2015年4月

2015年4月26日説教「外見上の汚れとまことの汚れ」金田幸男牧師

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説教「外見上の汚れとまことの汚れ」金田幸男

聖書:マルコ7:1-13

 

要旨

【主のもとにファリサイ派の人々と律法学者が来た目的】

  7章1節には前の記事、ゲネサレト平原での癒し、と時間や場所との関連は記されていません。そこで、連続して起きた事実が記されているのかどうか分かりません。

 

 イエス・キリストのところへファリサイ派に属する人々と律法学者がやってきたと記されますが、彼らの目的は容易に推測できます。マルコ福音書では彼らの存在がいくつか記録されています(2:6,2:16,3:6)。キリストの評判がますます広がって行きます。彼らはイエス・キリストの言行を調査し、ユダヤ人の政治や宗教問題の議決機関であった最高議会(サンフェドリン)に、イエス・キリストの誤りを告知しようとしていたに違いありません。そして、最高議会で有罪として、キリストを排除しようとしたのです。

 

【弟子たちが食事の際、手を洗わない】

 彼らはキリストを訴える材料を見つけます。キリストの弟子たちが食事の際、手を洗わないで食べていたのです。これは不衛生だというだけの問題ではありません。ユダヤ人にとっては、それは彼らの言い伝えを破る行為であったからです。手を洗わないで食事をする、つまり汚れた手で食べるということは別に聖書の、神の掟に禁じられてはいません。神の言葉である聖書の規定ではありません。しかし、ユダヤ人はこれを禁止事項にしていました。

 

マルコ福音書は、外国人である読者のために注解を加えています。念入りに手を洗う。手を洗う順序、洗い方、洗う場所など細かな規定があったということです。また市場など人の集まるところから帰宅するといっそう丁寧に体を洗ってからでないと食事をしませんでした。市場には汚れているとされた外国人がいますし、ユダヤ人のなかでも汚れているとされる人たちと知らずに接触する可能性もあり、このためいっそう丁寧に体を清めたのです。その他、食器類、挙句の果ては寝台=ベッドまで清めないとだめだとされました。こういうことはいうまでもなく旧約聖書の律法には記されてはいません。それではどこからこういう習いが始まったのか。

 

【タルムード】

 ユダヤ人は旧約聖書だけではなく、タルムードという膨大な書を重視しています。これはミシュナーとゲマラという部分からなっていて、パレスティナ・タルムード=38講・5世紀、バビロニア・タルムード=63講・6世紀の2種類があります。ミシュナー(反復口授の意)はレビ・ユダ・ハナシという人物(135-220年ごろ)がまとめたもので、捕囚後から、数世紀まで遡る、ラビたち(律法学者)による、文章になっていない律法が6部からなる内容で保存されています(農産物・祭・結婚と離婚・財産と訴訟・神殿行事・潔め)。ちなみにゲマラ(補充の意)はミシュナーの解説に当たります。ユダヤ教では旧約聖書は、キリスト教徒同じく経典として受け入れられていますが、タルムードの使用と重視という点ではキリスト教とユダヤ教は異なっています。この点、イスラムが旧約聖書とコーランを重視して、キリスト教と異なるのと同じです。ミシュナーにはキリスト時代のユダヤ人の言い伝えも多く含まれています。

 

 キリストは、言い伝え、あるいは伝承を頭から否定されているのではありません。また、掟を退けられているのではありません。ここでは汚れの問題と親に対する敬意が扱われていますが、これらについて否定されているのではありません。問題は言い伝えを重視することで、神の掟、み言葉を軽んじている点を厳しく批判されているのです。

 

【汚れの宗教的意味】

汚れの問題は重要でした。単に不衛生と言う問題ではありません。これは宗教的な意味があります。汚れの代表的なものは、汚れている動物の肉を食べることです。具体的には豚肉ですが、豚肉がどうして汚れているのか、ただそれは神の命令によるもので、神が汚れているとされたゆえに食べてはならないだけのことなのです。

 

 ユダヤ人は手を洗わないで食事を取ると汚れると考えました。汚れを清めるのは水で手をよく洗うことだとされます。考えてみれば水で洗ったくらいでは汚れなど落ちるはずもありませんが、何とか清めるためには水を用いればよいと思いついたのです。そうするとそれがいつの間にか規則となり、守らなければ罪とされ、議会に訴えられ、裁判にかけられてしまいます。ファリサイ派や律法学者たちがしようとしているのはこのことです。

 

