2015年2月

2015年2月22日説教「恐るな、ただ信じなさい」金田幸男牧師

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説教「恐れるな、ただ信じなさい」金田幸男牧師

聖書 マルコによる福音書5章35―43

 

要旨

【2人の女性の癒し】

 マルコ4:35からイエス・キリストに敵対する勢力への勝利の物語が三つ並んで記されています。最後の5:21-43には、病気という大きな、キリストの働きを阻止しようとする勢力への勝利が記されます。病んでいるのは2人の女性です。この2人へのキリストの働きは共通点があり、関連していますが、今回は別個に取り上げます。その2人の女性とは、12年間出血と患う人と会堂長ヤイロの12歳の娘です。

 

【会堂長】

 会堂長について若干説明します。ユダヤ人の宗教生活に神殿での行事、そのところでの礼拝は重要ではありましたが、キリストの時代には、それ以上に安息日に会堂【シナゴーグ】に集まって礼拝を守ることが重視されるようになっていました。ユダヤ人はその集落を営むところでは会堂を建て、そこに集まりました。この会堂を管理するものが会堂長です。多くはその地のユダヤ人の間で尊敬されている人物が選ばれました。彼らは律法学者や祭司のような専門家ではなく、一般のユダヤ人の信徒でした。カファルナウムのようなユダヤ人が多く住むところでは会堂の規模もそれなりに大きく、したがって会堂長は複数の人が選ばれていたようです。

 

【ヤイロの懇願と癒しの中断】

ヤイロ(ヘブライ語ヤイル=彼は照らすの意=のギリシヤ語読み)の娘が重病に陥ります。どんな病気であったか記されていませんが、ヤイロはキリストのことを知っており、取りも取りあえず、キリストのところで駆け込みます。彼はキリストの前に平伏して懇願します。その気持ちは分かります。彼にとって、この娘は可愛い盛りでありました。目に入れても痛くないほど激愛していたのに違いありません。切羽づまってキリストに助けを求めたのでした。キリストはいつものように多くの民衆に教えを語っておられる最中でしたから、ヤイロの行動はキリストの働きを中断させるものでした。キリストは、そのようなヤイロの行動を責めることなく、その家まで同行しようとされます。ヤイロはその時点ではひと安心という思いになったかもしれません、ところが、またもや中断が起きます。12年間出血を患っている女が群衆に隠れてキリストの服に触ろうとしました。実際彼女は癒されます。キリストはその女性に名乗り出るように求められます。ヤイロの言動や態度は記されていませんが、気が気でなかったことは容易に想像できます。一刻を争う緊急事態なのにキリストは悠長に女性が名乗り出るのを待っています。

 

 私たちは、心急くことがあり、緊急に何とかして欲しいと思うような経験をしばしば味わいます。ところが、思い通りには行かないのです。これが人生だというべきかもしれません。私たちはいつもかくあって欲しいと思うような願いを心に抱きます。それは緊急の場合も多くあります。しかし、実際には実現しないのです。それは、私たちの信仰生活の中でも起きてきます。神に、願う。懇願する。実現を切に願う。ところが神は一向に答えてくださいません。焦燥感に駆られ、失望をします。こころの苦しみを体験します。

 

【娘の死の知らせ】

 そして、そこに悲報が伝えられます。12年間出血を患っていた女性とやりとりをしている間にヤイロの娘が亡くなったという知らせです。もうキリストに来ていただく必要がない。キリストに来ていただいても何の役にも立たない。もう手遅れである。

 死が私たちにもたらす感情は万事休すです。死が来た時人間はもう何もすることがないし、できない。死によって一切は終了した。生きているときには手の打ちようもあるかもしれないが、死んでしまえば何もできない。人は死の前で全く無力である。死は諦めを促します。死の知らせが伝えられるとき、私たちの心に去来するものは大きな失望です。万事休す。死は一切の終わりである。誰もがそのように考えても不思議ではありません。死に直面して、このような感情が私たちの心を支配します。恐るべき力を持って臨んできます。そして、キリストの関与を拒絶します。死は、キリストをいわばお払い箱にしようと企てるのです。死の領域では、支配者は断じてキリストではないと宣告したがります。死は、死の力の強大さを誇示しようとします。病気もまたこの死を確実にもたらしてくる強大なキリストの敵であると言っても過言ではないでしょう。

 

【「恐れることはない。ただ信じなさい。」】

 ところがキリストはそのような死の厳粛さをぶち壊してしまうような雰囲気を醸しだされます。キリストは言われます。「恐れることはない。ただ信じなさい。」ヤイロに言われていますが、この言葉をそこに居あわせた人が聞いています。

 敵対する勢力、ここでは病気と死ですが、人間に圧倒的な力を振るっています。この力の前で人間は全く手の施しようがないかのようです。ところが、キリストはこの敵対する力に抗して、求められるのは信仰です。12年間出血を患っていた女性には、「あなたの信仰があなたを救った」と言われました。信仰がその奇跡を起こしたと言われているかのようです。むろん、病を癒されたのはキリストの力です。キリストこそ病を打ち倒す実力を持っておられる方です。

 

