2012年7月

2012年7月29日説教「来て、見なさい」ウイリアム・モーア宣教師

2012年7月29日説教「来て、見なさい」ウイリアム・モーア宣教師

説教要約(文責・近藤)

聖書:ヨハネ福音書1章43~51節
43 その翌日、イエスは、ガリラヤへ行こうとしたときに、フィリポに出会って、「わたしに従いなさい」と言われた。44 フィリポは、アンデレとペトロの町、ベトサイダの出身であった。45 フィリポはナタナエルに出会って言った。「わたしたちは、モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った。それはナザレの人で、ヨセフの子イエスだ。」
46 するとナタナエルが、「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と言ったので、フィリポは、「来て、見なさい」と言った。

47 イエスは、ナタナエルが御自分の方へ来るのを見て、彼のことをこう言われた。「見なさい。まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない。」48 ナタナエルが、「どうしてわたしを知っておられるのですか」と言うと、イエスは答えて、「わたしは、あなたがフィリポから話しかけられる前に、いちじくの木の下にいるのを見た」と言われた。49 ナタナエルは答えた。「ラビ、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」

50 イエスは答えて言われた。「いちじくの木の下にあなたがいるのを見たと言ったので、信じるのか。もっと偉大なことをあなたは見ることになる。」51 更に言われた。「はっきり言っておく。天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる。」

 

【主の弟子たち】
イエス様はこの世でご自分の働きを始めるにあたって弟子たちを召されました。弟子たちは主イエスが天に帰られたのちも全世界に福音を述べ伝えました。
弟子たちは主が召された時、ただちに主に従いました。

マタイによる福音書4章
18 イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、二人の兄弟、ペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレが、湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。19 イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。20 二人はすぐに網を捨てて従った。21 そこから進んで、別の二人の兄弟、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、父親のゼベダイと一緒に、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、彼らをお呼びになった。22 この二人もすぐに、舟と父親とを残してイエスに従った。

4人は神の導きを感じて何もかも捨てて直ちに主に従った。

【ヨハネの二人の弟子】
今日の聖書の前のところヨハネによる福音書1章35節以下を見てください。

35 その翌日、また、ヨハネは二人の弟子と一緒にいた。36 そして、歩いておられるイエスを見つめて、「見よ、神の小羊だ」と言った。37 二人の弟子はそれを聞いて、イエスに従った。

洗礼者ヨハネはイエスを見て「見よ、神の子羊」と言いました。これを聞いたヨハネの弟子であったアンデレともう一人の弟子はヨハネを去ってイエスに従いました。アンデレは自分の兄弟ペトロに「メシア救い主にであった」といいペトロは直ちに従いました。

【不可知論者トマス・ハックスリー】
不可知論者トマス・ハックスリーは、ある時友人のパーティーに友人たちとある別荘に招かれました。日曜日の朝になったので友人たちは教会に出かけましたが彼は行きませんでした。その代り、その中の敬虔なクリスチャンの一人に尋ねました。「お願いがあります。今日教会に行く代わりにあなたの信仰のことを聞かせてください。イエス・キリストはあなたにとってどんなお方ですか。あなたがどうしてクリスチャンになったか知りたいのです」。彼は答えた「私はあなたと議論したら勝てません」。博士は言いました「私はあなたと議論したくありません。ただイエスはあなたにとってどういう存在なのかが知りたいのです。」その信者は自分の証を簡単に立てました。話終ったとき博士の目に涙が浮かびました。博士は言いました。「そのような信仰が与えられたら私は右の手を失ってもよいです。」彼は信じたかったが納得できませんでした。イエスを神の独り子であるという証拠が足りないと思い受け入れられませんでした。信仰に強いあこがれがあったのですが彼は信じられなかった。

今日の御言葉のなかのナタナエルもイエスを信じられませんでした。

【ナザレから何か良いものが出るだろうか】
フィリポはナタナエルに出会って言った。「わたしたちは、モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った。それはナザレの人で、ヨセフの子イエスだ。するとナタナエルが、『ナザレから何か良いものが出るだろうか』と言ったので、フィリポは、『来て、見なさい』と言った。」

【偏見と先入観を捨てて】
ナタナエルはナザレは小さな町で文化的にも低い田舎だと思っていました。ここから聖書に預言された救い主が出るはずがないと友人ピリポの話を軽んじました。私たちもそういう偏見があって人を傷つけませんか。キリスト教は西洋の宗教だと誤解してませんか。イエスは中東のパレスチナ出身でヨーロッパよりアジアに近いのです。

イエス・キリストを受け入れることは難しいことではありません。
ローマ人への手紙10章9 「すなわち、自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる。」

