2015年4月26日説教「外見上の汚れとまことの汚れ」金田幸男牧師

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説教「外見上の汚れとまことの汚れ」金田幸男

聖書:マルコ7:1-13

 

要旨

【主のもとにファリサイ派の人々と律法学者が来た目的】

  7章1節には前の記事、ゲネサレト平原での癒し、と時間や場所との関連は記されていません。そこで、連続して起きた事実が記されているのかどうか分かりません。

 

 イエス・キリストのところへファリサイ派に属する人々と律法学者がやってきたと記されますが、彼らの目的は容易に推測できます。マルコ福音書では彼らの存在がいくつか記録されています(2:6,2:16,3:6)。キリストの評判がますます広がって行きます。彼らはイエス・キリストの言行を調査し、ユダヤ人の政治や宗教問題の議決機関であった最高議会(サンフェドリン)に、イエス・キリストの誤りを告知しようとしていたに違いありません。そして、最高議会で有罪として、キリストを排除しようとしたのです。

 

【弟子たちが食事の際、手を洗わない】

 彼らはキリストを訴える材料を見つけます。キリストの弟子たちが食事の際、手を洗わないで食べていたのです。これは不衛生だというだけの問題ではありません。ユダヤ人にとっては、それは彼らの言い伝えを破る行為であったからです。手を洗わないで食事をする、つまり汚れた手で食べるということは別に聖書の、神の掟に禁じられてはいません。神の言葉である聖書の規定ではありません。しかし、ユダヤ人はこれを禁止事項にしていました。

 

マルコ福音書は、外国人である読者のために注解を加えています。念入りに手を洗う。手を洗う順序、洗い方、洗う場所など細かな規定があったということです。また市場など人の集まるところから帰宅するといっそう丁寧に体を洗ってからでないと食事をしませんでした。市場には汚れているとされた外国人がいますし、ユダヤ人のなかでも汚れているとされる人たちと知らずに接触する可能性もあり、このためいっそう丁寧に体を清めたのです。その他、食器類、挙句の果ては寝台=ベッドまで清めないとだめだとされました。こういうことはいうまでもなく旧約聖書の律法には記されてはいません。それではどこからこういう習いが始まったのか。

 

【タルムード】

 ユダヤ人は旧約聖書だけではなく、タルムードという膨大な書を重視しています。これはミシュナーとゲマラという部分からなっていて、パレスティナ・タルムード=38講・5世紀、バビロニア・タルムード=63講・6世紀の2種類があります。ミシュナー(反復口授の意)はレビ・ユダ・ハナシという人物(135-220年ごろ)がまとめたもので、捕囚後から、数世紀まで遡る、ラビたち(律法学者)による、文章になっていない律法が6部からなる内容で保存されています(農産物・祭・結婚と離婚・財産と訴訟・神殿行事・潔め)。ちなみにゲマラ(補充の意)はミシュナーの解説に当たります。ユダヤ教では旧約聖書は、キリスト教徒同じく経典として受け入れられていますが、タルムードの使用と重視という点ではキリスト教とユダヤ教は異なっています。この点、イスラムが旧約聖書とコーランを重視して、キリスト教と異なるのと同じです。ミシュナーにはキリスト時代のユダヤ人の言い伝えも多く含まれています。

 

 キリストは、言い伝え、あるいは伝承を頭から否定されているのではありません。また、掟を退けられているのではありません。ここでは汚れの問題と親に対する敬意が扱われていますが、これらについて否定されているのではありません。問題は言い伝えを重視することで、神の掟、み言葉を軽んじている点を厳しく批判されているのです。

 

【汚れの宗教的意味】

汚れの問題は重要でした。単に不衛生と言う問題ではありません。これは宗教的な意味があります。汚れの代表的なものは、汚れている動物の肉を食べることです。具体的には豚肉ですが、豚肉がどうして汚れているのか、ただそれは神の命令によるもので、神が汚れているとされたゆえに食べてはならないだけのことなのです。

 

 ユダヤ人は手を洗わないで食事を取ると汚れると考えました。汚れを清めるのは水で手をよく洗うことだとされます。考えてみれば水で洗ったくらいでは汚れなど落ちるはずもありませんが、何とか清めるためには水を用いればよいと思いついたのです。そうするとそれがいつの間にか規則となり、守らなければ罪とされ、議会に訴えられ、裁判にかけられてしまいます。ファリサイ派や律法学者たちがしようとしているのはこのことです。

 

もともと汚れの問題でありましたが、いつの間には、手を洗う問題にすりかえられていたのです。汚れを除くということ自体まじめな動機であったはずです。ところがいつの間にか手を洗う、汚れているとされるものを水洗いする、それが汚れを免れる方法だと言う考え方が固定してしまいます。形式的に手を洗っておれば清められる。手を洗わないと汚れてしまう。

 

