2015年10月

2015年10月25日説教「ホサナ、ダビデの子イエスよ」金田幸男牧師

IMG_4129.JPGL151025001.wav ←クリックで説教音声


マルコによる福音書11章
1 一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山のふもとにあるベトファゲとベタニアにさしかかったとき、イエスは二人の弟子を使いに出そうとして、2 言われた。「向こうの村へ行きなさい。村に入るとすぐ、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、連れて来なさい。
3 もし、だれかが、『なぜ、そんなことをするのか』と言ったら、『主がお入り用なのです。すぐここにお返しになります』と言いなさい。」
4 二人は、出かけて行くと、表通りの戸口に子ろばのつないであるのを見つけたので、それをほどいた。
5 すると、そこに居合わせたある人々が、「その子ろばをほどいてどうするのか」と言った。
6 二人が、イエスの言われたとおり話すと、許してくれた。
7 二人が子ろばを連れてイエスのところに戻って来て、その上に自分の服をかけると、イエスはそれにお乗りになった。
8 多くの人が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は野原から葉の付いた枝を切って来て道に敷いた。9 そして、前を行く者も後に従う者も叫んだ。「ホサナ。主の名によって来られる方に、/祝福があるように。10 我らの父ダビデの来るべき国に、/祝福があるように。いと高きところにホサナ。」
11 こうして、イエスはエルサレムに着いて、神殿の境内に入り、辺りの様子を見て回った後、もはや夕方になったので、十二人を連れてベタニアへ出て行かれた。


説教「ホサナ、ダビデの子イエスよ」

聖書:マルコ11章1-11

 

要旨

【エルサレム入城を前に】

 イエス・キリスト一行はエルサレムに近づきます。オリーブ山はエルサレムの城壁から、キデロンの谷を隔てて東側に位置し、小高い山で海抜814メートル。エルサレムは海抜790メートルですから、ほぼ同じ高さの丘と言ってもいいでしょう。オリーブ山の東の麓にはベテファゲとベタニヤという村がありました。イエス・キリストはこれらの村を通過してエルサレムに入って行こうとされます。

 

【二人の弟子を遣わされた】

 キリストはその直前、二人の弟子をその村に送られましたが、その村はどちらであったか記されていません。ただベタニア村にはラザロ、マルタ、マリヤの兄弟姉妹が住み、ハンセン病患者のシモンの家もあり、キリストはそこで休息されています(マタイ21:17,26:6、マルコ14:3)。遣わされた二人の弟子がだれであったかマルコは記していません。

 

【だれも乗ったことのない子ロバ】

 キリストは二人の弟子に細かに指示をされています。用件はだれも乗ったことのない子ロバを用意することでした。キリストがその村にだれものったことのない子ロバがいたことをどうしていったのか。あるいはロバの持ち主がどうしてすぐにわけも聞かずロバを連れて行くのを許可したのか、マルコは詳細に記していません。キリストが予見する能力があったので、二人の弟子たちは障害なくロバを連れてくることができたのか、あるいは、キリストとロバの主人の間ではすでに了解済であったのか、詳しいことはここに記されていません。イエス・キリストがいわば遠目で先のことを知っていたのかもしれません。あるいはロバの主人公はイエス・キリストをよく知っていたのかもしれません。こういう問題は興味あるものには面白いでしょうけれども、この記事が訴えていることからするとあまり関係がありません。とにかく二人の弟子はキリストの言うとおりであったことに気がついています。

 

【なぜ小ロバか】

 二人の弟子はキリストのところへ子ロバを連れてきました。なぜ小ロバであったのか。ロバは今日、頭の悪い家畜であるとか、乗用ではあるが、高級な乗り物ではなかったという誤解があります。しかし、当時のユダヤ人の間ではロバはごく普通の乗り物でありました。身分の高いものはロバを使用しないなどということはありませんでした。

 

 なぜ、キリストはロバ、しかも子どものロバを所望されたのでしょうか。ロバは子どものときは人を乗せることはできません。成熟するまで人を乗せることができなかったのです。キリストはそのような間もなく乗用に供する若いロバを求められました。だれも乗ったことがない、それはこのロバが聖なる目的に用いられるためでした。キリストはご自身が聖なる目的でエルサレムに上って行こうとされます。だれも人を乗せたことのないロバが聖なる目的に用いられるのは相応しかったのです。

 

【預言を成就:見よ、あなたの王が来る・・雌ろばの子に乗って】

 それ以上にキリストは子ロバを用いられる目的がありました。ゼカリヤ書9-10をご覧ください。娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者/高ぶることなく、ろばに乗って来る/雌ろばの子であるろばに乗って。わたしはエフライムから戦車を/エルサレムから軍馬を絶つ。戦いの弓は絶たれ/諸国の民に平和が告げられる。彼の支配は海から海へ/大河から地の果てにまで及ぶ。」

 

 イエス・キリストはこの預言を成就するためにロバを求められました。ゼカリヤは間もなくユダヤにまことの王が立てられると期待していました。その預言を成就するためにキリストはエルサレムに入城する決心をされました。

 

【真に平和をもたらすメシヤ】

この場合、キリストはローマ帝国を打倒し、一大帝国を築くメシヤとしてエルサレムに入っていこうとされたのではありません。あるいは終末的な世界の救済者となるものでもありませんでした。ゼカリヤが預言するメシヤは平和をもたらすメシヤでした。キリストはゼカリヤの預言を成就するためにエルサレムに上って行こうとされています。平和の君としてエルサレムに上って行かれます。