もともと汚れの問題でありましたが、いつの間には、手を洗う問題にすりかえられていたのです。汚れを除くということ自体まじめな動機であったはずです。ところがいつの間にか手を洗う、汚れているとされるものを水洗いする、それが汚れを免れる方法だと言う考え方が固定してしまいます。形式的に手を洗っておれば清められる。手を洗わないと汚れてしまう。

 

【本来の汚れと偽善】

 本来の汚れとは何か。それは神の掟に対して忠実ではないことを意味していました。イエス・キリストはイザヤ29章13を引用し、ユダヤ人の偽善を暴かれます。いつの間にか言い伝えとして、あるいは重要な伝承とされているものは実は偽善なのだというのです。

 

 偽善とは、演技者として振舞うことを意味しています。演劇の演者は本物ではありません。悪人を演じている俳優が悪人などではありません。それは演技です。偽善者は本当の姿ではないのに、敬虔で信心深い外見を売り物にしようとする人たちです。何かよいことをしている人を「偽善的」などという人がいます。それはまったく間違った用法です。単純な誠意から善を行おうとする、それを偽善とは言いません。本心は別のところにあるのに外見だけ取り澄まそうとする場合これを偽善と言うのです。単に善行を偽善などとは言いません。

 

 ファリサイ派や律法学者は自分たちを清いものだと見せびらかそうとして、汚れを取り扱います。言い伝えを作り出して、それを守れば清いのだと言い出したのです。

 はじめはなんでもない行為が時間を経るといつの間にか習慣となり、規則となり、その集団では拘束力を持ち、破ったものは制裁を受ける。こういう現象は宗教だけではありません。集団が結成されて時間が経ち、世代を重ねると、当初は余り意味がなかったことも、大きな拘束力を持つようになる例はたくさんあります。ユダヤ人の場合、信心の規準となり、反対の場合、社会的な処罰を伴うようにもなりましたが、キリストはこれを偽善とされます。

 

【神を畏れ、敬う内面の清さ】

 清いと言うことは信仰的には大きな価値があります。それは神に対する態度です。清くあろうとすることは信心、敬虔さの問題であり、究極的には神に対する畏怖からでてくる行為です。神を畏れ、敬うところから清くあろうとするのです。ところがユダヤ人は外見上の清さだけを取り上げようとしています。内面性が忘れられているのです。

 

【神への供え物コルバンと 第5戒】

 この偽善について、キリストはもうひとつの例を持ち出されます。それは、コルバンの問題です。コルバンとはここに記されていますように、神への供え物を意味する言葉です。聖別を意味します。神にささげられたものは聖別されています。清くされるとそのものは人間は指一本触れることはできません。これを子どもたちが悪用します。本来ならば親に必要なものであっても、いったん「コルバン」と宣言されてしまうと、親であってもそれを使うことができません。食べ物なら深刻な事態となります。親が食べないと飢えてしまうようなものでも「コルバン」と宣言されると親は食べられなくなります。あくどいことは、その親が手にすることができないものを子どもが勝手にするということも可能となります。これは宗教的な言葉の乱用です。こんなことはあってはならないことなのですが、キリストの時代、言い伝えの中にはこんなひどいものも含まれていたのです。神を畏れるはずのところで悪辣な行為が是認されていました。

 

【第5戒:父母を罵るものは死刑に処せられる】

 第5の戒め、それは極めて重要な戒めでした。出エジプト21章7にありますように、父母を罵る、つまり侮辱するものは死刑に処せられる、これが戒めでした。違反は重大な罪とされます。ここまで神は第5の戒め、親に対する敬意を重視していました。ユダヤ人はこのことを知らないはずがありません。ところが巧みに言い伝えを創作します。ユダヤ人は宗教を重んじた民族です。それをうまく利用して、両親を敬えという戒めを骨抜きする方策をどんどん発明したのです。

 

 こういう操作は至るところで見かけられます。親に対する孝行は道徳的な項目だとされます。口先では親を敬いなさいと教えます。しかし、これは何ともいえない建前になっていることでしょうか。子どもの人権とか、自由とか、を口実にして、親の言うことが重視されていない。そういう実例は枚挙の暇もありません。     

   

 キリストは、ここで何を言おうとしているのか明白です。重視するべきは神なのです。神の戒め、神の言葉が重視されなくてはなりません。形式的に外見的に重視されるのではありません。そこに心が伴っていなければならないのです。神からその心は離れているのに見かけ上はいとも信心

深く見せようとしているだけ。外見上聖いと思わせるのに熱心であるのですが、それは人からの評判をよくしたいだけ。これこそ偽善なのです。

 