【死に対するキリストの凄まじい闘い】

ただ、病気も死も恐ろしい力を発揮しています。この力を打ち破るために、キリストは私たちにただ信じなさいと命じられるのです。病と死に対するキリストの闘い、それは凄まじい闘いと言ってもよいでしょうけれども、私たちは単なる観客ではないのです。キリストを信じきることが求められます。信仰のないところでは、病と死という圧倒的な力を前にして、抵抗する術は全くありません。医療技術の進歩で信仰など入る余地がないように思われています。治療に信仰などかえって邪魔だと公言する人もいます。そうでしょうか。病気と死が持っている強烈な力は今もなお健在ではないでしょうか。それを目の前にするのは自分が病んだり、死を目の前にしたときです。そのとき死がおごり高ぶっていることをいやおうなく知らされます。むろん、信仰さえあれば医者は要らないとか、病院に行くことを拒否してもよいなどと言うのではありません。神はそれらを用いて癒しのわざを行われます。神の働きを信じて治療を受けるべきなのです。 

 

【癒しの証人】

 さて、キリストは群衆から離れ、三人の弟子だけをヤイロの家に連れて行きます。奇跡は見世物ではないからです。しかし、密かに行われるべきものではなく、3人プラス、ヤイロとその妻は証人として選ばれます。

 

キリスト一行がヤイロの家に到着したときすでに葬儀は始まっていました。当時のユダヤ人の葬儀はかなり騒然としていたと考えられます。葬儀には必ず泣き女と言って大声を出して泣き叫ぶ職業的専門家が招かれました。大きな声を出して泣き、その場の雰囲気を盛り上げるといってもよいでしょう。ヤイロのような町の有力者の場合はそれ相応の人数の泣き女が招かれたことでしょう。死は悲しい、そういう雰囲気を作り上げることが葬儀の目的でした。葬儀は、今日では、エンターテインメントになっています。専門の業者が入り、葬儀の雰囲気を作り上げます。とても悲しい声で、葬儀が進行されていきます。厳粛な雰囲気を作り上げるためにさまざまな工夫がなされます。しかし、多くの場合、葬儀は、死そのものを直視させようとしません。葬儀の雰囲気は厳粛であり、それ自体責められるべきものではないとしても、死そのものは隠されています。例えば、花や香料で死(者)のにおいはかき消されます。死は葬儀の場では後退させられます。泣き女の存在はその場の悲しみを盛り立てはしますが、それは専門的にその場を悲しい場にしようとするもので、死の問題、死者の存在は後ろのどこかに忘れさせようとしています。しかし、葬儀こそ、私たちはそこで死を直視し、死に対決させられる場なのです。

 

【子どもは死んだのではない。眠っているだけだ】

 キリストが到着します。「子どもは死んだのではない。眠っているだけだ。」この眠りは昏睡を意味しますので、キリストの言葉の通りこの少女は死んでいたのではないという説明をする人もいますが、この文章の流れから言うと確かに死んでいるのであり。キリストはただよみがえらせられることを前提にしてこの言葉を語られただけです。泣き女をはじめそこにいた人は嘲笑します。確かにヤイロの娘は死んでいたのです。誰が聞いてもキリストの言葉は奇異に感じるはずの発言でありました。

 

【タリタ・クム】

 キリストは、少女の手を取って「タリタ・クム」と言われます。ここには呪術の気配は一切ありません。タリタ・クムとはアラム語で、少女よ、わたしは言う、起きなさい、と言う意味です。わざわざアラム語(当時、使われていた共通言語)を記していることは、5人の存在、あるいはあとで食事をさせなさいと言われたキリストの言葉からして、大変リアル(現実的)と感じさせられます。少女に食事をさせるのは特に大きな意味があるとは思われません。詳細な記述です。それがここにあるのは、目撃証言と見てよいのではないかとおもわれます。つまり、ここは実際それを見た目撃者の文体なのです。キリストは間違いなくこの奇跡を公然と行われたのでした。少女は本当に死んでいました。眠ったかのように見えただけです。その死んだ少女を死から確実によみがえらされました。

 

【死に対する勝利】

 キリストは死を打ち破る力を発揮しておられます。そして、これは驚くべき場面です、死そのものがキリストに敗北しています。死に対しても圧倒的な力を発揮されたキリストを私たちは目の前に差し出されています。聖書に書かれてあることでこれほど信じがたい記事はありません。信じがたいのですが、私たちはこの記事のリアルさを思い、また、キリストが大きな力を示されたのを目撃したものの証言であることを支えに、信じることが要求されています。ただ信じるしかありません。信仰とは、信じがたいのですが、それでもなお信じるほかはないと認めていく私たち心の動きであると思います。(おわり)

2015年02月22日 | カテゴリー: マルコによる福音書

2015年2月15日「安心して行きなさい」金田幸男牧師

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説教「あなたの信仰があなたを救った」 

聖書:マルコ福音者5:21―34

 

 

要旨 

【重病のヤイロの娘と12年間出血を患った女性】

イエス・キリストが敵対する諸勢力に勝利された三つの箇所の最後を共に学びたいと願います。ここには12年間出血を患った女性と、ヤイロの娘の癒しという二人の女性の癒しの物語が記されていて、両者は密接な関係にあると見るべきですが、それぞれ大切なことを示していますので、別個に取り上げたいと思います。

 

