしょう。カインとアベル二人しかいない世界です。

 

【額に印を】

5章を見ますとアダムはカインとアベル、セト、この後にまた男と女をもうけて二人の子供だけではありません、いずれにせよ、カインは自分は殺人をしておいて自分が殺されるのを恐れた得手勝手な人間です。カインが殺されないようにカインに印をつけられたと書かれてあります。

 

もし誰かがカインを殺したなら神様はその復讐をなさる。その復讐は7倍、誰かがカインの命を取れば取ったものから7倍の復讐をすると言われます。そんなことできないことですが、これは殺人の罪がどんなに重いことかと言うことを表します。それを神は許さないということを語る明瞭な神の意思表示です。

 

殺人を犯したカインですら、そのカインを殺すなら神様は7倍の復讐をすると。今レメクはどうか。カインのための復讐が7倍ならばレメクための復讐は77倍、無制約、無限ということです。7というのは完全数、77倍というのはもう無制限に復讐するということ、しかも神様はカインが殺されたら、そうするということですが、レメクは殺されなくても、傷だけでも人を殺すというのです。23節、「傷の報いに男を殺し、打ち傷の報いに若者を殺す」。

 

自分が殺されるのでもない、ただ傷を負う、それでも相手を殺す。復讐心が増大するということ、つまり罪は増大するということであります。

それは神様の呪いが増大するからであります。こうして人の罪に対する神の怒りは増大します。

 

しかし神様は一方で哀れみをもお忘れになりません。エスカレートする罪と怒りをなお抑制される。神様がカインに命じられた、

4:7 もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない。」

お前は罪を支配しなければならない。それができなかったですね。神様は罪に対して怒り心頭に達しておられます。

 

悪いのは人間ですからこの地球を滅ぼしても、罪を犯した始めの時点で神は人を滅ぼしたとしても、神様には不正、落ち度はありません。が神様はそうなさらなかった。罪を犯して罪を制御できない人間に対し神は怒り心頭に達していても、なおご自分を自制されるのであります。それがカインに対する、また人間に対する憐れみであります。

 

いま申しましたように自分は殺人を犯しながら自分が殺されることを恐れる。そのカインに対して神様はエデンの園から、つまりご自分との交わりからは追放なさいます。けれどもそれでも尚カインが殺されないように処置を講じられました。その額に一つの印をつけられたとあります。その印は何であったか詮索する、知る必要はありませんが、いろんなことを考えます。刺青のようなものでなかったか。いずれにせよカインを保護されたということであります。

 

【カインは街をたてた】

それだけではなくカインがノドーさすらいと言う名前のついた街でありますけれども、

17節で、街を建てています。街とは共同生活の象徴であります。創世記126節以下を見ますとは神は、他の被造物はその種類に従って造られたわけですが、人間だけは神に似せて、「我々に似せて」、つまり神に象って人を創ろうと言われました。

神様はお一人ですが、不思議なことに、ご自分のことを「我々」と言われます。「我々」と呼ばれる神様の像に人間を造られた。人間は複数の存在であります。だからアダムからエヴァを作られたのであります。アダムとエヴァからカインとアベル、セトが増えるようになりました。

 

人は初めから複数に、皆で営みます。みんなで生きるのです。その象徴が街を建てるという事であります。街を建てるという事は、街で一緒に生活するということです。

 

街で一緒に生活できないとどうなるか。仙人になるしかありません。

 

何の材料を用いて街を建てたか分かりません。れんがであれ木であれ、何であれ神様が創造において自然の中に与えておられるものを用いて造られました。

 

カインが加工したかも知れませんが、それを用いて街を造った。神様は罪を犯した人間がなお共同生活ができるように、人間にふさわしい生活ができるようにしてくださいました。

 

そしてレメクに子供が生まれます。

一人はアダ、もう一人はツィラといった。20 アダはヤバルを産んだ。ヤバルは、家畜を飼い天幕に住む者の先祖となった。21 その弟はユバルといい、竪琴や笛を奏でる者すべての先祖となった。22 ツィラもまた、トバル・カインを産んだ。彼は青銅や鉄でさまざまの道具を作る者となった。

 

【人類文化文明の発展】

ヤバルは牧畜を営むものの先祖となる。ユバルは竪琴や笛を奏でるもの音楽、芸術の祖、それからトバルカインは青銅や鉄で様々なものを創る工業の祖となりました。大工の工、鉱業の鉱、どちらの意味でも産業ですね。

 

牧畜の延長線上に農耕。様々な産業。つまり神様は堕落して、人を殺すほどに、堕落した人類に尚共同生活を、単なる共同生活ではなく、猿でも共同生活します、その程度ではありません。文化を営むことができるようにされました。歴史を形成するために文化を達成されたのであります。個人としても、共同体としても、肉体的にも精神的にも、文化的にも社会的にも、人類が生きる事ができるように神様はして下さったのです。

 