【本来の汚れと偽善】

 本来の汚れとは何か。それは神の掟に対して忠実ではないことを意味していました。イエス・キリストはイザヤ29章13を引用し、ユダヤ人の偽善を暴かれます。いつの間にか言い伝えとして、あるいは重要な伝承とされているものは実は偽善なのだというのです。

 

 偽善とは、演技者として振舞うことを意味しています。演劇の演者は本物ではありません。悪人を演じている俳優が悪人などではありません。それは演技です。偽善者は本当の姿ではないのに、敬虔で信心深い外見を売り物にしようとする人たちです。何かよいことをしている人を「偽善的」などという人がいます。それはまったく間違った用法です。単純な誠意から善を行おうとする、それを偽善とは言いません。本心は別のところにあるのに外見だけ取り澄まそうとする場合これを偽善と言うのです。単に善行を偽善などとは言いません。

 

 ファリサイ派や律法学者は自分たちを清いものだと見せびらかそうとして、汚れを取り扱います。言い伝えを作り出して、それを守れば清いのだと言い出したのです。

 はじめはなんでもない行為が時間を経るといつの間にか習慣となり、規則となり、その集団では拘束力を持ち、破ったものは制裁を受ける。こういう現象は宗教だけではありません。集団が結成されて時間が経ち、世代を重ねると、当初は余り意味がなかったことも、大きな拘束力を持つようになる例はたくさんあります。ユダヤ人の場合、信心の規準となり、反対の場合、社会的な処罰を伴うようにもなりましたが、キリストはこれを偽善とされます。

 

【神を畏れ、敬う内面の清さ】

 清いと言うことは信仰的には大きな価値があります。それは神に対する態度です。清くあろうとすることは信心、敬虔さの問題であり、究極的には神に対する畏怖からでてくる行為です。神を畏れ、敬うところから清くあろうとするのです。ところがユダヤ人は外見上の清さだけを取り上げようとしています。内面性が忘れられているのです。

 

【神への供え物コルバンと 第5戒】

 この偽善について、キリストはもうひとつの例を持ち出されます。それは、コルバンの問題です。コルバンとはここに記されていますように、神への供え物を意味する言葉です。聖別を意味します。神にささげられたものは聖別されています。清くされるとそのものは人間は指一本触れることはできません。これを子どもたちが悪用します。本来ならば親に必要なものであっても、いったん「コルバン」と宣言されてしまうと、親であってもそれを使うことができません。食べ物なら深刻な事態となります。親が食べないと飢えてしまうようなものでも「コルバン」と宣言されると親は食べられなくなります。あくどいことは、その親が手にすることができないものを子どもが勝手にするということも可能となります。これは宗教的な言葉の乱用です。こんなことはあってはならないことなのですが、キリストの時代、言い伝えの中にはこんなひどいものも含まれていたのです。神を畏れるはずのところで悪辣な行為が是認されていました。

 

【第5戒:父母を罵るものは死刑に処せられる】

 第5の戒め、それは極めて重要な戒めでした。出エジプト21章7にありますように、父母を罵る、つまり侮辱するものは死刑に処せられる、これが戒めでした。違反は重大な罪とされます。ここまで神は第5の戒め、親に対する敬意を重視していました。ユダヤ人はこのことを知らないはずがありません。ところが巧みに言い伝えを創作します。ユダヤ人は宗教を重んじた民族です。それをうまく利用して、両親を敬えという戒めを骨抜きする方策をどんどん発明したのです。

 

 こういう操作は至るところで見かけられます。親に対する孝行は道徳的な項目だとされます。口先では親を敬いなさいと教えます。しかし、これは何ともいえない建前になっていることでしょうか。子どもの人権とか、自由とか、を口実にして、親の言うことが重視されていない。そういう実例は枚挙の暇もありません。     

   

 キリストは、ここで何を言おうとしているのか明白です。重視するべきは神なのです。神の戒め、神の言葉が重視されなくてはなりません。形式的に外見的に重視されるのではありません。そこに心が伴っていなければならないのです。神からその心は離れているのに見かけ上はいとも信心

深く見せようとしているだけ。外見上聖いと思わせるのに熱心であるのですが、それは人からの評判をよくしたいだけ。これこそ偽善なのです。

 

【偽善ではなく、神に許しを求める】

私たちはファリサイ派や律法学者がどれだけ敬虔で、清らかな振る舞いをしようとしたかを知っています。簡単なことではありません。熱心さにかけては、彼らは誰にも劣らないでしょう。しかし、キリストは彼らに欠けているものを指摘されています。偽善ではなく、神に許しを求めることこそ肝心なことでした。神の言葉にそぐわない現実を直視し、いかに神の前で罪人であるかを認識し、神の前で許しを求めていくことをキリストは命じられるのであって、言い伝えで積み上げたような外見上の聖性は意味がないどころか有害でもあるのです。(おわり)

2015年04月27日 | カテゴリー: マルコによる福音書

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