2013年7月

2013年7月28日説教「内に塩をもつ」西堀元(はじめ)神学生(神戸改革派神学校)

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2013728日説教「内に塩をもつ」西堀元(はじめ)神学生(神戸改革派神学校)

聖書: マルコによる福音書38-50

38 ヨハネがイエスに言った、「先生、わたしたちについてこない者が、あなたの名を使って悪霊を追い出しているのを見ましたが、その人はわたしたちについてこなかったので、やめさせました」。39 イエスは言われた、「やめさせないがよい。だれでもわたしの名で力あるわざを行いながら、すぐそのあとで、わたしをそしることはできない。40 わたしたちに反対しない者は、わたしたちの味方である。41 だれでも、キリストについている者だというので、あなたがたに水一杯でも飲ませてくれるものは、よく言っておくが、決してその報いからもれることはないであろう。42 また、わたしを信じるこれらの小さい者のひとりをつまずかせる者は、大きなひきうすを首にかけられて海に投げ込まれた方が、はるかによい。43 もし、あなたの片手が罪を犯させるなら、それを切り捨てなさい。両手がそろったままで地獄の消えない火の中に落ち込むよりは、片手になって命に入る方がよい。44 〔地獄では、うじがつきず、火も消えることがない。〕45 もし、あなたの片足が罪を犯させるなら、それを切り捨てなさい。両足がそろったままで地獄に投げ入れられるよりは、片足で命に入る方がよい。46 〔地獄では、うじがつきず、火も消えることがない。〕47 もし、あなたの片目が罪を犯させるなら、それを抜き出しなさい。両眼がそろったままで地獄に投げ入れられるよりは、片目になって神の国に入る方がよい。48 地獄では、うじがつきず、火も消えることがない。

49 人はすべて火で塩づけられねばならない。50 塩はよいものである。しかし、もしその塩の味がぬけたら、何によってその味が取りもどされようか。あなたがた自身の内に塩を持ちなさい。そして、互に和らぎなさい」。

 

【はじめに】

今朝は938節以下から共に御言葉に聞いてまいりたいと願います。全体を一読して、意味が分かりにくかったのではないでしょうか。まとまりのないような言葉がいくつも並んでいるような印象を受けるのです。それですから、まず全体をざっと目を通すことで、見取り図を把握しましょう。

 

今朝の箇所は全体として三つに分かれます。その第一が38節から41節が一つのまとまりです。ただし40節と41節の間に小さな切れ目があります。この38節から41節までは、弟子がテーマになっています。自分と意見が異なる弟子たちに対する態度についての教えです。先週と正反対のことがここではテーマとなります。つまりイエスの名によって拒んでしまうことです。

 

 二番目のまとまりが、42節から48節です。ここでは「つまずき」がテーマです。信仰を同じくする兄弟や、自分自身をつまずかせないことが教えられます。

 

そして3番目のまとまり、これは結論ですが、50節と51節になります。自分の内に塩を持つことが命ぜられます。以上の3つのまとまりから今朝の箇所はなっています。それぞれを順序に従ってみていきます。

 

 【イエスの名によって】

第一番目のまとまり、38節から41節です。ここは細かく分けるなら、38節から40節と41節だけの二つに細分できます。とりわけ前半の38節から40節ではイエスの様の弟子が反対者に取るべき態度を教えています。

 38節「ヨハネがイエスに言った。「先生、お名前を使って悪霊を負いだしている者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました。」」。12弟子のひとりのヨハネが、自分たちと異なるグループが悪霊を追い出しているが止めさせようとした、との報告をイエス様にします。それに対してイエス様は言われます「やめさせてはならない。わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい。」イエスはヨハネの発言をしりぞけます。

 

【自己判断の過ち】

このヨハネには軽率さと性急さがあります。他のグループが悪霊追放をしているのを見て、ヨハネは自分の判断で止めさせようとしました。ヨハネはイエス様がそのことをどう思われているかを、まず尋ねるべきだったのです。

 

【権威独占の過ち】

もう一つこのヨハネの発言には根深い罪が隠されています。それは権威を独占したいという欲望です。ヨハネはイエス様の名前によって悪霊が追放されることを目撃しました。その権威は12弟子に与えられた権威でした。しかしその人たちは自分たちのグループでもないし、自分たちの方法にも従わなかったのです。ヨハネは「わたしたちに従わないので、止めさせようとした」のです。イエス様から与えられた特権を自分たちだけのものとして留めたかったのです。

 

【教派の存在と意味】

ここで求められているのは、キリスト者の集まりの中で、自分と意見が異なる人を受け入れるようにという招きに応えることです。わたしたちは改革派教会に属します。わたしたちは改革派信仰を持って歩んでいます。しかし他の教派も存在するのです。その教派を異にする兄弟たちも同じキリスト者として生きていることを認めるようにとこの箇所は教えます。わたしたちは、わたしたちの教派の中を信仰の確信をもって歩みます。しかしそのことは他の教派を排除することとはつながらないのです。

 

イエス様は「わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの見方なのである」といわれます。キリスト者は神の栄光が、この地上でも、あらわれることを求めて生きます。神の栄光は私を通して現されますが、同時に意見が異なるキリスト者を通しても表されます。他の人を通して、神の栄光が現されることを、イエス様は喜ぶようにと招かれます。

 

 この38節から41節までは名前という言葉が2(原文では3)出てきます。先週のつながりで考えますと、先週はイエスの名によって小さな者を受け入れることを教えられました。今朝の箇所は反対の教えです。イエスの名によって拒むことがあってはならないことを教えます。主の祈りで、「御名があがめられますように」と祈ります。イエス様は、自分と意見が異なる人によって神様が崇められていても、ねたんで退けてはならないといわれています。

 

 あの人が教会で評価されると、心が騒ぐという人がそれぞれにいるのだと思います。人はいつも自分がいちばんでありたいと思うからです。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい」という御言葉はここにもあてはまります。わたしたちに求められることは、神の栄光が現されるために仕えることであって、どの人がいちばん用いられているかという教会の中での順序を競うことではないのです。

 

【もてなし】

そして41節ではかえって、キリストの弟子だという(名前)理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれるものは、必ず報いを受ける」といわれます。弟子はほかのイエスの名前の弟子に対して、水を飲ませることで報いを受ける。一杯の水は、乾燥したパレスチナでは価値ある贈り物なのです。ありあまる中から一杯の水でもあげるのではなく、ほんとうに価値あるものを差し出すことを意味しています。意見が異なる弟子であっても、いやいやにではなく心からもてなしなさいという招きです。

 

【つまずき】

さて2つめのまとまり、42から48節を見ていきたいと思います。ここでは「つまずき」という言葉が4回も繰り返されます。ここでのテーマは「躓き」です。42節は他者をつまずかせること、43節以下では自分自身をつまずかせることです。それぞれに割り当てられている分量を見てください。他の人をつまずかせることには1節だけ、自分の躓きにはその3倍以上の分量です。ほかの人のことよりも、自分に対して厳しくあれということです。自分の目の中にある丸太には気が付かないで、他の人の目にあるおが屑が気になるからです。

 

さて42節「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな挽き臼を首にかけられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい」。小さな者の一人とは、36節の子どものことを直接には指します。子どもを神様の恵みから遠ざける者は罪深いのです。またすべてのキリスト者は小さな者ですから、どんな信仰者でもつまずかせる者は罪深いのです。

 

ここで言われる躓きは、身分が自分よりも下だからといって軽んじる人や、自分自身の満足を求めて、他の信仰者の利益を軽んじることです。信仰者がほかの信仰者をつまずかせる。取りわけ、小さな子どもや、信仰に導かれて間もない人をつまずかせることが罪深いのです。

 

その様な者は、挽き臼、これはロバ引くおおきな挽き臼で真ん中に大きな穴が空いています。その大きな挽き臼を首にかけて、海に投げ込まれてしまえばよい。当時、墓を持たない死に方は不幸な死でした。海に投げ込まれ行方不明の死を遂げるがよいと言われます。神学生である自分の言動を通してつまずかせる方があるのではと私も反省させられます。ここから続いていくイエス様のたとえはとてもグロテスクです。

 

【自分を躓かせる】

43節以下では自分がつまずくなということを教えられます「もし片方の手があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両手がそろったまま地獄の火の中に落ちるよりは、片手になっても命にあずかる方がよい」このあとも「片方の足があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい」「もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出しなさい」体を切ってしまえとまで、非常に恐ろしいことをイエス様は命じられます。

 

イエス様は外科医のようです。わたしのなかで巣くっている病気の原因をえぐり取り、切り捨てなさいと命ぜられます。罪と共に滅んでいくよりは、病気の原因を切り取りなさいと言われます。切り取れば、もちろん血が出ます。この言葉に従って古代キリスト教神学者でオリゲネスは去勢をしたのではと伝えられます。

 

【罪の誘惑を切り捨てよ】

宗教改革者カルヴァンはこういいます「キリストは神の律法に従うために手足を切ることを望まれたわけではない。しかし感覚によって手足が欲望のおもむくままに用いられることよりも、神に従うことの妨げを何であれ切ってしまうことを言うために、大げさな表現を使われた」つまりわたしたちは欲望に任せることで、心が自由にされて誘惑に負けてしまわないように警戒することが求められます。

 

最初の先祖は悪魔の誘惑に会いました。蛇の誘惑にそそのかされて、女が神の禁じられた善悪の木の実を見ると、「その木はいかにもおいしそうだった」のです。女は目で見て、手で取って食べました。そして足で歩いていって、男に手渡します。男も取って食べました。目で見て欲望がおきます。そして歩いていって、この手で罪を犯すのです。わたしたちの罪は心から起こり、この体を通して実際にやってしまうのです。アダムとエバは罪を犯した結果、裸であることを知りました。神に罪を犯すとき、恥を感じるのです。

