ガラテヤの信徒への手紙

2014年9月7日説 教 「十字架の誇り」金田幸男牧師

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201497日説教「キリストの十字架にあずかる」金田幸男牧師

聖書:ガラテヤの信徒への手紙6

11 このとおり、わたしは今こんなに大きな字で、自分の手であなたがたに書いています。

12 肉において人からよく思われたがっている者たちが、ただキリストの十字架のゆえに迫害されたくないばかりに、あなたがたに無理やり割礼を受けさせようとしています。

13 割礼を受けている者自身、実は律法を守っていませんが、あなたがたの肉について誇りたいために、あなたがたにも割礼を望んでいます。

14 しかし、このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。この十字架によって、世はわたしに対し、わたしは世に対してはりつけにされているのです。

15 割礼の有無は問題ではなく、大切なのは、新しく創造されることです。

16 このような原理に従って生きていく人の上に、つまり、神のイスラエルの上に平和と憐れみがあるように。

17 これからは、だれもわたしを煩わさないでほしい。わたしは、イエスの焼き印を身に受けているのです。

18 兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがたの霊と共にあるように、アーメン。

 

要旨 

 【こんなに大きな字で】

11節に、パウロは自分の手で大きな文字を書くと記します。今までは誰か筆記者の手で口述筆記されてきたことが分かります。パウロの時代、このような専門的な筆記者(速記者)が文章を書くのが一般的でした。手紙の最後の部分はパウロ自身が書きました。大きな文字を使ったのは目立つようにするためであったはずで、なぜそうしたのかといえば、強調のためと推測されます。この点は最後に強調しておきたいという気持ちの現われです。

 

【ユダヤ主義者の動機】

パウロが強調したかったことは12節以下に記されますが、まず、ガラテヤのキリスト者に律法の遵守、割礼を受けることを強いたユダヤ主義者の動機を弾劾します。彼らはキリストの十字架のゆえに迫害されたくないために異邦人キリスト者に割礼を強制したというのです。

 

キリスト信仰だけではなく、律法の行いも救いに必要であるというこの教えは一見すればまじめな救いの問題と思われます。しかし、パウロはこのような主張をする教師たちの本心はどこにあるか白日のもとに曝します。

 

【十字架を語らないキリスト教徒】

十字架はユダヤ人の憎しみの対象でした。ユダヤ人は長くメシヤ=救世主の到来を待ち望んでいました。ところが、キリスト教徒たちは、イエスがキリスト=メシヤだと主張し始めました。そのイエスはユダヤ人が十字架につけたのです。イエスはユダヤ人の民族的な希望を覆すものです。そのイエスを宣教するとは、とユダヤ人はキリスト者を迫害しました。パウロもそのために何度も命を奪われかけました。ユダヤ主義者たちはキリスト教徒でもありました。十字架を語ることを避けることはできません。だから、彼らは迫害の危険に直面しました。実際に迫害を受けたかもしれません。だから、十字架をうしろに後退させ、それに代わって律法の遵守を強調しました。これならユダヤ人から迫害を受けなくなるかもしれません。当然十字架の教説は強調されなくなったり、歪められたりしたことでしょう。

 

【体制に迎合する過ち】

迫害されたくないばかりに、迎合するという傾向はいつの時代もあります。私たちの教会の歴史を遡れば、国家の圧迫、迫害を避けるために、基本的な信仰は維持されているという理由で、国策に迎合するような教会政治(経営)が行われました。そのような過ちは繰り返されるかもしれません。私たちの周囲の社会はキリスト教に好意的でありません。敵対的、そうでなくても冷淡です。

 

そのような環境に生きる教会もキリスト者も、迫害、反対を避けるために、信仰の大切な部分を曲げてしまうという誘惑はいつもあります。警戒をしていなければ私たちもユダヤ主義者が陥った罠に嵌ってしまいます。

 

さらにパウロはユダヤ主義者自身律法を守っていないと指摘します。ガラテヤの異邦人キリスト者には割礼を求め、律法の厳守を要求しました。彼らはユダヤ人であったことは間違いありませんが、おそらく厳格派のユダヤ人ではなかったかもしれません。

 

だから、キリスト教信仰に安易に入れたかもしれません。もともとルーズなユダヤ人であり、ユダヤ人の周辺で信仰を持っていただけであるならば、厳格なユダヤ人に対し、見栄を張りたくて、ガラテヤの異邦人が割礼を受けたということを宣伝して、手柄にしたかった、という動機も見えてきます。律法はあまり厳格に守らないくせに、ガラテヤの異邦人キリスト者にはユダヤ人が受けなければならない割礼を厳格に要求したのです。

 

【イエス・キリストの十字架を誇る者】

パウロはこのようなユダヤ主義者に自分を対比します。パウロは厳格なファリサイ派に属していました。彼なら律法、割礼を誇ることができました。パウロは言います。誇りは、イエス・キリストの十字架であってそれ以外ではない。

 

キリストの十字架とは何か。何よりもそれは私たちのために起きたことであり、キリストはそこで私たちのために犠牲となられました。私たちの罪を背負い、十字架で死んでくださいました。こうして、キリストは私たちが本来支払わなければならない罪の代価を償ってくださいました。

 

十字架の死によって私たちは神と和解することができました。この十字架を信じることが福音を信じることです。十字架はキリスト教信仰の中心です。パウロはこれを誇りとすると断言します。きわめて強い調子で語ります。絶対にそうだというほどです。

 

私たちはどうでしょうか。キリストの十字架以外に誇りとするところはない。口では簡単に言えます。しかし、多くの人がいる前で、キリストの十字架こそ唯一のわたしの誇りなどと恥ずかしくていえない。何か、のどの奥に声が引っかかってしまう。そういう感覚と葛藤しているのが現実です。信仰はもっています。しかし、それを公然と、唯一のわたしのほこりだと言い切れないで、引き下がってしまう。それが私たちの偽らざる真実ではないかと思います。確かに、キリストの十字架以外に誇りはないという確信を抱き、その確信を憚ることなく語ることができる人はたくさんいます。でも誰も彼もがそうではありません。

 

なぜ、私たちはパウロのようではないのか。やはり、キリストの十字架の意味、十字架がもたらす救いの偉大さを私たちがもっともっと真剣に追い求め、自分の確信にしていかなければならないのだと思います。ただ言葉の上だけではなく、私たちの知性を動員し、確固たる認識に到達し、信心として動かないまで信仰を堅くすること、それが肝心なことではないだろうかと思います。

 

【わたしたちの誇り】

この十字架に比べれば割礼などどうでもよい。パウロはこのように言います。割礼はユダヤ人の誇りです。誇りはさまざまあります。しかし、そんな誇りなどどうでもよいことだと言います。私たちにも誇りというものは種々あります。そして、誇りに生きている人が多くいます。

 

【新しく創造されること】

パウロは十字架こそ誇りとするだけの価値があると言いました。さらに、大切なのは、新しく創造されることだと言います。古い創造とは神が無からすべてを造られたことを指しますが、そこから全てが出発しました。創造は神の偉大なみわざです。

 

ところがそれに比べられる新しい創造があるとパウロは語るのです。新しい創造とは何か。神の創造のみ業の冠は人類の創造と言ってもよいでしょう。私たち人間は神の創造により存在するようになりました。その創造に比べて新しい創造とは何か。創造の冠は人類の創造です。そうだとすれば新しい創造の冠も人類の、しかも、新しい人類の創造ということになります。

 

【キリストと共によみがえって、新しい創造にあずかる】

新しい命に生きるものたち。それは聖霊によって新しく生まれ変わらされたものです。再生の恵みを受けたものです。新しい神の民です。

イエス・キリストを信じることは、十字架で自分を極刑に処することを意味しています。私たちはこの世界に対して十字架において死んだ、あるいはこの世も、私たちに対して十字架につけられています。つまり死んだということです。死んだままに放置されてはいません。私たちはこのキリストと共に十字架上で死んで、キリストとともに復活させられました。大切なことはこのことだとパウロはいいます。キリストと共によみがえって、新しい創造にあずかって、生まれ変わらされていること、これが肝心だとされます。これこそ御霊に導かれ、御霊に生かされているキリスト者の人生ということになります。

 

大切なことは何か。私たちがキリストと共に十字架につけられていることであり、キリストと共に生かされていることです。これは私たちがそうしているというよりも、神のわざです。第一の創造が神に全て依存して生起しました。無からの創造です。それと同様新しい創造も全て神の働きの結果です。

 

【新約の教会こそまことのイスラエル】

私たちはすでにこの恵みに生かされています。だから、大切なことはこの原理に生きているかどうかです。そして、この原理に生きるものは新しいイスラエルだと宣言します。肉によるアブラハムの子孫ではなく、霊によって生まれ変わったキリスト者こそ新しいイスラエルの民なのだ、パウロはこのように彼自身ユダヤ人でありましたが、古い枠の中ではもう捉えようとしていません。まことのイスラエルが出現しています。それが新約の教会であることは言うまでもありません。

キリストと共に生き、キリストと共に歩む生き方こそ、この原理こそもっとも大事なことなのです。

 

ただし、パウロはこれを祈りとして語っています。新しいイスラエルはまだ完成していません。まだ「原理」理念の段階に留まります。だから空しいのではありません。これから形を取って行きます。だから祈るのです。

 

【最後に】

最後にパウロはイエスの焼印を押されていると言います。当時の奴隷は所有者を示す焼印を押されたと言われています。パウロはキリストの奴隷だと自覚しています。だから、焼印を押されたもののごとく、という意味もあるかもしれませんが、ここではやはり、今まで彼が受けてきた迫害による肉体の傷ではないかと思われます。

 

ガラテヤのキリスト者たちが再度パウロを危険な目にあわせるようなことをして欲しくない。あるいは、もう一度ガラテヤを訪問しなければならないようにして欲しくない、なぜなら、ガラテヤには頑固なキリスト教の反対者がいて、パウロと見れば襲いかかって来るかもしれないという意味かもしれません。(おわり)

2014年09月07日 | カテゴリー: ガラテヤの信徒への手紙

2014年8月31日説教 「行なった実を刈り取る」金田幸男牧師

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2014831日説教「行なった実を刈り取る」金田幸男牧師

 

ガラテヤの信徒への手紙6

5 めいめいが、自分の重荷を担うべきです。

6 御言葉を教えてもらう人は、教えてくれる人と持ち物をすべて分かち合いなさい。

7 思い違いをしてはいけません。神は、人から侮られることはありません。人は、自分の蒔いたものを、また刈り取ることになるのです。

8 自分の肉に蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、霊に蒔く者は、霊から永遠の命を刈り取ります。

9 たゆまず善を行いましょう。飽きずに励んでいれば、時が来て、実を刈り取ることになります。

10 ですから、今、時のある間に、すべての人に対して、特に信仰によって家族になった人々

 

 

 要旨

【6節、御言葉を教えてもらう人と教える人】

キリスト者は御霊に導かれて前進しています。パウロはそのキリスト者に勧めを書いています。順序だって語っていませんが、彼がガラテヤ教会の実情をある程度知っていて、それを思い起こしながら書いているためだと思われます。

 

6節、御言葉を教えてもらう人は、教える人と持ち物をすべて分かち合いなさい。ガラテヤ教会では御言葉、聖書を教える専門家がいたということが分かります。それは長老と呼ばれていました。1テモテ5:17では「よく指導している長老たち、特に御言葉と教えのために労苦している長老たちは二倍の報酬を受けるにふさわしいと考えるべきです」と記されます。御言葉を教えるために全時間を割いて働いている長老は、宣教する長老と呼ばれ、信徒を指導していました。教会は始めから御言葉を語って信徒を導く人を必要としたのです。

 

 ガラテヤ教会の実情はよく分かりませんが、ユダヤ主義者の影響を受けていました。彼らの教えに傾いて行く人もいました。むろんパウロの教えに忠実な人もいたでしょうけれども、教会内部は混乱していたと思われます。このような事態になったのは、教会の指導者たちの力不足のせいだと考えてもよいと思われます。教会の指導者の実力の欠如のせいでガラテヤ教会にユダヤ主義者の侵入が起きたのかもしれませんが、また、ガラテヤの教会の御言葉の働き人が生活を支えるために、全時間を割くことができないという事態が生じ、そのために信徒への指導がなおざりになっていたとも考えられます。

 

パウロはそのような実情を思い起こしてこのような勧めをしたのではないかと思われます。パウロ自身は御言葉に専念する働き人(使徒)でしたが、教会から報酬を受け取っていませんでした。1コリント9:1-18で長い文章でその理由を述べます。権利はあるけれども行使しないというのです。しかし、彼自身受け取らなくても他の働き人が報酬を受けることを是認しています。1テモテ5:18以下に記されます。

 

【聖職者の贅沢また貧困】

また、旧約聖書も、祭司やレビ人が民のささげたものの一部で生活することを認めています(民数記18:8、申命記18:1など)。

 御言葉に仕えるものたちが贅沢三昧にふけり、非難されるべき堕落は教会の歴史の中で繰り返されます。教会の腐敗は聖職者の贅沢から始まります。しかし、御言葉に仕えるものたちへの粗略な扱いが、御言葉の軽視につながります。教会の扱いが御言葉に対する敬いの欠如の現われとなってしまうのです。こうして、教職者の貧困が教会を霊的に貧困にしてしまうこともありえます。どちらも本末転倒の事態です。

 

【キリスト者の思い違い】

 7節.思い違いをしてはいけません。自ら欺いてはならない、と訳す聖書もあります。この文が前の文章から続いているのか、あるいはこの文章のあとにかかるのか、決定できません。前の文に繋がるなら、御言葉を教えるものへの軽視は信徒の思い違いであり、そして、これは神を侮ることにも繋がっていくということになります。それは由々しい事態です。しかし、後の文章に続いていくと考えることも可能です。

 

【8節:肉に蒔く者は滅びを刈り取る】

キリスト者が肉の欲望に従って生きている、自分をひとかどのものと思って独り善がりに生きているならば、それは思い違いをしていることであって、そんなことをしておれば神に対して反抗していることになると言います。

 5章21では、肉の思いに従って生きていくならば、神の国を継ぐことはできないと言われていました。8節では、肉に蒔く者は滅びを刈り取るとあります。これらは深刻な叙述です。あってはならないような状況です。

 

 私たちはこのガラテヤの信徒への手紙で、「信仰によって救われる」という真理を学んできました。私たちは信仰によって神に義と認められるのであって、律法の行いは必要でありません。信仰さえあれば充分です。私たちの現状がどんなにひどくても神は信じるものを受け入れてくださいます。これはパウロの語る真実です。誤りのない福音の教理です。これを疑う必要は全くありません。

 

それなのに、イエスは主であると告白するものが、肉の思いにふけっているならば、そのようなものは滅びると言われます。これは矛盾しているように思われますが、そうではありません。私たちの救いは信仰によるのですが、それでは生活が好き勝手放題でいいのかというとそうではありません。私たちは一方では必ず救われるという約束によって生きて行きます。他方では、私たちは肉の欲情に支配されて滅びないように気を配らなければなりません。私たちキリスト者はこの緊張のもとでキリスト者として生きていかなければならないのです。

 

【種まきのたとえ】

 7節の後半から、種まきのたとえが用いられます。イエス・キリストも種まきのたとえを語っておられます。例えばマタイ13:1-23で、道端、石だらけの土地、茨の中、そして、よい土地に蒔かれた種の話が記されます。よい土地に蒔かれた種だけが豊かに実を結ぶようになります。その他は実を結ぶことはありません。他にもマタイ13章には、麦と毒麦のたとえ、からし種のたとえが記されます。キリストの身の回りには農村風景が広がっていたようです。ちなみにパウロも、2コリント9章6-12で、種まきのたとえを用いています。そこでは献金の勧めのためにこのたとえが記されました。ガラテヤ6章7-9では、種よりも蒔かれた土地が問題になります。どのような土地に蒔かれるかで、種は異なった成長をし、異なった結果を生みます。肉に蒔く者は、肉から滅びを刈り取ります。霊に蒔く者は、例から永遠の命を刈り取ります。種は同じでも蒔かれた土地の違いで種は異なった状態になります。

 

【霊に蒔く】

肉に蒔かれる、霊に蒔かれる、それぞれ意味しているところは容易に理解できます。肉の欲情のままに生きるようなことをしていると滅ぼされる。キリスト信者でも、肉の欲するままに、肉的な思いに従って生きているならば、滅びにいたる。私たちは滅ぼされてはなんにもなりません。そして、神のさばきは恐るべきです。霊に蒔くとは霊に導きに生きることを意味しています。御霊は、私たちを導かれます。私たちの霊を感動させ、霊の奥底で私たちを動かされます。その果実は5章22-23に記されているとおりです。このように生きていくものは、永遠の命を刈り取ります。

 

この比喩で言われていることは、私たちキリスト者のあり方を反省させます。日々の歩みがこれでいいのかという自問を発します。

 

【9節、たゆまず善を行なう】

 9節では、たゆまず善を行なうように勧められます。御霊に導かれて生きていくとは、善を行なうところで具体化します。善を行なうことは、易しいことではありません。ひとつの例として、私たちが人に善を行なっているつもりで結果として他の人を傷つけてしまっていることがあります。また、親切の押し付けもよく起こります。誤解を招いて不愉快な思いを残すということもあります。善を行なうということは単純ではありません。ですから、私たちには往々にして善を行なうのにためらいがあります。世間では善を行なうのはときにお節介とも受け止められます。ですから,もういやだと思うこともあります。

 

 パウロは、たゆまず善を行ないましょうと勧めています。飽きずに、善を行なう。私たちは善を行なうことにしばしばためらいを感じます。そして、抑止しようとする思いが出てきます。パウロはそういうためらいを起こす暇なく間髪をいれずに、善を行ないなさいと語っています。とにかく頻繁に、絶えず、繰り返して、善を行ないなさい。善を行なうとはこういうことなのだと教えています。善については数多いということはないとされているように思います。

 

【神の家族には特別に善を】

 誰に対して善を行なうか。10節では、まず全ての人に対して善を行ないなさいと言われます。例外なく、敵も味方も、よく知る人も、知らない人も、善を行なう対象です。どんな人でも善を行ないなさい。よく知られているように、「あなたの隣人を自分のように愛する」という律法をユダヤ人はその「隣人」を同胞に限定するという解釈を与えました。隣人以外は愛の対象にはならないのです。パウロはそのような限定を否定しています。

 

 ところが、そのあとで、信仰によって神の家族となった人々には特別に善を行ないなさいと言います。これは矛盾しているように思えます。

 パウロは同じ教会員を神の家族にたとえます。それは単なる比ゆではなく、むしろ擬似的といってもよいもので、お互いキリスト者は兄弟姉妹と呼びかけます。神を父なる神と呼び、信者は全てその子らであり、お互い兄弟姉妹であるのです。このような同信のものたちとの絆は極めて堅いものです。そのような結びつきにふさわしくお互いに善を行ないなさい。これは全ての人に善を行ないなさいという命令とは矛盾しません。どんな人にも善を行なう。そのことは決して退けられるべきではありません。

 

同時に私たちはお互い神の家族です。親が子どもをいつくしみ、兄弟が互いに結び合い、夫婦が愛し合うように、家族の絆は深く強いものです。そのような結びつきは良質の人間関係と言えます。そのように、お互いに愛し合わなければならないというだけではなく、その証しとして善を行なうことが求められています。教会でこそ善は行なわれるべきです。神の家族に対して、善を行いましょう。(おわり) 




2014年08月31日 | カテゴリー: ガラテヤの信徒への手紙

2014年8月24日説教「キリストの律法の実現」金田幸男牧師

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20148月24日説教「キリストの律法の実現」金田幸男牧師

聖書 ガラテヤの信徒への手紙61 兄弟たち、万一だれかが不注意にも何かの罪に陥ったなら、"霊"に導かれて生きているあなたがたは、そういう人を柔和な心で正しい道に立ち帰らせなさい。あなた自身も誘惑されないように、自分に気をつけなさい。

2 互いに重荷を担いなさい。そのようにしてこそ、キリストの律法を全うすることになるのです。

3 実際には何者でもないのに、自分をひとかどの者だと思う人がいるなら、その人は自分自身を欺いています。

4 各自で、自分の行いを吟味してみなさい。そうすれば、自分に対してだけは誇れるとしても、他人に対しては誇ることができないでしょう。

5 めいめいが、自分の重荷を担うべきです。

 

 

 要旨

【御霊の導き】

私たちは御霊に導かれています。「イエスは主である」と告白し洗礼を受けるという事実が御霊の導きのもとにあるという証拠です。御霊に導かれているものは肉の欲望を十字架につけています。つまり極刑に処しています。そうはいうものの、私たちは完全に肉の欲望の罠から脱出できていません。私たちの内なる魂に罪の残りかすがこびりついています。

