2014年9月

2014年9月28日説教「最初のキリストの弟子たち」金田幸男牧師9

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新約聖書
マルコによる福音書1章6-20節
6 イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。
7 イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。
8 二人はすぐに網を捨てて従った。
9 また、少し進んで、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、
10 すぐに彼らをお呼びになった。この二人も父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して、イエスの後について行った。

2014928日説教「最初の弟子たち」

 

要旨 マルコ1章16―21

 

【イエスの召し・召命】

 イエス・キリストはガリラヤで神の国の福音を宣教する働きを始められました。ガリラヤ湖のほとりを歩いていたとき、ペトロとアンデレと出会い、彼らを弟子に招きました。さらにヤコブとヨハネをも招かれます。

 ここからひとつのことを知ります。弟子たちから、自分たちから弟子にしてくださいと頼んだのではありません。師の教えに信服して弟子となったのではありません。自分のほうから先生であるイエス・キリストのところに住み込んで入門して弟子となったのではありません。イエス・キリストのほうからペトロとヨハネを招いたのです。言い換えれば、召されたのです。召命とも言います。

 

ペトロたちは何も知らないでキリストの弟子となったのではありません。彼らはイエスの説教を聞いていたはずです。キリストはガリラヤ湖畔を宣教の場所と用いられたと推測できます。斜面に聴衆が座り、下からキリストが語る。音響効果があったと思います。ペトロたちは漁師でしたから、キリストの説教の場に居合わせたことは充分可能性があります。だから、キリストがついてきなさいと言われたとき素直に従えたのだと思います。キリストの教えには聞くに値する何かがあると悟ったのでしょう。

 

【召しとは】

いわゆる専門の伝道者にするために召しがあるのではありません。イエスの召しはさまざまなところで行なわれます。宗教改革者ルターは新約聖書のドイツ語訳で、職業に当たる語を召命と訳しました。彼にとって、職人であろうと、騎士であろうと、また、宗教人であろうとその務めは召しによると考えられていました。現在で言えば、サラリーマンであろうと、学校の教師であろうと、専業主婦であろうと、それぞれは神からの召しによるとされます。神が召してくださったのです。

 

それは運命だから仕方なく受け入れなければならないものでもなく、偶然そうなったのでもない。自分で適任だと思っている人があるかもしれませんが、究極的には神の召しによってそれぞれの場所に置かれているのです。

 

【召天】

召しは、人生の最後にも用いられます。昇天はキリストの場合に用いられ、キリスト者が人生を終えて天に召されると表現します。帰天という言い方もありますが、召天がいいのではないでしょうか。私たちは一番いいときに、一番ふさわしいあり方で、神が私たちを召してくださいます。これが私たちの人生です。神の召しですから、私たちに人生の終わりは単なる終わりではありません。人生はそれで一巻の終わりというのでもありません。神は私たちを召してそれで人生を終わりとされます。神の介入がそこに示されます。

 

召しは、私たちの信仰の始めでもあります。神は選ばれたものを召されます。召されたものに信仰を与え、義とし、聖とし、神の子として、ついに私たちを救いの完成まで導かれます。この一連の神の救いのみわざは全て神の召しによるのです。神が私たちを暗い滅びの闇から光の御国に呼び出し、召しだしてくださいます。

 

この召しはどうして確信できるのでしょうか。イエス・キリストはわたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われました。キリストは御言葉によって召されます。この言葉を無視し、拒否するなら招きの言葉は何の意味もありません。しかし、聞いたものにとってそれは神の生ける言葉として、さらに、心に響く言葉として聞かせられます。

 

それは誰がどういおうとも主がお語りになる言葉です。私たちの心に神が語ってくださったのです。召してくださったのです。そんなのは空耳だと人はいうかもしれません。思い込みだともいうかもしれません。けれども、私たちの心に語られたみ言葉は確かです。だから、周囲の言葉に動かされることはありません。ある人は妄信に過ぎないというかもしれません。その可能性はあります。

 

でも、それを聞き分けるのは私たち自身であって、私たちは一人一人神の前で吟味すべきなのです。(むろん、私たちは御霊の内なる働きであることを認めなければなりません。)

 

【召しにしたがう人生】

召しにしたがっているという確信は強固です。誰もそれを否定することができません。ペトロもアンデレも、ヤコブもヨハネも紆余曲折がありました。失敗もあれば挫折もありました。ペトロの場合、とんでもない失敗、一時的にキリストを否定してしまうという過ちを犯します。けれども、最後までキリストの弟子でありえたのは、その魂の奥底にまで聞かせられた召しの言葉を確かに受け止めたからです。

 

【人間を取る漁師】

彼らは召されたのは単なるイエスのヘルパーや雑用係として召されたのではありません。

イエス・キリストは、人間を取る漁師にしよう、と言われました。なぜこのようなことを言われたのでしょうか。彼らが漁師であったからだといえるでしょう。網を打って多くの人間をキリストのところに導きいれる、あるいは集めると言うイメージを抱くことは容易となるでしょう。