 21節には、イエス・キリストは船に乗って再び対岸、ガリラヤ湖の西岸に渡ったと記されます。1-20節に記録されている汚れた霊につかれた男の癒しはゲラサ地方で起きたことですが、そこは異邦人の多い地域、デカポリス地方でした。キリストは異邦人の間での働きよりもユダヤ人に伝道することを急がれました。ゲラサでは残って働きをし続けることをせず、西の岸、ガリラヤ地方での宣教に戻られます。岸につくとまた多くに人々が集まって来ました。キリストは群衆を相手に教えを説かれます。そこに、会堂長のひとりであったヤイロがやってきて、キリストの前に跪き懇願します。娘が危篤状態で何とかして欲しい。

 

 キリストは群衆に語っている最中です。ヤイロの行動はキリストの働きを中断させます。つまり、妨害でもあったのです。一般的に言えば、ヤイロの行為は不届きで、迷惑な話です。キリストの働きを中断し、自分の都合を優先する行動で、失礼な話です。自分のことばかり考えている利己的な行為と決め付けることもできるかもしれません。しかし、ヤイロにとっては可愛い娘が死にかけているのであって何とかして欲しいと必死です。キリストはヤイロに対して何を語ったのかここには記されていませんが、キリストは直ちに行動されます。

 

【12年間出血を患った女性】

 ところが、そのキリストの行動を再び妨害する女性の行為が記されます。こっそりとキリストに近づき、その服に触ろうとしたというのです。その女性のことは短く記されます。12年間出血を患っていた。多くの注解書は彼女の病気は婦人病であったとしています。

 

 病気は多くの苦しみをもたらします。まず、肉体の苦痛です。おそらく12年間、貧血に悩まされていたと想像できます。そのために、床に伏している状態が続いていたでしょう。青白い顔をして、起き上がれず、からだはだるく、不快感に悩まされていた。病の多くは痛みを伴います。激痛もありますし、何となく痛むという痛みもあります。痛みは感覚です。長く続けば耐え難い思いになるに違いありません。不眠、食欲不振も辛いものです。味気がない食事を何年も続けなければならないとすると、人生は耐え難くなるに違いありません。

 

 病気は経済的な苦痛ももたらします。この女性の場合、医療費のために全財産を使い果たしたとあります。現在は社会保険制度が完備して、高額の医療費の支払いを免れることもできますが、それでも、治療費やそれに伴う費用は馬鹿になりません。病むことは家族にとっても大きな負担を与えることになります。

 

【「汚れ」の問題】

 この女性の場合、まだ深刻な問題が伴いました。レビ記15:25-27には、女性特有の出血もそうではない特殊な出血も、「汚れ」とされていました。汚れは宗教的な意味があります。それは神殿の礼拝に参加できないというだけではありません。汚れているという状態は、霊的な欠陥とされます。神の前でまともではない。そういうレッテルが貼られます。汚れたものには救いはないと思われてもいました。汚れは神から遠く引き離されることを意味します。汚れたものは神に近づくことができないのです。神から捨てられても当然とされます。

 このような汚れたものは、他の人をもけがしますので、人が集まっているところに近づくことができません。社会的な苦痛をいやおうなく味わうことになります。

 

以上挙げただけでも、病気は、ただ症状だけの苦しみではなく、心の苦痛を伴い、精神的な痛みとなります。心の痛みは、不安、恐れ、孤独、絶望といった苦痛となります。

 

病を得るということは誰もが味わう可能性があります。突然病気は襲ってきます。健康で病知らずを誇っていた人が突然の病に伏してしまうことは決して珍しくありません。病気は誰にもやってくる厄介な状態です。病気は人を選びません。時間も空間も関係なく、病苦は襲ってくるものです。

 

 この女性も病苦から逃れたいと必死の思いになっていました。そこで、キリストのうわさを聞いてキリストに接近しようと計ります。彼女の計画は成功します。キリストの服に触れたのです。すると彼女は病気が直ったと感じます。出血は完全に止まります。

 

キリストは、自分の服に触ったのは誰かと言われました。弟子たちは、イエスの言葉を無視します。こんなにたくさんの人が押し迫ってきている混乱状態、しかも、ヤイロの家に向かう忙しい途中です。誰がキリストの衣服に触ったか分かるはずもない。こういう気分であったと思います。ところがキリストは止められません。なおも、誰がわたしに触れたのかと繰り返されます。女性は恐れつつ、自分の身に起こったことを、ありのまま、群衆の前で語ります。そこで、イエスがいわれた言葉「娘よ、あなたの信仰があなたを救った」が語られます。

 

【「娘よ」】

 このキリストの御言葉こそこの奇跡物語を理飼するための鍵句です。「娘よ」、という呼びかけは福音書ではここだけだけです。娘はむろん息子に対応する言葉です。神の子という意味と同じでしょうけれども、もっと神に属するもの、神から特別に愛されているものという印象を受けます。12年間も病気であり、社会から疎外され、孤独な人生を過ごしてきたこの女性も神の娘に違いないのです。また、この言葉には、差別され、区別されてきた女性に対する憐れみの感情が明らかにされているように思われます。

 