福音の基本的メッセージはシンプルです。新約聖書ヨハネによる福音書3章16節に記されているとおりです。
「 神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。」

人はキリスト者を見てつまずくこともあります。人はこの世では完璧ではありません。
この世ではまだ罪びとです。しかし失敗したときでも悔い改めれば救われます。

【来て見なさい】
人はつまずくことがいくらでもあります。ナタナエルは「ナザレから良きものがでようか」と躓きました。しかし友人ピリポは「来て見なさい」と勧めました。ナタナエルは先入観を捨て心を開きましたので、47節でイエスは彼のことをこう言われた。「見なさい。まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない。」

【まことのイスラエル人】
これは主のすばらしい褒め言葉で、これ以上の賞賛はない。イエスを疑っていたがイエスを見る心をもって来たナタナエルを「まことのイスラエル人、この人には偽りがない」と言われました。

全ての先入観を捨てて主を調べ、来て主を見るとき、主はあなたにご自分を明らかに示してくださいます。

ナタナエルが、「どうしてわたしを知っておられるのですか」と言うと、イエスは答えて、「わたしは、あなたがフィリポから話しかけられる前に、いちじくの木の下にいるのを見た」と言われた。49 ナタナエルは答えた。「ラビ、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」

【もっと偉大なことをあなたは見る】
50 イエスは答えて言われた。「いちじくの木の下にあなたがいるのを見たと言ったので、信じるのか。もっと偉大なことをあなたは見ることになる。」51 更に言われた。「はっきり言っておく。天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる。」

【天国の道】
ナタナエルの心が開かれ天国の道が開かれました。同じように私たちも心を開いてイエスキリストに従ってください。そうすれば主は御自身を明らかに示して天国の道を示して下さいます。(おわり)

2012年07月29日 | カテゴリー: ヨハネによる福音書

2012年7月22日(日)説教「神が選び、用いられる人とは」ウイリアム・モーア宣教師

2012年7月22日(日)説教「神が選び、用いられる人とは」ウイリアム・モーア宣教師

聖書 新約聖書コリントの信徒への手紙一1章26-31節

26 兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい。人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません。
27 ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。
28 また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。
29 それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです。
30 神によってあなたがたはキリスト・イエスに結ばれ、このキリストは、わたしたちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです。
31 「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりになるためです。


説教(要約・文責近藤)

【誇るものは主を誇れ】
神様は御自身の栄光のために誰も誇ることのない様に無力な者、身分の低い者、見下げられた者を用いたもう。「誇るものは主を誇れ」と書かれている通りです。

【教会リーダーの資格】
西谷伝道所では運営委員会のメンバーを選出しようとしています。教会(伝道所)のリーダーの資格と特性は大事なことですが、神が選び用いられる人とはどのような人でしょうか。

主イエスがこの世でお働きをされた時、だれを用いてなされましたか。
人間の常識に従えば地位のある者や才能のある者や富のある者を用いられるが神はごく普通の人を用いて御自身の御用をされるのです。今日の御言葉の26節、
「26 兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい。人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません。」

このように社会的地位とか学歴はなくて、ごく普通の人を神は選び用いようとされました。
27節~29節「27 ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。
28 また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。29 それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです。」

無きに等しい者を、あえて選ばれたので確かにそのお働きは神様の力のお蔭であると分かります。私たちの努力と知恵のお蔭でなく、神様の助けがなければ神様のお働きはできません。神様は御自身の栄光のために、ごく普通の人、私たちを用いられ御自身お働きをなさいます。

神様が用いられるのは知恵のある者、権力のある者、身分の高い者は必要ではないのです。
このようなものは却って邪魔になります。人は自身の栄光を求め、神の栄光は求めません。

私たちの力では西谷に会堂はできませんでした。全ては神様のお計らいでなりました。神様のお導きの中ですべての問題がクリアでき、素晴らしい会堂ができました。私たちは誇ることは何もできません。ただ主を誇ります。

【アイルグード先生】
人の力を神様は用いられません。
アイルグード先生は女性宣教師として中国動乱の時、かの地の孤児院の院長でした。戦火が近ずくと100人の孤児たちを安全な山の奥に避難させるために連れ出したのですが途中で女史はその遠い道のりに悲嘆にくれました。そのとき13歳の女の孤児がモーセが紅海からイスラエルを救った話をしました。しかしアイルグード先生は「わたしはモーセではない」と言いました。すると少女は「あなたはモーセではありませんが、神様は今も神様です」と言いました。奇跡的に無事に孤児たち助けた時、アイルグード先生は神様に栄光を帰すことができたのです。