 

【裁き主なる主】

しかし、それだけではなかったと思います。イエス・キリストはこの言葉を語られたとき、旧約聖書を心に抱かれたのではないでしょうか。エレミヤ16:16-18見よ、わたしは多くの漁師を遣わして、彼らを釣り上げさせる、と主は言われる。その後、わたしは多くの狩人を遣わして、すべての山、すべての丘、岩の裂け目から、彼らを狩り出させる。わたしの目は、彼らのすべての道に注がれている。彼らはわたしの前から身を隠すこともできず、その悪をわたしの目から隠すこともできない。まず、わたしは彼らの罪と悪を二倍にして報いる。彼らがわたしの地を、憎むべきものの死体で汚し、わたしの嗣業を忌むべきもので満たしたからだ。

 

ここで漁師は神の恐るべき審判を実行するために神が派遣されたものたちという意味です。アモス4:2「主なる神は、厳かに誓われる。見よ、お前たちにこのような日が来る。お前たちは肉鉤で引き上げられ 最後の者も釣鉤で引き上げられる。」この肉鉤は漁師が釣上げる道具と考えられます。漁師は悪を行なうものを引き出してさばかれます(ハバクク1:15なども参照)。

 

これらに共通しているのは、漁師は神のさばきの執行者の比喩的表現として語られている点です。イエス・キリストはこの旧約の表象をご存知であったと推測できます。イエス・キリストが招かれる人間を獲る漁師は恐るべき神の審判の執行者ではありません。

 

【福音の担い手としての漁師】

神の国は近づいた。旧約的には恐るべき審判の到来と見ることが出来ますが、キリストは神の国の福音を宣べ伝えられました。神はただ恵みによって多くの罪人を神の国に入れようと決心され、実行されます。ここにこそ神の憐れみが示されます。神の国に入るべき者たちを集め、導く漁師というイメージが描かれています。この漁師は福音の担い手です。確かに神の支配の完成は近づいています。その神の支配に人を招く、集める、これがキリストの弟子たちの役割なのです。

 

 キリストの最初の弟子となったのは、まずペトロとアンデレです。彼らは網を打っていたとありますが、網の四隅に石を結びつけて、それを海に投げ入れる漁法です。このやり方では岸辺近いところでしか仕事をすることはできません。ガリラヤ湖は魚が豊富だったそうです。ですから、岸に近いところでも充分の漁になったそうですが、他方、ヤコブとヨハネの父ゼベダイは船を持ち、雇い人がありました。ここから推量できるのは、ゼベダイは裕福な漁師であったということであり、ペトロたちはさほど豊かな漁師ではなかったのではないかと言うことです。

 

【教会は多様な弟子たちからなる】

キリストの弟子たちははじめから均質ではありません。能力と関わるのかもしれませんが、この4人のうち、アンデレ以外の3人はキリストの重要な弟子の核となります。ヤコブは12人弟子の中で最初に殉教します(使徒12:2)。ヨハネはかなりの高齢になるまで生きたと伝えられています。キリストの最初の弟子たちのなかにもいろいろありました。才能においても、実力においても、個性においても実際多種多様な人たちが最初の弟子となりました。

 

この弟子たちが教会を形成するのです。教会は当初から均質なグループではありませんでした。そのようないろいろな個性、性格、能力のある人たち、老若男女、身分の違いのある人、社会的地位の差異があっても教会はこの人たちから構成されます。

 

使徒言行録4:13では「議員や他の者たちは、ペトロとヨハネの大胆な態度を見、しかも二人が無学な普通の人であることを知って驚き、また、イエスと一緒にいた者であるということも分かった。」とあります。確かに彼らは学問のある、知的水準が抜群の人たちではありませんでした。それが教会なのです。ただ、キリストが彼らを用いようとして、召し集められたのです。

 

【福音宣教の緊急性】

この短い文章に「すぐに」が2回出てきます(18節、20節)。マルコは弟子たちの召しとそのあとに続く従順は速やかになされたと強調します。このような言葉が用いられるのは、緊急性を示しています。弟子が召し出され、選びされるのは、緊急なのです。弟子たちの仕事は人々を福音により、神の国に導き入れることでした。この作業はついでの仕事などではありません。

 

また、後回しにしても差し支えない仕事ではありません。神の国は接近しています。神の国は間近です。そうであれば、神の国に導いていく弟子たちの務めは緊急の課題なのです。弟子たちの仕事が緊急だと言うだけではありません。福音を信じて神の国に入れられることも緊急の課題なのです。

 恐るべき審判の警告ならば緊急性があると言われても納得できるかもしれませんが、神の国に招く働きとその結果などいつでもできるし、いつでも応じればいいと悠長に構えている場合が多いと思います。そうではないのです。神の素晴らしい使信、メッセージを語ることは緊急性を持っています。緊急性を自覚するように求めるものなのです。(おわり)


