2014年9月28日説教「最初のキリストの弟子たち」金田幸男牧師9

L140928002.wav ←クリックで説教が聴けます
CIMG9974.JPG                                   
新約聖書
マルコによる福音書1章6-20節
6 イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。
7 イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。
8 二人はすぐに網を捨てて従った。
9 また、少し進んで、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、
10 すぐに彼らをお呼びになった。この二人も父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して、イエスの後について行った。

2014928日説教「最初の弟子たち」

 

要旨 マルコ1章16―21

 

【イエスの召し・召命】

 イエス・キリストはガリラヤで神の国の福音を宣教する働きを始められました。ガリラヤ湖のほとりを歩いていたとき、ペトロとアンデレと出会い、彼らを弟子に招きました。さらにヤコブとヨハネをも招かれます。

 ここからひとつのことを知ります。弟子たちから、自分たちから弟子にしてくださいと頼んだのではありません。師の教えに信服して弟子となったのではありません。自分のほうから先生であるイエス・キリストのところに住み込んで入門して弟子となったのではありません。イエス・キリストのほうからペトロとヨハネを招いたのです。言い換えれば、召されたのです。召命とも言います。

 

ペトロたちは何も知らないでキリストの弟子となったのではありません。彼らはイエスの説教を聞いていたはずです。キリストはガリラヤ湖畔を宣教の場所と用いられたと推測できます。斜面に聴衆が座り、下からキリストが語る。音響効果があったと思います。ペトロたちは漁師でしたから、キリストの説教の場に居合わせたことは充分可能性があります。だから、キリストがついてきなさいと言われたとき素直に従えたのだと思います。キリストの教えには聞くに値する何かがあると悟ったのでしょう。

 

【召しとは】

いわゆる専門の伝道者にするために召しがあるのではありません。イエスの召しはさまざまなところで行なわれます。宗教改革者ルターは新約聖書のドイツ語訳で、職業に当たる語を召命と訳しました。彼にとって、職人であろうと、騎士であろうと、また、宗教人であろうとその務めは召しによると考えられていました。現在で言えば、サラリーマンであろうと、学校の教師であろうと、専業主婦であろうと、それぞれは神からの召しによるとされます。神が召してくださったのです。

 

それは運命だから仕方なく受け入れなければならないものでもなく、偶然そうなったのでもない。自分で適任だと思っている人があるかもしれませんが、究極的には神の召しによってそれぞれの場所に置かれているのです。

 

【召天】

召しは、人生の最後にも用いられます。昇天はキリストの場合に用いられ、キリスト者が人生を終えて天に召されると表現します。帰天という言い方もありますが、召天がいいのではないでしょうか。私たちは一番いいときに、一番ふさわしいあり方で、神が私たちを召してくださいます。これが私たちの人生です。神の召しですから、私たちに人生の終わりは単なる終わりではありません。人生はそれで一巻の終わりというのでもありません。神は私たちを召してそれで人生を終わりとされます。神の介入がそこに示されます。

 

召しは、私たちの信仰の始めでもあります。神は選ばれたものを召されます。召されたものに信仰を与え、義とし、聖とし、神の子として、ついに私たちを救いの完成まで導かれます。この一連の神の救いのみわざは全て神の召しによるのです。神が私たちを暗い滅びの闇から光の御国に呼び出し、召しだしてくださいます。

 

この召しはどうして確信できるのでしょうか。イエス・キリストはわたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われました。キリストは御言葉によって召されます。この言葉を無視し、拒否するなら招きの言葉は何の意味もありません。しかし、聞いたものにとってそれは神の生ける言葉として、さらに、心に響く言葉として聞かせられます。

 

それは誰がどういおうとも主がお語りになる言葉です。私たちの心に神が語ってくださったのです。召してくださったのです。そんなのは空耳だと人はいうかもしれません。思い込みだともいうかもしれません。けれども、私たちの心に語られたみ言葉は確かです。だから、周囲の言葉に動かされることはありません。ある人は妄信に過ぎないというかもしれません。その可能性はあります。

 

でも、それを聞き分けるのは私たち自身であって、私たちは一人一人神の前で吟味すべきなのです。(むろん、私たちは御霊の内なる働きであることを認めなければなりません。)

 

【召しにしたがう人生】

召しにしたがっているという確信は強固です。誰もそれを否定することができません。ペトロもアンデレも、ヤコブもヨハネも紆余曲折がありました。失敗もあれば挫折もありました。ペトロの場合、とんでもない失敗、一時的にキリストを否定してしまうという過ちを犯します。けれども、最後までキリストの弟子でありえたのは、その魂の奥底にまで聞かせられた召しの言葉を確かに受け止めたからです。

 

【人間を取る漁師】

彼らは召されたのは単なるイエスのヘルパーや雑用係として召されたのではありません。

イエス・キリストは、人間を取る漁師にしよう、と言われました。なぜこのようなことを言われたのでしょうか。彼らが漁師であったからだといえるでしょう。網を打って多くの人間をキリストのところに導きいれる、あるいは集めると言うイメージを抱くことは容易となるでしょう。