【モーセの杖】(旧約聖書出エジプト記参照)
イスラエルがエジプトで400年間奴隷であった時、エジプトの王パロはへブル人が増えるのを恐れてへブル人の男の赤子をすべて殺すように命じました。モーセの両親はかわいい赤子が殺されるのは忍び難く幼子を葦の籠に入れてナイル川に流しました。それをパロの娘が拾い上げエジプトの王子として育てました。成人したモーセがあるとき同胞のへブル人がエジプト人に虐待されているのを見て憤慨しそのエジプト人を殺してしまいました。しかしこのことが知れ渡るとモーセはパロに殺されるのではと恐れてミデアンの荒れ野に逃げ込み羊飼いとして過ごしたのです。

【燃える柴の中から】
こうして40年が過ぎた時、羊の群れを荒れ野の奥へ追って行き、神の山ホレブに来た。そのとき、不思議な光景を見ました。彼が見ると、「見よ、柴は火に燃えているのに、柴は燃え尽きない。モーセは言った。「道をそれて、この不思議な光景を見届けよう。どうしてあの柴は燃え尽きないのだろう。」(出エジプト記3:章2~3)

近ずくと神は燃える柴の中からモーセに語りかけられた。
「今、行きなさい。わたしはあなたをファラオのもとに遣わす。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ。」

モーセは神に言った。「わたしは何者でしょう。どうして、ファラオのもとに行き、しかもイスラエルの人々をエジプトから導き出さねばならないのですか。」
わたしは羊飼いで何もできません。40年前にエジプトを逃げ出した私の言うことイスラエルの民は聞くはずがありません。

【あなたが手に持っているものは何か】
神様はモーセに尋ねた「あなたが手に持っているものは何ですか?」
いまさら40年間のことを言いません。現在手に持っているものは何かと神様は問われます。
それは羊飼いの杖です。それは40年間の苦労のしるしになりました。その杖を神様は用いられた。

その杖を地に投げさせると杖は蛇に変わり、手を伸ばして、尾をつかむと、それは手の中で杖に戻った。

モーセは神の言葉に従いパロの前に出ました。その杖を神様は用いられました。この杖でパロの魔術師たちと闘い彼らの蛇をモーセの蛇は呑込みました、更にこの杖で、エジプトに多くの災を負わせ、紅海を打つと水は割れ乾いた道が現れ、荒れ野では岩を杖で打つと水がほとばしり出ました。

神様は私たちにも聞かれます「あなたの手に持っているものは何か」と。
私たちは何も持っていないようでも、その持っている小さなものを用いられます。

今日の御言葉26節以下に聞いてください。

「26 兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい。人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません。
27 ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。
28 また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。
29 それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです。」

愛する兄弟姉妹。
神様は私たち一人一人を用いたいのです。小さいことでも御自身の協力者として私たちともに働きたいのです。その使命は私たちの目的と歓びのためです。その使命を果たすために私たちの弱さの代わりに神の力を与えて下さいます。神様は神の力で働こうとする者一人ひとりを選び用いられます。(おわり)

2012年07月23日

2012年7月15日(日)説教「主を待ち望む人」ウイリアム・モーア宣教師

2012年7月15日(日)説教「主を待ち望む人」ウイリアム・モーア宣教師
聖書;旧約聖書詩編31篇10~25
詩編31篇10 主よ、憐れんでください/わたしは苦しんでいます。目も、魂も、はらわたも/苦悩のゆえに衰えていきます。11 命は嘆きのうちに/年月は呻きのうちに尽きていきます。罪のゆえに力はうせ/骨は衰えていきます。
12 わたしの敵は皆、わたしを嘲り/隣人も、激しく嘲ります。親しい人々はわたしを見て恐れを抱き/外で会えば避けて通ります。13 人の心はわたしを死者のように葬り去り/壊れた器と見なします。14 ひそかな声が周囲に聞こえ/脅かすものが取り囲んでいます。人々がわたしに対して陰謀をめぐらし/命を奪おうとたくらんでいます。

15 主よ、わたしはなお、あなたに信頼し/「あなたこそわたしの神」と申します。
16 わたしにふさわしいときに、御手をもって/追い迫る者、敵の手から助け出してください。17 あなたの僕に御顔の光を注ぎ/慈しみ深く、わたしをお救いください。
18 主よ、あなたを呼びます。わたしを恥に落とすことなく/神に逆らう者をこそ恥に落とし/陰府に落とし、黙らせてください。19 偽って語る唇を封じてください/正しい人を侮り、驕り高ぶって語る唇を。

20 御恵みはいかに豊かなことでしょう。あなたを畏れる人のためにそれを蓄え/人の子らの目の前で/あなたに身を寄せる人に、お与えになります。
21 御もとに彼らをかくまって/人間の謀から守ってくださいます。仮庵の中に隠し/争いを挑む舌を免れさせてくださいます。