 

だから、私たちは意志を固め、自分の足で前進しなければなりません。キリスト者になればエスカレーターでそのまま救いの完成に至るのではありません。キリスト者はただ信仰によって救われるのであって、律法の行いは不要です。信仰プラス律法の行いでもありません。

 

しかし、救われたものは律法(の成就)を必要とします。御霊に導かれたものにはキリストの律法を全うする目標があります。またそれはどうでもよい勧めではなく、キリスト者の義務でもあります。

 

パウロは5:26で、「うぬぼれて、互いに挑戦しあい、嫉みあってはならない」と命じます。パウロは論理的、順序だてて勧めを書いているように思われません。これが第一に挙げられているのは理由があると思います。ガラテヤ教会は設立されて10数年しか経っていませんでした。最初は教会員の間では区別などなかったと思いますが、次第に教会員が増え、組織が整ってきますと、指導力を持つものが出てきます。

 

【ガラテヤ教会の実情

そういう人の中に権力を振るい、他の会員を支配する傾向が出てきたのではないかと思います。そうすると必ず反抗する人が出てきます。教会員に亀裂が生じ始めます。パウロはそのようなガラテヤ教会の実情を念頭に置きながら、この言葉を語っていると見てよいのではないでしょうか。

 

自己主張、自己過信が教会員の間を裂く。こういうことは教会が形を取り始めたときに起きやすいのです。嫉妬や競争心が分裂を招きます。そして、教会が割かれるとき、教会は存立の危機に直面せざるを得ません。だからこそこの命令を最初に置いたのだと想像することができます。せっかく教会が形を取り、整い始めた矢先、大きな問題を抱えることになります。パウロはそのようなことがあってはならないと考えています。

 

【6章1節「万が一」】

パウロは万が一、と仮定を立てて文章を書き始めます。誰かが罪を犯すようなことがあれば。万が一ということは仮初にもそんなことがあるはずがないけれども、という気持ちが表されているように思えます。教会にはそんなことがあってはならない。教会の中に平然と罪が見逃されているようなことがあってはならない、そんなはずがない。パウロはこのように教会は本来罪はあるべきではないと言いたいのでしょう。しかし、現実がそうではありません。教会に罪が認められます。いえ、世間でも起きないような、忌むべき、罪が犯されています。だから、霊に導かれているものは、そのような罪を犯している人を正しい道に戻さなければなりません。正しい道へ方向転換させるとは悔い改めさせるということでもあります。

 

【教会の「訓練」と役員】

霊に導かれているものはキリスト者のことです。同じ教会員であるものが罪を犯していたら、教会はその罪を矯正する必要があります。このような働きを「訓練」といいます。けれども、訓練はいわゆるトレーニングではありません。この言葉はいろいろな意味を含みます。鍛錬、教練、しつけ、懲戒・折檻というような意味が含まれています。教会はこのような訓練を行なうために教会役員を立てました。教会役員の最も重要な務めは訓練を実施することです。

 

罪を犯している信徒がおればその人を戒め、正す必要があります。厳格に信徒の訓練ができるかどうか、教会は問われています。キリスト者とその共同体である教会が御霊に導かれているならば、その教会は、罪を犯している人を悔い改めに導かねばならないのです。ところがたいていの場合は、うまく行きません。特に今日、信徒訓練は有名無実化しています。教会役員は教会員の単なる世話役、相談役になっています。

 

教会の中で罪が犯されていても見過ごされたり、黙認されたりしています。罪を犯している人は反省することもありません。なぜなのだろうかと思います。訓練というと厳しく叱責し、ときには暴力的な仕打ちをしてまで罪を犯した人を懲らしめるという誤解があります。教会は訓練を伝家の宝刀として用いて、教会員を責めたり、批判したりするだけではその効果はありません。

 

【柔和な心で】

パウロはここで「柔和な心で」はといいます。これは「謙遜な気持ちをもって」と訳される場合もありますが、強権的に信徒を訓練するのではなく、その反対のやり方で信徒を訓練すべきであると言われます。そんな甘いことを言っていても罪を犯した人は悔い改めることはないと、断固たる手段を選ぼうという誘惑に駆られますけれども、そのようにして成功したためしはありません。教会の訓練は別の原則、方法でなされます。

 

確かに教会の訓練は困難を極めています。訓練のことを「戒規」ともいいますが、これが効果あるように執行された例をあまり知りません。それほど訓練は有名無実化しているわけですが、だからこそ、霊に導かれたものは罪を犯した人を反省させ、悔い改めさせるために真剣さと祈りが求められています。

 

罪を犯している人を非難し、叱責するとき、あるいは告発し、弾劾するときに陥りやすい過ちは自分のことを棚に挙げて他人の罪を責め、攻撃することだけに集中してしまい、自分も同じような過ちを犯しているということを看過してしまうことです。同じ罪を犯している、あるいは、その誘惑に曝されている場合もあります。

 

【互いに重荷を負いなさい】

2節で、パウロは互いに重荷を負いなさいと命じます。これこそキリストの律法を成就することとされます。キリストの律法はキリストが命じられる律法という意味ですが、キリストは律法を要約されています。

 

【律法の要約】

マタイ22章34-37で、キリストは律法を、「神を愛すること」と「隣人を愛すること」に要約されています。また、これは当時の律法研究者の共通の認識でもありました。マタイ19:16で、キリストに永遠の命を獲得するために教えを請うた若者が自ら律法の大切な項目として隣人を愛することを挙げますし、よきサマリヤ人のたとえ(ルカ10:25-38)でキリストの問い、律法には何が書かれているのか、に律法学者が隣人への愛と答えているところから分かります。

 

パウロもガラテヤ5:14で律法はこの隣人への愛という一句にまとめられると語っています。ところがここではパウロは互いに重荷を負うことが律法の成就だと語ります。隣人を愛することは結局互いの重荷を負うことということになります。重荷とは何か、ここでは明確に語られていません。

 

【5節:自分の重荷を負え

しかし、私たちの人生は数え切れない重荷を負っています。他人の重荷を負うことがキリストの律法の実現に他なりません。どんな重荷でもそうすることが求められます。ところで、5節では、各自、自分の重荷を負えと命じられます。こうして、私たちは他人の重荷と自分の重荷を負うことになります。これには納得できない人も多いでしょう。

 

結局、キリスト者は自分だけではなく他人の重荷を背負わなければならないのか。パウロはそう言います。だから、結論的には、わたしの罪を他人には負わせられないということにもなります。私たちは何とかして重荷を軽くしたいものです。しかし、他人には重荷を負わせてはならず、自分自身の重荷も背負う。何ともキリスト者の人生はしんどいということになるかもしれません。

 

できるだけ荷物は軽くしたい。他人に荷物を背負ってもらえれば大助かりです。ところが、パウロは、自分の重荷を他人に負わせるなと命じているのです。だから、私たちは背負えない重荷に打ちひしがれてしまいかねません。私たちはとどのつまり、神に重荷を背負っていただくしかありません。キリストは私たちの重荷の全てを背負って下さる方です。

 

私たちは自分の重荷を背負い、誘惑に負けないように気をつけよと命じられています。まさに個人責任です。誰も個人としては弱いものです。神に助けを求めていく以外に道はありません。

 

【自分を過大評価するな】

3-4節は5章26との関連で見れば同じようなことが語られます。自分をえらいものと思う。過大評価です。自分には力がある。うぬぼれです。だから、他人と比較して自分のほうが立派だと採点します。こうして、他人を見下します。けれども、このようなことがあってはならないとされます。

 

私たちは実際には何ものでもない。教会という少数者の中では権力があるかのように思い、そのように振舞います。他者を支配しようとします。パウロはこれを戒めています。そうであってはいけないのです。自分がひとかどのもの、実力者と思いあがって、権力を振るおうとします。だからこそ自分自身をしっかり見極めなければなりません。自分を過度に評価するものは自分を欺いています。それは虚構です。何の根拠もありません。絵空事です。

 

自分の行いを吟味せよ

しかし、私たちはしばしば真実ではない自分の姿を勝手に描き出して、それをあたかも真実であるかのように錯覚してしまいます。特に自分の行いを吟味せよと求められます。行いは外に現れていますから、自分で評価できます。外に現われたものを直視すれば本当の姿と評価されます。

 

パウロは自分に対しては誇れるが、と申しますが、自分が善であると思ってしたこと、誠実に行なったことまで否定する必要はないと語ります。そのようにして行為したことは、自分がよく知っています。自分で自分の行動を見極めることができます。けれども、私たちの行動は、どんなことであっても、他人に対して誇ることができません。だから、実力があるなどと思ってはならないのです。行いを冷静に見つめれば自己評価できます。大したことはないと分かります。

自分の良心にかけて正しいことをしておればそれだけでいいのであって誰かに誉めてもらう必要はありません。(おわり)


2014年08月24日 | カテゴリー: ガラテヤの信徒への手紙 , 新約聖書

2014年8月3日説教「御霊なる神の導き」金田幸男牧師

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20148月3日説教「御霊なる神の導き」金田幸男牧師

 

聖書:ガラテヤの信徒への手紙5

16 わたしが言いたいのは、こういうことです。霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。

17 肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反するからです。肉と霊とが対立し合っているので、あなたがたは、自分のしたいと思うことができないのです。

18 しかし、霊に導かれているなら、あなたがたは、律法の下にはいません。

19 肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、

20 偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、

21 ねたみ、(殺人)、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。以前言っておいたように、ここでも前もって言いますが、このようなことを行う者は、神の国を受け継ぐことはできません。

 

 要旨

【キリスト者はどのように生きるべきか】

律法の束縛から解放され、罪の赦しをいただいているキリスト者はどのように生きるべきか。

洗礼を受けた後の生き方について明確な理解を持っていなかったために、ガラテヤの信徒たちはパウロの教えた福音から外れていきました。彼らは信仰だけではだめだ、律法の行いも救いに必要だというユダヤ主義者の教えを簡単に受け入れてしまいました。そのために割礼やユダヤの宗教的な暦の遵守などに血道をあげることになりました。

 

これとは別にコリントの信徒のように救われたら後は自由だといって放縦にふける人たちもいました(コリント1 5:1)が、どちらもキリスト者がいかに生きるべきかの明確な知識を持っていなかったせいです。

 

ガラテヤ5:16以下でパウロは答えます。その場合、ふたつの観点から見ています。ひとつは消極的な観点からで、肉の欲に従って歩まないということです。もうひとつは積極的な観点からで、御霊の導きに従って生きて行きなさいというものです。

 

【キリスト者も罪の支配下にある】

まず、私たちが知らなければならないことは、キリスト者といえども肉の欲望は全く消滅していないという事実です。キリスト者は罪赦され、もはやその奴隷ではありません。しかし、依然として罪は残存し、支配しているのです。神を信じたとたん一切の罪から自由になったのではありません。全く聖とされたのではありません。時間が経っても肉の思いは残るのです。それどころか火山の噴火のよう突然肉の欲望が爆発します。枯野の野火のように急激に拡大し、肉の欲の支配下に戻ります。 

 

肉の欲とは何か。19-21節にそのリストが挙げられています。しかし、肉の欲は多種多様でこれだけではとても描き切れません。ある翻訳聖書(KJV欽定訳)にはねたみの後に殺人を加えますが、肉の思いの数はもっともっと多いということができるでしょう。

 

ある人はこのリストを4種類に分類します。

 

第1は、姦淫、わいせつ、好色。いずれも性に関わる欲望です。なぜパウロはこれを最初に挙げたのでしょうか。当時のギリシヤ世界では、禁欲が徳目として挙げられていました。しかし、禁欲には反動が起きやすいものです。肉欲の命じるままに生きることが幸福だという考えが生じ、美しいものは肉体美だとされます。ギリシヤの彫刻には肉体の美しさを追求する作品が多く見られます。そして、性を謳歌する傾向が伴います。実際、ギリシヤ文化は、性的放縦を伴う場合が多かったのです。買春、姦通、不倫、不貞が横行する社会でした。ローマ人の社会も同様です。パウロはその有様を直視しているのです。

 

フランシスコ・ザビエルが日本伝道を志したのはインドで出会った日本人の聡明さであったといわれます。論理的にものを考え、理路整然とその考えを示す。こうして日本宣教のため上陸しますが、ザビエルは日本人の欠陥は性的なことに関しては野放図だと指摘しています。性的な放縦は人間の目立つ、さらに制御できない肉の思いなのです。だからパウロはここで最初に列挙します。

 

第2は偶像礼拝と魔術。これらは「霊的な」=宗教的な面での肉の思いです。矛盾した表現ですが、宗教の領域こそ人間の欲望の発露の場所にもなります。自分で神を作り出し、超自然的な力を誇示し、それを欲望の実現のために乱行をします。

 

第3は、敵意以下ですが、これらは対人的に作用する肉の思いです。一番多く挙げられています。それだけ一般的かつ多様ということでしょう。これらは心の中で生じるだけではなく、実践に移されます。その結果は醜い人間同士の争いとなり、多くの不幸の源泉となってしまいます。

 

第4は泥酔と酒宴ですが、これらは自己に対する肉の思いです。

 

肉の思いは多様ですし、時代が変わると形を変えます。また個人によってその現われは異なります。しかし、キリスト者といえどもこの肉の思いから逃れられません。私たちは肉の思いにいつも縛られています。キリスト者はどうすればこの肉に縛られない生活を構築できるのでしょうか。

 

【キリスト者は御霊に導かれなければならない】

答えは一言で言えば、キリスト者は御霊に導かれなければならないということです。肉の思いの縛られないためには霊に導かれるべきなのです。なぜなら、霊と肉は対立し、決して両立しないからです。肉に従いたくないなら御霊に従うべきなのです。御霊の導きを拒否すれば肉に縛られて生きていくし中のです。

 

では御霊の導きに従って生きるとはどういうことなのでしょうか。

 霊の導きに従って歩みなさい。歩むというのは「生きる」ということです。日常生活を営みなさい。新共同訳聖書は、「霊」と翻訳していますが、従来の翻訳聖書は「御霊」と訳しています。

 

このような訳の違いは意図があります。なぜ、「御霊」とせず、「霊」と訳したのか。御霊は、私たちの霊に働きかけられますが、その場合、私たちの自覚、意識、理性、判断、記憶などを無視されることはありません。むろんときに聖霊は奇跡的超自然的に作用されることもあります。預言者の場合、全てではありませんが、恍惚状態、無意識で神の託宣を与えられる場合があります。

 

しかし、このような御霊の働きは例外的であるといってもよいと思います。たいていの場合、人間の自覚、自意識が用いられます。預言者の場合もそうですが、別段意識を失うことなく、神の言葉を語ります。それは聖霊の導きです。聖書の著者、例えばパウロは冷静に、自覚して書簡にペンを走らせます。彼は決して恍惚状態で書いてはいません。しかし、御霊の働きかけ、霊感によって記したのです。

 

コリントの信徒への手紙一123 ここであなたがたに言っておきたい。神の霊によって語る人は、だれも「イエスは神から見捨てられよ」とは言わないし、また、聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えないのです。4 賜物にはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ霊です。

 

私たちは自覚的にイエス・キリストを信じます。そして、そのみ言葉に従います。私たちは操り人形のようにそうするのではありません。ロボットのように神に命令されて、考え、思い、行動するのではありません。わたしはわたしです。決してわたしを失ったりしません。それどころか、わたしが決心し、わたしが決意するのです。最終的には、わたしの霊が意志し、実行します。

 

ところが、そのわたしの霊の思っているところが御霊の思いなのです。わたしの精神と御霊の思いが一致するのです。こういうことが信仰において起きます。だから、新共同訳聖書では、御霊と訳さないで、「霊」と訳されたのです。ここで「霊」は純粋に人間の霊、精神、心ではなく、聖霊に導かれ、聖霊と同じ思いになっている霊のことなのです。

 

私たちは肉の思いに支配されやすい現実の中を生きています。その肉の支配から脱出するためには御霊に導かれなければなりません。御霊に導かれるとは、わたしの心の命じるままに生きることです。むろん、単にわたしの心の思いではありません。わたしの心は絶えず肉の思いに支配されます。ここではそのような単純な心の思いではなく、御霊に導かれ、御霊と一致しているわたしの心の思いに従うことなのです。

 

では、私たちは、どうすれば御霊に支配されるのでしょうか。当然、御霊は御言葉をもって語られる方です。神の言葉、律法もまた神の言葉です。神の言葉によって御霊は私たちに語ってくださいます。神の言葉とは聖書のことです。聖書が説き明かされる。そのとき、私たちの肉の思いは反発します。しかし、御霊に導かれて、私たちの霊はそれが神の意志であると知ります。そして、示された神の御心に従うとき、あるいは従おうとするとき、私たちは肉の思いではなく、御霊に導かれます。礼拝において私たちは常に神の言葉を聞きます。

 

【私たちの内に残る肉の思い】

私たちには肉の思いに従って生きていこうとする傾向が残っています。それは強力である場合も多いのです。逆に私たちの心は頑なです。神の御旨であると知っても従おうとしません。信仰の決心がそれをよく示します。信仰はいいものだ、人間には救いが必要だ。神の恵みは素晴らしい、と思います。しかし、だからすぐに誰もが信仰を持つとは限らないのです。私たちの心はそう簡単に変わりません。

 

伝道を志す人は皆これを経験します。どんなに熱心に説得してもなかなか人は決心しません。暴力を持って脅しても人の心は信仰に入るわけではありません。しかし、その不信仰は砕かれます。とても神を信じると思えない人が神を信じるようになります。私たちの霊は、そのままでは決して神に服従などしません。抵抗するばかりです。ところが、その頑固な心も聖霊によって変えられます。

 このことはキリスト者の生涯にわたって言うことができます。私たちは聖霊によらなければ御霊の導きに服することはありません。そのままではかえって肉の思いに縛られます。それが人間です。だから、禁欲で解決しようとしたり、人間的な熱心(苦行難行など)で打開を図ります。でもそのような努力には甲斐がありません。人の心ほど堅固なものはありません、ちっとやそっとでは動きません。ではどうすることもできないのか。そうではありません。

 

【ここは「御霊の導き」と翻訳すべきでしょう】

やはりここは「御霊の導き」と翻訳すべきでしょう。御霊は神です。御霊なる神は全知全能です。だから、不可能と思われることも可能とされます。御霊が働かれるとき、人の心を生まれ変わらせることもできます。事実再生することもできます。私たちは聖霊に頼ります。聖霊は神です。神として働かれます。肉の思いに抵抗することは至難のわざです。肉の思いにいつも敗北するのが現実です。しかし、私たちの魂を揺り動かしているのは聖霊です。私たちは霊に導かれます。決して、御霊は間違った方向に導かれません。御霊に信頼して行くことが信仰です。(おわり)

2014年08月03日 | カテゴリー: ガラテヤの信徒への手紙 , 新約聖書

2014年7月27日説教 「愛によって互いに仕える」金田幸男牧師

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2014年7月27日説教「愛によって互いに仕える」金田幸男牧師

 

聖書:新約聖書ガラテヤの信徒への手紙5

13 兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。

14 律法全体は、「隣人を自分のように愛しなさい」という一句によって全うされるからです。

15 だが、互いにかみ合い、共食いしているのなら、互いに滅ぼされないように注意しなさい。

 

要旨

【真の自由と奴隷状態】

 パウロはガラテヤの人々がキリストによって自由にされていると語ります。キリストは彼らを自由にするために召されました。ガラテヤの人々は自由ではない状態、つまり奴隷状態から解放されました。

 

何からの自由なのか。まず第一に、律法の下からの自由です。彼らは律法の束縛下にありました。彼らは異邦人でしたが、心に律法が刻み込まれており、その律法が遵守を要求しました。律法によって自らが神の前に義とされなければならない、そのために律法を守らなければならない、さもなければ神から裁かれて滅びるるという、ユダヤ人同様の拘束下にありました。それは人間の力で救いを勝ち取る方法です。

 

そして、重大な問題は、神に対して傲慢な態度からその願望が出てくるということです。だから第二に、この肉的な思いの拘束からの自由のこともパウロが念頭に置いていました。肉の思いはガラテヤ5章19-21に列挙されています。私たちをがんじがらめにしている肉的な思い、願望からキリストはご自身にほうに呼び出して自由にしてくださいました。

 

【自覚されない罪】

このような肉の思いは罪から生じます。しかし、この思いはあまり自覚されていません。罪は自覚されているとは限りません。気がつかないなら、そこからの解放もまた意識されていません。

