2006年3月

十字架からの御言葉(その3):「婦人よ、ご覧なさい。あなたの子です」 ウイリアム・L・モーア

ヨハネによる福音書19章23-27

【十字架上のお言葉(3)】
イエス・キリストの十字架からの御言葉を学び続けたいと思います。覚えていらっしゃると思いますが、主イエスは十字架に掛けられた間、御自分の唇から七つの大事な御言葉をおっしゃいました。私達は受難節の際にもうすでにその二つを覚えました。第一は赦しの言葉

「父よ、彼らをお赦し下さい。自分が何をしているのか知らないのです。」

そして、神はそのお祈りを叶えて、十字架の贖いを通して、御自分の御子を救い主として信じる者は、誰でも罪の赦しを与えて下さいました。

先週学んだ主イエスの第二の御言葉は永遠の救いの約束でした。傍らの十字架に掛けられた犯罪人は主に、

「イエスよ、あなたの御国においでになる時には、私を思い出して下さい」

と心から願いました。その願いは悔い改めと信仰を表しましたので、イエスはこの素晴しい約束を彼にしました。

「あなたは今日私と一緒に楽園にいる。」

その同じ悔い改めと信仰を表すならば、私達の為にも神は天国の戸を開いて下さいます。罪の赦しと永遠の救い。その二つの御言葉で、唯一の全能の神は私達の個人的、また、全人類の一番大事なニーズにお答えになりました。

【二つのグループ】
さて、十字架から第三の主イエスの御言葉の背景を見てみましょう。実は、今日与えられた聖句は著しい対照をなしています。と言うのは、主イエスの十字架の前で二つの全く違っているグループが立っていました。一方にはイエスを苦しませ、死刑を実行した四人の兵士達でした。そして、他方には主を誰よりも愛した五人がいました。

【兵士たちがしたこと:預言の成就】
先ず兵士達を見てみましょう。主イエスは四人組の兵士に付きそわれて、形場へ着くと,彼らは主を十字架に付けました。そして、当番で処刑の任務についたこの兵士達の役得は、受刑者の着けていた衣服でした。ユダヤ人は通常五種類の衣具をつけていました。サンダル、ターバン(すなわち頭に巻く頭巾)、帯(おび)、下着、それに外套。兵士は四人、衣服は五品目でありました。彼らは賽を投げてそれらの取りっこをしました。それぞれが自分に当たった物を取り、下着だけが残りました。それは縫い目がなく、一つ織りの物でした。それを四つに裂けば、勿体ないので、それが誰の物になるかを決める為に、もう一度、賽が投げられました。こうして、兵士達は十字架のもとで賭け事をしました。不思議にその事は旧約聖書の預言を成就しました。詩編に救い主についてこの預言があります。

「私の着物をわけ、衣を取ろうとしてくじを引く。」(詩編22:19)

2006年03月26日 | カテゴリー: ヨハネによる福音書 , 新約聖書 , 旧約聖書 , 詩篇

十字架上のお言葉(その2):「あなたは今日私と一緒に楽園にいる」 ウイリアム・L・モーア

ルカによる福音書23章39-43節

【有名人物の最期の言葉】
有名な人物の最期の言葉はその者の性格と価値観をよく表しますから、意味深くて大変面白いです。美術家で科学者でもあり、建築家でもある、天才と呼ばれた、イタリア人レオナルド・ダ・ダヴィンチは亡くなる直前にこのように言いました。「私の作品は物足りなかったので、私は神と人間に対して罪を犯しました。」また、アメリカの大統領グローバ・クリ−ウ゛ランドの死にぎわの言葉は、「私は一生懸命に正しい事をしようとしました。」また、有名な映画プロデューサー、ルイス・マイヤーはこのように言いました。「何もかもない。全ては空しいです。」そして、メキシコの革命家パンチョ・ウ゛ィヤは最期の言葉として補佐官にこのように言ったそうです。「このまま終わってはいけません。私が偉いと皆に知らせてくれ。」共産主義の創始者カール・マルクスは死にかかっていた時、家政婦が、「書き記す為、臨終の言葉をおっしゃって下さい」と言うと、このように返事して亡くなったんだそうです。「速く出て行け。臨終の言葉何かない。そんな事は大事な言葉を言った事のない人の為だ。」

先週から始まりましたが、受難節の際に、私達はイエス・キリストの十字架からの御言葉を学んでいます。その七つの言葉は結局、主イエスの大事な最期の言葉になります。目的と意味と愛に満ちているお話です。実は、その主の最期の言葉は神が御子の十字架の贖いの死を通して、どのようにして、私達人間の最も重要なニーズに答えたかをはっきりと啓示されます。つまり、神は十字架を持って、どのような救いを私達に提供するかを説明して下さいます。

先週私達は十字架上の主イエスの第一の御言葉を学びました。それは、御自分に罪を犯す者、また、御自分の敵の為の赦しの言葉です。

「父よ、彼らをお赦し下さい。自分が何をしているのか知らないのです」

とおっしゃいました。つまり、十字架の贖いを通してイエス・キリストを救い主として信じる者は誰でも神から罪の赦しを受けられます。自由に主イエスの義を頂き、神の愛された子供のように受け入れています。その赦しの言葉が十字架上の第一の御言葉です。

