2014年5月

2014.5.25.朝拝説教「あなた方は神の子です」金田幸男牧師 

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2014525日説教「あなた方は神の子である」金田幸男牧師 

 

聖書:ガラテヤの信徒への手紙3

26 あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。

27 洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。

28 そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。

29 あなたがたは、もしキリストのものだとするなら、とりもなおさず、アブラハムの子孫であり、約束による相続人です。

 

 

 要旨

【救いは律法の行いによるのではなく、福音を信じる信仰による】

パウロはこのガラテヤの信徒の手紙において、律法の行いによるのではなく、福音を信じる信仰によって救われると教えてきました。ところが反対者たちは、信仰だけではなく律法の規定に定められていることも守らなければ救われないと教えました。ガラテヤの異邦人信者の中にその教えに聴き従うものが出てきました。パウロは断固反対します。

 

【律法は何のために】

それでは、律法は何のためにあるのか。

神はアブラハムに恵みによる約束を与えられました。アブラハムに、その子孫は数多くなると約束され、人間的には高齢であり、子どもを与えられる可能性が全くないと思われたのですが、ただ神の言葉を信じました。神はそのアブラハムの信仰をよしとされました。

 

【モーセ律法の役割】

ところが、430年経ってから、アブラハムの子孫であるイスラエルに、モーセを通して律法を授けられました。これはアブラハムへの約束の変更では決してありません。

 

【違反を明らかにするため】

では、律法の役割は何か。目的があって、律法が与えられたのです。

律法の役割の第一は、違反を明らかにするためだといわれます(19節)。律法という掟が与えられ、その律法に言行を照らして見るならば、律法に違反している、つまり罪を犯していることが明白になります。罪は白日に曝されます。

 

【生来与えられた良心という律法】

むろん、律法を歪曲したり、無視したりすれば罪の自覚は薄れます。人間には生来良心という律法も与えられていますが、良心を麻痺させれば罪の意識も弱まってしまいます。律法はそれ自体、救いの手段ではありません。律法によって人は決して救われません。律法は批判し、非難するだけです。

 

【律法は養育掛】

第二の役割は、養育掛に喩えられます。

養育掛はローマの上流社会の子弟の教育のやり方であり、多くの場合、奴隷から任命されます。養育掛である奴隷は、子どもの躾け、あるいは読み書きを担当します。奴隷所有者から子どもの訓育を命じられていますから、その命令のとおりにしなければ彼自身が処罰されます。鞭や棍棒で、教育します。子どもから見れば、その教育は憎むべき体験に他ならず、養育掛を憎み続け、嫌悪します。律法という養育掛はただ目標であるキリストのところに導いていくだけです。

 

律法という養育掛の元に縛り付けられていても、ついに、子どもは成人に達します。そのとき、もはや養育掛の言い成りにはなりません。成人のときとは何を意味しているでしょうか。「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです」(26節)とありますように、私たちがキリストを信じたとき、成長し、もはや、律法という養育掛のもとで拘束されてはいないのです。何事も指示され、命令され、制限される幼児ではなく、自由に行動できる神の子とされています。信じるとき、私たちは神の子とされます。信仰によって救われるということは神の子とされるという意味でもあります。

 

【救われるとは神の子とされること】

救われるとは神の子とされること以外の何ものでもありません。子とされること、それは救いの別の表現でもあります。信仰によって救われているありようを言い表す言葉として、「神の子とされる」ほど素晴らしい表現は見出せません。

 

ウエストミンスター信仰告白第12章では子とされる恵みを端的に述べています。ウエストミンスター信仰告白の中で珠玉の言い方であると思います。

 

要点を記せば、次のように記されています。

   の子の数に入れられ、神のことしての特権を与えられる 

   神の御名が信じるものの額に刻印されていて決してそれは消え去ることはない 

   子とする霊を授けられている 

   神の臨在される、恵みのみ座に大胆に憚ることなく近づくことができる 

   アッバ、父よと神を呼ぶことができ、信じるものは決して孤児にはされない 

   神から憐れみを受け、守られ、したがってときに懲らしめられることがあっても決して捨てられることはない。そして、神の相続人として、もろもろの約束を与えられる。

 

ウエストミンスター信仰告白は生硬な面白みのない教理文書ではありません。そこに記されていることを吟味すれば心が励まされ、心が温かくなってくるものです。

 

私たちは今や神の子です。律法の元で、自分の力で救いを獲得しようとしても神の子とされる恩恵に浴することがありません。この神の子とされる祝福をパウロはいくつかの比喩的表現を含め、豊かに語ります。

 

【キリストと結び合わされる】

21節では、キリストと結び合わされると言います。「キリストとも結合」「キリストと一致すること」とも言い表されます。この結合は何ものも切り離すことができません。今このとき、キリストは私たちの目には見えません。キリストは天におられます。私たちと、昇天したキリストとはあまりにも離れています。では、キリストと私たちは縁遠いだけなのでしょうか。

 

復活したキリストは天におられますが、聖霊によって、私たちはキリストとひとつに結び合わされています。私たちは、生けておられるキリストとひとつなのです。だから、私たちはまだこの世にありますが、不可解な仕方でキリストに結ばれていますので、どんなときでも、試練のときでも、意識を失っているときでも、臨終の床でも、キリストと結び合わされています。キリストとひとつであるならば、キリストは常に私たちの傍らにおられます。生きているときも死にかけているときも、キリストは共にいてくださいます。これ以上慰めに満ちた御言葉はありません。

 

 パウロは、そのキリストとの結合は洗礼のときであると語っています(27節)。

洗礼を受けて、私たちはキリストと結ばれます。神の子とされるのは洗礼のときです。

洗礼は、単なる形式、入会儀式ではありません。信じて洗礼を受けるならば、そのとき、洗礼を受けた人はキリストと結び合わされ、神の子とされ、神の子に伴うあらゆる祝福を受けるものとされます。