 

例えば、肉の思いの中に妬みがあります。妬みは、至るところに見られます。小さな子どもにも妬みは見られます。兄弟間でも親の愛をめぐって嫉妬が生じます。集団同士でもこの嫉妬は作用します。富める階級と貧しい階級の間で嫉妬が支配して対立が生じます。国同士が妬みから戦争を引き起こすことは珍しくありません。嫉妬などという心の動きが大きな災いを引き起こします。いろいろな大義名分を掲げてもその根本には妬みがある。妬みに世界中が支配され、束縛されています。この所の妬みは潜在化していて自覚・認識されていません。

 

妬みだけではなく、自尊心、うぬぼれ、過大な自己評価、過剰な自信に縛られている人が何と多いことか。逆に劣等感、自己憐憫、うつ状態に縛られて身動きできない人生を営んでいる人も多いのです。人間の心を支配する感情は複雑です。それがどういうものであれ、人の魂を束縛し、奴隷のように扱います。キリストはこのような心を縛る奴隷的な束縛から私たちを解放されます。

 

【十字架による解放】

キリストの十字架の意味はこの肉の支配からの解放なのです。自由はそこから生じます。霊的な束縛からの自由に他なりません。

 

今日、世界で支配的な思想は「ありのままでよい」というスローガンであると思います。

あなたはそのままでよろしい。そう言うのです。この思想が有力なのは当然です。

 

今日は他者を否定する時代です。才能や能力の欠如、営業成績不振などを理由にして、人間の価値を低く見積もる社会です。ときには金銭の多寡で人間の価値を計ります。このような社会では、ありのままの自分を認めて欲しいと誰もが思っています。ありのままの自己を肯定する思想も今日では殊の外、必要かもしれません。

 

しかし、結局この『思想』は自分で自分を認め、許す思想でもあります。それは究極的な魂の解放にはならないと思います。自分で自分を許してみても束縛そのものは消滅していません。結局のところ、気持ちの持ち方で終わってしまいかねません。許しは他者から来ます。

 

【キリストによる神の赦し・解放】

キリストは、私たちを赦されます。肉の思いに縛られていてがんじがらめになっている私たちを、ご自身の犠牲によって赦されます。神の御子が赦しを約束し、宣言し、保証されます。この赦しこそが究極的な自由の源であるといえます。

 

キリストはこの自由に私たちを召されます。つまり、呼び出されます。み言葉によって私たちを自由に導かれます。まず、わたしたちが肉の思いに縛られている事実を自覚させます。それから、私たちが霊的に奴隷状態であることをみ言葉によって知らせ、そこからの脱出を勧められます。まことの自由はキリストにあります。

 

私たちは長くこの束縛状態に置かれていました。あまりに長く奴隷状態であったために、キリストから解放されていることに気がつきません。足かせ、首かせは壊されています。ところが、束縛が日常となって、相変わらず束縛されているように錯覚しています。ガラテヤの信徒が味わっている状態はこれです。すでにキリストから自由にされていますが、また、肉の奴隷に戻って行こうとします。

 

自由人と奴隷状態の共存は、当時は社会の制度でした。その格差は大きいものです。奴隷身分であることは自由がないというだけのことではありません。人間ではなく、売買の対象であり、生殺与奪の権を一方が持っているということを意味していました。キリストに自由にされるということは、律法からの自由であり、肉の支配からの自由を意味していました。ガラテヤの信徒が奴隷の状態から自由を勝ち取ることができました。それなのに奴隷状態への逆行は信じがたい行動というべきなのです。

 

【キリスト者の自由】

こうして、キリスト者は自由にされています。全く自由なのです。もはや律法を義と認められる方法は破棄されました。ところで、この自由を強く主張することは、律法の破棄に繋がることはありません。現実には、自由の主張が、放任、放縦につながって生きました。キリストを信じるものは律法の行いから自由です。それによって救いを勝ち取ることはありません。すると、律法を軽んじる傾向が生じます。自由を、肉が罪を犯す機会とするという弊害が生じます。

 

 【自由と奔放の違い】

なんでも自由だ、何でも赦される、何を仕様が、何を言おうが勝手だという主張がまかり通ります。あるいはそういう口実が平気で語られます。キリスト者は自由である。もはや何によっても束縛されることはない。こういう主張が出てきます。

 

戒律が厳しい宗派が存在します。そのような宗派に比較してプロテスタントは自由を強調しました。キリスト者は律法の行いや戒律などに縛られない。救いには関係ない。そこから律法の軽視が生じます。道徳的にたがが外れた状態が起きました。

 

残念ながらプロテスタントの有力なところで、このような誤った自由の観念が罷り通るという事態が生じました。厳格な戒律で救いを得られない、それはその通りなのですが、律法軽視、あるいは無視の傾向が生じます。

 

【偶像に捧げられた物を食すこと】

パウロは、自由を乱用したり誤用したりしてはならないと警告をします。実際にガラテヤの信徒とは違った極端が生じています。コリント教会で起きていたことです(コリント1 8:9)。当時ギリシヤでは神殿で犠牲がささげられますが、屠られた動物の肉は市場に払い下げられました。大量の食材が市場に出回っていて、それを買って食べることは一般的な市民の日常生活でした。偶像はただに石や木切れに過ぎない。神は唯一であるから、異なる神などありえない。そういう神に奉献された犠牲の肉を食べることは何ら差し支えないという人もいました。

 

しかし、そのような行動に躓きを覚える人もいました。一方では自由を主張します。他方では躓いている人もいました。パウロは自由な言動が弱い信徒を躓かせることになると警告をしています。自由は乱用されやすいのです。自由を主張する人は自由を行使しているだけだと思っています。やましさを感じているわけではありません。ところが、自由を乱用して、ある人たちを躓かせ、信仰から離れさせる結果となります。

 

【指針としての律法】

律法は廃止されるのではなく、救いの手段としての律法は不要となったけれども、律法そのものが不要になったのではありません。キリスト者の人生は律法から離れてあるのではありません。あくまで律法はキリスト者がそれを守って生きていく指針なのです。道しるべといった模様と思います。

 パウロは律法の要約をここで引用します。マタイ22:39で、律法の要約がレビ19:18を用いて語られます。パウロはローマ13:9でも同じ点を語っています。

 

新約聖書マタイによる福音書22:39

第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』

 

旧約聖書レビ記19:18

復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である。

 

ローマの信徒への手紙13:9

「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」、そのほかどんな掟があっても、「隣人を自分のように愛しなさい」という言葉に要約されます。

 

自分を愛するように隣人を愛しなさい。これこそ律法の要約で、律法の条文が不要になったり、無効になったりしているのではありません。愛して互いに仕えあうと言われます。

 

【律法の効用】

律法の要約は、律法全体を指し示します。律法は不要になったのではなく、律法はキリスト者には重要であるとされています。律法は廃棄されたのではありません。救いの手段としてユダヤ人が確信していたような仕方で律法が重視されるのではありませんが、律法はキリスト者の行動規範であり続けます。神を信じるものは律法を重んじるべきです。

 

 十戒、使徒信条、主の祈りと共に3要文と呼ばれます。キリスト教において、この三つは肝心要の位置を占め、キリスト教信仰を簡潔に表明するものです。

 

 パウロは警告します。だから、教会員が互いに挑みあい、噛みあい、共食いまでしているならば、そのときキリスト者も、教会も滅びてしまう。教会の外面的なものは存続するでしょう。しかし、教会の内部にあるものは失われます。教会がするべきことは互いに仕えあうことであるはずです。

 

ガラテヤの教会もまた律法を正しく用いないならばその破局は近くなります。教会は律法を正しく学ばなければならないのです。キリスト者にとって律法は生きていくために指針です。その律法を用いないで、あるいは無視してしまうとき、滅びに至るとは重大な警告です。

 律法を守っていないという現実は残ります。だから、律法などどうでもよいものとし、律法を学ばず、律法を生きていく術にしないならば、そのとき、律法は救いの手段ではないとしても、滅びの手立てとなるという皮肉な事態となってしまいます。そのようなことがあってはならないのは当然というべきです。(おわり) 

2014年07月27日 | カテゴリー: ガラテヤの信徒への手紙 , 新約聖書

20014年7月20日 説 教 「十字架のつまづき」金田幸男牧師

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2014年7月20日説教「十字架の躓き」金田幸男牧師

聖書:ガラテヤの信徒への手紙5章

7 あなたがたは、よく走っていました。それなのに、いったいだれが邪魔をして真理に従わないようにさせたのですか。
8 このような誘いは、あなたがたを召し出しておられる方からのものではありません。
9 わずかなパン種が練り粉全体を膨らませるのです。
10 あなたがたが決して別な考えを持つことはないと、わたしは主をよりどころとしてあなたがたを信頼しています。あなたがたを惑わす者は、だれであろうと、裁きを受けます。
11 兄弟たち、このわたしが、今なお割礼を宣べ伝えているとするならば、今なお迫害を受けているのは、なぜですか。そのようなことを宣べ伝えれば、十字架のつまずきもなくなっていたことでしょう。
12 あなたがたをかき乱す者たちは、いっそのこと自ら去勢してしまえばよい。

 

要旨 

【競走のコースを曲げること】

 7節で、パウロは陸上競技を比ゆに用います。古代世界でも競争は盛んで、その勝者は民衆の尊敬を受けました。競走は全速力で走ったり、持久力で長距離を走ったりしますが、コースから外れることは許されません。ガラテヤの信徒は今まで全力で走ってきました。ところが誰かが邪魔をします。競走のコースを曲げるようなこと、ゴールを偽ものにすることなど、いろいろな工夫をしてガラテヤのキリスト者の信仰を途中で挫折させようとするものがありました。

 

パウロはここで邪魔をするもの、10節では「惑わす者」、12節では「かき乱す者」といいます。彼らは、福音だけではなく、律法の行いも必要だと教えました。そのために割礼を要求します。その他の律法の行いを実践しなければ救われない、異邦人もユダヤ人のようにならなければ神の国を継承できないと主張をしたのです。

 

 パウロはここでガラテヤの信者を厳しく断罪していません。信仰は個人の問題です。だから、ガラテヤの信徒たちが福音のみを信じる信仰から、律法の実践も救いに必要だという誤った教えに傾いていきましたが、その場合責任は決断した彼らにあるはずです。今日は自己責任の時代ですから、信仰を動揺させたガラテヤの信徒たちがその責任を問われなければならないはずなのです。

 

【偽教師、ユダヤ主義者】

パウロはこの手紙の中でガラテヤの人々厳しく責め、責任を問い、告発して当然です。パウロがそれをすることは正当であると思われます。ところがパウロが弾劾しているのは、彼らを惑わす偽教師たち、ユダヤ主義者です。福音信仰に律法の実践を加えてそれが救いの条件だとする異端をパウロは激しく非難します。それどころか呪い、呪詛さえします。誰であろうとも、ガラテヤの信徒を惑わし、最初の告白した信仰を歪めるものはさばきを受けなければなりません。パウロはこの偽教師には全く譲歩などしません。このパウロの姿勢には抵抗を感じる人もいるかもしれません。

 

本来厳しく責められても仕方がないガラテヤの信徒にはパウロは柔軟に対応しています。信頼さえ表明します。しかし、ユダヤ主義の偽教師にはもっとも過酷な裁きを願います。この落差は、人間的な感情と異なります。少々の違いなどには目をつぶる。これが私たちのすることです。福音理解に関してもそうです。ちょっとした違いなら何でも構わないと思います。

 

ところがパウロは福音の真理に関しては妥協しません。少しの妥協などしません。福音を捻じ曲げ、水増しし、曖昧にするようなものたちを許しておくことができないとするのです。一歩も退きません。彼らはれっきとしたキリスト者であると主張していたに違いありません。福音を奉じている。キリストを信じている。聖書を受け入れている。こういう点で同じだといい、そしてすぐあとで、ただし、行いも必要だと言い出すのです。パウロはこのような考え方を容赦しません。なぜなら、福音の真理、神の大きな恩寵をないがしろにするからです。福音を歪曲したり、曖昧にすることは決して許されないのです。

 

【勧誘する宗教】

 偽教師からの「誘い」がガラテヤの信徒に向けられていました。この語はパウロに向けられた言葉ではないかと言われています。ガラテヤの信徒たちを誤った方向に勧誘していると。しかし、パウロは偽教師たちこそガラテヤの信徒を勧誘するものだというのです。よく戸別のチラシ配付をしましたが、郵便受けに「セールス、宗教の勧誘、お断り」というステッカーが張ってありました。伝道などセールスと同じようなものと見なされています。パウロはそうではないといいます。ガラテヤの信徒の信仰を危うくするような偽教師たちこそ勧誘をしているのです。自分たちの陣営にガラテヤの信徒をお招きし、お誘いして、人数を増やすことが目的です。宗教団体の活動は多くの場合その団体の人数を増やすことを目的としています。まさしく勧誘することが伝道なのです。

 

【宣教】

私たちキリスト者も所詮同じだと言われてはなりませんし、自分にそんな言い訳をしてもいけません。勧誘に対置される言葉は「宣教」です。すなわち、キリストを救い主として宣言し、キリストの約束を恵みとして宣言するキリスト教会の伝道は単に自己の宗派の人数増やしに留まるものではありません。福音のみが救いに至る道であると確言し、明瞭に指し示すことです。

 福音に欠けがあり、人間が補いをする必要があるなどという教説は破棄されなければなりません。そんなことは決してありません。そんな教えを主キリストが認めるわけがありません。

 

【腐ったパン種の喩え】

 9節でまたパウロは比ゆを用います。パン種、イースト菌の喩えです。古代のイースト菌は雑菌も多かったといわれます。ですから、暖かく湿気の多いところにパンの生地を放置しますと、急速に膨らむのはいいのですが、食べるには適さなくなってしまいます。パン種が作用して練り粉全体が膨らみすぎると味も落ち、酸っぱくなったりして食用にならなくなってしまいます。

 

【別な考え】

パン種はいうまでもなく偽教師の教えを意味しています。10節で、それは「別な考え」とされています。異なる教えです。その間に何らかの共通点などない教えです。みかけは似たように思えます。実際、共通点がたくさんあるように思えます。福音そのものを否定しているのではありません。福音も必要、しかし、律法も上乗せされると教えるのです。このような偽教師たちの教えはパウロから見れば異なった教え、まったく別の教えとなります。見たところ共通点があっても、肝心の、イエス・キリストを信じる信仰だけが救いに必要だという教えとは水と油の関係なのです。

 

【パウロの信頼】 

これほどパウロは福音のみをいう教えに固執します。それはゆるぎない確信でした。救われるのはただ神の恩寵、恵みによるだけなのです。ここには妥協も譲歩もありません。それがパウロの姿勢でした。

 

 ガラテヤの信徒に対しては、パウロは驚くべき言葉を使います。「信頼する」という言葉です。ガラテヤの信徒が異なれる福音に行ってしまうことはありえない。パウロはそのように断定します。でも現状はどうであったでしょうか。ガラテヤの信徒とパウロの距離はすでにかなり離れていました。ガラテヤの人々はパウロに背を向けていました。しかし、ガラテヤの教会員が別の教えに傾いていくはずがないとパウロは語っています。それどころかあなた方を信頼している。現実は違っていました。ガラテヤの信徒たちは敵対さえしていました。パウロはその事実をよく認識していたはずです。ガラテヤの信徒たちはもうすでに律法の行いに拠って立っていたかもしれません。

 

 私たちの人間関係は少し溝ができると埋めがたいものとなります。そこにあるのは不信感です。教会でもこのことは起こりえます。そして事態は深刻になっていくものです。

 教会から離れて行ってしまった人々に、私たちはついそのような人が神から捨てられたのだと断言します。教会の外に救いはない。だから教会に背を向けたような輩は救いから漏れているに違いない。彼らは選ばれてはいない。こういう早合点をしているのです。

 

 パウロはそう言いません。彼らガラテヤの信徒を信頼している。なぜなら、主を拠り所とするからです。教会の人間関係の基礎はキリストです。この基礎の上に立っていたら信頼できる。ガラテヤの信徒たちは必ず戻ってくる。パウロは信じています。彼らが復帰する可能性は低いかもしれません。いったんパウロから離れてしまったのです。もう二度と戻ってくるはずもないと思いがちです。パウロはそう考えませんでした。

 

ガラテヤの信徒はユダヤ主義者の教えを捨ててもう一度戻ってくると信じています。あのユダヤ主義者の語る教えに満足できなくなるとパウロは思っていたに違いありません。なぜならキリストこそ宝だからです。そこに最大級の価値があるのです。福音の恵みを知ったものが、ユダヤ主義者の惑わしに惑わされ続けるはずがない。福音は素晴らしい。パウロはそのように確信をしていましたから、ガラテヤのキリスト者も同じようになるのだと信じていたのです。

 

キリストを拠り所にしてこそ、真の信頼が生じます。私たちの人間関係は相互不信と敵対や憎悪、嫉妬や疑念に満ちています。そのためにたがいの関係がばらばらです。教会だけではなく、キリスト者の家庭にもこの影響は及んでいます。パウロの言葉に耳を傾けるべきです。

 

【ユダヤ人には十字架は躓き】

 11節で、パウロが割礼を宣教しているという批判のあったことを推測させます。ユダヤ人には割礼を教え、異邦人には違ったことを言っているというのです。パウロははっきり否定します。相手がユダヤ人であろうとも割礼を宣伝したことはありません。割礼を宣教していたら迫害を受けることはない。ユダヤ人には十字架は躓きでした。十字架を語ったからユダヤ人からの迫害を受けるのです。ユダヤ人は、律法の行い、特にいけにえ奉献で贖われると思っていました。罪が許され、神の民として受け入れられると信じていました。だからキリストの十字架が贖いの犠牲だというようなパウロの教えは受け入れられず、伝統的なユダヤの宗教を破壊すると思われたのです。

 

1コリント1章23に記されているとおり、十字架はユダヤ人には躓きで受け入れがたかったのです。ユダヤの宗教がキリスト教の存在を認めがたいのはここにあります。律法を語っておれば、割礼を教えておればユダヤ人との摩擦は起きません。

 

 割礼は男性器の一部を切断する儀式ですが、男性器全部を取ってしまえと12節でパウロは語ります。激昂したような言い方です。しかし、福音のみを言う教えを否定して何かを付加する教えはパウロには決して認めることができない誤った教えなのです。(おわり)



2014年07月20日 | カテゴリー: ガラテヤの信徒への手紙 , 新約聖書

2014年7月13日説 教 「愛の実践を伴う信仰」金田幸男牧師

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ガラテヤの信徒への手紙5章2-6節
2 ここで、わたしパウロはあなたがたに断言します。もし割礼を受けるなら、あなたがたにとってキリストは何の役にも立たない方になります。
3 割礼を受ける人すべてに、もう一度はっきり言います。そういう人は律法全体を行う義務があるのです。
4 律法によって義とされようとするなら、あなたがたはだれであろうと、キリストとは縁もゆかりもない者とされ、いただいた恵みも失います。
5 わたしたちは、義とされた者の希望が実現することを、"霊"により、信仰に基づいて切に待ち望んでいるのです。
6 キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です。


2014年7月13日 説教「愛の実践を伴う信仰」金田幸男牧師

聖書:ガラテヤ5章2―6

 

 要旨

【敵対しているガラテヤの信徒たちに】

パウロの語気はますます強くなります。「ここで、わたし、パウロが・・・断言する」は大変強い言い方です。

 

パウロから離れて行き、今は敵対しているガラテヤの信徒たちに、4章28では「あなたがたはアブラハムの子イサクと同様、約束の子らだ」と言い、同じ神の祝福にあずかるものだと断言し、ガラテヤの信徒たちが必ず元の信仰に戻ってくることを期待しています。

 

しかし、それは妥協とは違います。割礼を受けようとしているものがその割礼によって救われると思うのであれば、決してそうではない、そのような教説に決して譲歩しないと言い切っています。

 

【テモテへの割礼】

パウロは割礼そのものを否定したり、間違っているとは考えていませんでした。彼の伝道者として、その同僚となるテモテには割礼を受けさせています(使徒16:3)。テモテの父親はギリシヤ人、母はユダヤ人でした。この場合、割礼を受けるものは少なかったのです。

ところがパウロはユダヤ人の手前、つまり、ユダヤ人にキリスト教を伝道するにあたって、テモテにユダヤ人のように割礼を受けさせたのは便宜的でもありました。パウロ自身も当然割礼を受けています。

 