 

【命を得るために】

イエス様の外科手術には、目的があります。それはわたしたちが命を得るためです。手足を失ってでも「命にあずかる方がよい」「神の国に入る方がよい」といわれるのです。イエス様はこのわたしにもこの外科手術を施されます。それは命に生きるためです。神に従っていくために障害となるものを、少々荒っぽいやり方ではありますが切り取られるのです。

 

これは私にとっては、プライドや健康でした。これまで自分が大切にしていたものを神様はずばっと切り取られます。大切なものであればあるほど、切り取られれれば痛みを感じます。そして切り取られて片手になればかっこうわるいですし、不自由です。しかし、この痛みや恰好悪さがほんとうは必要なのではないでしょうか。

 

【偉大な信仰者でも】

旧約聖書の代表的な信仰者を思い出してみましょう。例えばモーセです。モーセは出エジプトを導いた偉大な指導者でした。しかし彼は一度だけイスラエルの民の面前で大きな罪を犯しました。岩に命じて水を出せと神が命じられたのに、彼は岩を杖でたたきました。不信仰を民の面前で示してしまいました。そのためモーセは約束の地に足を踏み入れることができませんでした。

 

もう一人、イスラエルの王ダビデは、人の妻を奪い、その夫を殺すという姦淫と殺人の2重の罪を犯しました。イスラエルの王が大きな罪を犯しました。ほかにもアブラハムも罪を犯しました。幾人ものイスラエルの代表者が大きな罪を犯しました。

 

【罪を悔いる】

しかし、旧約聖書はこのような神の前のおおきな罪を隠すことをしません。聖書に書かれているのです。今のわたしたちまで彼らの罪が伝えられるのです。しかしけってこのような罪が正直に書かれていることに慰めも覚えます。信仰の代表者たちが失敗をしたからです。しかし同時に彼らは大胆に罪を悔いたのです。罪を言い表すことに立派でした。旧約の信仰者は罪を犯しましたが罪を悔いて、そして罪を神様の前に言い表して生きました。いうなれば自分の恥ずかしさを神と人に隠さずに晒して生きたのです。

 

【地獄の火で焼かれないため】

わたしたちにはそれぞれ神様によって切り取られる所があるのです。それは地獄の火で焼かれないため、神の永遠の裁きに会わないための神の憐れみによる外科手術です。例えば異教の文化の中でいきるなら、当然家族との対立もあると思います。イエス様に従うとき、家族と間の関係で痛みを覚えます。しかしわたしたちがイエス様に従って生きていくときの痛みは、ただの痛みだけでは終わることはないからです。それは命への招きであることを同時に忘れないようにしたいのです。そしてわたしたちの切られた手足は、天国においては完全に回復されるからです。

 

 

【火で塩味を付けられる】

最後に結論の4950節の結論を見て参ります。49「人は皆、火で塩味を付けられる」少しなぞめいた文章ですが、これは犠牲の捧げ物と関係があるようです。レビ記213節に「穀物の捧げ物にはすべて塩をかける」つまりわたしたちが、神様に捧げ物としてこの体を捧げることがイメージされています。穀物の捧げ物が、塩をかけて火に焼かれて、よい香りと捧げ物を神様は受け入れてくださるように、わたしたちは塩と火によって神に受け入れられるために味付けられるのです。

 

ところでここでの塩や火は何でしょうか。カルヴァンは、火とは御言葉であるというのです。わたしもその通りだと思いました。48節にも地獄の火が出てくる。49節にも火が出てきます。それぞれ違う火のようでもありますが、同じ火を指すのだと思います。火とは御言葉です。つまり御言葉はわたしたちを燃やすのです。古い私を御言葉は火にかけます。

 

この御言葉は古い私を断罪して火で焼くのですが、同時に御言葉の火はわたしたちを清めます。御言葉がわたしたちの古い自己の中心に達するとき、その火は燃え上がりわたしたちを裁きます。御言葉の火は古いわたし、肉の私を滅ぼすのです。

 

【自分自身の内に塩を持ちなさい】

しかしこの御言葉の火は燃やして裁くのと同時に、わたしを立たせるのです。御言葉は私を新たにします。この御言葉の火によって与えられるのが、塩なのです。塩は腐敗を防止することができます。塩を汚れた水の源に投げ入れると水が清くなったことが旧約聖書にあります。塩とは御言葉の火によりあたえられるわたしたちの内にある清い心です。この塩によって、心は腐敗から守られ、浄さを守ることができるのです。

 

ですから、イエス様は言われます自分自身の内に塩を持ちなさい」。それぞれの内に御言葉の火による清めとしての塩を持つのです。使徒パウロはこれを発展させてアドバイスして言います「いつも、塩で味付けられた快い言葉で語りなさい。そうすれば一人ひとりにどう答えるべきかが分かるでしょう」コロサイ4:6)。わたしたちは塩で味付けられた言葉を語るように求められています。それは快い言葉です。

 

他の人をさげすんで、傷つける言葉が多い時代です。わたしたちは、互いに塩でもって味付けられた快い言葉、本当に他者を立ち上げる言葉を御言葉に基づいて互いに語ることが求められます。「互いに平和にすごしなさい」イエス様はそれぞれが内に塩を持つことで、愛の言葉を互いに語ることへと招きます。互いに平和に過ごすことは、御言葉による塩によって、汚れた私の心が清められることによって始まります。

 

先週の聖書箇所から振り返るなら、塩味を失わない生き方とは、子どもを「イエスの名」のためにうけいれること(33-37)、そして自分と意見が違う人を追い出さないで「イエスの名」によって受け入れること(38-41)、そして兄弟たちや自分自身をつまずかせないように配慮を怠らないこと(42-48)です。

 

【ただ一人主のみ】

しかしだれ一人完全に御言葉に従いきることはできません。イエス様お一人がこの御言葉に生ききってくださったのです。この方が、わたしたちが受けなければならない罪による恥と地獄の滅びを一身に背負ってくださったのです。罪の誘惑にわたしたちはだれ一人、勝つことはできません。

 

イエス様お一人が罪の誘惑に完全に勝たれました。公生涯のはじめにイエス様は荒れ野で悪魔の誘惑に会われましたが、御言葉によって悪魔の誘惑を退けられます。そして生涯の最後には私に代わってイエス様は最大の恥であり、神の呪いでもある十字架の死を死んでくださいました。そのように十字架の死に至るまで神の御心に完全に従うことで、わたしたちのために永遠の命を代わって獲得してくださったのです。

 

このお方が私たちに代わって御言葉にしたがって歩み通してくださいました。イエスは死に勝利され復活されたお方です。このイエス様の言葉は、勝利である命への招きの言葉なのです。同時にイエス様の言葉は炎です。わたしたちを裁いて焼いてしまう炎とは、イエス様の犠牲のともなった愛の滴る御言葉でもあります。御言葉はわたしたちを刺し貫きますが、それは命への痛みです。命へと招かれるイエスの愛の御言葉に聴き続けたいのです。(おわり)




2013年07月28日 | カテゴリー: マルコによる福音書 , 新約聖書

2013年7月21日説教「いちばん偉い者とは」西堀元(はじめ)神学生(神戸改革派神学校),森田姉庭でばーべQ 昼食会

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2013721日説教「いちばん偉い者とは」西堀元(はじめ)神学生(神戸改革派神学校)。

聖書:マルコによる福音書930-37

30 一行はそこを去って、ガリラヤを通って行った。しかし、イエスは人に気づかれるのを好まれなかった。31 それは弟子たちに、「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する」と言っておられたからである。32 弟子たちはこの言葉が分からなかったが、怖くて尋ねられなかった。

 

33 一行はカファルナウムに来た。家に着いてから、イエスは弟子たちに、「途中で何を議論していたのか」とお尋ねになった。34 彼らは黙っていた。途中でだれがいちばん偉いかと議論し合っていたからである。35 イエスが座り、十二人を呼び寄せて言われた。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」

36 そして、一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて言われた。

37 「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」

 

【イエスは人に気付かれるのを好まれなかった】

今朝は930節以下の続きから御言葉に聞きましょう30「一行はそこを去って、ガリラヤを通って行った。しかし、イエスは人に気付かれるのを好まれなかった。」

「そこ」、といわれる場所は、827節のフィリポ・カイザリア地方のことである。イエスはそこを立ってガリラヤを通られるが、多くの人たちに気付かれることを好まれなかった。それはこれから話すことが弟子たちだけに向けられた言葉であったからである。

 

 31節のおわりに「と言っておられたからである」とある。この翻訳では抜けている言葉があります。それは「教えられた」という言葉である。イエスはただ何となく弟子たちの耳に入ればよいと語っておられたのではなく、はっきりと教えておられたのである。

 

 その内容は何か。31「それは弟子たちに、「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて、三日の後に復活する」と言っておられたからである」イエスは御自身の死のことをはっきりと知っておられた。そしてそれは受難の死であり、聖書に基づいて起こるであろうことを弟子たちに、とくとくと諭し教えられたのである。

 

 【メシア受難預言】

受難の内容は旧約聖書に記されている。一つにはイザヤ書53章が挙げられる。苦難の僕と言われる箇所である。その苦難の僕がイエス・キリストなのである。53章「:3 彼は軽蔑され、人々に見捨てられ/多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し/わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。4 彼が担ったのはわたしたちの病/彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに/わたしたちは思っていた/神の手にかかり、打たれたから/彼は苦しんでいるのだ、と」。

 