 

【戦車でなく】

当時の勝利者、凱旋する軍隊の司令官は凱旋すると、二頭の馬に引かれた戦車の乗ってその勝利を誇示しました。あるいは人が担ぐ床几の上に乗って祖国に凱旋するのが普通でした。そこで用いられる家畜はロバではありません。イエス・キリストはご自身ゼカリヤの言うようにメシヤとしてエルサレムに上って行かれます。キリストは固くご自身がメシヤであると自覚されていたことを示します。ゼカリヤの預言は成就しなければなりません。ゼカリヤの言うとおり、軍人でもなく、卓越して政治家でもなく、そのような栄光を受けたメシヤではありません。キリストはロバに乗られます。キリストは決して当時の人々が期待するような働きでメシヤであることを知らされませんでした。ロバは普通の人が乗る常用の家畜でした。征服者でも、暴力で覇者になるのではなく、キリストは平和をもたらす救済者でありました。

 

【群衆は上着を脱いで、葉のついた木の枝を】

 二人が村に入るとイエス・キリストの言うとおりでした。ロバの所有者はすぐに応答します。ロバがキリストのところへ連れてこられます。弟子をはじめ人々がしたことが記されます。弟子たちは鞍の代わりにするために上着を脱ぎます。群衆は上着を脱いで、それを道路に敷き詰めます。さらに葉のついた木の枝を切ってきて道路に敷き詰めます。これらの行動は旧約に前例があります。

まず、列王記9:13です。この記事には預言者エリシャが油を注いでイエフが反乱を起す次第がすりされています。エリシャが油を注いで、イエフを王としたのですが、彼の家臣たちが上着を敷きます。いまでも国賓を迎えるとき、じゅうたんが敷かれます。じゅうたんはこのように身分の高い人を賛辞する行為です。ここではそのじゅうたんが即時準備できなかったので、部下たちが上着を敷物にしてイエフを王として迎えました。この故事に倣って、ユダヤ人はキリストをメシヤとして受け入れようとしています。

 

イエフは革命家と言ってもよいでしょうか。ヨラム王に反抗して王位を確保します。イエフを王としようとした人々はこのように急遽じゅうたんを確保できなかったので上着を敷物にしたのですが、この行為はイエス・キリストにおいても繰り返されました。葉のついた木の枝も道路に敷かれます。これも過去のユダヤ人の行動を反映しています。

 

【マカバイ家のシモン】

マカバイ第一、13:51に記されていることですが、紀元前142年ごろ、ユダヤは隣国で強力な力を持っているシリアと戦います。シリアのほうがむろん軍事力では強力であったと考えられます。しかし必死の戦いで、マカバイ家のシモンはシリアからの独立を樹立します。シモンがエルサレムの神殿の近くにある要塞まで登っていくとき、葉のついた木の枝が道路に敷き詰められたのでした。それは棕櫚に気でした。棕櫚の木はエリコのような熱帯性気候の地域ではよく育ちます。人々は棕櫚の木などを切ってきて道路に敷いたのでした。

 これらの記事から分かりますが、人々が求め願ってきたメシヤはユダヤを軍事大国にしようとするメシヤに他なりません。旧約にあったように革命を引き起こし、暴力によって統治しようとするメシヤが期待されていました。

 

【ハレル詩編歌】

 さらに、人々は詩編118;25-26を歌ったと記されます。詩編113-118はハレルの詩編歌といい、仮庵の祭り、過越しの祭といった大きな祭のときエルサレムに上って来る巡礼がこの詩編を歌いました。巡礼を待ち構える神殿の祭司の聖歌隊がこの詩編を歌い、群衆もその詩編で応答しました。この詩編はエルサレムに上っていく人々がメシヤの到来を期待したのです。その詩編は今まで慣習的に歌われていましたが、いまやその歌と共にメシヤがエルサレムに上っていこうとしていると人々は考えたのでした。

 

【ホサナ「今、救ってください」】

 人々はホサナと歌ったとあります。ホサナとは「今、救ってください」という意味ですが、この語は神讃美に用いられるようになっていました。メシヤの到来を喜び讃美する詩編と思われていました。

 このあとキリストは神殿を見てまわり、遅くなったので、ベタニや村に戻っていかれました。

 この記事はイエスのエルサレム入城のことであり、とても華やかな光景とも思えます。棕櫚の日は教会カレンダーでは受難週の開始を告げる、教会行事にはなくてならない大事な日として記憶されました。子どもの聖書物語ではこの場面はイエス・キリストの栄光のみ姿に描かれます。

 

【メシア理解:キリストと群衆の大きな隔て】

 けれども、よく考えてみると、キリストと群衆の理解には大きな隔てがありました。齟齬があったというべきでしょう。あくまで群衆はこの世界に大きな変革をもたらすメシヤを期待していました。ところがキリストはそういうメシヤではありません。

 

 キリストを正しく完璧に理解できるのでしょうか。私たちのキリスト理解ははじめから完全ではありません。その反対です。ここの登場する群衆は過越しを都で守ろうとする巡礼ですが、彼らはもう少し時間が経つと「十字架につけろ」と叫び出す人々です。あまりにも格差があります。

 キリストを正当に理解していない、そのためにキリストを十字架につけてしまいました。無知が解決されず、キリストを十字架に追いやるものたちとなります。

 