22 主をたたえよ。主は驚くべき慈しみの御業を/都が包囲されたとき、示してくださいました。23 恐怖に襲われて、わたしは言いました/「御目の前から断たれた」と。それでもなお、あなたに向かうわたしの叫びを/嘆き祈るわたしの声を/あなたは聞いてくださいました。

24 主の慈しみに生きる人はすべて、主を愛せよ。主は信仰ある人を守り/傲慢な者には厳しく報いられる。25 雄々しくあれ、心を強くせよ/主を待ち望む人はすべて。

要約(文責近藤)
今日の箇所はイスラエルの王、ダビデ王のどん底からの叫びです。彼の敵は彼の王権と命を奪おうとしました。この詩編31篇に彼は自身の気持ちを述べました。

【敵はわたしを死者のように葬り去り/壊れた器と見なす】
10~14節
「10 主よ、憐れんでください/わたしは苦しんでいます。目も、魂も、はらわたも/苦悩のゆえに衰えていきます。11 命は嘆きのうちに/年月は呻きのうちに尽きていきます。罪のゆえに力はうせ/骨は衰えていきます。12 わたしの敵は皆、わたしを嘲り/隣人も、激しく嘲ります。親しい人々はわたしを見て恐れを抱き/外で会えば避けて通ります。13 人の心はわたしを死者のように葬り去り/壊れた器と見なします。14 ひそかな声が周囲に聞こえ/脅かすものが取り囲んでいます。人々がわたしに対して陰謀をめぐらし/命を奪おうとたくらんでいます。」

このダビデの苦しみを想像できますか。完全にだめな人間とみなされ「死者のように葬り去り/壊れた器と見なします」と。壊れた器は陶器ですからゴミになります。ダビデは自分がゴミだと言われることを知りました。

大津市の自殺に追いやられた少年はそのような例です。自分はごみのようで希望がないので苦しみから解放されるのは死ぬしかないと思わされたのです。

ダビデも自分を死者のように、壊れた器だと思いました。彼はどうして立ち直れましたか?

【神に苦しみを叫ぶダビデ】
彼は詩編31篇3節、10節に
「3 あなたの耳をわたしに傾け/急いでわたしを救い出してください。砦の岩、城塞となってお救いください。」「10 主よ、憐れんでください/わたしは苦しんでいます。目も、魂も、はらわたも/苦悩のゆえに衰えていきます。」
とダビデは唯一全能の神に苦しみを叫びました。彼は自分自身にも聞きませんでした。自分の力では解決できないと知りました。

【無視されるダビデ】
12節「 わたしの敵は皆、わたしを嘲り/隣人も、激しく嘲ります。親しい人々はわたしを見て恐れを抱き/外で会えば避けて通ります。」

回りの人々はダビデをダメな人と思って無視しました。助けは神のみにあると信じたダビデは主に自分の心を告白し助けと癒しを神から受ける前に神との関係を次のように彼の気持ちを正直に伝えました。

詩編31篇4 あなたはわたしの大岩、わたしの砦。御名にふさわしく、わたしを守り導き
5 隠された網に落ちたわたしを引き出してください。あなたはわたしの砦。

15 主よ、わたしはなお、あなたに信頼し/「あなたこそわたしの神」と申します。

私たちはダビデよりイエス・キリストの贖い死のお蔭で神との緊密な関係を与えられた者です。主イエスを心から信じる者には誰でも主の癒しと助けが受けられます。

【神に頼るものの告白】
私たちはダビデのように主に信頼するものでなければなりません。
「主よ、御もとに身を寄せます。とこしえに恥に落とすことなく/恵みの御業によってわたしを助けてください(31篇2)。」と告白します。

十字架の上で主イエスはこの詩編31篇6節「 まことの神、主よ、御手にわたしの霊をゆだねます。」を引用して息を引き取られました。
ダビデは自分の力と知恵に頼るより神の力と知恵に信じ頼りました。

私たちはちょっとしたことで歓んだり落ち込んだりします。全てにおいてダビデのように「主に信頼します」と告白しましょう。人の心に左右されることなく、環境に左右されることなく「主よ、信頼します」と神を信頼しましょう。

【神の力と憐れみ】
壊された器のようなダビデは神について重要なことを実感しました。
第一に神の憐れみを知りました。
詩編31篇8節、17節に
8 慈しみをいただいて、わたしは喜び躍ります。あなたはわたしの苦しみを御覧になり/わたしの魂の悩みを知ってくださいました。
17 あなたの僕に御顔の光を注ぎ/慈しみ深く、わたしをお救いください。

