2013年12月

2013年12月29日説教「"霊"に助けられて祈る」赤石めぐみ先生

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2013年12月29日説教」「"霊"に助けられて祈る」赤石めぐみ先生(伊丹教会)

聖書:ローマの信徒への手紙826 同様に、"霊"も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、"霊"自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。27 人の心を見抜く方は、"霊"の思いが何であるかを知っておられます。"霊"は、神の御心に従って、聖なる者たちのために執り成してくださるからです。

28 神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。29 神は前もって知っておられた者たちを、御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められました。それは、御子が多くの兄弟の中で長子となられるためです。30 神はあらかじめ定められた者たちを召し出し、召し出した者たちを義とし、義とされた者たちに栄光をお与えになったのです。

31 では、これらのことについて何と言ったらよいだろうか。もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。32 わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。33 だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。34 だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。35 だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。

36 「わたしたちは、あなたのために/一日中死にさらされ、/屠られる羊のように見られている」と書いてあるとおりです。

37 しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。38 わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、39 高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。

 

(説教要約 文責近藤)

【祈りにおける"霊"の執りなし】

ローマの信徒への手紙826節のみ言葉「同様に、"霊"も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、"霊"自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。」を愛唱聖句としておられる方も多いと思います。

今日はこの26節を中心に神様がどのように私たちの祈りを聞き入れてくださるのかということについて一緒に考えたいと思います。

 

【「同様に」】

愛唱されているわりには読み飛ばされていると思われるのが、この冒頭の「同様に」という言葉であります。

「同様に」と言われているのですから、前からの続きであるという事がわかるのですが、それがどの箇所であるかということは少しわかりにくいです。

26節の中のキーワードは"霊"という言葉と「うめき」という言葉であります。この二つ言葉をキーワードとして辿っていきますと23節にこれらの言葉があります。

 

【「被造物」だけでなく「私たちも」うめいて待望む】

ローマの信徒への手紙8

23 「被造物だけでなく、"霊"の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。」

という続き具合であります。

23節の「被造物」だけでなく「私たちも」とあります。さらに戻って辿っていきますと19節から22節の間で「被造物」も共にうめき、共に生みの苦しみを味わってることを私たちが知っていますと。被造物だけでなく霊の初穂をいただいて私たちもと続くわけです。被造物が「うめいて」いるように、私たちも「うめき」ながら待望んでいる。

「同様に」「霊」も「うめき」を持って執りなしていてくださるという流れになります。

 

それでは「被造物」と「私たち」は何を「うめき」ながら待望んでいるのでしょうか。

それはローマの信徒への手紙819節によれば

「被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます」。

 

21節によれば 「つまり、被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。」

 

23節によれば823 「被造物だけでなく、"霊"の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます」。

「心の中でうめきながら待ち望んでいます」と。

 

【「うめき」】

「うめき」という事ただ単に自分の心の中でのモヤモヤとした感じではなく、神の子となるという点に集中している言葉に注目したいと思うのです。

26節に戻りますと私たちはどう祈るかを知りませんが、何を祈るかは知っているのです。

「神の子とされること、からだの贖われる」ことを心の中で祈っているわけです。23節に「神の子とされること、体の贖われる事」を心の中でうめきながら待ち望んでいますと明確に書かれています。そのことを望みながら「うめいている」のです。けれども今祈る相手は神様です。正しいお方である神様でありますから、こういうお方に対してどう祈るべきかは私たちには分からないのです。どういうことかというとその理由は7節以下

ローマの信徒への手紙8章

なぜなら、肉の思いに従う者は、神に敵対しており、神の律法に従っていないからです。従いえないのです。8 肉の支配下にある者は、神に喜ばれるはずがありません。

 

ここに書かれているように、わたしたちには罪の問題があるからです。私たちは罪人であるからです。私たちは体を贖っていただきたい、神の子としていただきたい、この体に本当の命をいただいて生き生きと生きたいと願いつつも自分のなかの罪の故に祈ることとは反対のことをしてしまうのであります。私たちは自分中心の祈りをなし、神様のみ心にかなう祈りはできないのです。

 

そういう自分の罪の問題、それからまた周りの罪の問題、それは36節、

ローマの信徒への手紙8:36 「わたしたちは、あなたのために/一日中死にさらされ、/屠られる羊のように見られている」と書いてあるとおりです。

罪の世の中で神の子として生きる、新しく生まれ変わったものとして生きる事は本当に難しいのです。自分は神様に従ってこの世を生きたいと願いつつも、でもこの罪の世の中では本当に難しいのであります。

 

それで祈りに向かうことさえむずかしい状況に陥ってしまうこともあります。こういう自分の罪の問題、そして周りの罪の問題があります。そういう中で弱い私たちを助けて「霊」自らが言葉に表せない「うめき」をもって執り成して下さる。

 

【"霊"が言葉に表せない「うめき」を持って執り成して下さる】

言葉に表せない「うめき」を持って執成して下さるとは具体的にはどういう風にしてくださることでしょうか。

大変誤解されていることですけれどもここで「うめく」のは私たちではないのです。「霊」が「うめく」のですね。「霊」が「うめき」を持って執成して下さるのです。

 

【イエス様の「うめき」】

イエス様が「うめかれ」た場面があるのをご存じ事でしょうか。マルコ福音書731節から37節のところですけれども、

31 それからまた、イエスはティルスの地方を去り、シドンを経てデカポリス地方を通り抜け、ガリラヤ湖へやって来られた。32 人々は耳が聞こえず舌の回らない人を連れて来て、その上に手を置いてくださるようにと願った。33 そこで、イエスはこの人だけを群衆の中から連れ出し、指をその両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れられた。

34 そして、天を仰いで深く息をつき、その人に向かって、「エッファタ」と言われた。これは、「開け」という意味である。35 すると、たちまち耳が開き、舌のもつれが解け、はっきり話すことができるようになった。36 イエスは人々に、だれにもこのことを話してはいけない、と口止めをされた。しかし、イエスが口止めをされればされるほど、人々はかえってますます言い広めた。37 そして、すっかり驚いて言った。「この方のなさったことはすべて、すばらしい。耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人を話せるようにしてくださる。」

 

耳が聞こえず、舌の回らない人を癒すという記事がございます。全部は読みませんがこの中で33節、イエス様が指を両耳に差し入れて、そして天を仰いで深く息をして、その人に「エッファタ、開け」と言われました。この「深く息をし」てというのが「うめく」という言葉と同じ言葉であります。

ここはイエス様が天を仰いで、「うめい」て「開け」と言われた。「開け」というのは「口」が開けと言われたのではなく、この「人」に向かって「開け」と言われたのです。

ですから、この人は耳が聞こえるようになっただけでなく舌のもつれが解けて話すことができるようになった。

 

マルコ7章の結論は、耳が聞こえず、口の利けない人を話せるようにしてくださったという事です。

この「口の利けない」と言う言葉は、ローマ書8章の26節

 "霊"自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。

マルコ7章37節のところは「口の利けない、言葉に表せない人を言葉が話せようにしてくださった」ということと言われています。

 

イエス様が「うめい」て、この人に向かって「開け」と言われた。そしてこの人は言葉に表せない者から話せるようになったと言う出来事であります。

 

ロマ8章に戻りますと26節「霊」自らが言葉に表せない「うめき」を持って執り成して下さるからです、とあります。というのはイエス様ご自身が言葉に表せないうめきを持ってこの人を話せるようにしてくださった出来事と同じようにイエス・キリストによって遣わされた「霊」が私たちを同じように言葉に表せない多くうめきを持って「開け」と言ってくださって、言葉に表せるようにしてくださるということであります。

 

私たちは「神の子とされる」こと、「体の贖われる」ことを明日に信じながらも罪の故にどう祈るべきか分からないのですけれども、「霊」が私たちを「うめき」ながら、罪の問題を解決して祈りの中心を言葉に表せるようにしてくださる。

 

【「キリスト・イエス」の執成し】

ところで2627節「霊」が「執り成して下さる」とありますが、下の段の34節は執り成して下さるのはキリスト・イエスと書かれています。執り成して下さるのは「霊」なのか「キリスト・イエス」なのか、これは矛盾なのでしょうか。三位一体の教理を知っている私たちは、つい同じことだと片付けてしまいます。

 

【「霊」と「キリスト」による二手の執り成し】

神様はここで一方では「霊」が執り成して下さる、一方でキリスト・イエスが執成して下さるというのです。という事は深い意味があるという事をある注解者から教えられました。

どういう事かといいますと、「霊」は私たちの心のうちに働いて祈りがふさわしい言葉になるように、この罪の体をもって地上にある私たちに働いてくださるのです。そして「キリスト」は神の右に座して天上で執りなして下さる。「霊」と「キリスト」は罪人の私たちの祈りが神に届くように地上から、また天上から支えてくださるのです。

 

物を運ぶときに大事なものは両手でしっかりと持っております。それと同じように神様は私たちを地上では「霊」によって私たちの心を執成してくださり、天上ではキリストが執りなして下さる。このように二手から私たちの祈りを神のみ許に届けてくださり神は聞き入れてくださるのであります。このように書かれているのがわかります。

 

これほど確実な祈りはありません。取りこぼす祈りもありませんし、聞き入れられない祈りもありません。これほど確実に私たちの祈りは神のみ許に届けられるのであります。こう書かれているのを見るとこれは矛盾ではなく非常に大切なことが書かれてあると思います。

パウロはこのように確信したので非常に強気な語調でこう書くのです。

「神が私たちの味方であるならばだれが私たちに敵対するのですか」

これはこんなに確実に私たちの祈りは神様のもとに届けられるとの信念を持っているからです。

 