 はじめからすべての人がキリストを理解しているわけではありません。時間はかかりますが、キリストを理解することは肝心なことです。次第にキリスト理解は異なっていきます。

 私たちもそうです。何もかも正確にキリストのことが分かっていなくてもいいのです。短期間でキリストのことを完璧に知ることなど不可能なことです。それでもいいのです。徐々にキリストを理解していく。それが肝心なことなのです。

 


IMG_4101.JPGIMG_4103.JPGIMG_4122.JPGIMG_4124.JPGIMG_4123.JPG


2015年10月25日 | カテゴリー: マルコによる福音書

2015年10月18日「行け、あなたの信仰があなたを救った」金田幸男牧師

L151019006.wav (前半)
L51019005.wav (後半) クリックで音声で説教が聴けます
IMG_3568.JPG

マルコによる福音書 10章46~52節
46 それから、彼らはエリコにきた。そしてイエスが弟子たちや大ぜいの群衆と共にエリコから出かけられたとき、テマイの子、バルテマイという盲人のこじきが、道ばたにすわっていた。47 ところが、ナザレのイエスだと聞いて、彼は「ダビデの子イエスよ、わたしをあわれんでください」と叫び出した。
:48 多くの人々は彼をしかって黙らせようとしたが、彼はますます激しく叫びつづけた、「ダビデの子イエスよ、わたしをあわれんでください」。
:49 イエスは立ちどまって、「彼を呼べ」と命じられた。そこで、人々はその盲人を呼んで言った、「喜べ、立て、おまえを呼んでおられる」。50 そこで彼は上着を脱ぎ捨て、踊りあがってイエスのもとにきた。
:51 イエスは彼にむかって言われた、「わたしに何をしてほしいのか」。その盲人は言った、「先生、見えるようになることです」。52 そこでイエスは言われた、「行け、あなたの信仰があなたを救った」。すると彼は、たちまち見えるようになり、イエスに従って行った。


説教「行け、あなたの信仰があなたを救った」

聖書:マルコ福音書10章35-45

 

要旨

【エリコという町】

  イエス・キリストとその一行はエリコという町の到着したとあります。エリコはヨルダン川が流れ込む死海の北11キロ、ヨルダン川からは西に9キロ、エルサレムからは東北23キロの、高地の麓に位置し、地中海から海抜250メートルで気候は熱帯に属します。現代でもヨルダンの首都アンマンからの主要道の沿線にあります。紀元前8000年紀には人が住んでいたとされ、古い都市で、旧約聖書にも何度も登場します。例えば、ラハブの物語(ヨシュア記5:13-6;27)に舞台として有名です。新約聖書の時代では、ヘロデ大王が冬の宮殿を建設し、とりで、あるいは競技場などを建てていました。福音書でも、よきサマリヤ人のたとえ(ルカ10:30)、ザアカイの話(ルカ19;1)の舞台でもありました。

 

【バルティマイという盲人】

イエス・キリストはエリコからエルサレムの上って行こうとされます。都上りというだけではなく実際、丘の上にある町、エルサレムへは上り道でありました。多くの群衆も一緒であったことが分かります。彼らは過越をエルサレムで守ろうとする各地から登ってきた巡礼です。そのエリコの道路わきにバルティマイという目が見えず、物乞いをしている人物が座っていました。古代世界では障がいのある人々の多くは物乞いをして命を保っているという場合が多かったのです。からだに障がいがあるだけでも苦しみを負わなければならないのですが、彼の場合は人に慈悲に頼って生きていかなければなりませんでした。それは苦痛であり屈辱であったに違いありません。

 

バルティマイという名前が記されています。このことはマルコが福音書を書くとき、その資料にバルティマイの名があったということでしょう。それはマルコが執筆したときバルティマイの名はキリスト者の間でよく知られていた可能性があります。バルティマイ自身がその経験をマルコに語ったかもしれません。つまり、マルコが福音書を書いていたとき、彼も教会に属していたのかもしれません。とすればこの記事はたいへん信憑性があるということになります。

 

【「ダビデの子、わたしを憐れんでください」】

バルティマイの前をキリスト一行が通り過ぎていこうとしていました。彼はイエス・キリストのことを聞いていました。道路際で毎日座って通行人に物乞いをしていたのですから、うわさを聞いていた可能性はあります。ガリラヤで大きな働きをし,奇跡を行い、み言葉を教えていたという話を何度も聞かされていたかもしれません。彼は前をキリストが通過していくと感じ、大声で「ダビデの子、わたしを憐れんでください」と叫びます。

 

「ダビデの子」とは単にダビデの子孫という意味ではありません。当時はメシヤ=救済者はダビデの子孫から出てくると信じられていました。今日もユダヤ人はメシヤが来ると信じていますが、ダビデの子孫であるとは限っていません。バルティマイがこのように叫んでいたのですが、周囲の人たちは黙らせようとします。なぜ黙らせようとしたのか。「ダビデの子」という名称を叫ぶことは危険でありました。ローマに反抗する政治的指導者は、ダビデの子が反旗を掲げると信じられていました。ローマ帝国はローマに対する反抗を極度に警戒していました。ダビデの子など叫べば騒乱が起きかねません。あるいは、イエスがメシヤなどであるはずがないと思っている群衆もたくさんあったはずです。バルティマイの叫びは彼らの思いを逆なでするものです。不快な思いをさせられたくないように、沈黙させようとしたとも受け止められます。