そしてもう一箇所はダニエル書7章である。そこには「人の子」という終末にあらわれるメシヤ救い主のことが書かれている。イエスは旧約聖書を基にして、御自身の受難としての死を弟子たちにはっきりと示された。

 

 31節の「人々の手に引き渡される」という言葉は、文字通り読むならば、イエスが弟子のユダの裏切りによって引き渡されたことをさす。ユダによってこの世の支配者たちの手に引き渡され、この世の支配者たちによって有罪宣告を受けることになる。しかし、この「引き渡される」という受け身の表現には、やはり隠された主語がある。それは神であり、神によって十字架へと引き渡されたのである。ローマ832「わたしたちすべてのために、その御子をさえ死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか」

 

 イエスは御自身の死をはっきりと知っておられ、そこに顔をむけてまっすぐに歩まれる。イエスの十字架での死は偶然でも失敗でもなく、天におられる神の御心の成就である。

 

 【怖くて尋ねられなかった】

しかし、このときイエスから教えられた弟子たちはどうであったか。32「弟子たちはこの言葉が分からなかったが、怖くて尋ねられなかった」とある。弟子たちはこれから起こるとをうっすらと分かっただけであった。そして怖くなってしまった。なぜならイエスの十字架の死はただ残酷だけでなく、その残酷さは自分たちに原因があることを示されるからだ。十字架の直視は、自分の醜さと残酷さの直視となる。このことに人は耐えられない。だから弟子たちはこれ以上尋ねることはできなかった。

 

そのようにして旅を続けた一行は、ガリラヤを抜け、カファルナウムに到着した。カファルナウムとは福音書の初めから登場する町で、イエスの伝道の拠点であった。

 

【だれがいちばん偉いのか】

さて、イエスは弟子たちに何を議論していたのかとお尋ねになる。しかし、弟子たちは返答に窮してしまう。なぜなら、彼らの議論していたことはだれがいちばん偉いのかという内容だったからである。だれがいちばん偉いのかという議論はこれまでのイエスの教えに明らかにそぐわないものであったからだ。

 

イエスは弟子たちの心を知っておられた。イエスは「人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る」(サム16:7)のである。そして弟子たちに自分たちの愚かな思いを振り返らせるため、イエスはあえて問われたのである。

 

弟子たちは誰がいちばん偉いのかという議論をしていた。「だれがいちばん偉いのか」よりも「だれが、より、偉いのか」というのが直訳である。弟子たちの中で順番をつけようとしていたのである。この種の議論は、この世ではよくあることである。しかしこの議論は弟子たちの中、教会の中で起こったのである。しかもイエスが十字架へと向かっていくその緊張の中で起こった。終末が近づいている緊張の中、弟子たちは愚かにも順番にこだわったのである。

 

イエスは弟子たちの心を調べられる。人の心は何にもまして、とらえ難く病んでいる。誰がそれを知り得ようか。心を探り、そのはらわたを究めるのは、主なるわたしである。」エレミヤ17:9-10)。イエスによって心を調べられるなら、弟子たちは黙るしかない。人は皆罪人で、神に心を問われるなら自分の罪を前にして沈黙をもって答えるしかない。

 

【誰がいちばん偉いか】

弟子たちは主イエスの十字架の受難の予告のあと、すぐさま自分たちの序列を議論し始めた。イエスの教えがあっという間に蒸発してしまったのである。人は不快なこと、十字架を見続けることができない。弟子たちはそれほどに移り気で、薄情であり、なにより不信仰である。

 

 さて彼らが議論していたのは、より誰が偉いかという、人を押しのけて上昇していくことである。上昇志向はその裏に、劣等感が潜んでいることがある。人をうらやむ気持ちには、神が与えてくださったすべての賜物を喜ばない思いが潜んでいる。神からのすべての賜物には弱さも含まれる。弱さや欠けを覚えることが、つらいことではあっても、ほんらい主に頼ることを学ばせる大切な機会だからである。弱さを受け入れないことと、上昇志向はつながっている。

 

この弟子たちをイエスは呼び寄せられる。35「イエスが座り、十二人を呼び寄せて言われた」座って教える姿は、山上の説教でも見られ、権威を表す。そして権威ある声で弟子たちを御許に呼び寄せる。

 

イエスの弟子たちへの教えは衝撃的である。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい」。「いちばん先」という語は、聖書の他の箇所で「いちばん上」(マルコ10:44)、とか「指導者」(ルカ19:47)と翻訳される。

 

いちばん上になりたい者、いちばん先になりたい者は、しんがりを歩み、すべての人に仕えよと命ぜられる。このイエスの教えは、価値観の転倒、考え方の上下の入れ替えを求める。そして考えのみならず、生き方の転倒まで求められる。本当に知ることは生き方が変えられることである。イエスの発言は思い上がる者をくじき、惨めな者に自由と回復を与える言葉である。

 

上の者になろうとする弟子たちに、ここで謙遜に生きることが提示さる。しかし謙遜に生きることを自らの力で生きようとすることは傲慢である。ただ神の憐れみに生かされることにより、謙遜はただ上から贈り物として神から与えられる。

 

これまで弟子たちは、すべてを捨てて従ってきた。ペトロは少し後の箇所でいうこのとおり、わたしたちは何もかも捨てて従って参りました」。確かに彼らは、家、兄弟、姉妹、父、母、子ども、畑を捨てて従ってきた。しかし弟子たちの熱心が、彼らの高慢や出世欲と結びついた。神に仕える者が、われこそ誰よりも熱心であるというときほど鼻持ちならない者はない。我こそはという独りよがりの熱心が、同じ兄弟を見下して裁くことになる。

 

【子どものようになれ】

イエスはその時、一人の子をみそばに呼ばれる。36節「そして、一人の子どもの手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて言われた」。イエスは子どもを真ん中に立たせる。そして言われる。子どものようになれと。私たちはすでに大人になっているのであるが、子どもになれと言われるのである。ある説教者はいう「富を捨てよと、イエスが青年に言われた。それと同じように、このときのイエスは、弟子たちに大人を捨てよと、言われた」と。つまりイエスは弟子たちに大人としてのプライドを捨てよという。これほどまで献身して歩んできたという誇りや、業績を捨てよといわれる。

 

ここでの子どもとは、罪がない存在としての子どもということではない。人は誰もが生まれながらに子どもであっても罪がある。イエスが子どもを評価されるのは、その単純さ、素朴さ、そして何よりも低さである。子どもは名誉やプライドに執着して生きることをしない。マルコにはなくマタイであるが「自分を低くして、この子どものようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ」とイエスは言われる。   イエスは子どもの低さを愛された。低くして子どものようになる人が天国でいちばん偉いのだと。子どもは自分には助けがなければ生きられないことを知っている。弟子たちも子どもと同じく神に頼らなくては生きられないことを示される。

 

イエスは言われた「私の名のためにこのような子どもの一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、私をお遣わしになった方を受け入れるのである」。子どもを受け入れる人は、イエスを受け入れる。イエスを受け入れる人は、遣わされた父なる神を受け入れるのである。

 

【炊き出しの列にならぶイエス】

ホームレスが配給を待つために列になって並んでいる絵(フリップ・アイヘンバーグ)がある。夕暮れにくたびれた年老いた男女が、うつむき加減で、一列になって配給を待っている。絵からは並ぶ人たちが沈黙して並んでいることが伝わってくる。厚着をしているのでさむい冬だろう。わたしはこの絵を初めて見たときはっとさせられた。イエスがどこにおられるのかということについてだ。イエスは炊き出しを出すボランティアのなかで奉仕しているのだろうか。そこにはイエスはおられない。なんと!イエスはホームレスと共に列に一緒に並んで配給を待っている。その絵のタイトルは「炊き出しの列にならぶイエス」というタイトルである。

 

イエスはどこに立っておられるのか。低くされた所におられる。最初に見たイザヤ書53章の苦難の僕は、ギリヤ語訳聖書では僕のことを今日の箇所の「子ども」という言葉で扱っている。またイエスの話されたアラム語では「僕」と「子ども」という言葉が同じであるそうだ。イエスは子どもと自分のことを同一視され、低くされた子どものような僕としての御自身を示される。

 

【子どもを受け入れる者】

イエスと弟子たちが議論したのは「家」である。この家とは、ペトロの家のことである。ペトロの家でイエスは集まった子どもの一人の手をとられた。ひょっとするとペトロに子があれば、彼の子どもだったかもしれない。カファルナウムの小さな町で、いずれにせよ、弟子の誰かの近親者だったろうと思われる。その子にイエスは目を留められた。当時子どもの話に耳を傾けるのは時間の無駄だと言われていた。その様な無視されていた小さな存在にイエスは目を留められた。

 

子どもを受け入れる者はイエスを受け入れるといわれた。文字通り受け取るなら、すべての子どもを受け入れているものたちへのイエスの祝福の言葉である。それは両親たちであり、子どもを預かるものへの祝福である。

 

イエスは小さく低くされたものを受け入れるように招かれる。これは私たちの生来の目は大きいものに注がれがちだからです。だから小さなものへ目を向けよと招かれる。しかし忘れてはいけないことは、「わたしの名のために」という言葉である。イエスの名のためにとは、イエスの支配によってということである。もしイエスの名によらないなら、人は小さな者を受け入れることで、反って逆に自分自身が大きくなり、自分を誇り始めるからである。

 

いちばん偉い者とは誰か。イエスは極みまで遜って、謙遜であられた。イエスは子どもの低さを愛された。地上で誰よりもいちばん低くなられたのはイエスではなかったか。受難予告はマルコにおいて3度ある。弟子たちは予告の繰り返しでこれから起こることを少しずつ理解する。しかし3度とも弟子のピントはずれてしまい、イエスの思いはくみ取られない。