 

【キリストを着る】

パウロはもうひとつの表現を用います。「キリストを着る」。

衣服は現在ではファッションとなっています。また、実用的には防寒の機能があります。しかし、古代世界では衣服は身分を表しました。

 

貴族は決まった服装があり、もし身分の違うものが貴族の衣服を着るならば処罰されました。衣服の色もそうです。高貴な色というものがあって、身分の低いものはそのような色の衣服を着用することができませんでした。キリストを着るとはキリストと一体になることも含められますが、それと共にキリストと同じ立場、身分、権威を持っているという意味があります。

 

キリストを着ているならば、私たちは外見上キリストのようにみなされます。少なくとも私たちはキリストのいのち、キリストの力を有します。

 

パウロはこのような結果、キリストに結び合わされるならば、もう民族の違い、身分の違い、性=ジェンダーの違いは問題になりません。ユダヤ人は異邦人と大きな違いを強調します。パウロは洗礼を受けたものはそのような違いはなく、平等に神の民、神の子、キリストを着用するものとされるといわれます。

 

ただ念のために言っておかなければならないことは、信じて神の子とされたら、一切合財、人間が皆同じになるというのではありません。同じ顔をし、同じ体つきをもち、性の違いはなくなって中性化するというようなことはありません。ただ、違いが差別や区別となるわけではありません。多様性は残されますが、だからといって子とされる恵みが変わるのではありません。

 

【キリスト・イエスにおいてひとつ】

キリスト・イエスにおいてひとつにされます。ひとつの神の民とされます。私たちは今ここでは互いに離れて生きています。しかし、そのときには私たちは皆ひとつに集められます。神の国で、神の御許に集められます。これこそ私たちの希望です。

 

パウロは私たち神の子とされたもののことを「キリストのもの」と語ります。所有を指しています。私たちは誰かの所有になるなどといわれますと反感を感じるかもしれません。誰の所有でもないと。

私たちが神の子とされるというのは、同時にキリストの所有になることも意味しています。へりくだってこの言葉を耳にします。私たちはキリストに属し、キリストの所有されているもの、従って、決して神に高ぶることが出来ませんが同時に、神から離されることはありません。

 

【私たちは信仰によりアブラハムの子孫】

そうであれば、私たちはアブラハムの子孫です。血縁でアブラハムの子孫となるのではありません。また血統上アブラハムの子孫でなければならないというのでもありません。信仰により、全てのものはアブラハムの子孫であり、アブラハムの子孫が与えられた約束、つまり、カナンの地の相続を保証されます。アブラハムへの約束は決して地上の、現在ではパレスティナと呼ばれている地域を指すのではなく、それは影に過ぎず、本体は天にある神の国、あるいは完成された御国なのです。そこに私たちも導かれていきます。

 

【神の国の相続人】

そして、相続人でもあります。子どもはどんな出来の悪い子どもでも父の遺産を相続する権利を持っています。私たち自身弱く小さく、愚かです。怠慢でどうしようもない劣等生です。けれども、私たちは神の国とそれに伴うあらゆる神に帰属する宝物を相続します。

 

旧約の約束はこうしてそれが本質的にはどういうものか明らかになります。キリストにおいて、私たちは計り知れない幸いを約束され、その約束の実現は間近です。(おわり) 







2014年05月25日 | カテゴリー: ガラテヤの信徒への手紙

2014.5.18.朝拝説教「神の愛」河内常男長老 

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2014.5.18.朝拝説教「神の愛」河内常男長老(音声メッセージはありません)

聖書:コリントの信徒への手紙一13

1 たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。

2 たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。

3 全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。

 

4 愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。

5 礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。

6 不義を喜ばず、真実を喜ぶ。

 

7 すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。

8 愛は決して滅びない。預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう、

9 わたしたちの知識は一部分、預言も一部分だから。

10 完全なものが来たときには、部分的なものは廃れよう。

11 幼子だったとき、わたしは幼子のように話し、幼子のように思い、幼子のように考えていた。成人した今、幼子のことを棄てた。

12 わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。

13 それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。

 

 (要旨)

信仰と希望と愛この3つはいつまでも残る。

今日は、特にここの愛についてみ言葉から学びたいと思います。

 

【わたしの若い頃】

もし、私にイエスさまを信じる信仰がなかったらどうであったかと思いますと、当時の私は20歳前後でしたが、おそろしいことであったと思います。信仰がなかったら、大変に恐ろしい自分の人生であったということが出来ます。

 

そのような私には毎日が、信仰はなく不信仰、希望ではなく絶望、愛ではなく憎しみと妬みの人生でありました。皆様は、それはちょっと言い過ぎではないだろうかと思われると思います。

 

昭和21年、私は台湾からの引揚者、とても貧しく、岡山県の津山の小学校2年生に転入しましたが、台湾とか、台湾人といじめられてとてもつらかったです。

 

台湾では戦争のためにほとんど学校には通えず、勉強は全くできずという状況でした。中学校、高校と劣等感を引きずった毎日でした。ですから学校の友達も出来ず、孤独でした。

親も大変苦労しました。父は小学校の校長でしたが、敗戦ですっかり自信を失って、また、復職という道もあったのですが、もう教師にはならんと商売を始めました。

 

うまくゆくはずもなく自転車で行商、夏はキャンデー、風船とか、駄菓子を売って回っておりました。母は、縫物をして生活を助けました。そのような両親の苦労を毎日見ていましたから、私の思いは、ともかく早く働いて親に楽をさせたいし、いやな津山を出て、大阪へ行き一生懸命働いて、お金を稼ぐこと、そうして私を馬鹿者にしていた連中を見返してやりたい、そういう思いでいっぱいでした。大阪へ行くことが夢でした。

 