【偽善ではなく、神に許しを求める】

私たちはファリサイ派や律法学者がどれだけ敬虔で、清らかな振る舞いをしようとしたかを知っています。簡単なことではありません。熱心さにかけては、彼らは誰にも劣らないでしょう。しかし、キリストは彼らに欠けているものを指摘されています。偽善ではなく、神に許しを求めることこそ肝心なことでした。神の言葉にそぐわない現実を直視し、いかに神の前で罪人であるかを認識し、神の前で許しを求めていくことをキリストは命じられるのであって、言い伝えで積み上げたような外見上の聖性は意味がないどころか有害でもあるのです。(おわり)

2015年04月27日 | カテゴリー: マルコによる福音書

2015年4月19日説教「病を癒すイエス・キリスト」金田幸男牧師

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説教「病を癒すイエス」金田幸男牧師

聖書 マルコ6章53-56

要旨

【ゲネサレト:肥沃な土地】

 この個所は場面が移動する連結部分に過ぎないこと、1:32-34、3:7-12と内容が似ている(悪霊の追い出しを除く)ので余り重視されていません。イエス・キリストがみ業をなされたあと、人々が集まってきて、そこで病人を癒すという内容です。病の癒しはキリストの重要な働きであって簡単に見過ごしはできません。

 

 イエス・キリストとその一行はガリラヤ湖の北岸沿いに西に航行されます。ゲネサレトという平原地方に着いたと記されます。ここは現在の情景を写した写真でも分かりますが、肥沃な土地で、豊かな穀倉地帯でした。ガリラヤ湖の近くには荒野もあり、必ずしも全域が豊穣の地とはいえません。ゲネサレトにはたくさんの農産物が生産されていました。当時農業が最大の産業であり、経済的に恵まれた地域で人口も比較的多いところでした。安定した生活ができるという自然の恩恵を享受していました。

 

【病気】

 しかし、どんなに恵まれた生活ができても解決できない問題があります。そのひとつが病気です。

イエス・キリストがゲネサレト地方に到着したと聞いて、たくさんの人々が病人を床に乗せて運んできました。この病人たちは歩くことができなかった人々であったことが分かります。この豊かな地域にでもたくさんの寝たきりの病人がいたのです。当時、病気になるということはたいていは死に直結していました。当時の医療技術のレベルは低いものでした。治せない病気のほうが圧倒的に多かったに違いありません。薬草の類はあったでしょうけれども購入できる人が限られています。多くの人にとっては病気にかかればただ床に寝かせられているだけでした。苦しみながら死を迎える、それが病人の運命のように思われていました。

 

 だからこそ、人々は何とかしたいと思ったのです。何もできなければできないほど何とかならないものかと焦燥感に襲われるものでしょう。患者を抱える家族は病人に何も出来ないという悲しみ、苦悩、焦りに見舞われたはずです。

 

 今日、多くの病気はなおせるようになりました。医療技術の進歩は目覚しいものがあります。ほんの10年前まで手の施しようがなかった病気も直るようになりました。病気の死亡率が低くなって来ています。かつては不治の病とか、手の施しようのない病気とされていた種類の病気の特効薬が発見されたという例はいくつもあります。

 

 病気そのものは苦しみを伴います。先ず、典型的なものは痛みではないでしょうか。息苦しい、だるい、食欲がない、歩けない、力が出ない、しんどい・・・その上気力も衰え、精神的な負担も大きくなります。自覚症状のない病気もありますが、気がつけばもう手遅れということも珍しくありません。現在でもあらゆる病気が治るのでもありません。むしろ、かつて聞かなかったような病名の病気が増えてきていると思われます。多くの病気は治りますが、それでも直らない病気があります。不治の病に襲われた者の不安や苦悩は想像を絶するものでしょう。突然にそのような病名を宣告されて戸惑い慌てふためく場合も珍しくありません。今日でも病が人を苦しめている事実は変わりありません。

 

【病の痛みは今日・・】

 病気になることに伴う痛みはかつては厄介なものでした。痛みはその人自身が体験するもので、他人にはその痛みは分かりません。主観的なものといってよいかもしれません。ある人に痛みは絶えられるが、他の人には耐え難いと感じる場合もありでしょう。それが激痛であれば耐え難い苦しみの淵に追いやられます。今日幸いにして、痛みは解消されつつあります。大きな手術を受けても痛みは余り感じなかったという人も多くなって来ています。末期症状といわれた悶絶しそうな痛みも今では克服されそうです。こうして、医学や医療技術の進歩で私たちは余り病気を恐れなくなったことは確かです。しかし、私たちは病気そのものから解放されていませんし、おそらく人類の最後のときまで病気は存続するのではないでしょうか。そして、病気が与える恐怖心は解消されず、ひいては死に対する恐れを結びついたままです。

