2012年9月

2012年9月30日説教「舌の力」ウイリアム・モーア宣教師

2012年9月30日説教「舌の力」ウイリアム・モーア宣教師
聖書:ヤコブの手紙3章1~12節
1 わたしの兄弟たち、あなたがたのうち多くの人が教師になってはなりません。わたしたち教師がほかの人たちより厳しい裁きを受けることになると、あなたがたは知っています。2 わたしたちは皆、度々過ちを犯すからです。言葉で過ちを犯さないなら、それは自分の全身を制御できる完全な人です。3 馬を御するには、口にくつわをはめれば、その体全体を意のままに動かすことができます。4 また、船を御覧なさい。あのように大きくて、強風に吹きまくられている船も、舵取りは、ごく小さい舵で意のままに操ります。5 同じように、舌は小さな器官ですが、大言壮語するのです。御覧なさい。どんなに小さな火でも大きい森を燃やしてしまう。6 舌は火です。舌は「不義の世界」です。わたしたちの体の器官の一つで、全身を汚し、移り変わる人生を焼き尽くし、自らも地獄の火によって燃やされます。7 あらゆる種類の獣や鳥、また這うものや海の生き物は、人間によって制御されていますし、これまでも制御されてきました。8 しかし、舌を制御できる人は一人もいません。舌は、疲れを知らない悪で、死をもたらす毒に満ちています。
9 わたしたちは舌で、父である主を賛美し、また、舌で、神にかたどって造られた人間を呪います。10 同じ口から賛美と呪いが出て来るのです。わたしの兄弟たち、このようなことがあってはなりません。11 泉の同じ穴から、甘い水と苦い水がわき出るでしょうか。
12 わたしの兄弟たち、いちじくの木がオリーブの実を結び、ぶどうの木がいちじくの実を結ぶことができるでしょうか。塩水が甘い水を作ることもできません。
説教要約(文責近藤)

【兄弟げんか】
子どもの頃、私の両親が一つの格言を教えてくれました。「石と棒はあなたの骨を折ることは出来るが、あなたの言葉は決して傷つけられない」と。
兄と喧嘩したときのこと兄は私を「太った豚」と罵りました。それでこの格言で言い返しましたが、兄は嘲笑ってもっと悪辣なことばをもって私に返しましたので兄の言葉はもっと私を傷つけました。

【舌の力】
言葉は相手を傷つける力があります。言葉は石や棒より相手を傷つける力があり、その回復は肉体的損傷より簡単ではありません。

今日の御言葉は舌の出す力を述べて舌の監督の重要性を強調します。
人はいろいろな悪行を避けることに努めますが言葉となると自己の理性が働きません。舌の力を軽く見積もる傾向があります。舌のもつ善と悪の作用は大きいです。言葉一つで天国にもなり地獄にもなります。
特に教会のなかでは言葉に注意が大切です。

【言葉で過ちを犯さない人は自分の全身を制御できる完全な人です】
箴言18章21「 死も生も舌の力に支配される。舌を愛する者はその実りを食らう。」とあり、また
ヤコブの手紙1章26節「自分は信心深い者だと思っても、舌を制することができず、自分の心を欺くならば、そのような人の信心は無意味です」とあります。

【教師になるな】
さて今日の御言葉の1、2節「わたしの兄弟たち、あなたがたのうち多くの人が教師になってはなりません。わたしたち教師がほかの人たちより厳しい裁きを受けることになると、あなたがたは知っています。2 わたしたちは皆、度々過ちを犯すからです。言葉で過ちを犯さないなら、それは自分の全身を制御できる完全な人です。

ここで教師とは教会のリーダーであり役員です。教会の役員は信者に影響力があり自己中心になることに警告をしています。教会員にたいして自分の言葉を制御する責任があります。

私たちは言葉で過ちを犯すと記されています。言葉で落度がないように
神の助けで舌を完全に監督できるようにしたいのです。

なぜなら言葉で過ちを犯さないなら自分の舌を制御できる完全な人になります。

【言葉と行動】
言葉は行動と連なっているからです。行いは口の言葉に支配されているからです。まず悪を考えて次に舌で悪を表現してその後に悪を行うからです。
それゆえ舌の監督は特別に大切です。