ただ、その割礼が救いの条件、つまり義とされるためには割礼が求められるというような、いわゆるユダヤ主義者には断固反対するのです。彼らは割礼、カレンダー、そして、食物のタブーなどを守ることで、ユダヤ人のようになり、そして、ユダヤ人がそうであるように、特別な選びの民に加えられると教えたのでした。パウロはこの考えに反対をしています。

 

 割礼を受けて救われたいと思うものは割礼だけではなく、律法の全体を守る義務がある。ユダヤ主義者たちは信仰だけでは不十分で、律法の行ないも必要と主張していました。つまり、信仰プラス律法を唱えたのでした。ところがパウロは律法遵守が救いのために必要だというのであれば、それに徹底しなければならないというのです。律法による救いを求めるのであれば、神の前で完全に律法を守ってはじめて神の前で義とされます。

 

【信仰か律法の行いか】

パウロはあれか、これかと二者択一を求めます。信仰か律法の行いか。どちらかだというのです。律法の行いが救いの条件であれば、そのために完璧でなければなりません。私たち人間は勝手に考えて、律法の行いはそこそこでいいなどと考えるのですが、それは神の対する冒涜です。適当に律法を守り、それでもよいなどというと、神はその律法違反を厳しく責められます。律法に反していることを神は容認されることはありません。

 

そして、律法によって救いを得ようとするならキリストは無縁、関わりがないとされます。キリストの祝福はそこには入ってきません。他方、信仰による救いは、そこに律法の行いの入る余地はありません。それは信仰により、御霊の働きによります。

 

5節の「義とされたものの希望」とは神の国に入れられる特権、永遠の命、完全な罪の赦し、贖いの恩寵、完璧な救いを意味します。それはただ御霊による。つまり、私たちの内に働く、驚くべき聖霊の力なのです。聖霊の力は一方的に恩寵として作用します。そこには私たちの善行や禁欲なども入る余地はありません。

 

律法を行なって義とされ、救いを獲得するという可能性は全くありません。全てが聖霊の恵みなのです。そして、私たちにできることはただ神に期待し、希望を持ち、委ねて信じることだけです。律法の行いはここでは場所がないのです。

 

【全力を尽くして天命を待つ?】

あれかこれかです。そのどちらかを選ばなければなりません。私たちはよく「全力を尽くして天命を待つ」という宗教的観念を持っています。人間は自分の救いのためにも最大限努力し、その足りない分は神に期待する。そういう考えです。何も努力をしないで救われるなどという教えは人間の努力を軽んじた考えだというので、軽蔑視され、あるいは間違った教えだとされます。

 

むしろ、人間は最大限努力をしなければならないとされます。ただし、勤行、修行、禁欲、善行、熱心などなどいろいろな人間的な努力も完全ではないとはじめから計算済みで、欠陥があるのは折り込み済み、足りないところは神頼みというのです。しかし、聖書はこのような考えを受け入れません。もし、人間的な努力や熱心で始めるならば最後まで徹底しなくてなりません。

 

繰り返して申します。あれかこれかなのです。信仰か、律法の行いか。律法の行いによって救いを引き寄せようとするならば、律法を完全に守らなければならない。神はそういう方です。

 

人間自身が自分の力で救いを獲得しようとすれば、自分の力で最後までやり通さなければなりません。途中で神が介入し、中途半端でもよいなどと神は言われません。自分の力で救いを得る可能性があると思うものはその決心を最後まで持たなければなりません。律法の行いを救いの条件とするものは、キリストの力を不要とするのですから、キリストはもう関わりがありません。

 

ガラテヤの信徒たちがしようとしていることはそんな恐ろしいことなのです。キリストと縁もゆかりもなくなってしまう。そんな事態を考えれば、ガラテヤの信徒たちがしようとしていることは全く馬鹿げているのです。ガラテヤの信徒はまことの神も救いも知らないところから神への信仰に至ったのでした。それなのに、律法の行ないによる義の獲得が真実可能だと思っています。キリストから離れることは愚劣です。律法の行いで義と認められようとするものは最悪の選択なのです。

 

【変わることのない真理】

ただ信仰によって救われる。これは変更できない真理です。そして、このことは私たちの信仰生活と関わりがあります。信仰が長くなってきますと、マンネリに陥ります。そのときささやきが聞こえてきます。信仰だけでは生ぬるい。義とされるためには、もっと別のわざを求めなければならない。多くの場合、熱心な行動が求められます。パウロの時代は禁欲であったといわれます。禁欲的な生き方がなければ救われない、修行や特殊な儀式に参加することも、あるいはその宗団のために献身的に勤めることなどもそうです。

 

【信仰義認】

しかし、信仰による義には人間的努力の入る余地はありません。救いは神の恵みによります。そうだとすれば、信仰者の人生の出発に、神の一方的恵みがあり、救いに関しては神に全てを委ねるしかありません。救いははじめから終わりまで神のなさるわざです。とすれば、私たちの信仰はいつも神に委ねるということになります。信仰による義の教えが私たちに教えるところはいつも神を信じ、神に信頼して生きて行け、ということになります。

 

信仰義認の教えは、人間な思いを決して無用、不要にするものではありません。それはいつも神に信頼し、神に委ねていく姿勢を生じるものなのです。信仰によって救われるという確信を持っていれば、救いの完成もまた神の大きな恵みによります。このことを、私たちが学んでいくとき信仰は空虚なものとはならず、かえって信仰は豊かな内容を持つものとなります。

 

【愛の実践を伴う信仰とは】

パウロはここで信仰がどういうものであるかをさらに続けて教えています。割礼の有無は問題ではない。大切なのは愛の実践を伴う信仰だと語られます(6節)。

 

愛の実践とは何を意味しているのか。1コリント7:19にも同じような文章が出てきます。割礼の有無は問題ではなく、大切なのは神の掟を守ることだとパウロは語っています。すると愛の実践とは掟、つまり律法の遵守ということになります。イエス・キリストも教えています。律法の要約についてです。キリストによれば律法は結局、心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして神を愛すること、また自分を愛するように隣意図を愛すること、とされます(マタイ22:34-40、ルカ10:25―27、マルコ12:28-34)。

 

パウロは今まで律法に関して否定的なことを語ってきました。律法はまるで害悪のようにも響くようなことを語っていました。律法の行いは有害なのでしょうか。確かに、律法によって救われようとするのであればそれは有害です。救いの手段、あるいは方法として、律法の行いを認めるならば、結局のところ、キリストを無縁とし、キリストがもたらしてくださる恵みは失うことになってしまいます。そのような律法の用い方は間違っています。ユダヤ主義者が言っているような意味で、律法の遵守は危険です。律法プラス信仰という立場こそパウロが激しく反対をしています。しかし、では律法は不要で有害で排斥すべきものか。そうではありません。

 

【信仰は愛の実践を含む】

信仰は愛の実践を含むのです。律法の遵守を含みます。そうであってこそ信仰は空虚さを免れます。愛の実践を伴わない信仰はやせ細った中身のない虚ろな心情になってしまいます。

愛の実践は神への愛です。その愛は、神に仕えること、神に従うことに表現されます。神を愛していると言いながら神に背を向けて生きることは矛盾しています。神を愛することは神を賛美し、神に感謝をし、神に献身の思いをささげることです。それは神を礼拝することに結びつきます。愛の実践はこのような神への愛によって具体化されます。これは信仰の中に含まれているものとなります。そういう信仰は決して空しい信仰にはなりません。

 

そして、隣人を愛するとはどういうことか。単に近くの人を愛するというだけに留まりません。隣人は神の似姿に創造されました。隣人の中に神を見出す。どういうことか。神は、御心を人間に示されます。人間の思い、行動を通して神の支配、神の力、権威を明らかにしようとされます。人間は単なる生物ではなく、神の意志を実行するものです。隣人と共に神の国建設の事業に参画することこそ、隣人を愛することなのです。愛を実践する信仰は神の計画を実現する営みでもあります。(おわり)


2014年07月13日 | カテゴリー: ガラテヤの信徒への手紙

2014年6月29日説 教 「自由と束縛]金田幸男牧師

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説教「自由と束縛 」金田幸男牧師

聖書:ガラテヤの信徒への手紙4章21―27

21 わたしに答えてください。律法の下にいたいと思っている人たち、あなたがたは、律法の言うことに耳を貸さないのですか。

22 アブラハムには二人の息子があり、一人は女奴隷から生まれ、もう一人は自由な身の女から生まれたと聖書に書いてあります。

23 ところで、女奴隷の子は肉によって生まれたのに対し、自由な女から生まれた子は約束によって生まれたのでした。

24 これには、別の意味が隠されています。すなわち、この二人の女とは二つの契約を表しています。子を奴隷の身分に産む方は、シナイ山に由来する契約を表していて、これがハガルです。

25 このハガルは、アラビアではシナイ山のことで、今のエルサレムに当たります。なぜなら、今のエルサレムは、その子供たちと共に奴隷となっているからです。

26 他方、天のエルサレムは、いわば自由な身の女であって、これはわたしたちの母です。

27 なぜなら、次のように書いてあるからです。「喜べ、子を産まない不妊の女よ、/喜びの声をあげて叫べ、/産みの苦しみを知らない女よ。一人取り残された女が夫ある女よりも、/多くの子を産むから。」

 

要旨 

【初期のがラテやの信徒の信仰】

ガラテヤの信徒への手紙4章8-20でパウロはガリラヤ伝道をしたころのガラテヤ人のパウロに対する態度を思い起こさせていました。パウロが心身ともに弱くなっているときに福音を宣教しました。そういうパウロの状態にもかかわらず、ガラテヤの人々はパウロを好意的に受け入れました。まるで天使でもあるかのように、キリスト・イエスでもあるかのようにパウロを受け入れました。

 

【ユダヤ主義者キリスト教師の悪影響】

ところが今は両者は敵対関係になってしまいました。その理由はユダヤ主義キリスト教の教師たちの教えをガラテヤ人が受け入れてしまったからです。ユダヤ主義者たちはユダヤの宗教的な暦を遵守すること(4:10)、割礼を受けること(5:2)、その他のユダヤ人が守っている律法を異邦人キリスト者も守らなければ救われないと教えていました。

 

彼らはおそらく汚れの規定には神経質であったのではないかと思います。特別な病気になったり、死体に触れたり、あるいは汚れた動物の肉を食する外国人との付き合いで汚れるという考えです。このようなユダヤ人が厳格に守ろうとしている規則を異邦人キリスト者にも要求するという立場がユダヤ主義者で、彼らは信仰だけではなく、律法の行ないも救いに必要だと語っていたのです。

 

パウロはこのような律法を守らなければ救われないというユダヤ主義者の教えを採用した人々に問いかけます。律法のもとにいたいと思っている人たち、律法の行いで救われたいと思っているガラテヤの信徒に呼びかけます。あなた方は律法の言っていることに耳を貸さないのか。この場合の律法は、モーセの律法、旧約聖書のはじめに記されるいわゆるモーセの5書のことで、ここでは特に創世記を意味しています。

 

【アブラハムの2人の妻とその子ども】

そこにはアブラハムの子たちとその母親のことが記されます。アブラハムには2人の子どもがいました。ひとりはイシュマエルという名前で、母はハガルといいました。もうひとりはイサクです。イシュマエル誕生の次第は創世記16章に記されています。

 

アブラハムにその子孫が増え広がるという約束が語られていましたが、一向に実現しません。そこでサラは自分の奴隷であったハガルを夫に与えます。こうして生まれてきたのがイシュマエルでした。パウロはこのイシュマエルの誕生を「肉によって生まれた」と語ります。肉的な思いによって、という意味で、何とかして、子どもを獲得し、そのことで子孫増加という神の言葉を強制的に実現しようとするものでした。

 

これに対してイサクはアブラハム100歳、サラ90歳のときに生まれました(創世記21章)。高齢で子どもを産める年齢ではありません、しかし、サラはイサクを産みます。それは全く神の約束によるものでした。

 

確かにここには処女降誕のような奇跡が記されていません。アブラハムとサラは夫婦であり、2人の間からイサクは生まれました。天変地異、あるいは思いも及ばないような奇跡がここに起きたのではありません。しかし、やはり、奇跡と言わなければなりません。

 

【100歳の夫と90歳の妻が子を】

100歳の夫と90歳の妻から子どもが生まれてくるなどというようなことが普通起きません。しかし、それは神の約束により、神の介在によって実現しました。これは神の約束の実現でした。神の約束は神の言葉です。このみ言葉が成就したのです。それを信じることによって神は介入し、介在してくださいます。

 

【奴隷の女ハガイの場合】

ガラテヤ人は肉の思いで、神から祝福を引き出そうとするハガイの立場と同じです。何とかして人間的に神を思うように動かそうとしています。しかし、そこからは神の恩恵を期待することはできないのです。

 

【正妻サラの場合】

他方、アブラハムはただ神を信頼します。その信頼に応えて神は行動されます。神の言葉とおりに神は実行されます。律法の働きによって神は行動されることはなく、ただ神を信じ、神の信頼するところから神は行動されます。神は祈れと命じられます。主の御名によって祈ることは何でもかなえてあげようと約束されました。私たちはこの神の約束を信じるのです。そして、信じるものに約束を実現されます。祈るしかないのですが、祈ることは神の約束を基礎としています。

 神の約束を放棄して、律法の行ないに頼ることほど愚かしいことはありません。

 

【イサクとイシュマエルの誕生をめぐる深い意味】

 ところで、パウロはこの創世記のイサクとイシュマエルの誕生をめぐる記事には別の意味が隠されている(24)と言います。

 

これは当時の聖書解釈の方法です。表面上の言葉や意味に現れてきていない、あるいは関係のない意味を想像をたくましくして引き出す解釈の仕方がありました。寓話という文学形式があります。この巧者はイソップです。いくつもの寓話を残しています。それはただ面白い話というのではなく、表面には出てきていない隠された意味があります。例えばウサギとカメの喩え話ですが、競争して、はじめウサギが大きくリードします。ところがゴール寸前で、ウサギはカメがなかなか姿を現さないので、居眠りをし始めます。カメはその間、のろのろと、しかし休まず歩き続けたのでウサギに勝ちます。この話で、勤勉の徳が説かれます。ウサギとカメには勤勉とか忍耐とかの徳目が意味されているわけではありませんが、連想して、あるいは想像して、ときにはこじつけと思われるような仕方で、つまり、別の意味を引き出す解釈法で当時流行していました。

 

ハガルとサラはふたつの契約を意味する。ハガルとサラは直接契約と関係ありません。しかし、ハガルが奴隷であり、サラが自由人であるというところから連想して、旧約における有名な二つの契約を象徴するもの、そこから連想されるものとして取り上げられています。

 

【シナイ契約】

ひとつの契約はシナイにおける契約です。シナイ山でモーセは神から律法を与えられます。イスラエルはその律法を守らなければならないとされます。律法授与から始まってイスラエルは民族として国家として形作られていきます。そのための規範が律法でした。律法を完全に守って神から栄光を受けようとします。しかし、現実は律法違反の積み重ねでした。そのために、バビロンによるイスラエル滅亡を言う歴史的事件を招来しました。律法違反に対して神に赦しを求めるべきでした。

 

本来、律法はこのような目的に用いられるべきでありましたが、イスラエルは律法を神の民になるための必須の条件としてしまいました。律法を完全に守ることができる。だから守らなければならないとされたのです。律法はそのときからイスラエルを縛り付けるものとなり、律法の行いによって救いを勝ち取ろうとするのは律法の奴隷となることなのです。

 

シナイ山での律法授与はシナイ契約と呼ばれますが、イスラエルにとっては律法の遵守と結びつく契約とされてしまいました。本来はそうではありません。イスラエル国家の基本的な法規、そして、その違反に対しては神からの赦しを求めるべき契約でありました。だから、結局、当時のエルサレムの住民が律法を守ろうとしている態度と同じです。彼らは神殿で律法の通り儀式を守ったりしています。それによって神の恩寵を獲得できると思っていたのです。ユダヤ主義者と同じです。  

 

パウロはハガル、シナイ山、エルサレムをこうして繋ぐようにしたのです。奴隷女であったハガルが現している別の意味は律法遵守を強制する契約理解です。

 

【サラによるアブラハム契約】

他方、イサクを生んだサラが示していたのは、もうひとつの契約です。アブラハムとの契約を指していることは言うまでもありません。ただ信じることによって神の義を確保できる契約です。ハガルが示しているのは、地上のエルサレム、つまり律法を何とかして厳守し、神の恩寵を引き出そうとする立場です。

 

サラはアブラハム契約を示し、ハガルは律法の遵守を求めるシナイの契約を意味するといいます。この聖書解釈は文字そのものや文法的解釈でありません。ある飛躍がなければ解釈できません。その意味でこの解釈は面白いのです。しかし、聖書の語句、語彙、あるいは文脈との照合などの解釈と違い、とんでもない推測まで突き進んでしまいます。恣意的な解釈は警戒しなければなりません。パウロはとても自制的に解釈をしています。特に文字や数字の恣意的な解釈は警戒しなければなりません。

 

サラは自由の女、つまり、奴隷ではありません。律法の奴隷ではありません。律法を遵守して神からの救いを獲得しようとするものは奴隷の系譜に属します。ただ神を信じて救われたいと願うものの自由な判断からそうするのです。

 

【不妊の女:イザヤ預言】

 パウロはこのようにサラを、約束に従って生きていくものとして捉えています。先の創世記16章に記されるように、彼女こそイシュマエルの誕生に大きな役割を占めたのですが、そのことは触れられていません。サラは神に約束を保証され、それを信じて生きたとされます。このように神の約束に生きていく女性はサラだけではありません。

 

イザヤがそのことを預言しているとして、パウロは預言の1節を取り上げます。不妊の女。古代世界では蔑まれるべき存在でした。また、彼女は結婚もできなかったのです。そのような境遇の女性が幸福であるはずがありませんでした。ところが事態は一変します。エルサレムはバビロンに滅ぼされます。栄華を極めたダビデとソロモンの建設した町です。ところが徹底的な破壊を蒙ります。律法を誇りとし、律法を守れる自らを評価した民の都は滅亡します。しかし、神はある少数の者たちを残されたものとされます。その中の一人が不妊の女性、以前は未婚で過ごした女性がいました。

 

彼女はバビロン滅亡後、ひとり残されますが、彼女から多くの子どもが生まれてくる。それまで蔑まれ、ひどい扱いを受けていたこの女性が最高の祝福を受けることになります。それはただ神の御心によって実現することです。残された民から神はまことの神の民を起こされます。それは神の約束に依拠します。私たちが求められていることはただ約束を信じて生きていくことだけなのです。(おわり)

2014年06月29日 | カテゴリー: ガラテヤの信徒への手紙 , 新約聖書

2014年6月22日説 教「あなた方のうちにキリストが形作られる]金田幸男牧師

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2014622日説教「あなたがたの内にキリストが形作られる」金田幸男牧師

聖書:ガラテヤの信徒への手紙4

18 わたしがあなたがたのもとにいる場合だけに限らず、いつでも、善意から熱心に慕われるのは、よいことです。

19 わたしの子供たち、キリストがあなたがたの内に形づくられるまで、わたしは、もう一度あなたがたを産もうと苦しんでいます。

20 できることなら、わたしは今あなたがたのもとに居合わせ、語調を変えて話したい。あなたがたのことで途方に暮れているからです。

 

 

要旨

【はじめの信仰】

ガラテヤのキリスト信者はパウロが教えた福音から離れていきました。パウロは彼らが最初にパウロから福音を聞いたときのことを思い起こさせています。ガラテヤで伝道したころ、ユダヤ人の迫害のためにパウロは大怪我をします。肉体も精神も弱っているときでしたが、パウロは福音を宣教し、ガラテヤ人はパウロから見れば異邦人、外国人であり、異教徒でもありますが、彼をあたかも天使であるかのように、またキリスト・イエスでもあるかのように受け入れました。パウロのためならその目を抉り出してもよいと思うほどにパウロへの敬愛を示しました。

 

 なぜ、パウロにそのような敬愛の情を示しえたのか。それは彼が宣べ伝えた福音の故でした。その福音がガラテヤの人々の心を大きく動かしたのです。パウロが語った福音とは、「ただキリストを信じる信仰によって救われる」ということであり、「神の恵みにより罪赦され、贖われ、神の子とされる」ということでした。この福音を語ったとき、ガラテヤの人々は喜んで受け入れたのでした。

 

【ユダヤ主義キリスト者により変節】

ところが、ガラテヤのキリスト者は大きく態度を変えてしまいます。その原因は、ユダヤ主義キリスト者と呼ばれる(偽)教師たちの教えを受け入れたからです。ユダヤ主義キリスト者の立場は、信仰だけでは足りず、ユダヤ人のように暦を厳守し、割礼を受け、儀式を行い、食べ物のタブーを遵守することによって救われるというものでした。つまり、信仰にプラスアルファが必要としたのです。