信仰が救った、彼女は何よりも長い病から解放されます。それが救いであることは間違いありませんが、病がもたらす悲惨からの解放、苦悩からの救出であったことはいうまでもありません。それが信仰のもたらしたものです。では、信仰とは何か。

 

【迷信的な信仰】

 彼女の示した信仰は最初は、特別な能力のある人に接触すれば病は治るという迷信的なものでありました。注解書や説教集を読んだりすると、この女性の行為は迷信的なものであったと説明されます。確かにそうかもしれません。古代世界では、偉人、英雄に触れることでその特別な力を伝授されるという迷信的な信仰があったことは事実です。しかし、単純に彼女の信仰は迷信だと片づけるわけにはいかないと思います。彼女はキリストのうわさを聞き、彼に期待をしました。信仰は期待から始まります。キリストに何の期待もしない。そこからは何も起きません。祈りは期待です。期待なしの祈りなどありえません。祈りは信仰に基づきます。迷信的であってもそこにこの女性の信仰が表現されています。

 

【信仰の体験】

 しかし、キリストはこれで彼女の信仰をよしとされていないのも事実です。彼女にも求められていることは、その身に起きたことを明らかにすることでした。衆目に晒されているところで、キリストが何をしてくださったかを語ることは信仰の告白です。勇気が必要です。信仰はその中に神が何をしてくださったかを含みます。信仰は神のなさったことの体験を語ることでもあります。それは信仰の告白です。キリストが何をしてくださったのか、それをわきまえることも信仰の一部です。キリストは十字架の上で私たちの罪をあがなってくださいました。わたしの罪が許されたということはわたしの実感に属します。わたしのためにキリストが身代わりになってくださった結果、神の前に義とされているのは神のわざです。それを告白することも信仰に属します。

 

【信仰告白】

 キリストは彼女の内に何が起こり、彼女がそれをどう経験したかを語らせることで、信仰を告白させようとしておられます。信仰は、神が何をしてくださったかを認識することを含みます。

 この信仰が彼女を病気から救い出したのです。病気と病気に伴う、彼女を苦しめていた足枷から彼女を解放したのです。信仰は、自分が神から何を受けているのかを認識することを伴います。神がわたしに何をしてくださっているのか。それを認めてこそ信仰は確固とした基礎を獲得します。イエス・キリストはこの信仰に至るように誰がわたしの服に触れたのかと尋ねられたのです。

 彼女にとってこれはおおきな試みでありました。だまってこの場を去ることも可能でした。しかし、彼女は大胆にみんなの前でキリストがしてくださったことを明らかに語ったのです。神の大きな恵みを語ったのでした。

 

彼女を閉じ込めていた病苦は巨大な力でした。人間を縛り付け、苦悩のどん底に突き落とす要因でした。キリストはこの圧倒的な力から私たちを解放されます。キリストは敵対する諸勢力をこのようにして打解されるのです。

 

【完全な癒し】

 彼女の病は癒されました。レビ記15:28以下では出血の汚れを清められたものは祭司の手で犠牲をささげなければなりませんでした。重い皮膚病を癒された人は祭司に見せ、全快を証明してもらわなければなりませんでした。ところが彼女の場合、キリストはそんなことを命じられていません。何故そうなのでしょうか。キリストの癒しは、祭司の証明も不要なほど明白であり、完璧でありました。キリストは完全に病気を癒し、汚れの根源を除去されました。だから、祭司に見せることを求められなかったのです。(おわり)

2015年02月15日 | カテゴリー: マルコによる福音書

2015年2月8日説 教 「神があなたにしてくださったこと」金田幸男牧師

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新約聖書
マルコによる福音書5章
1 一行は、湖の向こう岸にあるゲラサ人の地方に着いた。
2 イエスが舟から上がられるとすぐに、汚れた霊に取りつかれた人が墓場からやって来た。
3 この人は墓場を住まいとしており、もはやだれも、鎖を用いてさえつなぎとめておくことはできなかった。4 これまでにも度々足枷や鎖で縛られたが、鎖は引きちぎり足枷は砕いてしまい、だれも彼を縛っておくことはできなかったのである。5 彼は昼も夜も墓場や山で叫んだり、石で自分を打ちたたいたりしていた。
6 イエスを遠くから見ると、走り寄ってひれ伏し、7 大声で叫んだ。「いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。後生だから、苦しめないでほしい。」
8 イエスが、「汚れた霊、この人から出て行け」と言われたからである。
9 そこで、イエスが、「名は何というのか」とお尋ねになると、「名はレギオン。大勢だから」と言った。
10 そして、自分たちをこの地方から追い出さないようにと、イエスにしきりに願った。
11 ところで、その辺りの山で豚の大群がえさをあさっていた。
12 汚れた霊どもはイエスに、「豚の中に送り込み、乗り移らせてくれ」と願った。
13 イエスがお許しになったので、汚れた霊どもは出て、豚の中に入った。すると、二千匹ほどの豚の群れが崖を下って湖になだれ込み、湖の中で次々とおぼれ死んだ。
14 豚飼いたちは逃げ出し、町や村にこのことを知らせた。人々は何が起こったのかと見に来た。
15 彼らはイエスのところに来ると、レギオンに取りつかれていた人が服を着、正気になって座っているのを見て、恐ろしくなった。
16 成り行きを見ていた人たちは、悪霊に取りつかれた人の身に起こったことと豚のことを人々に語った。:17 そこで、人々はイエスにその地方から出て行ってもらいたいと言いだした。
18 イエスが舟に乗られると、悪霊に取りつかれていた人が、一緒に行きたいと願った。
19 イエスはそれを許さないで、こう言われた。「自分の家に帰りなさい。そして身内の人に、主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったことをことごとく知らせなさい。」
20 その人は立ち去り、イエスが自分にしてくださったことをことごとくデカポリス地方に言い広め始めた。人々は皆驚いた。

