神の前に一人の人間として ―ダビデ王の信仰と悔い改め― 市川康則牧師/神戸改革派神学校教授

聖書:サムエル記下12章13‐23

13:ダビデはナタンに言った。「わたしは主に罪を犯した。」ナタンはダビデに言った。「その主があなたの罪を取り除かれる。あなたは死の罰を免れる。 14:しかし、このようなことをして主を甚だしく軽んじたのだから、生まれてくるあなたの子は必ず死ぬ。」 15:ナタンは自分の家に帰って行った。主はウリヤの妻が産んだダビデの子を打たれ、その子は弱っていった。
16:ダビデはその子のために神に願い求め、断食した。彼は引きこもり、地面に横たわって夜を過ごした。 17:王家の長老たちはその傍らに立って、王を地面から起き上がらせようとしたが、ダビデはそれを望まず、彼らと共に食事をとろうともしなかった。
18:七日目にその子は死んだ。家臣たちは、その子が死んだとダビデに告げるのを恐れ、こう話し合った。「お子様がまだ生きておられたときですら、何を申し上げてもわたしたちの声に耳を傾けてくださらなかったのに、どうして亡くなられたとお伝えできよう。何かよくないことをなさりはしまいか。」19:ダビデは家臣がささやき合っているのを見て、子が死んだと悟り、言った。「あの子は死んだのか。」彼らは答えた。「お亡くなりになりました。」 20:ダビデは地面から起き上がり、身を洗って香油を塗り、衣を替え、主の家に行って礼拝した。王宮に戻ると、命じて食べ物を用意させ、食事をした。
21:家臣は尋ねた。「どうしてこのようにふるまわれるのですか。お子様の生きておられるときは断食してお泣きになり、お子様が亡くなられると起き上がって食事をなさいます。」22:彼は言った。「子がまだ生きている間は、主がわたしを憐れみ、子を生かしてくださるかもしれないと思ったからこそ、断食して泣いたのだ。 23:だが死んでしまった。断食したところで、何になろう。あの子を呼び戻せようか。わたしはいずれあの子のところに行く。しかし、あの子がわたしのもとに帰って来ることはない。」

【はじめに】
 ダビデ王と言えば、イスラエルの名君であり、今日でもイスラエル国旗は「ダビデの星」と言われるデザインのものです。また旧約時代、将来現われる真の救い主が「ダビデの子(子孫)」と言われたほどに、ダビデは神の救いのみ業において大きく用いられた人物でした。しかし、ダビデは決して"聖人君子"ではありません。欠けがあり、弱さがある罪人に過ぎません。彼は一国の王として一般国民とは比べ物にならない大きな権力を行使でき、これによって、神のみ業を前進させ、そして神から大きな祝福を受けることもできます。しかし、その反面、罪を犯し、神に罰せられることにおいても、国民にまさっています。

今朝、学ぶサムエル記下12章13‐23節もダビデのそのような一面を記しています。同時に、この箇所はまた、神様に対して大きな罪を犯したダビデの悔い改めと信仰のが真実であったことを、そしてそれを通して、主なる神が本当に、確かに彼の罪を赦し、恵みを回復してくださったことを物語っています。

【Ⅰ.ダビデの罪と神の罰】
 あるとき、ダビデは昼寝から起き、屋上に上って下を見おろしますと、一人の婦人(バト・シェバ)が水浴をしていました。すると、心の中に情欲が湧き上がり、家来に命じて、その婦人を王宮に召し出し、こともあろうに姦淫します。これがすでに王権の濫用です。ところが、その婦人が身ごもりました。放っておけば、当然お腹が大きくなります。しかし、婦人の夫は戦争に出ていますから、なぜ身ごもったのか、誰と通じたのかということになります。もし、彼女が、実はダビデ王様よって身ごもりましたなどと言えば、ダビデは恥ずかしいこと、この上もありません。イスラエルの王が姦淫したなどということは不名誉の極みであり、それ以上に神様への大罪です。モーセの十戒には「汝(なんじ)姦淫するなかれ」(第7戒)と言明されています。