就職してからは、自分でも良く働いたと思います。自慢話になりますが、私はまじめで忠実に良く働きました。骨身惜しまず、忠実に働きました。でも、職場では良く先輩たちと衝突しました。

あんまり、頑張るから嫌がらせを受けたり、喧嘩になったりしたこともありました。

そのころに私は、なにくそ、負けるものか、頑張るぞという何をやるにも、負けないと肩肘張った生き方でした。

 

しかし、職場で先輩や同僚とうまくゆかずそのような自分に嫌気がさして、どうすればよいのかと悩みました。

 

自分という人間は、自己中心でお金儲けのための人生、人にバカにされたくない、なめられてたまるかというゆがんだ闘争心がありました。戦争当時のつらさ引揚者としての貧しさとか、悲しみがずっと尾を引いていたと思います。台湾からの引揚船で亡くなる人も出て、葬儀もあり、死の怖さも体験しました。

 

【イエス様に出会う】

そのような中で、イエス様の福音に出会ったことは、本当に恵みです。主の憐れみとご愛を覚えるのです。子どもの頃日曜学校へ、5つ上の姉に連れられて、教会へ行ったのがきっかけでした。高校生の時に、洗礼を受けましたが、イエス様を信じることはどういう事か、イエス様の十字架と自分の罪との関係が、全くわかっていませんでした。就職してからは、ずっと教会から離れておりました。

 

【悔い改め】

伊丹教会では、若い林先生という方が歓迎して下さり、いろいろ相談に乗ってくださって、感謝でした。こうした牧師さんの温かい励ましをいただいて、導かれました。

真夜中に聖書を読んで涙ながらに、自分の罪が示されて心から悔い改めました。

 

その時、与えられた御言葉はローマ人への手紙 5章8節

「しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために、死んで下さったことにより、神は私たちに対する愛を示されました。」

 

津山の教会でも、牧師先生が説教などで読んで下さったり、教えてくださったのに、何一つ心の中には、み言葉は残っていませんでした。それが、今悔い改めてみて、初めてみ言葉が心に響いてきたのです。それは、今考えても不思議なことです。聖霊のお働きとしか思えません。

 

【罪について】

私は、愛というお言葉をお話しする前に、反対の対極的な悪、罪ということに、ついてお話ししたいと思います。

 

誰でもどなたでも一般的に私たちの周りの人々は、普段は、信仰を持っている人も、そうでない人も、親切ですし、事を荒立てることもなく、常識的で規則を守る生活を行っておられます。

でも、一旦重大な事柄、特に自分に不利益なことや、不当な言いがかりや、いわれもない厳しい批判にさらされますと、激しい怒りが込み上げてくるものです。

 

【心のどぶ川】

私たちの心は、どぶ川に例えることが出来ると思います。どぶ川も普段は、きれいに透き通って流れています。でも、とても厳しい言い争いになると、どぶ川に石を投げこんだように、下の方から怒りとか憎しみ妬みという罪が湧き上がってきます。

罪とは、一番の理由は、神から離れていること、神との正しい関係が損なわれて、的外れになっていることを言います。

 

そこから生ずるあらゆる、悪い思い、姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、妬み、泥酔、酒宴、その他このたぐいです。(ガラテヤの信徒への手紙5章19)350P

 

【第1コリント13章4節~6節】

お話を聖書に戻します。もう一度読みます。

第1コリント13章4節~6節

「愛は忍耐つよい、愛は情け深い、ねたまない、愛は自慢せず、高ぶらない、

礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みをいだかない、

不義を喜ばず、真実を喜ぶ、」ここまでは、特に難しいみ言葉ではないと思います。

 

7節:すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える】

でも、7節「すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える」、

注解書によれば、

すべてを忍びとは、我慢する、忍耐する、愛は簡単にあきらめたり、望みを捨て去ることはしない。放棄しない。駄目だと断言しない。放任しない。

全てを信じるとは、どのような困難なことがあっても信仰を失わない。

 

すべてを望みとは、どんなに苦しくても、困難でも、神に望みをかける、神にのみ信頼を置いて、失望、落胆しないことです。

 

すべてに耐えるとは、どのように絶望するような時にも忍耐し、望みを失わない。

 

すべてを信じるとか、すべてを望み、すべてに耐えるなんてことは出来ませんね。

表面的には、出来るかもしれません。しかし、イエス様は私たちの心の奥底まで見られます。どんなに繕っても、自分の心を偽ることは出来ません。

 

【愛の人になるには】

どうすれば、私たちは愛を持つことが出来るのでしょうか。

どうすれば、私たちは愛の人になることが出来るのでしょうか。神の愛の律法を少しずつでも身に着けることが出来るでしょうか。                    

イエス様は、私たちに出来ないことを、無理やり押し付けておられるのでしょうか。

その点、イエスさまのお教えは、信じなさい。ただイエスを信じるだけで良いとおっしゃいます。なんと、簡単なことでしょう。でも、これが又難しいことです。

 

【イエス様の衣に触れる】

そのような私たちにイエス様は、特別な衣を用意してくださいました。

 

マタイ福音書14章34~36)29P

「こうして、一行は湖をわたり、ゲネサレトという土地についた。土地の人々は、イエスだと知って、付近にくまなく触れ回った。それで人々は、病人を皆イエスのところに連れてきて、その服のすそにでも触れさせてほしいと願った。触れたものは皆癒された。」

 

人々は、イエスがユダヤのいろいろなところで、福音を伝え、病人を癒されておられることを伝え聞いていました。ですから、この地へ来られたから、こぞって癒されることを願って、押し寄せてきたのでしょう。彼らは、イエスに触れさえすれば、病がいやされることを信じて触ろうとしたのです。

 

体でなければ、服のすそにでも触れさせてほしいと願ったのです。彼らは、このお方に触れさえすれば直していただけると、信仰によって触れたのです。触れた者は皆癒されたとあります。また、ルカ8:4312年間も長血を患っていた女の人がイエスの服に触れて、いやされた記事もあります。