愛する神はわたしたちを知り憐れみをもって癒して下さいます。

次にダビデが実感したことは神の力/能力です。
5節「 隠された網に落ちたわたしを引き出してください。あなたはわたしの砦。」

ダビデは愛する神とともに歩み、壊された器は治されると信じました。恐れは消え去り神の救いを感謝します。私たちもどんな難しい状況にあっても神の救う力を信じられます。

ダビデは神の力と憐れみを信じたのです。
神はダビデの叫びを聞き救ってくださいました。

【救いの証・歓び】
ダビデは大きな喜びをもって救いの証を立てました。
「22 主をたたえよ。主は驚くべき慈しみの御業を/都が包囲されたとき、示してくださいました。23 恐怖に襲われて、わたしは言いました/「御目の前から断たれた」と。それでもなお、あなたに向かうわたしの叫びを/嘆き祈るわたしの声を/あなたは聞いてくださいました。24 主の慈しみに生きる人はすべて、主を愛せよ。主は信仰ある人を守り/傲慢な者には厳しく報いられる。25 雄々しくあれ、心を強くせよ/主を待ち望む人はすべて。」

愛する兄弟姉妹
新約聖書ヘブライ人への手紙13章の御言葉のとおりに
「わたしは、決してあなたから離れず、決してあなたを置き去りにはしない」と言われた主イエスを信じ、また今日の詩編31篇のダビデの希望と力のように、神を信じ神に頼りながら主とともに人生を終わりまで歩みましょう。(おわり)

2012年07月18日

2012年7月8日説教「百匹の羊」神戸基督改革宗長老会 徐亦猛牧師

  CIMG5049x500.jpg2012年7月8日説教「百匹の羊」神戸基督改革宗長老会 徐亦猛牧師
聖書:ルカ福音書15章3-7
「3 そこでイエスは彼らに、この譬をお話しになった、
4 「あなたがたのうちに、百匹の羊を持っている者がいたとする。その一匹がいなくなったら、九十九匹を野原に残しておいて、いなくなった一匹を見つけるまでは捜し歩かないであろうか。
5 そして見つけたら、喜んでそれを自分の肩に乗せ、
6 家に帰ってきて友人や隣り人を呼び集め、『わたしと一緒に喜んでください。いなくなった羊を見つけましたから』と言うであろう。
7 よく聞きなさい。それと同じように、罪人がひとりでも悔い改めるなら、悔改めを必要としない九十九人の正しい人のためにもまさる大きいよろこびが、天にあるであろう。」

説教要約(文責近藤)

【神様は一人一人を特別に創られた】
ある日、おじいさんと孫が公園できれいなアジサイを見た。これは神様の創造したものですと言いました。すると孫は「私たちみんなは神様の創造されたものですか」孫は「ではなぜ僕とじいちゃんの顔が違うのですか?」「わたしの顔のしわは歳のせいです」。「じゃあ、わたしは進化したのですか?」「そうじゃないです。神様は一人ひとり特別につくられたのです」

【取税人や罪人たち】
今日の話の前段としてルカ福音書15章1~2節を見てください。
1 節「さて、取税人や罪人たちが皆、イエスの話を聞こうとして近寄ってきた。」
取税人や罪人たちは神と何の関係もなく神の国、神の救いとは何の関係もなく生きてきたと思っていた。

しかし不思議に彼らはイエスに引き寄せられてきた。「 さて、取税人や罪人たちが皆、イエスの話を聞こうとして近寄ってきた。」
そこでイエスは彼らを喜んで迎え入れた。喜んで神の国を語り喜んで彼らと食事をしたのです。彼らとともに笑い、神を賛美したのです。その時代彼らは神様の前に簡単にでれない者でしたから彼ら取税人や罪人たちは何と幸いだったでしょう。それに比べ今の私たちは素晴らしい恵みのなかにいます。

【パリサイ派の人たちや律法学者】
しかしこの光景を喜ばない人たちがいました。パリサイ派の人たちや律法学者でした。
2節「 するとパリサイ人や律法学者たちがつぶやいて、『この人は罪人たちを迎えて一緒に食事をしている』と言った。」

彼らは自分たちは神の掟を厳格に守り神の国は自分たちのものだと考えていました。
だからイエスを見てつぶやきます。「この人は罪人たちを迎えて一緒に食事をしている」

今日の3~7節ではイエスさまがパリサイ派の人たちや律法学者のこういう態度を正そうとされたのです。

今日この箇所より3つの点を学びましょう。

【1】羊飼いなる神様を離れた人間の姿というものを見失われた羊として描かれていることです。4節 「あなたがたのうちに、百匹の羊を持っている者がいたとする。その一匹がいなくなったら、九十九匹を野原に残しておいて、いなくなった一匹を見つけるまでは捜し歩かないであろうか。」
羊はイスラエル人にとって身近な動物でした。しかし羊は弱いもので群れをつくっています。自分の身を守る武器は持っていません。又羊は近眼であると言われます。目の前の草しか見えないようです。移動するときにも前の羊の後を見るだけです。

