コリントの信徒への手紙二

2013年9月29日説教「キリストの為に」金 昭貞(キムソジョン)先生(板宿教会伝道師)

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2013929日説教「キリストの為に」金 昭貞(キムソジョン)(先生(板宿教会伝道師)

聖書:コリントの信徒への手紙二121~10

12:1 わたしは誇らずにいられません。誇っても無益ですが、主が見せてくださった事と啓示してくださった事について語りましょう。

12:2 わたしは、キリストに結ばれていた一人の人を知っていますが、その人は十四年前、第三の天にまで引き上げられたのです。体のままか、体を離れてかは知りません。神がご存じです。12:3 わたしはそのような人を知っています。体のままか、体を離れてかは知りません。神がご存じです。12:4 彼は楽園にまで引き上げられ、人が口にするのを許されない、言い表しえない言葉を耳にしたのです。

12:5 このような人のことをわたしは誇りましょう。しかし、自分自身については、弱さ以外には誇るつもりはありません。

12:6 仮にわたしが誇る気になったとしても、真実を語るのだから、愚か者にはならないでしょう。だが、誇るまい。わたしのことを見たり、わたしから話を聞いたりする以上に、わたしを過大評価する人がいるかもしれないし、12:7 また、あの啓示された事があまりにもすばらしいからです。それで、そのために思い上がることのないようにと、わたしの身に一つのとげが与えられました。それは、思い上がらないように、わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使いです。

12:8 この使いについて、離れ去らせてくださるように、わたしは三度主に願いました。

12:9 すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。

12:10 それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。

 

(説教要約 文責近藤)

【パウロの受けたトゲ】

今日朗読してしたところで使徒パウロは自分の身に一つのとげが与えられと言います。皆さんもトゲが刺さったことがあると思います。小さなトゲでも痛いですし他のことに集中できません。早く抜いてほしいと思います。パウロは神様に自分のトゲつまり弱さを取ってくださいと願いましたが神様の答えは否でありました。何故でしょうか。

 

今日は信仰の歩みの中でのトゲの意味とそれを通して顕される神の恵みについて御言葉から、特に9節と10節からこのことに耳を傾けてみたいと思います。

 

【コリントの街とコリント教会】

当時のコリントはギリシャ半島の付け根にある港街でローマ帝国の植民地でありました。しかしギリシャ・ロマ帝国の交通の要所として非常に栄えた街であります。そこはいろんな国の人と宗教が集まる国際都市でありましたがまた偶像崇拝が盛んでありました。道徳的にも性的にも堕落していました。そしてコリント教会がここに建てられたのでありますが教会内にも問題が多くトラブルも多くありました。

 

このことに心を痛めたパウロは第三伝道の時にエペソで手紙を出しました。これが第一コリントの手紙ですが、しかしその後も問題は解決いたしませんで、パウロはコリントの信徒への第二のお手紙を送る前に、涙の手紙と言われるものを書きました。その手紙によってコリント教会の多くの信徒は悔改めましたが、エルサレム教会への献金などまだまだ問題が残っていました。

その中でも偽使徒の問題があり、以前より厳しくなっていました。そうした事情の中でパウロが出した手紙が今日のコリントの信徒への第二の手紙です。

 

【パウロに逆らう偽使徒】

彼ら偽使徒はパウロが伝えたキリストと違うキリストと福音を伝えました。パウロは手紙と違ってじかに会ってみると弱しく話もつまらないし魅力に乏しいと中傷しました。またパウロの使徒権を否定しました。彼らは自分たちこそ使徒だと言ってコリントの信徒たちをキリストから離れさそうとしました。

 

コリントの信徒たちは信仰が弱かったため偽使徒にすぐに騙されました。パウロはもう黙っておれません。それで教会を守るために自分を誇ることは愚かなことだが、偽使徒に騙されている信仰の弱いコリントの信徒を得るためにパウロは自分を誇らざるをえませんでした。

12:1 わたしは誇らずにいられません。誇っても無益ですが、主が見せてくださった事と啓示してくださった事について語りましょう。

 

コリント教会に入り込んだ偽使徒は信徒たちを信仰から離れさせようとして彼らの神秘的な体験を誇り信徒を惑わしました。

 

【パウロのすばらしい体験】

偽使徒がそのような経験を誇るなら、誇っても無益だがパウロ自身、幻と啓示でいくらでも誇れると言います。偽使徒が見せる神秘体験と違ってパウロはキリストが見せて下さったすばらしい啓示であることを強調します。この啓示があまりにも平凡でなかったため高慢に聞こえることを恐れたパウロは自分について彼という3人称で1節から8節に、このように言います

 

12:2 わたしは、キリストに結ばれていた一人の人を知っていますが、その人は十四年前、第三の天にまで引き上げられたのです。体のままか、体を離れてかは知りません。神がご存じです。12:3 わたしはそのような人を知っています。体のままか、体を離れてかは知りません。神がご存じです。12:4 彼は楽園にまで引き上げられ、人が口にするのを許されない、言い表しえない言葉を耳にしたのです。12:5 このような人のことをわたしは誇りましょう。しかし、自分自身については、弱さ以外には誇るつもりはありません。

 

 

第三の天、すなはち天国に挙げられたパウロは天国の素晴らしさを経験しました。他の人には許されていない素晴らしい主の御言葉を主ご自身から直接聞いたのです。体のままか、体を離れてかは知りませんというほどすばらしい体験でした。

 

素晴らしさ、それはパウロ自身に特別な能力があって起ったものではなく、パウロは繰り返し彼自身誇るものは何もなく、自身の弱さしかし誇るものはないと、たとえ誇ったとしても神様から与えられた幻だから偽りではないと述べます。

 

パウロが神様から与えられた幻があまりにも素晴らしかったのでパウロが高ぶることのないように身に一つのトゲが与えられたのです。7節、

12:7 また、あの啓示された事があまりにもすばらしいからです。それで、そのために思い上がることのないようにと、わたしの身に一つのとげが与えられました。それは、思い上がらないように、わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使いです。

 

トゲは具体的にはそれが何かわかりませんが、テンカンだったか頭痛だったかわかりませんが、また別の物だったか、しかしトゲは1つのものではなかったと思います。

 

多くの注解者はパウロは多くの迫害を受けましたが、それがトゲであると言います。

10節によりますとかトゲは体の病のことではなくパウロの受けた試練と誘惑と考える方が良いと思います。

12:10 それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。

 

パウロが受けたトゲは彼が思い上がることのないようにと神様がパウロに与えられたのです。

 

神がパウロにトゲを与えられたのは思いあがることのないようにということだけではありません。その大事な理由は後でのべます。

 

別の大切な理由があったこともあったとしてもトゲは早く抜きたいものです。伝道者パウロはトゲがなかったらもっと伝道ができると思ったかもしれません。

 

それでパウロは神様に三度トゲを取ってくださいと祈ったと書いてありますが、三度とは完全数であり、何度も何度も祈ったということであります。パウロの祈りに対する神様の答えは「わたしの恵みはあなたに十分である」と語られた。

 

9節前半、

12:9 すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。

「わたしの恵みはあなたに十分である」と神様はなぜその答えを与えられたのでしょうか。

 