2014年09月28日 | カテゴリー: マルコによる福音書

2014年9月21日説教「イエスの働きの開始」金田幸男牧師

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2014921日説教「イエスの働きの開始」金田幸男牧師 

聖書:マルコによる福音書1

9 そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。

10 水の中から上がるとすぐ、天が裂けて"霊"が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。

11 すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。

(誘惑を受ける)

12 それから、"霊"はイエスを荒れ野に送り出した。

13 イエスは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた。

(ガリラヤで伝道を始める)

14 ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、

15 「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。

 

 

要旨

【イエス・キリストの働きの開始】

マルコはイエス・キリストの働きの開始を記します。イエスの受洗、悪魔の誘惑、宣教開始と陸上競技の三段跳びのように話が展開して行きます。

 

9節「そのころ」、マルコ福音書は正確な時間や場所にあまり関心がないかのように語ります。記事は次々に記されますが、「そのころ」「それから」「その後すぐ」といった言葉で記事が繋がっていきます。「そのころ」とはいつごろか分かりませんが、注解者によると紀元27年ごろとされます。

 

【ナザレ時代のイエス】

 イエスはそれまでナザレに住んでいました。マルコ6:3にこのように記されます。「この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか。」当時は大工の子は大工であるのは普通でした。イエスは父親のヨセフのもとで大工の修行をしたに違いありません。また、イエスにはたくさんの兄弟がいたことも分かります。ただ、イエスのナザレ時代については、福音書は沈黙していて、殆ど私たちは何も知らないのです。

 

【洗礼者ヨハネから洗礼を受ける】

 あるとき、イエスはヨルダン川で洗礼者ヨハネから洗礼を受けます。

この洗礼については大きな問題があります。ヨハネは罪からの悔い改めの洗礼を人々に授けました。イエスがこの洗礼を受けたということは、イエスが自分自身罪のあることを認め、洗礼を受けたのだとされかねません。

 

イエスは自分が罪人であると自覚しているということになります。キリストが単なる罪人では私たちの救い主にはなれません。しかし、これを否定する文章が記されます。「『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という声が、天から聞こえた。」この声は、天が裂けて聞こえます。天がびりびりと布を裂くように引き裂かれます。丁度絵画的な表現で書かれています。これは神の特別な啓示そのものであることを示しています。

 

そして、霊が降って来ます。霊は鳩のように可見的に降って来るということもとても驚くべきことでした。こんな異常な現象と共に語られたのは、イエスが神の子であるという告知です。イエスは罪人ではなく、神の子です。すなわち神です(神の子は神ではないということはありえません)。神の子が罪人であるはずがありません。

 

イエスは罪人ではないけれども、罪人であるかのようになってくださったということになります。イエス・キリストは私たちと同じようになってくださったのです。イエス・キリストは神であられたにもかかわらず、私たちと等しいものとへりくだってくださいました。

 

 洗礼者ヨハネはイエスの受洗の際、マタイ3:13以下では、思いとどまらせようとしたとあります。自分がイエスから洗礼を受けるべきだといいます。ヨハネはイエスが悔い改めの洗礼を必要とはしないと証言しています。しかし、イエスは「正しいことを行なうのだ」といってあえて洗礼を受けられました。

 

キリストは洗礼など必要ではありませんが、私たちと同じところに立たれて、すすんで洗礼を受けられました。私たちの罪を身代わりを引き受けて人間として歩まれます。イエスの洗礼ははからずも彼が神であることを示す出来事となったのです。

 

【サタンの誘惑】

 12節以下ではイエス・キリストがサタンから誘惑を受けたと記されます。誘惑とは罪に陥れようとする試みを指しています。イエスは試練を受けられたのです。

 誘惑したのはサタンです。サタンというとおどろおどろしい感じがします。

サタンは恐るべき力、強力な破壊力を持っているかのように思われています。人間にはサタンは厄介な存在です。サタンの本業は誘惑し、非難することです。ヨブ記1-2章ではヨブを試みます。彼の信仰を試す役割を果たします。しかし、サタンはヨブの命を奪うことは赦されていません。サタンは決して神以上ではありません。

 

 サタンはゼカリヤ書3:1でも出てきますがそこでは大祭司ヨシュアを訴える=告訴する役割を果たしています。告訴し、非難する専門家です。歴代志上21:1ではダビデを誘惑し告発します。脅し、文句をいい、批判するのがサタンの役割です。サタンは私たちを破滅させることはできませんが、人間に対してはしばしば勝利するかのように振舞います。誘惑して神から離れさせようとします。

 

イエス・キリストは私たちと同じようにサタンの誘惑に曝されました。キリストも大きな試練に直面しました。サタンは勝利するかのように振舞います。しかし、サタンは大敗北を喫します。

 

【天使たちが仕える】

13節に天使たちが仕えていたと記されますが、天使の最も大きな役割が神への奉仕です。天使が仕えていたということはイエス・キリストを神の子として仕えていたことに他なりません。ここでもマルコはイエス・キリストが神であることを証言しています。