 

【イエス様が与えてくださる白い衣】

ヨハネの黙示録3章18(456P)

「そこであなたに勧める。裕福になるように、火で精錬された金を私から買うが良い。

裸の恥をさらさないように、身に着ける白い衣を買い、また、見えるようになるために、目に塗る薬を買うが良い。」

 

白い衣とは、イエス様が用意して下さる、義の衣です。義とは神の正しさです。

イエスの衣を身にまとえば、私たちは日ごとに新しくされます。生まれ変わることが出来ます。信仰の素晴らしさは、ここにあります。

難行や苦行をして、絶食をしたり、座禅を組んだりする必要はありません。

 

【新しい歩みを始める】

イエスのご愛に触れた私たちは、日ごとに新しい歩みを始めることが出来るようになります。イエス様が用意して下さる衣を身にまとうことです。

愛のない自分にも衣を用意してくださいました。絶望と憎しみのわたしでしたが、衣を頂く良き贈り物を頂くことが来ました。

 

【クリスチャンに与えられる恵み】

クリスチャンになって何が素晴らしいか。いろいろあります。

 

一番は天国へ行けるという大きな望みがあります。

 

【この世における恵み:愛の実践】

でもこの世もご利益があります。新しい衣は、義の衣、神の正しさを意味しますが。神の愛を実践できるように導いてくださいます。聖霊の神様が私たちの内で働いて下さるからです。少しずつですが、パウロのような使徒を真似てゆくことが大切です。

 

クリスチャンは真似てゆくことが、大切です。あのようなクリスチャンになりたいと、真似ることも良いと思います。悪い所は別ですが。

イエスを真似てゆく、パウロもその必要性を述べています。

 

【罪のとげ】

義の衣の素晴らしさは、私たちの罪をおおって下さることです。私たちの罪は、表現は悪いかもしれませんが、体中から出ているとげのようです。普段は、とげは体の中にしまってありますが、一旦、憎しみとか、悪い思いが大きくなると、とげが体中から、飛び出してくるようです。でも、イエスの衣を着た私たちは、もうとげは体から出ないのです。出ても、少しだけです。相手を傷つけることは、以前のようではありません。

 

【私たちの信仰の歩みと悔い改め】

私たちの信仰の歩みは、洗礼を受けてからすぐに完成するわけではありません。時間がかかるものです。でも、教会生活を通して次第に、成長してゆくものです。

 

信仰生活の中で失敗は必ずといってあるものです。それはまた、私たちを悔い改めに導いてくださることにもなります。実際、悔い改めなしに、信仰は成り立ちません。御言葉の理解には、どうしても悔い改めが必須条件です。悔い改めがあれば、私たちの心の内に、聖霊の神様が働きかけてくださいます。悔い改めることによって、神様は祝福してくださいます。義の衣をもう1枚着せてくださいます。

 

【自分の罪を言い表す】

私は、大分前の事ですが、あるお名前も忘れましたが、ある牧師さんと、信徒のかたを訪問したことを覚えています。何か、人間関係の問題があったのだと思いますが、教会に来なくなった姉妹のおうちでした。しばらくお話しをしました。最後に牧師さんが、私が祈りますから、あなたも同じ言葉で私の後に続けて祈ってくださいとおっしゃいました。牧師さんが天の父なる神様とお祈りを始められます。姉妹も同じように天の父なる神様と同じ言葉を話されます。最後の方でしたか、どうか、私の罪を赦して下さいと牧師さんがお祈りをしたとき、どっと姉妹は泣き出してしまわれました。私も、熱いものがこみあげてきましたが、こうして正直に自分の罪を言い表すことの素晴らしさとか恵みなど、聖霊が働いて下さることを、実感しました。

 

【知恵の衣】

義の衣は、また知恵の衣であると思います。怒りとか憎しみを爆発させることは、決して得にはならないことが、判ってくるからです。失敗もありますけれど、だんだんと賢い知恵を頂けると思います。感情が、爆発すれば、それは悪魔の思うつぼです。

 

イエスさまを信じたから、すべての人間関係がうまくゆくということではありません。

やはり、クリスチャンとなっても、クリスチャン同志でも、誰とでもうまく人間関係が出来るという簡単なものではありません。苦手な方もおられるのです。でも、神様は本当に良くされます。合わない相性の悪い人とお付き合いをすればするほど、また、こちらも恵まれるからです。

 

丁度、自分と相手の間に、クッションのようにイエス様が入って下さるようです。同じ、クリスチャンですから、いろいろ気まずいことがあっても、許しあえることが出来ることは、大きな利得です。

 

【平安】

イエスを信じるようにされた私たちには、まだお得なことがあります。それは、義の衣を頂いた者への恵みです。イエスという衣をまとって寝る時には、とても感謝な思いで休息が与えられるのです。

もし、妬みや憎しみや怒りを持ったままで、床に就かなければならないとすると、その人は、みじめな夜です。平安の内に身を横たえることが出来ることは幸いなことです。

 

【罪を犯しても】

ダビデ王は偉大な王でしたが、大変な失敗もしてしまった不幸な王です。

彼は「平和の内に身を横たえ、わたしは眠ります。主よ、あなただけが、たしかに、私をここに住まわせて下さるのです。」詩編4篇9(837P

 

ダビデは王となってからも、敵対者から命を狙われることや、戦いをしかけられたり、自分の部下でさえ思うようにならないことがありました。

 

私たちには判らない、王としての悩み、苦しみ罪があった思います。そのような中で、夜平安の内に休息を与えられることは大きな慰めです。

 

【心に受けた傷も癒される】

クリスチャンになってさらにお得なことがあります。

それは、自分に対して中傷や、悪口や、嫌な思いを受けてもいつまでも、根に持たぬようになれるということです。

 