わたしの恵みはあなたに十分である:私の体験】

私ごとですが一昨年神学校を卒業して、神学生時代から足かけ2年半板宿教会でお世話になっております。恵まれた環境に感謝しています。

しかし説教は貧しい日本語の誤りをいつも恐れております。それは大変なプレッシャーであります。説教そのものもプレッシャーでありますが、さらにその上日本語が完全でないというプレッシャーがあります。聴く者に申し訳ない。そして聞くものにつまずきを与えないか。はじめて来た方につまらない思いをさせるのではないか。そのようなつたない日本語が私のトゲであります。そのような時、神様は9節の言葉を与えられ、「わたしの恵みはあなたに十分である」と言われました。

神様はトゲを耐えるようにではなく、神様はトゲすなわち弱さは恵みあると言われます。

なぜなら神様の「力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました

口語訳聖書は「主の力は弱い所に完全にあらわれる」と訳しています。

 

12:9 すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう

 

私たちにトゲが与えられる大事な理由:神様の力は弱さの中でこそ現れる】

私たち皆はトゲを持っていれば早く抜きたいです。他人は大丈夫といいますが自分自身にはそれは非常に大きな問題となります。しかし神は「わたしの恵みはそれで十分である」と語られる。なぜなら神様の力は弱さの中でこそ現れるのだと言われます。神様は私の下手な説教でもそのままで良いと言われます。なぜなら9節で、「神の力は弱さの中で発揮される」と言うのであります。

 

【尊い器】

パウロはテモテへの手紙二2章で述べます、

2:20 さて、大きな家には金や銀の器だけではなく、木や土の器もあります。一方は貴いことに、他方は普通のことに用いられます。2:21 だから、今述べた諸悪から自分を清める人は、貴いことに用いられる器になり、聖なるもの、主人に役立つもの、あらゆる善い業のために備えられたものとなるのです。


きれいな器が大事だと言うのです。

 

【土の器】

そしてコリントの信徒への手紙二47節で、

4:7 ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために。

 

神が用いられる器はきれいな土の器です。なぜ金の器に宝をいれないのか、それは計り知れない力が私たちのものではなく神から出るためであることが分かるためです。

 

神様は言われます。私の力は弱いところに完全に現れる。

宝を金の器に入れると宝は輝きません。しかし土の器に入れると宝は完全に輝くのです。

 

【神様は土の器を用いられる】

神様はたとえ不完全であっても土の器である私たちを用いられるのであります。自分のトゲを抜こうとするのは私たちが金の器、今の器より完璧な器になるためではないでしょうか。

しかし神が望まれるのはわたしたちが完璧な器になるのではなく、神様が全てをなさることが完璧な業なのであって、私たちを主のパートナーのとして用いられることです。それは私たちが主の力により頼み主の恵みを味合うためです。これが私たちにトゲが与えられる神様のやり方であり理由であります。

 

【喜んで自分の弱さを誇りましょう】

それで9節後半をお読みします、

12:9 すると主は、「・・・・・だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。」 と語ります。

 

【パウロの受けた迫害・苦しみ】

パウロが弱さを誇るのはコリントの教会に現れた偽使徒には神の愛が欠けていることをわからせるためです。パウロは弱さのみでなくあらゆる苦痛をも喜びました。

 

パウロは10節で、

12:10 それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。

と告白して満足しているのです。


満足するとはただ耐えて受け身ではなく喜びを感じているということです。はたして迫害の時でさえ喜びを感じ満足することが出来るでしょうか。

パウロが受けた迫害と行づまりはどんなに激しいものであったか、今日のコリントの信徒への手紙Ⅱの前の箇所1123の後半から27節に書かれていますが、

11:23 ・・・・、苦労したことはずっと多く、投獄されたこともずっと多く、鞭打たれたことは比較できないほど多く、死ぬような目に遭ったことも度々でした。11:24 ユダヤ人から四十に一つ足りない鞭を受けたことが五度。11:25 鞭で打たれたことが三度、石を投げつけられたことが一度、難船したことが三度。一昼夜海上に漂ったこともありました。11:26 しばしば旅をし、川の難、盗賊の難、同胞からの難、異邦人からの難、町での難、荒れ野での難、海上の難、偽の兄弟たちからの難に遭い、11:27 苦労し、骨折って、しばしば眠らずに過ごし、飢え渇き、しばしば食べずにおり、寒さに凍え、裸でいたこともありました。

 

【キリストのために】

パウロの受けた大きな迫害は私たちの受ける迫害とは次元が違いますが、パウロ自身なぜこれほどの迫害にも満足できたか。

それは自分のためでなくキリストのために満足できたからです。

10節にパウロの告白があります、

12:10 それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。

 

言いかえるとパウロはキリストの為でなかったらすべては満足できなかったのです。

キリストの為でなかったら、人々に見せるためや自己満足のためなら最後まで耐えることが出来ません。

自分のための働きはしばらくは誇ることがあっても最後まで乗りきる事は出来ません。

なぜなら私たちは主の力と恵みなくして完全にはなり得ないからです。

 

私は自分の日本語のことで苦しんだことを考えました。しかし私こそキリストのためでなく自分自身の為に、自分の栄光のために苦しんで、人びとの前に良い評価を得るために、恥をかきたくないためにトゲを抜いて自分が金の器になろうとしたことに気づきました。

 

【キリストの為に弱くなれる】

しかしパウロは自分のためではなく、またほかのものの為でなく、ただキリストのために満足し迫害を耐え、弱さに満足した。パウロが信仰の戦いのために勝利した秘訣はキリストの為にあった。つまりキリストの為に弱くなれたのです。

 

パウロはもっと自分の受けた迫害を大きく言っても良かったのですが、パウロが受けたトゲと言っております。

 

なぜなら神様が人々の救いの為にこの世に遣わした主イエスが私たちのために受けてくださった十字架に比べると私たちの迫害、苦難、弱さはトゲに過ぎないと言うのであります。

 

主の十字架のゆえに、10節の状態にあってもキリストの為に私たちは弱くなれるのです。私たちを救う主イエスの十字架のゆえに、私たちは弱くなれ満足できるのです、12:10 それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、」「キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです」。

 

最後になりますが私たちはいろんなトゲを持っています。

私たちのトゲとは何でしょうか。パウロのような迫害ほどのトゲでないかもしれませんが、私たちはそれさえなければと思うのでありますが、しかし神様は「私の恵みはあなたに十分である」と語られます。つまりイエス様の十字架は「ありのままの君で良い」と語りかけるのです。

 

どうか私たちの為に十字架を背負って下さった主の救いの恵みと力によって、自分の弱さを大いに喜び、イエスの為に喜んで弱くなることができますように祈ります。(おわり)

2013年09月29日 | カテゴリー: コリントの信徒への手紙二

2013年1月6日新年説教「新しく創造されたわたしたち」ウイリアム・モーア宣教師

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新約聖書コリントの信徒への手紙二5

17 だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。

18 これらはすべて神から出ることであって、神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました。

19 つまり、神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです。

20 ですから、神がわたしたちを通して勧めておられるので、わたしたちはキリストの使者の務めを果たしています。キリストに代わってお願いします。神と和解させていただきなさい。

21 罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです。

 

説教要約(文責 近藤)

