2015年10月18日「行け、あなたの信仰があなたを救った」金田幸男牧師

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マルコによる福音書 10章46~52節
46 それから、彼らはエリコにきた。そしてイエスが弟子たちや大ぜいの群衆と共にエリコから出かけられたとき、テマイの子、バルテマイという盲人のこじきが、道ばたにすわっていた。47 ところが、ナザレのイエスだと聞いて、彼は「ダビデの子イエスよ、わたしをあわれんでください」と叫び出した。
:48 多くの人々は彼をしかって黙らせようとしたが、彼はますます激しく叫びつづけた、「ダビデの子イエスよ、わたしをあわれんでください」。
:49 イエスは立ちどまって、「彼を呼べ」と命じられた。そこで、人々はその盲人を呼んで言った、「喜べ、立て、おまえを呼んでおられる」。50 そこで彼は上着を脱ぎ捨て、踊りあがってイエスのもとにきた。
:51 イエスは彼にむかって言われた、「わたしに何をしてほしいのか」。その盲人は言った、「先生、見えるようになることです」。52 そこでイエスは言われた、「行け、あなたの信仰があなたを救った」。すると彼は、たちまち見えるようになり、イエスに従って行った。


説教「行け、あなたの信仰があなたを救った」

聖書:マルコ福音書10章35-45

 

要旨

【エリコという町】

  イエス・キリストとその一行はエリコという町の到着したとあります。エリコはヨルダン川が流れ込む死海の北11キロ、ヨルダン川からは西に9キロ、エルサレムからは東北23キロの、高地の麓に位置し、地中海から海抜250メートルで気候は熱帯に属します。現代でもヨルダンの首都アンマンからの主要道の沿線にあります。紀元前8000年紀には人が住んでいたとされ、古い都市で、旧約聖書にも何度も登場します。例えば、ラハブの物語(ヨシュア記5:13-6;27)に舞台として有名です。新約聖書の時代では、ヘロデ大王が冬の宮殿を建設し、とりで、あるいは競技場などを建てていました。福音書でも、よきサマリヤ人のたとえ(ルカ10:30)、ザアカイの話(ルカ19;1)の舞台でもありました。

 

【バルティマイという盲人】

イエス・キリストはエリコからエルサレムの上って行こうとされます。都上りというだけではなく実際、丘の上にある町、エルサレムへは上り道でありました。多くの群衆も一緒であったことが分かります。彼らは過越をエルサレムで守ろうとする各地から登ってきた巡礼です。そのエリコの道路わきにバルティマイという目が見えず、物乞いをしている人物が座っていました。古代世界では障がいのある人々の多くは物乞いをして命を保っているという場合が多かったのです。からだに障がいがあるだけでも苦しみを負わなければならないのですが、彼の場合は人に慈悲に頼って生きていかなければなりませんでした。それは苦痛であり屈辱であったに違いありません。

 

バルティマイという名前が記されています。このことはマルコが福音書を書くとき、その資料にバルティマイの名があったということでしょう。それはマルコが執筆したときバルティマイの名はキリスト者の間でよく知られていた可能性があります。バルティマイ自身がその経験をマルコに語ったかもしれません。つまり、マルコが福音書を書いていたとき、彼も教会に属していたのかもしれません。とすればこの記事はたいへん信憑性があるということになります。

 

【「ダビデの子、わたしを憐れんでください」】

バルティマイの前をキリスト一行が通り過ぎていこうとしていました。彼はイエス・キリストのことを聞いていました。道路際で毎日座って通行人に物乞いをしていたのですから、うわさを聞いていた可能性はあります。ガリラヤで大きな働きをし,奇跡を行い、み言葉を教えていたという話を何度も聞かされていたかもしれません。彼は前をキリストが通過していくと感じ、大声で「ダビデの子、わたしを憐れんでください」と叫びます。

 

「ダビデの子」とは単にダビデの子孫という意味ではありません。当時はメシヤ=救済者はダビデの子孫から出てくると信じられていました。今日もユダヤ人はメシヤが来ると信じていますが、ダビデの子孫であるとは限っていません。バルティマイがこのように叫んでいたのですが、周囲の人たちは黙らせようとします。なぜ黙らせようとしたのか。「ダビデの子」という名称を叫ぶことは危険でありました。ローマに反抗する政治的指導者は、ダビデの子が反旗を掲げると信じられていました。ローマ帝国はローマに対する反抗を極度に警戒していました。ダビデの子など叫べば騒乱が起きかねません。あるいは、イエスがメシヤなどであるはずがないと思っている群衆もたくさんあったはずです。バルティマイの叫びは彼らの思いを逆なでするものです。不快な思いをさせられたくないように、沈黙させようとしたとも受け止められます。

 

バルティマイを静かにさせようとして、それは逆効果となります。目が見えないだけにそれだけに言うことを聞きません。黙らせようとすればするほど大きな声で叫んだのだろうと思われます。その声はキリストに達します。

イエス・キリストは立ち止まります。そして、バルティマイを近くまで来させようとされました。人々はバルティマイに「立ちなさい」と申します。目が見えませんのに、彼は上着を脱いで、踊りあがってキリストのところに駆け寄ります。上着はふだん物乞いのとき敷いていたかもしれません。彼はそれをはおり、それから脱ぎ捨てます。こういう描写はたいへんリアルに聞こえます。つまり、バルティマイは自分の体験をそのまま語れます。イエスが呼ばれたことに大きな喜びを感じ、上着を脱いで、と表現します。からだ中で喜びを表しています。