 

【人の子は仕えられるためではなく仕えるために】

3度目の受難予告の後、栄光を勝ち取られたイエスの左右の座に座りたいとヤコブとヨハネは言う。その願いは退けられて、イエスは言うそこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。『あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。 しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、 いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである』」。

 

【世の支配者と主イエス】

この世の支配者は自分の思いによってこの世を支配する。この世の力ある英雄たちは、力によってこの世界を結局は駄目にする。彼らは国々を力によって自分自身のために征服するが、そのことによって自分自身を惨めな者にする。しかしキリストはこの世の国々を同じように征服し、その地はキリストが支配されるところとなる。その地に住むもの、神の国に住む者は必ず幸福になる。なぜなら神の国は力ではなく、神の愛と神の正しさによって支配されるからである。

 

さらにイエスはこのような我々の罪のために命を捧げてくださった。そして神が人となって、そして仕えてくださった。この世の物語では人が神となる。聖書はあべこべであり、神が人に仕えるために、また命を我々に変わって献げるために来られたことを説く。人知を超えた神の一方的な愛が我々に注がれている。

 

【キリストに倣って】

だからローマ書でパウロは弱い兄弟を受け入れよという。それなのに、なぜあなたがたは、自分の兄弟を裁くのですか。またなぜ兄弟を侮るのですか」。キリストは私だけのためでなく、我々の兄弟姉妹のためにも命を献げられた。イエスは言われる「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのです(10:45) 。だから私たちは互いに受け入れ合うのである。

 

キリスト者すべては聖霊によってキリストが宿っていてくださる宮である。キリストはどんなに見劣りする兄弟にもおられる。だからその人を私たちは重んじなければならない。その人を重んじないならば、そこに宿られるキリストを拒むことになるのだから。私たちはともに教会で互いに受け入れあい歩める恵みに感謝を覚える。(おわり)

 

2013年07月21日 | カテゴリー: マルコによる福音書 , 新約聖書

2013年7月14日「信なき我を助けたまえ」西堀元(はじめ)神学生

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2013714日「信なき我を助けたまえ」西堀元(はじめ)神学生

 

聖書:マルコによる福音書914-29

14 一同がほかの弟子たちのところに来てみると、彼らは大勢の群衆に取り囲まれて、律法学者たちと議論していた。15 群衆は皆、イエスを見つけて非常に驚き、駆け寄って来て挨拶した。16 イエスが、「何を議論しているのか」とお尋ねになると、17 群衆の中のある者が答えた。「先生、息子をおそばに連れて参りました。この子は霊に取りつかれて、ものが言えません。18 霊がこの子に取りつくと、所かまわず地面に引き倒すのです。すると、この子は口から泡を出し、歯ぎしりして体をこわばらせてしまいます。この霊を追い出してくださるようにお弟子たちに申しましたが、できませんでした。」

19 イエスはお答えになった。「なんと信仰のない時代なのか。いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか。その子をわたしのところに連れて来なさい。」

20 人々は息子をイエスのところに連れて来た。霊は、イエスを見ると、すぐにその子を引きつけさせた。その子は地面に倒れ、転び回って泡を吹いた。

21 イエスは父親に、「このようになったのは、いつごろからか」とお尋ねになった。父親は言った。「幼い時からです。22 霊は息子を殺そうとして、もう何度も火の中や水の中に投げ込みました。おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助けください。」

23 イエスは言われた。「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる。」

24 その子の父親はすぐに叫んだ。「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」

25 イエスは、群衆が走り寄って来るのを見ると、汚れた霊をお叱りになった。「ものも言わせず、耳も聞こえさせない霊、わたしの命令だ。この子から出て行け。二度とこの子の中に入るな。」

26 すると、霊は叫び声をあげ、ひどく引きつけさせて出て行った。その子は死んだようになったので、多くの者が、「死んでしまった」と言った。

27 しかし、イエスが手を取って起こされると、立ち上がった。

28 イエスが家の中に入られると、弟子たちはひそかに、「なぜ、わたしたちはあの霊を追い出せなかったのでしょうか」と尋ねた。

29 イエスは、「この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことはできないのだ」と言われた。

 

【光を求める草木】

今朝も御言葉に共に聞いてまいりたいと願います。西谷では草木を沢山見かけます。わたしはほとんど草木の名前が分からないことを残念に思います。沢山の種類の草木があるわけですが、どれも一つの共通点があるのだと思います。それはどの草木も光を求めるということです。木は光に向かって枝を伸ばします。木が光を受けようとするのは、木として当然のことだからです。もしも光がないのなら木は枯れていってしまいます。

 

【人にとっての光】

 そこで考えたいのは人間にとってこの木の光に当たるものが何であるかということです。それが今日ともに考えていきたいことなのです。それは祈ることです。祈りが人にとって生命的に重要だからです。木にとって光がなければ枯れてしまうように、人は祈ることがないのなら死んでしまいます。あるキリスト者が次のようなお話をしています。

 

 「ある無神論者がいました。その人は大学で助手として仕事を手伝っていた男の人です。その人はキリスト者の大学の先生の手伝いをしていました。無神論者の人は年配の人であったようですが、よくこう言っていたそうです『先生の信仰というものは、結局は苦しいときの神頼みにしか過ぎませんね』というふうにあざ笑うわけではないけれども、信仰についてある距離を置いていました。そして無神論者のお子さんが病気になったときに困っていました。そこでそのキリスト者はよい病院を紹介してあげましたが、いよいよ手術をすることになりました。本当にそのお医者さん以外には、実際にそのお子さんの病気を治す人はないのです。

 

 ですから極端なことを言えば、お子さんが手術室に入られた以上は、あとは無神論者の人も先生も何もすることができないので、相撲の放送を見ていてもよいし、どこかにコーヒーを飲みに行ってもよいわけです。しかしその方は、ジーット手術室の前に座り、ジーットこう手をお祈りするときのように結んで、そしていいます『先生、わたしはこんなふうに祈るということをしたことがないのです。けれども、本当にわたしの命で代わることができるのなら、代わって子どもを助けたい、そう言って祈ってもいいのでしょうか』と。先生は肩をたたいて「わたしもお祈りします。それでよろしいのですよ」と言って時間がなかったために場所を後にしました。そして寒い廊下を歩くとき振り返ると、その人はジーット祈る姿をし続けていました」。

 

 【祈りは人の本分】

木々が光を求めるように、人にとって祈りは本質的なものです。なぜなら人の力には限界があり決して届かないところがあるからです。普段、何事もないときは自信に満ちて生きてはいても、本当の私たちはとても弱い存在です。私たちには出来ることはとても限られています。私たちは神様の御手に信頼して祈るのです。御手に委ねることを知っていることは人間であることの証の一つです。

 

【悪霊に取りつかれた息子の父】

 さて、今朝の箇所ではある父親が息子の命のために助けを求めてやってきますが、助けが得られないことから始まります。幼いときから悪霊に取りつかれて、生命の危機にある子どもが弟子たちの所に連れられてくるのです。マタイとルカによる福音書の平行箇所によりますと、この息子は一人息子であって、てんかんを煩っていたことがわかります。

 

 作家の大江健三郎さんは、脳に障害をもつ息子さんと共に歩んでこられました。ある講演でこう言われます。「障害のある子どもには、毎年のように新しい困難が出てくるものです。それを乗り越えていく喜びもありますけれども。ですから、あれだけ困難があってしかも彼は生き延びてきたということを私どもは喜んでいる」お子さんには、てんかんの発作があります。それに対してお子さんは自分のことをこう書いています。「発作が起こりました。僕は唸っていました。僕はもうだめだ。二十年も生きちゃ困る」と。この言葉は憂鬱にさせたと自分たちの生活の苦しさと苦労を隠さずに率直に述べておられます。

 

【苦しむ子どもを前にして議論】

大きな病気によって苦しむ子どもと共に歩むことはどれほど困難なことでしょうか。そして周りの無理解や無関心にどれほど心くじかれることだろうかと思います。苦しむ子どもを前にして、イエス様の周りには、群衆と律法学者そして弟子たちがいました。彼らは議論していたとあります。苦しむ子どもを前にして議論しかできないのです。弟子たちは無力でした。その議論とは、弟子たちがどうしてこの子供を癒すことができないのかということについてです。苦しんでいる親子を蚊帳の外にして、群衆たちは誰の責任かと議論しています。

 

ここでの群衆は野次馬であって、自分たちの興味関心に流されています。群衆は無責任なのです。また律法学者もいました。彼らも苦しむ親子を前にして議論をしているのです。これは今なすべきことではありません。必要なことをはき違えていると言うことができるでしょう。そこにはさらに弟子たちがいました。しかし弟子たちは無力です。苦しむ子どもと助けを求める父親を前にして何もできないのです。イエス様の名前によって生きているはずの弟子たちが無力なのです。律法学者たちは弟子たちを馬鹿にして、さらにイエス様をけなしていたに違いありません。

 

そしてこの状況はただこのときのイエス様の弟子たちだけのことではないのです。私たちの時代も暗闇に包まれています。そして私たちの所に、教会に来れば何とかなると思って、連れられてくる、また自分からいらっしゃる方もいるのです。それでもその困難な問題を前にして私たちはたたずんでしまう。そしてその方たちを失望と悲しみの中に取り残してしまうことが人ごとのようには思われないのです。これはイエス様のお名前を損なうことになるのだと思います。このときの弟子たちと律法学者や群衆とを分ける違いは何であったはずでしょうか。それは、つまり弟子たちは助けはどこから来るかを知っているという一点です。人は誰もこの苦しむ親子を助ける力は持ち合わせてはいません。ただ弟子たちだけは頼るべきお方を知っているはずなのです。しかし残念なことにこのときの弟子たちはいちばん大切な頼るべきお方のことを忘れていました。神様を信頼することをどこかに置いてきてしまったのです。