説教「神があなたにしてくださったこと」

 マルコ5:1―20

 

 要旨

【悪霊に勝利されるキリスト】

 イエス・キリストの敵対する勢力に勝利される記事の2番目をともに学びましょう。5章1-20には汚れた霊につかれた人からその悪霊を追い出されるという物語が記されます。

 

【ゲラサ/ガダラ:異邦人の地】

イエス・キリストとその弟子たち一行はガリラヤ湖の東岸に着きます。突風は西風で、船は東の岸辺まで吹き寄せられました。ガリラヤ湖の東岸はデカポリス地方と呼ばれます。デカポリスとは10の町という意味で、紀元前330年代以降、アレキサンドル大王とその家臣たちが建設したギリシヤ風の都市で、新約の時代にはローマの支配下に置かれていました。これら10の町はひとつ(ベテシャン)を除き、ヨルダン川の東に位置します。そこは、異邦人が圧倒的に多く住む地域でした。ゲラサはデカポリスのひとつで、ガリラヤ湖の南端から南東約56キロにありました。これでは少しガリラヤから離れすぎています。マタイ8:28以下には同じ記事が記されますが、そこにはガダラとありますが、その場合はガリラヤ湖の南端から東南に約10キロです。マタイとマルコに違いがあると言うことになりますが、ゲラサは都市を指しているのではなく、ガダラの町を含む広い地域、ゲラサ地方を指していると考えることができます。そこは異邦人の住む地域でした。

 

【汚れた霊につかれた人】

イエス・キリスト一行は本格的にまだ異邦人伝道をしていません。だから、ここは風で吹き寄せられ、いわば漂着したところでしたから、ここで伝道をしようとされなかったと考えていいのではないかと思います。ところが、向こうからイエス・キリストのところへやってきた人がいます。彼は汚れた霊につかれた人でした。彼についてマルコは悲惨な状態を述べています。先ず、汚れた霊につかれていたとあります。さらに墓に住んでいました。それだけではなく、凶暴な性格であったのでしょう、たぶん発作が起こりますと、手の負えないほど凶暴になります。人々は彼に手枷をはめ、鎖につなげていました。しかし、それは全く役に立たず、暴れると手枷も鎖も壊してしまうのでした。

 

ユダヤ人は遺体に触れることをたいへん嫌いました。家族の遺体さえも触れることを嫌います。多くの場合、家族の遺体を清める仕事は女性や特別に雇われた人がすることになっていました。遺体に触れることは汚れると考えられていたからです(民数記19:14,16,18)。また、墓ですら触れると穢れるとされていました。ユダヤ人は頻繁に墓参りなどしません。彼らは墓に漆喰を塗って間違ってでも墓に触れないようにしていました。ですから、これだけでも墓を住まいとすることは常人ならば絶対にすることはありません。墓は自然の洞窟を使用したり、岩を穿って作りました。夜露をしのぐためには適切であってもそこは人の住むところではありません。これだけでもその悲惨さが分かります。彼は、また足枷や鎖につながれていました。ときどき突然に暴れ出すとはいえ、このようなもので縛り付けられルということも悲惨なことです。自分では制御できない衝動に駆られて乱暴をするのでしょうけれども、自分では制御できないということもいっそう悲惨なことです。このようになるのは汚れた霊に憑かれていたからです。汚れた霊、悪霊につかれるとは支配を受けることなのですが、人格を破壊され、意志を貫くことができず、狂気に支配されるような状況は全く悲惨な状態です。人間性を失い、別の何かの力に支配されてしまっています。

 

汚れた霊につかれるとはどういうことでしょうか。多くの場合、精神の病気とされています。精神の病気がもたらす症状は多くの人に驚愕と恐怖心を与えました。それを悪霊につかれると表現したのだとされています。そして、現在では精神の病気は大脳の神経伝達物質の異常で起こるとされています。難病ではありますし、長期の治療が必要ですが、完治(寛解)する病気とされています。     

 

汚れた霊につかれることが今日の精神の病気で説明できる面もあります。しかし、精神の病で全て説明されるということは、悪霊につかれる状態、事実を否定することになります。精神の病気は大脳のメカニズム異常であるに過ぎす、悪しき霊の作用などではないということになります。悪霊につかれるとは所詮古代人の考え方であって、科学が発達した現在では悪霊など迷信、あるいは想像の産物に過ぎないと考えられるのです。しかし、悪霊を簡単に否定することはできません。むしろ、精神の病、さらに、多くの病は悪しき霊が背後にあってうごめいていると考えるべきであると思います。

 