【真に新しい生き方とは】

2013年、開けましておめでとうございます。新しい年になると人々は新しいものを欲しがります。新しいものを買うと新しい年は祝福されたと考え、気分も新しくなると考えるからです。

しかし人はその本質を変えるのは難しいです。新しい服や新しいスタイルまた新しい車や新しい家を持っても、古い自分のむなしさ、不安、不満は新しい年にも引き継がれます。

どんな新しいものは人の心を満たすものではありません。

息子のポールが自身のフェイスブックに「生涯で最も大事なことはものではないと今日悟った」。新しいもので瞬間的に満たされてもそれは人の生き方が新しいものにはなりません。新しい生き方はものではなく新しい命だからです。

 

【キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者】

イエス・キリスト、人類の救い主のみがその賜物を与えてくださいました。

17「キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。」と書かれている通りです。

 

主イエス御自身も言われた、ヨハネによる福音書 10

10「わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。」

主を受け入れると私たちの内側が変えられるので、主イエスを信じて主と結ばれる人にならねばなりません。彼を信じれば豊かに生きられます。

【歴史の進歩】

歴史を学ぶ人は分かります。科学を通して神の創造物を知る知識が進歩し、製造や医療や情報の技術が進歩しました。

 

車の進歩で生活が快適になり又コンピュータ―で仕事も楽になり計算も楽になりました。このように生活が楽になっても人生には思い煩い、恐れ、不満、人間関係のストレスが増えています。兵器技術の進歩で戦争はいよいよ破壊的になり、このように人の生活は決して良くなってはいません。その理由は一つです。

 

人の理性は神から離れ、自分勝手な歩みをし、神が教えて下さる生き方を無視し、その道を追い求めることもしません。

 

使徒パウロは今日の箇所のコリントの教会に問題がありましたので、そこの信徒に手紙を書きました。

派閥の害、経済的に恵まれた人は貧しい人を蔑み、信仰生活上も道徳的にも問題があったので大事な真理をを確認するために手紙を書きました。

 

【古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた】

新しく創造された者として歩み、イエス・キリストのみを信じて古い生き方を捨て、新しい道徳で生きなさいとのアピールでした。

 

古い宗教的風習を捨て新しいものを育てるべきです。新しく創られたものとしてキリスト者として自分らしく生きなさい。自分らしく生きるために常にイエス・キリストと結ばれ、その教えに従いなさい。過ぎ去った古いものを育ててはなりません。

新しい物質的ものでは決して私たちを満足させることは出来ません。私たちには新しい命が与えられました。

 

【キリストの使者の務め】

新しく創造されたものとして新しい目的も与えられました。

19節に「つまり、神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです。20 ですから、神がわたしたちを通して勧めておられるので、わたしたちはキリストの使者の務めを果たしています。キリストに代わってお願いします。神と和解させていただきなさい。

キリストの使者の務めを私たちは与えられています。

 

21節「罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです。

 

神の義が主の十字架によって私たちに与えられ、神との和解の道が私たちに与えられています。その道を周りの者にキリストの使者として伝える特権が与えられています。

 

【ある建設現場で】

ある建設現場で一人の石工さんに質問しました「あなたは今どんな作業をしていますか」と。彼は答えました「私は石を削っています」

また別の石工さんに同じように質問しました。彼は答えました「私は石の壁を建てています」と。

 

最後に同じ質問をもう一人の石工さんにしました。彼はプライドと確信をもって答えました「私はこの石で神の栄光のために大聖堂を建てようとしているのです」と。

3人は同じ仕事をしていますが仕事に対する見方は違います。

 

私たちはこの世に対してイエス・キリストに代わって素晴らしい務めを果たしています。

 

【キリストの代表として】

愛する兄弟姉妹。ここで考えてみてください。私たちは何のために生きていますか。

わたしたちの仕事は、会社のため、家族のため、食べるため、楽しみのためにします。これらは大切です。しかしもっと大事なことは私たちの言葉と行いでキリストに代わって救いのメッセ-ジが委ねられていることです。

 

ある信者はある宣教師を迎えに空港に行き教会まで案内しました。帰りに大きな6階建てのビルを見て「私はそこの2階で働いていますが、部下が74人ほどいます。しかしクリスチャンは私一人です。工場の働きで暮らしをたてていますが、そこでのもっと大事なことはそこで私がキリストの代表として働くことです。そのために一生懸命働いています」と話しました。

西谷教会はこのような人びとに支えられてきました。2013年精一杯与えられた所でキリストの使者として働きましょう。(おわり)


2013年01月06日 | カテゴリー: コリントの信徒への手紙二

2012.7.1説教「だから私たちは落胆しません」ウイリアム・モーア

2012.7.1説教「だから私たちは落胆しません」ウイリアム・モーア
新約聖書
コリントの信徒への手紙二4章
16 だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。
17 わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。
18 わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。
5章1 わたしたちの地上の住みかである幕屋が滅びても、神によって建物が備えられていることを、わたしたちは知っています。人の手で造られたものではない天にある永遠の住みかです。

使徒パウロの回心
新約聖書のなかでイエス様のほかもっとも知られている人物はパウロでしょう。彼は新約聖書の3分の1を書きました。
ルカの書いた使徒言行録9章に彼の人生のターニングポイントがよく書かれています。
彼の劇的歩みの大変さに私たちは印象づけられます。ユダヤ人でありながらローマの市民権をもち、ユダヤ人の聖職者としても素晴らしい経歴の持ち主でありました。はじめはユダヤ教に熱心のあまり先頭にたってクリスチャンを迫害しました。ダマスコのクリスチャンを捕えるために出かけたとき、途中で主イエスと奇跡的出会いがあり180度人生が変わりました。

使徒言行録9章
3 ところが、サウロが旅をしてダマスコに近づいたとき、突然、天からの光が彼の周りを照らした。4 サウロは地に倒れ、「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」と呼びかける声を聞いた。
5 「主よ、あなたはどなたですか」と言うと、答えがあった。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。6 起きて町に入れ。そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる。」

一番熱心な迫害者が一番熱心な伝道者になり名前もサウロからパウロになりました。彼は迫害を受ける側になりました。ユダヤ当局だけでなくローマ帝国からも迫害をうけましたが、それにもかかわらず熱心に宣教し教会を中東からヨーロッパに広めました。
当時のクリスチャンも迫害のなかで信仰を守り通し、捕えられては牢に入れられました。

パウロの受けた幾多の苦難
またパウロは伝道のために多くの苦難を経験しました。今日のパウロの手紙に彼の受けた苦難が書かれています。

コリント人への第二の手紙11章
24 ユダヤ人から四十に一つ足りないむちを受けたことが五度、25 ローマ人にむちで打たれたことが三度、石で打たれたことが一度、難船したことが三度、そして、一昼夜、海の上を漂ったこともある。26 幾たびも旅をし、川の難、盗賊の難、同国民の難、異邦人の難、都会の難、荒野の難、海上の難、にせ兄弟の難に会い、27 労し苦しみ、たびたび眠られぬ夜を過ごし、飢えかわき、しばしば食物がなく、寒さに凍え、裸でいたこともあった。
28 なおいろいろの事があった外に、日々わたしに迫って来る諸教会の心配ごとがある。