【祈りの中心】

けれども忘れてはならない事は言葉になる前からの祈りを言葉に表せるようになるという事、わたしたちの祈りを聞いている下さるということですけれども、祈りの中心というのはあくまでも、私たちを「神の子としてください」、「私たちの体を贖ってください」という祈りであります。

 

私たちを罪の体でありましても新しい命を与えられて生きることができるようにしてくださいという祈りの中心を忘れないでください。

このことをどういう言葉で祈っていけばいいのかと考えながら8章全体を読んでいきますと、その祈りの言葉のヒントがあります。

 

【具体的な祈りの言葉のヒント】

ローマの信徒への手紙8

節、キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです。

 

6節、 肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和であります。

 

11節、 もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう。

 

13節、 肉に従って生きるなら、あなたがたは死にます。しかし、霊によって体の仕業を絶つならば、あなたがたは生きます。

 

14、15節、神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。15 あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。

 

【現在の苦しみは将来の栄光に比べると取るに足らない】

神が確実に祈りを聞き届けてくださるので、「現在の苦しみは将来私たちにもたらされる素晴らしい栄光に比べると取るに足らない」と確信できるのです。そして被造物が神の子たちの現れるの切に待ち望んでいるとあります。この世界が神の子たちの現れるのを待望んでいるのです。

「霊」と「イエス・キリスト」とによって執成していただいた祈りが神のみもとに届けられ聞かれるのは、私たちが神の子として、この世の中で生きるのは世界がもっと良くなるためです。

 

{神の子たちの現れるの切に待ち望む〕

新しい年もすべての被造物のために私が神の子としてふさわしく生きられるように、私が神から与えられた命を生き生きと生きるられるように苦難のなかでも祈りを下げていきたいと願います。

神が確実に祈りを聞き届けてくださるので現在の苦しみは将来私たちにもたらされる素晴らしい栄光に比べると、それは取るに足りないと確信できるのです。そして被造物が神の子たちの現れるの切待ち望んでいるとあります。

世界が神の子達の現れるのを待望んでいるのです。「霊」と「イエス・キリスト」とによって執成していただいた祈りが神のもとに届けられ聞かれたなら、私たちが神の子としてこの世の中で生きるのは世界がもっと良くなるためです。

新しい年もすべての被造物のために私が神の子としてふさわしく生きられるように私が神から与えられた命を生き生きと生きるられるように、苦難の中にも祈りを下げていきたいと願います。祈りましょう。

2013年12月29日

2013年12月22日説教「神の秘かな愛の決起」佐々木弘至牧師

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20131222日説教「神の秘かな愛の決起」佐々木弘至牧師

【ヨハネ福音書31621節】

16 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。17 神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。18 御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。19 光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。20 悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。21 しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために。」

 

《説教の主》暗い世を愛され神の愛の光・キリストを見上げよう

 

I》今年一年を顧みて

 

本年もクリスマスを迎えました。クリスマスの時季になりますと、私は一年を振返って様々の事を回顧することがあります。1年を回顧すると言っても、個人的 なことも回顧もするのですが、クリスマスは何と言っても全世界的な出来事でありますから、自己の一年を回顧すると同時に、むしろ社会に現れた特微的な事共に想いが向けさせられるのであります。

 

今年も社会の世相を振り返ってみて同様の事を感じるのですが、今年も明るさをえた事柄と、暗い事柄を比較してみますと、暗い出来事の方が圧倒的に多かったことであります。皆さん、如何でしょうか?今年のニュースの中で明るい事柄をどれだけ想い起すことができますでしょうか?私の個人的な性格の故であるかどうか解りませんけれども、どうも明るいニュースを明確に思い出すことがあまりないのです。一~二 想い起すなら、富士山の世界遺登録と、2020年に東京オリンピックの開催が決まったこと、東北楽天が日本シリーズで優勝したこと、最近では日本料理が無形文化遺産に登録された位のものです。健忘症ではないか、と言われてしまうかもしれませんが、あまり明るい事柄が思い出せませんでした。

 

それに引き替え、暗い出来事はと言いますと、枚にいとまがないほどに思い出される訳です。特に、暗さの頂点と言えるものには、今年一年で消え去るようなものではなく、むしろ将来に亘って日本の国を暗黑に包み込んで行くような法案の強行採決がありました。

 

【巷のクリスマス】

このように、年末を象微するクリスマスになりますと一年を回顧するのでありますが、もう一つ、クリスマスの持っているクリスマス特有の特微について想いを向けさせられることがあるのです。

それは、クリスマスの掛け声と共に、年々日本の国がまるでキリスト教国にでもなったかのように、クリスマスツリーが主要都市などの駅前や目技き通りなどに色とりどりのイルミネーションで豪華に飾られ、道行く人々にクリスマスのムードを盛りあげていることであります。

 

【イエス・キリストの御降誕】

しかし、その賑やかなクリスマスムードの中身であるイエス・キリストの御降誕を記念するという本質は、殆ど認識されることはなく、人々は唯何となく年末のお祭り気分のようなものを感じているだけではないかと想われる訳です。

 

けれども、そのことを思います時に、それは現在の日本の場合に限る事ではなくて、そもそも、イエス・キリストの御降誕という出来事自体が、同じように多くの人々にその事実が認識されていた訳ではなく、世界の片隅のごく一部のわずかな人々によって、認識され、祝われていた秘かな出来事であったことを想い起すのであります。

 

【不思議な星に導かれて】

確かに、イエス・キリストの降誕は、神様が広大な天体にその誕生を表明したと聖書は記しているですが、その天体に現わされた星を発見し、そこに救い主の降誕を認識することが出来たのは、イスラエルの東方の国(現在のイラン、イラク)の占星術の学者達だけだったというのです。それも現代ならば、先月末太陽の熱で蒸発してしまったアイソン彗星のように、きっと世界中の人々が見つめることになったであろう出来事ですが、わずかニ〜三人の專門学者にしか知られていなかった事実だったのです。

 

マタイによる福音書21 イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、2 言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」3 これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。

 

9 彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。

10 学者たちはその星を見て喜びにあふれた。11 家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。

 

【夜野宿をしていた羊飼たち】

もう一つ、ルカ福音書が伝えています救い主御降誕の出来事は、降誕の地ベツレヘムの町は全ての宿屋が滿杯になるほど賑わっていましたが、誰一人イエス.キリストの誕生を認識せず、唯、真っ暗な野原で羊の群れの番をし ていた僅かな羊飼達だけであったと言われているのです。*ルカ2:420

 

このように、クリスマスは元々多くの人々が認識した出来事ではなく、ごく僅かな人々にだけ認識された、秘かに起こった出来事であったのです。

 

そのように思います時、現代社会が、キリストの御降誕を認識することなく、 唯クリスマスのムードだけを盛り上げている姿も、それ程驚くべきことではなく、 唯教会とクリスチャンたちが、東方の学者達や羊飼達に倣って、真実にイエス・キリストの御降誕を記念し心から感謝し、日ごろ心にかけている人々をクリスマスに招待する事が出来れば良いのだと思うのです。

 

そこで、私たちは、救い主イエス・キリストの降誕を記念しますこの時、一年を振り返りながら、改めて神様の御心は何であるのかを示されたいと思います。

 

》現在の世の闇の只中にわされた神の愛

 

そして、私たちはこのような暗く悲しいニュースの方が圧倒的に多い現代の社会に現れている、本質を知らないままに迎えているクリスマスは、2000年前のキリスト誕生の時の情景と類似していることを憶えるのであります。

 

イエス・キリストの降誕は、月明かりだけの真っ暗な闇夜に一つだけの星の輝きと、これまた深夜の野原に救い主の誕生を告げる天使が神の光を照 らしましたが、それを見たのは羊飼い達だけであり、マリアとヨセフ夫婦が泊まる宿さえもなく、馬小屋の飼葉桶に寝ておられたというイエス様の御降誕の貧しい光景は、神様が正に暗闇の世に秘かに現わされた出来事でありました。

 

【暗き世に贈られた神の御子】

現代の私たちの社会のこの暗い有様と、イエス様の誕生を告げる光景は、 真に良く類似しているのではないでしょうか?そしてこの類似にこそ、神様の御心が現わされたのだ、と聖書は告げているのであります。

 

つまりクリスマスの御心は、神様が、敢えて悲しむべきことや忌まわしい悲惨なことの多いこの暗い世の只中に、その苦しみや悲しみを受け止めて下さり、 確かな希望と朽ちることのない喜びをお与え下さる為に御子をお贈り下さったのだ、と告げられているのであります。

 

①悲惨の暗闇の中に見る人の敵意

 

では、世の暗闇とは何なのでしょうか?そこには物理的な暗さというよりも、 むしろ聖書が語る暗闇とは、霊的そして精神的、倫理的、人道的な暗黑を意味している訳です。そしてそれらを一まとめにするなら「人の罪と死とそこに伴うあらゆる悲惨」ということになります。

 

そして人間の「罪と死に伴うあらゆる悲惨」が現わす霊的・精神的・倫理的、人道的な暗黑は、神と人、人と人との愛と信頼を失っている暗黑なので す。

政治は「民主主義は数の多さによって成立つ」とばかり、主権者である 国民の声に耳を傾けようともせずに、内閣と与党の意のままに危險を孕んだ 法案を強行採決してしまう。そこに国家の暗がり度合いが色濃くなっている。

 

社会には、詐欺事件や食品の偽装表記が身の周りに存在して、何をどこまで信用して良いのやら解らない暗闇があります。教育や子どもたちの世界においてさえ、体罰や虐待、虐めの増大が神と人、人と人との愛と信頼が色 あせて暗い影が覆っている。

 