 

 今朝の主人公の親子は、誰も助けることの出来ない困窮の中にありました。これまで誰も癒すことが出来なかったのです。これまでに父親は息子をさまざまな医者のところへ連れて回ったことでしょう。そして最期には評判のイエス様の弟子のところに連れていったのです。それでも駄目でした。万事休すという所ですが、まだ連れて行っていないお方がお一人だけいたのです。それはイエス様の御前です。

 

 【おできになるなら】

父親はイエス様の所に息子を連れてきました。子どもは引きつけを起して緊急事態が発生しています。それでも父親のお願いの仕方は、疑いながらです。「おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助け下さい」。しかしその救助の求めにはある限定が含まれています。直訳すると「もしあなたが、何か、おできになるなら」というのです。ここにあるイエス様への期待は、ある種のためらいが含まれています。期待しつつも、全幅の信頼を寄せてはいません。なぜならこの父親はこれまで、期待をしては、期待が裏切り続けられてきたからです。ですからこの父親はある留保を保ちつつイエス様にお願いをするのです。きっとまた駄目じゃないだろうか、期待もそこそこにしておこうと思っていたことでしょう。

 

 その父親にイエス様は問い返されます。「「できれば」と言うか。信じる者には何でもできる」、イエス様の痛烈な問い返しです。「「できれば」というか」、とは「あなたはわたしを信じているのか」と言う、野球でいえばまっすぐなピッチャー返しのような質問です。イエス様は問いをまっすぐに父親へ投げ返されます。ぎくりとする質問をイエス様は父親に向かって問い返されます。あなたはわたしだけを信じるのか。あなたはわたしだけにしか救いはないと信じるのかと。

 

 【救われるべき名はキリストの他にない】

日本人の一般的な信仰はよく山登りにたとえられます。「分け登る麓の道は多けれど同じ高嶺の月をこそみれ」。これを信仰に置き換えてどのような信仰でも結構であって、何でもよいから信じてさえいれば山の頂上に到達できると言うわけです。

 

 しかしキリスト教はあくまでこれとは正反対のことを主張してきましたし、主張するのです。キリストのお名前だけが私たちを救うことが出来るのです。「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです」(使徒4:12)

 

 十字架と復活のキリストこそ私たちを救うただ一つの御名です。このわたしの罪のために十字架について下さったお方です。ですからイエス様は父親に対して、キリストにしか救いはないことを信じるのかと問われるのです。この父親や私たちが求めるさまざまな救いは山登りのようにいくつかの方法があります。その方法の中には自分で自分を何とかしたいと思う、自力救済があります。ここでイエス様は自分がほんとうに無力であることを認めなさい。私のほかには救いはない、強がりを捨てて武装解除しなさいと招かれるのです。自分の弱さを認めること、無力であることを認めることは人にとって困難なことです。自分で自分のことは何とかしたい。ここからは先はどうしても触れて欲しくない所があるからです。しかし使徒パウロは言います。「わたしは弱いときにこそ強い」と。私たちの周りにある困窮は、私たちが無力であることに徹し切れていないことに原因があるのであって、キリストは私たちに自分を明け渡すことを求めておられます。

 

キリストの前に出て弱さを告白することを拒むことは私たちの罪のあらわれの一つです。『「できれば」と言うか』。キリストの他に救いの道はないことを認めなさいとイエス様は愛を持って痛烈に心の奥底にまで響く声で問い返して下さったのです。これはイエス様の愛から出たまっすぐな言葉です。この親子が滅んで欲しくはないからです。突き刺すような言葉が、この父親の目を覚まさせるために必要だったのです。

 

そして同時にイエス様はこの父親に問いかけたのでした。「信じる者には何でもできる」。これはとても重たい言葉です。わたしはいくらかは信仰を持って生きているはずだという土台が崩される言葉です。木っ端みじんに父親の土台を崩す言葉です。なぜなら父親は何もできないからです。自分自身がこの言葉によって調べられるなら、自分のうちに信仰と呼べるものは何もないことを知らされます。わたしは無力であり、何もなすことができない。わたしはただ困窮の中にあるのです。「信じる者には何でもできる」と言われるならば、自分はただ空っぽであること、不信仰であることを告白しなければなりません。このイエス様の言葉は私たちがあぐらをかいて座っている土台を切り崩します。

 

【信なき我を助けたまえ】

ですからこの父親は叫ぶのです。「信じます。信仰のないわたしをお助けください」と。父親は自分には信仰と呼べるようなものは、自分のうちにないことを告白せずにはおれません。不信仰なわたしなのです。自分で自分を救う力は全くないのです。これは論理的には矛盾しているようですが、父親は同時に「わたしは信じます」と叫びます。ある写本ではここが「泣きながら叫んだ」となっています。私たちの聖書ではそうは読みませんが、このときの父親は泣いていたという読みかたの思いが分かります。整って行儀よくイエス様の前に出るのではなく、悔いくずおれて泣きながらイエス様の前に出るのです。

 

父親はイエス様に向かって全面的に必死になって自分を明け渡すことを告白するのです。父親の心の奥底からの救いを求める叫びこそ、ほんとうの信仰の告白に違いないのです。父親の中には信仰と呼べるようなものはありません。ですからこの父親の告白は神様から一方的に贈り物として与えられたものです。困窮の中、心の奥から絞り出す、イエス様に向かって助けを求めるこの叫びこそ真実な信仰告白と呼べるのです。これは教理問答のようにきちんと整った言葉ではありません。しかしこれは真実な信仰のありかたを凝縮した告白です。

 

細かいことなのですが、ここで父親は「信仰のないわたしを助けてください」といったときの「助けてください」は文法的に「助け続けてください」という言葉です。最初はただ子どもの癒しだけが父親の心にあって、それはただ一回子供を癒していただければという求めだったのです。それが変化して、父親はこれからずっとイエス様に自分を助けていただきたいと、自分の存在をイエス様に委ねきっています。ただ一回限りのイエス様との関係ではなく、救いとは永遠にこのイエス様にしっかりと結びつけられることだからです。

 

【悪霊を追い出すイエス】

この告白の後、イエス様は子どもから悪霊を追い出されます。弟子たちの言うことは聞かなかった悪霊がイエス様の言われることには聞き従うのです。この悪霊に対して弟子たちが力を用いることが何故できなかったのでしょうか。イエス様はおできになりました。この違いは神への信仰、神への信頼の違いです。弟子たちは不信仰だったのです。弟子たちよりもむしろ悪霊の方が神様はどのようなお方か知っているのでしょう。しかし悪霊は神がどのようなお方かは知っていても、悪霊は神をまったく信頼していないのです。今朝の箇所での問題は信頼についてのことなのです。

 

弟子たちが悪霊を追いだして癒すことが出来なかった理由を見てきました。それは信頼の欠如、つまりイエス様の言葉では「不信仰」です。イエス様は弟子たちだけになったとき、悪霊を追い出せなかった理由を尋ねる弟子たちに教えて下さいました。「この種のものは祈りによらなければ決しておいだすことはできないのだ」と、イエス様は祈りをすすめられます。祈りとは神様に向かって私たちが心を開き交わることです。冒頭に無神論者であっても祈ることをすることをみました。人は極限に追い詰められれば祈らざるを得ないのだと思います。

 

【なぜ人は祈るか】

なぜ人は祈るのでしょうか。それは創世記によると人が神のかたちに造られているからです。私たちは神との交わりの中に創造の初めから入れられるように造られているからです。だから祈ることは人にとって当然のことなのです。神と共に生きることが人にとって当たり前のことだからです。困ったときは勿論ですが、いつでも祈るように神様は招いておられます。

 

【愛なる神】

それでも私たちは自分の祈りが聞かれているのかどうかが不安になることがあるのだと思います。神様はいるのか。神はおられても無力ではないか、と3・11以降のわたしたちは思います。また神はおられて力があっても、その神様は無慈悲なお方ではないかと。しかし聖書は言います。「神はその独り子をお与えになったほどに世を愛された。それは独り子を信じる者が一人も滅びないで永遠の命を得るためである」と。神はひとり子を犠牲にされるほどわたしを愛してくださるのです。

 

このような大きな愛があるのですから、私たちには、聞かれていないように思える祈りがあるとしても神様は必ず聴いていてくださることを信じます。有限な私たちには理解できないことがあるからです。父親の信仰の始まりは、同時に子どもへの癒しの訪れでした。父親が助けを求めた叫びから家族の回復が始まりました。イエス様の御許にわたしたちの唯一の避け所があります。イエス様は破れを持つまま一緒になって自分のところへと来るように招かれます。イエス様こそ私たちの体と心全体の癒しと、まことの信仰の源であられるからです。イエス様は私たちも招いてくださいます。「その子をわたしの所へ連れてきなさい」。(おわり)

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2013年07月14日 | カテゴリー: マルコによる福音書

2013年7月7日説教「主イエスの変容」西堀元(はじめ)神学生(神戸改革派神学校)

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201377日説教「主イエスの変容」西堀元(はじめ)神学生(神戸改革派神学校)                                

聖書:マルコ9213新約聖書

2 六日の後、イエスは、ただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、3 服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。

4 エリヤがモーセと共に現れて、イエスと語り合っていた。

5 ペトロが口をはさんでイエスに言った。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」

6 ペトロは、どう言えばよいのか、分からなかった。弟子たちは非常に恐れていたのである。

7 すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。「これはわたしの愛する子。これに聞け。」

8 弟子たちは急いで辺りを見回したが、もはやだれも見えず、ただイエスだけが彼らと一緒におられた。

9 一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことをだれにも話してはいけない」と弟子たちに命じられた。