 

こうして、ガラテヤの信徒はパウロの敵になりました。ガラテヤの信者たちが具体的にどういう態度に変わったのかは記されていませんが、パウロとの間には敵意というものさえあったのです。

 

【教会の一致】

福音の一致という言葉があります。キリスト者における一致、教会の一致は福音信仰における一致でなければなりません。しばしば、教会の一致は人間的な絆によるものが追及されます。強力なリーダーシップがあって教会が一致している。あるいは組織や制度で一致を保つ。このような一致は強固にさえ見えることがあります。しかし、人が変われば一致はあえなく崩壊し、教会はばらばらになることは珍しくありません。教会は福音を信じる信仰によって一致が保たれます。

 

ガラテヤのキリスト者たちを惑わせているユダヤ主義者たちの動機をパウロは明らかにしています。パウロからガラテヤの信徒たちを引き離そうとしている。つまり、彼らの側に引き入れようとしている。ユダヤ主義者たちの意図は、彼らの陣営にガラテヤ人を導きいれ、結果として彼らの集団を大きくするために他なりませんでした。

 

【間違った教会成長】

伝道の目的はその宗派の信徒数を増やすためである。こういうことはどんな宗派でも起こります。ですから、人数を増やすことが主となります。数の増大は結果なのですが、目的と化します。人数を増やすことが目的になる。どんな奇麗事を並べても所詮その教団の人数の増加が宣教活動の目的なのです。何が欠けているのか。それは愛です。ガラテヤの人々の魂を救うためにパウロは彼らを愛し、慈しみました。彼らのために苦しむことを厭わないといいます。それが本心であるといいます。

 

ユダヤ主義者もたぶん同じことを言うかもしれません。ガラテヤの人たちのために熱心に苦闘しているのだと主張したに違いありません。でも、パウロは見抜きます。その熱心は自らの仲間の数を増やすことが目的なのだ。パウロは違います。ひとりひとりの魂の救い。それがパウロの願いであったのです。

 

【産みの苦しみ】

パウロはガリラヤの人々に福音を宣べ伝えました。その時は大きな困難に見舞われていました。ユダヤ人の迫害はきわめてひどいものでした。パウロは圧迫されて命の危険もありました。そのような中で命がけの伝道を試みたのです。そのときの苦しみをここで思い出しています。パウロはその苦しみを女性の出産の苦しみに喩えています。

 

考えてみればおかしな比喩です。パウロは独身であったと思われています。古代社会では、男性は殆ど出産と関わることがありません。でから、パウロは出産の場所にも居合わせるというようなことはなかったと思われます。むろんパウロ自身出産の苦しみを知るはずもありません。だから、この比ゆは彼の体験からではなく、つまり、人間の痛みの中でもっともひどいとされている産みの苦しみを経験ではなく、一般的な知識として用いているのだと考えるべきでしょう。とにかく、ひどい苦しみを例に、伝道の苦闘を表現しているのです。ガラテヤでの伝道は激しい苦痛を伴ったのだと言いたいのです。

 

パウロはここではもう一度生む、産み直すという比ゆを用いています。これまた奇妙な表現です。いくらなんでもいったん産んだ子どもをもう一度産みなおすことなどできるわけがありません。しかし、パウロは出産の苦痛を比ゆに用いましたから、それをもう一度用いたのです。もう一度、一からやり直す。ガラテヤ伝道をもう一度はじめからやり直したい。この希望を語ります。どこでどうなったのか分かりませんが、ガラテヤの信徒たちはとんでもない方向に行ってしまいました。

 

パウロはガラテヤの人々の出会いをもう一度しなおそうというのです。時間を逆に進めることはむろんできません。ガラテヤ人との関係をはじめに戻すことなどとうてい不可能なことです。パウロはできないことを知りつつ、もう一度彼らに福音を宣教したい。そして、はじめから彼らを教え、彼らの魂を取り戻したいと思っています。

 

【眞の信仰の成長とは】

そして、この比ゆを用いましたので、成長する子どもの比ゆとして発展させます。子どもは成長します。成長が止まった子どもには死が待っています。子どもは成長するからこそ生きているのです。パウロは丁度出産するようにして、福音を伝道しました。ガラテヤの異邦人はキリストを信じました。生まれた子どもは成長します。そのように、ガラテヤの信徒たちも成長をしなければなりません。

 

ひとつのところに留まっていてはいけない。これがパウロの主張でした。成長しなければならない。はじめの信仰に留まっていたらその信仰は幼稚だ、そういう声があったのかもしれません。

 

だからユダヤ主義者たちは信仰だけではいけない、禁欲的なユダヤ人のような生き方、習慣が救いに必要だと教え、その信仰が不十分だと思った人たちを取り込んでしまったのです。

 

【内にキリストが形作られる】

キリスト者は成長しなければなりません。その成長は内にキリストが形作られることだといいます。これも比ゆ的な物言いです。エフェソ3:16-17どうか、御父が、その豊かな栄光に従い、その霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強めて、信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。」

 

【内なる人】

ここにはキリストが内住し、それは内なる人とも語られます。ローマ8:8-10「神の霊があなたがたの内に宿っているかぎり、あなたがたは、肉ではなく霊の支配下にいます。キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません。キリストがあなたがたの内におられるならば、体は罪によって死んでいても、"霊"は義によって命となっています。もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう。」

 

神の霊が内に宿る。キリストの霊を持つ。こういうパウロの言葉から、キリストの霊が内住し、そのキリストが内にあって生きて働かれることを指しています。抽象的な印象を受けるかもしれません。禁欲的な律法のわざをすることのほうが具体的に思われます。分かりやすいといってもよいかもしれません。確かにキリストが私たちの内にあるとはどういうことか、よく考えなければなりません。

 

【聖餐式】

聖餐において、私たちはキリストのからだと血潮をさしているパンとぶどう酒を飲み食いしますが、信仰を持ってパンと杯が意味しているものを受け止めるとき、キリストは私たちの内に住まわれます。また、教会は神の宮であり、キリストがいつもおられます。

 

マタイ福音書18章20節で2人か3人がキリストの名で集れば、そこにキリストも共にいると約束されています。このような表現からも知られるように、聖霊の一方的な働きとしてキリストがわたしたちと共におられ、私たちと行動を共にしてくださいます。聖霊が私たちの内に働かれるとき、御言葉を信じ、神を愛し、神に従う歩みをします。神の言葉に忠実に生きていこうとします。このような歩みこそ、キリストが形作られている証拠なのです。

 

私たちと共にキリストが歩まれるところでこそ、キリストは内住され、そのキリストが私たちの全ての生を支配するときこそ、キリストが私たちの内に、明確に形作られます。神の側の働きとしてキリストが私たちの内におられるようにされます。 

 

【ガラテヤの信徒への手紙】

ガラテヤのキリスト者は成長をやめてしまったかのようでした。パウロはもう一度彼らに福音を語りたいと希望を語ります。しかし、彼が今いるところとガリラヤは離れすぎていました。交通機関が発達していない古代、直接会えません。そのために手紙を書いているのですが、直接会って話し合ったほうが手っ取り早いどころか有効でもあります。それができないので、途方にくれるといいます。どうしたらいいのか。

 

私たちはこの結果、益を得ています。パウロの書いた文書が残されているからです。むろん、直接彼らと会って説得できるほうが効果的です。これは実現したかどうか分かりません。でも、ここからパウロがガラテヤの信徒たちのこれからの行きし方を心から心配をしています。(おわり)


2014年06月22日 | カテゴリー: ガラテヤの信徒への手紙

2014年6月15日説教 「福音を知らせるきっかけ]金田幸男牧師

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2014615日 説教「キリストを知らせるきっかけ」金田幸男牧師

 

聖書:ガラテヤの信徒への手紙4

12 わたしもあなたがたのようになったのですから、あなたがたもわたしのようになってください。兄弟たち、お願いします。あなたがたは、わたしに何一つ不当な仕打ちをしませんでした。

13 知ってのとおり、この前わたしは、体が弱くなったことがきっかけで、あなたがたに福音を告げ知らせました。

14 そして、わたしの身には、あなたがたにとって試練ともなるようなことがあったのに、さげすんだり、忌み嫌ったりせず、かえって、わたしを神の使いであるかのように、また、キリスト・イエスででもあるかのように、受け入れてくれました。

15 あなたがたが味わっていた幸福は、いったいどこへ行ってしまったのか。あなたがたのために証言しますが、あなたがたは、できることなら、自分の目をえぐり出してもわたしに与えようとしたのです。

16 すると、わたしは、真理を語ったために、あなたがたの敵となったのですか。

17 あの者たちがあなたがたに対して熱心になるのは、善意からではありません。かえって、自分たちに対して熱心にならせようとして、あなたがたを引き離したいのです。

 

 

 

 要旨

 

【ユダヤ主義者の影響】

ガラテヤに信徒たちはパウロから福音を聞いて信じました。ところがユダヤ主義者といわれる教師たちの言葉に取り込まれ、ユダヤ人がしているような宗教的習慣、例えば、ユダヤの暦の遵守、割礼の実践、食物のタブーなどを守らなければ救われないと思うようになりました。

 

つまり、キリストを信じるだけではなく、プラス・アルファが必要だと思うようになったのです。このようなガラテヤの信徒たちの変心はパウロをいたく失望させ、落胆させました。あなた方のために苦労したことは無駄になってしまったのではないだろうかと正直に彼の気持ちを語ります。ここからパウロは彼の経験に基づいて、個人的な思いを述べていきます。

 

 【パウロのガラテヤ伝道】

ガラテヤ地方へのパウロの訪問については使徒言行録に3回記されます。第1は、パウロの第1回伝道旅行の際、ピシディアのアンティオキア、イコニオム、ルステラ、デルベで伝道をしたことが記録されます。これらの町は広義のガラテヤと考えられます(13章以下)。

 

第2、第3は、使徒言行録16:6と18:23で、パウロがガラテヤ、フリギアを通過して旅行をしたと記されます。パウロははじめて福音をガラテヤで宣教したのは使徒言行録の記事のどれを指しているのか理解が違うところもありますが、第1回伝道旅行の際であるとすると、南ガラテヤ地方への伝道に当たります。あとの伝道旅行中であれば北ガラテヤ地方の伝道ということになります。

 

【体の弱っていること】

この解釈ですと、パウロが「体の弱っている」ことが何を指すか、使徒言行録に直接の言及がありません。パウロは2コリント12:7で「私の身にひとつのとげ」が与えられていたと言います。2コリント10:10では「実際に会ってみると弱々しい人に」見えたと記され、これらからパウロが目の病を得ていたと推論されます。

 

目がしょぼしょぼするような病であれば、見栄えが悪く、印象もよくなかったでしょう。しかし、この解釈よりも第1回伝道旅行の際、使徒言行録4:13が該当すると思われます。リステラの町で、「ユダヤ人たちがアンティオキアとイコニオンからやってきて、群衆を抱き込み、パウロに石を投げつけ、死んだものと思って、町の外へ引きずり出した。」とあり、パウロはひどい目にあいましたが、パウロはもう一度リステラの町に入り、翌日はデルベの町に向かいました。

 

パウロはおそらく傷だらけで、全身包帯を巻いていたのではないかと思います。顔面は腫れ上がり、血だらけで、見るも無残な状態であったと推測します。生々しい傷を負い、よたよたと歩いていたのではないでしょうか。見栄えは最高に悪く、しかも、ユダヤ人のすさまじい乱暴は目撃されていました。一騒ぎがあったのです。

 

【ローマ帝国内でのユダヤ一神教】

当時のユダヤ人は、ローマ帝国から特別の許可を得てその信仰を守っていました。ユダヤ人の一神教信仰は、多神教世界では独善的だと思われることもしばしばで、そのために好意的に見られていたわけではありません。そのユダヤ教内部の争いです。はた迷惑に感じられたのではないでしょうか。ユダヤ人内部の争いがガラテヤの人々に持ち込まれ、騒ぎに関係のない人たちまでもが巻き込まれてしまう恐れもありました。厄介な事件が起きたと思われても当然です。

 

【ガラテヤの信徒たち】

ガラテヤの信徒たちとパウロの出会いはこのような状態の中で起きたのです。ところが、ガラテヤの人々はパウロを決してひどい扱いで接しませんでした。その逆です。彼らはパウロに不当な仕打ちをしませんでした(12節)。それどころか、まるで神の使い、天使のように受け入れ、それ以上に、キリスト・イエスででもあるかのように(14節)、パウロを見たのです。また、パウロのためにはその目を抉り出してもよいとさえ思うほどであったと記します(15節)。このようにパウロを厚遇しました。

 

【パウロを敬愛】

パウロは最悪の条件の中で伝道しました。彼は傷つき、体力もなく、おそらく口も充分聞けないような有様であったでしょう。ガラテヤ人の印象は悪かっても当然です。パウロを嫌い、彼に近づこうとしないとしても当たり前でありました。しかし、実際は反対でした。ガラテヤの人たちはパウロを親切に、敬愛をもって接しました。

 

パウロに対してガラテヤの人々は深く大きな敬愛の念を示しました。伝道者にとって最高の喜びは単に誉めそやされること、あるいは、特別待遇を受けることなどではありません。敬意と愛情をもって接してもらえることです。ガラテヤの人々はまるで天使であるかのように、それ以上にキリスト・イエスであるかのようにパウロを受け入れました。これ以上の、伝道者に対する敬愛の表現はありません。その感情表現は言葉にはなりません。

 

どうしてこんなふうにガラテヤの信徒はパウロと出会い、そしてパウロを敬愛したのでしょうか。パウロの風貌はそのとき見るも無惨な様子でした。パウロ自身、弱さの中にありました。気力、体力が衰え、伝道するどころではなかったとしても不思議ではない、そういう最悪の状態でしたが、ガラテヤの人々はパウロを受け入れました。

 

私たちは伝道するときに、伝道する側も最良の条件でなくてはならないと思います。準備万端、あらゆる備えをした上、気力の充実し、心構えも言うことなし、というような状態でこそ伝道ができるのだと思ってしまいます。あるいは、伝道者として最高の状態で伝道する、雄弁であり、言葉巧みであり、学力あり、学問もある、闘志もあり、熱心も誰にも負けない。勇ましく、勇気があり、困難など何とも思わない剛毅さがある、等々。そのようでなければ伝道できないと思うでしょうが、パウロは正反対でした。最悪の条件下でも伝道しました。息も絶え絶えとは行かなくてもパウロは伝道するに当たって少なくともベストコンディションではありませんでした。私たちも伝道する場合、好条件を整えてはじめてできるというものではありません。

 

 ガラテヤのキリスト者はどうしてパウロをこのように厚遇し、親しく敬愛の念の駆られて接することができたのでしょうか。

 

【福音のゆえに】

それはひとえに彼が語った福音のゆえです。これ以外に考えられません。ガラテヤの人々にパウロは福音を語りました。別の哲学や高遠な思想を語ったわけではありません。福音はこのガラテヤの信徒への手紙の主題でもあります。信仰によって義とされる。ただ神の恵みによって神の国を継承し、神の子とされる。これが彼の語る福音でした。

 

キリストによって罪赦され、贖われ、救われます。ガラテヤの人々はそれまでギリシアと土着の宗教の混交である信仰の中で生きていた「異教徒」でしたが、福音の恵みを知らされました。そのとき、パウロに対して好感を示し、純粋な気持ちで受け入れたのでした。感謝と喜びに満たされたのです。彼らはそのとき幸福だと思いました。キリストにあって救われる喜びこそ幸福のきわみと確信しました。

 

福音こそ、ガラテヤの信徒がパウロに示した敬愛の理由です。パウロが立派で、今まで聞いたことのないような高級な宗教講話をしたから敬愛したのではありません。パウロが信仰をこの世的な幸福の手立てであるかのように語ったからこそ敬愛したのではありません。むろん愉快な話で、誰もが分かるような、しかし内容のないくだらぬお話に感動して敬愛したのではむろんありません。

 

ただパウロが福音を語ったからこそパウロを受け入れ、認め、敬愛したのです。それ以外の理由はありません。弱さの只中で、パウロがガラテヤの人々に受け入れられたのはその福音のゆえです。

 

パウロとガラテヤの人々とは初対面であったかもしれません。その可能性が大きいと思います。パウロが語った福音は決して難解ではなかったでしょう。単純そのものであったと思います。しかし、それこそ救いをもたらすよき知らせと聞かれたのでした。

 

 今日でも同じことが言えます。私たちは言葉巧みに、相手が受け入れやすいように、また心理的抵抗がないように適当にゆがめたり、差し引いたりしたような福音で、相手から敬愛を期待できるのではないと心しておかなければなりません。人の心を巧みに誘導する説教者が敬愛を受けることはありません。朴訥(ぼくとつ)と、時には舌が回らないような下手なしゃべり方しかできなくても、福音の真理を明確に語ろうとしているところで敬愛を獲得することができます。

 

 【パウロの敵】

しかし、ガラテヤの信徒は今やパウロの敵になってしまいました。なぜか。ユダヤ主義キリスト教の教師がガラテヤの信徒の中に入ってきて、パウロとの間を切り裂き、自分たちの見方にしようとしました。

 

その結果、ガラテヤの異邦人キリスト者との間に楔が打ち込まれ、パウロとは相反するようになりました。彼らの意図は不純です、パウロから引き離し、自分たちのほうの人数を増やすためです。

 

こうして、パウロからガラテヤの信徒は遠ざかりました。パウロはむろん初期の信仰を何とかして思い起こさせようとしています。福音を信じたときの信仰をもう一度思い起こすようにしています。

 

【はじめの信仰に立ち返れ】

ガラテヤの信徒は初期の信仰では物足りないと思ったのです。幼稚すぎ、単純だと思いました。もっともっと感覚的に充実したもの、あるいは知的にも、霊的にも高級な教説でなければならないと思い、おそらく禁欲的なものこそがそれだと思ったのでしょうか。しかし、そうすることでパウロに敵対してしまいます。はじめの信仰を忘れるな。パウロはこれを強調しようとしています。最初信じた福音に立ち戻るように願います。

 パウロは彼とガラテヤの信徒の最初の出会いを思い起こさせようとするのはこのためです。パウロから伝えられた福音こそ宝物なのです。(おわり)

2014年06月15日 | カテゴリー: ガラテヤの信徒への手紙

2014年6月8日説教 「神を知らずして]金田幸男牧師

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ガラテヤの信徒への手紙4章8~11節
8 ところで、あなたがたはかつて、神を知らずに、もともと神でない神々に奴隷として仕えていました。
9 しかし、今は神を知っている、いや、むしろ神から知られているのに、なぜ、あの無力で頼りにならない支配する諸霊の下に逆戻りし、もう一度改めて奴隷として仕えようとしているのですか。
10 あなたがたは、いろいろな日、月、時節、年などを守っています。
11 あなたがたのために苦労したのは、無駄になったのではなかったかと、あなたがたのことが心配です。
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2014.6.8.説教「神を知らずして」金田幸男牧師

聖書:ガラテヤ4:8―11

 

要旨 

【福音の真理から逸れる】

ガラテヤの信徒はパウロがこの手紙で語っている福音の教理からはずれ、逸れて行きました。

彼らはかつてギリシヤの信仰と地元にある宗教の混合宗教の下で生きていたと想像されます。

 

【無宗教とか無信仰と言われるが】

生まれたときから、そのような宗教と結びつく慣習や習俗と関わってきたはずです。生まれたときに神殿に行き、そこで特別な儀式にあずかることがあったかもしれません。冠婚葬祭といわれていますような人生に節目ごと、その地方の祭りや習慣に参加していたことでしょう。知らず知らずの内にその地にある宗教生活に組み込まれていたと思われます。現在の日本人はこのような状態を無宗教とか無信仰と言います。しかし、日本人も不慮の事故で死んだ人の霊は現場にいつも留まっているからそこに花を供えたり、手を合わせたりします。全くの確信的な無心論者ならいざ知らず、たいていの人はいろいろな形の宗教や信心と関わって生きています。無宗教ではなく、特定の宗派に属さないだけのことです。

 

【まことの神を知らなかった】

ガラテヤのキリスト者もかつては土着の宗教の影響下にありました。このことをパウロはふたつの表現で表します。第一は、神を知らなかったと語ります。むろん、ガラテヤの人々が神など信じない無神論者、無宗教者であったというのではありません。れっきとした神々を信じていました。

 

けれども、パウロは神を知らない状態の内にあったと指摘しています。パウロにとって、それはまことの神、神という言葉に値する神ではないと言おうとしているのです。

 