悪しき霊は今も活躍していて、人間の不幸や災いを来たらしめ、その悲惨な中で神を呪ったりさせ、不信を抱かせようとしています。病は一方では身体的、生理的な異状から来るものであることは間違いありません。だから、医療技術で治ります。かつてよりも病気は克服されるようになったことは事実です。しかし、病気の背後には人間を苦しめ、悩ませ、神に対する信仰を妨げようとする汚れた霊の活動を見なければならないと思います。そして、現代医学はこの悪しき霊を打倒することはできません。

 

【悪霊の存在は否定できない】

医学が進歩して悪霊はその姿を巧みに消し去ることに成功しました。悪霊の存在など神話あるいは、創作とされてしまいました。かえって気味悪い存在とされて、それとともに、実在性は曖昧にされ、できるだけ考えないようなものにされてしまいました。変わって、単なる運命だとか、必然だとかと片づけられ、悪しき霊を圧倒するキリストの力は軽んじられてしまっています。キリストの圧倒的な勝利の力ヘの信頼は失われて久しいのです。病気だけではなく、自然災害、さまざまな事故、混乱の背後には汚れた霊が暗躍しています。私たちはキリストのゆえに、汚れた霊に翻弄される必要はありませんが、またその存在を無視することも危険です。

 

【悪霊はイエス・キリストが神の子であると知っている】

 汚れた霊につかれた人はイエスを遠くから認めてやってきて、跪きます。彼は叫びます。「いと高き神の子、イエスよ」これは驚くべき言葉です。キリストの弟子すらもまだイエス・キリストをこのように見ていません。イエス・キリストが神の子であるという知識はキリスト教信仰の核心部分です。こんな重要なことを汚れた霊は公然と叫んでいます。

 

 キリストに敵対するものも真理を知っています。キリストについてさまざまな論評が述べられます。イエスが神の子であるとキリスト者が信じているとは知られています。しかし、知っていることと信じることは別問題です。汚れた霊がイエスを神のこと認識していたからと言ってそれで悪しき霊がキリストに服したわけではありません。

 

【本当の名前を知ること】

その上、汚れた霊には下心があったのです。本当の名前を知ることは相手の力を阻害できるというものです。このような考え方は世界中に見られます。名前は単なる記号ではありません。その名を損なうと言うことはその相手を損なうことです。イエスが何者か知っていると強弁することでイエス・キリストの力を抑制しようとします。むろん、それは成功しません。

 

【レギオン】

キリストは、汚れた霊に尋ねています。お前の名は何か。相手の名前を言わせることで、キリストは圧倒的な優位にあることを示しています。そして、悪しき霊はイエスの問いに答えなければなりません。「レギオン」これが汚れた霊の名前でした。レギオンとは、ローマの軍団のことです。ローマの一軍団は6000人の兵士からなっていました。この汚れた霊の名がレギオンと言ったのはなぜか記されていませんが、たくさんの霊につかれているゆえであったのかもしれません。あるいはこの人の病の発症にはローマの軍団が関係していたのかもしれません。

 

【豚に入らせてくれ】

レギオンはキリストと取引をしようとします。汚れた霊は素直に出て行こうとしなかったのです。そこで豚に入らせて欲しいと願います。ここは異邦人の住む地帯でしたから多くの豚が飼われていました。ローマ人は豚の肉を愛好しています。しかし、ユダヤ人は豚が汚れた動物として食べることはむろん、触れることもしませんでした。汚れた霊は汚れた動物に入ることを求めましたが、それは相応しいことでした。

 

汚れた霊が入ると、豚は湖に突進してしまいます。その数は2000とあります。大量の豚が湖で溺死してしまいます。悪霊がどうなったか記されていません。しかし、湖になだれ込んで滅んでしまったと見てよいでしょう。このように人を支配し、悲惨な状態に追いやり、苦しめ、悩ませ、人格を破壊し、人間性を損なわせるような悪しき霊は滅ぼされます。キリストは悪しき霊に対して圧倒的な力を発揮されます。私たちは汚れた霊の力を無視したり、軽視できません。しかし、キリストに信頼することはそれ以上です。キリストは悪しき霊を滅ぼし、倒し、勝利される方なのです。この方により頼むならば汚れた霊を恐れる必要はありません。

 

【ゲラサの人々の反応】

 このイエスの奇跡にゲラサ地方の人々はどういう反応を示したでしょうか。彼らはイエス・キリストのなさったわざを見ています。しかし、彼らはキリストが厄介なことをする人としか見ていません。実際たくさんの豚が溺れ死んでしまいます。大損害です。キリストの力は迷惑、厄介としか見ていません。他方、癒された人はキリストに従いたいと願い出ます。それは許されませんでしたが、家族、近隣の人々には起きたことを告げよと言われます。3;12では、手の萎えた人が癒されますが、彼には誰にもそのことを話すなと命じられます。

 

【異邦人伝道の端緒】

この違いはどこから出てくるのでしょうか。ゲラサが異邦人の住む地域だったからに違いありません。ユダヤ人はキリストの行為を安息日規定違反と告発します。キリストの癒しはユダヤ人に対する敵対、反対と取られます。この奇跡は異邦人の地でなされます。キリストは異邦人伝道には積極的に行われませんでした。先ずユダヤ人を。これがキリストの方針でした。しかし、このゲラサでの働きは異邦人伝道にほかなりません。まさしくその端緒を画します。(おわり)