10 彼らはこの言葉を心に留めて、死者の中から復活するとはどういうことかと論じ合った。

11 そして、イエスに、「なぜ、律法学者は、まずエリヤが来るはずだと言っているのでしょうか」と尋ねた。

12 イエスは言われた。「確かに、まずエリヤが来て、すべてを元どおりにする。それなら、人の子は苦しみを重ね、辱めを受けると聖書に書いてあるのはなぜか。

13 しかし、言っておく。エリヤは来たが、彼について聖書に書いてあるように、人々は好きなようにあしらったのである。」


 

(説教要約 文責近藤)

今朝はマルコによる福音書9章から、御言葉に聞いてまいりたいと願います。2節に「六日の後」にとありますが、これは8章の27節以下にありますペトロの信仰告白、そして続くイエス様の受難と復活の予告があってから六日たった、つまり一週間後ということです。今朝の御言葉は、イエス様が3人のお弟子、ペトロ、ヤコブ、ヨハネを連れて高い山に登られたことから始まります。

 

【イエス様の3人の弟子】

 イエス様はこの3人の弟子を究めて大切な機会に、伴われて出かけられました。535節以下には、会堂長ヤイロの娘の復活にイエス様が同じ三人の弟子を連れられたことが記されています。また14章の32節以下で、ゲッセマネの園で祈られるイエス様は、同じ三人をお近くに連れて行かれました。この三人を連れて行かれるときは、イエス様の秘密のベールが取り除かれるときといって良いでしょう。それは今日の箇所も同じです。出来事の秘密性を強調するために「ただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけ」を加えているのです。

 

 そもそも何故3人だけなのでしょうか。これは旧約聖書にあります出来事の証人としての必要な人数だからです。(申命記17:6)重大な証の出来事に必要な最低限の人数をイエス様は連れて行かれました。

 

 そのようにして高い山に、イエス様と3人の弟子たちは登ります。この山は伝統的にタボル山といわれていますがそれが事実であったかは定かではありません。

 

【山の上での出来事:イエスの姿が変えられた】

 2節後半「イエスの姿が彼らの目の前で変わり」から8節の終わりまでが山の上での出来事です。ここには二つの特徴があります。一つはイエス様が行為の主体になられないことです。イエス様はここでひとこともお語りになりません。イエス様の方から行動を起こされないのです。私たちの新共同訳聖書では「イエスの姿が彼らの目の前で変わり」とあるので、イエス様が動作の主体であるようにおもわれますが、そうではありません。原文では受動態の動詞が使われていて、直訳すれば「彼らの面前で姿が変えられた」となります。はっきりと書かれていないですが、主語は神です。神によってイエス様の姿が変えられたのです。

 

 【それは3人の弟子の為に】

第二の特徴はこの出来事は弟子たち三人のために起こったのだということです。彼らのために、彼らの目の前でイエス様の姿が変えられました。雲の中から神の声が「これはわたしの愛する子。これに聞け」と響きました。この声も神がイエス様を彼らに紹介するための声です。

 

 二つの特徴をまとめますと、山の上での出来事のねらいはイエス様が誰であるかを弟子たちに示しているということです。しかもイエス様は受け身ですから、教えるのはイエス様ではなくて神です。

 

 さてこの時のイエス様のお姿は3節にあるように「服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。」のです。光り輝く栄光のお姿でした。このイエス様の衣の輝きは天に属するお方であることを意味します。イエス様の復活なさったとき墓にいた天使たちの衣も白色でした。

 

 そこにイエス様の天に属する者であることをさらに示すこととして、エリヤとモーセがそこにあらわれました。モーセは律法をあらわし、エリヤは預言者を代表しています。この二人によって旧約聖書の全体を表します。イエス様はこのモーセとエリヤと語り合っておられます。その内容はルカによる福音書の平行記事から分かります。「二人は栄光に包まれて現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた」のです。(ルカ9:31) 今朝のマルコの記事では語られる内容には注意が払われていなくて、エリヤとモーセと話しているイエス様が天に属するお方であられることに注意を促します。

 

 さてその様な栄光に包まれているイエス様にペトロが口をはさみます。5節「先生、わたしたちがここにいることはすばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」ここで栄光に包まれているイエス様に対してペトロは声を掛けることが出来たということに私たちは慰めを覚えます。ふつう人は権威や力を持てば、その人に容易に近づきがたい印象や権威による圧力を与えます。しかしここでのイエス様は天的な栄光に包まれて光り輝いているにもかかわらず、それでもペトロが声を掛けることの出来るお方でした。

 

【ペトロの間違い】

 さて注目したいのはペトロの発言です。ルカの平行記事では、このとき弟子たちは「ひどく眠かった」とあり、口語訳では「熟睡していた」とあります。どちらとも訳せる言葉です。眠ってしまっていたか、ひどく眠かったか、いずれにせよペトロがここで答えた言葉は、目覚めていながらも寝ている、寝言のような愚かな言葉なのです。

 

 その間違いは、第一にペトロはイエス様を、モーセやエリヤと同列に扱っていることです。仮小屋を「一つはあなたのため、一つはモーセのため、一つはエリヤのため」という言葉からイエス様を、人間にすぎないモーセとエリヤと並べる過ちを犯しています。宗教改革者のカルヴァンはただの人間をイエス様と同格に扱うことを偶像崇拝の始まりとして厳しく退けています。

 

 第二にペトロは神の栄光を自らの手の内に握りしめようとしたことです。ペトロは言いました「先生、わたしたちがここにいることはすばらしいことです」ペトロは自分が今ここに居合わせたことはとてもすばらしいことだと思ったのです。ペトロは味わった天的な喜びを引き留めておこうとして「仮小屋」つまり天幕をここに建てましょう、と提案するのです。小屋を建てることでペトロは天の栄光を地上に、自分の手によって引き留めておこうと願ったのでした。人は神の栄光を自分の力で持つことも離すことも出来ません。神の栄光はただ神のものだからです。

 

 さらに第三の間違いはペトロが神の栄光に酔うことで自分の責任を忘れたことです。ペトロはイエス様の圧倒的な栄光を自分が見ることを許されたことで有頂天だったのではないでしょうか。たった三人だけをイエス様は伴われました。イエス様には弟子たちに特権意識を与えるつもりはなくとも、この状況からペトロはほかの弟子たちに対する優越感と神の栄光を見る事への陶酔を味わったはずです。ある聖書注解者はいいます「わたしたちにとって出来事が順調であるとき、私たちは他者に対して心がそぞろになりがちである。そしてわたしたちが喜びに満たされているとき、私たちに負わされている重荷を、その喜びは忘れさせてしまう」と。

 

 【山の下では】

来週に取り上げたいと思っています914節以下の記事は、山を下った弟子たちが直面する問題です。弟子たち三人が山の上で栄光のイエス様に出会っているとき、山の下で残された9人の弟子たちは、霊に取り付かれた子供のことで取り乱し困窮の中にありました。山の上での栄光と、山の下での困窮がとても対照的です。

 

 私たちも礼拝において神様に出会い、御言葉に養われ恵みを頂きます。しかし同時にここに集うことが出来ない困窮の中におられる方たちにも心を配りたいと願います。救いのことを知らずに苦しんでいる方は、本当に多いのです。私たちの喜びを、自分のものとして留めて恵みを個人のものとしてしまう弱さから、解き放たれたいのです。どのようにすれば恵みを配ることの出来る人へと変えられるのでしょうか。続けてみてまいります。

 

 【神様の臨在を示す雲】

自分のうちに恵みを独占しようとしたペトロに対して、神の介入がありました。ただ神の介入によって私たちは自己中心の思いから解き放たれます。7「すると雲が現れて彼らを覆い、雲中から声がした」のです。雲とは神の臨在の象徴です。モーセがシナイ山に十戒を頂くために登ったとき、そこには雲が満ちていました。またソロモンが神殿を建立したとき神殿に雲が満ちたのでした。このように雲とは神の臨在のしるしです。

 

 私たちは神を見ることは許されていないのです。神を見るとき人は死ぬのです。ですから神は人を滅ぼさないために、御自身を表されるとき、同時に雲によって御自身を隠されるのです。カルヴァンはこのようにいいます「一言でいうなら、この雲は私たちに対する"くつわ"の役割を果たす。私たちの好奇心を不当な気まぐれのうちに甘やかすべきでないからだ。弟子たちも以前の自分たちの状態に戻るべきであり、それゆえ、まだその時でもないのに勝利を期待してはいけないのである」

 

 雲によって弟子たちの視界は遮られ、目前の栄光あるイエスとモーセとエリヤは見えなくなりました。私たちも信仰を超え出て、陶酔の中に入るのではなく、素面(しらふ)でいなくてはなりません。

 

 【これはわたしの愛する子。これに聞け】

この弟子たちに雲の中から声がしました「これはわたしの愛する子。これに聞け」私たちは、聞きなさいと命ぜられます。神がイエスに聞きなさいと命ぜられるのです。聞くべきはモーセでもエリヤでもなく、このイエス様のお言葉です。ですから私たちは聞くためには、まず静まらなくてはなりません。ペトロのように栄光に陶酔することで饒舌になるのではなく、神の前に静まるのです。私たちは神の前に静まり沈黙するのです。そうすれば御言葉を聞くことができるのです。そして私たちが静まることで神の権威を知ることが出来ます。

 

