2012年6月

2012.6.24説教「黄金律」ウイリアム・モーア

聖書:マタイによる福音書12 「だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。」

説教要約(文責近藤)

雑貨屋「黄金律」店
今日の聖句はただ1句ですがこれは黄金律と言われる主イエスのお言葉です。
ジェームス・ペニーという青年が1920年にある雑貨店に店員として働くことになりました。そこは「黄金律Golden Rule」という名前のチェーン店の一つでした。「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」というキリスト教倫理の基本を実践してお客さんを大切にしました。ペニーはその精神を大切にして頑張りましたので、やがて支店長になり、更には社長になりました。すべての社員も忠実に働き、店は発展しやがて1700店舗を有するまでになりました。そして利益を施しに用いました。1971年彼は天に召されましたが現在もショッピングモールに多くの店舗があります。

よく似た教え
この黄金律は主イエスから戴いた律法です。他宗教にもよく似た教えがあります。たとえば仏教には「己の欲せざることは、他人にもするな」。イスラムにも「自分が人から危害を受けたくなければ、人に危害をくわえるな」。ユダヤ教にも「あなたに好ましくないことは隣人にするな」という教えがあります。これらは似ていますがいずれも受動的です。他人に害を与えないことは良いことですがイエス様の教えとは大きな差があります。
主イエスの教えは積極的です。悪いことをやめること、人からしてほしくないことを人にしないことだけでは不十分です。

人に害を与えないことは比較的簡単ですが、積極的に人に良いことをすることはチャレンジングなことです。沈黙は時には大切ですが、時宜にかなったよい言葉は、より求められるのです。ルカ福音書10章の「よきサマリア人のたとえ」はその良い例です。

よきサマリア人
ルカによる福音書10章
:25 すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」26 イエスが、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と言われると、27 彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」

28 イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」
29 しかし、彼は自分を正当化しようとして、「では、わたしの隣人とはだれですか」と言った。

30 イエスはお答えになった。「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。31 ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。32 同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。

33 ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、
34 近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。35 そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』

36 さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」
37 律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」

祭司とレビ人は強盗に半殺しにされた同胞のユダヤ人を見ると道の反対側を通り傷ついた人を助けようとはしませんでしたが、ユダヤ人から蔑まれたサマリア人はこの半殺しにされた人を見過ごすことは出来ませんでした。できる限りの手当てを惜しみませんでした。彼は黄金律を実践しました。

イエスは二人のユダヤ人聖職者の様にではなくサマリア人の積極的な愛の行動を模範とするように「行って、あなたも同じようにしなさい。」と言われた。

ある人は言うかもしれません。人の好みはそれぞれ違うので他人が本当にしてほしいことは出来ないのでは、たとえばチョコレートを与えたが本当はあんこ餅を欲しがっていたということがあります。私たちは当然相手のニーズに応えるべきです。

人間は生まれつき自己中心
この黄金律はシンプルであるが、簡単なことではありません。なぜなら人は生まれつき自己中心で相手の弱さを理解するより、それを責めるからです。パウロがピりピの教会に書き送ったピりピ人への手紙を見てください。

ピリピ人への手紙2章
1 そこで、あなたがたに、キリストによる勧め、愛の励まし、御霊の交わり、熱愛とあわれみとが、いくらかでもあるなら、2 どうか同じ思いとなり、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、一つ思いになって、わたしの喜びを満たしてほしい。
3 何事も党派心や虚栄からするのでなく、へりくだった心をもって互に人を自分よりすぐれた者としなさい。4 おのおの、自分のことばかりでなく、他人のことも考えなさい。
5 キリスト・イエスにあっていだいているのと同じ思いを、あなたがたの間でも互に生かしなさい。

6 キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、
7 かえって、己を無なしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、8 おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。9 それゆえに、神は彼を高く引き上げ、すべての名にまさる名を彼に賜わった。

10 それは、イエスの御名によって、天上のもの、地上のもの、地下のものなど、あらゆるものがひざをかがめ、11 また、あらゆる舌が、「イエス・キリストは主である」と告白して、栄光を父なる神に帰するためである。

私たちも、何事でも人からして欲しいと思うことを人にしましょう。(おわり)

2012年06月25日

2012.6.17.[

2012年06月22日

2012年6月17日説教「弱さの中の強さ」神戸長田教会吉田実牧師

CIMG4677x500.jpg2012617日説教「弱さの中の強さ」神戸長田教会吉田実牧師

要約(文責近藤)

聖書:新約聖書

コリントの信徒への手紙二1~10

主から示された事)1 わたしは誇らずにいられません。誇っても無益ですが、主が見せてくださった事と啓示してくださった事について語りましょう。2 わたしは、キリストに結ばれていた一人の人を知っていますが、その人は十四年前、第三の天にまで引き上げられたのです。体のままか、体を離れてかは知りません。神がご存じです。

