2013年9月29日説教「キリストの為に」金 昭貞(キムソジョン)先生(板宿教会伝道師)

CIMG5119.JPG

2013929日説教「キリストの為に」金 昭貞(キムソジョン)(先生(板宿教会伝道師)

聖書:コリントの信徒への手紙二121~10

12:1 わたしは誇らずにいられません。誇っても無益ですが、主が見せてくださった事と啓示してくださった事について語りましょう。

12:2 わたしは、キリストに結ばれていた一人の人を知っていますが、その人は十四年前、第三の天にまで引き上げられたのです。体のままか、体を離れてかは知りません。神がご存じです。12:3 わたしはそのような人を知っています。体のままか、体を離れてかは知りません。神がご存じです。12:4 彼は楽園にまで引き上げられ、人が口にするのを許されない、言い表しえない言葉を耳にしたのです。

12:5 このような人のことをわたしは誇りましょう。しかし、自分自身については、弱さ以外には誇るつもりはありません。

12:6 仮にわたしが誇る気になったとしても、真実を語るのだから、愚か者にはならないでしょう。だが、誇るまい。わたしのことを見たり、わたしから話を聞いたりする以上に、わたしを過大評価する人がいるかもしれないし、12:7 また、あの啓示された事があまりにもすばらしいからです。それで、そのために思い上がることのないようにと、わたしの身に一つのとげが与えられました。それは、思い上がらないように、わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使いです。

12:8 この使いについて、離れ去らせてくださるように、わたしは三度主に願いました。

12:9 すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。

12:10 それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。

 

(説教要約 文責近藤)

【パウロの受けたトゲ】

今日朗読してしたところで使徒パウロは自分の身に一つのとげが与えられと言います。皆さんもトゲが刺さったことがあると思います。小さなトゲでも痛いですし他のことに集中できません。早く抜いてほしいと思います。パウロは神様に自分のトゲつまり弱さを取ってくださいと願いましたが神様の答えは否でありました。何故でしょうか。

 

今日は信仰の歩みの中でのトゲの意味とそれを通して顕される神の恵みについて御言葉から、特に9節と10節からこのことに耳を傾けてみたいと思います。

 

【コリントの街とコリント教会】

当時のコリントはギリシャ半島の付け根にある港街でローマ帝国の植民地でありました。しかしギリシャ・ロマ帝国の交通の要所として非常に栄えた街であります。そこはいろんな国の人と宗教が集まる国際都市でありましたがまた偶像崇拝が盛んでありました。道徳的にも性的にも堕落していました。そしてコリント教会がここに建てられたのでありますが教会内にも問題が多くトラブルも多くありました。

 

このことに心を痛めたパウロは第三伝道の時にエペソで手紙を出しました。これが第一コリントの手紙ですが、しかしその後も問題は解決いたしませんで、パウロはコリントの信徒への第二のお手紙を送る前に、涙の手紙と言われるものを書きました。その手紙によってコリント教会の多くの信徒は悔改めましたが、エルサレム教会への献金などまだまだ問題が残っていました。

その中でも偽使徒の問題があり、以前より厳しくなっていました。そうした事情の中でパウロが出した手紙が今日のコリントの信徒への第二の手紙です。

 

【パウロに逆らう偽使徒】

彼ら偽使徒はパウロが伝えたキリストと違うキリストと福音を伝えました。パウロは手紙と違ってじかに会ってみると弱しく話もつまらないし魅力に乏しいと中傷しました。またパウロの使徒権を否定しました。彼らは自分たちこそ使徒だと言ってコリントの信徒たちをキリストから離れさそうとしました。

 

コリントの信徒たちは信仰が弱かったため偽使徒にすぐに騙されました。パウロはもう黙っておれません。それで教会を守るために自分を誇ることは愚かなことだが、偽使徒に騙されている信仰の弱いコリントの信徒を得るためにパウロは自分を誇らざるをえませんでした。

12:1 わたしは誇らずにいられません。誇っても無益ですが、主が見せてくださった事と啓示してくださった事について語りましょう。

 

コリント教会に入り込んだ偽使徒は信徒たちを信仰から離れさせようとして彼らの神秘的な体験を誇り信徒を惑わしました。

 

【パウロのすばらしい体験】

偽使徒がそのような経験を誇るなら、誇っても無益だがパウロ自身、幻と啓示でいくらでも誇れると言います。偽使徒が見せる神秘体験と違ってパウロはキリストが見せて下さったすばらしい啓示であることを強調します。この啓示があまりにも平凡でなかったため高慢に聞こえることを恐れたパウロは自分について彼という3人称で1節から8節に、このように言います

 

