2006年9月

神の前に一人の人間として ―ダビデ王の信仰と悔い改め― 市川康則牧師/神戸改革派神学校教授

聖書:サムエル記下12章13‐23

13:ダビデはナタンに言った。「わたしは主に罪を犯した。」ナタンはダビデに言った。「その主があなたの罪を取り除かれる。あなたは死の罰を免れる。 14:しかし、このようなことをして主を甚だしく軽んじたのだから、生まれてくるあなたの子は必ず死ぬ。」 15:ナタンは自分の家に帰って行った。主はウリヤの妻が産んだダビデの子を打たれ、その子は弱っていった。
16:ダビデはその子のために神に願い求め、断食した。彼は引きこもり、地面に横たわって夜を過ごした。 17:王家の長老たちはその傍らに立って、王を地面から起き上がらせようとしたが、ダビデはそれを望まず、彼らと共に食事をとろうともしなかった。
18:七日目にその子は死んだ。家臣たちは、その子が死んだとダビデに告げるのを恐れ、こう話し合った。「お子様がまだ生きておられたときですら、何を申し上げてもわたしたちの声に耳を傾けてくださらなかったのに、どうして亡くなられたとお伝えできよう。何かよくないことをなさりはしまいか。」19:ダビデは家臣がささやき合っているのを見て、子が死んだと悟り、言った。「あの子は死んだのか。」彼らは答えた。「お亡くなりになりました。」 20:ダビデは地面から起き上がり、身を洗って香油を塗り、衣を替え、主の家に行って礼拝した。王宮に戻ると、命じて食べ物を用意させ、食事をした。
21:家臣は尋ねた。「どうしてこのようにふるまわれるのですか。お子様の生きておられるときは断食してお泣きになり、お子様が亡くなられると起き上がって食事をなさいます。」22:彼は言った。「子がまだ生きている間は、主がわたしを憐れみ、子を生かしてくださるかもしれないと思ったからこそ、断食して泣いたのだ。 23:だが死んでしまった。断食したところで、何になろう。あの子を呼び戻せようか。わたしはいずれあの子のところに行く。しかし、あの子がわたしのもとに帰って来ることはない。」

【はじめに】
 ダビデ王と言えば、イスラエルの名君であり、今日でもイスラエル国旗は「ダビデの星」と言われるデザインのものです。また旧約時代、将来現われる真の救い主が「ダビデの子(子孫)」と言われたほどに、ダビデは神の救いのみ業において大きく用いられた人物でした。しかし、ダビデは決して"聖人君子"ではありません。欠けがあり、弱さがある罪人に過ぎません。彼は一国の王として一般国民とは比べ物にならない大きな権力を行使でき、これによって、神のみ業を前進させ、そして神から大きな祝福を受けることもできます。しかし、その反面、罪を犯し、神に罰せられることにおいても、国民にまさっています。

2006年09月24日 | カテゴリー: サムエル記下 , 旧約聖書

「悲しむ人々は幸いである」 田村英典牧師/淀川キリスト教病院伝道部長

聖書:マタイ5章4節「悲しむ人々は幸いである。その人たちは慰められる。」

【悲しむ人々は幸いである】
今朝は、イエスの語られた山上の説教の冒頭の「幸福の教え」の二つ目に進みます。4節「悲しむ人々は幸いである。その人たちは慰められる。」

ここですぐ疑問が湧いてきます。「ちょっと待ってほしい。悲しみは不幸以外の何ものでもないではないか。何故こんなことが言えるのか。」恐らく誰もがこういう疑問を抱くと思います。

「悲しむ人々は幸い。」この逆説はどういうことでしょうか。イエスはどういう意味でこう言われるのでしょうか。

最初に一つのことを確認しておきます。イエスは悲しむ人の誰もがこうだと言われるのではありません。前回も申し上げましたが、ここの教えは皆、イエスを神の御子、また私たち人間を罪と永遠の滅びから救うことのできる、ただ一人の救い主と心から信じる真の信仰者、真のクリスチャンの幸いな特徴、特質を八つの角度から描いたものです。これはクリスチャンでない人たちを締め出すというのではありません。ただ、真のクリスチャンとはどういう人で、どういうことが真に幸いか、ということです。

次のような誤解もあります。これは世間にしばしば見られ、クリスチャンですら時に誤解しているものです。つまり、クリスチャンはいつも笑顔で明るいというものです。成程、教会へ行くと皆明るい。笑顔で挨拶し、爽やかな印象を与えます。「私はクリスチャンだから、人につまずきを与える苦しそうな暗い顔をしてはいけない。明るくなくては」と思って努力する人もいます。中には、常に明るいことを自分のトレードマークとし、他のクリスチャンにもそれを要求する人もいます。これでは、クリスチャンは悩んではならず、悲しむことはキリスト教信仰と相容れないみたいです。