 

バルティマイを静かにさせようとして、それは逆効果となります。目が見えないだけにそれだけに言うことを聞きません。黙らせようとすればするほど大きな声で叫んだのだろうと思われます。その声はキリストに達します。

イエス・キリストは立ち止まります。そして、バルティマイを近くまで来させようとされました。人々はバルティマイに「立ちなさい」と申します。目が見えませんのに、彼は上着を脱いで、踊りあがってキリストのところに駆け寄ります。上着はふだん物乞いのとき敷いていたかもしれません。彼はそれをはおり、それから脱ぎ捨てます。こういう描写はたいへんリアルに聞こえます。つまり、バルティマイは自分の体験をそのまま語れます。イエスが呼ばれたことに大きな喜びを感じ、上着を脱いで、と表現します。からだ中で喜びを表しています。

 

【何をして欲しいのか】

キリストは何をして欲しいのかと尋ねられます。キリストはこのように問われる前からバルティマイの心をご存知です。私たちは以心伝心を好みます。しかし、キリストは私たちが率直に心の中にある思いを言葉にすることを求められます。あえて尋ねられるのはキリストが知らないからではなく、むしろ、個人的な深い関わりを求められるからです。祈る前からキリストは私たちの必要を不ご存知なのですが、私たちに祈れと命じられるのもこのためです。私たちは信頼してキリストに私たちの不足を申し上げ、願いをはっきり言葉にする必要があります。そこまでキリストは求めておられます。親しい関わりこそキリストが求められるのです。私たちはともすればこんなことを求めても恥ずかしいとか、くだらない、つまらないとか考えます。これも同様です。キリストは私たちの心の中を率直に申し上げることを願われます。

 

【目が見えるように】

バルティマイの言葉はどういうものだったでしょうか。そのものズバリ、「目が見えるようになることです」といいます。あまりにも単刀直入で読んでいるものには戸惑いを覚えさせられます。もっと別の言い方があってもよさそうと思うのです。心に平安を、とか、気持ちを穏やかにして欲しいとか、あるいはできうれば、とか。バルティマイはそんな言葉の修飾をしません。彼にとって目が見えないことこそ人生の苦悩をもたらす原因です。これさえなければ、といつも思っています。だからそれが解決することが最大の願いです。

 

【あなたの信仰があなたを救った】

あまりにも率直で、だから粗野と感じるかもしれません。イエス・キリストはバルティマイの願いを退けられたでしょうか。そうはされませんでした。「あなたの信仰があなたを救った」そして、バルティマイの目は見えるようになったと記されています。

私たちはしばしば他人の目を気にします。あるいは人の言っていることに心が塞がれてしまい、こんなことをお願いしても聞かれるはずがないと合点してしまうのです。あるいはこんなことを願っても神様ご自身もためらわれるに違いないと判断してそれ以上のことを停止してしまうのです。

 

果たしてバルティマイの言動は信仰に値するか。イエス・キリストはバルティマイの思いを信仰と認め、その信仰が彼を救ったというのです。

バルティマイの信仰は無知と紙一重です。彼はキリストについて明確に理解をしていたわけではありません。その逆です。殆ど何も知らないのです。ところがキリストはバルティマイの言動を信仰と認められています。これは驚きです。信仰は多くの相応しい知識、敬虔さ、立派な言動、宗教生活があってこそだと思われています。少なくとも疑いとか粗野さとか、無知などは信仰的ではないと思われています。

 

【信仰、希望、愛】

信仰とは何か。バルティマイが示したものは、ただ「期待」に過ぎないと言っても過言ではありません。あるいは希望です。

パウロは信仰、希望、愛という三つの言葉の組み合わせを好みます(1コリント13:13、ガラテヤ5:5-6、1テサロニケ1:3など)。使徒パウロのトライアングル(三角形)とも言われます。これは信仰は希望、あるいは愛という意味だと思います。信仰とは何か。結局希望を抱くことだと思います。

 

私たちの生きているこの時代、失望、絶望の時代ということができるかもしれません。現実問題が大きすぎてとても望みを置けないと思わせられます。だからこそ信仰は希望なのです。希望できないように私たちを押させつけるもの、例えば常識、あるいは科学的精神、この世界の風潮、小学校から教えられているような薄っぺらい宗教心、そういうものが希望をくじこうとします。だからこそ、私たちは希望を持つのです。神が希望となってくださる。これこそ信仰です。

 

バルティマイの信仰など薄っぺらいものだと考えても当然です。彼の信仰などたいしたものではありません。私たちの信仰も同じです。疑いと不信仰が同居しているような心情をいつも心に抱いています。信仰を自己評価して100点満点などという人はまずはいないでしょう。ところがイエス・キリストはそれがあなたの信仰だといわれ、その信仰のゆえにバルティマイの目を見えるようにされました。

 

【奇跡を起こす信仰】

奇跡など起こるはずもない、と私たちは思い、希望を失います。希望のない信仰は所詮生命力を持ちえません。希望を持てないところでこそ神に願い、神に実現の希望を託す。これこそ信仰というべきものです。

 

【イエスに従う愛】

そして、信仰は愛と言えます。バルティマイは目が見えるようになり、それで信仰が完結したのではありません。彼はイエスに従っていきます。その後、キリストと共にエルサレムに上っていったのかそうでないのか何も知ることはできません。しかし、彼は従いました。服従は自発的である限り、キリストを愛する結果です。信仰は愛でもあります。キリストに喜んで従い、キリストの弟子として振舞う。これこそキリストを愛する行動です。