このような多くの苦難のほかにパウロの身にとげが与えられたとあります。これは治らない苦しい病気であったと言われます。
これらに加えて宣教活動を支えるためにテント作りにも時間を割かねばなりませんでした。
イエスキリストに出会ってからは苦難の連続でしたが彼は真理を悟ることができ喜んで人生を主に捧げました。最後まで信仰に立つことができたのです。

今日の御言葉にパウロはこう言います「16 だから、わたしたちは落胆しません。」なぜなら「たとえわたしたちの『外なる人』は衰えていくとしても、わたしたちの『内なる人』は日々新たにされていきます。17 わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。」

外なる人
「外なる人」とは一時的な存在です。
「8 わたしたちは、四方から患難を受けても窮しない。途方にくれても行き詰まらない。
9 迫害に会っても見捨てられない。倒されても滅びない。」コリント人への第二の手紙

こう言うつらいことが「外なる人」にありましたがパウロは決して滅ぼされないという確信がありました。

私たちもこの世にあって外なる人はパウロと同様に苦しむことは否定できません。
外なる人は衰えていくとしても私たちの内なる人は日々新たにされて行くことは今日の御言葉が約束します。

内なる人
私たちの内なる人とは何でしょうか。キリスト者になると神から与えられる新しい命です。

「17 だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。18 これらはすべて神から出ることであって、神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました。」(コリント人への第二の手紙5章)

イエスキリストの贖い死のおかげで私たちは完全に罪ゆるされ神との関係が回復され神の子供になり、私たちは神を知り毎日神と交わりをもっていきます。聖霊なる神は私たちとともに神の子供として相応しく生きる力と知恵と愛をあたえてくださいます。その恵みで私たちの内なる人が神によって生かされ日々新たにされます。だから外なる人が衰えても私たちは落胆しません。

この世でわたしたちの内なる人は日々成長しますが完全にはなりません。それは天に召されたときまで待たねばなりません。
「17 わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。」(コリント人への第二の手紙4章)

永遠の命とこの世の命
この世での私たちの生涯は永遠と比べると、あっという間です。今はこの世のことしか直接に見えないのでこの世のことが全てだと思い込むことがあります。しかしそうではありません。これからの命は神との完全な交わりに永遠までその言い尽くせない喜びと楽しみが待っています。といってこの世の生涯はあまり価値がないと言ってはなりません。この世で私たちは神とともに歩んだイエス・キリストに似ていきます。いろいろの経験をとおして私たちは成長していきます。天に召されると神との健全な関係をもって主はそのものを完全にしてくださいます。この世の命は永遠の命の準備の過程です。
「18 わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。」(コリント人への第二の手紙4章)

大きな確かな希望をもって私たちは天国を目指すべきです。
パウロが書いたピリピ人への手紙のように「私たちの国籍は天にあります」とあり、この天は私たちの永遠の住処ですから、この世にある間でも天国に目を注ぎ確かな希望をもって楽しんで待ちます。

最後に今日の御言葉コリント人への第二の手紙5章で言われました。
「1 わたしたちの地上の住みかである幕屋が滅びても、神によって建物が備えられていることを、わたしたちは知っています。人の手で造られたものではない天にある永遠の住みかです。」

この世はテント
テントを作っていたパウロは天幕の限界を知っていました。だれもテントに暮らしたくありません。パウロはこの世の暮らしをテントに比べました。神はテントの代わりにしっかり建てられた永遠の住処、素晴らしい建物をわたしたちのために準備してくださいました。

永遠の確かな住処
主イエスはヨハネによる福音書14章でこう約束されました。
1 「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。
2 わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。
3 行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。」

私たちは落胆しない
どんな苦難があっても永遠の住処の希望をもった使徒パウロは落胆しませんでした。自分の外なる人は衰えて行くとしても落胆しないで続けて積極的に神と隣人に仕え福音を伝えました。愛する兄弟姉妹、私たちもこの同じ信仰を抱きましょう。この確かな信仰のみは永遠の住処まで私たちを守って下さいます。(おわり)

2012年07月03日 | カテゴリー: コリントの信徒への手紙二 , 新約聖書

2012年6月17日説教「弱さの中の強さ」神戸長田教会吉田実牧師

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要約(文責近藤)

聖書:新約聖書

コリントの信徒への手紙二1~10

主から示された事)1 わたしは誇らずにいられません。誇っても無益ですが、主が見せてくださった事と啓示してくださった事について語りましょう。2 わたしは、キリストに結ばれていた一人の人を知っていますが、その人は十四年前、第三の天にまで引き上げられたのです。体のままか、体を離れてかは知りません。神がご存じです。

3 わたしはそのような人を知っています。体のままか、体を離れてかは知りません。神がご存じです。4 彼は楽園にまで引き上げられ、人が口にするのを許されない、言い表しえない言葉を耳にしたのです。5 このような人のことをわたしは誇りましょう。しかし、自分自身については、弱さ以外には誇るつもりはありません。

6 仮にわたしが誇る気になったとしても、真実を語るのだから、愚か者にはならないでしょう。だが、誇るまい。わたしのことを見たり、わたしから話を聞いたりする以上に、わたしを過大評価する人がいるかもしれないし、7 また、あの啓示された事があまりにもすばらしいからです。それで、そのために思い上がることのないようにと、わたしの身に一つのとげが与えられました。それは、思い上がらないように、わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使いです。

8 この使いについて、離れ去らせてくださるように、わたしは三度主に願いました。

9 すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。10 それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。

 

パウロの信仰の確信

8節「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」とパウロは「私は弱いときに強い」と彼の信仰の確信を語る。こう語らざるを得なかった教会の背景がありました。それは偽使徒がいて教会員を惑わし、パウロへの信頼が失われそうであったという背景がありました。

 

偽使徒は言葉巧みに彼ら自身を立派なものだと誇ったのです。それでパウロは彼らに勝る、かれらの及びもつかない自身の神秘体験を語ります。

 

第三の天

天国を垣間見たというパウロの神秘体験をもって神はパウロを励ましたのです。それは偽使徒に惑わされている信徒の目を覚まさせるために、彼パウロが誇るためでなくキリストに結ばれた人はだれでも与えられる第三者の体験として語るのです。コリントの教会に対してパウロは自分の誇りとか思上がりの衝動を抑えることに困難を覚えたこともあったかもしれません。「それで、そのために思い上がることのないようにと、わたしの身に一つのとげが与えられました。それは、思い上がらないように、わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使いです。」

 

肉体のとげとは

それは体の欠陥とかテンカンのような病気であったと言われますが明らかなことは書かれていません。ともかくパウロは祈りました。

8 この使いについて、離れ去らせてくださるように、わたしは三度主に願いました。」

サタンの使いを去らせて下さいと祈ったこと対する主の答えは

9 すると主は、『わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ』と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。」

 

喜んで自分の弱さを誇りましょう

彼はキリストのために弱さの中にあっても満足できました。弱さこそがキリストの力の宿るところであります。弱い人を弱いままに主は用いて下さいます。私たちの弱さは主の御業がはじまる舞台となります。

 