 

【裁き主なる主】

しかし、それだけではなかったと思います。イエス・キリストはこの言葉を語られたとき、旧約聖書を心に抱かれたのではないでしょうか。エレミヤ16:16-18見よ、わたしは多くの漁師を遣わして、彼らを釣り上げさせる、と主は言われる。その後、わたしは多くの狩人を遣わして、すべての山、すべての丘、岩の裂け目から、彼らを狩り出させる。わたしの目は、彼らのすべての道に注がれている。彼らはわたしの前から身を隠すこともできず、その悪をわたしの目から隠すこともできない。まず、わたしは彼らの罪と悪を二倍にして報いる。彼らがわたしの地を、憎むべきものの死体で汚し、わたしの嗣業を忌むべきもので満たしたからだ。

 

ここで漁師は神の恐るべき審判を実行するために神が派遣されたものたちという意味です。アモス4:2「主なる神は、厳かに誓われる。見よ、お前たちにこのような日が来る。お前たちは肉鉤で引き上げられ 最後の者も釣鉤で引き上げられる。」この肉鉤は漁師が釣上げる道具と考えられます。漁師は悪を行なうものを引き出してさばかれます(ハバクク1:15なども参照)。

 

これらに共通しているのは、漁師は神のさばきの執行者の比喩的表現として語られている点です。イエス・キリストはこの旧約の表象をご存知であったと推測できます。イエス・キリストが招かれる人間を獲る漁師は恐るべき神の審判の執行者ではありません。

 

【福音の担い手としての漁師】

神の国は近づいた。旧約的には恐るべき審判の到来と見ることが出来ますが、キリストは神の国の福音を宣べ伝えられました。神はただ恵みによって多くの罪人を神の国に入れようと決心され、実行されます。ここにこそ神の憐れみが示されます。神の国に入るべき者たちを集め、導く漁師というイメージが描かれています。この漁師は福音の担い手です。確かに神の支配の完成は近づいています。その神の支配に人を招く、集める、これがキリストの弟子たちの役割なのです。

 

 キリストの最初の弟子となったのは、まずペトロとアンデレです。彼らは網を打っていたとありますが、網の四隅に石を結びつけて、それを海に投げ入れる漁法です。このやり方では岸辺近いところでしか仕事をすることはできません。ガリラヤ湖は魚が豊富だったそうです。ですから、岸に近いところでも充分の漁になったそうですが、他方、ヤコブとヨハネの父ゼベダイは船を持ち、雇い人がありました。ここから推量できるのは、ゼベダイは裕福な漁師であったということであり、ペトロたちはさほど豊かな漁師ではなかったのではないかと言うことです。

 

【教会は多様な弟子たちからなる】

キリストの弟子たちははじめから均質ではありません。能力と関わるのかもしれませんが、この4人のうち、アンデレ以外の3人はキリストの重要な弟子の核となります。ヤコブは12人弟子の中で最初に殉教します(使徒12:2)。ヨハネはかなりの高齢になるまで生きたと伝えられています。キリストの最初の弟子たちのなかにもいろいろありました。才能においても、実力においても、個性においても実際多種多様な人たちが最初の弟子となりました。

 

この弟子たちが教会を形成するのです。教会は当初から均質なグループではありませんでした。そのようないろいろな個性、性格、能力のある人たち、老若男女、身分の違いのある人、社会的地位の差異があっても教会はこの人たちから構成されます。

 

使徒言行録4:13では「議員や他の者たちは、ペトロとヨハネの大胆な態度を見、しかも二人が無学な普通の人であることを知って驚き、また、イエスと一緒にいた者であるということも分かった。」とあります。確かに彼らは学問のある、知的水準が抜群の人たちではありませんでした。それが教会なのです。ただ、キリストが彼らを用いようとして、召し集められたのです。

 

【福音宣教の緊急性】

この短い文章に「すぐに」が2回出てきます(18節、20節)。マルコは弟子たちの召しとそのあとに続く従順は速やかになされたと強調します。このような言葉が用いられるのは、緊急性を示しています。弟子が召し出され、選びされるのは、緊急なのです。弟子たちの仕事は人々を福音により、神の国に導き入れることでした。この作業はついでの仕事などではありません。

 

また、後回しにしても差し支えない仕事ではありません。神の国は接近しています。神の国は間近です。そうであれば、神の国に導いていく弟子たちの務めは緊急の課題なのです。弟子たちの仕事が緊急だと言うだけではありません。福音を信じて神の国に入れられることも緊急の課題なのです。

 恐るべき審判の警告ならば緊急性があると言われても納得できるかもしれませんが、神の国に招く働きとその結果などいつでもできるし、いつでも応じればいいと悠長に構えている場合が多いと思います。そうではないのです。神の素晴らしい使信、メッセージを語ることは緊急性を持っています。緊急性を自覚するように求めるものなのです。(おわり)


2014年09月28日 | カテゴリー: マルコによる福音書

コメントする

トラックバック(0)

トラックバックURL: http://www.nishitani-church.jp/cgi-bin/mt/mt-tb.cgi/1032