12:2 わたしは、キリストに結ばれていた一人の人を知っていますが、その人は十四年前、第三の天にまで引き上げられたのです。体のままか、体を離れてかは知りません。神がご存じです。12:3 わたしはそのような人を知っています。体のままか、体を離れてかは知りません。神がご存じです。12:4 彼は楽園にまで引き上げられ、人が口にするのを許されない、言い表しえない言葉を耳にしたのです。12:5 このような人のことをわたしは誇りましょう。しかし、自分自身については、弱さ以外には誇るつもりはありません。

 

 

第三の天、すなはち天国に挙げられたパウロは天国の素晴らしさを経験しました。他の人には許されていない素晴らしい主の御言葉を主ご自身から直接聞いたのです。体のままか、体を離れてかは知りませんというほどすばらしい体験でした。

 

素晴らしさ、それはパウロ自身に特別な能力があって起ったものではなく、パウロは繰り返し彼自身誇るものは何もなく、自身の弱さしかし誇るものはないと、たとえ誇ったとしても神様から与えられた幻だから偽りではないと述べます。

 

パウロが神様から与えられた幻があまりにも素晴らしかったのでパウロが高ぶることのないように身に一つのトゲが与えられたのです。7節、

12:7 また、あの啓示された事があまりにもすばらしいからです。それで、そのために思い上がることのないようにと、わたしの身に一つのとげが与えられました。それは、思い上がらないように、わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使いです。

 

トゲは具体的にはそれが何かわかりませんが、テンカンだったか頭痛だったかわかりませんが、また別の物だったか、しかしトゲは1つのものではなかったと思います。

 

多くの注解者はパウロは多くの迫害を受けましたが、それがトゲであると言います。

10節によりますとかトゲは体の病のことではなくパウロの受けた試練と誘惑と考える方が良いと思います。

12:10 それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。

 

パウロが受けたトゲは彼が思い上がることのないようにと神様がパウロに与えられたのです。

 

神がパウロにトゲを与えられたのは思いあがることのないようにということだけではありません。その大事な理由は後でのべます。

 

別の大切な理由があったこともあったとしてもトゲは早く抜きたいものです。伝道者パウロはトゲがなかったらもっと伝道ができると思ったかもしれません。

 

それでパウロは神様に三度トゲを取ってくださいと祈ったと書いてありますが、三度とは完全数であり、何度も何度も祈ったということであります。パウロの祈りに対する神様の答えは「わたしの恵みはあなたに十分である」と語られた。

 

9節前半、

12:9 すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。

「わたしの恵みはあなたに十分である」と神様はなぜその答えを与えられたのでしょうか。

 

わたしの恵みはあなたに十分である:私の体験】

私ごとですが一昨年神学校を卒業して、神学生時代から足かけ2年半板宿教会でお世話になっております。恵まれた環境に感謝しています。

しかし説教は貧しい日本語の誤りをいつも恐れております。それは大変なプレッシャーであります。説教そのものもプレッシャーでありますが、さらにその上日本語が完全でないというプレッシャーがあります。聴く者に申し訳ない。そして聞くものにつまずきを与えないか。はじめて来た方につまらない思いをさせるのではないか。そのようなつたない日本語が私のトゲであります。そのような時、神様は9節の言葉を与えられ、「わたしの恵みはあなたに十分である」と言われました。

神様はトゲを耐えるようにではなく、神様はトゲすなわち弱さは恵みあると言われます。

なぜなら神様の「力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました

口語訳聖書は「主の力は弱い所に完全にあらわれる」と訳しています。

 

12:9 すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう

 

私たちにトゲが与えられる大事な理由:神様の力は弱さの中でこそ現れる】

私たち皆はトゲを持っていれば早く抜きたいです。他人は大丈夫といいますが自分自身にはそれは非常に大きな問題となります。しかし神は「わたしの恵みはそれで十分である」と語られる。なぜなら神様の力は弱さの中でこそ現れるのだと言われます。神様は私の下手な説教でもそのままで良いと言われます。なぜなら9節で、「神の力は弱さの中で発揮される」と言うのであります。

 

【尊い器】

パウロはテモテへの手紙二2章で述べます、

2:20 さて、大きな家には金や銀の器だけではなく、木や土の器もあります。一方は貴いことに、他方は普通のことに用いられます。2:21 だから、今述べた諸悪から自分を清める人は、貴いことに用いられる器になり、聖なるもの、主人に役立つもの、あらゆる善い業のために備えられたものとなるのです。


きれいな器が大事だと言うのです。

 

【土の器】

そしてコリントの信徒への手紙二47節で、

4:7 ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために。

 

神が用いられる器はきれいな土の器です。なぜ金の器に宝をいれないのか、それは計り知れない力が私たちのものではなく神から出るためであることが分かるためです。

 