3 わたしはそのような人を知っています。体のままか、体を離れてかは知りません。神がご存じです。4 彼は楽園にまで引き上げられ、人が口にするのを許されない、言い表しえない言葉を耳にしたのです。5 このような人のことをわたしは誇りましょう。しかし、自分自身については、弱さ以外には誇るつもりはありません。

6 仮にわたしが誇る気になったとしても、真実を語るのだから、愚か者にはならないでしょう。だが、誇るまい。わたしのことを見たり、わたしから話を聞いたりする以上に、わたしを過大評価する人がいるかもしれないし、7 また、あの啓示された事があまりにもすばらしいからです。それで、そのために思い上がることのないようにと、わたしの身に一つのとげが与えられました。それは、思い上がらないように、わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使いです。

8 この使いについて、離れ去らせてくださるように、わたしは三度主に願いました。

9 すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。10 それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。

 

パウロの信仰の確信

8節「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」とパウロは「私は弱いときに強い」と彼の信仰の確信を語る。こう語らざるを得なかった教会の背景がありました。それは偽使徒がいて教会員を惑わし、パウロへの信頼が失われそうであったという背景がありました。

 

偽使徒は言葉巧みに彼ら自身を立派なものだと誇ったのです。それでパウロは彼らに勝る、かれらの及びもつかない自身の神秘体験を語ります。

 

第三の天

天国を垣間見たというパウロの神秘体験をもって神はパウロを励ましたのです。それは偽使徒に惑わされている信徒の目を覚まさせるために、彼パウロが誇るためでなくキリストに結ばれた人はだれでも与えられる第三者の体験として語るのです。コリントの教会に対してパウロは自分の誇りとか思上がりの衝動を抑えることに困難を覚えたこともあったかもしれません。「それで、そのために思い上がることのないようにと、わたしの身に一つのとげが与えられました。それは、思い上がらないように、わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使いです。」

 

肉体のとげとは

それは体の欠陥とかテンカンのような病気であったと言われますが明らかなことは書かれていません。ともかくパウロは祈りました。

8 この使いについて、離れ去らせてくださるように、わたしは三度主に願いました。」

サタンの使いを去らせて下さいと祈ったこと対する主の答えは

9 すると主は、『わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ』と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。」

 

喜んで自分の弱さを誇りましょう

彼はキリストのために弱さの中にあっても満足できました。弱さこそがキリストの力の宿るところであります。弱い人を弱いままに主は用いて下さいます。私たちの弱さは主の御業がはじまる舞台となります。

 

神戸長田教会の日曜礼拝の講壇に私が立って説教を始めようとしているときのことです。

当時中学2年生の私の自閉症の息子が突然パニックになり大声で教会入口の窓ガラスを割ってしまいました。私は説教台の上から心配で心が乱れました。司会長老がオルガン奏者に合図を送り奏楽を長く引き続けるよう指示してくれました。その間にガラスの破片を掃除し割れた入口に段ボール紙でふさいで下しました。私は教会の家族として息子を受け入れてくださったことに、教会を主の体としてここまでに成長させて下さることに感謝の祈りを捧げました。息子の言葉を返しては下さいませんでしたが、主のお言葉を自分たちの言葉として受け入れることができる姿に感謝しました。

 

私たちの弱さこそ強さ

私たちはそれぞれに弱さあがあります。高齢社会では今までできていたことができなくなる苦悩、変化、弱さを様々に経験します。そのような時私たちの祈りが、祈りながらも聞き入れられないように思えるかもしれません。私たちの祈りが聞き入れられないのではありません。きっと主の御計画があり、そこから良いことが始まります。

 

モーセの例

偽使徒たちのように誇り高ぶる者は主に用いられません。例えば出エジプトにおけるモーセは、若いときは宮殿で王子としてちからを持っていたけれど、その出エジプトの大きな働きを許されませんでした。80歳の時、ミデアンの野で羊飼いをしているとき彼を召し出されました。彼は自分の口べたを理由に断りました。神は彼が弱さを覚える時にこそ大事業をなさせ給いました。

 

10 それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。」

 

弱さから始まる良いこと(主の体なる教会)

主イエスは弱さを覚える信仰者を用いられます。弱さから始まる良いことがあります。

さまざまの弱さを持ったものの存在は教会の宝です。ともに神の家族として祈り求めるときキリストの体として教会は成長し主は良き出会いを与えて下さいます。

パウロが楽園にまで引き上げられた体験は私たちの体験になります。主と一つになる体験、これは夢物語ではありません。

 

教会の一人一人が弱さの中に一緒にいるとき神は人とともに居てくださいます。私たちは主の手足としてここから遣わされたく願い祈りましょう。(終わり)

 

 

 

 

2012年06月18日 | カテゴリー: コリントの信徒への手紙二

2012年6月10日説教「嘆きを踊りに変え」ウイリアム・モーア

2012610日説教「嘆きを踊りに変え」ウイリアム・モーア

要約(文責近藤)

 

聖書:詩編30篇1~13

 