神戸長田教会の日曜礼拝の講壇に私が立って説教を始めようとしているときのことです。

当時中学2年生の私の自閉症の息子が突然パニックになり大声で教会入口の窓ガラスを割ってしまいました。私は説教台の上から心配で心が乱れました。司会長老がオルガン奏者に合図を送り奏楽を長く引き続けるよう指示してくれました。その間にガラスの破片を掃除し割れた入口に段ボール紙でふさいで下しました。私は教会の家族として息子を受け入れてくださったことに、教会を主の体としてここまでに成長させて下さることに感謝の祈りを捧げました。息子の言葉を返しては下さいませんでしたが、主のお言葉を自分たちの言葉として受け入れることができる姿に感謝しました。

 

私たちの弱さこそ強さ

私たちはそれぞれに弱さあがあります。高齢社会では今までできていたことができなくなる苦悩、変化、弱さを様々に経験します。そのような時私たちの祈りが、祈りながらも聞き入れられないように思えるかもしれません。私たちの祈りが聞き入れられないのではありません。きっと主の御計画があり、そこから良いことが始まります。

 

モーセの例

偽使徒たちのように誇り高ぶる者は主に用いられません。例えば出エジプトにおけるモーセは、若いときは宮殿で王子としてちからを持っていたけれど、その出エジプトの大きな働きを許されませんでした。80歳の時、ミデアンの野で羊飼いをしているとき彼を召し出されました。彼は自分の口べたを理由に断りました。神は彼が弱さを覚える時にこそ大事業をなさせ給いました。

 

10 それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。」

 

弱さから始まる良いこと(主の体なる教会)

主イエスは弱さを覚える信仰者を用いられます。弱さから始まる良いことがあります。

さまざまの弱さを持ったものの存在は教会の宝です。ともに神の家族として祈り求めるときキリストの体として教会は成長し主は良き出会いを与えて下さいます。

パウロが楽園にまで引き上げられた体験は私たちの体験になります。主と一つになる体験、これは夢物語ではありません。

 

教会の一人一人が弱さの中に一緒にいるとき神は人とともに居てくださいます。私たちは主の手足としてここから遣わされたく願い祈りましょう。(終わり)

 

 

 

 

2012年06月18日 | カテゴリー: コリントの信徒への手紙二

「慰めを豊かにくださる神」ウイリアム・モーア2011.7.10

 

聖書:コリントの信徒への手紙二1章3−7

 

 

【神が下さる慰めとは】

今日は、 御言葉をもって愛する神が私達に下さる慰めについて学びたいと思います。つまり、私達は悩み苦しむとき、神はどういうふうにして、その苦難を慰めて、新しい希望と力を与えるのでしょうか。

 

【今、悩みがない?】

しかし、「慰め」と言うと、恐らく、私達の中のある兄弟姉妹はこう思うかも知れません。「神の慰めはとても良い課題だと思いますが、今、私は別に悩みや苦しみなどがない、元気と希望満々だ。ですから、今日のメセージは私と関係があんまりないと思う。

 

実は、今、悩みとか別に何もないにもかかわらず、今朝のメセージはあなたに当てはまります。なぜなら、必ずいつか、どんな人でも傷つけられたり、失望したり、苦しみと悩みを味わいます。聖書に於ける多くの人物さえも悩みに打ちひしがれて、苦難に直面したのです。ですから、私達は一人も残らず、いつかそう言う辛い事を体験します。そして、信仰の英雄と同じように、その時こそ、主の豊かな慰めが何よりも必要となります。

2011年07月10日 | カテゴリー: コリントの信徒への手紙二 , 新約聖書

「言葉では言い尽くせない神の贈り物」ウイリアム・モーア2011.7.3.

聖書;コリントの信徒への手紙二9章6−15

 

【養育費を増やすために】

20数年前の事ですが、私達は子供の教育の為に、将来、資金が絶対に必要だと思って、給料からお金を一所懸命に貯めようとしましたが、宣教師の給料なので、貯金が増える事はなかなか時間がかかりました。

 

そして、やっとある程度のお金を貯めた時、大事な事が分かりました。それは、三人の子供の学費に必要な資金は、普通にお金を貯めるだけでは全然足りませんでした。つまり、限られた貯金を増やさないと、子供達が大学へ行こうとした時、家計が大変苦しくなります。その時、景気が割合に良かったので、貯めたお金を株に投資しようとしました。色々と調べた上、あるハイテク化学と技術ファンドを探し、勇気を出して子供の教育貯金全部をその株に掛けました。更に毎月少しずつ定期的に株をまた購入したのです。

 

【株価の虜】

そして、新株主になった私は毎朝起きると、パソコンで必ず株の様子を調べました。もし大きな損の場合、子供達が大学へ行けなくなる可能性がありました。その反面、伸びたら、行かせられるのです。ですから、株に取りつかれてしまい、株価が上がったら大喜びました。下がったら、心配したのです。丸でジェット・コースターのような存在でした。

 

2011年07月03日 | カテゴリー: コリントの信徒への手紙二 , 新約聖書

「あなたのとげは何ですか」ウイリアム・モーア2011.3.6

 

聖書:コリントの信徒への手紙二12章7−10

        

【アカシアの棘】

棘が深く刺さった事がありますか。薔薇の棘やアカシアの木などの棘が身に刺さったら、その痛みをよく覚えていると思います。子供の頃、近所にはアカシアの木が沢山ありました。そして、毎年の夏、アカシアの花が咲く時、仲間がその木に上り、白い花を摘みました。花は甘くて美味しいおやつになりました。しかし、アカシアの木に上るには勇気が結構いりました。何故なら、長く尖っている棘が沢山あったからです。実は、私は友たちに勇気を見せる為、木に上り、何回も棘に刺された事がありました。ですから今日の御言葉に使徒パウロが「身に一つの棘が与えられました」と言うと、その苦しみを十分理解出来ます。

2011年03月06日 | カテゴリー: コリントの信徒への手紙二 , 新約聖書

キリストの香り ウイリアム・モーア宣教師

コリントの信徒への手紙二2章14−17

14:神に感謝します。神は、わたしたちをいつもキリストの勝利の行進に連ならせ、わたしたちを通じて至るところに、キリストを知るという知識の香りを漂わせてくださいます。15:救いの道をたどる者にとっても、滅びの道をたどる者にとっても、わたしたちはキリストによって神に献げられる良い香りです。16:滅びる者には死から死に至らせる香りであり、救われる者には命から命に至らせる香りです。このような務めにだれがふさわしいでしょうか。17:わたしたちは、多くの人々のように神の言葉を売り物にせず、誠実に、また神に属する者として、神の御前でキリストに結ばれて語っています。

【体臭と臭い署名】 ニュ−スを読むと、最近、科学者は色んな珍しいものを研究しているという事が分かります。例をあげていえば、アメリカにある研究所はタイシュウを調べています。そのタイシュウは「多数の人」と定義されているタイシュウではありません。実は、そのタイシュウは人間の肉体の臭いです。研究によりますと、あらゆる人に独特な体臭があります。そして、指紋のようにその臭いは個人に独自のものです。つまり、同じ体臭を持っている人は二人もいません。更に、人は香水をつけて、ニンニクか強いスパイスを食べていても、そのユニークな「臭いの署名」が残ります。ですから、技術が開発されたら、指紋と証明写真の代わりに、当局は肉体の臭いで人の身元を確認する事が可能になります。もしかしたら、将来、空港で入国管理局を通る時、体臭探知器が自分の臭いを嗅ぐかも知れません。