2006年09月17日 | カテゴリー: コヘレトの言葉 , コリントの信徒への手紙一 , マタイによる福音書 , ヨハネによる福音書 , ローマの信徒への手紙 , 新約聖書 , 旧約聖書 , 詩篇

「心の貧しい人々は幸いである」 田村英典牧師/淀川キリスト教病院伝道部長

マタイによる福音書5章 ◆山上の説教を始める 1:イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。2:そこで、イエスは口を開き、教えられた。 ◆幸い 3:「心の貧しい人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。 4:悲しむ人々は、幸いである、/その人たちは慰められる。 5:柔和な人々は、幸いである、/その人たちは地を受け継ぐ。 6:義に飢え渇く人々は、幸いである、/その人たちは満たされる。 7:憐れみ深い人々は、幸いである、/その人たちは憐れみを受ける。 8:心の清い人々は、幸いである、/その人たちは神を見る。 9:平和を実現する人々は、幸いである、/その人たちは神の子と呼ばれる。 10:義のために迫害される人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。 11:わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。 12:喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。


【山上の説教】

今朝は、主イエスの語られた山上の説教の冒頭の教えに注目したいと思います。

3~10節で主は


「~は幸いである」

と言われます。どういう人のことを、主は語っておられるのでしょう。実は真の信仰者、真のクリスチャンとは、どういう特徴を持つ人かを、8つの角度から描いておられるのです。従って、これらにより、私たちはクリスチャンとしての自分を様々な角度から吟味することができ、また何が真に幸いなのかも再確認できます。

2006年09月10日 | カテゴリー: イザヤ書 , コリントの信徒への手紙一 , コリントの信徒への手紙二 , テモテへの手紙一 , マタイによる福音書 , ヤコブの手紙 , ルカによる福音書 , ローマの信徒への手紙 , 出エジプト記 , 新約聖書 , 旧約聖書

「神のみこころ」 グラハム・スミス(CMS宣教師・KGK主事)

聖書:1テサロニケの信徒への手紙一4章1--8

【1.生けるためのアドバイス】
私はある英語の新聞を読んでいます。全部読めないですが、必ず、木曜日のトラブルシューティング(人生の悩み相談コーナー)を読んでいます。二人の悩みが書かれて、それに対して一人のアドバイスが書かれています。良く出る問題は人間関係で、夫婦や親子や姑との人間関係又職場の人間関係や親戚との関係です。そのなかには不品行、財産やお金、無責任な行動、アルコール中毒の問題などがあげられます。
 
興味深いことはカウンセラーとして立てられた人たちです。有名な著者、タレント、弁護士と時々は精神科医がアドバイスをします。専門科ではない人ばかりです。その新聞の記事を読みながらいつも考えるのは、人間は人生についてどこからアドバイスを受けているか、求めているか。どうでしょうか。人生を過すために一般の人々はどのように導かれているでしょうか。助け無にして生活している人がいるでしょう。また、家族に相談する人もいるでしょう。学校のなかなら、先生の役割も大きいでしょう。マニュアルにそって人生を歩んでいる人もいるでしょう。占いや宗教によって導かれる人もいます。タレントやスポーツマンの影響を受けている人も少なくないと思います。
 
人々はわざわざ新聞に手紙を書いて送らなくても、良い生活を歩むためのアドバイスを求めていると思います。クリスチャンも求めています。クリスチャンはキリスト教用語で、それはみこころを求めていると言います。神様が望んでいることは何であるか、神様の心の思いは何であるか知りたいのです。神様からの導きを求めています。決断する時だけではなくて、クリスチャンはこの世でどのように歩んだらいいのか導かれたいのです。
 
今日の箇所はその求めの答えになります。神のみこころは何であるかが3節以下にはっきり書かれています。

「3:実に、神の御心は、あなたがたが聖なる者となることです。すなわち、みだらな行いを避け、4:おのおの汚れのない心と尊敬の念をもって妻と生活するように学ばねばならず、5:神を知らない異邦人のように情欲におぼれてはならないのです。」

  タレントに聞かなくてもいいです。新聞に探さなくてもいいです。先生と相談しなくてもいいです。マニュアルも買わなくてもいいです。占いを避けることも出来ます。なぜなら、聖書には神のみこころが充分に書かれています。今日は、この箇所からみこころを学びたいのです。

2006年09月03日 | カテゴリー: コリントの信徒への手紙一 , テサロニケの信徒への手紙一 , 新約聖書