信仰によって、そのような悪い思いは、だんだんと忘れてしまうことが出来るということです。いつまでも、昔の嫌な思い出とか、心に受けた傷というものは、自分の心に残るものです。

 

【良心が疼くときも】

また、逆に自分が人々に、与えた悪ということも、心に傷となって申し訳ない、済まないことをしたという思いが、残るものです。自分が、されても、しても悪いことは、自分の良心を傷つけます。良心は神様が誰にでもお与えくださる、恵みです。

 

話が横へそれますが、今ガラテヤ信徒の手紙を朝の礼拝で学んでいます。神様は、私たちに律法という掟をお与えになりました。しかし、律法以前に、どの人にでも、神様は人としての良心をお与えになられました。律法を知らない私たち日本人だけでなく、全ての人に、良心という掟が与えられているのです。ですから、親を敬うとか、盗んではいけない、殺してはいけない、という気持ちが皆に与えられています。

 

【神様の律法の素晴らしさ】

しかし、神様の律法の素晴らしさは、一般の良心とは同じようでも、全く次元が違います。

まず、神様を愛する、隣人を愛する、これは、クリスチャンでなければ、判らないし与えられない掟です。これに照らして自分が、どのような者かわかってくるのです。

 

【イエス様に委ねられる恵】

クリスチャンになって素晴らしいご利益は、すべてをイエス様にゆだねることが出来る幸いということです。苦しみや、悩み、試練、恐れ不安、神を信じようとしても信じられない罪、隣人どころか、最も近い自分の家族さえ愛することの出来ない自分の愛のなさ、自己中心、いつも自分が大切にされないと腹立たしいとか、数えきれないほどの罪を覚えます。

これらを皆イエスに委ねることが出来るから、平安が与えられます。憎しみを忘れることが出来ます。クリスチャンは、昔の忌まわしい思いを捨てて、新しくされて、イエス様に向かって毎日、日々に新しい歩みを始まることが出来るのです。なんと幸いなことでしょうか。

 

もし、すべての人が、過ぎ去った嫌な思い出とか、憎しみなどから解放されて、どの隣人とでも新しい気持ち、相手を愛する気持ちで、良い関係で働こう、相手を労わる気持ちで相手を大切にしようと、今日も1日を励むならば、少しずつ私たちはキリストに似たものとされてゆくのです。

 

【最後に】

 私は神を愛することと隣人を愛すること、この掟は、第1に罪人の自分を愛して許して下さったから、それで神を愛することが出来ると思います。

 

2に、神の愛に感謝して、悔い改めの生活が出来るようにされます。そして神様からの平安が与えられるようになります。

 

3に 自分が愛されたように隣人を愛せるように、導かれて行きます

真に少しずつではありますが、変えられてゆくことの恵みを味わいたいと思います。(おわり)

 

 

 

2014年05月19日

2014年5月11日説教「律法はキリストに導く養育係」金田幸男牧師




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本日録音失敗のため説教音声はありません。


聖書 ガラテヤの信徒への手紙3章19~25節

19 では、律法とはいったい何か。律法は、約束を与えられたあの子孫が来られるときまで、違犯を明らかにするために付け加えられたもので、天使たちを通し、仲介者の手を経て制定されたものです。

20 仲介者というものは、一人で事を行う場合には要りません。約束の場合、神はひとりで事を運ばれたのです。

21 それでは、律法は神の約束に反するものなのでしょうか。決してそうではない。万一、人を生かすことができる律法が与えられたとするなら、確かに人は律法によって義とされたでしょう。

22 しかし、聖書はすべてのものを罪の支配下に閉じ込めたのです。それは、神の約束が、イエス・キリストへの信仰によって、信じる人々に与えられるようになるためでした。

23 信仰が現れる前には、わたしたちは律法の下で監視され、この信仰が啓示されるようになるまで閉じ込められていました。

24 こうして律法は、わたしたちをキリストのもとへ導く養育係となったのです。わたしたちが信仰によって義とされるためです。

25 しかし、信仰が現れたので、もはや、わたしたちはこのような養育係の下にはいません。

 

要旨

【アブラハム契約(約束)

アブラハムにまだ子どもがなかったにもかかわらず、また夫婦とも高齢になっていたにもかかわらず(創世記12章4ではアブラハムは75歳)、神はあなたの子孫が増え広がるようにすると約束されました。人間には不可能なこと、ありえないことを神は約束されたのです。アブラハムはその神の言葉を信じました。信仰とは人間にはできないことを神がしてくださるに違いないと信じる希望でもあります。

 

【モーセ律法授与】

ところがその約束が与えられて長い時間が経ちます。パウロは430年後、アブラハムの子孫であるイスラエルの民にモーセを通して律法を授けられたと語ります(17)。神はアブラハムに一方的な恵みとして約束を与えられました。ところがその後、律法が与えられて事情は大きく変わったのでしょうか。実際ユダヤ人の中には、シナイでの律法授与以来、律法を守って神の約束が成就すると確信するものたちが現われます。イスラエルこそ神に選ばれたもの、だから律法を守って優れた特質を神の前でも、人の前でも明らかにしようというのです。

 

律法を与えられたときから、イスラエルはエジプトを脱出し、約束の地で国家を建設するようになります。律法を守っておれば必ずイスラエルが世界に覇を唱える強大国家となると思う思想はずっとユダヤ人の心を捉えていました。律法遵守こそ神の恩恵を受ける手段、方法と考えられたのです。パウロの時代にはそれがファリサイ派に属するユダヤ人の信念となっていました。

 

神が直接支配する神の国が完成するとき、律法を厳守するファリサイ派が真っ先にその国に入ることができると信じ、そのように教えていました。律法をあまり守れないような輩は神の国に相応しくないとされたのでした。パウロはそのようなファリサイ派の考えを固守してきました。しかし、彼はイエス・キリストとの不思議な出会いによってその考えを打ち砕かれたのでした。