 

 人間として洗礼を受け、人間として試練に会われますが、また神の子として、神として振る舞い、神であるがゆえに人間ができないことをされます。

 

【神が人となる】

私たちは、人間が神になるという宗教状況に生きています。しかし、その逆である、神が人間になるということは考えられない状況にいます。神が人となるというのであればそれはきわめて重大なことです。ありえないことが行なわれています。

 

神がわざわざ人間となり、人間と等しくなられました。人間となられたイエスは神であることを示されます。私たちはこの神のなさることを無視したりできないはずです。神が救いに必要な働きをまっとうされ、また御言葉を語られるのであれば、私たちはその神の働きを軽視することなどとてもできず、不信心を持って応じることなどできないはずです。

 

神の子が私たちと同じになり、私たちの苦しみ、悲惨を味わってくださいました。そのイエスが神であって、私たちに神として神の御心を啓示されます。それを斥けることなど愚かしい、おぞましい行為です。

 

【福音の要約】

そして、イエス・キリストは宣教を開始されます。神の福音を宣べ伝えたこと、その宣教された言葉が記されます。15「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」

 

9-15節はマルコ福音書の序論に当たります。序論において、全体の要点を記すのが一般的な書物の書き方です。イエス・キリストの公的な生涯の開始を記しますが、単に開始を告げるのではなく、マルコ福音書全体の要約ということができます。イエス・キリストの生涯の言動をここはその方向性を語ります。

 1章7-8は洗礼者ヨハネの説教の要約ということができますが、15節は宣教者イエス・キリストの説教の要約だといえるでしょう。イエス・キリストが語ろうとしたことがここに要約されています。

 

イエスの説教はまず、時は満ちた、です。私たちは時間が水の流れのように流れていくようなものだと思っています。しかし、ここで時間は器に充満するがごとくです。時間はついに溢れ出します。充満し、ついに破裂してしまうようです。そのように時間には節目があり、その節目が来たとき一挙に神は働かれます。イエス・キリストが宣教を開始されたのは満を持して、ついにそのときが来たという感じを表現しています。

 

 「神の国は近づいた」

 神の国は「神の支配」を意味します。時間と共に、時間が始まって以来、つまりこの世界の創造からずっと、神の支配は開始されています。しかし、神の支配の完成はまだです。私たちは神の支配がすでに始まっている世に生き、「神の支配が完成する間近」に生きています。

 

神に支配が完成するとき、私たちの救いも完成します。私たちは神の国に入れられます。イエス・キリストは神の国の完成は近づいていると宣言されます。つまり、救いの完成は近いのです。そのときは近づいている。これがイエスの説教の主題です。神は私たちの救いを完成しようとしておられる。

 

【神の国の備え:神に立ち返れ】

悔い改めて福音を信ぜよ。神の国の備えは、悔い改めと福音を信じる信仰だと語られます。悔い改めは単に反省すること、あるいは後悔することと異なります。神に立ち返ることを指しています。福音はよき知らせです。神が語るよき知らせを信じることが神の国に入る条件です。

 

 洗礼者ヨハネは悔い改めを語りました。イエス・キリストの場合、福音を信じなさいという命令が含まれています。ここがヨハネとの違いです。ヨハネは悔い改めを語っただけでした。悔い改めてするべきことは洗礼を受けることです。イエスはヨハネと違います。悔い改めることだけではなく、福音を信じることを命じるのです。

 

こうして、福音を信じるものに神の国に入る特権は約束されます。約束するのは神の子です。

 このような説教=宣教は人間がしてもよさそうなものです。誰でもよさそうなものです。実際、族長や預言者たちにその役割が与えられていました。しかし、神の子が直接この神の国に至るための道を宣告されます。

 

キリストは人間であるだけではなく、神が降臨されて、福音を語られるのです。それだけ、私たちは神の熱心を知らされます。神は御子を遣わして、福音を宣教させたのです。

 

私たちはキリストの福音を耳にしています。福音書はそのイエスの言行を記します。それは単にイエスという宗教的天才の言葉の羅列ではありません。また、福音は単なる慰安の言葉ではありません。神の子が私たちのところに来て、救いに必要なことを全て行なわれ、その御言葉を信じ、約束を受けいれるならば必ず救われるという神の使信を語られたのです。神のこのような決意を私たちはどのように考えるべきでしょうか。(おわり)

2014年09月21日 | カテゴリー: マルコによる福音書

2014年9月14日説教「福音のはじめ」金田幸男牧師

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2014914日説教「福音のはじめ」金田幸男牧師

 

聖書:マルコによる福音書1

1 神の子イエス・キリストの福音の初め。

2 預言者イザヤの書にこう書いてある。「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、/あなたの道を準備させよう。3 荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、/その道筋をまっすぐにせよ。』」そのとおり、4 洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。

5 ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。

6 ヨハネはらくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた。

7 彼はこう宣べ伝えた。「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。8 わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。」