今日の御言葉の6つの例をもって舌の力を考えましょう。
1、舌は馬の轡に譬えられる。3節を見てください。轡(くつわ)は小さいが馬の口に嵌めることで御者はおおきな馬全体を自由に制御することができる。舌も同じです。小さくても人の善と悪を支配します。

2、4,5節で船の舵も舌に例えられる。舵取りは小さな舵で船の方向をおもいのままに定め船を無事に目的の港に導きます。同じように小さい舌でも人を大言壮語させます。

3、5節後半~6 節「見よ、ごく小さな火でも、非常に大きな森を燃やすではないか。舌は火です。舌は「不義の世界」です。わたしたちの体の器官の一つで、全身を汚し、移り変わる人生を焼き尽くし、自らも地獄の火によって燃やされます。」

ここに舌は火に例えられる。ほんの小さな火花が大火災を引き起こすように、小さな不親切な言葉が大きなダメージを人に与えます。とくに子供や目下の者に手厳しい言葉を発すると想像できないほどのダメージを与えてしまいます。

1970年代、世界的になった人気歌手のカーペンターズは兄リチャードと妹カレンのデュオポップスですが、ある音楽批評家が妹カレンを悪く言いました。それが原因で彼女は拒食症になり32歳の若さで亡くなりました。

4、7節からは舌は恐ろしい獣に比べられます。7節~9節「7 あらゆる種類の獣や鳥、また這うものや海の生き物は、人間によって制御されていますし、これまでも制御されてきました。8 しかし、舌を制御できる人は一人もいません。舌は、疲れを知らない悪で、死をもたらす毒に満ちています。9 わたしたちは、この舌で父なる主を讃美し、また、その同じ舌で、神にかたどって造られた人間をのろっている。10 同じ口から賛美と呪いが出て来るのです。わたしの兄弟たち、このようなことがあってはなりません。」

人間は恐ろしい動物をも支配しますが自分の舌を支配できません。神を賛美した後で相手を呪います。これは大いなる矛盾ですが私たちの舌はそのようなものです。

5、最後に11~12節「 11泉の同じ穴から、甘い水と苦い水がわき出るでしょうか。

6、12 わたしの兄弟たち、いちじくの木がオリーブの実を結び、ぶどうの木がいちじくの実を結ぶことができるでしょうか。塩水が甘い水を作ることもできません。」

愛する兄弟姉妹。舌の矛盾した働きについて賛成されるはずです。神を喜ばす為になる言葉だけを語ろうとするなら、舌を制御するために、自分の口を開く前に以下の5つの点を自問自答してみてはどうでしょうか。
自分の語る言葉は真理に基づいているものでか。噂さ話は大抵その真実は疑わしいからです。
自分の話は相手に役立つものですか。
自分の話は相手を鼓舞するものですか。
自分の話は相手に必要なものですか。その話はいい目的からですか。
自分の言葉は親切と心遣いが含まれているもんぽですか。相手を少しでも傷つけることはありませんか。
以上を自問自答してから正直に答えるなら舌を制御できるでしょう。しかし、何より、神のみが相手を喜ばし励ます言葉を発するような心を与えて下さいます。神のみが私たちにその変化を齎してくださいます。

コリントの信徒への手紙二 5章17 を見てください
「だからキリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。」

今日からのこの1週間、神の愛をもって隣人を愛し言葉を制する時私たちはきっと勝利できます。(おわり)

2012年09月30日 | カテゴリー: ヤコブの手紙

2012年9月16日及び23日、西谷伝道所運営委員任職式

 森田幸子姉、山口耕平兄、内田春代姉の3名が先の西谷伝道所運営委員会員選挙で選出され、任職式が2週にわたって行われました。司式:ウイリアム・モーア宣教師

 