 

パウロは聖書を何度も引用しながら、神の約束は不変であると主張します。神の一方的な約束が突然モーセを通して律法が与えられて神の救いの仕方が変更されたのではないといいます。

 

19節の、天使たちを通して、仲介者の手を経て律法が制定されたという文章となっていますが、天使の介在について旧約聖書には出てきません。仲介者とはモーセのことです(申命記5章。出エジプト記20章)。

 

【何のために律法が与えられたのか】

では、何のために律法が与えられたのか。律法は神のアブラハムへの約束に取って代わるのではありません。モーセを通して与えられた律法は神の救いの恵みを与えるやり方を修正したり、以前の神の約束に並立させるものでもありません。

 

神はイスラエルに厳かな仕方で律法を与えられた目的は何か。

パウロは比ゆ的な表現で律法の役割を明らかにします。19節の約束を与えられた「あの子孫」とはイエス・キリストのことであるのは明らかです。

イエス・キリストの来られるまでは、律法の役割は違反を明らかにすることであったといわれます。違反とは罪のことです。イスラエルの悪事を明らかにするために律法がイスラエルに与えられたのです。イスラエルは国家建設の端緒を開きます。そうであれば、神はイスラエルに国家の仕組み、特に法的な整備、あるいは国家的宗教の制度、組織、あるいは壮麗な施設建設、そこで行われる祭儀を詳細に規定する律法を与えれば丁度相応しい神の指示ということになるでしょう。

 

ところが神はそのような目的で律法を授与されたのではないとパウロは考えるのです。むしろ、イスラエルの違反、罪、罪過を明らかにするためだといいます。正義、善、あるいは聖潔といったものと正反対の状態であることをイスラエルの知らせるため、自覚を促すために神は律法を与えられたのだといいます。神の民にはそれが重要とされます。

 

イスラエルに神は普通では考えられないみわざ(業)をなさいます。それは罪の許しを神にいただくようにするためであったのでした。

 

【律法の役割は罪の支配下に閉じ込めること】

22節で律法の役割は罪の支配下に閉じ込めることとされています。罪の監視下におく、律法が明らかにする違反である罪は、イスラエルの人々の日常を監視し、そこから脱出できないように縛り付けるのだといいます。律法はイスラエルの人々が選良(エリート)であることを立証するものであるどころか、暗い罪の闇の中に放り込んでしまう役割を与えられているとパウロは語ります。

 

つまり、律法は罪のもとで私たちが縛り付けられていることを自覚させるのです。ローマ5章13で、パウロは言います。「律法が与えられる前にも罪は世にあったが、律法がなければ罪は罪と認められない。」要するに罪は自覚されないという意味です。律法がなければそれが罪であるとは知らされないのです。

 

律法の役割を無視したり、棚上げしたりするとどうなるでしょうか。

罪を犯しているのに当人は罪と認めない、そうするとどうなるでしょうか。人間の本能だとか、社会が、世間がそうさせたのだ、果ては成り行きだとか、ちょっと行為を大袈裟に言っているだけと、罪を過小評価し、あるいは無視して、罪の問題の深刻さから目を逸らします。

 

罪の結果は神の呪いでしたが、そんなものは神話、作り話と片づけてしまうのです。結局律法がなければ無責任がはびこります。そうすると逆に誰も責任を取らないために自己責任という言葉が独り歩きし始めます。罪の存在を認めようとしないのです。

 

23節で、信仰が現われる前とパウロは言いますが、これはイエス・キリストの来臨前とも、また個人の領域ではキリストを知って信じる前、つまり、パウロにとっては入信前ということになります。

律法がモーセを通して与えられてからまた長い時間が過ぎます。神はイエス・キリストをこの世に遣わされました。それまでは、律法は人間が罪を犯していると告発し続ける役割を果たしていました。パウロは多くのユダヤ人同様、律法を懸命に守ろうとしていました。ところが、それはただ律法に自らのあり方を監視されていただけであったと気がついたのでした。

 

キリストを信じるようになって律法の役割をはっきり理解するようになったとパウロは考えたのでした。律法を遵守しようとしたが、それは日常の言動が律法に沿っているかどうかだけに関心がいく、しかし、そのたびに不完全さを思い知らされる。これがパウロの個人的な体験であったと思われます。律法では、救いへの絶望が出てきます。

 

【律法は養育係】

24節でもまた比ゆ的な表現が出てきます。律法は養育係だというのです。

古代ローマ社会は奴隷制が敷かれていました。上流階級では子弟の教育をその奴隷に任せました。奴隷の中で読み書きできるものや知識人であるものを選んだり、そのためにわざわざ奴隷を購入したりして、子どもの教育、それには躾けも含みますが、読み書き計算などを教えさせます。

 

奴隷は、奴隷所有者から命じられたようにしなければなりません。何歳までに読み書きができるように、と命じられると、その命令を守らなければ処罰を受けます。奴隷はたとえ相手が主人の子弟であっても、与えられた命令には従わなければなりません。目標に達しなければひどい仕打ちを覚悟しなければなりません。

 

【律法の過酷さ】

養育係は鞭とか棒を持って脅しながら教育します。養育係はそうまでして子どもをしつけることになります。むろん、例外はありましょうが、厳しい教育に反発して、子どもは養育係を憎みます。

律法は養育係のようなものとパウロが言うとき、律法の過酷さを言い表しています。律法は手加減などしません。私たちのあらゆる行動を吟味し、批判します。律法を好きになる人はいません。律法の厳しい命令を知れば誰もがたじろぎます。それが律法です。

 