言うまでもなく、体臭は非常に微妙な問題です。肉体の臭いを消す為に体を洗ったり、歯を磨いたり、香水をつけたりします。私達皆は出来るだけいやな臭いを漂わしたくありません。

2008年11月23日 | カテゴリー: コリントの信徒への手紙二 , 新約聖書

ホームシック ウイリアム・モーア宣教師

聖書:コリントの信徒への手紙二5章1−10

1:わたしたちの地上の住みかである幕屋が滅びても、神によって建物が備えられていることを、わたしたちは知っています。人の手で造られたものではない天にある永遠の住みかです。2:わたしたちは、天から与えられる住みかを上に着たいと切に願って、この地上の幕屋にあって苦しみもだえています。3:それを脱いでも、わたしたちは裸のままではおりません。4:この幕屋に住むわたしたちは重荷を負ってうめいておりますが、それは、地上の住みかを脱ぎ捨てたいからではありません。死ぬはずのものが命に飲み込まれてしまうために、天から与えられる住みかを上に着たいからです。5:わたしたちを、このようになるのにふさわしい者としてくださったのは、神です。神は、その保証として"霊"を与えてくださったのです。6:それで、わたしたちはいつも心強いのですが、体を住みかとしているかぎり、主から離れていることも知っています。7:目に見えるものによらず、信仰によって歩んでいるからです。

8:わたしたちは、心強い。そして、体を離れて、主のもとに住むことをむしろ望んでいます。9:だから、体を住みかとしていても、体を離れているにしても、ひたすら主に喜ばれる者でありたい。10:なぜなら、わたしたちは皆、キリストの裁きの座の前に立ち、善であれ悪であれ、めいめい体を住みかとしていたときに行ったことに応じて、報いを受けねばならないからです。


【ホームシック】
今年の春に中国の上海に行きました。初めての中国の旅ですから、とても面白かったです。特に向こうのキリスト教会の現状と中国の経済的発展を自分の目で見る事は良い勉強になりました。しかしながら、そのツアーの最後の日になると、不思議にどうしても家に帰りたい気持ちがあったのです。

その気持ちになったのは別に上海が嫌い訳ではありませんでした。本当に刺激的な所で、いつかもう一度また来てみたいと思いました。けれども、向こうの環境の違いの故に、家を憧れ帰りたかったのです。言葉は通じなし、食べ物も慣れていませんでした。ホテルのベッドは板のように固くてよく眠れませんでした。また、上海の道が分からなくて自由に動きが取れないと言うのも不便でした。ですから、馴染みが深い神戸と我が家を憧れ帰りたかったのです。と言うのは。

恐らく私はちょっとホームシックになったかも知れません。誰でも遠く離れると、いくら良いと言っても、やはり、楽にさせる家の事や慣れて来た環境をなつかしく思う心があります。

2008年08月03日 | カテゴリー: コリントの信徒への手紙二 , フィリピの信徒への手紙 , ヨハネの黙示録 , 新約聖書

自分の救いを達成するように努めなさい ウイリアム・モーア宣教師

フィリピの信徒への手紙2章12−18
 
【牢獄のパウロ】
使徒パウロは先程読ませて頂いた御言葉を牢から書きました。彼は信仰の故にローマ帝国の当局によって逮捕され、裁判を受ける間、閉じ込められました。私達はその告発が詳しく分かりませんが、イエス・キリストの信仰を大胆に人々に伝えたので、牢に入れられ、これから死刑される可能性が十分ありました。
 
牢に入れられた使徒パウロはその大変不安な時を、どのように日々を過ごしたでしょうか。彼が自分の不安と困苦と法的問題で落ち込んでいたら私達はその気持ちが十分分かります。また、信仰の為にそうなったので使徒パウロが神に失望していたら、それも私達は十分理解出来ると思います。「神様、どうして私はこんなに酷い目にあったのですか。長い間主イエス・キリストの福音を忠実に述べ伝えたのに、どうして私を守りませんでしたか。」もしパウロは気が滅入って来て、そのように呟いても、誰も彼を責めるものはなかったでしょう。しかし、パウロは監獄の大変な生活の中で大きいな喜びを持って、続けて積極的にイエス・キリストの僕として一所懸命に励みました。自分の投獄についてこのように書きました。「兄弟たち、私の身に起こった事が、かえって福音の前進に役立ったと知って欲しい。つまり、私が監禁されているのはキリストの為であると、兵営全体、その他のすべての人々に知れ渡り、主に結ばれた兄弟たちの中で多くの者が、私の捕われているのを見て確信を得、恐れることなく、ますます勇敢に、御言葉を語るようになったのです。」(フィリピの信徒への手紙1:12−14)

2007年11月25日 | カテゴリー: コリントの信徒への手紙一 , コリントの信徒への手紙二 , フィリピの信徒への手紙 , 新約聖書

霊の結ぶ実:節制 ウイリアム・モーア宣教師

コリントの信徒への手紙一9:19−27
ガラテヤの信徒への手紙5:22−23
 
【妻の犠牲と半額割引飛行】
アメリカの1920年頃、飛行機はまだ珍しい時代、あるパイロットは自分の風防のない小型飛行機で国中を巡回しながら、儲ける為に他の人を乗せていました。ある日、牧師とその奥さんが飛行場に来て、ひと乗りしてくれるように願いました。しかし、お金があんまりないから、聖職者割引にしてくれるように頼みました。すると、パイロットは、「聖職割引はないけれども、もし飛行機に乗ってる間に、お二人が黙って、口を何も聞かなかったら、半額で乗せて上げます。しかし、口を出せば、二倍ちょうだいたします」と提案しました。その二人はどうしても飛行機に乗りたかったので、すぐにその条件をのみました。それはあぶく銭と思ったパイロットは牧師と奥さんを飛行機に乗せ、早速離陸しました。そして、彼は色んな激しい曲芸飛行を実行し始めしました。ローラーコースターのように急速で空を上がってから、急降下しました。それから、飛行機を上下転倒して低く飛んで、橋の下を通りました。その激しい曲芸飛行をしたのに牧師とその奥さんは何も言わすに沈黙を守りました。パイロットは諦めて着陸に入ろうとする時、彼は言い出しました。「この飛行は私さえもぎょっとさせたのに、先生は何も言いませんでした。お二人の自制は大変驚くべきものです。」牧師はその事を聞いてこのように返事しました。「実は、飛行の中のある時点、私はもう少しで我慢出来なくて叫ぶところでした。」「それはどんな時でしたか」とパイロットに聞かれると、牧師は返事しました。「飛行機が引っくり返えて家内が陸まで落ちてしまった時は、さすがちょっとびっくりしましたよ。」
 
【聖霊の結ぶ実:節制】
今日は最後の聖霊の結ぶ実にやっと参りました。今まで、愛と喜びと平和と寛容と親切と善意と誠実と柔和を学んで来ました。そして、最後に節制と言う徳目が与えられています。もう一度強調したいのですが、この「実」は賜物です。キリスト者なら、聖霊なる神は私達に宿り、その実を現す可能性を十分与えて下さいます。しかし、私達の内にいらっしゃる聖霊の働きを許さなければなりません。つまり、それぞれの徳目を毎日の生活に実行する意志が必要です。