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2012年09月25日

2012年9月23日説教「信仰とは何ですか」ウイリアム・モーア宣教師

2012年9月23日説教「信仰とは何ですか」ウイリアム・モーア宣教師
聖書:へブライ人への手紙11章1~7節
1 信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。
2 昔の人たちは、この信仰のゆえに神に認められました。
3 信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉によって創造され、従って見えるものは、目に見えているものからできたのではないことが分かるのです。
4 信仰によって、アベルはカインより優れたいけにえを神に献げ、その信仰によって、正しい者であると証明されました。神が彼の献げ物を認められたからです。アベルは死にましたが、信仰によってまだ語っています。
5 信仰によって、エノクは死を経験しないように、天に移されました。神が彼を移されたので、見えなくなったのです。移される前に、神に喜ばれていたことが証明されていたからです。
6 信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神が存在しておられること、また、神は御自分を求める者たちに報いてくださる方であることを、信じていなければならないからです。
7 信仰によって、ノアはまだ見ていない事柄について神のお告げを受けたとき、恐れかしこみながら、自分の家族を救うために箱舟を造り、その信仰によって世界を罪に定め、また信仰に基づく義を受け継ぐ者となりました。

説教要約:文責 近藤
【夜の高速道路】
最近は夜間に高速道路をドライブすることがよくあります。その理由は深夜割引があったり、渋滞がなく、また夏なら夜は熱くもありません。今年の夏、高速道路で長野に休暇に行きましたが、その帰り道、大雨になり10メートル先が見えないほど見通しが悪い中を危険を感じながら少しスピードを落として走りました。その時のわたしの態度と行動は信仰に近いものでした。道路の先はほとんど見えないが命がけで道があると信じ、道路の側壁は川の激流にも耐えることを確信して走ることができたからです。高速道路を信頼せず道を信じなかったら決して走らず雨が上がるのを待ったでしょう。

このように毎日の生活においても信頼を求められます。例えば朝スイッチを入れれば電灯が燈ることを信じるし、ポストに郵便物を入れると相手に届くとか、医師の処方箋を薬局に出すと薬剤師はその薬が医師の指示通り渡されるということを信じます。

会堂の造り方が分からなくても確かに安全に建てられていると信じるので毎週ここに集います。それは信頼のお蔭です。

それは今日の聖句「1 信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認すること」です。
毎日の生活は信頼のお蔭で生きることができますが、信頼がなければマヒ状態になります。

【信仰とその対象】
信仰の場合も同じですがその対象は違います。その対象は人や物でなく神です。信仰は神を信じること、神の約束、愛、力、救いを確信しその中に生きることです。わたしたちの信仰の対象は聖書に啓示された神様です。聖書にこう書かれています。
「 ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」(使徒言行録4章12)
信仰の唯一の正しい対象が聖書に記されています。それはイエス・キリストです。その他の者は救いになりません。

信仰とは望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。
私たちは神を見ないが神を信じて生きています。

【ハドソン・テーラー】
160年前、有名な英国人の伝道者ハドソン・テーラーがはじめて宣教師として中国に伝道に行った時のことです。大凪(なぎ)で船は進めなくなり人食い島に流されそうになりました。海岸では人食い人種が御馳走が流されてくるのを待ち受けていました。

船長はテーラー先生に神の助けを祈ってくれるように頼みました。テーラー先生は船長に「祈りますが風がもうすぐ来るのでまず帆を上げるよう」に言いました。船長は大なぎなのに帆を上げると笑いものになると断りました。テーラー先生は今帆を上げないと風のために祈りませんと答えました。船長がテーラー先生の言うことを聞きいれたので今度は祈りました。すると大風になりましたので、船長はテーラー先生のところにきて「まだ風のために祈っていますか。もう風は十分です。風を止めるように祈ってください」と頼みました。

テーラー先生は神を信じ、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認したので主がその祈りに豊かに答えて下さいました。

今日の聖書は旧約聖書の3人の人物の例を挙げ信仰の結果を記録しています。

【アベル】
「4 信仰によって、アベルはカインより優れたいけにえを神に献げ、その信仰によって、正しい者であると証明されました。神が彼の献げ物を認められたからです。アベルは死にましたが、信仰によってまだ語っています。」