【資本主義経済の行き詰まりの原因】

経済の主導権を握っている資本主義経済といえども今や行き詰まりを見せて困迷しているのです。元々資本主義経済は、根本にプロテスタント・キリ スト教の倫理から生み出された精神がありました。その倫理とは「神の栄光のために」という精神でした。             

 

それを解いたマックス・ウェーバーは、その説を机上の空論でないことを檢証しようと資本主義の国アメリカに旅行して色々と調をしました。

 

ある時アメリカで働くドイツ人の友人医師からこういう話を聞いたという。

 

その医師が話した事は、一人のアメリカ人患者が診察を受けに来た。診察台に橫になったその男は、さっと起き上がって、こう言ったという。なんと言ったかと言うと「先生,私はこの町の〇〇教会の会員です」と言ったと言う。

 

つまり、キリスト教会の会員を表明するという事は、私は治療費を踏み倒すような人間ではありません。診察して下さい。そういう意味だと言うのです。その友人は、その言葉を聞いてびっくりしたのだ、とウェーバーに語ったという。

 

マックス・ウェーバーは、そのような実地検証を伴って「資本主義の精神」 はプロテスタント・キリスト教の倫理に基づいて形成されたのだ、というのです。

 

けれども現在では、資本主義経済は、いつの間にか「神の光のために」という基本理念が技け落ちてしまって、単に機構だけが残って、全ては市場に委ねられる事になった結果、資本主義経済は「神の栄光」ではなくて「唯利得追求のため」というものに変わってしまっているのです。

 

そこに資本主義の暗闇の源があるのです。神の光を拒否し、神に敵対するところに暗黑があるのです。かつては唯物主義経済が「神の光」を拒否しましたが、その唯物主義経済は70年で立ち行かなくなり、今では独裁政治のために資本主義絰濟を導入して利用しています。

 

【まず神の国と神の義を求めよ】

そもそも、聖書の教えによりますと、この世の衣食住生活は、神様が保証してくださるものだと教えているのです。

 

マタイによる福音書625 「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。26 空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。27 あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。28 なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。

29 しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。30 今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ。31 だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。32 それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。

33 何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」

 

まず何事よりも神の国と神の義を第一に求める生活を誠実に行いなさい。 そうすれば、この世の生活は、思い悩まなくとも保証されるのですと。

 

現在の社会生活は、このような聖書の教えに照らすとき、如何に最も肝心な事を失っていることでしょうか。即ち現代社会と現代人は、何と神に対して敵対をしていることでしょうか?!そして、この神と人への敵対こそが、現代の暗闇の源泉なのです。

 

   悲惨の中に見える神の痛みと愛

 

そもそも神様は決して冷酷な方ではありません。むしろ人間の悲惨を共に 悲しまれる神なのです。神の御子イェス様は、災害の悲惨に苦しむ人々のように、言葉を失うような苦を味合われました。

 

旧約聖書イザヤ書536 わたしたちは羊の群れ/道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて/主は彼に負わせられた。7 苦役を課せられて、かがみ込み/彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように/毛を切る者の前に物を言わない羊のように/彼は口を開かなかった。

8 捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか/わたしの民の背きのゆえに、彼が神の手にかかり/命ある者の地から断たれたことを。

9 彼は不法を働かず/その口に偽りもなかったのに/その墓は神に逆らう者と共にされ/富める者と共に葬られた。10 病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ/彼は自らを償いの献げ物とした。彼は、子孫が末永く続くのを見る。主の望まれることは/彼の手によって成し遂げられる。

 

新約聖書ヘブライ人への手紙216 確かに、イエスは天使たちを助けず、アブラハムの子孫を助けられるのです。17 それで、イエスは、神の御前において憐れみ深い、忠実な大祭司となって、民の罪を償うために、すべての点で兄弟たちと同じようにならねばならなかったのです。18 事実、御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです。

 

神の御子キリストは、他ならぬ私達人間の罪を贖うために正に未會有の試練を受けて苦しまれたと言っているのです。             

 

《Ⅲ》神は敵意の只中に御子をる程に世への愛を決起された

 

さて、今までは今年一年の、私たちの社会の暗闇のことを中心に話して来ました。しかし今日はクリスマス記念の礼拝です。それにしては今までのお話は、 クリスマスを祝うのに相応しくないのではないかと思われる方もいらっしゃるのではないでしょうか。私自身そのように感じながら説教準備をしておりました。

 

けれども、どうしても今までお話して来たことを語ることなくしてはクリスマスのメッセージは語れなかったのです。つまりクリスマスは、私たち人間が神に対して如何に鈍感であり、その心と思いがどんなに神を離れ、どんなに神に敵対しているのかを悟らなければならない出来事だからなのであります。

 

〜アガペーの愛と全ての人の希望の光・キリスト〜

そこで、今日選んだ聖書の箇所を見たいと思います。ヨハネ3:16神は、その独り子をお与えになった程に、世を愛された。』

 

先程来お話して来ましたとおり、人は心の奥底に神への拒絶反応を表わし、神を拒否し、確かに神に敵対する暗闇の中に生きているのです。

 

ところがです。神は驚くべきことにそのような世の暗闇に御子をお与えになったいうのです。神は敵対する敵の只中に、正に暗闇の真只中に御独り子を送り込んで来られた。それがクリスマスの出来事なのです。

 

人間同士の関係であったなら、自分を無視し自分を拒んでいると思える人、自分に敵対している人に対して、心尽くしの贈物などすることは考えられないことです。却って、自分もその人を無視して、敵閧係を保ったままにするのではないでしょうか。贈物をするような価値のある相手ではないからです。

 

しかし、神は御子イエス・キリストを、敵であるこの世に贈られたのであります。

 

神は何故そこまでなさったというのでしょうか?神は『その独り子をお与えになった程にこの世を愛された。』つまり、神は無視し敵対する世を愛されたからだというのです。神がそこまでなさったのは、ご自分を拒絶するこの世を愛するが故だ。その愛の証として御子を送ろうと決起されたのだといわれるのです。

 

神様はどんなことがあろうとも、私たち人間を永遠に愛するのだ、と愛の決意を表明されたのです。それがクリスマスの出来事なのです。

 

人間同士の愛はどうでしょうか?相手に愛するに価値が在るかどうか、それが判断の基準になるのです。そこには、当然愛する相手に見返りを期待するのです。けれどもクリスマスに表わされた神様の愛は『アガベ一』という愛で、 相手に価値を求めない愛、お返しを期待しない無償の愛です。無償(只のこと)の愛といっても、どうでもいいような安っぽい愛ではありません。無償の愛といっても、それを戴くならば、価値のない私たちであっても、高い価値のある者になることが出来るのです。

 

ですから神様が私たちに求められる事は唯、その無償の愛の証であるイエス・キリストを、感謝と喜びをもって受容れることだけが求められるのであります。ヨハネ福音書3

16神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者がー人も滅びないで、永遠の命を得るためである。17神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなぐ御子によって世が救われるためである。

 

御子イエス・キリストが世の暗闇に送り込まれたのは、イエス様が暗闇の故に悲惨にみ苦しむ私たちの仲間となり、私たちの苦しみみを背負い、私たちに永遠の命を与えて下さるために贈られたことを意味しているのです。

 

現代社会が、あらゆる面で暗闇の中に行き詰まっている原因も、天地万物の創造者なる神を忘れ、神を無視し、神を拒絶しながら気付かないで唯ひたすら走っているからなのです。ですから、まず全ての人が、悲惨の只中で 自分自身の罪を自し、神を見上げることが必要なのです。

 

そしてこのクリスマスを通して、神様の愛の決意表明に気付いて頂きたいのです。神の無償の愛のしるしであるイエス・キリストを心に迎え入れる備えのときとして欲しいと思います。

 

人となられた神の独り子キリストこそが、全ての人と、現代社会が真に希望を託すことが出来る唯一つしかない光だからです。何故なら、神様は敵であった私たちを、永遠に愛して下さる証として御子イエス様を世にお与え下さいました。この良き知らせこそ、本日記念致しますクリスマスの出来事です。神様の無償の愛に感謝をお祈りしましょう。

 

《祈り》西谷伝道所の愛する兄弟姉妹と共にクリスマス記念礼拝を捧げることが出来ました事を感謝致します。尊い独り子イエス・キリストをお与えになった程に、あなたに背いたこの世を愛して下さいました父なる神様、御名を褒め称えます。御子イエス様のご降誕を記念しますこの時、この世があなたとあなたの御心を忘れ、その誤った歩みの故に、多くの悲惨を招き、み苦しみを抱えつつクリスマスを迎えています。けれどもあなたは、私たちの思いを超えて、そのような忘恩の罪をもって敵対した世を尚も愛すること止めず、独り子をお与え下さいました。この計り知れない神様の無償の愛を,私達を初め全ての人々がクリスマスを通して改めて知る機会となり、救い主イエス様を心を開いて迎えることが出来るように祈ります。東北の被災者の方々、今年天災に遭って家族や家を失い悲しみと不安の中にある人々の上に豊かな慰めを祈ります。

貴き主イエス・キリストの御名によりて祈り願います。アーメン。

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2013年12月22日 | カテゴリー: ヨハネによる福音書 , 新約聖書

2013年12月15日(日)説教「王であり、僕(しもべ)でもあるイエス・キリスト」姜 世媛先生(WEC派遣宣教師)

 

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20131215日説教「王であり、僕(しもべ)でもあるイエス・キリスト」姜世媛先生(WEC派遣宣教師神戸改革派神学校特別聴講生)

 

聖書:新約聖書マルコによる福音書1045 人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためである」。                             

 

【僕(しもべ)である王】

皆さん、こんにちは。今日は、主イエス・キリストのご生涯を一緒に考えてみたいと思います。

 