人は神についていろいろな知識を持っています。宗教と政治を論じると延々と論じられます。伝道しているとそういう破目に陥ることがあります。人は神について論じるときりがなく語り続けます。普段無口な人が多弁になります。しかし、その神知識はその人の体験の集積、知識の寄せ集めである場合が多いのです。まことの神については何も知っていません。

 

神ご自身が自らを明らかにする啓示の書である聖書も知らず、読みもせず、また、その聖書からの告知にも目をそむけ、耳も塞いでいる状況では神を知りうるはずもありません。

 

ただ自分の経験や感覚だけで神を論じてもその神はそれぞれの人が作り上げたイメージでしかありませんし、そのような神観念は正しくはありません。聖書から謙虚に学ばなければ私たちは神を知ることがありません。

 

【神々の奴隷】

第二に、パウロは神ならぬ神々の奴隷であったと述べています。神ではない神々とは言葉の上で矛盾しているように思われます。実際自分たちが信奉している神々が神ではないなどと言われると腹を立てる人もいるのではないでしょうか。

 

パウロは神の子とされる前、つまり、キリスト者として洗礼を受け、子たる身分を与えられる以前、世を支配する諸霊に奴隷とされていたと語っています(4:3)。そこでは諸霊という語は神々と同じように用いられています。神々は、それ自体神的存在であり、また霊的存在であると言わなければなりません。

 

【諸霊:人間を超えた存在】

つまり、人間を超えた存在であるのです。霊それ自体は時間や空間を越えて存在するものです。また、人間の霊魂にも作用します。神々は霊的存在です。人間の理性を越えています。神々を奉じる宗教は単なる迷信とか人間の頭から出た創作などと片付けることはできません。それは宗教として機能を果しています。信徒に不思議なことを引き起こすこともあります。ご利益などとも言えるのですが、それは信徒の錯覚などではありません。諸宗教がさまざまな霊的な働きを担っていることを認めなければなりません。神々を信じている人々が霊的に下等な信仰者などということはできません。その宗教心の深さは並大抵のものではありません。

 

【罪を赦す神】

だからといって、その神々は、聖書においてご自身を現された神に等しく、力ある神的存在ではありません。パウロが「神ならぬ」神々というとき、まことの神には決して比較できないと語っているのです。イエス・キリストにあってご自身を現された神は何よりもキリストの十字架において、罪を赦す神です。私たちのためにただ一人子を犠牲にすることをあえて厭わない神です。

 

【私たちキリスト者の神】

また、死を打ち倒し、キリストをよみがえらせる神です。キリストにあって教会を建て上げ、今もその御座にあって世界を支配する神です。このような神に比肩する神はありません。全知全能、あらゆる物を支配するだけではなく、憐憫と恩恵をもって私たちを愛する神とガラテヤ人が信じていた神々とはあまりにも違いすぎます。

 

ガラテヤにキリスト者はかつてはそのような信心、信仰を生きていました。しかし、今では異なります。今は神を知っているのです(9)。以前には神的存在を知っていました。宗教的な雰囲気や環境に生きていました。けれども、かつての彼らの生きていた道は神を知らない道でした。

 

福音を聞き、キリストを信じ、神にしたがって生きるようになった結果どうなったのか。神を知ったのです。キリストにおいてご自身を現される神を信じたときに神を知りました。その以前も神的な存在やその威力を信じていました。混合宗教の下でそれなりに満たされていたかもしれません。けれども、まことの神に比べることが出来ません。

 

【神に知られている】

福音を信じたものは神を知っている、まことの神知識を持っています。卓越した知識です。パウロはこのあり方を神に知られていると言います。私たちのほうから知ったのではなく、神が私たちをまず認識してくださいました。選ばれたと言い換えてもいいでしょう。

 

【聖霊が私たちの内に住まう】

あるいは聖霊降臨日に相応しく、聖霊が私たちの内に働きかけてくださったとも言えます。聖霊は私たちの内に住まわれて私たちの心を刷新し、神を知るようにしてくださいました。

 神を知る以前に、神は私たちの全てをご存知なのです。ガラテヤのキリスト者はこのように神の主導権で救いに導かれたのでした。それは神の大きな恩寵の結果です。

 

 【諸霊のもとへの逆戻り】

ところが、ガラテヤのキリスト者は、パウロが語った福音を離れてしまいました。彼らは福音だけではなく、律法の行ないも救いに必要だというユダヤ主義キリスト教の教えに傾いてしまったのです。このような状態を諸霊のもとへの逆戻りだといいます。

 

日、月、時節、年などを守っている。これがガラテヤのキリスト者の現状でした。日は安息日など、月は新月、時節とは過ぎ越し、除酵祭など、年はヨベルの年を指していると見てよろしいでしょう。これらは要するにカレンダーを守っているということです。

 

ユダヤ教の実践のひとつはこのようなカレンダーの遵守がありました。厳格に特定の日を重視し、その日には付随した祭りや祭儀を行います。ここにはカレンダーのことしか書かれてありませんが、ユダヤ主義者が主張したものには、割礼の実行、食物規定の遵守(汚れた動物の肉を食しない)、(死体や特定の病気による)汚れの回避などがあったとも思われます。

 

おそらく、正義の重視などの道徳的な厳格さなどは後退してしまっていたかもしれません。善行、慈善なども挙げられていたかもしれません。とにかく、異邦人キリスト者もユダヤ人のような生活をしなければ救われない。このような慣習、実践は救いの要件であると主張するものがいたのです。

 

厳格な生活習慣は何か高度の宗教に進歩したというような感覚が生まれてきます。熱心や厳格な宗教的な修行などはそれ自体実行することで何かしら安心感を生み出すものです。

 

【ユダヤ主義キリスト者】

ユダヤ主義キリスト者は異邦人キリスト者にユダヤ人のようにならなければ救われないと教えたのです。なぜならユダヤ人こそ神に選ばれた最高の民族だからです。ユダヤ人は律法の規定を厳守することでユダヤ人としての誇りを確立しました。これらのありようは外見上ではかつての異教の習慣に戻ることではありません。それどころかより高度な宗教ヘに進歩とさえ考えられていたと思います。

 

 【諸霊の奴隷】

パウロはこのようなガラテヤのキリスト者の状態を、もう一度諸霊の奴隷化と言います(9)。ガラテヤ人がその土着の信仰に生きていたときもこの諸霊の下にあったと言われました。しかし、ユダヤ主義キリスト教の傘下に入ってしまうこともまた諸霊のもとに逆行することだと言われます。

 

これらの律法の規定に従って生きていこうとすることは無力で頼りにならない諸霊のもとで奴隷的に生きることなのだとされます。律法の規定にしたがって生きていくとは所詮自分の力で生きていくことに他なりません。神の恵みではなく、律法を実践する意思、気力、熱心で生きていこうとすることです。そのような努力で生きていくことこそ諸霊の許での人生ということになってしまいます。

 

パウロのこのような教えは私たちとは関わりがないとはいえません。確かに私たちにとっては、ユダヤ主義キリスト教は縁遠いかもしれません。しかし、キリスト者にもその周囲に諸霊は生き、うごめいています。さまざまな神以外のものが人間を限りなく幸せにすると囁いています。

 

【科学や医学の進歩】

その代表的なものは、科学的知識や技術だと思います。科学の進歩は神を退け、神の位置に座してしまっています。科学技術が私たちの未来を開くと信じている人がいます。医学は無限に進歩すれば、あらゆる病気を駆逐するとも思っています。

 

お金もそうです。お金があれば人間は幸福になると確信している人がいます。このような思想がキリスト教会に入り込んできています。それはキリスト者となってまことの神をせっかく信じたのに、そして、神を知ったのに、再度また以前の霊的存在に支配されることになってしまいかねません。そういうことであってはならないのです。(おわり)

2014年06月08日 | カテゴリー: ガラテヤの信徒への手紙

2014.5.25.朝拝説教「あなた方は神の子です」金田幸男牧師 

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2014525日説教「あなた方は神の子である」金田幸男牧師 

 

聖書:ガラテヤの信徒への手紙3

26 あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。

27 洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。

28 そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。

29 あなたがたは、もしキリストのものだとするなら、とりもなおさず、アブラハムの子孫であり、約束による相続人です。

 

 

 要旨

【救いは律法の行いによるのではなく、福音を信じる信仰による】

パウロはこのガラテヤの信徒の手紙において、律法の行いによるのではなく、福音を信じる信仰によって救われると教えてきました。ところが反対者たちは、信仰だけではなく律法の規定に定められていることも守らなければ救われないと教えました。ガラテヤの異邦人信者の中にその教えに聴き従うものが出てきました。パウロは断固反対します。

 

【律法は何のために】

それでは、律法は何のためにあるのか。

神はアブラハムに恵みによる約束を与えられました。アブラハムに、その子孫は数多くなると約束され、人間的には高齢であり、子どもを与えられる可能性が全くないと思われたのですが、ただ神の言葉を信じました。神はそのアブラハムの信仰をよしとされました。

 

【モーセ律法の役割】

ところが、430年経ってから、アブラハムの子孫であるイスラエルに、モーセを通して律法を授けられました。これはアブラハムへの約束の変更では決してありません。

 

【違反を明らかにするため】

では、律法の役割は何か。目的があって、律法が与えられたのです。

律法の役割の第一は、違反を明らかにするためだといわれます(19節)。律法という掟が与えられ、その律法に言行を照らして見るならば、律法に違反している、つまり罪を犯していることが明白になります。罪は白日に曝されます。

 

【生来与えられた良心という律法】

むろん、律法を歪曲したり、無視したりすれば罪の自覚は薄れます。人間には生来良心という律法も与えられていますが、良心を麻痺させれば罪の意識も弱まってしまいます。律法はそれ自体、救いの手段ではありません。律法によって人は決して救われません。律法は批判し、非難するだけです。

 

【律法は養育掛】

第二の役割は、養育掛に喩えられます。

養育掛はローマの上流社会の子弟の教育のやり方であり、多くの場合、奴隷から任命されます。養育掛である奴隷は、子どもの躾け、あるいは読み書きを担当します。奴隷所有者から子どもの訓育を命じられていますから、その命令のとおりにしなければ彼自身が処罰されます。鞭や棍棒で、教育します。子どもから見れば、その教育は憎むべき体験に他ならず、養育掛を憎み続け、嫌悪します。律法という養育掛はただ目標であるキリストのところに導いていくだけです。

 

律法という養育掛の元に縛り付けられていても、ついに、子どもは成人に達します。そのとき、もはや養育掛の言い成りにはなりません。成人のときとは何を意味しているでしょうか。「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです」(26節)とありますように、私たちがキリストを信じたとき、成長し、もはや、律法という養育掛のもとで拘束されてはいないのです。何事も指示され、命令され、制限される幼児ではなく、自由に行動できる神の子とされています。信じるとき、私たちは神の子とされます。信仰によって救われるということは神の子とされるという意味でもあります。

 

【救われるとは神の子とされること】

救われるとは神の子とされること以外の何ものでもありません。子とされること、それは救いの別の表現でもあります。信仰によって救われているありようを言い表す言葉として、「神の子とされる」ほど素晴らしい表現は見出せません。

 

ウエストミンスター信仰告白第12章では子とされる恵みを端的に述べています。ウエストミンスター信仰告白の中で珠玉の言い方であると思います。

 

要点を記せば、次のように記されています。

   の子の数に入れられ、神のことしての特権を与えられる 

   神の御名が信じるものの額に刻印されていて決してそれは消え去ることはない 

   子とする霊を授けられている 

   神の臨在される、恵みのみ座に大胆に憚ることなく近づくことができる 

   アッバ、父よと神を呼ぶことができ、信じるものは決して孤児にはされない 

   神から憐れみを受け、守られ、したがってときに懲らしめられることがあっても決して捨てられることはない。そして、神の相続人として、もろもろの約束を与えられる。

 

ウエストミンスター信仰告白は生硬な面白みのない教理文書ではありません。そこに記されていることを吟味すれば心が励まされ、心が温かくなってくるものです。

 

私たちは今や神の子です。律法の元で、自分の力で救いを獲得しようとしても神の子とされる恩恵に浴することがありません。この神の子とされる祝福をパウロはいくつかの比喩的表現を含め、豊かに語ります。

 

【キリストと結び合わされる】

21節では、キリストと結び合わされると言います。「キリストとも結合」「キリストと一致すること」とも言い表されます。この結合は何ものも切り離すことができません。今このとき、キリストは私たちの目には見えません。キリストは天におられます。私たちと、昇天したキリストとはあまりにも離れています。では、キリストと私たちは縁遠いだけなのでしょうか。

 

復活したキリストは天におられますが、聖霊によって、私たちはキリストとひとつに結び合わされています。私たちは、生けておられるキリストとひとつなのです。だから、私たちはまだこの世にありますが、不可解な仕方でキリストに結ばれていますので、どんなときでも、試練のときでも、意識を失っているときでも、臨終の床でも、キリストと結び合わされています。キリストとひとつであるならば、キリストは常に私たちの傍らにおられます。生きているときも死にかけているときも、キリストは共にいてくださいます。これ以上慰めに満ちた御言葉はありません。

 

 パウロは、そのキリストとの結合は洗礼のときであると語っています(27節)。

洗礼を受けて、私たちはキリストと結ばれます。神の子とされるのは洗礼のときです。

洗礼は、単なる形式、入会儀式ではありません。信じて洗礼を受けるならば、そのとき、洗礼を受けた人はキリストと結び合わされ、神の子とされ、神の子に伴うあらゆる祝福を受けるものとされます。

 

【キリストを着る】

パウロはもうひとつの表現を用います。「キリストを着る」。

衣服は現在ではファッションとなっています。また、実用的には防寒の機能があります。しかし、古代世界では衣服は身分を表しました。

 

貴族は決まった服装があり、もし身分の違うものが貴族の衣服を着るならば処罰されました。衣服の色もそうです。高貴な色というものがあって、身分の低いものはそのような色の衣服を着用することができませんでした。キリストを着るとはキリストと一体になることも含められますが、それと共にキリストと同じ立場、身分、権威を持っているという意味があります。

 

キリストを着ているならば、私たちは外見上キリストのようにみなされます。少なくとも私たちはキリストのいのち、キリストの力を有します。

 

パウロはこのような結果、キリストに結び合わされるならば、もう民族の違い、身分の違い、性=ジェンダーの違いは問題になりません。ユダヤ人は異邦人と大きな違いを強調します。パウロは洗礼を受けたものはそのような違いはなく、平等に神の民、神の子、キリストを着用するものとされるといわれます。

 

ただ念のために言っておかなければならないことは、信じて神の子とされたら、一切合財、人間が皆同じになるというのではありません。同じ顔をし、同じ体つきをもち、性の違いはなくなって中性化するというようなことはありません。ただ、違いが差別や区別となるわけではありません。多様性は残されますが、だからといって子とされる恵みが変わるのではありません。

 

【キリスト・イエスにおいてひとつ】

キリスト・イエスにおいてひとつにされます。ひとつの神の民とされます。私たちは今ここでは互いに離れて生きています。しかし、そのときには私たちは皆ひとつに集められます。神の国で、神の御許に集められます。これこそ私たちの希望です。

 

パウロは私たち神の子とされたもののことを「キリストのもの」と語ります。所有を指しています。私たちは誰かの所有になるなどといわれますと反感を感じるかもしれません。誰の所有でもないと。

私たちが神の子とされるというのは、同時にキリストの所有になることも意味しています。へりくだってこの言葉を耳にします。私たちはキリストに属し、キリストの所有されているもの、従って、決して神に高ぶることが出来ませんが同時に、神から離されることはありません。

 

【私たちは信仰によりアブラハムの子孫】

そうであれば、私たちはアブラハムの子孫です。血縁でアブラハムの子孫となるのではありません。また血統上アブラハムの子孫でなければならないというのでもありません。信仰により、全てのものはアブラハムの子孫であり、アブラハムの子孫が与えられた約束、つまり、カナンの地の相続を保証されます。アブラハムへの約束は決して地上の、現在ではパレスティナと呼ばれている地域を指すのではなく、それは影に過ぎず、本体は天にある神の国、あるいは完成された御国なのです。そこに私たちも導かれていきます。

 

【神の国の相続人】

そして、相続人でもあります。子どもはどんな出来の悪い子どもでも父の遺産を相続する権利を持っています。私たち自身弱く小さく、愚かです。怠慢でどうしようもない劣等生です。けれども、私たちは神の国とそれに伴うあらゆる神に帰属する宝物を相続します。

 

旧約の約束はこうしてそれが本質的にはどういうものか明らかになります。キリストにおいて、私たちは計り知れない幸いを約束され、その約束の実現は間近です。(おわり) 







2014年05月25日 | カテゴリー: ガラテヤの信徒への手紙

2014年5月11日説教「律法はキリストに導く養育係」金田幸男牧師




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本日録音失敗のため説教音声はありません。


聖書 ガラテヤの信徒への手紙3章19~25節

19 では、律法とはいったい何か。律法は、約束を与えられたあの子孫が来られるときまで、違犯を明らかにするために付け加えられたもので、天使たちを通し、仲介者の手を経て制定されたものです。

20 仲介者というものは、一人で事を行う場合には要りません。約束の場合、神はひとりで事を運ばれたのです。

21 それでは、律法は神の約束に反するものなのでしょうか。決してそうではない。万一、人を生かすことができる律法が与えられたとするなら、確かに人は律法によって義とされたでしょう。

22 しかし、聖書はすべてのものを罪の支配下に閉じ込めたのです。それは、神の約束が、イエス・キリストへの信仰によって、信じる人々に与えられるようになるためでした。

23 信仰が現れる前には、わたしたちは律法の下で監視され、この信仰が啓示されるようになるまで閉じ込められていました。

24 こうして律法は、わたしたちをキリストのもとへ導く養育係となったのです。わたしたちが信仰によって義とされるためです。

25 しかし、信仰が現れたので、もはや、わたしたちはこのような養育係の下にはいません。

 

要旨

【アブラハム契約(約束)

アブラハムにまだ子どもがなかったにもかかわらず、また夫婦とも高齢になっていたにもかかわらず(創世記12章4ではアブラハムは75歳)、神はあなたの子孫が増え広がるようにすると約束されました。人間には不可能なこと、ありえないことを神は約束されたのです。アブラハムはその神の言葉を信じました。信仰とは人間にはできないことを神がしてくださるに違いないと信じる希望でもあります。

 

【モーセ律法授与】

ところがその約束が与えられて長い時間が経ちます。パウロは430年後、アブラハムの子孫であるイスラエルの民にモーセを通して律法を授けられたと語ります(17)。神はアブラハムに一方的な恵みとして約束を与えられました。ところがその後、律法が与えられて事情は大きく変わったのでしょうか。実際ユダヤ人の中には、シナイでの律法授与以来、律法を守って神の約束が成就すると確信するものたちが現われます。イスラエルこそ神に選ばれたもの、だから律法を守って優れた特質を神の前でも、人の前でも明らかにしようというのです。

 

律法を与えられたときから、イスラエルはエジプトを脱出し、約束の地で国家を建設するようになります。律法を守っておれば必ずイスラエルが世界に覇を唱える強大国家となると思う思想はずっとユダヤ人の心を捉えていました。律法遵守こそ神の恩恵を受ける手段、方法と考えられたのです。パウロの時代にはそれがファリサイ派に属するユダヤ人の信念となっていました。

 

神が直接支配する神の国が完成するとき、律法を厳守するファリサイ派が真っ先にその国に入ることができると信じ、そのように教えていました。律法をあまり守れないような輩は神の国に相応しくないとされたのでした。パウロはそのようなファリサイ派の考えを固守してきました。しかし、彼はイエス・キリストとの不思議な出会いによってその考えを打ち砕かれたのでした。

 

パウロは聖書を何度も引用しながら、神の約束は不変であると主張します。神の一方的な約束が突然モーセを通して律法が与えられて神の救いの仕方が変更されたのではないといいます。

 

19節の、天使たちを通して、仲介者の手を経て律法が制定されたという文章となっていますが、天使の介在について旧約聖書には出てきません。仲介者とはモーセのことです(申命記5章。出エジプト記20章)。

 

【何のために律法が与えられたのか】

では、何のために律法が与えられたのか。律法は神のアブラハムへの約束に取って代わるのではありません。モーセを通して与えられた律法は神の救いの恵みを与えるやり方を修正したり、以前の神の約束に並立させるものでもありません。

 