 

要旨

【福音のはじめ】

 「神の子イエス・キリストの福音のはじめ」。子どもに物語を話し始めるとき「さあ、お話を始めましょう」と言います。「さあさあ、なになにの物語の始まり・・・」といった調子でしょうか。マルコも1節をそのように始めたかもしれませんが(つまり福音書開始の口上)、もうひとつの解釈は2-8節、洗礼者ヨハネの物語を福音のはじめととる解釈です。

 

2節以下には洗礼者ヨハネの言動が記されます。ヨハネという人物のことは殆ど知られません。ヨセフスという当時の歴史家の著作に名が出てきますが、詳しいことは何も知られません。しかし、キリスト教信仰においてはとても重要な役割を果たした人物です。彼の存在と働きは私たちの信仰には大きな意味があります。

 

【預言者たちの書に】

 「鍵括弧」に入っている2-3節を指して、預言者イザヤの書に書かれているとありますが、実はイザヤだけではありません。旧約聖書の他の個所からの引用でもあります。

 

2節は、マラキ書3:1見よ、わたしは使者を送る。彼はわが前に道を備える。あなたたちが待望している主は/突如、その聖所に来られる。あなたたちが喜びとしている契約の使者/見よ、彼が来る、と万軍の主は言われる。」と、出エジプト3:20「見よ、わたしはあなたの前に使いを遣わして、あなたを道で守らせ、わたしの備えた場所に導かせる。」の混合引用です。

 

【福音の使者】

マルコはヘブライ語旧約聖書をそのまま引用せず、ふたつの個所を自由に引用混合しています。この引用でマルコが言わんとするのは、まもなく神の大きな業が行なわれるがその前に使者が送られるというものです。

 

大きなわざとは、マラキによれば大いなるさばきです(マラキ1:2-3を見ると恐るべき神のさばきが記されます)。わたしはそう思っていませんが、大きな災害があると神のさばきだと考える人がいます。また個人的にも突然の不幸を経験すると神のさばきと思うのです。しかし、ちょっとしたさばきでも、私たちは耐えられません。神の大きな御業は災いばかりではないと思います。

 

【預言者エリヤと洗礼者ヨハネ】

それはむしろ神の救いの御業です。イスラエルはメシヤ=救世主の到来と信じていました。ユダヤ人はメシヤが必ず来る、そのとき救いは達成される。その前に使者が送られる。それがエリヤだと信じていました(エリヤは列王記下2:11.彼は死なないで火の車で天に挙げられました。ユダヤ人はもう一度エリヤは戻ってくる。神のさばきの前に使者として送られてくると信じられて)。

 

しかし、マルコは、そして、教会は、それこそが洗礼者ヨハネだと信じたのです。イザヤが引用されます(40:3「呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備え/わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。」)。荒野にその使者は出現するとイザヤが言っているとマルコは理解したのです。洗礼者ヨハネは荒野で活動を開始します。イザヤの言うとおりであり、使者は民に主の来臨の備えをさせます。

 

 「荒野」と言っても人間が寄り付けない広大な砂漠を指しているのではありません。人里離れた寂しいところという意味です。耕作や居住にふさわしくありませんが、そこに庵を設けたり、時には集団生活をして、もっぱら禁欲に努め、清い生活を求める人々がいました。荒野は清らかな生活をするのにふさわしいと考えられたのです。当時、ユダの荒野で、禁欲生活を実行した人々がたくさんいました(エッセネ派、クムラン)。ヨハネもそのうちの一人であったと思われます。

 

ただ、ヨハネは孤立して世俗世界から断絶するような態度をとっていません。ヨハネ自身、イナゴと蜂蜜を常食としたとありますが、粗食をしたという意味で、断食などしていません。栄養の点で不足のない、普通の生活をすることができました。ここでヨハネは徹底的にひとつの問題を瞑想し、考え込み、そして、熟考しました。ヨハネは清さを追及したに違いありません。砂漠に後退した修行者は禁欲を実践しましたが、それは聖潔を求める生きかたでありました。ヨハネはそこに留まらず、清さの反対の「罪」の問題を追及したと思われます。私たちの観念では清さの反対は穢れと考えます。しかし、砂漠の修行者たちは罪と考えます。ヨハネは罪の問題をどう解決すべきかを考え続けたのです。

 

【罪】

 罪とは何か。定義はできます。「罪とは律法に違反すること」。しかし、私たちは、罪の問題をあまりよく分かっていないのではないでしょうか。この世間では、法律に違反することを罪といいます。殺人、強盗、詐欺など犯罪といいます。刑法という法律はその犯罪に対する処罰まで記します。

 

しかし、キリスト教では、神の律法に反することを罪とし、心の中でも罪は犯されると言います。例えば殺意、憎悪、敵意、嫉妬なども罪とします。情欲まで罪とされます。

 