私は韓国で「十字架への道」というアメリカからきたセミナーに出たことがあります。

そこで私が1番印象に残った事はServant King「僕である王様」ということです。

 

イエス様は王であるということに依存ありませんでしたが、イエス様が僕であるという事は私にとって驚きで貴重な機会になりました。

日本に来て、イエス様のことを王でもあられ、僕でもあるとのまとめを皆様とともに分かち合いたいと思いました。

 

私は中学三年のとき、クリスチャンになって高校生、大学生とキャンパス クルセードというところで活動しました。

キャンパスクルセードは世界宣教をする団体で、高校一年生の時、新入生歓迎会に行きました。その時の牧師先生のメッセージを今も覚えています。

 

【真の人生の目的は何か】

その内容は人間はどこか来てどこに行くのか、真の人生の目的は何か。どのような目的のために人生はあるのかと言うことでした。

その時まで私は深刻に考えたことがありませんでした。

高校一年生の私にとっては、正直な内容だったのです。神様からこの世に遣わされた人間は動物と違って人生に目的を持っているということでした。

 

愛する兄弟姉妹の皆さん。皆さんはご自分の人生の目的が何であるか考えたことがありますか。

ある方はその人生の目的を見つけて、そのために努力しておられるでしょう。

ある方はそれがなんであるかわからないで悩んでおられるかもしれません。

ある方はそれを一度も考えたことがないかもしれません。

私たちの人生の目的はなんでしょうか。考えるだけでも難しい、そのためにそれを達成するのは本当に難しい。

 

【イエス・キリストは王】

今日、皆さんにある方を紹介いたしましょう。

その方はご自分の人生の目的が何であるかご存知の上、その道を歩まれたのです。この方はイエス・キリストです。

今日のメッセージを通してイエス・キリストがこの世にこられた目的は何であるか、またイエス・キリストはどんなお方であるかを一緒に考えていきたいと思います。

 

一番目はイエス・キリストは王であるということです。

イエス・キリストは神の独り子として、この世に来られたお方です。

 

ヨハネによる福音書316 節を一緒に読みましょう。

神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。

 

神様はこの世のすべて作られたお方です。神様は御言葉でこの世作られました。神様がこの世を創られたときイエス・キリストも神様と一緒に居られました。

 

ヨハネによる福音書1章~3節を一緒に読みましょう、

1 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。

2 この言は、初めに神と共にあった。3 万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。

 

私たちが読んだ聖書で言葉と書かれているお方はイエス・キリストです。

イエス・キリストははじめから存在されたお方です。神様と一緒に居られました。

またその方こそ神であったと聖書は語っています。

 

イエス様は神様と一緒にこの世を創られました。

 

マタイによる福音書2818 を一緒に読みましょう、

イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。

 

イエス・キリストは、「わたしは天と地の一切の権能を授かっている」と言われています。イエス・キリストは天地を創られましたが、また創られた全てを治めるお方です。

 

イエス様は全てを治める王様であられます。

 

フィリピの信徒への手紙29 節~11節を一緒に読みましょう、

このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。

10 こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、

11 すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。

 

神様はイエス・キリストにあらゆる名に勝る名をお与えになった。それはどういった意味でしょうか。

 

天と地の全てのものがイエス・キリストは主であると告白するということです。

イエス様はすべてを治める王であられるということです。

 

【世に降られた御子イエス・キリスト】

では王さまでおられるイエス・キリストはこの世に来られて何をなさいましたか。

この世の国の王様になって治められましたか。

 

それは次のことを通して考えてみましょう。

二番目はイエス・キリストが僕であるということです。

 

【馬小屋で生まれた神の御子】

皆さんクリスマスのお話を覚えておりますか。始めてイエスさまに会いに来た東方の博士達はどこに行きましたか。

彼らが王様にふさわしい場所だと思って行ったのはヘロデ王の宮殿でした。しかしイエス・キリストはエルサレムの宮殿ではなくベツレヘムの小さい馬小屋でお生まれになりました。

 

皆さんはどこで生まれましたか。昔は家で生まれる方が多かったですが最近は病院で生まれる方が多いです。

皆さんは大体病院でお生まれになった方が多いいかもしれませんが、ルカによる福音書2章7節にイエス様のおうまれがこう書かれています。一緒に読みましょう、

ルカによる福音書

2:7 初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。

 

愛する兄弟姉妹。イエス様のお誕生はイエス・キリストの謙遜を顕しています。

皆さん。その時の光景を考えてみましょう。王様であられるイエス様が宮殿でもなく、家の中でもない馬小屋でお生まれになりました。イエス様のお父さん、お母さんがエルサレムに来たとき泊めてもらう場所がありませんでした。

愛する兄弟、姉妹。飼い葉桶に寝かされたイエス様は主の謙遜を示しています。

皆さん。この世の創り主であるイエス様が本当に小さくて人間の姿として来てくださいました。その上、人の住むところでなく馬小屋に生まれたまいました。

 

これは何ということでしょうか。

 

【仕える主イエス】

フィリピの信徒への手紙2章5~8節を一緒に読みましょう、

5 互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです。6 キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、7 かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、8 へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。

 

兄弟姉妹。イエス様は神の身分でありながら僕の身分になり人間と同じようになられました。今日私たちが読んだ聖書には書かれています。イエス様は人に尊敬されるお方なのですが、尊敬されるよりも人に仕えました。

人間の基本的欲望の中に偉くなりたいということがあります。イエス様の時代でも同じでした。

ルカによる福音書22章24~26節を一緒に読みましょう、

24 また、使徒たちの間に、自分たちのうちでだれがいちばん偉いだろうか、という議論も起こった。25 そこで、イエスは言われた。「異邦人の間では、王が民を支配し、民の上に権力を振るう者が守護者と呼ばれている。26 しかし、あなたがたはそれではいけない。あなたがたの中でいちばん偉い人は、いちばん若い者のようになり、上に立つ人は、仕える者のようになりなさい。

 

【だれが一番偉いか】

イエス・キリストが十字架にかけられる前の最後の晩餐の時にその晩イエス弟子達はイエス様と最後の食事をしながらイエス様と時間を共に過ごしました。その時こそ本当に貴重な時間ではなかったでしょうか。それなのにイエス様の弟子達はどんなことを話しましたか。彼らの中で誰が偉いかと言う議論が起こりました。イエス様は最後のご自分の任務のためにとても辛い、いちばんつらい任務のために準備をしておられますのに、弟子達の中では誰が一番偉いかと言う議論がありました。

皆さんは聖書の中の弟子達の姿を見てどう思いますか。本当に愚かなことだと思いませんか。イエス様はご自分の任務のために本当に辛い時間を過ごしておられますけど、弟子たちは誰が一番偉いかを議論していました。イエス様は彼らにこう訴えられました。あなた方の中で一番偉いと思うものは一番若い者のようになり、上に立つ人は仕える者になりなさい。

 

【お互いに仕え合う】

夫と私が属しているWECに導かれた理由の一つはWECが国際的なチーム宣教の団体だということでした。

 

私は自分が韓国人であることを誇りに思っています。韓国の伝統の1つは年上の人を尊敬して、目上の人に従うことです。それは個人的にとても素敵だと思いますが、時々否定的に表すことがあります。人に会うときありのままの姿でなく、その人の年齢、学歴、社会的な地位、経済力、家柄また体験などで先入観を持って、相手を判断するという根拠です。もちろんこれらがある程度人間にとって役立ちます。しかしこれが人の本来の姿を隠します。

例えばある団体のリーダーを選ぶとき、その人の実力や人格より、その人がその、団体に入って何年経つかそれが1番重要視されます。

 

夫と私は韓国の上下関係の中にいましたが、もっと平等な人間関係を求めてこのWECに入りました。

ところが私たちは平等な人間関係を求めてWECに入ったはずなのに、私たち自身が尊敬されたいという気持ちがあるということに気付きました。

私たちはまだまだ信仰も人格も成長が必要です。

 

ヨハネによる福音書131217節を一緒に読みましょう、

12 さて、イエスは、弟子たちの足を洗ってしまうと、上着を着て、再び席に着いて言われた。「わたしがあなたがたにしたことが分かるか。13 あなたがたは、わたしを『先生』とか『主』とか呼ぶ。そのように言うのは正しい。わたしはそうである。14 ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。15 わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。

16 はっきり言っておく。僕は主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさりはしない。17 このことが分かり、そのとおりに実行するなら、幸いである。

 

私たちもイエス様を見習ってお互いに相手の足を洗い合いましょう。これが神様が私たちに願っておられることではないでしょうか。

 

【主イエスさまを見習う】

最後の三番目は私たちはイエス様を見習って王にもなり僕にもなりましょう。

今までの御言葉を通してイエス様は王でもあり、僕でもあることを考えてみました。

イエス・キリストは統べ治める王様でありながら同時にへりくだって人々に仕える見本を見せてくださいました。

イエス・キリストを信じて告白する皆は神様の子どもになるとヨハネによる福音書112書かれています。一緒に読みましょう、

ヨハネによる福音書112 しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。

子どもになるということはイエス・キリストと共に神様の跡継ぎになるということです。

 

【神の相続人】

ローマの信徒への手紙817を一緒によみましょう、

 もし子供であれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです。

 

イエス・キリストを信じる私たちは神様の子どもになりました。またイエス様と共に神様の相続人になりました。すなわち私たちの身分が変わったということです。

王様であられる神様の相続人になったということは、つまり王様の権力を持ったということです。

 

ペトロの手紙一29 しかし、あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。それは、あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです。

 

私たちが神様の全てを受け継ぐ相続人で王様の権威を持っています。

私がクリスチャンになった15歳までは私がどれだけ神様に愛されているか知りませんでした。

家庭はそれほど裕福ではなかったからです。でもクリスチャンになって世界中の王様である神様がわたしのお父様になってくださいました。そのとき私は王様である神様の子どもである。だから私がお姫さまになりました。