このような律法は異邦人には関係のないこととでしょうか。ローマ2章14-15「たとえ(モーセの)律法を持たない異邦人も律法の命じるところを自然に行なえば、律法を持たなくても、自分自身が律法なのです。こういう人は律法の要求する事柄が人の心に記されていることを示しています。わたしの良心もこれを証ししており、また、心の思いも互いに責めたり、弁明し合って同じことを示しています。」律法が異邦人にも刻み込まれていると言います。

 

どのような人にも宗教心があり、道徳心があります。また良心もあります。良心はいつもちくちく私たちを責めます。

むろんそれだけで、良心の指摘することに従ったり、悪をやめたりすることはありません。私たちの得意技は常に良心の訴えを無視することです。やむをえなかった、相手が悪い、状況がそうさせた、いろいろ口実を設けて罪を認めず、ますます悪に染まっていきます。

 

【キリストに生きる】

心に刻まれている律法は罪を抑制することができません。それはただキリストに導いていくだけです(24節)。子どもは愛する親のところに行くしかありません。そこで赦しを請い、そして実際に赦されます。キリストは私たちのために十字架につけられて、罪の呪いを代わりに負ってくださいました。

 

キリストにより頼むところに赦しがあります。律法は養育係であって罪を帳消しにするような力はありません。ただ批判し告発し、情け容赦なく責めるだけです。決して赦す力を提供などできません。それができるのはイエス・キリスト、その十字架だけです。良心を無視したり、軽んじたりすることはできますが、罪はますます蔓延するだけです。必要なことはキリストの赦しを求め、そのキリストの愛を信じ、キリスト共に生きることです。(おわり)

2014年05月11日 | カテゴリー: ガラテヤの信徒への手紙 , 新約聖書

2014年5月4日説 教 「神の約束は反古にされない」金田幸男牧師

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20145月4日説教「神の約束は反故にされない」金田幸男牧師

聖書 ガラテヤの信徒への手紙3章15-18

15 兄弟たち、分かりやすく説明しましょう。人の作った遺言でさえ、法律的に有効となったら、だれも無効にしたり、それに追加したりはできません。

16 ところで、アブラハムとその子孫に対して約束が告げられましたが、その際、多くの人を指して「子孫たちとに」とは言われず、一人の人を指して「あなたの子孫とに」と言われています。この「子孫」とは、キリストのことです。

17 わたしが言いたいのは、こうです。神によってあらかじめ有効なものと定められた契約を、それから四百三十年後にできた律法が無効にして、その約束を反故にすることはないということです。

18 相続が律法に由来するものなら、もはや、それは約束に由来するものではありません。しかし神は、約束によってアブラハムにその恵みをお与えになったのです。

 

 

要旨

【ガラテヤの信徒への手紙の主題】

私たちは今まで、律法の行いではなく、信仰によって神に義と認められ、救われるということを学んできました。これがガラテヤの信徒への手紙の主題です。

パウロの敵対者は、信仰だけでは救いには不十分であり、律法を実行することも救いの要件であると主張し、異邦人であっても律法の規定を守らなければ救われないと教えたのでした。パウロはこれに強く反論します。

 

【律法を完全に守らなければ呪われる】

律法の行いによって救われようとするものは、律法を完全に守らなければなりません。もし、律法を少しでも守らなければ義と認められないどころか、呪われます。呪われるとは神に遺棄されること、見捨てられることを意味します。神との生命的な交わりを失うことです。

 

このパウロの立場を明白にするために、パウロはアブラハムを引き合いに出します。アブラハムはイスラエル民族の祖先というだけではありません。アブラハムはイスラエルにとって最も重要な人物ではありますが、それは、神との関わりでそのようにいうことができます。神はアブラハムを選んで、大きな祝福を約束されました。それは子孫が増えるというだけではありません。ただ、イスラエル民族が定住地を獲得し、強大な国家を作り上げたというだけならば、歴史の中でそれ以上に強大な帝国はいくつも発生しました。

 

イスラエルが幸いなのは、神が特別扱いをされたという点です。神がアブラハムを選び、大きな祝福を何の対価も要求しないで一方的に救いを約束されたのです。その救いはイエス・キリストにおいていっそう明確になります。それは新しい神の民にされること、神の御国に入れられる特権を約束されるということです。

 

【アブラハムの選びと彼の信仰】

ところで、アブラハムのことをなぜ私たちは学ばなければならないのでしょうか。旧約聖書を研究しなければならないのでしょうか。アブラハムは大昔の人、しかも遠くで生きた人です。あまり、私たちに関わりがないように思われます。アブラハムはユダヤ人の先祖であっても、私たちには縁遠い存在に過ぎない。

 いえ、そうではないのです。神がアブラハムにしたことは時間を超え、空間を隔てていても私たちにも同じように行なわれるのです。神はアブラハムを選んだように私たちをも自由に選び、ただ信仰によってアブラハムを義としたように、イエス・キリストを救い主として信じる私たちをも救われるのです。神は生きておられます。生きた神はそのいのちを今もなお与え続けておられます。アブラハムはその意味で過去に存在した、しかも、私たちと関わりのない人ではなく、それどころか、アブラハムを学べば学ぶほど私たちの救いが明瞭になってきます。

 

アブラハム個人の問題ではなく、21世紀に生きる私たちに対する神のメッセージが聞こえてきます。

 

【遺言は修正されない】

15-18節において、パウロは信仰による救いと律法の義による救いの違い、両者は両立しないということを語ります。

そのためにまず、パウロは遺言という人間社会の中で一般に行われている事柄を取り上げます。遺言は現在でも重要な法的行為です。法律上の手続きで書かれた遺言書は有効です。今日でも遺言は法律できちんと書式などが規定されています。例えば、遺言は、自筆でなければならず、日付も入れられ、その上、本人の署名捺印を欠くことができません。法律に従って書かれた遺言の内容は、この世を去っていくものが残された人に約束するものです。遺産をだれだれにこれだけ残す、といったことは約束でもあります。その約束は確実に実行されます。ローマ帝国の時代でも遺言は法的に保護されていました。