バルティマイはこのように使徒パウロのトライアングルよろしく、イエス・キリストを信じ、キリストに希望を抱き、またキリストを心から愛しました。私たちの倣うべきところです。(おわり)


伊丹教会臨時会員総会(金田牧師協力牧師の任期延長の件)2015年10月18日午後1時30分~  伊丹教会会堂にて


IMG_3572.JPGIMG_3571.JPGIMG_3569.JPG


2015年10月19日 | カテゴリー: マルコによる福音書

2015年10月11日説教「聖書人の死から学ぶ」金田幸男牧師

L151012002.wav ←クリックで説教が聴けます(前半)
L151012003.wav         〃(後半)


IMG_3268.JPGIMG_3274.JPGIMG_3270.JPG


IMG_3277.JPG


















IMG_3271.JPG

説教「聖書人の死から学ぶ」金田幸男

 

聖書:創世記23章1-4

 

要旨

 創世記には一見すると荒唐無稽、到底現代人の感覚では受けいれられないような記事がたくさん記されています。しかし、創世記には現代社会の仕組み、問題の発端、諸課題の解決の糸口について多くの示唆を与えてくれる記事が満載されています。

 

聖書から演繹的に真実を引き出す聖書の読み方こそ今日きわめて重要だと思います。ともすれば聖書を現に遭遇している問題解決のためだけに読んでしまう読み方をしているのではないかと思います。確かに聖書はさまざまな問題に対して答えを提供してくれます。ただそれだけでは聖書はその都度対処方法を示すだけになってしまいます。

 

【旧約聖書】

聖書はもっと根本的な原理原則を示し、その上で私たちは問題の本質を見抜くことができます。旧約聖書は、特に創世記は夫婦、家庭、そして、社会、国家の原型を示します。また、創世記は労働の価値、犯罪、法、諸制度、あるいは人間存在の起源、生と死などの問題にもさまざまなあり様を示します。

 

【創世記は、人間の死について語る】

 創世記は、人間の死について語ろうとします。特に人間はなぜ死ななければならないのか、どうして死ぬべきものとなったのかを語っています。死の問題はだれも避けたいと感じます。死を扱うなどとは不吉だというのです。誰も死を避けることはできません。特に親しいものの死に直面したとき、あるいは大病などをして死にかけるというような経験をしたとき、誰も死を自分の問題とするはずです。そのとき、死はどうして人間世界に入り込んできたのか、死は回避できないのか、考え、できないゆえに絶望し、あるいは激しい憤りをおぼえるものです。

 

【人間の創造と罪の結果・死】

 聖書、創世記は何を語るでしょうか。創世記1章27,2章7で神は人間を創造され、いのちの息を鼻に吹き入れられたと記されます。人間はこうして生きるものとなります。ところが、創造された人間は神の命令を破り、神に並び立とうとします。これこそ罪と呼ばれるもので、その結果、人間は塵に帰るものとされます(創世記3:19)。罪の結果死が入り込みます。

 

死の原因は神が命を取り去るからであり、そうなったのは神への反抗のせいです。人が死ぬのは神が死を賜ったからに他なりませんし、その原因は神への反抗心にあります。この罪がもたらした死をいかにして解決するのか。これこそ聖書の主題といっても過言ではありません。聖書は一貫してこの罪と罪がもたらした死の問題に取り組み、解決策を示します。キリストとキリストの十字架の死による贖いこそ答えなのです。

 

【人は生まれ、死ぬ/創世記5章】

 創世記5章をご覧ください。ここにはアダムの子孫の系図が記されますが、ここに記されるのは、人は生まれ、そして、死ぬということで共通しているという事実です。きわめてありふれた事実ですが、これは真実です。人間は死ぬべきものに過ぎないのです。人生はいろいろな経験があります。人は決して他の人の人生を生きることはできません。偉業を成し遂げ、それが後世まで語り伝えられるという人もいます。しかし、それはきわめて少数、例外です。ところで、この創世記の記事は人は生まれ、そして死ぬだけと語ります。どんな偉業を残したと思われる人も所詮は生まれ死ぬだけなのです。これがアダムの子孫のありのままの姿です。それは今日でも共通です。人は墓碑にその人生を記録できません。大半の人にとっては、記録できるには生まれた日、死んだ日だけなのです。

 

【アベルの死/人類最初の死】

 創世記4章には最初の人類の死のことが記されます。創世記4章8にはアベルの死を告げますが、この死が人類最初の死に他なりません。ところがその死は殺人による死でした。不本意な、理不尽な、無残な死でした。アダムの死がもたらしたおそろしい現実でした。

 

 創世記は5章までが第1部といえるでしょうが、そこに記されていることは見方によれば死人ばかりです。死が累々と折り重なっています。創造された人間を共通に襲うのは死でした。6章以下でノアが主人公となります。ここで記されていることは何か。大洪水の記事です。それによってノアの一族以外、すべてが死に絶えます。ここにも大量の死者が報告されます。自然災害ではありますが、神の前に悪を積み重ねた人類を襲う神のさばきに他なりません。

 

 ノアの時代の人々は死に絶えます。数え切れない人の死がここでも記されます。創世記はこれでもかこれでもかと人間の死を記録しています。創世記を読めば必ず死に直面させられます。回避できない現実です。