そこで、ダビデは隠蔽工作を図ります。婦人の夫で自分の部下であるウリヤを戦場からわざわざ呼び戻し、自分の家で妻と共に一夜を過ごすように勧めます。しかし、忠義なウリヤは、他の者たちが戦場にいるのに自分だけ家で骨休めすることはできませんと、固く断ります。そこで、ダビデはウリヤを戦線の激しいところに送り出し、戦死するように仕向けます。死の結果、ウリヤは、妻が自分以外の男によって身ごもっていることを知らずに死にました。ダビデのこれらの行為―バト・シェバとの姦淫・ウリヤの計画死―王権の濫用によるものであり、生ける神の前に甚だしい罪でした。

ダビデのこのような罪に対して、神は大いに怒りを現わされました。神は、バト・シェバとの間に生まれた子供を―罪を犯したのはダビデなのに、彼に代わって―重い病気にかからせ、弱らせていかれました。

【Ⅱ.寝食を投げ打って祈るダビデ―罪の赦しを受ける真の悔い改めとは】
ダビデは寝食を投げ打ち、必死に神に祈り願います―願わくは我が子の命を助けたまえ、と。自分の犯した罪に対する神の刑罰を、何の責任もない子供が負わされようとしています。神に対する真剣な悔い改め、心からの謝罪、我が子の不憫さや我が子への申し訳なさ―ダビデの胸の内が如何ばかりであったか、想像に難くありません。

ダビデに対する家臣たちの心配と勧め(17、18節b)は当然です。ダビデは1個人である以上に、イスラエルの王です。寝食を忘れた祈りは体にも心にも悪い。万一、王の身に何かがあった場合、イスラエルは大変なことになります。せっかく王国を統一し、ダビデ王朝が確立しかかっているそのときに、また混乱や戦争が起きては大変です。家臣たちは進言、嘆願します。

「王様。王様はイスラエル王国の王にあらせられまするぞ。親としてのご心中お察し申し上げまするが、御身に万が一のことあらば一大事にござりまする。何卒ご賢察あって、お召し上がりくださりませ、お休みくださいませ。」

しかし、ダビデは家臣たちの勧め・願いをまったく聞き入れず、断食を続け、徹夜同然の日々を送りました。彼は通常の"快適な"生活、特に王としての特権的な生活を拒否、放棄した訳です。ダビデはこのような状況の中で神に祈りました(22節)。

食事・睡眠は言うまでもなく、生命維持のために不可欠です。それらを断つとは、生命維持の手段を自ら捨てることになりますが、これは正に、この身と心を神にのみ委ねること、文字通り「献身」することに他なりません。罪の悔い改めとは―自らを神に捧げての祈りとは―このような真剣さ・必死な姿、全身全霊を傾けた神の前での謙りを意味し、かつ求めます。神の前に出るとはこのような姿勢以外ではありません。

罪の赦し、救い、永遠の命・・・もちろん、それは神の一方的な憐れみ、神の無代価の賜物であり、決して人間が必死に努力して獲得できるものではありません。しかし、それは決して「安っぽい恵み」(チープ・グレイス)、"棚ぼた式"に与えられるようなものではありません。罪の赦しは、その真実な悔い改めなしには与えられないものでなのです。

ダビデのこの寝食を投げ打った祈り、家臣の常識に満ちた請願を拒否する態度、これこそ、神に罪赦される真の罪の悔い改め、神の前での真の謙り、神に対する真の献身です。罪の赦しは神のみの主権的、恩恵的行為であり、これを受けるには、神にのみ寄り頼む以外にありませんが、この神への信頼・依存が今、心身の維持に不可欠な食を断ち切り、神に祈ることにおいて証しされているのです。

【Ⅲ.神の前に一人の信仰者として立つダビデ】
 ダビデのこのなり振り構わない祈りに現われているものは、神の前にある、一人の人間、一人の信仰者としての真剣な―進退窮まった、正に命を懸けた―姿です。そこでは王であることはもはや無用です。もちろん、ダビデは王であることを忘れた訳でも、放棄した訳でもありませんが、王の立場・権力など、神の刑罰たる我が子の死に際して何の役にも立ちません。もし我が子を救う何らかの手立てがあるとすれば、それはただ、神がそれを思い止まり、赦してくださることだけです。

