2007年7月

霊の結ぶ実:節制 ウイリアム・モーア宣教師

コリントの信徒への手紙一9:19−27
ガラテヤの信徒への手紙5:22−23
 
【妻の犠牲と半額割引飛行】
アメリカの1920年頃、飛行機はまだ珍しい時代、あるパイロットは自分の風防のない小型飛行機で国中を巡回しながら、儲ける為に他の人を乗せていました。ある日、牧師とその奥さんが飛行場に来て、ひと乗りしてくれるように願いました。しかし、お金があんまりないから、聖職者割引にしてくれるように頼みました。すると、パイロットは、「聖職割引はないけれども、もし飛行機に乗ってる間に、お二人が黙って、口を何も聞かなかったら、半額で乗せて上げます。しかし、口を出せば、二倍ちょうだいたします」と提案しました。その二人はどうしても飛行機に乗りたかったので、すぐにその条件をのみました。それはあぶく銭と思ったパイロットは牧師と奥さんを飛行機に乗せ、早速離陸しました。そして、彼は色んな激しい曲芸飛行を実行し始めしました。ローラーコースターのように急速で空を上がってから、急降下しました。それから、飛行機を上下転倒して低く飛んで、橋の下を通りました。その激しい曲芸飛行をしたのに牧師とその奥さんは何も言わすに沈黙を守りました。パイロットは諦めて着陸に入ろうとする時、彼は言い出しました。「この飛行は私さえもぎょっとさせたのに、先生は何も言いませんでした。お二人の自制は大変驚くべきものです。」牧師はその事を聞いてこのように返事しました。「実は、飛行の中のある時点、私はもう少しで我慢出来なくて叫ぶところでした。」「それはどんな時でしたか」とパイロットに聞かれると、牧師は返事しました。「飛行機が引っくり返えて家内が陸まで落ちてしまった時は、さすがちょっとびっくりしましたよ。」
 
【聖霊の結ぶ実:節制】
今日は最後の聖霊の結ぶ実にやっと参りました。今まで、愛と喜びと平和と寛容と親切と善意と誠実と柔和を学んで来ました。そして、最後に節制と言う徳目が与えられています。もう一度強調したいのですが、この「実」は賜物です。キリスト者なら、聖霊なる神は私達に宿り、その実を現す可能性を十分与えて下さいます。しかし、私達の内にいらっしゃる聖霊の働きを許さなければなりません。つまり、それぞれの徳目を毎日の生活に実行する意志が必要です。

2007年07月29日 | カテゴリー: ガラテヤの信徒への手紙 , コリントの信徒への手紙二 , ローマの信徒への手紙 , 新約聖書

霊の結ぶ実:柔和 ウイリアム・モーア宣教師

マタイによる福音書11章28−30節
ガラテヤの信徒への手紙5章22−23節
 
【柔和なロッキー】
三週間前から家内と娘セーラと私は家の家族にロッキーと言う新しい一員を引き受けて世話をするようになりました。その新しい一員はまだ7歳なのに、とても毛深いです。更に、ロッキー君は50キロで、結構重いのですが、背はまだ70センチしかなっていません。また、鼻が大きいし、耳もでっかいです。今朝、教会に連れて来て、皆に紹介したかったのですが、その子は臭うから、多分歓迎されないと思いました。実は、ロッキー君は人間ではありません。その子は四つ足で歩くゴールデンレトリーヴァーと言う犬です。近所の家内の英国人の友達は夏休みの帰国為、ロッキーを家に預けました。
 
ロッキー君は何よりも散歩が大好きです。ですから、降っても照っても、必ず朝と晩、近所を散歩しなければなりません。そして、歩きながらロッキーは常に道にあるものを嗅ぎ出します。また、餌を捜します。ロッキーは道にある物、何でもかんでも食べてしまうので、散歩をさせる私達は危ない物を食わないように、気をつけなければなりません。
 
ロッキー君はとても大人しい犬で、吠える事は滅多にないです。不思議だと思いますが、散歩の時、他の犬に巡り合っても、ロッキーはあんまり反応しません。ある日、そう言うロッキーを連れて歩いているとある小さい犬はロッキーを見る瞬間、震えて動けませんでした。また、ロッキーは、吠えられても、お返しに吠えません。他の犬が一生懸命に吠えながらロッキーの方へ走っても、ロッキーは、その犬をただちらっと見て、平然とゆっくり散歩を続きます。脅かされても、ロッキーは相手を脅かしません。他の犬より大きく力強いので、ロッキーはどんな相手であっても勝つ事が出来るはずですが、戦う興味が全くないようです。それは訓練の為か、生まれつきの性格の為なのかが分かりませんけれども、ロッキーは素晴らしい徳目を示します。ロッキーはきっと私達人間に教える事があると思います。