 

【癒し主イエス・キリスト】

 イエス・キリストの時代、病気になることの苦痛は今日は比較できないほど深刻であったはずです。私たちは今日の視点でイエス・キリストの時代の人々の生活を見てはならないのに注意しなければなりません。病気が与える恐怖、不安は今日と単純に比べることはできません。病気になるということは大変な破目に陥ることを意味しました。だから人々はイエスのうわさを耳にすると大挙してやってきたのです。イエス・キリストは人々が運ばれた町や村、そして小さな集落である里にも足を延ばして行かれます。ゲネサレト地方は人口が多い地域です。小さな集落も各地にたくさん散在しています。そういうところまでイエス・キリストは厭わないで入って行かれます。そして、広場に集められた病人を次々に癒して行かれます。だから、キリストはたいへん多忙であったと思われます。

 

 キリストは病人を憐れみ癒されました。その経過については詳しく記されていません。ここではキリストの着ている服のすそに触れたいと願ったとあります。癒しの方法はこれだけしか記されていません。キリストの病人の癒しの経過を詳しく記す個所はありません。唾を泥に混ぜて患部にあてたとか、手を伸ばして触れたとか、簡単に記すだけです。福音書は魔法の本でもなく、病気を治す奇跡の解説書でもありません。知りたがる人もいるでしょうけれども、どのような手順で癒されたかは知る必要のないことなのです。

 

【衣のふさ】

 キリストのすそについては民数記15:37-39に記されています。「主はモーセに言われた。イスラエルの人々に告げてこう言いなさい。代々にわたって、衣服の四隅に房を縫い付け、その房に青いひもを付けさせなさい。 それはあなたたちの房となり、あなたたちがそれを見るとき、主のすべての命令を思い起こして守り、あなたたちが自分の心と目の欲に従って、みだらな行いをしないためである。」キリストの服のすそは敬虔な律法を遵守する義の人であることのしるしでした。病人を連れてきた人も含め、癒してもらいたいと願った人がイエス・キリストをどう見ていたのかここから推量できます。キリストに特別なもの、神からの力を認めたからに他なりません。これを信仰だと解釈する人もいますが、明確な信仰があって癒しが行われたのではありませんでした。信仰が明瞭に見られないところでもキリストは病人を癒されたと考えるべきでしょう。キリストは病人とその家族を憐れんで癒しを実行されました。

 

【今日癒しの奇跡は】

 ここで大きな問題に触れなければなりません。

 キリストを信じるものは病気の癒しというキリストの特別な力を受けることができるのか。今日の多くの人は、こんな奇跡は信じないと決めつけます。科学的にありえないというのです。また、キリスト教はいわゆるご利益宗教ではないから病気の癒しなどを求めるのは邪道だという人もいます。信仰と病気の癒しは関係がないのでしょうか。

 

【主の憐れみ】

 信仰は神との取引材料ではありません。その人に信仰があれば神が病気を治さなければならない義務を負うなどとは考えられません。ただ憐れみによってキリストは行動されます。だから、信仰など無駄なのでしょうか。役に立たないのでしょうか。

 

 キリストはその服のすそに触ったものをすべて癒されましたが、これは病気に苦しむものへの憐れみに他なりません。キリストは今も病気に苦しむものを憐れまれていることは確かです。キリストは今も生きて働いておられます。今日医療技術は格段に進歩しました。さらに医療制度も整いました。このような環境の中で私たちは病を癒されて生きますが、これはキリストの憐れみによるものだといってもいいと思います。キリストはこのようにして今も働いて病人を病気から解放されます。キリストは全能の神の御子です。今日でも奇跡としか説明がつかない病気に癒しもあるでしょう。それをまったく否定するつもりはありません。けれども、病気はかつてと同じ方法ではありませんが、癒しの御手は伸ばされ続けています。だから、病気が癒されるようにとの祈りは続けられるべきです。イエス・キリストに私たちは期待をし続けなければなりません。絶望せずに祈ることが肝心です。キリストは病に倒れているものを憐れみ癒し助けようとしておられます。このことは確かです。私たちはキリストの憐れみにより頼むべきです。ここに信仰があります。

 

【不治の病と死】

 それでも癒されないままの病気はどうなるのでしょうか。これからも癒されなかい病気はいつまでも残るでしょう。病気はなぜ発生したのかといえば、人間が死ぬべきものとなったからであり、アダムの罪の結果であるといえます。罪がある限り病は消え去りません。このことも厳かな事実です。そして、キリストは人類の罪の許しのために十字架にかかられました。キリストは今も断固として罪の結果を除去しようと憐れみの中で働かれますこのことは決して変わることがありません。