私たちが恵みを独占する自己中心的な思いから解放しうるのは神の介入です。そして私たちに近づかれて神が言われるのは、これに聞け、という命令です。私たちは、イエス様の言葉に聞かなくてはなりません。御言葉に聞くとき、自分自身のつぶやきのような罪深い思いに背を向けて自由にされます。御言葉によって、初めて私たちは自己中心的な思いから解き放たれるのです。

 

さて今朝のイエス様の変容の出来事はイエス様のご正体を現す出来事です。しかしなぜ正体を明かす必要があったのでしょうか。それを考えるためには、前後の文脈を考える必要があります。8章の27-30節はペトロの告白、31-91節は受難予告とペトロの誤解、そして群衆をも呼び集めて、イエス様に自分の十字架を負って従ってきなさいと命ぜられます。

 

【エリヤはすでに来た】

さらに今朝の9節以下では山を下りた弟子たちに、エリヤはまだ来ていないからメシヤはまだまだだと教える律法学者の教えを正して、エリヤはすでに来たのであり、人の子が苦しむ以上、先行する道備えのエリヤも当然苦しむと言われます。エリヤは律法学者が期待したように栄光の姿を取らなかった、エリヤの到来は洗礼者ヨハネによって成就している、と主張されるのです。とするならば前後の文脈は受難であり、今朝の変容の箇所も受難の文脈で読むことになるはずです。

 

【栄光の前にある主の御受難】

つまり変容の箇所が、受難の文脈に挟まれていることを考えますと、次ぎようのように言えます。ペトロは相変わらず受難の意味を理解できない。だから彼は栄光のイエス様を見るとそれを永遠に残したくなって小屋を建てようと提案したのです。

 

ペトロの思いに反して、イエス様は十字架への道を歩まれます。当時の人たちが期待していた政治的な解放者としてのメシヤではなく、本当のメシヤは苦しまれるメシヤです。834節でイエス様は言われますわたしの後に従いたい者は、自分を捨て自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者はそれを救うのである。人は全世界を手に入れても、自分の命を失ったら何の得があろうか」。

このイエス様の招きの意味がいまだはっきりと分かっていなかったのです。ですからペトロは十字架の道を従うより、栄光を自分のものとして封じ込めようとしたのです。

 

山を下られたイエス様は、御自身の山の上での変容のことを十字架と復活が起こるまでは、弟子たちに口外を禁じられました。人々の誤解を引き起こすことを避けるためです。メシヤは先ず苦しみ、十字架に付かれる。苦難から栄光への一本の道があります。

 

【変えられた弟子たち】

さて恵みを独占していたペトロを筆頭とするこの三人の弟子たちはこの後どうなったでしょうか。弟子たちは十字架の前に逃げだしてしまいました。またペトロはイエス様を三度も否定した弱さを持つ弟子です。その様な弟子をもイエス様は用いて証人としてくださいます。

 

聖書の証言によるとヤコブは早い時期に殉教の死を遂げたことが分かります(使徒12:2)。

 

ヨハネは長く生きたと言われています。ヨハネの手紙1では冒頭にこうあります始めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝えます。すなわち、命の言葉について。-この命は現れました。御父とともにあったが、わたしたちに現れたこの永遠の命を、わたしは見てあなたがたに証しし、伝えるのです。」

 

また使徒ペトロもイエス様のこの変容を証言しています。「わたしたちは、キリストの威光を目撃したのです。荘厳な栄光の中から、『これはわたしの愛する子。わたしの心に適うもの』というような声があって、主イエスは父である神から誉れと栄光をお受けになりました。わたしたちは、聖なる山にイエスといたとき、天から響いてきたこの声を聞いたのです」(Ⅱペトロ1:16-18)。

このように三人の弟子たちはそれぞれにイエスの復活と十字架の証人として用いられました。

 

【私たちも造り変えられる】

その様に、私たちも弱さと罪を持ちますが、主の証人として用いられます。私たちは罪赦された者として地上を歩みます。しかし同時に私たちには残る罪があります。ですから神は私たちを清めて御用のために用いようとしてくださいます。私たちは、自分を自分で清めることは出来ず、それはただ神の御霊の働きによるのです。

 

最後に覚えたいことがあります。イエス様が姿を「変えられる」の「変えられる」という言葉は、新約聖書で平行箇所を除けば、別に2回出てきます。

 

一箇所はⅡコリント318節「わたしたちは皆、顔の覆いが取り除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。」私たちは聖霊なる神様によって、イエス様の栄光あるお姿に似る者へと変えられていきます。清められるのは主の霊によるのであって、私たちの力にはよらないのです。ここに希望があります。

 

もう一箇所はローマの信徒への手紙122「あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい」です。

 

どちらの聖句も、姿に造りかえられ」、「自分を変えていただき」とあるように受け身です。神が主語なのです。私たちはただ神によって造りかえられます。人類の始祖アダムの「堕落」は誘惑する者によって、人間の心を中心に始まりました。ですから私たちの救いもまた心から始まります。この心を神様が造り変え御心に適う者にして主の証人としてくださるのです。

 

私たちを自己中心から解き放ち、栄光に仕えるように命ぜられるイエス様の御言葉に聞き続けてまいりたいと願います。そして私たちの罪の心を造りかえて主の証人としてくださる聖霊なる神様の働きを求めて祈り願いたいと思います。(おわり)

2013年07月07日 | カテゴリー: マルコによる福音書 , 新約聖書

2013.6.30.説教「神の言葉に生きる」袴田康裕牧師(神戸改革派神学校教授)


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20136.30.説教「神の言葉に生きる」袴田康裕牧師(神戸改革派神学校教授)

新約聖書:テサロニケの信徒への手紙一

213 「このようなわけで、わたしたちは絶えず神に感謝しています。なぜなら、わたしたちから神の言葉を聞いたとき、あなたがたは、それを人の言葉としてではなく、神の言葉として受け入れたからです。事実、それは神の言葉であり、また、信じているあなたがたの中に現に働いているものです」。

 

(説教要約 文責近藤)

 

【使徒パウロの感謝】

今朝はテサロニケの信徒への手紙一213 節の1節の御言葉に聴きますが、テサロニケの信徒への手紙一は神様への感謝の思いが基調になっています。

 

例えばテサロニケの信徒への手紙一12節から3節で使徒パウロはテサロニケの信徒のことを思い起こして神に感謝を捧げています*。

 

*テサロニケの信徒への手紙一1

2 わたしたちは、祈りの度に、あなたがたのことを思い起こして、あなたがた一同のことをいつも神に感謝しています。3 あなたがたが信仰によって働き、愛のために労苦し、また、わたしたちの主イエス・キリストに対する、希望を持って忍耐していることを、わたしたちは絶えず父である神の御前で心に留めているのです。

パウロはテサロニケの信徒たちが彼の福音宣教により、信仰をもって働き、愛のために労苦し、主イエス・キリストに対する、希望を持って忍耐していることを覚えて神に感謝します。また、

 

テサロニケ人へ信徒への第一の手紙16~7節でも、

6 そしてあなたがたは、多くの患難の中で、聖霊による喜びをもって御言を受けいれ、わたしたちと主とにならう者となり、7 こうして、マケドニヤとアカヤとにいる信者全体の模範になった。

と語りテサロニケの信徒たちが苦しみの中で歓びをもって信仰を受け入れてパウロに倣う者となったことをパウロは神に感謝します。

 

更にパウロは感謝します、

テサロニケ人への第一の手紙19 わたしたちが、どんなにしてあなたがたの所にはいって行ったか、また、あなたがたが、どんなにして偶像を捨てて神に立ち帰り、生けるまことの神に仕えるようになり、10 そして、死人の中からよみがえった神の御子、すなわち、わたしたちをきたるべき怒りから救い出して下さるイエスが、天から下ってこられるのを待つようになったかを、彼ら自身が言いひろめているのである」。

ここではテサロニケの信徒たちが偶像礼拝から離れて、主が再び天から来られることを待ち望みながら多くの信者の模範となったことをパウロは神に感謝を捧げています。

 

更にテサロニケの信徒への手紙一2章でもパウロはテサロニケ宣教を振り返って感謝しています。12節まではパウロの自己弁明ですがここでも神に感謝しています。パウロの敵が彼の宣教はカネ儲けが目的であると言う中傷を広めました。しかしこの中でもテサロニケの信徒たちは本心からパウロを助けてくれたこと、そしてパウロを信頼してくれたことを確信して感謝しました。

 

結局、パウロは彼らの何に感謝したかったと言うと、パウロから聞いた言葉を正しく受け入れ、そしてこれを神の言葉として聞いてくれたことです。

 

テサロニケ人への第一の手紙2章13節に

13 このようなわけで、わたしたちは絶えず神に感謝しています。なぜなら、わたしたちから神の言葉を聞いたとき、あなたがたは、それを人の言葉としてではなく、神の言葉として受け入れたからです。事実、それは神の言葉であり、また、信じているあなたがたの中に現に働いているものです。」

と話ますがパウロの感謝の中心は彼らが、単にパウロに親切であったとかパウロを愛して心配してくれたからと言うような人間的な思いでなく、パウロの言葉を人の言葉としてではなく神の言葉として受け入れてくれたことにパウロは神に感謝するのです。

 

【パウロの確信】

パウロの確信は神の言葉を語っているという事でしたが、どうしてその確信をパウロは得たのでしょうか。

 

コリントの信徒への手紙一の210節から12節分をお読みいたします。

コリントの信徒への手紙一2章「10 わたしたちには、神が"霊"によってそのことを明らかに示してくださいました。"霊"は一切のことを、神の深みさえも究めます。11 人の内にある霊以外に、いったいだれが、人のことを知るでしょうか。同じように、神の霊以外に神のことを知る者はいません。12 わたしたちは、世の霊ではなく、神からの霊を受けました。それでわたしたちは、神から恵みとして与えられたものを知るようになったのです」。