何となく人間と似ているように思います。羊飼いが羊を見失うのは羊飼いがぼーとしていたわけでなく羊が羊飼いの声に聴いて行かなかったからです。
ヨハネによる福音書10章に「3 門番は彼のために門を開き、羊は彼の声を聞く。そして彼は自分の羊の名をよんで連れ出す。4 自分の羊をみな出してしまうと、彼は羊の先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、彼について行くのである。」
実際パレスチナでは羊飼いは大声を出して羊を導きます。時として羊飼いの声に聴かないで迷い子になる羊がいます。これが見失われた羊です。

羊飼いの声を聴かないで迷い子になった羊は、当然死ぬではないでしょうか。荒野は食べ物がありません。傷だらけになるか獣の餌食になるからです。見失った一匹の羊に悲しい人間の姿をイエスは見ていたのです。人間は多くの人の社会にいるようでも結局一人で彷徨っています。どこに向かって助けを求めてよいのか分からなくているのです。それはまさにサタンの餌食となりつつある人間の姿です。

【日本留学と阪神大震災】
私自身もそのような経験をしました。16年前に日本にきて神戸YMCAの日本語学校で学びましたとき中国はまだ高度成長になっていないときでした。貧しい国から豊かな日本にきたので、アルバイトを一生懸命してお金を貯めました。勉強しながらお金以外興味がなくなり余裕がなくなりしんどくなっていました。その時阪神大震災が起こり何もかも無くしました。神様から離れて自分の力で生きようとしたの自分の虚しい姿を見たのでした。その時日本語学校でもらった1冊の聖書、ギデオン聖書だけを持ち出すことができ神様に立ち帰ることができました。精神的余裕を与えられて生きることができるようになりました。これは神様のお導きでした。

神学校に行くようになった時も日曜日と土曜日のみはアルバイトをしませんでした。教会と神様に連なって精神的余裕が与えられた、それだけでなく経済面でも神様は多くの祝福を与えてくださいました。

【2】第二は人間を追い求める神様のすがたが書かれています。イエスは言われる「九十九匹を野原に残しておいて、いなくなった一匹を見つけるまでは捜し歩かないであろうか。」

【何でバカな話だ】
この箇所は教会生活の長い人はピントこないかもしれませんが、実際、何年か前ある家庭集会に来ていた人がこれを聞いて「何でバカな話だ」と言いました。そうです、これは本当だと思います。イエスの話には極端な話があり、これもそうですね。99匹をほっておいて一匹の羊を探し出すまでということは普通ありません。ある程度探せばあきらめて99匹のところに戻りますね。人の考えはそうですがイエスが思い描く神の姿はそうではありません。かってに羊飼いの声を聴かずに彷徨った羊を探して探して求めるのです。

【父なる神様の愛】
現代の人はそんな話は考えられないという。しかし、これが父なる神様なのです。間違ってはなりません。迷える羊が神様を求めたと言うのでなく神様が迷える人を求めて探し出すのです。人間は神様から頂けるものは求めますが神様自身を求めはしない。しかしそのような私たちを神様が求めてくださったのです。

私たちが神に立ち返るのは神が私たちを必要だからではありません。人はこういう見方しかできません、私には神が必要だろうかと。そうではありません。私たちが神に立ち返るのはこんな私たちを諦めないで追い求めて下さるからです。そのような神の究極の愛は何処にあるのでしょうか。この話を語られる主イエス御自身にあるのです。

荒れ野にまで出て自ら傷だらけになって探し回っておられる羊飼いの姿こそ主イエスさまです。これが天の父なる神の姿であり、神の愛の現れであるイエス御自身の姿なのです。神様が私たちを万民の中から探し出して神の子供として神の聖なる宮である教会に入れて下さったのです。

【神様の主権的選び】
神様は全ての主権をもって私たちを選び出した。どんなつらい人生があったとしても神は素晴らしい計画をもって選んでくださったのは間違いありません。神の子として栄光ある生き方を送る計画を神は持っておられます。どんなつらいことがあっても新しい人生を歩めるのです。

【3】最後に書かれているのは神の喜びです。イエスの極端な話はさらに続きます。
「15章5 そして見つけたら、喜んでそれを自分の肩に乗せ、:6 「家に帰ってきて友人や隣り人を呼び集め、『わたしと一緒に喜んでください。いなくなった羊を見つけましたから』と言うであろう。」