 

 信仰は病が治る対価でも交渉の材料でもありません。しかし、病が癒されることで信仰が生まれてきます。癒されない場合はどうなのか。私たちは病を得て自分の弱さを徹底的に知らされます。病んだために、人間は神に依存する存在だと痛感させられます。そして、神に頼ることこそもっとも大切な人間の営みであると知ります。その果てに、私たちにとっては、神の永遠の祝福を仰ぐことに導かれていきます。(おわり)



2015年04月20日 | カテゴリー: マルコによる福音書

215年4月12日説教「湖の上を歩かれるキリスト」金田幸男牧師

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説教「湖の上を歩くイエス」金田幸男牧師

聖書;マルコ6章30-44

 

要旨

 

【5000人配食のあと】

 イエス・キリストは空腹である群衆を憐れみ、男子だけで5000人もの人たちに、パン5個、魚2匹をもって満腹する奇跡を行われました。45節に「それからすぐに」と記されます。大きな奇跡が行われたのですから、群衆はもっと大きな奇跡を期待したに違いありません。ところがキリストは群衆を解散し、弟子たちを強いて船に乗り込ませ、ベトサイダに向かわせます。

 

弟子たちはもともと奇跡が行われたところで休息を取るはずでした。弟子たちにゆっくり休息を取らせなければなりません。弟子たちにとって疲労は極限に達してしています。これ以上疲れさせることはできない。だから追い立てるように船に乗せます。また、群衆の熱気を冷ますために解散させたように思われます。一人でキリストはそうします。人を集めることも困難ですが、解散させることも至難です。キリストは一人で群衆を解散させるという難しい働きをされました。そして、キリストは一人山に登られます。それは祈るためでした。

 

【祈るキリスト】

マルコ福音書では3回、キリストが祈ると記されます。1:35,6:46、14:32-36です。1:35はキリストがカファルナウムで伝道の働きを始められた直後に祈ったと記されます。14:32-36はゲッセマネの園でキリストは苦しみ悶えながら祈られます。その直後キリストは逮捕され、裁判にかけられ、十字架の上で処刑されます。

 

公的な働き、伝道のはじめと終わりでキリストは祈ったと記されています。キリストにとって伝道の働きのはじめと終わりは大切です。そのときキリストは一人祈られ、神に助けを求められました。では、6章46の場合はどうでしょうか。ヨハネ6章にも5000人の給食の記事が記されます。そのあと、キリストが湖の上を歩かれた奇跡が記されます。マタイ、マルコ、ルカとヨハネ福音書が共通した内容になっています。これは珍しい個所です。

 

【民衆の期待/危険な意図】

ヨハネ6章14-15にはイエス・キリストのなさった働きを見た人々はキリストを王にしようとしたと記されます。この場合、王は油を注がれたもの=メシヤ、救い主を意味します。しかし、それは当時の征服者であったローマ帝国に対抗する政治的指導者を意味しました。革命を起し、政治的な秩序を打破する革命家、イスラエルを世界に覇者とする王者、それがキリストに期待するところであったはずです。むろんキリストはそのようなメシヤではありません。群衆がキリストを担ぎ上げようとしていますが、それはキリストの意図ではありません。そのような群衆の動きはキリストを危険にさらします。人が担ぎ上げることはキリストのこの世においでになった意図とは相反するものです。キリストの使命を危険にさらします。キリストはそのような群集の危険な意図を見抜いて群衆を強いて解散させたと見るべきです。

 

【危険に遭遇するとき/キリストの模範】

 この点、私たちもキリストを見習うべきです。私たちもまたいろいろな危険に遭遇します。大きな決断をしなければならないときもあります。重大は判断を下さなければならないときもあります。そのような時おうおうにして私たちはいろいろな可能性を考えあぐねます。こうすればよい、ああすればよい。それは自然なことです。しかし、キリストも危険な事態にめぐり合わせて、神に祈りをささげます。自分の判断よりも、あるいは決心よりもその前に、神の前に静まって祈るということの大切さをキリストは身をもって教えられます。祈りは気休めではなく、最初の私たちの行動であるべきなのです。キリストが模範を示されています。

 