家族の物語

どこの家でもその家族の物語があります。私の家族にもあります。その物語の主人公は私ですが、その物語の記憶が私にはありません。と言うのも私はまだ1歳未満でした。両親は韓国の宣教師で朝鮮戦争のすぐ後のことでしたが、わたしはひどい高熱で大変危険な状態のようでしたので父親の運転で5時間の砂利の悪路を病院まで走らねばなりませんでした。漸く明け方に病院に着いたのですが、その時には不思議に熱はさがって病院の先生は何処も悪くないと言いました。両親は大喜びで家路につきました。

 

ダビデ王の病気

ある時ダビデ王は病気で死にそうでした。ダビデは激しく神に祈りました。主は憐れみをもってダビデを癒してくださいました。

ダビデは今日の詩編302節~4節のように感謝しました。

 

2 主よ、あなたをあがめます。あなたは敵を喜ばせることなく/わたしを引き上げてくださいました。3 わたしの神、主よ、叫び求めるわたしを/あなたは癒してくださいました。4 主よ、あなたはわたしの魂を陰府から引き上げ/墓穴に下ることを免れさせ/わたしに命を得させてくださいました。」と神を崇め、自分の回復を公に証ししました。

 

ダビデは墓穴の手前で主の憐れみゆえに命を守られました。私たちも同じような苦しみにあった時、主から助けられた経験があるでしょう。その時ダビデのように喜びの証をします。

ダビデは詩編30篇「5 主の慈しみに生きる人々よ/主に賛美の歌をうたい/聖なる御名を唱え、感謝をささげよ。6 ひととき、お怒りになっても/命を得させることを御旨としてくださる。泣きながら夜を過ごす人にも/喜びの歌と共に朝を迎えさせてくださる。」

と自分の体験を証しました。

 

ダビデはその生涯に多くの苦しみを体験しました。その中には自分の罪に原因するものもありましたが、しかしそこに神様の慈しみと憐れみを体験しました(6節)。神の恵みは彼から離れませんでした。

 

足を折られた羊

ある若者がスイスの山に旅したときそこで羊飼いと羊の群れを見ました。その羊の群れのなかに1匹の足を折った羊を見ました。青年はどうしてその羊は足を折ったかと尋ねました。羊飼いは答えました。実はわたしがその足を折りました。なぜならこの羊は羊飼いの言うことを聞かずに危険な崖淵にたびたび行き崖から落ちそうになりました。また他の羊までもその後を追いかけるので危険でしたと羊飼いは答えました。

若者が翌日餌を与えようとすると餌を欲しがらず却って彼に噛みつきかかりました。しかしその後に餌を与えると喜んで餌をたべ舌で彼の手をやさしく舐めました。

この羊は苦しみから服従を学びました。苦しみを通し、懲らしめを通して神は私たちを御許に立ち返らせます。

 

イザヤの預言

イザヤ53章4~6「4 彼が担ったのはわたしたちの病/彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに/わたしたちは思っていた/神の手にかかり、打たれたから/彼は苦しんでいるのだ、と。5 彼が刺し貫かれたのは/わたしたちの背きのためであり/彼が打ち砕かれたのは/わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって/わたしたちに平和が与えられ/彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。6 わたしたちは羊の群れ/道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて/主は彼に負わせられた。

これはイエス・キリストの預言です。よい羊飼いであられる主イエス・キリストは私たちに代わって罪を負われられました。

ダビデは元気な時は7節のように言いました。

7 平穏なときには、申しました/『わたしはとこしえに揺らぐことがない』と。」傲慢になり、神のお蔭を受けていることを忘れました。しかし8節後半のようにパニックになり恐怖に陥ります。

8しかし、御顔を隠されると/わたしはたちまち恐怖に陥りました。」

 

悔い改め

そこで彼は自分の救いの源を覚え、自分の罪と、弱さを認めて祈ります、

9 主よ、わたしはあなたを呼びます。主に憐れみを乞います。

10 わたしが死んで墓に下ることに/何の益があるでしょう。塵があなたに感謝をささげ/あなたのまことを告げ知らせるでしょうか。11 主よ、耳を傾け、憐れんでください。主よ、わたしの助けとなってください。」

 

嘆きを踊りに変え

彼ダビデが主の癒しを求めるのは神の証人となるためでした。彼は癒されると神殿に詣でて救いと力と愛の源である神にこのように歌いました。

12 あなたはわたしの嘆きを踊りに変え/粗布を脱がせ、喜びを帯としてくださいました。

13 わたしの魂があなたをほめ歌い/沈黙することのないようにしてくださいました。わたしの神、主よ/とこしえにあなたに感謝をささげます。」

 

わたしたちもダビデのように、御子イエス・キリストによって実現した救いと与えられた聖霊の恵みによって、神と隣人に仕える必要な知恵と力を与えて下さる神にとこしえに感謝を捧げましょう。(終わり)

2012年06月11日 | カテゴリー: 詩篇