アダムとイブの最初の子供であるアベルとカインですが、アベルは信仰によって神を礼拝しました。つまり自身をすぐれた生贄として神に捧げました。信仰を持つ者は神を感謝をもって礼拝します。愛する兄弟姉妹、それは私たちの姿ですか。

【エノク】
「5 信仰によって、エノクは死を経験しないように、天に移されました。神が彼を移されたので、見えなくなったのです。移される前に、神に喜ばれていたことが証明されていたからです。
6 信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神が存在しておられること、また、神は御自分を求める者たちに報いてくださる方であることを、信じていなければならないからです。」

エノクは主とともに歩んだので主に喜ばれました。それ故神はエノクを生きたまま天に移された。

【ノア】
「7 信仰によって、ノアはまだ見ていない事柄について神のお告げを受けたとき、恐れかしこみながら、自分の家族を救うために箱舟を造り、その信仰によって世界を罪に定め、また信仰に基づく義を受け継ぐ者となりました。」

人類の堕落と罪の故に神はただノアの家族を除いて人類を滅ぼすことを決めました。ノアの家族のゆえに人類は残りました。周りの嘲りにたえて120年かけてノアの家族は箱舟を造りました。信仰がなければ箱舟を作ることは出来ませんでした。

私たちは望んでいる事柄を確信し見えない事実を確認して神のお働きに参加したい。

2012年09月23日 | カテゴリー: ヘブライ人への手紙 , 新約聖書

2012.9.16.説教「生涯における最大の質問」ウイリアム・モーア宣教師

2012.9.16.説教「生涯における最大の質問」ウイリアム・モーア宣教師

聖書:マルコによる福音書8章
27 イエスは、弟子たちとフィリポ・カイサリア地方の方々の村にお出かけになった。その途中、弟子たちに、「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」と言われた。28 弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」
29 そこでイエスがお尋ねになった。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトロが答えた。「あなたは、メシアです。」
30 するとイエスは、御自分のことをだれにも話さないようにと弟子たちを戒められた。

31 それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。32 しかも、そのことをはっきりとお話しになった。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。33 イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」

34 それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。35 自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。36 人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。
37 自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。

38 神に背いたこの罪深い時代に、わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るときに、その者を恥じる。」

説教要約(文責近藤)

【「行かなかった道」】
私が中学生のとき暗記させられたアメリカの代表的詩人ロバート・フロストの「行かなかった道」という作品があります。
黄色く染まった森の中で道が二つに分かれていた。
残念だが二つの道を行くことはできなかった。
長い間立ち止まって私は一方の道を眺めていた。
・・一方の道を出来るだけ遠くまで眺めた。
それからもう一方の道を見た。同じく美しかった。
こちらの方が私の心を捕えた。
なぜならそれは草に覆われ踏みならされていない地だったからだ。
私がそこを通れば踏みならされてしまうわけだけど。
二つの道は同じように私の前に横たわっていた。
だれの足跡もないままに。
こんな風に考えていても、もう同じ場所には帰ってこないだろうことも知っていた。溜息とともにこれだけは言える。
遠い遠い未来のどこかで森の中、道は二手に分かれている。
そして私は誰もが選ばない道を選んできたのだ。
そのことがどれだけ大きく私の人生を変えたことか。

【生涯における選択】
私たちの生涯でどのような教育を選ぶか、友人の選び、就職の選択、結婚の相手などでどちらの道を選ぶべきか決断を迫られる時があります。その答えによって私たちの人生は大きく変わります。

今日の主イエスの質問は弟子たちにとって大事な質問でした。彼らの教育、友人、就職、結婚の相手などでどちらの道を選ぶかということではありませんで、パレスチナの地方を巡回しながら福音を多くの人に述べ伝え、病人を癒しながらのことです。主は弟子たちに質問をしました。「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」と。