罪は厄介なものです。定義だけではすまないからです。私たちには良心があります。この良心は罪に痛みをおぼえます。誰でも良心はあります。良心の持たない人間はいません。良心は自分の犯した罪に苦しみます。しかし、罪が厄介なのは、罪を犯していても気がつかないこともあります。無自覚な罪。その数の多いこと。私たちは多くの場合気がつかないで罪を犯しています。ですから結果も気がつきません。

 

さらに罪は深刻です。罪は魂を傷つけます。深く傷つけます。その罪は魂の死を意味します。私たちが死の恐怖から抜け切れないのはこのためです。さらに、魂が負うこの深刻な傷は滅びをもたらします。心の中でおかされる罪は良心が自覚を促しますが、無自覚な罪、あるいは魂への傷を負わせる霊的次元の罪は、多くの場合軽視されています。しかし、結果は甚大です。

 

【悔い改めの洗礼】

 ヨハネは罪の問題を一所懸命追及したに違いありません。そして、当然その罪の問題の解決法も考えたはずです。どうすれば深刻な罪の問題を解決できるのか。罪が赦されること。それ以外にありません。罪を帳消しにされる道がなければなりません。どうすれば罪は赦されるのか。ヨハネはこの答えとして、悔い改めの洗礼を主張します。それを宣教しました。つまり、説教をしました。

 

4-8節でヨハネの活動と説教が記されます。「罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた」。罪の赦しはどうすれば得られるのか。悔い改めることだ。ヨハネはそう主張しました。   

悔い改めとは方向転換を意味することですが、聖書では神に立ち返ることを意味しています。自分の道を好きなように生きていた人間がその生き方を捨てて神に立ち戻っていくことを悔い改めと言います。単なる反省する、慙愧の念に駆られる、あるいは後悔するということとは異なります。  

 

罪の道を生きてきたものが悔い改めて神に立ち返る、そのときに罪は赦される。ヨハネはそのように教えたのでした。

 洗礼者ヨハネはさらに洗礼を授けました。これがヨハネの新しさであったということができます。悔い改めとは心の問題である。そう思う人が多いはずです。だから、心の中で悔い改めの気分になればそれでいい。犯した罪を反省します。それだけで終わることが何と多いことでしょうか。罪は謝ればすむではないか。そう考える人もいます。

 

 ヨハネは洗礼を求めます。彼はヨルダン川で洗礼を行ないました。それは単なる儀式ではありません。心に思った悔い改めを形に表すべきなのです。キリスト教という宗教は心に抱いた思いを形にすることを求めます。献金は献身のしるしといいます。神に献身する決心は本人しか分かりません。しかし、それを形にするのは献金なのです。賛美の心が湧いてきます。それを讃美歌という歌にします。ヨハネは悔い改めを洗礼と結び付けます。

 

 このような悔い改めの洗礼が罪を赦すと教えたのですが、続々とヨハネに共鳴する人が出てきました。罪の問題に悩んでいたユダヤ人はヨハネのところに来て悔い改め、罪を告白し、洗礼を受けました。こうして罪の赦しをいただこうと願ったのでした。

 

【悔い改めの水の洗礼は準備】

 ヨハネは懸命に教えましたが、なお不十分さを確信していました。彼の説教が7-8節に記録されていますが、むろん、これは説教のもっとも大切な部分です。水の洗礼だけでは限界がある。もっともっと魂の奥底で変化が起きなければならないと思ったのです。それを実行できるのは自分よりもはるかにすぐれたまことのメシヤ=キリストであると確信しました。自分はそのメシヤの到来の備えをするために来ただけだと自覚していました。つまり、悔い改めの洗礼は準備でしかないと思っていたのです。

 

【聖霊による洗礼】

 メシヤは同じく洗礼を授けます。しかし、その洗礼は聖霊による洗礼です。ヨハネの洗礼とキリスト教の洗礼はどう違うのか。ペトロが答えてくれています。

 

使徒言行録2:38-39「すると、ペトロは彼らに言った。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです。」

 

イエス・キリストの名による洗礼とはキリストの十字架の贖いとキリストの復活にあずかる洗礼であり、その恵みにあずかる洗礼です。これこそ聖霊による洗礼であり、ヨハネは自分の洗礼ではとても及ばない真実であると認めたのです。キリストを信じ、その贖いに預かる洗礼は聖霊によるのですから、その洗礼で約束されている祝福は確実です。必ず罪は赦されます。赦しの結果は確実な救いです。間違いなく神の国に入ることができます。そこには曖昧さはありません。

 この洗礼にあずかり、神の国の民としての特権を獲得していただきたいと願います。(おわり)

2014年09月14日 | カテゴリー: マルコによる福音書

2014年9月7日説 教 「十字架の誇り」金田幸男牧師

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201497日説教「キリストの十字架にあずかる」金田幸男牧師