【神様の歓び】
友人や近所のひとを呼び集めて大騒ぎするのはどう考えてもおかしいです。イエスはどう考えてもおかしい姿を書きます。このような喜びは神様の歓びです。救われた羊が喜んだとはどこにも書かれていません。この話はパリサイ人や律法学者が神の国の福音に不平を言っていることから始まります。彼らは律法を大切にして神に従順に生きたいと思っていた人です。模範的な人々でユダヤ人から尊敬されていました。

彼らに明らかに欠けているには彼らのうちに歓びがなかった。なぜか、彼らは神の歓びを知らなかったからです。私たちもしばしば信仰生活の歓びを失っていることでしょう。それは神の歓びを理解しないからです。『一緒に喜んでください。いなくなった羊を見つけましたから』と言うなら神様は大喜びされるでしょう。あなたは神に立ち返ったとき神がここまで大喜びされたことを知っていますか。あなたの隣人が神に立ち帰ったら神様はこれほどまで喜んでくださることを知っていますか。イエスキリストを地上に送られたのは神様自身がわたしたちを求められたからです。

天において神が天使たちと大喜びしているその喜びにともに預かりたい。
取税人や罪人たちは神の歓びに触れたのです。パリサイ人や律法学者にいつもともに喜んでほしいという意味でこの話をなさったのです。実際、私たち一人だけがクリスチャンになって喜ぶのでなく、まわりの人が救われた姿を見てともに喜ぶと言うことが必要です。
【中国の教会】
御存じのように中国当局の報告では中国には1千5百万人のクリスチャンがいます。しかし地下教会の数は5千万人と言われます。これは中国クリスチャンだけの祈りによるのでなく世界中のクリスチャンの祈りによってなったと思います。

【神戸中国人伝道センター】
神戸でも中国人伝道センターがあって日本に来る留学生、船員たちに伝道活動をしています。改革派はじめ日本人のクリスチャンの助けも必要です。わたしたちも神戸にいる中国人が救われる姿をみて喜びます。そうなれば神様も喜ばれ更なる力を神様は与えて下さると信じます。日曜日に教会、伝道所に集い、ともに礼拝し交わることはわたしたちの喜びであり神様の歓びです。今日初めて来られた方にも明日からの1週間神様とともに歓びつつ歩まれるよう祈ります。

プロフィル
徐亦猛
1974年中国上海生まれ、関西学院大学大学院神学研究科神学専攻:博士後期課程修了(神学博士)
2003年神戸基督教改革宗長老会伝道師
2006年神戸基督教改革宗長老会牧師、関西学院大学神学部講師、明治学院大学キリスト教研究所研究員

2012年07月10日

2012.7.1説教「だから私たちは落胆しません」ウイリアム・モーア

2012.7.1説教「だから私たちは落胆しません」ウイリアム・モーア
新約聖書
コリントの信徒への手紙二4章
16 だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。
17 わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。
18 わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。
5章1 わたしたちの地上の住みかである幕屋が滅びても、神によって建物が備えられていることを、わたしたちは知っています。人の手で造られたものではない天にある永遠の住みかです。

使徒パウロの回心
新約聖書のなかでイエス様のほかもっとも知られている人物はパウロでしょう。彼は新約聖書の3分の1を書きました。
ルカの書いた使徒言行録9章に彼の人生のターニングポイントがよく書かれています。
彼の劇的歩みの大変さに私たちは印象づけられます。ユダヤ人でありながらローマの市民権をもち、ユダヤ人の聖職者としても素晴らしい経歴の持ち主でありました。はじめはユダヤ教に熱心のあまり先頭にたってクリスチャンを迫害しました。ダマスコのクリスチャンを捕えるために出かけたとき、途中で主イエスと奇跡的出会いがあり180度人生が変わりました。

使徒言行録9章
3 ところが、サウロが旅をしてダマスコに近づいたとき、突然、天からの光が彼の周りを照らした。4 サウロは地に倒れ、「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」と呼びかける声を聞いた。
5 「主よ、あなたはどなたですか」と言うと、答えがあった。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。6 起きて町に入れ。そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる。」

一番熱心な迫害者が一番熱心な伝道者になり名前もサウロからパウロになりました。彼は迫害を受ける側になりました。ユダヤ当局だけでなくローマ帝国からも迫害をうけましたが、それにもかかわらず熱心に宣教し教会を中東からヨーロッパに広めました。
当時のクリスチャンも迫害のなかで信仰を守り通し、捕えられては牢に入れられました。