【十字架上の第二のみ言葉:「あなたは今日私と一緒に楽園にいる」】
今日の第二の御言葉は永遠の救いの御言葉です。主イエスは

「あなたは今日私と一緒に楽園にいる」

と側の十字架に掛けられていた犯罪人の一人に約束して下さいました。

2006年03月19日 | カテゴリー: イザヤ書 , マルコによる福音書 , ルカによる福音書 , ローマの信徒への手紙 , 新約聖書 , 旧約聖書

十字架上のお言葉(その1):「赦し」 ウイリアム・モーア

ルカによる福音書23章32--43節 34父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。

【ある韓国人兄弟の物語】
韓国の古い伝説ですけれども、ある貴族に二人の息子がいました。そして、その長男はやがて最高裁判所長官になりました。しかし、次男は不良の道を選び、悪名高い強盗になってしまいました。それにも関わらず、お兄さんは弟思いで本当に愛して、何回も彼を変えようとしましたが、弟は聞きませんでした。そして、弟が遂に捕まえられ、裁判長である兄の裁判に連れられてきました。裁判の結果はもう決まってると皆は思いました。何故なら、兄の長官は弟を深く愛していましたので、手段を選ばず彼を釈放してやると皆は思ったのです。しかし、裁判の結果は、兄長官が弟を有罪と判決しました。兄が弟に死刑を宣告した時、皆は驚きで息が止まりました。

やがて死刑を実行する日が来ました。そして、長官であるお兄さんは最後に弟に会いに刑務所へ行きました。面接の時間が終わりかけた時、お兄さんは弟に、「番人が見てないうちに、私の衣服を着て席を交代しよう。そして、私の代わりに帰ってくれ」と言いました。それで弟は兄の工夫に承知して、言われた通りに逃げました。もちろん当局は囚人が実際に裁判長官である事が分ると処刑を止めるはずだと信じていました。

しかし、弟は事実を確かめる為、近くにある丘に上って遠くから死刑台を眺めました。誰かが死刑台へ連れられてきました。信じられない光景ですけれどもその人は自分のお兄さんでした。そして自分の目の前で兄が処刑され、自分が受けるべき罰を受けてしまいました。

自責の念で一杯の弟は走って刑務所の門を叩きながら叫びました。「間違っている、無罪の人の死刑を先程実行しました。私こそはその処刑すべき囚人です。私を処刑して下さい。」そして刑務所長が出て来ると弟は自分の名前を言って、繰返し、「私を処刑して下さい、私を処刑して下さい」と願いました。しかし、刑務所長はこのように言いました。「帰りなさい。そう言う名前を持っている囚人の刑は、もうすでに実行されたので、全ては済みました。速く帰りなさい」と命令しました。

【イエス・キリストの贖い】
私達は受難節に入りました。そして、受難節の際私達は特にイエス・キリストの十字架の贖いの死の意味を新たに考え思案します。皆さんはいまだに罪の意識を引きずっているのですか。その罪の罰はもうすでに実行されました。全ては済みました。十字架のお陰で、先程の伝説の弟のように、私達は罪の故に支払うべき罰が主イエスによってもうすでに支払われました。使徒パウロが述べたように、

「罪と何のかかわりもない方を、神は私達の為に罪となさいました。私達はその方によって神の義を得る事が出来たのです。」(コリントの信徒への手紙二5:21)

それは十字架の素晴らしいメセージです。主イエスの死のお陰で神は私達一人一人を贖い、赦し、そして、私達を完全に受け入れて下さいました。受難節にその言い尽くせない程の恵みを覚え感謝したいのです。

2006年03月12日 | カテゴリー: ルカによる福音書 , 新約聖書

神のお答え ウイリアム・モーア(受難節1)

コリントの信徒への手紙一1章22-25

【受難節】
先週の水曜日から私達は受難節に入りました。受難節は復活祭、すなわちイースターの前の40日の間です。その40日間はイエス・キリストが公の働きを始めた直前、断食と祈りをする為に荒れ野で過ごされた40日間に相当します。特に、受難節に、私達は主イエスが私達の為に負われた苦しみと十字架の死に集中します。

そして、その主の犠牲は私達の罪の贖いになりましたので、受難節は私達一人一人の悔い改めの機会になります。自分自身の生き方と信仰生活を吟味し、神の助けによって足りない所を治す時期にもなります。

私達がこの受難節を守って過ごすとき、主イエスの復活の意味と喜びがより深く分かって来て、心から祝う事が出来ます。

実は、受難節と言う伝統は聖書には載っておりません。しかし、初代教会が今から約1800年前、イースターの準備の為に受難節を守り初めました。教会の大事な伝統になり、世界中ほとんど全てのキリスト教会が受難節を重んじて来ました。私達は大きな世界教会の一つの群れですが、私達も心から受難節を覚える事によって、大きな恵みになると信じております。主イエス・キリストの十字架の死は本当に私自身の救いの為であると新たに悟らされます。すなわち、受難の出来事を通して、愛する神は私と全人類の最も重要なニーズを叶えて下さいました。また、その贖いの死は、人生についての私達の大きな質問に答えてくださいます。

【コリントの信徒への手紙一1章22ー25】
今日、与えられた御言葉に使徒パウロはイエス・キリストの贖いの死についてこのように書きました。 

「ユダヤ人はしるしを求め、ギリシヤ人は知恵を探しますが、私達は、十字架につけられたキリストを伸べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを伸べ伝えているのです。神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。」(コリントの信徒への手紙一1章22ー25)

2006年03月05日 | カテゴリー: コリントの信徒への手紙一 , 新約聖書