2014年5月11日説教「律法はキリストに導く養育係」金田幸男牧師




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聖書 ガラテヤの信徒への手紙3章19~25節

19 では、律法とはいったい何か。律法は、約束を与えられたあの子孫が来られるときまで、違犯を明らかにするために付け加えられたもので、天使たちを通し、仲介者の手を経て制定されたものです。

20 仲介者というものは、一人で事を行う場合には要りません。約束の場合、神はひとりで事を運ばれたのです。

21 それでは、律法は神の約束に反するものなのでしょうか。決してそうではない。万一、人を生かすことができる律法が与えられたとするなら、確かに人は律法によって義とされたでしょう。

22 しかし、聖書はすべてのものを罪の支配下に閉じ込めたのです。それは、神の約束が、イエス・キリストへの信仰によって、信じる人々に与えられるようになるためでした。

23 信仰が現れる前には、わたしたちは律法の下で監視され、この信仰が啓示されるようになるまで閉じ込められていました。

24 こうして律法は、わたしたちをキリストのもとへ導く養育係となったのです。わたしたちが信仰によって義とされるためです。

25 しかし、信仰が現れたので、もはや、わたしたちはこのような養育係の下にはいません。

 

要旨

【アブラハム契約(約束)

アブラハムにまだ子どもがなかったにもかかわらず、また夫婦とも高齢になっていたにもかかわらず(創世記12章4ではアブラハムは75歳)、神はあなたの子孫が増え広がるようにすると約束されました。人間には不可能なこと、ありえないことを神は約束されたのです。アブラハムはその神の言葉を信じました。信仰とは人間にはできないことを神がしてくださるに違いないと信じる希望でもあります。

 

【モーセ律法授与】

ところがその約束が与えられて長い時間が経ちます。パウロは430年後、アブラハムの子孫であるイスラエルの民にモーセを通して律法を授けられたと語ります(17)。神はアブラハムに一方的な恵みとして約束を与えられました。ところがその後、律法が与えられて事情は大きく変わったのでしょうか。実際ユダヤ人の中には、シナイでの律法授与以来、律法を守って神の約束が成就すると確信するものたちが現われます。イスラエルこそ神に選ばれたもの、だから律法を守って優れた特質を神の前でも、人の前でも明らかにしようというのです。

 

律法を与えられたときから、イスラエルはエジプトを脱出し、約束の地で国家を建設するようになります。律法を守っておれば必ずイスラエルが世界に覇を唱える強大国家となると思う思想はずっとユダヤ人の心を捉えていました。律法遵守こそ神の恩恵を受ける手段、方法と考えられたのです。パウロの時代にはそれがファリサイ派に属するユダヤ人の信念となっていました。

 

神が直接支配する神の国が完成するとき、律法を厳守するファリサイ派が真っ先にその国に入ることができると信じ、そのように教えていました。律法をあまり守れないような輩は神の国に相応しくないとされたのでした。パウロはそのようなファリサイ派の考えを固守してきました。しかし、彼はイエス・キリストとの不思議な出会いによってその考えを打ち砕かれたのでした。

 

パウロは聖書を何度も引用しながら、神の約束は不変であると主張します。神の一方的な約束が突然モーセを通して律法が与えられて神の救いの仕方が変更されたのではないといいます。

 

19節の、天使たちを通して、仲介者の手を経て律法が制定されたという文章となっていますが、天使の介在について旧約聖書には出てきません。仲介者とはモーセのことです(申命記5章。出エジプト記20章)。

 

【何のために律法が与えられたのか】

では、何のために律法が与えられたのか。律法は神のアブラハムへの約束に取って代わるのではありません。モーセを通して与えられた律法は神の救いの恵みを与えるやり方を修正したり、以前の神の約束に並立させるものでもありません。

 

神はイスラエルに厳かな仕方で律法を与えられた目的は何か。

パウロは比ゆ的な表現で律法の役割を明らかにします。19節の約束を与えられた「あの子孫」とはイエス・キリストのことであるのは明らかです。

イエス・キリストの来られるまでは、律法の役割は違反を明らかにすることであったといわれます。違反とは罪のことです。イスラエルの悪事を明らかにするために律法がイスラエルに与えられたのです。イスラエルは国家建設の端緒を開きます。そうであれば、神はイスラエルに国家の仕組み、特に法的な整備、あるいは国家的宗教の制度、組織、あるいは壮麗な施設建設、そこで行われる祭儀を詳細に規定する律法を与えれば丁度相応しい神の指示ということになるでしょう。

 

ところが神はそのような目的で律法を授与されたのではないとパウロは考えるのです。むしろ、イスラエルの違反、罪、罪過を明らかにするためだといいます。正義、善、あるいは聖潔といったものと正反対の状態であることをイスラエルの知らせるため、自覚を促すために神は律法を与えられたのだといいます。神の民にはそれが重要とされます。

 

イスラエルに神は普通では考えられないみわざ(業)をなさいます。それは罪の許しを神にいただくようにするためであったのでした。

 