当時よく教会の中で歌った歌の中で「私は姫様です。私は王子様です」という歌を今も覚えています。日本語なら「私は神様のひーひーひーひー姫様です」。「私はおーおーおーおー王子様です」という感じで韓国の教会で歌いました。

 

それから私は王様である。神様の娘であって王様の権威を持っていることを信じるようになりました。

それは私の自己形成に肯定的な影響を与えました。

でも私が下僕でもあることにはあまり気がついていませんでした。私は教会で奉仕は熱心にしましたが、深く実感していませんでした。

 

私は神学校に入るまで皆さんと同じように教会で熱心に奉仕をしました。日曜学校のスタッフとして、聖歌隊のメンバーとして、讃美のリーダーとして、青年会のリーダーとして奉仕しました。時に教会で掃除もしました。

 

【人に仕えるために宣教師として】

神学校を卒業して、夫は牧師として私は伝道師として働くことになりました。

面白いことに韓国の教会では奉仕に対して偏見があるように思いました。奉仕を霊的な奉仕と非霊的な奉仕に分けます。説教、祈祷、聖書を教えることは霊的で重要で、掃除、皿洗い洗濯などは、霊的奉仕に劣る余り重要でない仕事と考えることです。

 

それで自分が神学校に入るまでは教会で掃除をしたりしたんですけれど、もし私が、夫が教会で掃除をしたら、「先生。それ止めてください。先生はもっと大事なことがあるんじゃないですか。説教の準備をしてください」という感じで話されます。それで教会で掃除や皿洗いから離れて偉そうな格好で歩き回るという感じだったのです。

 

それで私はWECの宣教師になったとき神様からいろいろ教えていただきました。

神様の愛で人に仕えること、奉仕に重要な奉仕とか、そうでない奉仕の別がないと分かりました。

 

ある日私たちはアメリカで食事をしに行ったら一番偉い方が、改革派神学校なら理事長に当たるような方が皿洗いをされるのを見て、私たちがびっくりしてやめてくださいと言いたかったほどだったのです。70代の方で、ちょっと身体の不自由な右半分麻痺の方で手が震えている方でした。その先生が皿洗いをされているのを見て、私は遠慮して欲しいと思いました。でも思いました。牧師でも自分できることは自分でやるということです。例えば牧師という、30年以上宣教師として働いた先生も、掃除をされるのを見て私たちの考え方がちょっと違うのだなあということが分かりました。

 

私たちのWECという団体はみんながそういう働きだったので、日本に来て滋賀で働いて、今は関西神学校の校長をされている中沢先生がおられて、その先生の下で協力宣教師として働いたのですが、その先生はいつも30分まえに教会に来られて準備をされたり、お茶を入れたりしてくださって「とても恐れ入ります」といって遠慮したいなと思いました。

西谷にきたらコーヒーを入れてくださったり、皆がお互いに仕え合う姿をみて考えて見ました。

マルコによる福音書1045 節には「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」と書かれています。

 

皆さん。イエス様は王様であられる尊い御方なのですが、この世にこられたのは人に仕えるためだと書かれています。イエス様のご奉仕はただの口先だけの言葉でなくて本当に多くの人の贖いの代価としてご自分の命を捧げられました。皆さん。私たちは神様の全てを与えられている王様です。また同時に私たちは神様の愛する人に仕える下僕です。イエス・キリストを見習って神様が私たちに与えてくださった人々に仕えましょう。これが神様が私たちに望んでおられることではないでしょうか。

 

お祈りしましょう。

愛する天のお父様。あなたの愛と恵みを感謝します。私たちをあなたの子供として選び受け入れてくださってありがとうございます。あなたから与えられた愛をもって、その愛を待っている方々を愛することができるように助けてください。王様であられるイエス・キリストが僕(しもべ)となって大勢の人々に仕えられました。私たちも神様の権威を戴いたものとして堂々とこの世の人々、また周りの人々に謙遜に仕えるように祝福してください。

王様でもあり、僕でもあられる主イエス・キリストの尊い御名によってお祈りいたします。アーメン。         


2013年12月15日 | カテゴリー: マルコによる福音書 , 新約聖書

2013年12月8日説教「落ち着いて静かにしていられるために」赤石純也牧師

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↑クリックで音声で説教が聞けます。

マタイによる福音書1章18~23節

イザヤ書7章1~14節
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2,013128日.説教「落ち着いて静かにしていられるために」伊丹教会赤石純也牧師 


新約聖書:マタイによる福音書118 イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。

19 夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。

20 このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。21 マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」

22 このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。

23 「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。                              

 

説教(天野千尋子姉、内田いさ姉受洗記念説教)  

【処女が妊って男の子を産む、その名はインマヌエル】

今日お読みしたところはよく知られているクリスマスの箇所ですけれども、今日は思い切ってこの23節のみ言葉のみに集中したいと思います。

23 「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。                              

 

つまりどうしてこのクリスマスにキリストがお生まれになったか。何故ここに23節のみ言葉が引用されているかと言うことですね。「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」

 

どうして旧約聖書のこの言葉を新約聖書は引用したかと言うことの意味を今日はハッキリさせたいと思います。ここにクリスマスの意味が非常に明確な言葉で書かれているからです。

 

【イザヤの預言】

そこで今日はこの新約聖書のページを離れて元々の旧約聖書の箇所であるイザヤ書7章に移りたいと思います。7章の1節ですから14節をお読みしましょう。

イザヤ書71 ユダの王ウジヤの孫であり、ヨタムの子であるアハズの治世のことである。アラムの王レツィンとレマルヤの子、イスラエルの王ペカが、エルサレムを攻めるため上って来たが、攻撃を仕掛けることはできなかった。

2 しかし、アラムがエフライムと同盟したという知らせは、ダビデの家に伝えられ、王の心も民の心も、森の木々が風に揺れ動くように動揺した。

3 主はイザヤに言われた。「あなたは息子のシェアル・ヤシュブと共に出て行って、布さらしの野に至る大通りに沿う、上貯水池からの水路の外れでアハズに会い、彼に言いなさい。落ち着いて、静かにしていなさい。恐れることはない。アラムを率いるレツィンとレマルヤの子が激しても、この二つの燃え残ってくすぶる切り株のゆえに心を弱くしてはならない。

5 アラムがエフライムとレマルヤの子を語らって、あなたに対して災いを謀り、6 『ユダに攻め上って脅かし、我々に従わせ、タベアルの子をそこに王として即位させよう』と言っているが、7 主なる神はこう言われる。それは実現せず、成就しない。

8 アラムの頭はダマスコ、ダマスコの頭はレツィン。(六十五年たてばエフライムの民は消滅する)エフライムの頭はサマリア/サマリアの頭はレマルヤの子。信じなければ、あなたがたは確かにされない。」

10 主は更にアハズに向かって言われた。11 「主なるあなたの神に、しるしを求めよ。深く陰府の方に、あるいは高く天の方に。」

12 しかし、アハズは言った。「わたしは求めない。主を試すようなことはしない。」

13 イザヤは言った。「ダビデの家よ聞け。あなたたちは人間に/もどかしい思いをさせるだけでは足りず/わたしの神にも、もどかしい思いをさせるのか。

14 それゆえ、わたしの主が御自ら/あなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み/その名をインマヌエルと呼ぶ。

 

今日はこの箇所から説教をしましょう。一読してもなんだか分かりづらいですね。歴史上の人の名前だとか国の名前が出てまいります。

今日は思い切って過去の歴史の国の名前や王様の名前を考えずに、込められているメッセージだけを取り出したいと思います。ここに込められている意味は何なのか、そのことだけをはっきりさせたいと思います。

 

【木々が風にゆれ動くように動揺した】

まずは歴史の事件は置いておいて今どういう状況なのかを見ていきたいと思います。7章の2節あたりをご覧ください。どこかの国とどっかの国が同盟し、そういう報がユダの王に届きました。その時にこう書いてあります、「王の心も民の心も森の木々が風にゆれ動くように動揺した」。

 

聖書の中でも珍しい見事な比喩、聖書の中にこんな文章があるんですね。森の木々が風に揺らぐように動揺した。いま民の心も王の心も動揺している時だと思います。風に揺れ動くように私たちの心が揺れ動くときを想像して頂きたいと思います。その時に何が言われるかということですね。

 

【深く陰府に、あるいは高く天に】

動揺している王様に主は言われた。何を言われたか。4「主なるあなたの神に印を求めよ。深く陰府のほうに、あるいは高く、天のほうに」、どっちなのでしょうか。高いんでしょうか、深いんでしょうか、どちらにしても今のあなたの立っている場所でなく、別の次元で神の答えを求めよ。神の印を求めてみよと言われます。

 

10節の頭で主はさらにアハズ王に向かって言われた。動揺しているこの王様に向かって預言者イザヤを通して言われたのです。私たちで言えば説教を通して神は私たちに何かを問われる。その時に今なんと言われたかというと「神に印を求めてみよ。高いか、深いか、いずれにしても今のあなたの立ち位置でなく、別の次元から神がお答えになるから、その神に求めてみよ」と言われています。

動揺している民たち、王たちという事は、今あなたの問題や悩みがあるでしょう。あなたの身の回りに具体的な問題があるでしょう。だからあなたの心は森の木々が風に揺れ動くように動揺する。その時に説教を聞いて別の次元で答えてくださる神に求めてみよ、いうことが言われています。

私たちがそれぞれの生活、事情、身の回りの事柄がありますが、そういう中で心が揺れ動く、私たちは自分の立ち位置であれこれ悩むしかありませんけれども、今言われる事は神に求めてみよ。その時に今のあなたが立っているその立ち位置から違った次元から神の答えが与えられる。それは説教の中で与えられる。こんな状況なんですね。