【湖の逆風の中で】

 この個所に記されている時間の記述から興味深いことが分かります。夕方になったと記されます(7節).。弟子たちはすでに出発しています。弟子たちはガリラヤ湖を横断して対岸に行こうとしたのではありません。ベトサイダは湖の北東岸にある町で、5000人給食の奇跡が行われた場所とは近いところにありました。ですから弟子たちは海岸に沿って船を漕いでいたはずです。ところが船はなかなか前進しなかったようです。逆風のためだと記されます(48節)。キリストが湖の上を歩いてこられたのは夜明け前でした(48節)。この間、少なくとも数時間は過ぎています。ひょっとすると5,6時間はかかっていたかもしれません。岸に沿っての航海です。こんな長時間かかるはずがありません。逆風は激しかったと想像できます。51節を見るとかなりの強風に見舞われていたに違いありません。季節は初春であったと思われます。39節から青草の時期、冬の終わりの雨に季節が終わり、乾燥した好天の日が続くころです。嵐とはいえ、岸から弟子たちが遭遇している異常な事態を、キリストから見られえいたはずです。キリストは水の上を歩いて弟子たちのところに近づかれました。

 

【湖の上を歩くキリスト】

  湖の上を歩くなどとは信じがたいことです。そこで合理的は説明がなされました。キリストは弟子たちの乗る船に平行して湖岸を歩かれた。ところが、風が強く、波も立っていた。弟子たちは海岸を歩くイエスを見て、湖の上を歩いていると錯覚したのだというのです。実際にはキリストは土の上を歩いていたのですが、弟子たちからは湖上を歩いているように見えた。こんな合理的は説明を覆す文章が続きます。キリストを見た弟子たちはそれが幽霊だと思ったとあります。幽霊は死者の霊というよりも、水の霊、つまり精霊だという考えもあります。

 

いずれにしても弟子たちはキリストを目撃しているのにキリストだと分からなかったのです。つまり信じがたいものを見ているということになります。彼らはその目でキリストを見ていますが、まさか湖の上を人が歩くなどということは到底信じがたいと思っているのです。弟子たちは湖の上を歩く人物を目撃しています。実際、キリストは水の上を歩いているとしか思えません。弟子たちの錯覚ではありません。見ていても信じられないのです。

 

【信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか】

 湖の上をキリストが歩いているのを簡単に信じられるものではありません。信じられなくても不思議ではありません。信じないことが自然です。特に私たちは合理的精神にもとづく、科学優先の考えを小さいときから教え込まれてきました。私たちの住む社会が非宗教的なのは教育のせいだと思います。無神論的な合理精神が真理だと教えられて来ています。だから、奇跡など信じられないと言っても当然の結果です。

 では、どうすれば信じられるのか。この湖の上を歩くキリストの奇跡はマタイ福音書にも記されています(マタイ:22-33)。そこでは、ペトロの行動が記されます。ペトロはイエス・キリストのところへ歩いて行こうとします。ところが彼は強風に恐怖を感じます。とたんに沈みかけ、大声で助けを求める破目に陥りました。

 

 そのところでキリストは「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と叱責されます。信仰が求められています。ペトロに欠けていたのは信仰でした。

 

どうすれば信仰を持つことができるのか。奇跡をどうすえれば信じることができるのか。奇跡はそう簡単に信じられるものではありません。私たちは先ず疑う者です。はじめから疑ってかかるものなのです。

 

奇跡を見たら信じられるか。奇跡を見ても信じられるものではありません。今まで経験しなかったことを信じろと言われても信じがたいのです。弟子たちの場合がそうです。信仰はそう簡単に持てるものではありません。でも、私たちは信じられます。なぜなのでしょうか。

 

【安心しなさい。わたしだ。恐れることはない】

キリストは水の上を歩いてこられますが、船に近づくと通り過ぎようとしたとあります(48節)。知らぬ顔をして側を通過していったという意味にとってはならないと思います。これはキリストが弟子たちに接近してこられたという意味です。船の中にいる弟子たちはみなキリストを認めることができるほどまでに接近したのです。キリストは弟子たちの近くにおいでになりました。そして、言葉をかけられます。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」

 

 大切なことは言葉が与えられたと言うことです。言葉は音声です。ただの音声としてだけ聞くならば、ここでは何も起きません。音だけでは人は動きません。その音が言葉となって心に通じるときに言葉が人を動かします。

 

 信じることは誰でも大変難しいことです。それを否定することはできません。その不信の状態、つまり疑う心を打ち砕くのは神の言葉です。聖書の言葉はそれ自体ただの語彙の連続に過ぎません。

 

【心に響くキリストのみ声】

しかし、聖書の言葉が心に響きます。キリスト者となった人たちはこれを経験します。何でもない言葉の連なりに過ぎない聖書の一句が突然私たちの心を打ちます。そのとき、私たちは心開かれます。奇跡であることは信じがたいのですが、それを信じることができるようになります。マタイ14:33では弟子たちはキリストを神の子として拝んだと記されますが、心開かれて私たちはキリストこそ神の子と告白せざるを得なくなります。聖書の言葉が決定的なのです。キリストはその姿を見ることはできませんが、側にいてくださいます。そして、私たちの心に直接み言葉をかけられます。私たちは心動かされます。