 

 創世記にはいろいろのことが記されますが、一貫して死を扱っていると見ることができましょう。すべてを吟味できたわけではありませんが、死の問題を避けて通ることができません。創世記を読み、死の問題に直面させられないような読み方は不完全ではないでしょうか。

 

【エノク】

(他に、エノクのことも触れなければなりません(創世記5章21-24)。エノクは他の人と比べて短命でした。しかし、彼は神と共に歩み、最後は神が取られてしまいます。短命であることがすなわち不幸だとか不運だとはいえません。その人生が神と共に歩む人生であるかどうかこそが問われます。長く生きることが幸いであり、短命は不幸だと単純にはいえません。長寿社会となってますますそれがよく分かります。ただ単に長く生きることを長寿とは単純にいえなくなってしまったのです。エノクの姿が見えなくなったことは姿を消したというだけではなく、むしろ、神に早く受けいれられたことを表しています。また、死を味わうことがなかったという意味でもあるとされることもあります。エノクは短命でありましたが、それが直ちに不幸だとか不運だと決めることもできません。)

 

【アブラハムと妻サラの死】

 創世記11章27以下ではアブラハムが主人公となります。アブラハムこそイスラエルの祖なのです。そのアブラハムも死に直面しています。23章1-20ではアブラハムの妻サラの死が記されます。信仰の人アブラハムは最も親しいものの死を味わうのです。自分の死の問題だけではなく、私たちは最も親しいものの死も経験することになります。アブラハムはそのとき妻を葬る土地を持ちませんでした。妻に遺体の傍らで嘆き悲しみます(23章2-3)。死は悲痛な思いをもたらします。そしてそれに耐えなければなりません。それが死の現実です。アブラハムは妻の墓地のためにヘトの人と交渉し、高額を支払いようやく墓所を確保します。葬りのためにアブラハムは大きな苦労をしなければなりませんでした。死は大きな悲しみ、そして、途方にくれることを経験させます。アブラハムは暗い思いとそれにもかかわらず生き残ったものの義務を果たします。

 

【息子イサクを献げる】

 彼はもう一つの死にも直面します。創世記22章には、神がイサクを焼き尽くす献げものとして殺害せよと命じられます。これはまったく理不尽な命令です。死はしばしばわけの分からない、理にそぐわない事態を招きます。神がそんなことを命じるとは、と誰もが思います。しかし、死は多くの場合、理不尽で、あってはならないことです。死は不条理であり、過酷な苦悩をもたらします。一体誰が絶えられるでしょうか。ところがアブラハムは神の命令に従います。ときには、人はいやおうなくこのような事態に追い込まれるものです。アブラハムはこのような理不尽な神の命令に反抗することをしていません。むしろ神の命令を守ろうとします。私たちも不条理で理不尽な死を経験しなければならないことがあります。そのとき私たちは神に対しても激しく憤ります。そうせざるを得ないのです。それが普通のことです。アブラハムも同じように思ったに違いありません。神はどうされたのでしょうか。代わりに雄羊が屠られ、イサクは解放されます。死は理屈に合わない悲しみをもたらします。人はその悲哀に耐えがたくなります。そのとき、神は身代わりを備えてくださり、そこから救い出されます。

 

【イエス・キリストの贖い】

神は私たちが罪のゆえに滅ぼされるべきにもかかわらず、イエス・キリストを送り、その死によって私たちを死の縄目から解放してくださいます。イサクは助けられました。それは死からの救出です。神は私たちには不条理である死からキリストによって贖い出してくださいます。これは信じがたいほどの神の壮大な救いのみ業です。アブラハムはこのように死を経験しますが、ついに彼自身も死ななければなりませんでした。

 

【満ち足りて死んだアブラハム・イサク】

 創世記25:7に、アブラハムは長寿を全うし、「満ち足りて」死んだと記されます。さらにその子イサクについて創世記は「高齢のうちに満ち足りて死んだ」と記します(35章29)。アブラハムもイサクも死を迎えなければなりませんでした。しかし、彼らの死は「充実した」死でした。死に充実などありえるのかと思われる方もあるでしょう。なぜ充実した死というのでしょうか。むなしい死でありません。それは約束の地カナンで、神がアブラハム、イサクの神であり続けられたからです。

 

【ヤコブ・ヨセフの死】

ところが、ヤコブについては創世記49章29でこの「満ち足りた」死を記していません。また、ヨセフについても同様です(創世記50:26)。これはどうしたことでしょうか。考えられることはヤコブもヨセフも約束の地カナンで生涯を終えることができなかったことと関係があるのではないでしょうか。二人ともエジプトで死にます。ヤコブの遺体はアブラハム、サラの葬られたマクペラの地まで移送されますが、亡くなった地は約束の地ではありませんでした。ヨセフも同様です。神がアブラハムに約束された地こそ祝福に満ちた御国を予表するものです。満ち足りたというのは単に精神状態がそうであったというだけではなく、神の約束に包まれた地、神が臨在しているところであると考えられます。それこそが満ち足りているところなのです。私たちもまたこの充実した死を経験したいものです。(おわり)