 

【あなたは神にも、もどかしい思いをさせる】

それに対して王様はなんと言うでしょうか。12節をご覧下さい。「私は求めない。主を試すようなことはしない」。何かもっともらしいですね。神様はそんな試してみてもいいような方ではない、こんなもっともらしいことを言っている。今自分の心はゆれ動いているけれども、こんなささいな問題で神様を試すなんて、そんな事を私は求めない、そんな風にずいぶん強がっている感じですね。

それに対してイザヤと言う預言者の説教の最後の言葉、結論が13節です。「よく聞け、あなたは神にも、もどかしい思いをさせている」こういうのですね、今のあなたの現実の問題がある、その中であなたは強がって神様に求めたりしない、そのような強がりは実は神にもどかしい思いをさせているのだ。聖書はこう言うのですね。

 

どうやら神様は私たち一人ひとりがいろんな出来事の中で、心が揺れ動く時に、もう助けようと思って待ち構えていてくださる方なんでしょうね。

 

【信仰以前の自分】

それなのに私たちは何か強がっている。尤もらしいことを言う。心は本当に揺れ動いているのに神様には頼られない。こんなふうに思っているようですね。私にも覚えがありますけれども私たちは誰しも信仰というものに入る前は皆こうだったんじゃないでしょうか。

 

神様に求めるなんて私は私で頑張る。身の回りにいろんな問題がある、悩みがあるけれどもそんな風に言って私たちは誰しも信仰より前の時代と言うものに覚えがあるわけです。

 

【不確かな自分】

そのことは実は神様には、もどかしいことだと言われているんですね。9節の最後をみてください。「信じなければあなた方は確かにされない」

今私たちにはこの言葉がよく分かると思います。かって信じていなかった自分が、どれほど確かでなかったか。

 

それに比べて今は神様に求め、身の回りのどんな出来事もその解決を神様に求める、神様を信じていいんだ。そういう信仰生活に入っている時に、やっぱり私たちは誰しも、確かさというものを感じることができる。それは自分には無いはずの確かさなんですね。信じなければ私たちは確かにされないのです。今日、天野さんとイサさんが信じるという告白を神と教会の前にされました。

 

今日からお二人は確かにされたと言ってよいのであります。身の回りの色々なことに心を揺れ動かすような出来事がありますが神に頼ることができる、信じて行くことができる。信じなければあれこれ思い悩むだけではないですか。

だけど今日からお二人は信じていい、他には無い確かな生活をこれから立てて行くことと思います。

 

【信仰生活の長い者も】

皆さんの多くの方々はずっと信仰生活をされています。けれども私たち長く信仰生活を送ってきた者たちでもやっぱり心が揺れ動くという事は毎日の生活の中でも出てきます。

しかも信仰を与えられた後も私たちの内にはどこか強がっている信仰があるということがありうると思います。

 

あるいは先の王様のように尤もらしいことを言うだけで本当は心は様々に揺れ動いている。「神様を試すようなことをしない」こんな風に尤もらしい事を言っている態度では、やっぱり神様は遠くにいることになってしまう。

そして神様はそんな風に強がっている私たちのことをもどかしく思っておられるかもしれません。

 

【様々に揺れ動くわたしたち】

具体的な毎日の現実の中で私たちの心は当然様々に揺れ動きます。そういう全く身近な悩みの中でそのまま私たちが神様に向かわないなら、それは神様にはもどかしいことなんだ。

そういうとき私たちは実は「確かにされていないんだ」ということが言えそうです。

わが身を振り返ってみると確かにそうだと言えそうです。だとすればすでに何10年も前に洗礼を受けた私たちも、そして今日洗礼を受けられたお二人も、なお現実の生活の中で様々なことがあるわけです。心が動揺するわけですね。

天野さんもイサさんも、私たちも含めて私たちを確かで無くするいろんなことが、やっぱり起こってくる。いろんな試練というものがあるでしょう。人には言えない、人には共有できない自分の問題というものがあるでしょう。

あるいは身内の死ということだって起こりますね、最終的には自分の死と言うものが近づいてきますね。そんな時に私たちの心が揺れ動いて当然ではないですか。

 

【主は共におられる】

私たちは確かな心でいられなくなるのが当然ではないですか。そういう時、実は神様はいつも待っておられるのですね。

信じなければあなた方は確かにされない。心の動揺を抱えたまま神様に求めるという事を私たちはいつもやり直していいんですね。

そしてこのクリスマスのような機会にこそ私たちはもう一度自分の問題というものをはっきり見据えてこの現実の中から神様に頼っているということを意識してきてみてよさそうですね。

その時、違う次元から自分が確かにされると言う事がもう一度起こる。こう言うんじゃないですか。14節。

 

イザヤ書714 それゆえ、わたしの主が御自ら/あなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み/その名をインマヌエルと呼ぶ。」すなわちイエス・キリストです。

 

先程イサさんと天野さんはこのイエス・キリストを信じますと誓約しました。この方のみを受け入れると誓約された。この誓約をもってお二人は確かにされた。イエス・キリストのことを「その名をインマヌエルと呼ぶ」と言ってますね。最初にお読みしたマタイの福音書がインマヌエルという意味を教えてくれましたね、「神は我々と共にいる」。

 

キリストによって神は我々と共におられる。これが「乙女が身ごもって男の子をクリスマスに産んだ」という意味です。

キリストを受け入れる、キリストを信じるという事は神を味方につけた、神が我々と共におられるということで、神様は遠くにおられるのではなく、遥か上に居られて、遠い空の下でその方を私たちはただ拝むんだ、そういうことでは無いのです。

神は我々と共におられる方だ。なんだかもっともらしいことを言って遠ざけてしまうお方では無いのです。もっともらしい信仰の言葉なんか言わなくていいんじゃないですか。

そんな風に神様を遠くに敬って、遠くから拝んでいるというのではなく、そんな信仰は私たちの信仰には無いんですね、神様はそんな神様でなくて、揺れ動くあなたの隣にいてくださる、来てくださっている神様です。それが「インマヌエル」、「我等と共におられる神」です。

 

【主はクリスマスに来たりたもう】

イエス・キリストを味方につけたのですから、あなたの具体的な問題の解決を求めていいのです。求めることができるのです。そのためのクリスマスだ。

そのためにこそ、いま現に悩んで心を迷わしているあなたのすぐ隣にまで降りて来てくださった。それがクリスマスなのだ。

そして今新たに思いもよらないような解決をいわば別次元からあなたに与えてくださるために主はクリスマスに生まれてくださった。

確かでなかったあなたに確かなあなたにされるためにクリスマスがある。

 

いかがでしょうか。今天野さんとイサさんはそういう確かさに入った。私たちはともどもにもう一度この確かさ帰って行く事が出来る、それがクリスマスだということが言えそうですね。

 

【落ち着いて静かにしていられるために】

最後にもう一つだけ4節の言葉を見ていただきたいと思います。

「落ち着いて静かにしてなさい」。今こんなふうにいわれてるこの人は落ち着いていることのできない状況にあった。静かにしていることができない状況にあった。何かその試練に襲われようとしていた時です。

どうしてその人は落ち着いてることができなかったでしょうか。静かにしていることができなかったでしょうか。それはさきほどの12節の言葉に現れています。

彼は言った「私は求めないし、試すようなことはしない」。こんなふうに強がっているから、神様に頼っていないから聖書の事柄が知識に終わっているからです。

だったら私たちのそのような信仰は神様にはもどかしいことですね。

私たちが聖書の解き明かしを礼拝ごとに聞いても、その聖書の言葉がただの知識に終わってしまって、そんなことを置いていて自分ひとりでそんなことに悩み強がっているなら、それは神様にはもどかしいことです。私たちはそんな風に自分で強がって神様に頼るるということをしないなら、私たちは落ち着いてることができません。悩みばかりのせわしないばかりの人生ではないですか。

 

次から次に問題が起こってくるではないですか。落ち着いていることなんかできませんよ。

私たちは本当は落ち着くことができる。落ち着いていいんですね。静かにしていていいんですね。あたふたしなくていい。

そういう確かさを、落ち着いていられる生活を、これが私たちに与えられた最大の恵みでないですか。そういう生活の中に今日天野さんとイサさんが加わってくれました。

これは全くクリスマスのシーズンにふさわしい。私はともどもに今年のクリスマスを喜ぶことができます。

繰り返します。クリスマスは私たちが強がることをやめて、そして真実に神様に頼るという事を、それによって「落ち着いて静かにしていることができる」ための祝いです。

せわしなく自分の悩みと戦い体調と戦い、また様々の試練と戦うだけであったら私たちの人生は忙しさと虚しさだけしか残らない。それでは生きた心地がしないからクリスマスが今年も来たのです。クリスマスにこそ私たちはもう一度本来の私たちの落ち着きを取り戻すことができる。

 

そのために「見よ。乙女が身ごもって男の子を産む」だのですね。

あっという間に2013年も終わりです。振り返ってみると今年も私たちにはそれぞれ揺れ動くことがあったと思います。

だからこそ今年もクリスマスがきた。私たちがもう一度「落ち着いて静かにして確かな自分というものを取り戻す」。そのために今年もクリスマスが巡ってきました。

 

【クリスマスに与えられたイエス・キリストとともに歩む】

確かに私たちはこのクリスマスにせっかく与えられたイエス・キリストと共に生きるものです。

この方に真実頼る私たち、それが落ち着いて静かにしていられる私たちなのですね。

これからだって来年も様々なことが起こると思います。

今年中にも色々な事が起こってくる。しかしその中にあって私たちは落ち着いて静かにしておれる。ゆったりとした心で静かにしていることができる。

不安な病があるでしょう。あるいはだんだん年齢を重ねて身内の死ということを味わい、また自分の死というものが思いよぎってきます。そんな時に私たちの強がりは何にもなりません。