主イエスは人の心を見抜くことがおできになるのでその答えは分かっておられたが、もっと大きな質問をするためにこの質問をした。

弟子たちは答えた。周りの人は「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」

【あなたがたはわたしを何者だと言うのか】
周りの人たちは主イエスを神のお働きをする人物として高く評価しました。主はその報告にコメントせず、その代わりに弟子たちにさらに尋ねた。はじめからこの質問をなさるおつもりでした。それは弟子たちの生涯におけるもっとも大事な質問であり、今日の私たちにとっても同じく大事な質問だからです。

「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」

【あなたは、メシア、救い主です】
ペトロが答えた。「あなたは、メシア、救い主です。」それはペテロの信仰告白で、ペテロの人生を大きく変えました。

あなたにとって主イエスはどう言うご存在ですか。
聖書には主はご自分が誰であるか明らかに御自身の言葉で記しています。
主は神の永遠の御子、この世のすべての民の救い主、永遠の命に至る唯一の道、主こそ私たちとともにおられる神であります。

【主イエスは救い主、神の御子、主】
主御自身の主張を信じますか?この人生の最大の質問は大事です。主が私たちの救い主、神の御子、主であると信じるならすべてが変わります。この告白ができたらこの世で生きる力と歓び、目的、希望が与えられます。

ヨハネによる福音書14章
6 イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。7 あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」

神の聖霊が今、生きて働きわたしたちに慰め、信仰、力、知恵、助け、平安を与えて下さる。

【赦し】
主の祈りを捧げるごとに「われらに罪を犯すものをわれらが許す如く、われらの罪おも赦したまえ」と祈ります。

神は私たちを罪人とは見ません。御子イエスの義を見て私たちを完全に赦して下さいます。
神に罪を赦された私たちは人を赦すことができます。相手の罪を赦すことで恨みから解放されると神と人間の間の平和が実現します。わたしたちの生き方が変わります。

【自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい】
今日の御言葉に「34 それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。
35 自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。」

主イエスを信じ主とともに歩むと自己中心的わたしを捨てることができ主に似てきます。それは自分の十字架を背負うということです。自分を捨て何より神に仕え隣人に仕えます。

【人生に勝利する】
最後に主が自分の救い主になると最後の敵である死の恐れにも打ち勝ちます。主は復活により死に勝利されました。主はこう約束されます。

「25 イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。26 生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」(ヨハネによる福音書 11章)

主を信じる者はこの世の歩みが終ってもはるかに素晴らしい天国で永遠の命を救い主とともに生きるのです。

愛する兄弟姉妹。神なる主はわたしたち一人一人に今も問いかけられます。「あなたはわたしを何者だと言うのか」。その答えがどれだけ私の人生を変えることか。(おわり)

2012年09月16日 | カテゴリー: マルコによる福音書

2012年9月9日説教「赦しの恵み」ウイリアム・モーア宣教師

2012年9月9日説教「赦しの恵み」ウイリアム・モーア宣教師

聖書:詩編23篇1~11.

1 【ダビデの詩。マスキール。】いかに幸いなことでしょう/背きを赦され、罪を覆っていただいた者は。2 いかに幸いなことでしょう/主に咎を数えられず、心に欺きのない人は。

3 わたしは黙し続けて/絶え間ない呻きに骨まで朽ち果てました。4 御手は昼も夜もわたしの上に重く/わたしの力は/夏の日照りにあって衰え果てました。〔セラ
5 わたしは罪をあなたに示し/咎を隠しませんでした。わたしは言いました/「主にわたしの背きを告白しよう」と。そのとき、あなたはわたしの罪と過ちを/赦してくださいました。〔セラ

6 あなたの慈しみに生きる人は皆/あなたを見いだしうる間にあなたに祈ります。大水が溢れ流れるときにも/その人に及ぶことは決してありません。
7 あなたはわたしの隠れが。苦難から守ってくださる方。救いの喜びをもって/わたしを囲んでくださる方。〔セラ