2007年07月29日 | カテゴリー: ガラテヤの信徒への手紙 , コリントの信徒への手紙二 , ローマの信徒への手紙 , 新約聖書

新しいことを行ってくださる神 ウイリアム・モーア宣教師

イザヤ書43章

18:初めからのことを思い出すな。昔のことを思いめぐらすな。 19:見よ、新しいことをわたしは行う。今や、それは芽生えている。あなたたちはそれを悟らないのか。わたしは荒れ野に道を敷き/砂漠に大河を流れさせる。  20:野の獣、山犬や駝鳥もわたしをあがめる。荒れ野に水を、砂漠に大河を流れさせ/わたしの選んだ民に水を飲ませるからだ。  21:わたしはこの民をわたしのために造った。彼らはわたしの栄誉を語らねばならない。  22:しかし、ヤコブよ、あなたはわたしを呼ばず/イスラエルよ、あなたはわたしを重荷とした。  23:あなたは羊をわたしへの焼き尽くす献げ物とせず/いけにえをもってわたしを敬おうとしなかった。わたしは穀物の献げ物のために/あなたを苦しめたことはない。乳香のために重荷を負わせたこともない。 24:あなたは香水萱をわたしのために買おうと/銀を量ることもせず/いけにえの脂肪をもって/わたしを飽き足らせようともしなかった。むしろ、あなたの罪のためにわたしを苦しめ/あなたの悪のために、わたしに重荷を負わせた。  25:わたし、このわたしは、わたし自身のために/あなたの背きの罪をぬぐい/あなたの罪を思い出さないことにする。

          
【難船の男】
ある男が難船の故に独りで大海の中の小さい無人島に流れ着きました。彼は半死半生の状態でしたが、やっと雨と太陽から身を守る為に流木で小屋を建てる事が出来ました。彼は救われるように毎日一生懸命に神に祈りましたけれども、何週間経っても助けられませんでした。ある日、彼は食べ物を漁り歩いてから、小屋に帰ると、酷い光景を見ました。稲妻が小屋を打って、もうもうたる煙が立っていました。小屋は全焼してしまったので、男の人は怒りと悲痛で神に叫びました。「神よ、どうしてこんな酷い目に遭わせたのですか。もう我慢出来ません。私の命を取って下さい。」

2007年04月29日 | カテゴリー: イザヤ書 , コリントの信徒への手紙二 , 列王記下 , 新約聖書 , 旧約聖書

神の信実・神への忠信 ―ダビデ王とその家臣― 市川康則牧師/神戸改革派神学校教授

(歴代誌上11章15‐19)

序.
 歴代誌上11章15‐19は、ダビデとその家臣が共々に、またそれぞれに、神に対して忠義であり、真に献身したことを伺わせる一つのエピソードを記しています。この箇所の並行記事がサムエル記下23章13‐17にありますが、そこでは、三勇士の武勲は、ダビデの生涯と事績を記す一連の物語の終わりのほうに位置しています。今朝の箇所では対照的に、ダビデがサウルに代わって登場してくるのを書き始める部分―長いダビデ物語の初めのほう―に位置しています。
 
神の民、イスラエル王国の要とも言うべきダビデ王朝の勃興・形成の物語の最初期から、ダビデ自身の事績のみならず、彼の忠義な家臣団が―各自の名前が連ねられて―述べられていることは意義深いことです。イスラエル王国の基礎固めがなされ、それを通して主なる神の主権的支配が着実に進んで行く背景には、ダビデだけなく―ダビデ一人ではどうにもなりません!―彼が自らの王の任務を遂行することができるように、彼に仕えた多くのイスラエルの家臣がいたことが、読者には初めから印象付けられます。神はご自身の御業の遂行のために、ダビデの忠実な家来をも(ダビデと共に)用いられたのです。

2006年11月26日 | カテゴリー: コリントの信徒への手紙二 , サムエル記下 , ヨハネによる福音書 , ルカによる福音書 , 創世記 , 新約聖書 , 旧約聖書 , 歴代誌上

「心の貧しい人々は幸いである」 田村英典牧師/淀川キリスト教病院伝道部長

マタイによる福音書5章 ◆山上の説教を始める 1:イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。2:そこで、イエスは口を開き、教えられた。 ◆幸い 3:「心の貧しい人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。 4:悲しむ人々は、幸いである、/その人たちは慰められる。 5:柔和な人々は、幸いである、/その人たちは地を受け継ぐ。 6:義に飢え渇く人々は、幸いである、/その人たちは満たされる。 7:憐れみ深い人々は、幸いである、/その人たちは憐れみを受ける。 8:心の清い人々は、幸いである、/その人たちは神を見る。 9:平和を実現する人々は、幸いである、/その人たちは神の子と呼ばれる。 10:義のために迫害される人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。 11:わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。 12:喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。


【山上の説教】

今朝は、主イエスの語られた山上の説教の冒頭の教えに注目したいと思います。

3~10節で主は


「~は幸いである」

と言われます。どういう人のことを、主は語っておられるのでしょう。実は真の信仰者、真のクリスチャンとは、どういう特徴を持つ人かを、8つの角度から描いておられるのです。従って、これらにより、私たちはクリスチャンとしての自分を様々な角度から吟味することができ、また何が真に幸いなのかも再確認できます。

2006年09月10日 | カテゴリー: イザヤ書 , コリントの信徒への手紙一 , コリントの信徒への手紙二 , テモテへの手紙一 , マタイによる福音書 , ヤコブの手紙 , ルカによる福音書 , ローマの信徒への手紙 , 出エジプト記 , 新約聖書 , 旧約聖書

テントから永遠の家へ ウイリアム・モーア

コリントの信徒への手紙二5章1−10

【避暑地の出来事】
私は韓国で大きくなる間、毎年の事ですが夏になると家族そろって、韓国の南にあるチリ山と言う山で休暇を過ごしました。その高い山の天辺に憩いの場として宣教師達がその所を開拓し、夏の蒸し暑さを逃げて、静かな所で休む事が出来ました。車の道がなかったので、上まで登るのは四、五時間程かかりました。電気や電話やお店なども全くありませんでしたが、特に私達子供はそこで素晴らしい日々を過ごしました。友達と一緒に山歩きとテニスと遊泳でのんびり休みを楽しむ事が出来ました。子供の頃の思い出の中で、その山での思い出は一番心に残っています。実は、今も大人になっても私は山に憧れ、たまに登ります。

【台風でテントは壊された】
山の思い出はとても良いんですが、一つだけとても怖い思い出があります。それは五歳の頃です。その時わたしたち家族には山小屋がまだなかった為、テントを張って夏を過ごしました。それはこの部屋の大きさぐらいの軍用テントでした。朝鮮戦争の残り物で、お父さんが市場で購入したと思います。小さい子供であった私にはその大きなテントで暮らすのは大変面白かったです。しかし、ある夜、台風が来ました。始めは雨が激しく降りましたけれどもテントの中は安心でした。しかし、やがて風が吹き始めました。そして、風は段々強くなると共にその音がひどくなりました。更に、テントがひどく揺れだしました。すると、テントを支えている真ん中の木の柱が曲がって来て、壊れる恐れがありました。お父さんとお母さんが側にいましたので、僕はその時までもあんまり心配しませんでしたが、お父さんが急に、「避難しなくちゃ。早く逃げよう」と叫ぶと、ちょっと不安になりました。そして、五人の家族はその酷い台風の風と雨の中で200メートル離れた友人の小屋へ何とか進んで、やっと無事に着きました。その恐怖は今もよく覚えています。