このダビデの姿勢―ただ一人の信仰者として実存を懸けて神の前に出ている―は、かつて罪を犯した時の自分の自覚や姿勢と正反対です。ダビデが姦淫と殺人の罪を犯したことは、一方では彼が王であることを忘れ、他方で王であることを濫用した結果です。

たまたまバト・シェバの水浴を目にして心に情欲が起きたとき、そして彼女を王宮に召し出し姦淫したとき、彼は自分が王としての立場や責任を完全に忘れ、一人の男になっていました。しかし、彼女を王宮に召し出すこと自体が、そしてその後、事件の発覚を恐れ、隠蔽工作を図り、その結果殺人に至ったことは、王であることを最大限利用した行為です。

しかし、今や、王たることは神の厳しい裁きの前に何の力もありません。ダビデにできることは、ただ神の憐れみに自らを委ねることだけです。

ダビデがイスラエルの王であるのは決して彼自身の画策、権謀術数の結果ではありません。神ご自身からの賜物、しかも、管理運用すべき責任を伴った賜物です。王権は決して、自分の利益や名誉のために濫用してはなりません。しかし、このことを十分わきまえ、その王権をふさわしく行使し得るためには、常に、自分が神の前にただの人に過ぎないこと、神の前に一人の人間、一人の信徒であることを忘れてはなりません。ダビデは今このことを「体験」しているのです。

【Ⅳ.神の主権の体得―聞かれない祈りの教訓】
ところが、神はダビデの直接の祈り―我が子の助命―を聞き入れられませんでした。ダビデの徹底的なへりくだりと悔い改めにもかかわらず、神はその子を撃たれたのです。神は無慈悲な方なのでしょうか。神がダビデの祈りの直接的内容を聞かれなかったことは、一連の事柄を導き支配するのがあくまでも神ご自身であることを意味します。神は決して侮られる方ではありません。

神は確かに、罪を悔い改める者には惜しみなく赦す、憐れみ深い方ではありますが(13節)、しかし、神の憐れみは人が自分勝手にどうこうすることのできる―徹夜断食祈祷したから赦される―ものではありません。主を甚だしく軽んじたこと自体は大きな罪です。主はこの罪を赦され、ダビデ自身を撃つことはされませんが、しかし、神は犯された罪への厳格な処置をなさいます。それが子の死により起こったのです。ダビデは、神が正に侮られ得ない方であることを学ばなければなりませんでした。死んだ子供はもはや生き返らないのです(23節)。

さらに、ダビデの祈りが聞かれなかったことは、悔い改めそのものが罪の赦しのための機械的なあるいは自動的な条件ではないことを意味します。罪が赦されるためには、確かに悔い改めを求められますが、しかし、悔い改めの行為が何か功績となって、罪の赦しを引き出すような力ないし価値があるというものではありません。悔い改めたから神は私の罪をゆるさなければならない、などということはありません。罪を赦すのは神ご自身であり、罪を深く悟り、真実に悔い改めることができるのは、神の側からの恵み深い赦しを聞き、それを信じて受け入れることによってです。

【Ⅴ.ダビデの断食徹夜祈祷および変身を可能にしたもの―神の真実な赦しと憐れみ】
ダビデの断食徹夜祈祷は、神に対する彼の献身と自己の罪の悔い改めの証しですが、しかし、そのような祈祷行為は彼自身のほうから主体的になされたものではありません。言い換えれば、ダビデは神の憐れみと赦しを得ようと取り引きし、駆け引きするために、自分を犠牲にしたのではありません。彼が家臣たちが怪しむほどの生活をしたのは、実に、神のほうから先にダビデを赦すと宣言された(13節)ことを受けてのことでした。預言者ナタンを通してなされたこの主権的な赦しの宣言に示される神の恵みを、ダビデは堅く信じたればこそ、神に大胆に依存し、へりくだりつつ、最大限に神に請願したのです(22節)。