8 わたしはあなたを目覚めさせ/行くべき道を教えよう。あなたの上に目を注ぎ、勧めを与えよう。9 分別のない馬やらばのようにふるまうな。それはくつわと手綱で動きを抑えねばならない。そのようなものをあなたに近づけるな。10 神に逆らう者は悩みが多く/主に信頼する者は慈しみに囲まれる。11 神に従う人よ、主によって喜び躍れ。すべて心の正しい人よ、喜びの声をあげよ。

説教要約(文責近藤)

【10人の有名人】
英国人の俳優で劇作家のノエル・ハーワードはロンドンに住む10人の有名人にイタズラをしかけました。「わたしはあなたが犯した行為を知っている。それを公表しないならロンドンを去ってもらう」と書いて匿名で手紙を送りました。この10人は6か月以内に全てロンドンから去りました。それは彼ら10人は自分の罪が知られることを好まず余儀なく自らロンドンを去りました。罪がなかったらその手紙を無視したでしょう。
箴言に「神に逆らう者は追う者もないのに逃げる」(28:1)とあります。
10人は自分の罪を隠したかった。しかしいつか明らかにされる不安と罪の意識に苛まれて生涯を歩まねばなりませんでした。

【罪を隠すこと】
私たちは小さな罪にも良心が痛みます。それが明らかにされる心配があります。
罪を隠すことで周りの人との良い交わりが壊されます。過去に行った罪の囚人になり前に進むことが困難になります。

赦されない未解決の罪は神との関係を損ないます。私たちは全て一人残らず罪人です。罪は殺人や強盗、盗みなどの大きな罪に限らず神の正義に逆らう小さな罪もあります。
コヘレトの言葉7章20「 善のみ行って罪を犯さないような人間は/この地上にはいない。」とあります。

今日の詩編32篇の御言葉は罪の唯一の解決の道です。それは神の赦しです。

【罪を赦されたダビデ王】
ダビデはイスラエルの王として忠実に神の前に生涯を歩もうとしましたが大きな罪も小さな罪も犯しました。大きな罪とは将軍ウリアの妻バテシバと姦淫し、それを隠そうとウリアを戦場の最前線で戦わせてひそかに彼を殺したことです。
ダビデは許された罪人としてこの詩編を書きました。

まず、その罪が許された者の歓びを歌いその恵みを讃美したのが詩編32篇1~2節です。

【幸いなこと】
詩編32篇1 【ダビデの詩。マスキール。】いかに幸いなことでしょう/背きを赦され、罪を覆っていただいた者は。2 いかに幸いなことでしょう/主に咎を数えられず、心に欺きのない人は。

詩編1篇1~2節にも「1 いかに幸いなことか/神に逆らう者の計らいに従って歩まず/罪ある者の道にとどまらず/傲慢な者と共に座らず、2 主の教えを愛し/その教えを昼も夜も口ずさむ人。」とありますように罪を犯さないことは一番幸いなことです。

しかし罪を犯しても罪を告白し神の赦しを戴くことも幸いであり主の祝福になります。

ここで罪は3つの言葉で説明されます。
1背き:「神の教えに逆らうこと」、
2罪:神の定められた標準に達しないこと。したこと、しないことで神の御旨に従わないこと。
3咎:堕落したこと。

過ちが許されるとこの3つの罪が許されます。
赦しとは持ち去って下さること、完全に処分してくださることです。

【ゴミの処分】
家のゴミを出すのは私の仕事です。それは気持ちの悪いことではありません。汚いゴミが持ち去られ焼却処分されるとスッキリします。捨てたゴミはもう私と関係ありません。もはや存在しないものとなります。

罪が処分されることは詩編103篇12 節にこう記されています。
「東が西から遠い程/わたしたちの背きの罪を遠ざけてくださる。」

罪を告白し悔い改めると神は完全にそれを処分してくださいます。神との良い関係が回復され罪の意識が取り除かれます。

【罪を告白しないとき】
反面、罪を告白しないときの状態が3節に記されています、ダビデ王はいいます、
「3 わたしは黙し続けて/絶え間ない呻きに骨まで朽ち果てました。4 御手は昼も夜もわたしの上に重く/わたしの力は/夏の日照りにあって衰え果てました。」