神はイスラエルに厳かな仕方で律法を与えられた目的は何か。

パウロは比ゆ的な表現で律法の役割を明らかにします。19節の約束を与えられた「あの子孫」とはイエス・キリストのことであるのは明らかです。

イエス・キリストの来られるまでは、律法の役割は違反を明らかにすることであったといわれます。違反とは罪のことです。イスラエルの悪事を明らかにするために律法がイスラエルに与えられたのです。イスラエルは国家建設の端緒を開きます。そうであれば、神はイスラエルに国家の仕組み、特に法的な整備、あるいは国家的宗教の制度、組織、あるいは壮麗な施設建設、そこで行われる祭儀を詳細に規定する律法を与えれば丁度相応しい神の指示ということになるでしょう。

 

ところが神はそのような目的で律法を授与されたのではないとパウロは考えるのです。むしろ、イスラエルの違反、罪、罪過を明らかにするためだといいます。正義、善、あるいは聖潔といったものと正反対の状態であることをイスラエルの知らせるため、自覚を促すために神は律法を与えられたのだといいます。神の民にはそれが重要とされます。

 

イスラエルに神は普通では考えられないみわざ(業)をなさいます。それは罪の許しを神にいただくようにするためであったのでした。

 

【律法の役割は罪の支配下に閉じ込めること】

22節で律法の役割は罪の支配下に閉じ込めることとされています。罪の監視下におく、律法が明らかにする違反である罪は、イスラエルの人々の日常を監視し、そこから脱出できないように縛り付けるのだといいます。律法はイスラエルの人々が選良(エリート)であることを立証するものであるどころか、暗い罪の闇の中に放り込んでしまう役割を与えられているとパウロは語ります。

 

つまり、律法は罪のもとで私たちが縛り付けられていることを自覚させるのです。ローマ5章13で、パウロは言います。「律法が与えられる前にも罪は世にあったが、律法がなければ罪は罪と認められない。」要するに罪は自覚されないという意味です。律法がなければそれが罪であるとは知らされないのです。

 

律法の役割を無視したり、棚上げしたりするとどうなるでしょうか。

罪を犯しているのに当人は罪と認めない、そうするとどうなるでしょうか。人間の本能だとか、社会が、世間がそうさせたのだ、果ては成り行きだとか、ちょっと行為を大袈裟に言っているだけと、罪を過小評価し、あるいは無視して、罪の問題の深刻さから目を逸らします。

 

罪の結果は神の呪いでしたが、そんなものは神話、作り話と片づけてしまうのです。結局律法がなければ無責任がはびこります。そうすると逆に誰も責任を取らないために自己責任という言葉が独り歩きし始めます。罪の存在を認めようとしないのです。

 

23節で、信仰が現われる前とパウロは言いますが、これはイエス・キリストの来臨前とも、また個人の領域ではキリストを知って信じる前、つまり、パウロにとっては入信前ということになります。

律法がモーセを通して与えられてからまた長い時間が過ぎます。神はイエス・キリストをこの世に遣わされました。それまでは、律法は人間が罪を犯していると告発し続ける役割を果たしていました。パウロは多くのユダヤ人同様、律法を懸命に守ろうとしていました。ところが、それはただ律法に自らのあり方を監視されていただけであったと気がついたのでした。

 

キリストを信じるようになって律法の役割をはっきり理解するようになったとパウロは考えたのでした。律法を遵守しようとしたが、それは日常の言動が律法に沿っているかどうかだけに関心がいく、しかし、そのたびに不完全さを思い知らされる。これがパウロの個人的な体験であったと思われます。律法では、救いへの絶望が出てきます。

 

【律法は養育係】

24節でもまた比ゆ的な表現が出てきます。律法は養育係だというのです。

古代ローマ社会は奴隷制が敷かれていました。上流階級では子弟の教育をその奴隷に任せました。奴隷の中で読み書きできるものや知識人であるものを選んだり、そのためにわざわざ奴隷を購入したりして、子どもの教育、それには躾けも含みますが、読み書き計算などを教えさせます。

 

奴隷は、奴隷所有者から命じられたようにしなければなりません。何歳までに読み書きができるように、と命じられると、その命令を守らなければ処罰を受けます。奴隷はたとえ相手が主人の子弟であっても、与えられた命令には従わなければなりません。目標に達しなければひどい仕打ちを覚悟しなければなりません。

 

【律法の過酷さ】

養育係は鞭とか棒を持って脅しながら教育します。養育係はそうまでして子どもをしつけることになります。むろん、例外はありましょうが、厳しい教育に反発して、子どもは養育係を憎みます。

律法は養育係のようなものとパウロが言うとき、律法の過酷さを言い表しています。律法は手加減などしません。私たちのあらゆる行動を吟味し、批判します。律法を好きになる人はいません。律法の厳しい命令を知れば誰もがたじろぎます。それが律法です。

 

このような律法は異邦人には関係のないこととでしょうか。ローマ2章14-15「たとえ(モーセの)律法を持たない異邦人も律法の命じるところを自然に行なえば、律法を持たなくても、自分自身が律法なのです。こういう人は律法の要求する事柄が人の心に記されていることを示しています。わたしの良心もこれを証ししており、また、心の思いも互いに責めたり、弁明し合って同じことを示しています。」律法が異邦人にも刻み込まれていると言います。

 

どのような人にも宗教心があり、道徳心があります。また良心もあります。良心はいつもちくちく私たちを責めます。

むろんそれだけで、良心の指摘することに従ったり、悪をやめたりすることはありません。私たちの得意技は常に良心の訴えを無視することです。やむをえなかった、相手が悪い、状況がそうさせた、いろいろ口実を設けて罪を認めず、ますます悪に染まっていきます。

 

【キリストに生きる】

心に刻まれている律法は罪を抑制することができません。それはただキリストに導いていくだけです(24節)。子どもは愛する親のところに行くしかありません。そこで赦しを請い、そして実際に赦されます。キリストは私たちのために十字架につけられて、罪の呪いを代わりに負ってくださいました。

 

キリストにより頼むところに赦しがあります。律法は養育係であって罪を帳消しにするような力はありません。ただ批判し告発し、情け容赦なく責めるだけです。決して赦す力を提供などできません。それができるのはイエス・キリスト、その十字架だけです。良心を無視したり、軽んじたりすることはできますが、罪はますます蔓延するだけです。必要なことはキリストの赦しを求め、そのキリストの愛を信じ、キリスト共に生きることです。(おわり)

2014年05月11日 | カテゴリー: ガラテヤの信徒への手紙 , 新約聖書

2014年4月27日説教 「呪縛からの解放」金田幸男牧師

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2014年4月27日説教「呪縛からの解放」金田幸男牧師

聖書:ガラテヤの信徒への手紙3章12-14

12 律法は、信仰をよりどころとしていません。「律法の定めを果たす者は、その定めによって生きる」のです。

13 キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました。「木にかけられた者は皆呪われている」と書いてあるからです。

14 それは、アブラハムに与えられた祝福が、キリスト・イエスにおいて異邦人に及ぶためであり、また、わたしたちが、約束された"霊"を信仰によって受けるためでした。

 

要旨 

【律法の定めによって生きる】

パウロは旧約聖書を何度も引用しています。

12節「律法の定めを果たす者は、その定めによって生きる」は、レビ記18:5の引用です。新共同訳聖書ではレビ18:5は「わたしの掟と法を守りなさい。これらを行なう人はそれによって命を得ることができる。わたしは主である」とあって、この方がズバリ意味するところは明白です。

 

「律法を守れば永遠の命が与えられる」。だから、一所懸命になって律法を守らなければならないという結論が出てきて、それをそのまま受け入れられ、何とか律法を守ろうとする人も出てきます。

 

実際ユダヤ人、特にキリスト時代のファリサイ派は律法の掟を厳格に守ろうとしました。若いころのパウロもその一人でした。

 

【律法は、信仰をよりどころとしていません】

パウロはそのような聖書の読み方の誤りに気づきます。「律法は信仰をよりどころにしていません」。律法によって救い、永遠の命を獲得する道と信仰によって救いを得る道は全然違うのだという真実を見出したのです。救いに至る方法として律法と信仰は両立しないのです。

 

律法によって救いを獲得しようとする人は徹底的に律法を遵守しなければなりません。しかし、パウロはこのように語り、その不可能性を明らかにします。

 

「律法の書に書かれているすべての事を絶えず守らないものは皆、呪われている」(10節)。これは申命記27:26の引用ですが、「絶えず」と言われます。起きているときも眠っているときも律法を守らなければなりません。パウロはこのみ言葉によって自己吟味を求めます。実際にパウロはそれを実行した人物です。たいていの人は中途半端にしか自己評価しません。

 

【神は全てをご存知です】

残酷な行為をする夢を見ます。夢の中で淫らな思いにふけります。夢は無意識の中で見るものです。しかし、神は私たちの夢の中もご存知です。口には出さないけれども、腹の中で罵ったり、嘲ったりします。誰も知らないわけですが、神は心の中をご存知です。誰も人が見ていなければ恥ずかしいことも平気でやります。誰も非難しません。しかし、神は全てをご存知です。全て律法違反であって、神に呪われるに値します。

 

私たち自身は自己弁護に終始します。たまたまそうなったのだと偶然のせいにします。仕方がなかったのだと責任を放棄します。少しくらい構わないではないかと居直ります。私たちは誰でも罪の重大さを認めないことに長けています。律法は明白に罪過を明らかにします。律法の定めにそぐわないならばその人は神に呪われている。

 

パウロはかつてファリサイ派であって、人並み以上に律法に熱心でした。神と人に正しい人間であると評価されたいと思っていました。そのパウロが律法の所に記されていることを絶えず、全て守らなければ呪われるというのです。誰も神の前では誇ることができない。それどころか絶えず律法に逆らっている。これがパウロの実感でした。

 

【自分に正直とは】

パウロほど自分に誠実で正直な人はいません。自分に正直という表現はしばしば誤解されています。あるがままの自分でいいのだという居直りを自分に正直と言っているだけです。自分に正直とは真摯な自己批判のことです。パウロは自分自身を評価するときに、律法に完全に一致していない自己を見つけたのでした。誰も律法をことごとく守れないのです。

 

 他の人がどう見ようともそれに関わりなく、神の前で自分を判断しなければなりません。パウロはあるときそれに気づきます。それまで律法を完全に守ろうとし、守らなければならないと思っていました。パウロは神の前で自分自身を裸にして、どれほど神から離れているか気がついたのです。神の前で恥ずべき自分を発見したのです。神の前で絶えず律法を守っていなければ律法違反者であり、神に呪われるのです。

 

【律法違反者は神に呪われる】

「呪われている」と言われています。神の呪いとは不快を催す言葉です。躓きを感じる人もいるでしょう。

 

神に呪われているとは、不幸な目にあうこと、例えば愛するものとの死別、事業の失敗、病苦などに見舞われると、自分は呪われているとします。不幸は、ときどき連続してやってきます。不思議に不幸は繰り返され、積み重なります。運命に呪われているとか、神に呪われていると叫ぶ人もいます。

 

呪いという言葉はおどろおどろしいのですが、不運な経験をしますと、自分は呪われているとか、自分の家は呪われているとか・・・そして、そこにつけ込んで、何かの宗教に勧誘されたりします。不運の連鎖を切断する効果のある信心があると言うのです。厄払いとか、何かの呪詛で呪いを消し去ることができると言われるとそのような教えに傾いてしまうのです。

 

【呪いとは】

 呪いはそのようなものではありません。呪とは神に捨てられることです。神に遺棄され、見捨てられ、厳しいさばきを受けることです。永遠の滅びに投げ込まれることです。これがさばきです。

 

 このようなことを言いますと、そんなことは作り話、フィクションだとします。神のさばきだといってもそんなものはあるはずがないと反論します。不快感を示します。人間を怖がらせる創作だともいいます。別段深刻に考えません。むしろ、先に挙げた不幸や不運を呪いとしてしまうのです。神のさばきなど無視しながら、人間を襲う不幸に怖れます。

 

 【木にかけられるものは皆、呪われている】

不幸なことや不運なこと以上に、神のさばきのほうが深刻です。何故そんなことが言えるのでしょうか。13節に「キリストはわたしたちのために(「わたしたちに代わって」と訳すべきです)、呪いとなって(呪われたものとなって)」とあります。そして、申命記21:23を引用します。「木にかけられるものは皆、呪われている」

 

申命記の記された時代には十字架刑はありませんでしたが、パウロはこの申命記の文章とキリストの十字架を結び付けました。申命記では、神に呪われていると見なされたものの死体を木の上で曝し、見せしめとしたことを指しています。神に呪われたもの、それは犯罪人だけに限られていませんでしたが、たいていの場合、神に罪を犯し、神から罰せられたと思われるものと考えられたのです。

 

十字架刑はローマ帝国では、身分の卑しい出の犯罪人の処刑方法でした。また政治犯に対しても行なわれました。それは極刑でした。ちなみにローマ人は、処刑方法にもランクをつけていたのです。

一番高貴な処刑法は自死です。血管を切り開いて徐々に死に至るようにするやり方です。十字架刑はその反対に一番惨めで残酷は処刑法で囚人をもっとも過酷に苦しませるやり方でした。

 

キリストはこの残忍で恐ろしい処刑の仕方で処刑されただけではなく、律法によれば神に呪われたものとして死なれたのでした。

 

イエス・キリストは神の子であられました。神の愛するひとり子でした。キリストの中に私たちは神の現われを見ます。イエス・キリストは素晴らしい方です。ところがそのキリストが十字架にかけられて死なれました。キリストは呪われたものとなりました。キリストの十字架に神の呪いを見ました。

 神の呪いはこのように恐ろしいのです。

 

 キリストは私たちに代わって十字架につけられました。私たちの身代わりとなって十字架の上で神の呪いとなってくださいました。

 「キリストはわたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました」(13節)。

 

これはキリスト教のもっとも重大な核心部分を記します。ここに書かれていることは最大の神の真実であり、この真実は何度も繰り返して語られなければなりません。

 

贖い出すとは、奴隷を買い戻す意味もありますが、ここは出エジプト記21:23以下に記される、有名な「目には目を、歯には歯を」と対応します。死刑囚を解放するために支払いが必要ですが、その場合は、命が要求されます。その命は何よりも人間の命でなければなりません。身代わりの命です。

 

【キリスト教信仰の中心】

キリストは、身代わりに命を投げ出し、それによって私たちは死刑に値するところから解放されました。律法のもとで、律法を完全に守れないで、呪われたものとなっている私たちを呪から解放してくださったのはキリストであり、十字架のキリストなのです。ここにキリスト教信仰の中心があります。

 

【永遠の祝福】

14節は、6,7節の主題に戻ります。アブラハムに与えられた祝福とは、単に、アブラハムの子孫が天の星の数ほど増えると言うだけではありません。死後を越えて神は約束を反故にされることはなく、永遠にまで続く祝福だということです。歴史の中でそれが明らかになります。

 

約束の地はカナンの地にとどまらず、永遠の御国にまで拡張されます。その約束はまずユダヤ人に限られず、イエス・キリストにおいては異邦人にまで及びます。救いの恵みは決してユダヤ人に限定されません。そして、ここで「わたしたち」というのはパウロを含めたユダヤ人を指していることは明らかです。アブラハムに与えられた約束は単なる地上に存在するイスラエル民族の国家ではなく、約束された霊が与えられるという約束です。

 

この霊は、御霊なる神であり、全てを新たにし、力の源であり、新しい命を与える霊です。ユダヤ人であろうともそれは信仰によって与えられるのです。決して律法の行いによるものではありません。

 この祝福を受けるという点で、ユダヤ人も異邦人も変わることがありません。共通しています。信仰により恵みによるのです。異邦人が排除されることはありません。(おわり) 

2014年04月28日 | カテゴリー: ガラテヤの信徒への手紙

2014年2月9日説教「神の恵みによる選び出し」金田幸男牧師

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2014年2月9日説教「神の恵みによる選び出し」金田幸男牧師

 

聖書:ガラテヤの信徒への手紙1章11-17

11 兄弟たち、あなたがたにはっきり言います。わたしが告げ知らせた福音は、人によるものではありません。

12 わたしはこの福音を人から受けたのでも教えられたのでもなく、イエス・キリストの啓示によって知らされたのです。

13 あなたがたは、わたしがかつてユダヤ教徒としてどのようにふるまっていたかを聞いています。わたしは、徹底的に神の教会を迫害し、滅ぼそうとしていました。

14 また、先祖からの伝承を守るのに人一倍熱心で、同胞の間では同じ年ごろの多くの者よりもユダヤ教に徹しようとしていました。

15 しかし、わたしを母の胎内にあるときから選び分け、恵みによって召し出してくださった神が、御心のままに、

16 御子をわたしに示して、その福音を異邦人に告げ知らせるようにされたとき、わたしは、すぐ血肉に相談するようなことはせず、

17 また、エルサレムに上って、わたしより先に使徒として召された人たちのもとに行くこともせず、アラビアに退いて、そこから再びダマスコに戻ったのでした。

 

(要旨) 

【熱心なユダヤ教徒であったパウロ】

パウロは自らの過去を振り返って語り出します。キリスト教信徒となる前は信心深いユダヤ教徒であり、父祖たちから伝えられた律法とその行いに熱心でありました。その熱心さは他の宗派を排斥し、迫害することに表されました。宗教的熱心はしばしば他の宗派の属する人たちや教団と敵対し、圧迫し、攻撃するなかで示されるという場合は珍しくありません。むろん、信仰に熱心でありながら他の宗教に寛容である人はたくさんいます。信仰の熱心は必ずしも他の信仰者とは敵対的であるというわけではありません。パウロの場合は他の宗教に排他的、しかも暴力的であることによってその熱心さを表現しようとしたのです。

 

【神の教会の迫害者パウロ】

パウロは「神の教会を」を迫害したといいます(13節)。むろんこれはそのときパウロがそう思っていた言葉ではありません。のちになって振り返って自分がしていたことは「神の教会」を迫害することであったというのです。「神の教会」とはそこに神がいます教会、神がそこで働かれる教会という意味です。それは結局神に敵対するという恐ろしい行動でした。そのときは熱心で教会を迫害しました。それは英雄的行動と思っていました。そのような行動は、しかしながら、それは神に敵対するような振る舞いであったのです。

 

【「劇的な回心」を語るパウロ】

 ところで、パウロは単に過去の自分の言行を反省するためにだけ語っているのではありません。また、単なる過去の罪を告白しようとしているのではありません。「劇的な回心」を語ろうとしています。かつてのキリスト教の迫害者から、キリスト教信仰の福音の伝道者になったのです。それは全く180度の方向転換でした。

 

【私たちの信仰の証し】

私たちは「信仰の証し」をする場合、パウロのような劇的な回心を語らなければ証しにならないと思うことがあります。

しかし、信仰の道に入るあり方はひとつではありません。キリスト教徒の家庭で育ち、いつの間にか信仰に入っていたという人もいます。

いろいろな書物を読み、知らぬ間に入信していたという場合もあります。

友人の感化を受けて、その友人のような生き方をしていたらキリスト者の仲間になっていたというように、あまり強烈な自覚もなく信徒になったという人もいます。

そういう人は、自分には他人に言うほどの信仰もないと謙遜になって、信仰の証しをできるだけしないようにするのですが、それは正しくありません。

 

【一人一人違うキリスト者】

10人のキリスト者がおれば10の信仰への道があります。神はそれぞれに相応しいとき、場所、方法で私たちの魂を導く方です。

 パウロは劇的な回心をしました。このことは、ダマスコ途上の経験を結びついています。彼はエルサレムでキリスト教会を迫害していました。ところがダマスコに行く途中、突然の光に打ち倒されます(使徒言行録9:1-17)。サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのかという声を聞きました。彼は目が見えなくなり、ダマスコまで人に手を引かれていくという特別な経験をします。その後、アナニヤというキリスト教信徒に導かれて、主の言葉を聞きます。洗礼を受け、それだけではなく、キリスト教の福音の宣教者とされます。この経験は、パウロの回心の契機となったものです。それは驚くべき経験でした。パウロ独自の経験です。

 

【選びによって】

パウロはなぜこのような劇的な回心を語らなければならなかったのか。それは彼の語っている福音が神からの直接の啓示であることを強調するためです。ここでは、選びによって、異邦人への宣教者として送り出されることになったと言おうとしています。

 

パウロの語る福音は人間に起源を持つものではありません。パウロが研究した結果の結論ではありません。また、あとのところで強調しますように、誰かから伝えられて教え、つまり二番煎じの教説ではありません。それは神からの啓示によるのです。神からの啓示であるゆえに信頼に値する信仰なのです。

 