聖書:ガラテヤの信徒への手紙6

11 このとおり、わたしは今こんなに大きな字で、自分の手であなたがたに書いています。

12 肉において人からよく思われたがっている者たちが、ただキリストの十字架のゆえに迫害されたくないばかりに、あなたがたに無理やり割礼を受けさせようとしています。

13 割礼を受けている者自身、実は律法を守っていませんが、あなたがたの肉について誇りたいために、あなたがたにも割礼を望んでいます。

14 しかし、このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。この十字架によって、世はわたしに対し、わたしは世に対してはりつけにされているのです。

15 割礼の有無は問題ではなく、大切なのは、新しく創造されることです。

16 このような原理に従って生きていく人の上に、つまり、神のイスラエルの上に平和と憐れみがあるように。

17 これからは、だれもわたしを煩わさないでほしい。わたしは、イエスの焼き印を身に受けているのです。

18 兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがたの霊と共にあるように、アーメン。

 

要旨 

 【こんなに大きな字で】

11節に、パウロは自分の手で大きな文字を書くと記します。今までは誰か筆記者の手で口述筆記されてきたことが分かります。パウロの時代、このような専門的な筆記者(速記者)が文章を書くのが一般的でした。手紙の最後の部分はパウロ自身が書きました。大きな文字を使ったのは目立つようにするためであったはずで、なぜそうしたのかといえば、強調のためと推測されます。この点は最後に強調しておきたいという気持ちの現われです。

 

【ユダヤ主義者の動機】

パウロが強調したかったことは12節以下に記されますが、まず、ガラテヤのキリスト者に律法の遵守、割礼を受けることを強いたユダヤ主義者の動機を弾劾します。彼らはキリストの十字架のゆえに迫害されたくないために異邦人キリスト者に割礼を強制したというのです。

 

キリスト信仰だけではなく、律法の行いも救いに必要であるというこの教えは一見すればまじめな救いの問題と思われます。しかし、パウロはこのような主張をする教師たちの本心はどこにあるか白日のもとに曝します。

 

【十字架を語らないキリスト教徒】

十字架はユダヤ人の憎しみの対象でした。ユダヤ人は長くメシヤ=救世主の到来を待ち望んでいました。ところが、キリスト教徒たちは、イエスがキリスト=メシヤだと主張し始めました。そのイエスはユダヤ人が十字架につけたのです。イエスはユダヤ人の民族的な希望を覆すものです。そのイエスを宣教するとは、とユダヤ人はキリスト者を迫害しました。パウロもそのために何度も命を奪われかけました。ユダヤ主義者たちはキリスト教徒でもありました。十字架を語ることを避けることはできません。だから、彼らは迫害の危険に直面しました。実際に迫害を受けたかもしれません。だから、十字架をうしろに後退させ、それに代わって律法の遵守を強調しました。これならユダヤ人から迫害を受けなくなるかもしれません。当然十字架の教説は強調されなくなったり、歪められたりしたことでしょう。

 

【体制に迎合する過ち】

迫害されたくないばかりに、迎合するという傾向はいつの時代もあります。私たちの教会の歴史を遡れば、国家の圧迫、迫害を避けるために、基本的な信仰は維持されているという理由で、国策に迎合するような教会政治(経営)が行われました。そのような過ちは繰り返されるかもしれません。私たちの周囲の社会はキリスト教に好意的でありません。敵対的、そうでなくても冷淡です。

 

そのような環境に生きる教会もキリスト者も、迫害、反対を避けるために、信仰の大切な部分を曲げてしまうという誘惑はいつもあります。警戒をしていなければ私たちもユダヤ主義者が陥った罠に嵌ってしまいます。

 

さらにパウロはユダヤ主義者自身律法を守っていないと指摘します。ガラテヤの異邦人キリスト者には割礼を求め、律法の厳守を要求しました。彼らはユダヤ人であったことは間違いありませんが、おそらく厳格派のユダヤ人ではなかったかもしれません。

 

だから、キリスト教信仰に安易に入れたかもしれません。もともとルーズなユダヤ人であり、ユダヤ人の周辺で信仰を持っていただけであるならば、厳格なユダヤ人に対し、見栄を張りたくて、ガラテヤの異邦人が割礼を受けたということを宣伝して、手柄にしたかった、という動機も見えてきます。律法はあまり厳格に守らないくせに、ガラテヤの異邦人キリスト者にはユダヤ人が受けなければならない割礼を厳格に要求したのです。

 

【イエス・キリストの十字架を誇る者】

パウロはこのようなユダヤ主義者に自分を対比します。パウロは厳格なファリサイ派に属していました。彼なら律法、割礼を誇ることができました。パウロは言います。誇りは、イエス・キリストの十字架であってそれ以外ではない。

 

キリストの十字架とは何か。何よりもそれは私たちのために起きたことであり、キリストはそこで私たちのために犠牲となられました。私たちの罪を背負い、十字架で死んでくださいました。こうして、キリストは私たちが本来支払わなければならない罪の代価を償ってくださいました。

 