パウロの受けた幾多の苦難
またパウロは伝道のために多くの苦難を経験しました。今日のパウロの手紙に彼の受けた苦難が書かれています。

コリント人への第二の手紙11章
24 ユダヤ人から四十に一つ足りないむちを受けたことが五度、25 ローマ人にむちで打たれたことが三度、石で打たれたことが一度、難船したことが三度、そして、一昼夜、海の上を漂ったこともある。26 幾たびも旅をし、川の難、盗賊の難、同国民の難、異邦人の難、都会の難、荒野の難、海上の難、にせ兄弟の難に会い、27 労し苦しみ、たびたび眠られぬ夜を過ごし、飢えかわき、しばしば食物がなく、寒さに凍え、裸でいたこともあった。
28 なおいろいろの事があった外に、日々わたしに迫って来る諸教会の心配ごとがある。

このような多くの苦難のほかにパウロの身にとげが与えられたとあります。これは治らない苦しい病気であったと言われます。
これらに加えて宣教活動を支えるためにテント作りにも時間を割かねばなりませんでした。
イエスキリストに出会ってからは苦難の連続でしたが彼は真理を悟ることができ喜んで人生を主に捧げました。最後まで信仰に立つことができたのです。

今日の御言葉にパウロはこう言います「16 だから、わたしたちは落胆しません。」なぜなら「たとえわたしたちの『外なる人』は衰えていくとしても、わたしたちの『内なる人』は日々新たにされていきます。17 わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。」

外なる人
「外なる人」とは一時的な存在です。
「8 わたしたちは、四方から患難を受けても窮しない。途方にくれても行き詰まらない。
9 迫害に会っても見捨てられない。倒されても滅びない。」コリント人への第二の手紙

こう言うつらいことが「外なる人」にありましたがパウロは決して滅ぼされないという確信がありました。

私たちもこの世にあって外なる人はパウロと同様に苦しむことは否定できません。
外なる人は衰えていくとしても私たちの内なる人は日々新たにされて行くことは今日の御言葉が約束します。

内なる人
私たちの内なる人とは何でしょうか。キリスト者になると神から与えられる新しい命です。

「17 だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。18 これらはすべて神から出ることであって、神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました。」(コリント人への第二の手紙5章)

イエスキリストの贖い死のおかげで私たちは完全に罪ゆるされ神との関係が回復され神の子供になり、私たちは神を知り毎日神と交わりをもっていきます。聖霊なる神は私たちとともに神の子供として相応しく生きる力と知恵と愛をあたえてくださいます。その恵みで私たちの内なる人が神によって生かされ日々新たにされます。だから外なる人が衰えても私たちは落胆しません。

この世でわたしたちの内なる人は日々成長しますが完全にはなりません。それは天に召されたときまで待たねばなりません。
「17 わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。」(コリント人への第二の手紙4章)

永遠の命とこの世の命
この世での私たちの生涯は永遠と比べると、あっという間です。今はこの世のことしか直接に見えないのでこの世のことが全てだと思い込むことがあります。しかしそうではありません。これからの命は神との完全な交わりに永遠までその言い尽くせない喜びと楽しみが待っています。といってこの世の生涯はあまり価値がないと言ってはなりません。この世で私たちは神とともに歩んだイエス・キリストに似ていきます。いろいろの経験をとおして私たちは成長していきます。天に召されると神との健全な関係をもって主はそのものを完全にしてくださいます。この世の命は永遠の命の準備の過程です。
「18 わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。」(コリント人への第二の手紙4章)

大きな確かな希望をもって私たちは天国を目指すべきです。
パウロが書いたピリピ人への手紙のように「私たちの国籍は天にあります」とあり、この天は私たちの永遠の住処ですから、この世にある間でも天国に目を注ぎ確かな希望をもって楽しんで待ちます。

最後に今日の御言葉コリント人への第二の手紙5章で言われました。
「1 わたしたちの地上の住みかである幕屋が滅びても、神によって建物が備えられていることを、わたしたちは知っています。人の手で造られたものではない天にある永遠の住みかです。」

この世はテント
テントを作っていたパウロは天幕の限界を知っていました。だれもテントに暮らしたくありません。パウロはこの世の暮らしをテントに比べました。神はテントの代わりにしっかり建てられた永遠の住処、素晴らしい建物をわたしたちのために準備してくださいました。

永遠の確かな住処
主イエスはヨハネによる福音書14章でこう約束されました。
1 「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。
2 わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。
3 行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。」

私たちは落胆しない
どんな苦難があっても永遠の住処の希望をもった使徒パウロは落胆しませんでした。自分の外なる人は衰えて行くとしても落胆しないで続けて積極的に神と隣人に仕え福音を伝えました。愛する兄弟姉妹、私たちもこの同じ信仰を抱きましょう。この確かな信仰のみは永遠の住処まで私たちを守って下さいます。(おわり)

2012年07月03日 | カテゴリー: コリントの信徒への手紙二 , 新約聖書