強がっている限り私たちの心は森の木々が風に揺れ動くように動揺している。皆そうです。だからそれが「もどかしい」から神様はクリスマスを約束してくださった。その時を今私たちは過ごしているんですね。

 

皆さんの中にはまだ洗礼を受けておられない方もおられるでしょう。どうぞこの確かな生活にその方々にも入っていただきたいと思います。

安心して静かに落ち着いていられる、そのゆったりとした命の味わいという物を本当に味わっていただきたいと思います。どうぞ自分のことを例外だと思わないで、洗礼を受けていただきたい。

 

【光と確かな道を】

やはり光の道というものはあるのです。そしてこのクリスマスに私たちの光の道が確かに示されているのですね。

試練が、身内を襲う様々な事柄に、自分も向かっていかなければならない死という恐ろしさ、そんな物を前にして私たちは怖じ惑うばかり、心配ばかりです。

だけどここに別の次元から神様は本当の確かさというものをお与え下さった。この道を本当に見つめたいと思いますね。

そして私たちは皆、この道に入ることができるという、この道を共に安心して歩んでいくことができる。どうぞ皆さんお一人ももれなくこの道を、ともに歩みたいと思います。

 

その光の道を今日、天野さん、イサさんは歩きはじめられました。私たちもともどもに歩みを続けたいと思います。

 

【祈り】

お祈りしましょう。クリスマスは私たち一人一人にとって本当に喜ばしい命の祝祭です。

本当に安息できる生き方を、神様が今日、天野さんとイサさんお二人に与えてくださったことを心から感謝いたします。

これからも担っていくべき課題がお二人にはあると思いますが、私たちにも皆ありますけれども、どうぞそのような時に私たちは一人一人静かに落ち着いて神様に助けられると言うことを味わうことができるように、神様に助けを求めればよいのだということを、私たちはそれぞれの現実の中で味わうことができるように、クリスマスに、そしてこれからの私たちの歩みを祝福してください。主イエスの名によってお祈りします。
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2013年12月08日 | カテゴリー: イザヤ書 , 旧約聖書

2013年12月1日、説教「私の福音」崔 宰鉉牧師(WEC派遣宣教師、神戸改革派神学校特別研究生)

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2013121日、説教「私の福音」崔 宰鉉牧師(WEC派遣宣教師、神戸改革派神学校特別研究生)

 

新約聖書:ローマの信徒への手紙1625 神は、わたしの福音すなわちイエス・キリストについての宣教によって、あなたがたを強めることがおできになります。この福音は、世々にわたって隠されていた、秘められた計画を啓示するものです。

26 その計画は今や現されて、永遠の神の命令のままに、預言者たちの書き物を通して、信仰による従順に導くため、すべての異邦人に知られるようになりました。

27 この知恵ある唯一の神に、イエス・キリストを通して栄光が世々限りなくありますように、アーメン。

 

【教会の財産は福音】

皆さん。教会の財産の中で何が1番大切ですか。建物ですか。設備でしょうか。それとも会員数や出席者の人数でしょうか。教会の建物や設備がいくら素晴らしくても、人数が多くても、教会に福音がなければその教会は教会とは思いません。イエス・キリストの教会は福音というものの上に築かれています。

それが教会を教会らしくする1番大切なものだと思います。今福音を大切にしている人々が集まっている場所が教会だと思います。

 

私は10年前,短期奉仕者として日本に来たことがあります。

その時一つびっくりさせられたことがあります。ある日本の牧師先生から紹介されてある教会に行ったことがあります。

素晴らしい教会だと思いました。このような素晴らしい教会が日本にもあると私は本当に驚きました。それもホテルに教会があるということは。ホテルの牧師先生に紹介されその先生から言われた事は私には考えられないことでした。その牧師先生はただ結婚式のための牧師でした。教会もまた結婚式だけのための教会だったからです。その教会は私には教会ではありません。その牧師も牧師と言えませんでした。なぜなら福音を述べ伝える場所ではなく、福音を述べ伝える牧師でないからです。

 

【福音の栄光】

それでは福音とはいったいどういうものでしょうか。

福音とは何かを、パウロはローマの信徒の手紙全体を通して、教会を教会らしくする福音がどういうものかを説明しています。

パウロは1章から11章にかけて福音の真理と栄光について語っています。そして12章からは福音のためにクリスチャンはどう生きるべきかを話しています。今日私たちが読んだ16章25節から27節でパウロは福音の栄光が何であるかをもう一度語っています。

 

パウロは25節で私の福音と言っています。今日私はパウロが語っている「私の福音」とは一体どういうことであるか皆さんと一緒に考えたいと思います。

 

パウロが語っている「私の福音」すなわちパウロの福音はどういうものだったでしょうか。

 

【パウロの福音はイエス・キリスト】

1つ目、パウロの福音はイエス・キリストです。25節から26節を一緒に読みたいと思います。

ローマの信徒への手紙1625 神は、わたしの福音すなわちイエス・キリストについての宣教によって、あなたがたを強めることがおできになります。この福音は、世々にわたって隠されていた、秘められた計画を啓示するものです。

26 その計画は今や現されて、永遠の神の命令のままに、預言者たちの書き物を通して、信仰による従順に導くため、すべての異邦人に知られるようになりました。

 

パウロは「私の福音」すなわちイエス・キリストと25節で話していますが、パウロにとって、福音はイエス・キリストでした。パウロはイエス・キリストが救い主である事は福音だと語っています。

パウロはローマの信徒への手紙1章から救い主であるイエス・キリストがどういうお方であるかを詳しく語っています。

皆さんと一緒にパウロが語っている福音、イエス・キリストはどういうお方であるかをみましょう。ローマの信徒への手紙11節を共に読みましょう。

 

ローマの信徒への手紙11 キリスト・イエスの僕、神の福音のために選び出され、召されて使徒となったパウロから、――

 

ここでパウロが話していることはなんでしょうか。神の福音のために選び出されたという言い方で自分がどうして使徒になったかを語っています。

 

続いて2節3節前半を共に読みたいと思います。

ローマの信徒への手紙12 この福音は、神が既に聖書の中で預言者を通して約束されたもので、3 御子に関するものです。

 

ここでパウロが語っている福音とはなんでしょうか。パウロの福音は預言者たちが述べ伝えた神の御子イエス・キリストに関することだと言っています。

 

【イエス・キリストは真の人間であり真の神である】

即ちパウロの福音はイエス・キリストだと言うことです。イエス・キリストは長い間、預言者たちを通して神様から約束された人だと言う事をここで語っています。

 

続いて3節後半と4節を読んでみましょう。

御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ、 聖なる霊によれば、死者の中からの復活によって力ある神の子と定められたのです。この方が、わたしたちの主イエス・キリストです。

 

パウロはここでイエス・キリストは肉によればダビデの子孫から生まれたと言い、イエス・キリストは真実の人間としてこの世に来られたことを語っています。また続いて聖なる霊によれば死者の中から復活された、力ある神の子としてと定められたと言い、イエス・キリストは真実の神様としてこの世に来られたことを語っています。

つまりイエス・キリストは真の人間としてまた真の神様として、この世に来られたと真の救い主だということを語っています。

 

真実の人間としてまた真実の神様としてこの世に来られたイエス・キリストこそが、真実の福音だと説明しています。

 

【わたしは福音を恥としない】

イエス・キリストすなわち福音に関してパウロは1章16節において次のように告白しています。

ローマの信徒への手紙116 わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。

 

福音はパウロにとってどういうものだったでしょうか。パウロは「私は福音、イエス・キリストを恥とはしない」と言います。

パウロがそのように話すことができた理由はなんだったと思いますか。

 

それは福音とは信じるものすべてに救いをもたらす神の力だからです。

皆さん、私たちはクリスチャンだと言われ呼ばれています。パウロのようにイエス・キリストが私たちの福音だと言うことができるでしょうか。

真の人間として、真の神様としてこの世に来られたイエス・キリストが私たちの救い主だと言うことができるでしょうか。パウロのように私は福音を恥としない、思わないということができるでしょうか。

 

【ローマ帝国とその文化】

パウロはこの手紙をローマにいるクリスチャンたちに読ませるために書きました。

 

この時、皆さん、ローマはどういう国だったでしょうか。ローマ帝国は非常に強い軍事力を持っていました。その力で多くの国を征服して、その国から多くの宝石や宝ものを強奪して豊かになった国です。またローマは世界最高の哲学体系を発展させた国でもありました。

しかし皆さん次のようなことを知っているでしょうか。

ローマの哲学によって救われた人は1人もいません。多くの宝石や宝物や軍事力はただ独りの人の人生を変えたことはありませんでした。

 

パウロは福音を持ってローマの人びとに次のように言います。「私は福音を恥としない。福音はユダヤ人にもギリシャ人にも信じるものすべてに救いをもたらす神の力である」。

パウロの福音はイエス・キリストでした。

パウロは一生をとうしてイエス・キリストは救い主である事を述べ伝えました。パウロはこのイエス・キリストを恥とは思いませんでした。皆さんが知っている福音はどういうものでしょうか。それはイエス・キリストではないでしょうか。

 

使徒言行録4章12を一緒に読みましょう。

「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」

             

またヨハネによる福音書14章6を一緒に読みましょう。

イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。

 

福音の核心、福音の唯一の焦点はイエス・キリストです。イエス・キリストのみがすべての人間を救ってくださることのお出来になる真の人間です。

 