 


2015年02月08日

2015年2月1日説教「何故怖がるのか」金田幸男牧師

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2015年2月1日説教「何故怖がるのか」金田幸男牧師

 

聖書:マルコによる福音書4

35 さてその日、夕方になると、イエスは弟子たちに、「向こう岸へ渡ろう」と言われた。36 そこで、彼らは群衆をあとに残し、イエスが舟に乗っておられるまま、乗り出した。ほかの舟も一緒に行った。

37 すると、激しい突風が起り、波が舟の中に打ち込んできて、舟に満ちそうになった。

38 ところが、イエス自身は、舳の方でまくらをして、眠っておられた。そこで、弟子たちはイエスをおこして、「先生、わたしどもがおぼれ死んでも、おかまいにならないのですか」と言った。

39 イエスは起きあがって風をしかり、海にむかって、「静まれ、黙れ」と言われると、風はやんで、大なぎになった。

40 イエスは彼らに言われた、「なぜ、そんなにこわがるのか。どうして信仰がないのか」。

41 彼らは恐れおののいて、互に言った、「いったい、この方はだれだろう。風も海も従わせるとは」。

 

 

要旨 

【反キリスト】

マルコ4章35-5:4には、敵対する力に対するキリストの勝利の物語が三つ連続して記されています。今日はそのうちに第一、イエス・キリストが嵐を静めた物語を共に学びましょう。

 

【ガリラヤ湖と嵐】

まず、ここに記されていることは誰も到底信じがたいと思われるでしょう。現代人は自然現象が全て科学的に証明されるものと考えています。したがって、超自然的現象とは考えません。ガリラヤ湖はすり鉢型の地形になっていて、夜や朝方、主として西風が急斜面を下り降るとき加速してこ面を吹き抜けるという現象がしばしば起こります。

 

この風をイエス・キリストが鎮静化したと到底信じがたいと人は思うのです。イエス・キリストはこの風が一時的なもので、すぐに静まると知っていて「静まれ」といわれたのだと合理的解釈をする人もあります。しかし、果たしてそうなのでしょうか。ここに記されていることから気づかせられることがあります。

 

先ず、イエスは船に乗ったままであったと記されます。いったん岸辺にも行かず沖合いに船を進ませています。また、この文脈と関係なく、他の船のことが記されます。この船の消息は書かれてありません。この物語には不要の記事です。さらに、イエスは船の艫のほうに寝込んでいたと記されます。ガリラヤ湖は交通の要衝で湖もよく利用されていました。旅客船には十数人が乗船でき、その船尾には上等の乗客のためにクッションが敷かれていたそうです。キリストの乗った船は小さな漁船ではなかったことが分かります。このような詳細な部分から、書き手は嵐を静めるイエスの業を直接目撃したということになります。しかし、これでこの物語の信憑性を誰もが信じるようになるわけではありません。

 

【嵐を静めるイエス】

イエス・キリストがここに記されているように嵐を静めたかどうか真実性を確かめる術は実際にはありませんし、たいていの人間は信じられないというだけでしょう。

 

 コロサイ1:16-17をご覧ください。

「天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王権も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです。つまり、万物は御子によって、御子のために造られました。御子はすべてものものより先におられ、すべてのものは御子によって支えられています」。

 

あらゆるものは御子イエス・キリストによって創造され、支持され、支配されています。この信仰からすれば、イエス・キリストが嵐を静めることができたとしても不思議ではありません。ここに記されているようなキリストであれば、嵐を静める大いなる力を保持、保有されています。そして、このキリストを信じる信仰がまぎれもなくキリスト教信仰の核心です。

 

【超自然的力を顕すキリスト】

キリスト教を冠しても、多くのキリスト教では、もはやこのようにキリストが信じられていません。熱心なキリスト者でも嵐を静める、つまり自然現象を変えてしまうような力を持つキリストは信じられなくなっています。

 

そうでなくて、キリストは心の平安を与える程度の力しかもっていないとしか信じられていせん。むろん、心の平安を与える方としてキリストが信じられているとしてもそれを非難したりできません。キリストを信じて得られる平安は大きな価値を持っています。そのようなキリスト信仰を否定などできません。それはそれですばらしい信仰といえると思います。

 

しかし、コロサイ1:16-17が記すキリストを信じることのほうがもっとすばらしい。キリストは単なるよきことの教師に留まるのではなく、また、精神的な領域だけで活躍する救済者と考えることだけではキリストを正しく把握しているのではありません。キリストは天地の創造主として、また支配者、維持者、指導者であられます。このようなキリストを告白し、信じるところで私たちは大きな励まし、慰めを受けるはずです。

 

【疲れて寝込まれるキリスト】

 さて、奇跡を見ていきましょう。イエス・キリストは朝から夕暮れまでずっと教えを続けられていました。キリストは岸辺から少し離れたところから群衆に説教をされていました。おそらくキリストは疲労困憊となってしまったのでしょうか。群衆から離れるために、岸辺に戻らず、そのまま対岸まで行かれようとしたのは間違いないでしょう。キリストは疲れきっていたのです。キリストは疲れきって船の中で寝込んでしまわれたのです。キリストが疲労困憊になって寝込んでしまったという記事は他で見当たりません。キリストが弱さを見せられたのですが、マルコはためらうことなくキリストの弱さを記録します。人間と全く同じくキリストは疲れをおぼえる方でした。同時にキリストは創造主として嵐を静める大きな力を発揮されます。この対照をマルコは意識していたに違いありません。