寝る事も出来なかったけれども、その晩は友人の小屋で過ごし、朝早く台風が過ぎてから、早速家のテントを見に行きました。テントはもちろんその中にある物もメチャクチャになり、被害が少なくありませんでした。避難しなかったら、多分怪我をしたかも知れません。お母さんがぺちゃんこになったテントを見て、お父さんに、「小屋を作ってくれないうちは、この山に戻りません」と言いました。そして、次の夏、その台風の御陰で家の家族は丈夫な山小屋で夏を過ごす事が出来ました。

【テント生活の限界】
今日の聖書の箇所に使徒パウロは私達のこの世での存在をテントに暮らすような存在と比べました。実は、パウロは伝道をしながらテントの職人として食べて行きました。彼は優れたテントを作ったと思いますが、テントの基本的な限界がよく分かりました。今日の朗読、コリントの信徒への手紙二5章1節からもう一度お読み致します。

「私達の地上の住みかである幕屋が滅びても、神によって建物が備えられている事を、私達は知っています。人の手で造られたものではない天にある永遠の住みかです。私達は、天から与えられる住みかを上に着たいと切に願って、この地上の幕屋にあって苦しみもだえています。それを脱いても、私達は裸のままではおりません。この幕屋に住む私達は重荷を負ってうめいておりますが、それは、地上の住みかを脱ぎ捨てたいからではありません。死ぬはずのものが命に飲み込まれてしまう為に、天から与えられる住みかを上に着たいからです。」

2006年07月09日 | カテゴリー: コリントの信徒への手紙二 , ヨハネによる福音書 , 新約聖書

求めなさい ウイリアム・モーア

マタイ7章7-12

【祈りの大小】
皆さん、今朝、一つの質問を致したいのです。それは、祈る時、神にどのような祈りを捧げますか。つまり、自分のための願いは大きいですか。それとも小さいですか。この質問をするには理由があります。それは、何よりも祈りは神に対する私達の態度と概念の現れなのです。ですから、私達は自分の祈りを調べてみたら、実際にどのような神を私達が信じているかが分ります。

【子供が親に願う事】
子供が親に願う事と、神に祈るのはある面で非常に似ているところがあると思います。実は、アメリカで勉強している次男のポールは今、車を欲しがっています。ロサンジェルスは広くて、また、公共輸送は不便ですから、車があったら活動が随分楽になると考えられます。ですから、ポールは家に電話する時、車の課題がよくでます。この間、彼は、「$2、000があったら車を手に入れられる」と言いました。そして、車を買ってくれたら、アルバイトを探す事が出来るし、その報酬で自動車保険にも入れると更に言ってきました。つまり、ポールは親の予算を考えながら、願っています。間違いなく、もし金持ちの親であったら、ポールは新車の高級スポーツカーを願った事でしょう。しかし、彼は家族の状態が分るから、言われなくてもそれは不可能だとよく知っています。

同じように、私達は神の力が限られていると思ったら、私達の祈願があんまり大きくはないでしょう。神には不可能だと思った事を願うはずがないからです。また、神は私達の願いを出し惜しむ、気難しいお方だと思っていたら、祈りをあんまりしないかも知れません。その反面、神は全てを造り、全てを所有する愛する天のお父さんだと信じたら、きっとその願いは大きいはずです。

【求めなさい。そうすれば、与えられる】
今日の聖書の朗読はイエス・キリストの山上の説教の続きになります。そして、主はこのように私達に命じています。

「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。」(マタイ7:7)

2005年11月13日 | カテゴリー: コリントの信徒への手紙二 , マタイによる福音書 , 新約聖書

心からの義 ウイリアム・モーア

マタイによる福音書5章17-26

◆律法について

17:「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。

18:はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。

19:だから、これらの最も小さな掟を一つでも破り、そうするようにと人に教える者は、天の国で最も小さい者と呼ばれる。しかし、それを守り、そうするように教える者は、天の国で大いなる者と呼ばれる。

20:言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない。」

◆腹を立ててはならない

21:「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。

22:しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。

23:だから、あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、 24:その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい。

25:あなたを訴える人と一緒に道を行く場合、途中で早く和解しなさい。さもないと、その人はあなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡し、あなたは牢に投げ込まれるにちがいない。

26:はっきり言っておく。最後の一クァドランスを返すまで、決してそこから出ることはできない。」

腰痛とスポーツクラブ

私はずっと前から腰が弱いので、腰の手入れにかなり気を付けています。そうしないと腰がすぐ痛くなり、ある時はベッドから全然起き上がられない程ひどくなります。

数年前、特に苦しかった時、病院へ行って、腰痛の対策を教えて貰いました。それはおもに腰と腹の筋肉を強くさせる運動と足のストレチング・エクササイズでした。その運動をちゃんとすれば、腰が良くなると言われた私は頑張りました。しかし忙しい時は、忘れてしまいました。そうすると、やはり腰がまた痛くなります。

ですから、運動がもっとちゃんと出来るように近くにあるスポーツ・クラブに通い始めました。実際よく続けて運動しました。そうして腰は良くなりました。

2005年10月09日 | カテゴリー: コリントの信徒への手紙二 , マタイによる福音書 , 新約聖書

完璧な贈り物 ウイリアム・モーア宣教師 クリスマス礼拝

2004年12月19日ウイリアム・モーア宣教師 


◆イエスの誕生          ルカ福音書2章
1:そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。2:これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。
3:人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。 4:ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。
5:身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。6:ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、7:初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。
◆羊飼いと天使
8:その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。9:すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。
10:天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。
11:今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。
12:あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」
13:すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。
14:「いと高きところには栄光、神にあれ、/地には平和、御心に適う人にあれ。」
15:天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは、「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と話し合った。
16:そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。
17:その光景を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。
18:聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。
19:しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。20:羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。

【子供だった頃】
私は子供の頃、一年中クリスマスが来るのを一番楽しみにしていたのでした。何故かと言えば、クリスマスに沢山のプレゼントが貰えるからです。我が家ではお年玉の伝統がなかったので、おもにクリスマスにプレゼントを頂きました。そして、我が家では、その包装紙とリボンで包んだプレゼントをクリスマスの前に絶対に開けてはいけないと言うルールがありました。ですから、子供の私には、クリスマスが来るまで待つのはとても難しいことでした。今も覚えていますが、クリスマスが近くなると母に毎日こう聞きました。「ママ、クリスマスまで後何日残ってる?」そして、その日数が小さくなる程、幼い私の興奮がますます高まりました。

2004年12月19日 | カテゴリー: コリントの信徒への手紙二 , ヨハネによる福音書 , ヨハネの手紙一 , ルカによる福音書 , 新約聖書