皆さん、パウロのように私たちもイエス・キリストを永遠の救い主として持ってみませんか。また福音を恥と思わないで大胆に隣の人々に述べ伝えてみませんか。

 

【天地創造の前に建てられたご計画】

二つ目、パウロの福音は神様が天地創造の前に建てられたご計画です。

 

福音はある日、突然に空から降ってきたものではありません。

神様は天地創造の前に福音を準備しておかれました。

 

神様は人間をお創りになったとき人間が自分の自由意志を乱用して神様に背を向けて神様から離れることを知っておられました。この人間の罪を許してくださるために、神様はどう言うご計画をお立てになったでしょうか。それはイエス・キリストをこの世に遣わして十字架の死を通して私たちに新しい命を与えてくださるというご計画です。これが神様が天地創造の前に人間をお造りになる前に与えられたご計画です。

 

【世々にわたって隠されていた福音】

パウロは今日読んだ箇所で世々にわたって隠されていたと言ってます。天地が創造される前、万物が創造されるまえ、長いあいだ福音は隠されて来ました。長いあいだ隠されてきた神様のご計画、即ち福音は今どうなっているでしょうか。

26節を一緒に読みましょう。

1626 その計画は今や現されて、永遠の神の命令のままに、預言者たちの書き物を通して、信仰による従順に導くため、すべての異邦人に知られるようになりました。

 

福音は世々にわたって隠されていた秘められたご計画でした。しかしその福音は今や顕されたとパウロは語っています。即ち奥義が啓示されたのです。

 

もっと簡単に言うと救われる道が私たちに明らかに啓示されたということです。皆さん。福音は難しいことではありません。この世には難しい哲学があり、むずかしい本もたくさんありますが福音はむずかしいものではありません。

福音は抽象的なものでなく具体的なものです。どのような人も分かることができるのが福音です。福音は誰もやさしくわかることができるように私たちに提示されています。

 

今私たちは神の福音に触れられるようになり、このことによって私たちは福音を読めるようになり聴けるようになりました。この福音によって私たちは救われて新しい命を受けるようになりました。

 

皆さん。神様は天地創造の前に私たちを救うご計画を建てられました。これがパウロが今言っている「私の福音」と言う意味です。なんと偉大な福音でしょうか。この偉大な福音は今私たちのものです。神様は私たちがこの福音を持って生きることを望んでおられます。

そしてこの福音を隣の人に伝えることを望んでおられます。

 

【福音は全ての人への祝福】

三つ目、パウロの福音は祝福です。

パウロは福音はクリスチャンに限らず、クリスチャンでない人にも祝福になるものだと言っています。

皆さん、どうしてクリスチャンではない人にも、クリスチャンにも福音が祝福になることが分りますか。その答えは26節にあります。

1626 その計画は今や現されて、永遠の神の命令のままに、預言者たちの書き物を通して、信仰による従順に導くため、すべての異邦人に知られるようになりました。

 

【信仰による従順】

26節でパウロは信仰による従順に導くためと言っています。パウロが言ったこの言葉を通してクリスチャンになった人々になぜ福音が祝福になるのかが分かるようになります。

神様がこの世にイエス・キリストを遣わしてくださった理由は何だと思いますか。それはただ私たちを救う事のためだけだと思いますか。

 

真の福音は私たちを救ってくださることだけでは終わりません。神様の救いのご計画はイエス・キリストを通して私たちが救われることと、神様の御前で私たちが従順になるように導くことです。ですから真の福音とは私たちの罪を許してくださるだけでなく、同時に私たちが神様のみ言葉に従順になるように助けてくださるものです。福音がなければ私たちは神様に従順になることができません。

 

福音があるから救われた私たちが神様に従順に従うことができるのです。

ですから私はパウロの福音はクリスチャンに祝福になることができると言いたいのです。

 

【神様を知らない異邦人が救われること】

ではなぜクリスチャンでない人々に福音は祝福になるでしょうか。パウロは26節でこのように言っています。すべての異邦人に知られるようになりました。つまり神様を知らない異邦人たちが福音によって救われるようになったということです。

 

神様を知らない異邦人がイエス・キリストによって救われていることこそが、真の恵みでは無いでしょうか。ですから私はクリスチャンでない人にも福音は祝福になると言いたいのです。

 

【幸せな人生とは】

皆さん。幸せな人生とはどういうものでしょうか。

パウロの表現で言うと神様に従順に従うことです。逆に幸せでない人生とは神様に従順に従わないことでは無いでしょうか。

多くの人が神様のみ言葉を聞かずに自分の好きなように生きること、そのことが幸せな人生だと思っているのです。

 

このような人生の最後における結末は何だと思いますか。

無駄な人生、迷った人生、無意味な人生ではないでしょうか。それは空を飛ぶ鳥は空の中にいることだけで自由になることができます。空の気流に従って羽ばたくとき、鳥は本当の自由と幸せを感じます。

海の魚は海の中にいるとき、波に従って泳ぐとき魚は本当の幸せを感じると思います。

皆さん。人間にとって本当の幸せなんでしょうか。神様に従って生きることでは無いでしょうか。

 

【ある神学者の回想】

アメリカの有名な神学者ボルドウィンが福音について次のように話しました。

私は20代の時、様々な宗教や哲学を勉強しました。それらの宗教や哲学に比べてキリスト教の福音は単純すぎることに気がつきました。

福音は人生をかけて信じるほどのものではないと思いました。しかし30代に、私が志した宗教や哲学は私の人生の悩み苦しみを解決する答えを与えてくれませんでした。

 

私が迷っているうちに福音は私に近づきました。40代に私は福音を信じて人生の様々な問題と戦っている内に、私に福音の力がつきました。その時、私にとって福音は偉大なことになりました。

50代の時、私はこれまで築き上げたものが崩れてしまったので、人生の真の意味はなんだったのかと悩みました。その時福音は私に残っていたもので一番大切なものになりました。

60代に私の友人たちが1人ずつ、天に召されると、私の手にあるものが1つづつ無くなっていく中で、私が頼ることができるのは福音しかありませんでした。

 

福音はもはや単純なものではありませんでした。福音は奥深いものでもなく大切なものでもありませんでした。福音は私に残った唯一のもの、私の人生の全てになりました。

 

皆さん。このようなことが福音の祝福ではないでしょうか。

福音はクリスチャンでない人々に救いを与えてくださる唯一のものであり、クリスチャンになった人々が神様に従順になることができるように助けてくださるものです。

 

更にクリスチャンには信仰が固くなるように導いてくださるものです。

この世で誰がこのような祝福を与えてくれることができるでしょうか。ただ天地万物を創造された神様を通して与えてくださることができます。

 

【私の証】

私の証を少ししたいと思います。

私は特に貧しくもなく裕福でもない平凡な家庭に生まれました。私が子供の頃、未来に二つの夢がありました。

一つはお金持ちになる事でした。お金が沢山あれば何でもできると思っていました。特に友達が持っているものが欲しかったので、それを手に入れたかったのです。

その時親に言って返って来ることは叱られることだけでした。

 

二つ目の夢は世界で有名人になることでした。有名人になればお金持ちになるのは当然だと思ったのです。

 

しかしある日、私に福音が聞こえてきました。私が福音を聞いてイエス・キリストを救い主として受け入れた時に不思議なことが起こりました。私の二つの夢が消えてしまったのです。私はイエス・キリストに出会って以来いちどもお金持ちになりたいと思ったことはありませんでした。イエス・キリストが無駄な夢を取り除いてくださったからです。

 

私は福音のために熱心に働いているうちに神様が私に必要なことを満たしてくださいました。

ある時は溢れるほど豊かに与えてくださいました。私は福音によってもうお金には興味がないと告白するようになりました。神様は私が有名人になる夢を取り除いてくださいました。

私は福音を受け入れて以来、一度も地位や名誉を求めたことがありません。

勿論、今からもそのような道を歩み続けたいと思います。

しかし私には一つのの夢があります。それは福音です。福音は、私の人生を通して、私が奉仕している教会を通して、大勢の人々に福音を伝えることが私の夢です。

 

旧約聖書ハバクク書2:14には 水が海を覆うように/大地は主の栄光の知識で満たされる」

私を通して、水が海を覆うように主の栄光が日本全土に満たされるようになることが私の夢です。

 

全ての日本の方が口を合わせて天地を創造された神様に栄光と讃美を捧げることを見ることが私の夢です。私はこの願いやビジョンを持って教会を築きあげたいと思っています。

 

福音を恥としない。福音を恥としないと言う人々が集まって希望がない人々に福音は述べ伝える教会を築き上げることが私のビジョンです。

 

1年間私は神戸改革派神学校で色々な事を勉強しました。

もう一年が過ぎました。来年3月になると滋賀県に戻らねばなりません。今からそろそろ戻る準備をしなければなりません。私は滋賀県で何をしたいか。それは一つのことだけです。私の生き方を通して福音が伝えられることです。神様にたくさん用いられて福音を知らない人に神の福音を述べ伝えることができるように、祈って頂ければ幸いです。

 

【お祈り】

愛する天のお父様。今日御言葉を通してパウロが告白している福音はどういうものであるかを考えてきました。

福音はイエス・キリストです。イエス・キリストは私たちを救ってくださるためにあなたが遣わしてくださったお方であることを私たちは信じます。

このイエス・キリストを私たちの一生を通して隣の人々と分かち合うことができるように私たちを強めてください。

12月に入って忙しくなると思います。 12月には全国でも色々なクリスマス集会が持たれます。あなたの願いは集会を通してイエス・キリストの救いが述べ伝えられることと信じます。様々なすクリスマス行事を通してあなたの救いと愛を分かち合うことができるように私たちを強めてください。イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。



2013年12月01日 | カテゴリー: ローマの信徒への手紙 , 新約聖書