さらに、子供が死んだと知った途端に、それまでの言わば"難行苦行"を捨てて、通常の生活に戻ったことは正にその消息を示します。ダビデの変身振りは家臣たちの目には異常であり、常識を覆すものでした。身内が死ねば当然、喪に服し、それにふさわしい衣服を着、食を断つからです。このような変身から、ダビデを、子供が死ぬまでは何としてでも神に食い下がったが、死ねばさっさとあきらめ、元の生活に戻る、実にドライで合理的な精神の持ち主だなどと見るのは、完全に的外れです。

ダビデのこの生活態度の変化は、事柄に対する神の御心を悟り、それを信仰によって真剣に受け入れた結果です。彼が常識的な生活を拒否し、命懸けで子供のために祈ったのは、この大罪を赦してくださったほどの神の憐れみ深さを知り、それに身を委ねたからであり、また、一見手の平を返すような日常生活への復帰は、子供の死をもってこの自分の罪に対する神の意志を確認し、それを率直に受け入れた結果です。

ダビデは神が自分の祈りが聞かれなかったことに、何ら文句を言いません。それはちょうど、ナタンから自分の罪を指摘、糾弾されたとき、「わたしは主に対して罪を犯した」(13節)と即座に率直に、承認し告白したことと対応している。こうして、徹夜断食祈祷に見られる神への献身と、その中での悔い改めとは、どこまでも、神の主権と恩恵が生み出したことなのです。

また、子供の死を知るや否や、素早く通常の生活に戻ったダビデの変身振りは、罪赦された者の実にさっぱりした、すがすがしい生き方を示しています。罪を悔い改めるとは、後悔することではない。犯した罪を覚えることは、絶えずそれを悔い改め、神と人の前に常に謙遜になることにとって大事ですが、しかし、心が罪の意識に支配され、絶えず自責の念に駆られて、それから解放されない、赦しを確信できないということではありません。神ご自身が赦すと宣言されるのであるから(13節後半:その主があなたの罪を取り除かれる。あなたは死の罰を免れる。)、必ず赦し、もはやそれを問われません。

【Ⅵ.ダビデの赦しと生存―ダビデの子イエス・キリスとに向かう神の救いの歴史】
バト・シェバ姦淫物語は一応、ダビデの子供の死と、彼自身の赦しとをもって終わりますが、しかし、その直後にソロモン誕生の短い記事(サムエル記下12章24‐25節:24:ダビデは妻バト・シェバを慰め、彼女のところに行って床を共にした。バト・シェバは男の子を産み、ダビデはその子をソロモンと名付けた。主はその子を愛され、25:預言者ナタンを通してそのことを示されたので、主のゆえにその子をエディドヤ(主に愛された者)とも名付けた。)が続き、神の将来の御業を暗示しています。本来、罪を犯したダビデ自身が罰せられて死ぬのが当然なのですが、しかし、神はダビデの意に反してその子を撃たれ、ダビデの罪の処置とされました。その後、ダビデは自分の罪のために夫を失ったバト・シェバを慰め、彼女に礼節を尽すべく、彼女をめとり、第2子を儲けます。ソロモンと名付けられたその子が将来、ダビデ王朝を継承することになります(列王記上1:39)。神がダビデを生き残らせられた理由がここにあります。

そして、実にこの延長線上に「ダビデの子」イエス・キリストが来られたのです(マタイ1:1、ルカ1:32)。この方こそ、寝食を投げ打ち(ルカ4:2‐4、9:58)、激しい祈りと叫びのうちに(ルカ22:44、ヘブ5:7)、己が罪のために死すべき人間のために神に執り成してくださり(マタイ1:21、ルカ23:34、46)、信じる者たちを永遠の命に生かしてくださいました(ルカ23:43、ヘブ5:8-9)。このようにして、神がダビデを生かしてくださったことが実を結ぶことになったのです。イエス・キリストの十字架の死は、罪人に対する、侮られることなき神の絶大な怒りであり、同時にその罪の処置・赦しです。キリストを信じて受け入れ、キリストに寄り頼むことにより、罪が完全に赦されたことを知り、それゆえに罪を悔い改め、同時に罪の責めから解放されるのです。(おわり)

2006年09月24日 | カテゴリー: サムエル記下 , 旧約聖書

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