パウロは神の霊を受けました。それにより神からの隠された知恵を知り、またその深みを知ることが出来ました。それは神の選びにより、使徒として神の真理を伝える器としてパウロたちを選ばれたからです。

 

【歴史の中で語りかける神】

生ける真の神は語りかける神です。これが聖書全体の啓示するところです。語ることで御自身の御心を明らかにされる神。その語り方は歴史の中で様々な形を取りました。

 

ヘブライ人への手紙1章「1 神は、かつて預言者たちによって、多くのかたちで、また多くのしかたで先祖に語られたが、2 この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました」。

 

旧約モーセの時代、神はご自身の臨在を雲の柱、火の柱の中で顕されモーセに語られました。しかしその後十戒を与えられて神の言葉は文書化されました。その後予言者たちを通して語られましたが、ヘブライ人への手紙が語るように、終りの時代には御子イエスにより決定的神のメッセージが語られました。

 

旧約時代に語られた神の言葉は将来のメシアを予言し、主イエスの実際の来臨により預言は実現した。主イエスは十字架と復活の後、天に昇られました。イエス・キリストは神の語りかけの頂点でありました。

 

【新約聖書の完成】

その後を担ったのは使徒たちです。使徒の時代には神の言葉は使徒たちを通して語られたが、使徒たちも人間です。御言葉を間違うことのないように聖霊を与えられて使徒を正しく導かれ、使徒の証言、それが文書化され新約聖書として完結されました。

 

神の語りかけの頂点だったイエス・キリストの出来事は時代を超えて誤りなく伝えられるために神様はそのお言葉を文書化されました。今日、神のお言葉は聖書以外にありません。

 

【説教を通して語られる神】

近日では聖書の解き明かしは説教を通してなされ、そこで神は語られるのです。

本来神は語られる神であります。私たちは聴くのです。私たちは聖書を持って読みますが本来そうではありません。かっての時代、聖書は誰も持っていません。神の民は教会で神の言葉に聞きました。神の民とは神の言葉を聞き続けるものです。

 

【読むことと聴くことの違い】

読むことと聴くことの違いがございます。礼拝に於いて神の言葉を聴く、これが何よりも大切です。説教だけでなく聖書朗読も耳を傾けて聞いて頂きたい。ひとりで聖書を読む時も声を出して聴きながら読むことが大切です。

 

【キリストの言葉を聞くことによって始まる信仰】

使徒パウロはローマの信徒への手紙10章で17 実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです」と語りました。聴くことは読むよりも心を使います。神の民は心を開いて神の言葉を聞き、信仰の道を歩み続けるのです。

 

【神の言葉の聴き方】

パウロは神の言葉の聴き方を語ります。

テサロニケの信徒たちはパウロが語った言葉を人の言葉なく神の言葉として受け入れたのです。彼に出来たのはそこまでです。

 

問題は聞いた人の対応です。人の言葉としてではなく、すなはち人が心の中で作り出した思想、人の心に源のある言葉、これは人の作り出した言葉です。パウロの言葉を単なる人の言葉として聞くなら世の中の言葉と同じようになります。それは自分に益がないと思えば聞き流してしまいます。

 

【アテネの人たち】

パウロの言葉を人の言葉として聴いた典型的例が使徒言行録に記されています。

使徒言行録17章でパウロがアテネの会堂でユダヤ人と論じ、また広場では居合わせたギリシャの人々と論じ合いました。その中にはギリシャの哲学者もいたと記されています。彼らは新しいことに関心があったのです。彼らの中でパウロは説教しました。その内容は、全能の神による世界と人の創造と神の歴史支配、また人の罪と罪に対する神の裁きを語り、更には主イエスの十字架と復活について語りましたが、アテネの人たちは死者の復活について聞いたときパウロに聞くことを止めました。死者の復活なんてないとあざ笑ったのです。

 

死者の復活は彼らの理性的判断では馬鹿げたことだったのです。その話に価値があるかないかの価値判断をするのは人間でした。彼らは全ての話を人間起源として聞き、自分がその中心に居る、全てを自分に仕えさせようとするのです。自分が真理に仕えるものではありませんでした。

 

【ポストモダン】

現代人もアテネの人たちとあまり変わらない対応をいたします。自分の外にある客観的な神の言葉と言う真理が存在しない。すべては人の主観で決定されるという思いがあります。

 

何年か前です。南アフリカの神学者が来られて講演されましたが、今日の思想状況はポストモダンと言われて、すべてを相対化する。真理は主観的であって客観的真理はなく、聖書解釈にもそのことを当てはめ聖書の意味は読者が主観的に決める、そのような傾向が神学の世界でもあると語られました。

 

【人の言葉としてでなく神の言葉として聴く】

しかしテサロニケの人々はパウロの語る言葉を人の言葉としてでなく、すなはち主観的に神の言葉として受け入れるのでなく、テサロニケの人々はパウロの語る言葉を客観的な神の語りかけとして聴いたのです。彼らの外にある客観的な神の言葉を神の真理として、神の語りかけとして聴いてくれた、その事をパウロは感謝しています。

 

【宗教改革者たちの主張】

受け入れる、神の言葉として受け入れる、受容することが大切です。受容するとは、語られた言葉をそのままに歓迎するとも訳されます。テサロニケの人々はパウロの語る言葉をそのまま心に神が語られる言葉として受け入れました。神は語られるお方であります。救済の歴史の中で神は様々な形で語られたことをこれまで話しました。今日すべては文書化され、その完結された時代の生ける神の語りかけの方法は何か?宗教改革者たちは教会での神の言葉の説教こそが神の言葉であると主張しました。

 

改革派教会が作成した代表的信条と言われる第二スイス信仰告白では「神の言葉の説教こそが神の言葉であり、従って今日正しい召しを受けた説教者によって告知される時、神の言葉が告知され、信仰者に受入れられることを信じる」と言われます。改革者たちが強調したのは、神様は使徒たちを通してだけでなく、今もご自身が定められた手段を通して御言葉を語られる。その手段こそ聖書が礼拝に於いて解き明かされるということです。説教こそが神の語りかけの手段であると語ります。神の救済の歴史の中で今という時、教会の礼拝の中の説教でこそ神の言葉は解き明かされるべきです。正しい説教者の説教こそが神の言葉であり信仰者に受け入れられることを信じると第2スイス信仰告白では語っております。聞く者は神の語られた真理として聴くか、アテネの人々のように人間の言葉としてきくか。

 

【御言葉は魂を救う】

ヤコブは言います。

ヤコブの手紙 121 だから、あらゆる汚れやあふれるほどの悪を素直に捨て去り、心に植え付けられた御言葉を受け入れなさい。この御言葉は、あなたがたの魂を救うことができます」。

 

【今も生きて働く御言葉の効力】

最後にパウロは御言葉の効力について、テサロニケの信徒への手紙一213 節後半「事実、それは神の言葉であり、また、信じているあなたがたの中に現に働いているものです」と言ってもおります。

 

単に聞くだけでなく神の言葉として受け入れるときに私たちを御言葉は救うのです。

神の言葉は生きて働くのです。礼拝で説教者はあくまで忠実に神の言葉を解明かさなければならないという事です。人の作り話をしてはならないのであります。

 

【聴く者に求められること】

その時に神の言葉は生きていると語ります。神の言葉は信仰者の中に生きて働くという信仰を持って聴く必要があります。聴衆者に求められるのはパウロの言うように、人の言葉としてか、神の言葉として受け入れるか、もちろん神の言葉として受け入れることです。聴き方の違いがその人の将来を決する違いとなります。

 

【その使命を果たす御言葉】

旧約聖書イザヤ書55章に10雨も雪も、ひとたび天から降れば/むなしく天に戻ることはない。それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ/種蒔く人には種を与え/食べる人には糧を与える。11 そのように、わたしの口から出るわたしの言葉も/むなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ/わたしが与えた使命を必ず果たす」とあります。また、

 

ヘブライ人への手紙 412 というのは、神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができるからです」

 

【御霊の内的照明によって】

ウェストミンスター信仰告白16節で「人間の心は、霊的に真っ暗で、聖書の教えを自分の救いに結びつけて霊的に理解することができません。聖書の教えを自分の救いに結びつけて霊的に理解するためには御霊の内的照明が必要です*」ということを言っておりますが、罪びとである私たちに聖書の教えを自分の救いに結びつけて霊的に理解するには聖霊がわたしたちの心を霊的に明るく照らしてくださって、聖書の教えを自分の救いの教えとして理解できるように助けてくださる御霊の働きが必要です。

 

*御霊の内的照明の必要性(ウェストミンスター信仰告白16節)

生まれながらの罪人であるわたしたち人間の心は、霊的に真っ暗で、聖書の教えを自分の救いに結びつけて霊的に理解することができません。そこで、聖霊がわたしたちの心を霊的に明るく照らしてくださって、聖書の教えを自分の救いの教えとして理解できるように助けてくださる御霊の働きが必要です。この御霊の働きを、御霊の内的照明と言います。内的啓明とも言います。

 

【信仰を持って聴く】

神の言葉を聞く姿勢とは神の御前に謙(へりくだ)って自らを整えること、すなはち信仰を持って聴くことです。謙るとは神の御前に礼拝し祈ることです。これが信仰を持って神の言葉を聞くということです。その時、神の言葉は力があります。これが聖書の約束です。主の約束は確かです。神が語られた御言葉は空しくしに地に落ちることなく救いの約束を果たします。私たち神の民にとって大切な事、それは神の言葉を聞き続けること、そこに神の祝福があります。祝福された歩みをするところ、それが教会であります。(おわり)

2013年07月02日