罪を告白しないと霊的に病気になり、精神的にも肉体的にも及びました。ダビデは罪を隠そうとすると苦しく、辛かった。さらにダビデは神の懲らしめを受けました。
4節を見てください、
「 御手は昼も夜もわたしの上に重く/わたしの力は/夏の日照りにあって衰え果てました。」

我に返らせるため、罪を告白させるため神の聖霊がダビデに罪の意識を拡大させダビデは大変苦しくなり、耐えられなくなってやっと神に自分の罪を告白しました。彼は瞬時に癒されました。5節を見てください、
  5節、わたしは罪をあなたに示し/咎を隠しませんでした。わたしは言いました/「主にわたしの背きを告白しよう」と。そのとき、あなたはわたしの罪と過ちを/赦してくださいました。

【罪の告白】
ダビデは自分の罪を告白し悔い改めました。悔い改めとはその罪を嘆くことでなく、繰り返おさないこと、神とともに正しい方向に歩むことが、本当の悔い改めになります。

愛する兄弟姉妹、
神の赦しを戴くのに主に乞うことも許しのために善行をすることも必要ありません。

私たちが許していただきたい気持ち以上に、神御自身は何よりも私たちを赦したいのです。

神は私たちを赦すために御自身の独り子をこの世に遣わしてくださいました。
主イエスは十字架の上で私たちの罪を贖ってくださいました。
主イエスは私たちに代わって十字架で死んでくださり私たちの報酬を払い神の赦しを保証して砕いました。

ヨハネの手紙一 1章9 節にこう書かれています。
「自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。」

主イエスの救いを信じて、神に告白していない罪、ゴミをいつまでも持つ必要はありません。告白すればダビデ王と同じ歓びを経験できます。

ダビデとともに詩編32篇1~2節をもう一度歌いましょう。
「いかに幸いなことでしょう/背きを赦され、罪を覆っていただいた者は。2 いかに幸いなことでしょう/主に咎を数えられず、心に欺きのない人は。」(おわり)

2012年09月09日 | カテゴリー: 旧約聖書 , 詩篇

2012年9月2日説教「恐れを乗り越える」ウイイアム・モーア宣教師

2012年9月2日説教「恐れを乗り越える」ウイイアム・モーア宣教師
説教要約(文責近藤)

聖書;マタイ福音書8章23~27

23 イエスが舟に乗り込まれると、弟子たちも従った。
24 そのとき、湖に激しい嵐が起こり、舟は波にのまれそうになった。イエスは眠っておられた。25 弟子たちは近寄って起こし、「主よ、助けてください。おぼれそうです」と言った。26 イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。信仰の薄い者たちよ。」そして、起き上がって風と湖とをお叱りになると、すっかり凪になった。
27 人々は驚いて、「いったい、この方はどういう方なのだろう。風や湖さえも従うではないか」と言った。

【大いなる時の声】
聖書と福音とイエス・キリストと教会とキリスト教信仰は人間の心に対する恐れに対する大いなる時の声です。
恐れはわたしたちの大敵です。恐れが私たちに入ると私たちの生きる力、生きがい、信仰さえも奪われます。

【悪魔の業】
悪魔は恐れを用いて神と人との関係、人と人との絆を攻撃し失望させ人を孤独と無力に陥れます。地獄の悪魔はそれを大喜びします。

恐れの原因には難病になる恐れ、職場と収入を失う恐れ、裏切られる恐れ、愛するものを失う恐れ、孤独になる恐れ、事業の失敗、間違いをする恐れ、悪い癖に負ける恐れ、死の恐れがあります。恐れは神の子である真の人間性を損ない、悪魔はこの恐れをもって神の子である人間をを自分の物にしようと企みます。

誰でも恐れを経験しますし、今もこれと闘っています。

だれでも恐れの厳しい害を受けたはずです。諦める者もあります。

【豊かに生きるため】
しかし神の言葉に頼ると恐れがなく生きられます。死と恐れはイエスが征服したからですす。

主は言われた
ヨハネによる福音書10章10  盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。11 わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。