2007年07月22日 | カテゴリー: ガラテヤの信徒への手紙 , マタイによる福音書 , 新約聖書 , 民数記

『いつも喜んでいなさい』 植田昌彦伊丹教会長老


聖書:テサロニケ信徒への手紙[I] 5章16~24節
 
【何を求めて教会に】
人は何を求めて教会に来るのでしょうか。キリスト信徒と呼ばれる私たち教会員は何を求めて教会に来また礼拝に出席するのでしょうか。また求道者の方々も何を求めて教会に来られるのでしょうか。人それぞれ願いや思いは違うでしょう。色々な求めがあろうかと思います。心の平安を求めて、最近の言葉で言えば癒しを求めて、幸せを求めて、何か心の清らかさを求めて、宗教に興味を持って、心のよりどころ確かな人生の指針を求めて、等々色々あると思います。またその求めを持つようになった「きっかけ」も人それぞれ異なったものだと思われます。
 
【PHP:心の安らぎ】
ある本に書いてあったのですが、今もっとも日本で読まれている最高の発行部数を誇っている雑誌をご存知でしょうか。本当に日本一かどうかは私自身定かではないのですが。皆さんも読んでおられるかも知れませんが、「PHP」という雑誌というか冊子がそうだと書いてありました。これは松下幸之助が創出した人間の生き方を考える冊子です。忙しい日々の生活の中でほっとした心の安らぎを得たい、共感を覚えるものを求めて、自分の日々の生きる指針を、また生活上ぶつかる色々な心の葛藤へのヒントを、考える冊子として読まれているように思います。このPHPの冊子に求めることと同じものを教会に求めて来られる方もいると思います。それらは、教会に求めるものあるいは信仰に求めるものとしても大切なものであろうと思います。

2007年07月15日 | カテゴリー: コリントの信徒への手紙一 , テサロニケの信徒への手紙一 , 新約聖書

霊の結ぶ実:誠実 ウイリアム・モーア宣教師

詩編33
ガラテヤの信徒への手紙5:22−23
 
 
【アマンドと父の約束】
1988年に旧ソ連の共和国アルメニアでサミュエルとダニエルと言う両親は自分の幼い息子アマンドを小学校へ送り出しました。いつものように、お父さんサミュエルは息子を見て言いました。「学校でよく勉強してね。そして、万が一、あなたに何かが起きたら、どんな事があってもパパはあなたをすぐ助けに来る事を忘れないで。」そして、サミュエルは息子を強く抱きしめてから学校へ行かせました。
 
数時間後、力強い地震がその地域を揺らしました。大混乱の中でサミュエルとダニエルは息子の事を尋ねようとしましたが、情報は何もなかったのです。ただ、ラジオのニュースは、「何千人の犠牲者が出た」と伝えるだけです。その事を聞くと、サミュエルは忽ち学校へ走り出しましたが、現場へ着くと悪夢のような光景でした。アマンドの小学校は瓦礫の山と化してしまいました。そして、多くの生徒の家族は泣き悲しんでその酷い場を見詰めていました。
 
しかし、サミュエルはアマンドの教室があった所を捜し、自分の素手で瓦礫を取り始めました。コンクリートの塊と壊れた木の柱と割れた瓦も必死に取り除きました。
 
ある父親は、「何をやってますか」と彼に聞きました。そして、「息子を掘り出している」と返事をすると、「止めなさい、瓦礫は不安定なので、もっと悪くする」と言いました。しかし、サミュエルは続けて瓦礫を取り除こうとしました。彼を見ている他の両親たちは一人ずつ帰りましたが、サミュエルはその作業を止めませんでした。やっと、消防士が来た時、サミュエルは、「助けて下さい、私の息子がこの中にいるんです」と願いましたが、消防士も彼を止めさせようとして、やがて帰りました。
 