 

そのような遺言は重要な法的行為ですが、それだけに、遺言は後になって書き加えられたり、削除されたり、訂正されては遺言にはなりませんし、法律はそのようなことを許しません。いったん作成された遺言は修正されません。

 

これをパウロは例として用います。遺言も一種の約束です。神はアブラハムに祝福を約束されました。それは驚くべき、大きく豊かな素晴らしい約束でした。

 

 

【人はただイエス・キリストを信じる信仰により救われるという契約】

ただ神の恵みによってイエス・キリストを信じる信仰により、人は救われる、これはアブラハムに対する神の約束でした。遺言がそうであるように、アブラハムへの約束は後になって何かが追加されたり、修正されたりすることはありません。それは不変の約束です。まして神がなされた約束です。それは撤回されたり、内容が変更されたりすることは無いのです。

 

神の約束は後になって変ることがない、それは聖書の神が一貫して矛盾することのない神だからです。時代が変わると神の御心も変わるというような方ではないのです。このことは神の重要な特質であられます。

 

遺言は神の約束、契約とほぼ同じ意味です。ちなみに、私たちは英語で新約聖書はThe New Testamentと書きますが、ここで使われている遺言を意味するギリシヤ語の原語です。つまり、遺言の意味ではなく、契約の意味に用いています。

 遺言が変更できないように、神はアブラハムになされた約束を変更されることはありえません。後になって、律法の行いという救いの方法がユダヤ人に示され、アブラハムとの契約、ただ信仰によって義とされるという約束が破棄されて、ユダヤ人には律法の実行という別の救いの道が開かれたというようなことはありえないとパウロは強調します。

 

【イエス・キリストにあってひとつの民とされているアブラハムの子ら】

このように語ってから、パウロは16節で、この約束は誰に向けられていたかを語ります。遺言は遺言する本人だけの問題ではありません。誰のために遺言が書かれるのか。子孫のために書かれます。アブラハムへの約束も、その約束が果されるべき子孫がいます。それは誰か。ユダヤ人はアブラハムの子孫がそうであると考えていました。ここでパウロは子孫という表現が単数形であることに着目します(創世記12:7、13:15,17:8)。じつはヘブライ語もギリシヤ語も、単数形は一個とか一人を表すだけではなく、集合名詞といって、ひとつの塊をさす場合もあります。ここではその集合名詞です。「子孫」もまた一人の子孫ではなく、子孫全体をさします。パウロがあえてこのこと、つまり、「子孫」と「子孫たち」の区別をするために単数形、複数形を取り上げたのはなぜか完璧に明らかではありません。ちなみの複数形の「子孫たち」は「植物の種子」とも訳すべき表現になります。パウロはこのような言葉の使い方を知らないわけではなかったと思います。パウロが言いたいことはおそらく、複数形ではないというところで、アブラハムの子孫とはここではアブラハムの血縁関係にある多くの民を指していないと語ろうとしていると解されます。複数形が使われないのは、アブラハムの子どもがすべて約束を受けたのではないと言いたいのです。

 

【アブラハムの子孫だからといって】

つまり、アブラハムにはイサクのほかにイシュマエルという子どもがいました。しかし、イシュマエルは排除されます。ヤコブ、別名イスラエルも双子の兄弟、エサウがいましたが、神はエサウを選ばれませんでした。だから、ユダヤ人がアブラハムの子孫だからといってそれだけで約束の担い手になったわけではない。パウロはこのように語ります。ユダヤ人だからといってそれで神の約束を受けることにはならないのです。むしろ、単数形の子孫という言葉が用いられるのは、一人の人イエス・キリストに神は新しい契約、約束を与えられ、キリストにあってひとつの民とされている集団、キリスト者たちこそ神はアブラハムへの約束を成就されるのだといいたいのです。単数形の子孫はキリストにあるものたちだとパウロは言おうとしています。

 

【人は律法の実行によっては義とされない】

こうして、17-18節で15節の主題に戻ります。パウロはアブラハムへ約束が与えられてから430年目に起きたことに触れます。この430年は聖書記載の年数をどう計算したか不明なのですが、およそという意味かもしれません。パウロが指摘しているのは出エジプト記に記されるモーセを通してなされた律法の授与です(出エジプト20章以下)。ユダヤ人の中には、このモーセが律法を与えられてからは、律法を遵守することで救いを勝ち取ることができると思い、律法の実行によって神に義とされる道が示されたのだと考える人が出てきました。そして次第に、その考えが有力になっていきます。ユダヤ人の大半はそう思いました。

 

パウロはこのような考え方を否定します。遺言はあとで書き加えられたり、修正されてはなりません。法的に認められた遺言は有効です。ところが、パウロの反対者の考え方が遺言を無造作に修正しようとするのと同じなのです。神の約束はそのように扱われてはならないのです。

 

 【アブラハム契約は反故にされない】

神はアブラハムと契約を結ばれました。その契約は約束でもあります。神はアブラハムの神となり、アブラハムに対して救いの恵みを提供されます。それはただ信仰によるものです。この神の約束は修正されることはありません。神がアブラハムになされた約束は反故にされることは絶対にありえないのです。神は430年後、モーセを通してかつてアブラハムに与えられた約束を破棄されたり、別の内容を付加したりすることはありません。そうだとすると、一部のユダヤ人キリスト者の信徒が、異邦人もユダヤ人のように律法に従って割礼が必要だとか、さまざまな律法の規定を遵守しなければ救われないなどというような教えは全く真実に反します。

 

アブラハムについて言えることは今日においても同様です。アブラハムはただ神の言葉を信じて神に義と認められました。私たちもただイエス・キリストを信じて救われるのであって、この真実は不変であり続けます。(おわり)


2014年05月05日