2015年10月11日 | カテゴリー: マルコによる福音書

2015年10月4日説教「仕える者が一番偉い」金田幸男牧師

L151004001.wav ←クリックで説教聴けますIMG_2780.JPG

説教「仕えるものが一番偉い」

聖書:マルコによる福音書10

35 さて、ゼベダイの子ヤコブとヨハネとがイエスのもとにきて言った、「先生、わたしたちがお頼みすることは、なんでもかなえてくださるようにお願いします」。36 イエスは彼らに「何をしてほしいと、願うのか」と言われた。37 すると彼らは言った、「栄光をお受けになるとき、ひとりをあなたの右に、ひとりを左にすわるようにしてください」。38 イエスは言われた、「あなたがたは自分が何を求めているのか、わかっていない。あなたがたは、わたしが飲む杯を飲み、わたしが受けるバプテスマを受けることができるか」。39 彼らは「できます」と答えた。するとイエスは言われた、「あなたがたは、わたしが飲む杯を飲み、わたしが受けるバプテスマを受けるであろう。40 しかし、わたしの右、左にすわらせることは、わたしのすることではなく、ただ備えられている人々だけに許されることである」。

 

41 十人の者はこれを聞いて、ヤコブとヨハネとのことで憤慨し出した。42 そこで、イエスは彼らを呼び寄せて言われた、「あなたがたの知っているとおり、異邦人の支配者と見られている人々は、その民を治め、また偉い人たちは、その民の上に権力をふるっている。43 しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。かえって、あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、仕える人となり、44 あなたがたの間でかしらになりたいと思う者は、すべての人の僕とならねばならない。

 

45 人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためである」。

 

要旨

【仕える者になりなさい】

 イエス・キリストはエルサレムに上って行こうとされる時、エルサレムで経験される苦難と復活を予告されました。これは第三回目の予告です。2回目の予告のとき、その直後で弟子たちは一番偉いのは誰かと議論をしました(9:30-32)。そのときキリストは「一番先になりたい者はすべての人のあとになり、すべての人に仕える者になりなさい」と教えられました。

 

【ゼベダイの子ヤコブとヨハネ】

3回目の予告のあとまた同じことが起きています。ゼベダイの子ヤコブとヨハネが進み出ました。お願いしたいことがある。是非叶えて欲しいと言います。このマルコの記事と平行しているマタイ福音書20章20ではその母がイエスにお願いをしたとありますけれども、二人の兄弟にとっても強い願いであったことは確かです。

キリストは「どんな願いか」尋ねられます。二人がストレートに言わなかったのはその申し出がどんなに重大か分かっていたからでしょう。「あなたが栄光を受けるとき、あなたの右と左に座らせてください。」右と左は真ん中に立つものの側近となることを意味しています。そして、彼らは、イエスがエルサレムに上っていき、そこで「栄光を受ける」と思っていたことを示しています。

 

栄光を受けるときの具体的な内容をマルコは記していません。しかし、栄光を受けるとはエルサレムで大きな力を獲得すると理解していたことは確実です。イエスが王であるメシヤとして権力を獲得すると考えていたかもしれません。あるいは、終末の時代が来て、メシヤであるキリストは天変地異と共に世界を一変させ、その王座に座る偉大な人間を想定していたかもしれません。イエス・キリストは病人を癒し、悪霊を追い出し、自然に圧倒する力を発揮されました。そのようなことをなさるキリストですから、その目撃者である弟子たちにはエルサレムでキリストが大きく表されると期待しても少しも不思議ではありません。キリストはエルサレムで驚くべきみわざをなされる。弟子たちはそれを期待しました。

 

 ヤコブもヨハネも今先ほど語られたエルサレムでのキリストの苦難の予告を全然理解していなかったことだけは確実です。これほど明確にキリストはエルサレムで経験する受難を語られたのですが、弟子たちはそのキリストの言葉を理解できていませんでした。弟子たちの念頭にあったことがキリストの予告の真意理解を妨げたのでした。

 

 キリストは二人に言われます。まず、あなた方は何を願っているのか分かっていない。つまり、自分の言っていることが分かっていないという意味です。そして、わたしが飲む杯、わたしが受ける洗礼をあなた方も受けることができるかと問われます。キリストはエルサレムで苦難を受けられます。それは律法学者や祭司長たちに裁判を受けさせられ、異邦人の手に渡され、侮辱され、ついに処刑されるという苦難です。キリストはエルサレムで受ける苦難を「杯」と「洗礼」と言い換えられます。そして、この二つの言葉は旧約聖書に慣れ親しんでいるものにはよく聞く言葉でした。

 

【杯】

まず杯ですが、詩編75篇9を挙げたいと思います。すでに杯は主の御手にあり/調合された酒が泡立っています。主はこれを注がれます。この地の逆らう者は皆、それを飲み/おりまで飲み干すでしょう。」調合された酒とは劇薬が混ぜられているぶどう酒のことで、酒と一緒に飲めば効果は早く、また確実に効果が出るようになります。主のみ手に毒薬の入った杯があります。それを主に逆らう罪人が仰ぎ飲めば必ず死に至るのです。そのように主は敵対するものをさばかれます。その他、イザヤ51:17、エレミヤ49:12、エゼキエル23:31-34を参照にしてください。

 

【洗礼】

洗礼は、ここではキリスト教の礼典である洗礼を指しているのではありません。水を注ぐことを指しています。旧約聖書において、頭上から大水が注がれることを指しています。詩編69篇2-3「神よ、わたしを救ってください。大水が喉元に達しました。わたしは深い沼にはまり込み/足がかりもありません。大水の深い底にまで沈み/奔流がわたしを押し流します。」洪水が起こり、激流が押し迫り、あらゆるものを押し流していく災害が描かれています。死が待ち構えています。   その他詩編18篇17も参照してください。大水は神の懲らしめ、そこから救い出されるようにとの叫びが発せられます。キリストはエルサレムで杯、大水が示す大きな苦難を忍ばれます。