【律法の役割は罪の支配下に閉じ込めること】

22節で律法の役割は罪の支配下に閉じ込めることとされています。罪の監視下におく、律法が明らかにする違反である罪は、イスラエルの人々の日常を監視し、そこから脱出できないように縛り付けるのだといいます。律法はイスラエルの人々が選良(エリート)であることを立証するものであるどころか、暗い罪の闇の中に放り込んでしまう役割を与えられているとパウロは語ります。

 

つまり、律法は罪のもとで私たちが縛り付けられていることを自覚させるのです。ローマ5章13で、パウロは言います。「律法が与えられる前にも罪は世にあったが、律法がなければ罪は罪と認められない。」要するに罪は自覚されないという意味です。律法がなければそれが罪であるとは知らされないのです。

 

律法の役割を無視したり、棚上げしたりするとどうなるでしょうか。

罪を犯しているのに当人は罪と認めない、そうするとどうなるでしょうか。人間の本能だとか、社会が、世間がそうさせたのだ、果ては成り行きだとか、ちょっと行為を大袈裟に言っているだけと、罪を過小評価し、あるいは無視して、罪の問題の深刻さから目を逸らします。

 

罪の結果は神の呪いでしたが、そんなものは神話、作り話と片づけてしまうのです。結局律法がなければ無責任がはびこります。そうすると逆に誰も責任を取らないために自己責任という言葉が独り歩きし始めます。罪の存在を認めようとしないのです。

 

23節で、信仰が現われる前とパウロは言いますが、これはイエス・キリストの来臨前とも、また個人の領域ではキリストを知って信じる前、つまり、パウロにとっては入信前ということになります。

律法がモーセを通して与えられてからまた長い時間が過ぎます。神はイエス・キリストをこの世に遣わされました。それまでは、律法は人間が罪を犯していると告発し続ける役割を果たしていました。パウロは多くのユダヤ人同様、律法を懸命に守ろうとしていました。ところが、それはただ律法に自らのあり方を監視されていただけであったと気がついたのでした。

 

キリストを信じるようになって律法の役割をはっきり理解するようになったとパウロは考えたのでした。律法を遵守しようとしたが、それは日常の言動が律法に沿っているかどうかだけに関心がいく、しかし、そのたびに不完全さを思い知らされる。これがパウロの個人的な体験であったと思われます。律法では、救いへの絶望が出てきます。

 

【律法は養育係】

24節でもまた比ゆ的な表現が出てきます。律法は養育係だというのです。

古代ローマ社会は奴隷制が敷かれていました。上流階級では子弟の教育をその奴隷に任せました。奴隷の中で読み書きできるものや知識人であるものを選んだり、そのためにわざわざ奴隷を購入したりして、子どもの教育、それには躾けも含みますが、読み書き計算などを教えさせます。

 

奴隷は、奴隷所有者から命じられたようにしなければなりません。何歳までに読み書きができるように、と命じられると、その命令を守らなければ処罰を受けます。奴隷はたとえ相手が主人の子弟であっても、与えられた命令には従わなければなりません。目標に達しなければひどい仕打ちを覚悟しなければなりません。

 

【律法の過酷さ】

養育係は鞭とか棒を持って脅しながら教育します。養育係はそうまでして子どもをしつけることになります。むろん、例外はありましょうが、厳しい教育に反発して、子どもは養育係を憎みます。

律法は養育係のようなものとパウロが言うとき、律法の過酷さを言い表しています。律法は手加減などしません。私たちのあらゆる行動を吟味し、批判します。律法を好きになる人はいません。律法の厳しい命令を知れば誰もがたじろぎます。それが律法です。

 

このような律法は異邦人には関係のないこととでしょうか。ローマ2章14-15「たとえ(モーセの)律法を持たない異邦人も律法の命じるところを自然に行なえば、律法を持たなくても、自分自身が律法なのです。こういう人は律法の要求する事柄が人の心に記されていることを示しています。わたしの良心もこれを証ししており、また、心の思いも互いに責めたり、弁明し合って同じことを示しています。」律法が異邦人にも刻み込まれていると言います。

 

どのような人にも宗教心があり、道徳心があります。また良心もあります。良心はいつもちくちく私たちを責めます。

むろんそれだけで、良心の指摘することに従ったり、悪をやめたりすることはありません。私たちの得意技は常に良心の訴えを無視することです。やむをえなかった、相手が悪い、状況がそうさせた、いろいろ口実を設けて罪を認めず、ますます悪に染まっていきます。

 

【キリストに生きる】

心に刻まれている律法は罪を抑制することができません。それはただキリストに導いていくだけです(24節)。子どもは愛する親のところに行くしかありません。そこで赦しを請い、そして実際に赦されます。キリストは私たちのために十字架につけられて、罪の呪いを代わりに負ってくださいました。

 

キリストにより頼むところに赦しがあります。律法は養育係であって罪を帳消しにするような力はありません。ただ批判し告発し、情け容赦なく責めるだけです。決して赦す力を提供などできません。それができるのはイエス・キリスト、その十字架だけです。良心を無視したり、軽んじたりすることはできますが、罪はますます蔓延するだけです。必要なことはキリストの赦しを求め、そのキリストの愛を信じ、キリスト共に生きることです。(おわり)

2014年05月11日 | カテゴリー: ガラテヤの信徒への手紙 , 新約聖書

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