 

 み言葉が肝心なのです。弟子たちはみ言葉を聞きました。私たちもみ言葉を聞かされます。そこで私たちは信仰に導かれます。そのなかには信じがたい奇跡を信じることも含まれます。キリストが神の言葉を語る神の子であると信じるならば、そのときこそ私たちは奇跡をも信じることができるようになります。(おわり)



2015年04月13日 | カテゴリー: マルコによる福音書

2015年4月5日イースター説教 「死よ、お前の勝利はどこにあるか」金田幸男牧師

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説教「死よ、お前の勝利はどこにあるのか」金田幸男

聖書 1コリント15章50-58

 

要旨 

【イースター/復活祭】

イースターはキリストの復活を記念する日です。キリストの復活が意味するところをご一緒に学びたいと思います。

 

【宗教は、霊魂や死を扱う】

 宗教一般について申しますと。宗教は、魂(霊魂)と死後の世界について語ります。むろん、宗教の中には、そのような問題よりも現世利益といいますが、健康や良運、あるいは、お金や賭け事に利益を約束するような信心を売り物にする宗教もあります。しかし、多くの宗教は、人間の魂のこと、特に霊魂不滅、あるいは、死の問題と死後のことについて語るものです。

 

 現代は科学的知識が優先される時代です。つまり、実験で証明したり、数値化できるもの、映像化できるものが真実であって、そうでないものは虚構、作り話、あるいは迷信と片づけられます。

 

霊魂などその存在を証明する術はありません。となると霊魂など存在しないという人もいます。

 しかし、現実はどうでしょうか。人が死んだその場所に、その人の霊魂が残っていて、そこに花や線香を供える人が絶えません。霊魂など存在しないと言いながら、その存在を前提にした習慣はいつも継続されます。霊魂の存在を証明などできないから、存在しないと言う言い方は矛盾しています。

 

【宗教心は誰もが持っている】

存在しないなら、しないことも証明しなければなりませんが、それは誰にもできません。死後の世界についても同様です。むしろ、現代人といえども、魂のことや死後のことについて、死者とのつながりを求め、死後の世界に関心を払わざるを得ない何か、つまり、それこそ宗教心ですが、それを誰もが持っていると言わざるを得ないのではないでしょうか。

 

科学的な考え方では納得できない何かがこころにいつも存在するのではないでしょうか。合理的な発想や考え方を否定するのではありません。しかし、合理的な解説では説明できない現象もあり、事象もあるのだというか、一歩へりくだった考え方も大切なのではないかと思うのです。

 

【死の意味するところ】

 宗教は、死について語ります。科学的な考えでは、死は終わりです。すべて死でピリオドがつけられてしまいます。死は一切の終わりです。しかし、宗教は死について何を語るのでしょうか。これまたいろいろな考え方があります。

 

ひとつは諦めを語る場合です。死は避けることができません。だから仕方がないものというのです。それで死の恐怖を回避できるかどうか別問題です。

 

それなら死に直面して、こころ安んじて死を向かえる迎え方があるか。死の恐怖を忘れるために、死を忘れるようにする。死など一瞬の通過点にすぎない。こうして、死の向こうの素晴らしさを心に念じて、死を乗り越えるべきだと言う教えもあります。逆に死の恐ろしさを強調する宗教もあります。恐ろしい刑罰である、断末魔の苦しみを避けることはできない。いっそう死の恐ろしさを強調します。その死の恐ろしさを回避する方法が信心だとされます。

 

 信仰には確かに死の苦痛を麻痺させるような機能もあるかもしれません。しかし、誰でも死の恐怖を免れるのではありません。

 

【死の圧倒的な力】

 わたしは、教会員やその家族、また自分の身内の葬儀を何度も経験し、また、臨終の場にも居合わせる経験もしています。そのたびに思うことは死の力の巨大さです。腹が立つこともあります。死は横暴です。有無を言わせず死は襲ってきます。老いたものだけではありません。年齢など関係なく死はやってきます。

 

 この死の圧倒的な力に直面して、昔から死神と言うものを設定してきました。これは古今東西を問わないようです。それはいずれの地域でも死は普遍的です。死のないところはありません。人は絶えず死の影に付きまとわれます。恐るべき死の力は止むことはありません。死神は人間に対してあたかも全能であるかのように振舞います。確かにそのとおりです。死神は人間に恐怖を撒き散らし続けてきました。