 

 そして、二人に、あなた方自身も栄光ではなく、それ(杯と洗礼)を受けることができるかと問われます。ヤコブとヨハネは受けることができると平然と語ります。むろん彼は何を言っているのか分かっていません。キリストは二人がご自分と同じ苦難を受けるだろうと明言されます。それが何を意味しているかまだ誰にも分かっていません。さらにキリストはみ国が完成したとき二人がどのような位置を占めるかについても、それは父なる神だけがご存知であると言われました。それはみ父の専権事項なのです。私たちは何事も自分の思い、発想でことがなると思いがちです。しかし、キリストはみ父だけが実行できる事柄に委ねておられます。私たちはキリストがそうされたようにあらゆることを神にお任せすることが求められます。人間の運命に関してキリストはいっさいはみ父の御心の中にあると語られます。それは今でも同じことです。私たちの将来、定め、行くべき道は神が定められます。私たちはその神の意志に委ねること、それが信仰であると思います。

 

【他の10人の弟子たち】

 41節以下を見ます。他の10人の弟子たちが登場します。彼らは憤慨をしています。だれが一番偉いのか議論をした彼らにとってまだまだその関心事は弟子たちが受ける高い地位に関するものでした。イエス・キリストからすでにキリストの弟子たちの中ではだれが一番偉いのか教えられていました。しかし、弟子たちはなおも分かっていません。誰が一番偉いのか。イエス・キリストは間もなくエルサレムにメシヤとして入城されます。そのときだれが権力を掌握するのか。

 キリストは異邦人の中で通用している考え方を指摘されます。異邦人、外国人の問題だけではありません。ユダヤ人も異邦人も関係なく、この世界の人々が何を求めているのか明らかにしておられます。一言で言えば偉くなりたいということです。それは権力を握る、力を獲得することを意味しています。

 

【世的権力】

 人間はだれでも力を得たいと思っています。力は政治的権力が一番分かりやすいでしょう。政治家はこの権力を独占するために悪戦苦闘をします。偉い人間とは権力を掌握するものだと思われています。現在は独裁者が権力を掌握するという事例はたいへん少なくなりました。むろんないわけではありません。ただ民主主義の時代でもだれもが権力あるいは覇権といった力を希求します。力は政治権力だけではありません。軍事力も具体的な力です。諸国間で軍事力の強大化が願われます。今日では力はお金の力でもあります。そして、私たちが知るのはこの力はときに抽象的である場合も多いのです。学歴、出身学校、あるいは、地位という力もあります。抽象的といえば芸術をはじめ文化的な力というものもあります。その力は他を支配する力ともなります。

 

力そのものは悪でも何でもありませんが、その力を行使する人間の本質、罪が作用する時、その力がもたらすものは残酷な結果、悲惨な結末となります。それは言葉では言い表せないような惨事にもなります。なぜそうなるのか。あきらかに、それは罪の結果です。人間の罪性が力と結びつくときにその結果は見るに耐えないものとなります。

 

【仕える者・しもべとなれ】

 キリストは弟子たちの間ではそのような権力志向であってはならないといわれます。むしろ、あなた方の間では偉くなりたいものは仕える者に、上の人になりたい者はしもべとなれと命じられます。これは常識に反する教えです。

 

 しかし、私たちはこのキリストの教えを悟りません。逆に世間で通用する原理や原則を教会に導入しようとします。逆説的な立場は受け入れがたいものではあります。社会で通用しないことがありますと、だから教会は時代遅れだとか世間を知らないと批判する人がいますが、そもそもキリストは世間では通用しないことを真っ向から教えられる方です。教会でこの逆説を実行しようとするとまずは不可能という反応が生じるはずです。確かに世間で通用しない原則を実践することはほぼ不可能ですが、どうすれば可能となりますか。

 

【人の子】

 キリストはご自身が模範となられました。45節は今日学ぶマルコの福音書のクライマックスです。人の子は・・とキリストは言われますが、これは1人称「わたし」の代用ではありません。この言葉が用いられるときはキリストがまさしくメシヤ、救世主であることを厳かに宣言する場合です。キリストはご自身を「身代金」と表現されます。

 

【身代金】

これは本来、奴隷を買い戻すお金を指します。キリストは罪の奴隷状態に陥り、その結果神から離れ去り、神のさばきに値するもののためにご自身を身代金となられました。私たちは罪の奴隷です。その買戻しのためには多額の身代金を要します。私たちの場合、いのちという代価を払わなければ罪とその結果である死から解放されることはありません。そして、私たちは今やキリストが支払ってくださった代金で買い戻され、自由にされました。

 

 キリストが私たちのために最も低いものとなり、仕えるものとなり、しもべとなられました。これをキリストは実践してくださいました。私たちはキリストのようにとてもなれないように思われます。人間的にはそのとおりです。できるわけがありません。不可能なことをどうしてできるでしょうか。しかし、私たちは知ります。キリストが実行した方です。その実行力を私たちにも聖霊なる神によって可能としてくださいます。私たちにとってそれは信じるべき事柄です。(おわり)

2015年10月04日 | カテゴリー: マルコによる福音書