 

激しい風が吹いてきて船は水をかぶり、沈没しそうになって来ました。同じく湖の上に出た他の船のことは何も記されていませんが、ある注解書では他の僚船は破船したに違いないと記されます。あるいは西風に吹き飛ばされて岸辺に到着したのかもしれません。

 ガリラヤ湖の上の破船は珍しくありませんでした。この船は旅客用の船であれば比較的大型となります。漁船以上の大きさはありました。だから、少々の大風も大丈夫といってよかったと思います。イエスの弟子たちの中で、ペトロ、アンデレ、ヤコブとヨハネはこの湖で長く漁師をしていました。彼らは湖のことを知りつくしていました。その彼らが恐れを抱いたのです。

 

【恐怖に襲われる弟子たち】

 よほどの大型船と違い、旅客用の船でも危険をおぼえさせられるものですが、その船上で、この湖のことをよく承知したいたものですら恐怖に襲われています。そして、漁師たちも手の施しようのない危機に直面していると認識しました。それほど嵐は巨大であったと想像できます。現在では、異常気象で、今まで経験したことのない災害に見舞われています。ここでも、今まで経験できなかったような、史上最大級の風、大雨が襲ってきています。このたびの嵐も想像を絶する大きな嵐であったと考えていいのではないでしょうか。今までも弟子たちの中の漁師ですらも想像もできそうにもない危険な大風であったと思われます。

 

弟子たちは眠っているキリストをたたき起こします。イエス・キリストに大きな力があると信じていたので、助けを求めたのだという解釈も成り立つかもしれませんが、ここは熟練の漁師たちもどうしていいのか分からなくなるほどパニック状態に陥って、ぐっすり寝込んでいるイエスを起したのだと考えてもよいのではないでしょうか。それほどまでこの嵐はとてつもなく大きな現象であったと言えるのです。

 

【嵐の背後にある悪の存在】

普通ではない現象が起きています。その背後には巨大な力が厳然と存在しています。イエス・キリストを湖底まで静めてしまおうとする恐るべき敵対者が働いています。

 イエス・キリストが単なる嵐を静めただけの存在ではありません。ここに記されている嵐は表面上は単なる大きな嵐です。しかし、その嵐を扇動する大きな力がうごめいています。

 

自然現象を利用する勢力が存在します。大きな力を利用して、キリストを圧倒しようとする力が働いています。自然そのものは中立です。それを用いてキリストを圧倒しようとする計略を組み、キリストの働きを阻む敵対する勢力が力を振るって、キリストを圧倒しようとしています。

 

だから、あたかも人格があるかのように、キリストは嵐に向かって語り、湖にも語られます。キリストは嵐そのものだけに語っているのではなく人格を持ち、しかもキリストに反抗するだけの役割を果たす霊的な諸勢力と対峙されています。

 

 【勝利者キリスト】

キリストはこの霊的敵対勢力に向かって行動をされています。キリストは恐るべき敵に勝利を獲得されました。キリストは天地の創造者ですが、また、見えないところで働かれる救済者でもあります。嵐を利用としてキリストを滅ぼそうとする霊的な勢力をキリストは圧倒されます。

 

 私たちはさまざまな敵対勢力に直面しています。キリストは恐ろしい敵対者をうち平らげる方なのです。この物語がそれを証言しています。

 

自然を利用して私たちを誘惑し、試練を与え、苦悩と恐怖のどん底に陥れようとする勢力があります。そのとき、私たちはキリストがどういう力を持っているか痛感させられるのがこの奇跡です。

 

イエス・キリストは嵐を静められます。キリストは弟子たちに、何故怖がるのか、信じないのかと責められます。嵐の前、生命が失われそうになっているときに、恐れているのか、怖がっているのかといわれると筋がはっきりしますが、ここでは嵐を静めてしまってから、キリストは弟子たちにこのように言われました。時間的にずれがあるように思われます。そう思うのは訳語のためかと思います。何故怖がるのかは、「何故、かくもあなた方は小心者なのか」と訳すこともできます。

 

【小心者であってはならない】

恐れているのは小心者だからです。肝っ玉の小さな人間はちょっとしたことに恐れを抱き、怖がりすくんでしまいます。小心者とは不信仰者です。いわゆる言うところの小心者ではありません。御子が何者か知らないゆえに御子を信じないものを指しています。小心のゆえにパニックに陥ります。むろん、ただ元気だけ、勇気があるだけでは何にもなりません。ここでは恐怖心に縛られ、右往左往しているだけで、神に向かわない小心さが不信仰とされています。だから、私たちは小心者であっても、神を信頼することだけでいいのです。小心者だからこそ、神の御子を信じるのです。御子は嵐を静め、その本質を明らかにされます。キリストは神なのです。嵐を静めるキリストはただ奇跡を行う力をたまたま持ちえたというのではありません。キリストは神の子、全てのものの創造者なのです。(おわり)

2015年02月03日 | カテゴリー: マルコによる福音書