 

 人は死に対しては無力なのでしょうか。どんなに科学技術が進歩しても死の問題は果して解決するかどうか。科学は死を克服できません。

 

 キリスト教と言う宗教は死の問題をどう扱うのでしょうか。今まで語ってきた宗教と同じなのでしょうか。そうではないと断言できます。

 

【聖書はキリストについて記す書物】

 聖書は、イエス・キリストについて書かれた書物です。このように言いますとおそらく反対が出るかもしれません。実際聖書をイスラエルの歴史が書かれてある書物と見る人もいます。あるいはそのイスラエルの宗教や道徳に関する書物だと考える人もいます。座右の銘が多く記されているいわば格言集のようなものとする人もいます。そこにはいい言葉がたくさん載っています。ある人は心が静められ、心が安まる慰めの書と見ます。聖書の読み方は多様です。

 

 私たちにとっては、聖書ははじめから終わりまでイエス・キリストについて書かれてあると思います。イエス・キリストは何を語り、何をしたのか。そのことを、聖書は予め語った書物であり、またその言行記録でもあります。

 

聖書はキリストについて記す書物です。でも、そのキリストについて語ると言っても中心があります。それはキリストの十字架と復活、その意味するところを記す書物であると言う観点は省くことはできません。

 

【使徒や弟子たちの復活証言】

 新約聖書を書いたのは、キリストの弟子たちとそのまた弟子たちです。12人の弟子、それにパウロといった初期の弟子たちは使徒と呼ばれますが、その使徒の見聞きしたことをさらに弟子たちがまとめています。弟子たちはキリストの言葉を書き残しています。それ以上に彼らの役割は、キリストの復活の証言です。私たちはキリストの復活を見た、それを弟子たちは語り続けました。それを世界中に語ろうとしました。そのために嘲笑され、あるいは秩序を乱すものと非難され、迫害もされました。殉教者も続出します。それでも彼らは、キリストは復活したと語り続けました。

 

 このように語っても簡単にキリストが復活したことを信じられるのかというと、むろんそんなに簡単に信じられるものではありません。しかし、次の言葉を何度も繰り返して読んでいただきたいと思います。

 

 「私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと、また、ケパに現われ、それから十二弟子に現われたことです。その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現われました。その中の大多数の者は今なお生き残っていますが、すでに眠った者もいくらかいます。その後、キリストはヤコブに現われ、それから使徒たち全部に現われました。そして、最後に、月足らずで生まれた者と同様な私にも、現われてくださいました。」1コリント15:3-8)。

 

この個所を読み、驚きました。パウロがこの手紙を書いているときにまだキリストの復活を目撃した人が生存していたのです。

 

【イエス・キリストは死/人類の敵に勝利】

聖書が嘘を書いていないのであれば、この文章は簡単に読み流すことはできません。イエスはよみがえったということを宣教するために弟子たちは出かけていきました。命がけでした。何故そこまでしたのか。弟子たちが本当に復活のキリストに出会ったからではないでしょうか。

 

もしキリストがよみがえったのであれば、死という無敵で強力な独裁者は風穴を空けられたようなものです。大きな建物も基礎が崩れれば全体が崩壊します。キリストの復活は死が、そして、死神が全能ではないことを示すのです。キリストはよみがえって死という巨大な私たちの敵を打ち倒してくださったのです。死は敗北しました。イエス・キリストは死に勝利されました。

 

これは単なる霊魂の不滅ではなく、それ以上です。からだはそのままでは死ななければなりません。確かに死は私たちを襲います。しかしながら、死はすでに征服されています。最後のあがきのように私たちを苦しめはしますが、キリストが私たちと結びついてくださっている限り、私たちもキリストのようによみがえる希望を持てます。事実、キリストは信じるものと一つとなってくださって、終わりの日には私たちをもよみがえらされます。

 

キリストは私たちを死に対する勝利者の群れに加えてくださいます。これが驚くべき知らせです。

 

イースターはこの喜ばしい使信を聞く機会となのです。私たちは死の影におびえて生きる必要はありません。死を仕方のないものとして諦める必要もありません。死は巨大な力を持っているかのように今も振舞いますが、実はすでに敗北者でしかないのです。死は驕り高ぶっているかのようではありますが、もう究極的な勝利など覚束ないのです。

 

死のトゲは抜かれてしまっています。からだのよみがえりをキリスト者は信じています(使徒信条)。キリストにあってやすらうのは、キリストがすでに死人の中から三日目に復活して、今は天におられるからなのです。(おわり)

2015年04月05日 | カテゴリー: コリントの信徒への手紙一