サミュエルは休まず一人でその晩ずっと努めました。そして、朝になると生徒の家族は現場に来て子供の写真とお花を瓦礫の前に置いて帰りました。しかしながら、サミュエルは瓦礫を掘るのを止めませんでした。大きな柱を動かそうとした瞬間、「助けて、助けて」と言う子供の小さい叫び声を聞きました。そして、少し後で、「パパ?、パパ?」と言う聞き慣れた声も耳に入りました。そのアマンドの声を聞くとサミュエルは鬼のように瓦礫を掘りました。やっと、 瓦礫の中の空洞に息子の姿を見ました。ほっとひと息つくと、「速く上って来い」とサミュエルは叫びました。しかし、アマンドは、「パパはきっと私を救うから、友達を先に出させて、お願い」と言ったのです。それから、生徒達一人一人はサミェルが掘った穴から出て来ました。最後に小さいアマンドがお父さんの腕に入ってこう言いました。「友達にパパがどんな事があっても僕を助けに来ると言っていたので、みな心配しなかった。」一人のお父さんが誠実であったので、その日14人の命が助けられました。

2007年07月08日 | カテゴリー: ガラテヤの信徒への手紙 , フィリピの信徒への手紙 , 新約聖書 , 旧約聖書 , 詩篇

霊の結ぶ実:善意 ウイリアム・モーア宣教師

マルコによる福音書10:17−22
ガラテヤの信徒への手紙5:22−23
 
【あなたは善人ですか】
皆さん、少し想像してみて下さい。もし電車を乗っている時、誰かがあなたの側に座り、突然、「あなたは善い人ですか」と尋ねられると、どう答えられますか。赤の他人にそのように聞かれると、多分びっくりするでしょう。又、恐らく、その人は正気かと疑うかも知れません。誰がそのような個人的な質問を知らない人に聞くでしょうか。しかし、もしその質問、「あなたは善い人ですか」に答えようとしたら、どう答えられますか。実は、人間誰でも自分が善い人だと思いたいのです。「私は善くない人、悪い人」と言う者はめったにありません。
 
アメリカの教会を牧会した間、私は長年刑務所の訪問を毎月しました。教会の会員の息子が殺人で投獄され、私は彼に会いに行きました。行く度に彼は自分の無罪を主張して、不正な判決を嘆きました。彼が犯した罪の証拠が沢山あったのに、最後まで「他人がやった」と言い張りました。結局、そのような犯罪を認めれば、自分が善い人ではない事を認める事になりますので、なかなか自白出来なかったと思います。
 
私達人間は「自分が善いのだ」と思いたいのです。また、回りの人々に善い人として思われたいでしょう。それは自己像の大事な一部ですから、「あなたは善い人ですか」と聞かれると、それに対して答えるとしたら、殆ど誰でも、「私は善い人だと思う」と答える事でしょう。
 
【聖霊の結ぶ実「善意」】
今日、聖霊なる神の結ぶ実の学びを再び始めたいと思います。今まで愛と喜びと平和と寛容と親切を学んで来ました。覚えていると思いますが、聖霊の結ぶ実は神の賜物です。つまり、キリスト者なら、神の霊は私達に宿って下さり、霊の結ぶ実、愛と喜びと平和など、そのものは自分のものになりました。しかし、その徳目を現す為、私達の内に聖霊の働きを許さなければなりません。それぞれの徳目を実行する意志が必要です。すなわち、神の助けでその賜物を生かす訳です。今朝は「善意」と言う徳目について一緒に考えたいです。神はキリスト者にその実をもう既に授けたのです。ですから、私達はその聖霊の結ぶ実「善意」を豊かに現すべきです。
 
エフェソの信徒への手紙2章10節にこの大事な聖句が記されています。

「私達は神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備して下さった善い業の為に、キリスト•イエスにおいて造られたからです。私達は、その善い業を行って歩むのです。」


書かれた通りに、私達は善い業、つまり善意の業を行う為に神によって特別に造られました。迷わず言える事ですが、それは主から与えられた私達の目的と使命です。その事を通して造り主と救い主なる愛する神の栄光を現します。ですから、私達はこの徳目「善意」を特に注目すべきです。

2007年07月01日 | カテゴリー: エフェソの信徒への手紙 , ガラテヤの信徒への手紙 , マルコによる福音書 , ローマの信徒への手紙 , 新約聖書 , 旧約聖書 , 歴代誌上