2012年6月17日説教「弱さの中の強さ」神戸長田教会吉田実牧師

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要約(文責近藤)

聖書:新約聖書

コリントの信徒への手紙二1~10

主から示された事)1 わたしは誇らずにいられません。誇っても無益ですが、主が見せてくださった事と啓示してくださった事について語りましょう。2 わたしは、キリストに結ばれていた一人の人を知っていますが、その人は十四年前、第三の天にまで引き上げられたのです。体のままか、体を離れてかは知りません。神がご存じです。

3 わたしはそのような人を知っています。体のままか、体を離れてかは知りません。神がご存じです。4 彼は楽園にまで引き上げられ、人が口にするのを許されない、言い表しえない言葉を耳にしたのです。5 このような人のことをわたしは誇りましょう。しかし、自分自身については、弱さ以外には誇るつもりはありません。

6 仮にわたしが誇る気になったとしても、真実を語るのだから、愚か者にはならないでしょう。だが、誇るまい。わたしのことを見たり、わたしから話を聞いたりする以上に、わたしを過大評価する人がいるかもしれないし、7 また、あの啓示された事があまりにもすばらしいからです。それで、そのために思い上がることのないようにと、わたしの身に一つのとげが与えられました。それは、思い上がらないように、わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使いです。

8 この使いについて、離れ去らせてくださるように、わたしは三度主に願いました。

9 すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。10 それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。

 

パウロの信仰の確信

8節「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」とパウロは「私は弱いときに強い」と彼の信仰の確信を語る。こう語らざるを得なかった教会の背景がありました。それは偽使徒がいて教会員を惑わし、パウロへの信頼が失われそうであったという背景がありました。

 

偽使徒は言葉巧みに彼ら自身を立派なものだと誇ったのです。それでパウロは彼らに勝る、かれらの及びもつかない自身の神秘体験を語ります。

 

第三の天

天国を垣間見たというパウロの神秘体験をもって神はパウロを励ましたのです。それは偽使徒に惑わされている信徒の目を覚まさせるために、彼パウロが誇るためでなくキリストに結ばれた人はだれでも与えられる第三者の体験として語るのです。コリントの教会に対してパウロは自分の誇りとか思上がりの衝動を抑えることに困難を覚えたこともあったかもしれません。「それで、そのために思い上がることのないようにと、わたしの身に一つのとげが与えられました。それは、思い上がらないように、わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使いです。」

 

肉体のとげとは

それは体の欠陥とかテンカンのような病気であったと言われますが明らかなことは書かれていません。ともかくパウロは祈りました。

8 この使いについて、離れ去らせてくださるように、わたしは三度主に願いました。」

サタンの使いを去らせて下さいと祈ったこと対する主の答えは

9 すると主は、『わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ』と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。」

 

喜んで自分の弱さを誇りましょう

彼はキリストのために弱さの中にあっても満足できました。弱さこそがキリストの力の宿るところであります。弱い人を弱いままに主は用いて下さいます。私たちの弱さは主の御業がはじまる舞台となります。

 

神戸長田教会の日曜礼拝の講壇に私が立って説教を始めようとしているときのことです。

当時中学2年生の私の自閉症の息子が突然パニックになり大声で教会入口の窓ガラスを割ってしまいました。私は説教台の上から心配で心が乱れました。司会長老がオルガン奏者に合図を送り奏楽を長く引き続けるよう指示してくれました。その間にガラスの破片を掃除し割れた入口に段ボール紙でふさいで下しました。私は教会の家族として息子を受け入れてくださったことに、教会を主の体としてここまでに成長させて下さることに感謝の祈りを捧げました。息子の言葉を返しては下さいませんでしたが、主のお言葉を自分たちの言葉として受け入れることができる姿に感謝しました。

 

私たちの弱さこそ強さ

私たちはそれぞれに弱さあがあります。高齢社会では今までできていたことができなくなる苦悩、変化、弱さを様々に経験します。そのような時私たちの祈りが、祈りながらも聞き入れられないように思えるかもしれません。私たちの祈りが聞き入れられないのではありません。きっと主の御計画があり、そこから良いことが始まります。

 

モーセの例

偽使徒たちのように誇り高ぶる者は主に用いられません。例えば出エジプトにおけるモーセは、若いときは宮殿で王子としてちからを持っていたけれど、その出エジプトの大きな働きを許されませんでした。80歳の時、ミデアンの野で羊飼いをしているとき彼を召し出されました。彼は自分の口べたを理由に断りました。神は彼が弱さを覚える時にこそ大事業をなさせ給いました。

 

10 それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。」

 

弱さから始まる良いこと(主の体なる教会)

主イエスは弱さを覚える信仰者を用いられます。弱さから始まる良いことがあります。

さまざまの弱さを持ったものの存在は教会の宝です。ともに神の家族として祈り求めるときキリストの体として教会は成長し主は良き出会いを与えて下さいます。

パウロが楽園にまで引き上げられた体験は私たちの体験になります。主と一つになる体験、これは夢物語ではありません。

 

教会の一人一人が弱さの中に一緒にいるとき神は人とともに居てくださいます。私たちは主の手足としてここから遣わされたく願い祈りましょう。(終わり)

 

 

 

 

2012年06月18日 | カテゴリー: コリントの信徒への手紙二

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