【音楽の賜物】

宗教改革者のカルバンは神様がカインの子孫に音楽の賜物を与えたことについて、御霊の賜物、聖霊の神様は侮るべからず、音楽は御霊の賜物であると賞賛したほどです。通常御霊の賜物というのは福音、信仰の成長ということで用いられますが、カルバンは、断りまして、ここはいかなる意味でも救いではないが、しかしそれでも侮ってはいけない。神様が人類にお与えになった御霊の賜物である。神は罪を犯し続ける人間を怒られますけれども同時に哀れんでくださる。

 

【主のみ名を呼び始めた】

創世記425 再び、アダムは妻を知った。彼女は男の子を産み、セトと名付けた。カインがアベルを殺したので、神が彼に代わる子を授け(シャト)られたからである。

 

25節を見ますと再びアダムはエバを知った。先に2人の子供が与えられたが、一人は兄弟によって殺された。一人は追放された。後を継ぐ者がいなくなった。しかしそれでも神様はアダムを哀れんでくださり、エバがその名前の通り、「命の源」となることができるように、もう1人の男の子供をお与えになりました。カインがアベルを殺したのでアベルに変わる子を授けられた。「授ける」と言うことから「セト」と名付けました。

 

神は罪人に対してこの上なく厳しく怒られ、同時に罪は罪として裁かれますが、人そのものを憐れみ、尚生きることができるように、しかも身体的にも精神的の文化的にも豊かな意味に於いて生きることができるように神はしてくださいました。

 

【命の継承】

そして25節を見ますと、セトにも子供が生まれた。カインに象徴される人間は、神にのみ属するという命というもの、命は神にのみ所有権がありますが、カインに象徴される人間は命を奪います。それでも神は人類から命がなくならないように、人類が命を継承する、あるいは伝達することができるようにしてくださいました。そしてセトが生まれました。

 

そしてセトがエノシュを産みました。主のみ名を呼び始めたのはこの時代のことである。主のみ名を呼ぶという事は、わかり易く言えば礼拝するということです。それまで神様を礼拝しなかったと言う訳ではない、どんな形式で礼拝するかわかりませんけれども、積極的に神様を礼拝するという事が起こりました。こうしてこの創世記4章は神様の憐れみで始まった。

 

アダムとエヴァから命の継承を象徴する出来事、子供の出生という神様の哀れみが始まります。人間はそれを台無しにし、神様はそれを怒られますが、それでも神様は哀れんでくださって人間の子孫が絶えることのないように、むしろそれを豊かに発展、継承させるために、そして再び神様の命の継承、和解で閉じられます。

 

そして次の5章へと展開します。神は再三申しますが、罪に対して大目に見ることはなさいません、後始末を付けられます。

 

【主イエス・キリスト】

しかし、それを許す手立ても講じられます。この時から何年たったかわかりませんが、遥か後代でありますけれども、イエス・キリストと言う方が来られます。このイエス・キリストはカインとは正反対で全く罪を犯されなかった。

 

誘惑に逢われましたが、その誘惑をことごとく退けて神様に対して完全であられました。それを聖書は義と申します。ところがこの義人イエスを人類の罪をすべてこのイエスに負わ人類の身代わりに否人類の代表として罪の王国の王として厳罰に処せられた。

 

【十字架刑】

それは十字架に付けるということですが、十字架刑はイスラエルの伝承では神に呪われたもの、石打の刑よりもっと呪われたもの、木に架けられたということですが、時代はローマのものは時代ですからローマ帝国では十字架刑は通常用いられませんでした。少なくともローマの市民には用いられませんでした。国家に対する反逆や大罪といったものにのみ用いられる、例外的なでありました。それが十字架刑で、ナザレのイエスはローマ帝国からも、ユダヤの伝統からも裁かれたということです。何のため裁かれたか、それは人類の罪を裁くためです。人類の罪を裁くための神様の処置であったのです。こうして神様はナザレのイエスを十字架につけられて、怒りを爆発されました。しかしこのナザレのイエスは30年半余りの生涯で、罪を全く犯されなく義であられました。そのことを神様ご自身が示されたのが復活であります。こうしてイエス・キリスト信じるものは、イエス・キリストの十字架の処罰が信じる者、私自身の罪に対する神の処罰であります。それで私の罪は許され、帳消しにしてくださいます。

 

さらに自分自身では守れない神の戒めを、神のみ心を、それをイエス・キリストが完璧に守ってくださって神の前に義であると、信じる私もまた主イエス・キリストの故に義と認めていただけるということであります。神様はイエス・キリストの死と復活、二〇〇〇年経っていますが、それを信じない者、罪を悔い改めないものに、それを求められます。

 

罪の処罰は間違いなくあります。しかし主イエスを信じる者には裁かれません。キリストを信じる人々の主として神様は、それを要求されません。それは主イエス・キリストの復活の命を豊かに注いで下さり、豊かに生きることができるようにしてくださいます。

 

イエス・キリストより遥か昔に起こった出来事はそれを表します。私たちはこれから先何が起こるかわかりませんが、イエス・キリストによって神様に守られている。キリストの死と復活が私の罪の処置と生きる力である。それを信じて私たちは生きたいと願います。そして主にある恵みを人々に証していきたい、共有していきたいと思いますね。(おわり)

 

 

 

 