私たちが豊かに生きるように主は恐れの力を克服しました。
十字架を通して主は私たちの恐れと死の力を克服し、勝利と自由に私たちを導きます。

今日の御言葉はそのことをはっきとりと教えます。もう一度今日の聖書箇所を聞いてください。(前記)

【ガリラヤ湖】
主はパレスチナを巡回して神の福音を伝え病を癒しました。主と弟子たちは主に徒歩でいきましたが、ある時は近道のためガリラヤ湖を船で渡りました。弟子の中には漁師がいました。ガリラヤ湖は琵琶湖の4分の1の大きさで、よく天候が急変しました。

24 そのとき、湖に激しい嵐が起こり、舟は波にのまれそうになった。イエスは眠っておられた。

普通の突風以上の激しい嵐に漁師の弟子たちは死の恐怖に襲われました。
自分の力ではどうしようもない死を待つのみの人生の嵐というものは誰にでも襲います。

わたしたちは病気や死の恐れの嵐、家庭内の混乱の嵐、経済的混乱の嵐に襲われます。

湖に激しい嵐が起こり弟子たちは死の恐怖に襲われました。そのような時、主は何をされたか。主は眠っておられたとは普通の人には考えられないことですが、主はそれほどに疲れに襲われていたでしょう。

【主を責める弟子たち】
弟子たちは眠っている主を起こし、「主よ、助けてください。おぼれそうです」と言った、とあります。ギリシャ語原文によると「主よ、救え。死にかかっている」とパニックになって、マルコ福音書では「私たちが溺れてもかまわないのですか」と言い、主は弟子たちのことを構っておられないと訴えました。恐れは神の助けと愛を、神の力を疑い周りの者を責めます。

恐れは以前に経験した神の救いの力と助けを忘れ失望させるのです。

パニックになるとイエスの力を信じられなくします。

恐れは豊かな命を奪い、夢をもつこと、愛することなどを難しくします。

弟子たちは嵐を恐れ、自分の無力を悟ると、少なくとも主を起して「主よ助けよ、死にかかっている」と叫びました。

【主の叱責】
主イエスは言われた。「26なぜ怖がるのか。信仰の薄い者たちよ。」なぜ同じ船に主がいるのにキリストの救いの力を疑うのか。
パニックになると信仰が薄くなり信頼している主さえ疑います。主は弟子たちを叱られたが、嵐をも叱られました。26節後半、

「そして、起き上がって風と湖とをお叱りになると、すっかり凪になった。」

27節に弟子たちの反応が書かれています。

人々は驚いて、「いったい、この方はどういう方なのだろう。風や湖さえも従うではないか」と言った。

嵐の中で再び主に信頼を置くことができました。

主が同じ船に乗っていたので救いがありました。パニックにならなくても良かったのです。

【恐れるな】
主イエスの多くの話は私たちが恐れないように命じておられます。

ルカによる福音書12章
「4友人であるあなたがたに言っておく。体を殺しても、その後、それ以上何もできない者どもを恐れてはならない。5 だれを恐れるべきか、教えよう。それは、殺した後で、地獄に投げ込む権威を持っている方だ。そうだ。言っておくが、この方を恐れなさい。
6 五羽の雀が二アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、神がお忘れになるようなことはない。
7 それどころか、あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。」

【思い悩むな】
マタイによる福音書6章25 「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。

ヨハネによる福音書 14:1 「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。

弟子たちは嵐の中で主を信じました。主がそばにいて同じ船におられるので恐れる必要はなかったが、しかし嵐があったからこそ彼らは救い主の力を信じました。

キリスト者にも人生の嵐があります。明日、あさって何が襲ってくるか。救い主と同じ船に乗っているなら主は嵐を鎮める力があります。わたしたちは主を信じ、どんなことがあっても恐れることなく豊かに生きることができます。(おわり)

2012年09月02日 | カテゴリー: マタイによる福音書