 

【何をして欲しいのか】

キリストは何をして欲しいのかと尋ねられます。キリストはこのように問われる前からバルティマイの心をご存知です。私たちは以心伝心を好みます。しかし、キリストは私たちが率直に心の中にある思いを言葉にすることを求められます。あえて尋ねられるのはキリストが知らないからではなく、むしろ、個人的な深い関わりを求められるからです。祈る前からキリストは私たちの必要を不ご存知なのですが、私たちに祈れと命じられるのもこのためです。私たちは信頼してキリストに私たちの不足を申し上げ、願いをはっきり言葉にする必要があります。そこまでキリストは求めておられます。親しい関わりこそキリストが求められるのです。私たちはともすればこんなことを求めても恥ずかしいとか、くだらない、つまらないとか考えます。これも同様です。キリストは私たちの心の中を率直に申し上げることを願われます。

 

【目が見えるように】

バルティマイの言葉はどういうものだったでしょうか。そのものズバリ、「目が見えるようになることです」といいます。あまりにも単刀直入で読んでいるものには戸惑いを覚えさせられます。もっと別の言い方があってもよさそうと思うのです。心に平安を、とか、気持ちを穏やかにして欲しいとか、あるいはできうれば、とか。バルティマイはそんな言葉の修飾をしません。彼にとって目が見えないことこそ人生の苦悩をもたらす原因です。これさえなければ、といつも思っています。だからそれが解決することが最大の願いです。

 

【あなたの信仰があなたを救った】

あまりにも率直で、だから粗野と感じるかもしれません。イエス・キリストはバルティマイの願いを退けられたでしょうか。そうはされませんでした。「あなたの信仰があなたを救った」そして、バルティマイの目は見えるようになったと記されています。

私たちはしばしば他人の目を気にします。あるいは人の言っていることに心が塞がれてしまい、こんなことをお願いしても聞かれるはずがないと合点してしまうのです。あるいはこんなことを願っても神様ご自身もためらわれるに違いないと判断してそれ以上のことを停止してしまうのです。

 

果たしてバルティマイの言動は信仰に値するか。イエス・キリストはバルティマイの思いを信仰と認め、その信仰が彼を救ったというのです。

バルティマイの信仰は無知と紙一重です。彼はキリストについて明確に理解をしていたわけではありません。その逆です。殆ど何も知らないのです。ところがキリストはバルティマイの言動を信仰と認められています。これは驚きです。信仰は多くの相応しい知識、敬虔さ、立派な言動、宗教生活があってこそだと思われています。少なくとも疑いとか粗野さとか、無知などは信仰的ではないと思われています。

 

【信仰、希望、愛】

信仰とは何か。バルティマイが示したものは、ただ「期待」に過ぎないと言っても過言ではありません。あるいは希望です。

パウロは信仰、希望、愛という三つの言葉の組み合わせを好みます(1コリント13:13、ガラテヤ5:5-6、1テサロニケ1:3など)。使徒パウロのトライアングル(三角形)とも言われます。これは信仰は希望、あるいは愛という意味だと思います。信仰とは何か。結局希望を抱くことだと思います。

 

私たちの生きているこの時代、失望、絶望の時代ということができるかもしれません。現実問題が大きすぎてとても望みを置けないと思わせられます。だからこそ信仰は希望なのです。希望できないように私たちを押させつけるもの、例えば常識、あるいは科学的精神、この世界の風潮、小学校から教えられているような薄っぺらい宗教心、そういうものが希望をくじこうとします。だからこそ、私たちは希望を持つのです。神が希望となってくださる。これこそ信仰です。

 

バルティマイの信仰など薄っぺらいものだと考えても当然です。彼の信仰などたいしたものではありません。私たちの信仰も同じです。疑いと不信仰が同居しているような心情をいつも心に抱いています。信仰を自己評価して100点満点などという人はまずはいないでしょう。ところがイエス・キリストはそれがあなたの信仰だといわれ、その信仰のゆえにバルティマイの目を見えるようにされました。

 

【奇跡を起こす信仰】

奇跡など起こるはずもない、と私たちは思い、希望を失います。希望のない信仰は所詮生命力を持ちえません。希望を持てないところでこそ神に願い、神に実現の希望を託す。これこそ信仰というべきものです。

 

【イエスに従う愛】

そして、信仰は愛と言えます。バルティマイは目が見えるようになり、それで信仰が完結したのではありません。彼はイエスに従っていきます。その後、キリストと共にエルサレムに上っていったのかそうでないのか何も知ることはできません。しかし、彼は従いました。服従は自発的である限り、キリストを愛する結果です。信仰は愛でもあります。キリストに喜んで従い、キリストの弟子として振舞う。これこそキリストを愛する行動です。

バルティマイはこのように使徒パウロのトライアングルよろしく、イエス・キリストを信じ、キリストに希望を抱き、またキリストを心から愛しました。私たちの倣うべきところです。(おわり)


伊丹教会臨時会員総会(金田牧師協力牧師の任期延長の件)2015年10月18日午後1時30分~  伊丹教会会堂にて


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2015年10月19日 | カテゴリー: マルコによる福音書

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