十字架の死によって私たちは神と和解することができました。この十字架を信じることが福音を信じることです。十字架はキリスト教信仰の中心です。パウロはこれを誇りとすると断言します。きわめて強い調子で語ります。絶対にそうだというほどです。

 

私たちはどうでしょうか。キリストの十字架以外に誇りとするところはない。口では簡単に言えます。しかし、多くの人がいる前で、キリストの十字架こそ唯一のわたしの誇りなどと恥ずかしくていえない。何か、のどの奥に声が引っかかってしまう。そういう感覚と葛藤しているのが現実です。信仰はもっています。しかし、それを公然と、唯一のわたしのほこりだと言い切れないで、引き下がってしまう。それが私たちの偽らざる真実ではないかと思います。確かに、キリストの十字架以外に誇りはないという確信を抱き、その確信を憚ることなく語ることができる人はたくさんいます。でも誰も彼もがそうではありません。

 

なぜ、私たちはパウロのようではないのか。やはり、キリストの十字架の意味、十字架がもたらす救いの偉大さを私たちがもっともっと真剣に追い求め、自分の確信にしていかなければならないのだと思います。ただ言葉の上だけではなく、私たちの知性を動員し、確固たる認識に到達し、信心として動かないまで信仰を堅くすること、それが肝心なことではないだろうかと思います。

 

【わたしたちの誇り】

この十字架に比べれば割礼などどうでもよい。パウロはこのように言います。割礼はユダヤ人の誇りです。誇りはさまざまあります。しかし、そんな誇りなどどうでもよいことだと言います。私たちにも誇りというものは種々あります。そして、誇りに生きている人が多くいます。

 

【新しく創造されること】

パウロは十字架こそ誇りとするだけの価値があると言いました。さらに、大切なのは、新しく創造されることだと言います。古い創造とは神が無からすべてを造られたことを指しますが、そこから全てが出発しました。創造は神の偉大なみわざです。

 

ところがそれに比べられる新しい創造があるとパウロは語るのです。新しい創造とは何か。神の創造のみ業の冠は人類の創造と言ってもよいでしょう。私たち人間は神の創造により存在するようになりました。その創造に比べて新しい創造とは何か。創造の冠は人類の創造です。そうだとすれば新しい創造の冠も人類の、しかも、新しい人類の創造ということになります。

 

【キリストと共によみがえって、新しい創造にあずかる】

新しい命に生きるものたち。それは聖霊によって新しく生まれ変わらされたものです。再生の恵みを受けたものです。新しい神の民です。

イエス・キリストを信じることは、十字架で自分を極刑に処することを意味しています。私たちはこの世界に対して十字架において死んだ、あるいはこの世も、私たちに対して十字架につけられています。つまり死んだということです。死んだままに放置されてはいません。私たちはこのキリストと共に十字架上で死んで、キリストとともに復活させられました。大切なことはこのことだとパウロはいいます。キリストと共によみがえって、新しい創造にあずかって、生まれ変わらされていること、これが肝心だとされます。これこそ御霊に導かれ、御霊に生かされているキリスト者の人生ということになります。

 

大切なことは何か。私たちがキリストと共に十字架につけられていることであり、キリストと共に生かされていることです。これは私たちがそうしているというよりも、神のわざです。第一の創造が神に全て依存して生起しました。無からの創造です。それと同様新しい創造も全て神の働きの結果です。

 

【新約の教会こそまことのイスラエル】

私たちはすでにこの恵みに生かされています。だから、大切なことはこの原理に生きているかどうかです。そして、この原理に生きるものは新しいイスラエルだと宣言します。肉によるアブラハムの子孫ではなく、霊によって生まれ変わったキリスト者こそ新しいイスラエルの民なのだ、パウロはこのように彼自身ユダヤ人でありましたが、古い枠の中ではもう捉えようとしていません。まことのイスラエルが出現しています。それが新約の教会であることは言うまでもありません。

キリストと共に生き、キリストと共に歩む生き方こそ、この原理こそもっとも大事なことなのです。

 

ただし、パウロはこれを祈りとして語っています。新しいイスラエルはまだ完成していません。まだ「原理」理念の段階に留まります。だから空しいのではありません。これから形を取って行きます。だから祈るのです。

 

【最後に】

最後にパウロはイエスの焼印を押されていると言います。当時の奴隷は所有者を示す焼印を押されたと言われています。パウロはキリストの奴隷だと自覚しています。だから、焼印を押されたもののごとく、という意味もあるかもしれませんが、ここではやはり、今まで彼が受けてきた迫害による肉体の傷ではないかと思われます。

 

ガラテヤのキリスト者たちが再度パウロを危険な目にあわせるようなことをして欲しくない。あるいは、もう一度ガラテヤを訪問しなければならないようにして欲しくない、なぜなら、ガラテヤには頑固なキリスト教の反対者がいて、パウロと見れば襲いかかって来るかもしれないという意味かもしれません。(おわり)

2014年09月07日 | カテゴリー: ガラテヤの信徒への手紙