2012年08月12日 | カテゴリー: 創世記 , 旧約聖書

2012.8.5.説教「変わることなきイエス・キリスト」ウイリアム・モーア

2012.8.5.説教「変わることなきイエス・キリスト」ウイリアム・モーア
(説教要約 文責近藤)

聖書:ヘブライ人への手紙13章8節「イエス・キリストは、きのうも、今日も、また永遠に変わることのない方です」

【アフリカから帰国した宣教師】
わたしは数年ごとにアメリカに帰国するたびにアメリカの変化に驚きます。
表現する言葉、ファション、料理、考え方の変化に気づきます。

あるアフリカに行った宣教師の話ですが、久しぶりの帰国の前にその奥さんはファッションのカタログを取り寄せ最新の服を家族のために作りました。帰国しそれを着て自信満々で町を歩いていると周りの人の視線を感じました。なんと後ろの4人の子供たちが頭にカバンを載せて付いてきたからです。

【変化は永久?】
「この世に永久のものは一つしかありません。それは変化です」と誰かが言いました。

テクノロジーは特にそうです。コンピューターの進歩はアナログ時代に生まれた人にとってデジタルの現代に生きるのはチャレンジングなことです。温暖化のために気象の変化は激しいし、私たちは自身の年齢的変化にも、周りの環境の変化や経済の変化に翻弄されます。

【永遠に変わらぬお方】
この世に住む私たちは変わらぬ避けどころが必要です。山奥に逃げても変化が追ってきます。全ての変化に対し、今日の御言葉はまことに良いお知らせです。それは「イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です」
変化の嵐の中にいる私たちにとって、変わらぬ愛するイエスキリストこそ変わらぬ避けどころです。それは神の御子イエス・キリストです。

私たちの健康が衰えても主はこういわれます。
コリントの信徒への手紙二 12章9 「すると主は、『わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ』と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。」

困難の中にいる人にはこういわれます。
ヨハネによる福音書16章33 「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」

死の影にいる人にはこういわれます。
ヨハネによる福音書 11章25 「イエスは言われた。『わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる』」。

【昨日】
イエスは昨日も変わることなきお方です。
主イエスは三位一体の神として初めがありません。父と聖霊と同じように初めがない永遠のご存在です。このように言われます。

ヨハネによる福音書1章
「1 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。
2 この言は、初めに神と共にあった。3 万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。」

主御自身もこういわれました。
ヨハネによる福音書 8章58:イエスは言われた。「はっきり言っておく。アブラハムが生まれる前から、『わたしはある。』」

主は御自身神であられるにもかかわらず全人類の救いのため天の御国を去って貧しい人となられ馬小屋で生まれ、すべての人の僕となり、行いと言葉によって神であることを示され、最後に全人類の贖いとなられて十字架にかけられ死んで下さった。しかし墓より3日目に神の力で蘇られました。主を信じる者は誰でも救われますし復活の喜びが受けられ、死んでも主とともに永遠に生きられます。これが変わらぬ主イエスの昨日のお姿です。

【今日】
今日も変わらぬお姿とは。
主は天にあって父なる神の右に坐して私たちを執成してくださいます。
そこから神なる聖霊を遣わして私たちの働きを助けて下さいます。福音が現在も伝えられ飢えている人に食べさせ、囚われている人を解放し、圧迫された人に自由を、病めるものを癒し、主は昨日も現在も変わることなく働いておられるのです。

【永遠】
永遠に変わることなきお方とは。
主イエスが将来は変わられるのでしたら私たちの信仰は益があるでしょうか。私たちはもっとも哀れな存在になります。

コリント人への第一の手紙 15章19 もしわたしたちが、この世の生活でキリストにあって単なる望みをいだいているだけだとすれば、わたしたちは、すべての人の中で最もあわれむべき存在となる。

本当はそうではありません。主イエスは永遠の住いを用意されるために天に帰られました。

ヨハネによる福音書 14章
「1あなたがたは、心を騒がせないがよい。神を信じ、またわたしを信じなさい。2 わたしの父の家には、すまいがたくさんある。もしなかったならば、わたしはそう言っておいたであろう。あなたがたのために、場所を用意しに行くのだから。3 そして、行って、場所の用意ができたならば、またきて、あなたがたをわたしのところに迎えよう。わたしのおる所にあなたがたもおらせるためである。」

主が迎えにくるという主イエスのお言葉を信じる者は、イエスが来られるとき喜びをもって主を見ます。
おして私たちの目からすべての苦しみ、悩み、痛み、死を取り去り給います。主はこの約束を守られます。

この世にいる私たちは変わりますが、主は永遠に変わらないお方ですから、私たちは   主のお言葉を信じられ、十字架の愛のゆえに私たちを救い神の子としてくださいます。
今も主は天国で私たちのために執成して下さいます。御霊の力で歓びで満たしてくださいます。

主は永遠に変わることのないお方ですから将来の問題に答えて、約束された永遠の住いを保証してくださいます。

私たちの主イエス・キリストは、きのうも、今日も、また永遠に変わることのない方です。この主を信じ従いましょう。(おわり)

2012年08月05日 | カテゴリー: ヘブライ人への手紙