神様は言われます。私の力は弱いところに完全に現れる。

宝を金の器に入れると宝は輝きません。しかし土の器に入れると宝は完全に輝くのです。

 

【神様は土の器を用いられる】

神様はたとえ不完全であっても土の器である私たちを用いられるのであります。自分のトゲを抜こうとするのは私たちが金の器、今の器より完璧な器になるためではないでしょうか。

しかし神が望まれるのはわたしたちが完璧な器になるのではなく、神様が全てをなさることが完璧な業なのであって、私たちを主のパートナーのとして用いられることです。それは私たちが主の力により頼み主の恵みを味合うためです。これが私たちにトゲが与えられる神様のやり方であり理由であります。

 

【喜んで自分の弱さを誇りましょう】

それで9節後半をお読みします、

12:9 すると主は、「・・・・・だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。」 と語ります。

 

【パウロの受けた迫害・苦しみ】

パウロが弱さを誇るのはコリントの教会に現れた偽使徒には神の愛が欠けていることをわからせるためです。パウロは弱さのみでなくあらゆる苦痛をも喜びました。

 

パウロは10節で、

12:10 それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。

と告白して満足しているのです。


満足するとはただ耐えて受け身ではなく喜びを感じているということです。はたして迫害の時でさえ喜びを感じ満足することが出来るでしょうか。

パウロが受けた迫害と行づまりはどんなに激しいものであったか、今日のコリントの信徒への手紙Ⅱの前の箇所1123の後半から27節に書かれていますが、

11:23 ・・・・、苦労したことはずっと多く、投獄されたこともずっと多く、鞭打たれたことは比較できないほど多く、死ぬような目に遭ったことも度々でした。11:24 ユダヤ人から四十に一つ足りない鞭を受けたことが五度。11:25 鞭で打たれたことが三度、石を投げつけられたことが一度、難船したことが三度。一昼夜海上に漂ったこともありました。11:26 しばしば旅をし、川の難、盗賊の難、同胞からの難、異邦人からの難、町での難、荒れ野での難、海上の難、偽の兄弟たちからの難に遭い、11:27 苦労し、骨折って、しばしば眠らずに過ごし、飢え渇き、しばしば食べずにおり、寒さに凍え、裸でいたこともありました。

 

【キリストのために】

パウロの受けた大きな迫害は私たちの受ける迫害とは次元が違いますが、パウロ自身なぜこれほどの迫害にも満足できたか。

それは自分のためでなくキリストのために満足できたからです。

10節にパウロの告白があります、

12:10 それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。

 

言いかえるとパウロはキリストの為でなかったらすべては満足できなかったのです。

キリストの為でなかったら、人々に見せるためや自己満足のためなら最後まで耐えることが出来ません。

自分のための働きはしばらくは誇ることがあっても最後まで乗りきる事は出来ません。

なぜなら私たちは主の力と恵みなくして完全にはなり得ないからです。

 

私は自分の日本語のことで苦しんだことを考えました。しかし私こそキリストのためでなく自分自身の為に、自分の栄光のために苦しんで、人びとの前に良い評価を得るために、恥をかきたくないためにトゲを抜いて自分が金の器になろうとしたことに気づきました。

 

【キリストの為に弱くなれる】

しかしパウロは自分のためではなく、またほかのものの為でなく、ただキリストのために満足し迫害を耐え、弱さに満足した。パウロが信仰の戦いのために勝利した秘訣はキリストの為にあった。つまりキリストの為に弱くなれたのです。

 

パウロはもっと自分の受けた迫害を大きく言っても良かったのですが、パウロが受けたトゲと言っております。

 

なぜなら神様が人々の救いの為にこの世に遣わした主イエスが私たちのために受けてくださった十字架に比べると私たちの迫害、苦難、弱さはトゲに過ぎないと言うのであります。

 

主の十字架のゆえに、10節の状態にあってもキリストの為に私たちは弱くなれるのです。私たちを救う主イエスの十字架のゆえに、私たちは弱くなれ満足できるのです、12:10 それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、」「キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです」。

 

最後になりますが私たちはいろんなトゲを持っています。

私たちのトゲとは何でしょうか。パウロのような迫害ほどのトゲでないかもしれませんが、私たちはそれさえなければと思うのでありますが、しかし神様は「私の恵みはあなたに十分である」と語られます。つまりイエス様の十字架は「ありのままの君で良い」と語りかけるのです。

 

どうか私たちの為に十字架を背負って下さった主の救いの恵みと力によって、自分の弱さを大いに喜び、イエスの為に喜んで弱くなることができますように祈ります。(おわり)

2013年09月29日 | カテゴリー: コリントの信徒への手紙二

コメントする

トラックバック(0)

トラックバックURL: http://www.nishitani-church.jp/cgi-bin/mt/mt-tb.cgi/976