神からの啓示を受けることになったのは、それはパウロが優秀な才を持っているからではありません。生まれ育ちのせいではありません。むろん偶然ではありません。それは神の選び分けによるものなのです。神はパウロが生まれる前から選ばれていました。彼が福音の宣教者とされたのは生まれる前から神が決めておられたことなのです。このことはパウロが述べ伝えている福音の神的起源を強調することになります。

 

【福音宣教のために選ばれる】

わざわざ神はパウロを選び出して、信仰を与えただけではなく、福音を宣教する使命を与えられたのです。選びは彼が伝道者となったことで明らかになります。選びは、狭い意味では時間に先立って救いに選ばれる選びを指します。ある人は神の決定によって生まれる前から救いに定められているのです。この選びよりも広い意味での「選び」もあります。伝道者だけではなく、神への奉仕者として選び出される選びもあります。選びに「召し」が付随します。パウロは選び出され、恵みによって、伝道者、宣教者に召されました。もっと言えば「使徒」に召されました。

 

【自分と他者の選びについて】

選びはしばしば密かなこととされ、分からないこととされています。確かに他者が選ばれているかどうか分かりません。教会役員を見て、どうしてあの人が神から選ばれて教会役員にされたのか疑問を持つ場合もありましょう。そのとおりです。私たちは他人の選びに関しては分からないといわざるを得ないのです。

 

【選びの確信】

しかし、自分自身についての選びは確信できます。パウロは福音の伝道者として選び出され、召されたとき、それを確信できました。神の選びは確かであると確信できました。選びは伝道者になる選びだけではありません。救いに選ばれます。そのとき、わたしが神を信じ、神に従おうとしているときには、それは選びを明らかにする神の働きです。この選ばれているという確信が、私たちの信仰を固くします。どんなことがあっても神がわたしを選んでいてくださっているという思いが私たちを支えます。

【神からの直接啓示であるパウロの語る福音】

パウロはこの選びによって神から啓示を受け、そして福音を宣教しているのです。だからこそ彼は正しい福音を語っていると自負したのです。なぜ、こんなことを言わなければならなかったかといえば、彼が語っている福音に対して疑問を呈するものがいたからです。パウロの語る福音は間違いだというのです。

パウロは、人が救われるのはただ神の恵みによるのであって、律法の行いによるのではないと語っていました。反対者は、律法、例えば割礼を受けることを救いの条件にしていました。そして、パウロを強く批判をしていました。パウロの語っていることは間違いである。なぜなら、パウロはどこかでそういう教えを発明した、あるいは誰かから教えられたこと、つまり偽者であり、二番煎じであるから権威がない、したがって信じるに値しないなどといってパウロを攻撃していたに違いありません。

 

パウロはそのために彼が宣教している福音は神からの直接啓示であり、そのような啓示を受けたのは神の選びによると断言して憚らなかったのです。

神が何よりもイニシャティブを取って働かれたのだとパウロは語ります。だからこそ、彼が語る福音は真実です。人は恵みにより救われます。

この福音は今も価値があります。

救いのために何かが必要と思う人が多いのです。たとえば一定の長さの信仰生活や教会が必要だという人がいます。信仰生活が短ければ未熟でそれは救いの妨げになると思っています。ある人はある程度の修養や修行が必要だと思っています。それが足りなければ救われないと思っています。

人間がよくならないとだめだと考える人もいます。そういうことはありません。

 

救いはただただ恵みによるのであって、福音を信じ受け入れることによります。これは単純至極、しかし信ずべき福音そのものなのです。

 

パウロはこの福音を異邦人に宣教するために召されました。異邦人に受け入れやすくするために福音を捻じ曲げるようなことをしたのではありません。

 

【パウロのアラビア行き】

パウロはキリストの出現に出くわし、そのとき、劇的に回心しました。それから、どうしたのか。彼は血肉、すなわち親類同族に相談せず、また、先輩使徒たちのところにも行きませんでした。

エルサレム在住の使徒たちに教えを受けて、あるいは彼らから任命されて、異邦人伝道に従事するようになったのではありません。何よりも彼が教えた福音は誰かから示唆されたとか、手ほどきされたというのではありません。彼はアラビアに行ったと言います。

 

アラビアは、広大な砂漠を想像しますが、彼はアラビア砂漠の真ん中にまで出かけて行ったのではありません。アラビアは人が住まない地域を指し、孤独な日々を過ごしたということを表していると思われます。野宿をしたと考える必要なありません。パウロがどういうところにどれくらいの期間そこにいたのか分かりません。パウロは具体的に書きません。彼にはそんなことは知らせるに値すると思っていなかったのです。

 

確かに分かりません。パウロはアラビアにいて何をしたか記されていませんが、想像できます。ダマスコの途上の経験は劇的でした。キリストと出会い、また、キリストから伝道者として任命されます。それですべて了解したのではなく、アラビアで彼は一人になり、キリストから福音をさらに示されたと考えていいのだろうと思います。

その間、聖書の言葉を紐解き、あるいは祈り、瞑想したのでしょう。こうして、さらに福音の真理を学んだに違いありません。この経過に特別超自然的現象が伴ったと思う必要はありません。

自然な、しかし、静かな一人になる時間において彼はキリストから啓示を受け続けたのです。

 私たちはパウロとは異なります。しかし、私たちも、神の御霊に導かれて、さらに福音の豊かさに進んでいきたいものです。(おわり)








2014年02月09日 | カテゴリー: ガラテヤの信徒への手紙

2014年1月26日説教「恵みの福音とそこからの分離」金田幸男牧師

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2014年1月26日、説教「恵みの福音とそこからの分離」金田幸男牧師

聖書:ガラテヤの信徒への手紙16--9

6 キリストの恵みへ招いてくださった方から、あなたがたがこんなにも早く離れて、ほかの福音に乗り換えようとしていることに、わたしはあきれ果てています。

ほかの福音といっても、もう一つ別の福音があるわけではなく、ある人々があなたがたを惑わし、キリストの福音を覆そうとしているにすぎないのです。

8 しかし、たとえわたしたち自身であれ、天使であれ、わたしたちがあなたがたに告げ知らせたものに反する福音を告げ知らせようとするならば、呪われるがよい。

9 わたしたちが前にも言っておいたように、今また、わたしは繰り返して言います。あなたがたが受けたものに反する福音を告げ知らせる者がいれば、呪われるがよい。

 

(要旨)

【福音】

「福音」=よき知らせと訳されるギリシャ語は、戦場で、味方の軍勢が勝利したという知らせを意味します。古代世界では、使者の知らせをかなければ戦いの結果を知ることはできませんでした。マラトンの戰いの結果をアテネの町に伝えた使者の知らせ、「われら、勝てり」こそ、アテネの住民にはよき知らせ=福音そのものでした。マラトンの野とアテネの間の距離が近代マラソン競技の走行距離となったと言われています。不安と恐怖に襲われているアテネの住民は、まだかまだかと知らせを待つのですが、 勝利の知らせは歓喜、安心を引き起こします。

 

「福音」という言葉はいろいろのところで用いられています。例えば、難病に特効薬が発明されたというニュースこそ患者やその家族には「福音」といわれるのに値します。絶望や極度の不安にさいなまれている人にとって、その苦しい状況からの解放のニュースは「福音」とされます。この ように、福音を待ち焦がれる人は多いのです。

 

【キリストの福音】

ガラテヤ17では「キリストの福音」と記されています。「の」は重要な意味があります。日本語では助詞「の」には二つの意味があります。一つは所有を意味します。

キリストのものである福音を意味することになります。

 

もう一つの意味は、福音の内容、中身そのもの、主題、主体を表します。

キリストが福音の内容であり、またその主語、主格であるという意味です。福つまりよき知らせの内容はキリストそのもの、キリストの御業であるということになります。

 

【キリストの御業】

そのキリストは1:4では「キリストは・・・この悪の世からわたしたちを救い出そうとして、御自身をわたしたちの罪のために献げてくださった」とあります。

ただ単に悪い世の中というのではなく、 罪が支配する世、その罪の結果が蔓延している世界、つまり、死が強大な力を、猛威を振るうような この世から、私たちをその縄目から解放し、自由にするために、つまり救出するために、御自身を身代わりの犠牲とし、贖いとし、十字架の上で死んでくださいました。

聖害が教える福音とはこのキリストの福音なのです。

 

【ほかの福音】

この世の中にはさまざまな福音があるように思われています。実際、ガラテヤのキリスト者には 「ほかの福音」に乗り換えるものがいました。福音はいくつもあるように考え、パウロが語り教え、受け入れたのに、そこから外れてしまったのです。

 

特に重大な間題は、はじめ信じた福音を捨てて、「別の」福音のほうに行ってしまったことです。純粋に、単純に、パウロが伝えたキリストの福音を、安易に、簡単に捨ててしまいました。

 

【あきれ果てている】

パウロはこの亊態を「あきれ果てている」と語ります。 あいた口が塞がらないというだけではありません。この言葉には、驚愕だけではなく、深い悲しみ、 失望が含まれています。

 

その果てに何があるのか。パウロが宣教し、告知したキリストの福音とは別の福音と称するものに傾いていったガラテヤのキリスト者にパウロは大きな心の痛みを慼じ、また、彼らを誤らせたたものに激しい怒りを示します。パウロが教えたキリストの福音と異なるようなことを教えたり、語ったりするものは「呪われるがよい」と宣告します。

 

【呪われるがよい】

この言葉をパウロは二回繰り返します。「呪われるがよい」=「アナテマ」という言葉が用いられますが、これは、本来、神にささげられたものを表す言菜から出ています。

 

神にささげられたものは神に属し、ささげた人すら、もう触れたり、さわったりすることもできなくなってしまいます。ですから、ささげられたものをどうするかは神の決定によります。もし神が唾棄すべきものと決められたら、そのささげられたものは徹底的に捨てられます。神の憎悪と嫌悪の対象となります。それが「アナテマ」の言葉の持っている恐ろしい意味です。

 

この言葉は安易に使われてはなりませんでした。今日、言葉が安易に、無造作に乱用されていても不思議と思う人はいませんが、言葉を疎かにするのは現代の特徴かもしれません。その言葉を使えば致命的な被害を与えることになりうる。言葉にはそのような力があります。

 

パウロはこの言菜を二度も使います。聖書の用法でもありますが、同じ言葉を重ねることは強調を意味します。だから、ここでは、絶対に「呪われる」を意味します。呪われたものは絶対に大きな災害を引き受け、避けられないのです。それは滅びという破局を意味します。

 

パウロはこのように、彼がガラテヤのキリスト耆に伝えた福音と異なる福音を語るものに、当然のことながらそれを受け入れるものに、この上なく大きな警告を与えています。それほどこの問題は重大であることをわたしたちに思い知らせます。

 

【キリストの福音は唯一】

ということは、いろいろの福音があり、並立したり、共存したりするというようなことは決してありえないという結論が出てきます。

 

キリストの福音というべきものは唯一である。これがパウロ の最も主張したいところなのです。このことに関して一切妥協しない、譲歩しないというパウロの強い意志が伝わってきます。

 

【解放を与える福音】

キリスト教は偏狭だという批判がしばしばキリスト教に投げつけられます。最近は、キリスト教が一神教だから排他的であって、多神教はそうではない、という主張が平然と語られます。偏狭で排他的なのは一神教だからとは思えません。一神教であれ、多神教であれ,偏狭で排他的である宗派は多いものです。キリスト教信仰が偏狭で頑迷、堅苦しいと感じさせられるのはキリスト教の特徴ではありません。

むしろ、キリスト教信仰はこの世でその魂を縛り付けているものからの解放を教え、自由な生き方を指し示します。人々を拘束している因習、古い不合理な迷信的な習慣からの解放を結果として生み出していく信仰でもあります。

 

しかし、ことキリストの福音に関して一歩も退くことはありません。キリストの福音はパウロが語り教えるものだけです。

 

この福音からはずれていくことを、パウロは「キリストの恵みから逸れていく」と言いました。

 

この福音から別の福音に乗り換えていくことは、キリストの恵みからの逸脱です。恵みは誰もが期待すべきです。神の恵みを軽んじることはできませんし、そういうことをしてはなりません。救いからの離脱となります。このことは許されてはならないのです。どうでもよい些細な問題ではありません。惠みを軽んじるようなことがあればそれは最大の悲惨、悲劇です。

 

パウロが宜教した福音と異なったことを語るものは、それが天使であろうとも許されません。天使は神に仕える霊的存在です。神に最も近くあることができるものですが、そういうものであっても、キリストの福音を正当に語らなければ呪われてしかるべきなのです。あってはならないことでもあります。パウロは必死になって訴えています。

 

むろん、パウロ自身が語り続けている福音をあるときから捻じ曲げてしまう、周囲を恐れて歪曲するということもあってはならないとします。それでは;パウロ自身、神の呪いを受けることになってしまいます。このような激しい思いが伝わってきますし、ここを読むものはそれを感じなければなりません。

 

パウロが語った教えとは異なる福音と称するものを語る人々はおそらくキリスト教会内部の教師や伝道者であったと思われます。彼らは、その語るところを、これこそ福音だと主張していたに間違いありません。どんな宗教団体でも、自分たちが教えている教えを「真理」というもので、 初めから「この教えは誤り」などとは言いません。

 

パウロの語った福音と異なる教えを語るものも 「これこそ福音」あるいは「パウロの教え以上に高貴で価値ある福音」と教えたに違いありませんし、「自分たちの宗派が教えている教説はまことの福音」と主張していたはずです。彼らの主張は、 救いのためには信仰だけではなく、プラス、何かが必要というものでした。信仰だけでは救われるためには不十分であり、完全に救済されるためには不足がある、それは律法の行いというものでありました。これはキリストの福音を覆し、ひっくり返し、元もこうもなくしてしまう働きなのです。

 

【信仰プラス良い行い?】

ガラテヤのキリスト者は信仰プラスよい業という教説に「早く」乗り換えてしまいました。あっけないほど早くパウロが宣教し、伝道した教えから離れてしまいました。そんなことが起きるのは、 パウロの反対者たちの教えが魅力的であり、容易に傾いてしまうほどであったからでしよう。パウロが教えるキリストの禧音を信じるだけでは物足りないと感じたせいかもしれません。

 

【真実を見分ける】

誰もが自分のほうにこそ、まことの福音があると強弁するものです。ではいったい、私たちはどのようにして「真の」キリス卜の福音を見分けることができるのでしようか

みんな自分にこそ 真実があると語っています。どれでもよいとか、結局、真理は所詮分からないものと追求を中止したり、思考停止することは正しくありません。私たちは、一方で聖霊は正しい識別力を与えてくださると信じつつ、キリストをもっと見なければなりません。キリストとそのなされたこと、そこで約束されているところをしっかり、しかし、冷静に見極めていくとき、そこにかけがえのない真実な 「福音」を見出します。

 

この作業を慎重に、しかも辛抱しながら、続けていかなければなりません。 神の言葉である聖害から、キリストを学ばなければなりません。ここにこそ「福音」があるなどと聞かされても、惑ったり、混乱したり、不安がって怖れたりする必要はありません。

 

キリストとその御業の素晴らしさ、かけがえのなさに気づいたとき、私たちはここにこそ「キリストの福音」があると確信できます。聖霊なる神はわたしたちの最も深いところで働いて、キリストの福音の真理に到達させてくださいます。(おわり)

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2014年01月26日 | カテゴリー: ガラテヤの信徒への手紙

2014年1月19日、説教「キリストと神の使徒からのよき知らせ」金田幸男牧師

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転入式:金田益美姉

2014年1月19日説教「キリトと神の使徒からのよき知らせ」金田幸男牧師

聖書:ガラテヤの信徒への手紙1章1 -- 5

1 人々からでもなく、人を通してでもなく、イエス・キリストと、キリストを死者の中から復活させた父である神とによって使徒とされたパウロ、2 ならびに、わたしと一緒にいる兄弟一同から、ガラテヤ地方の諸教会へ。3 わたしたちの父である神と、主イエス・キリストの恵みと平和が、あなたがたにあるように。4 キリストは、わたしたちの神であり父である方の御心に従い、この悪の世からわたしたちを救い出そうとして、御自身をわたしたちの罪のために献げてくださったのです。5 わたしたちの神であり父である方に世々限りなく栄光がありますように、アーメン。

 

(説教要旨)

【使徒とは】

まず最初に、パウロは、自分のことを、「使徒」であると語ります。「使徒」とは全權を委託された使者、国家間では「全権大使」のような役割を与えられたものを意味しています。

外交官である大使は本国政府や(古代世界では)王侯の意志を正確に伝える義務があります勝手に自分の所信や考えで.発言したり、行動することは許されていません。使徒も同様です。

 

【父なる神とイエス・キリストの使徒であるパウロ】

パウロは、自分は、父なる神とイエスキリストの使徒であると言います。つまり、パウロは父なる神とイエスキリストから派遣されて語るものです。彼は神とキリストの言葉を語るものだと主張しているのです。

 

これはとても重要なことです。神が不在と思われ、神の言葉など聞けないと思っているこの世の中に生きる人に、パウは神の言業を語るものなのだと主張しているからです

 

【聖書は神の言葉】

聖書は、聖なる書というのですが、多くは、しかし、普通の人間が書いたもののように思われて います。古代のひとつの宗教的文書に過ぎない、あるはユダヤ教という民族宗教の経典に過ぎないとも思われています。

 

また、聖書は神の言葉と言われます。でも、所詮人間が書いた書物に過ぎないと考えられています。つまり多くの古典のひとつに過ぎないと見られています。けれども、パウロの主張によれば、彼の書いているこの書物こそ神の言葉だということになります。

 

古代世界では、私的な手紙のほかに、書簡といわれる公的な手紙が用いられていました。私的な ことは、多くの場合、蝋の張った板に鉄筆で書きます。これはすぐに消すことができます。それと共に、羊皮紙あるいはパピルス紙という材料に書かれる公的な文書がありました。

 

【神の言葉であるパウ口の手紙】

パウ口の手紙は 私的な内容を含んでいるから単なる私信と言うのではありません。彼は使徒として、その資格で公的な權威ある書簡を書いているのです。それは神の言葉もあります。

こうして、私たちは神の言葉を読み、また聞くことができるのです。この亊実はとても重いことです6

【牧師も神の言葉を語る】

牧師は説教を主とする働きに従事しています。牧師の説教は神の言葉だといわれます。それをいて多くの人はそんな馬鹿なと思うに違いあません。牧師も一人の人間に過ぎません。その牧師がどうして神の言葉を語ることができるのか。畏れ多いことではないでしょうか。神の言葉を語れるのは、牧師もまた神から派遣されているからです。どうしてそれが分かるのか。

【パウロの驚くべき体験】

パウロの場合、使徒言行録にある劇的な経験をしました。彼はキリスト教の迫害者でしたが、ダマスコという町に行く途中、そこで驚くべき体験をします。それはイエスキリストの出現ですが、それと同時に彼が経験したことは、主イエスのために仕えるものとされたという亊実です。

 

パウロはそのときアナニヤという人物から洗礼を受けていますし(使徒9:18〕、彼が使命を伝えられたのもアナニヤによりますが、パウロはそのような一連の出来事を経験して、主が直接使徒に任命されたのだと確信をしています。

 

それがガラテヤ1章1節の言葉となっています。「人からでも、人を通して でもなく」、いかなる団体の任命によってでもなく、自分はキリストと神から使徒として任じられた と強く断言しています。

 

これはパウロの、特異ではあるが単なる宗教体験だと切り捨てることはできるかもしれません。しかしどうであれ、パウロはおそらくその体験は真実であると語るはずです。 これはパウロにとって否定しがた事実であるのです。

 

【牧師の召命感】

牧師の体驗はパウロと違います。けれども、似たような経験を踏んで牧師になっています。それは召命感と言われています。それぞれの体験は異なっている様相を示します。どうして牧師になったのかは人それぞれ千差万別です。同じ体験はありません。強烈な自覚を持っている人もおれば、そうでない人もいます

 

共通していることは、牧師として神から召しだされたという思いです。あるいは確信と言ってもよいと思ます6この召命感はその人の確信で、そんなの自己満足だと他人は言っても、妄想だと批判しても、牧師に召されたと思っている人には通じませんそれを確かめる方法を教会の組織や制度は有していますが、決定的なものではありません。人間的な能力という点では、牧師以上の知識を持ち、話術や雄弁さをはじめ多くの才能に恵まれた人はいます。牧師にそういう能力が不要と言うのではありませんし、だからこそ自己修練は常に求められるのですが、牧 師の立っているところは神から牧師に召されたという確信です。

 

パウロは自分が使徒に任命されたという信念に生きていました。だから、彼は自分の語るところは神の言葉だと確信できました。派遣した方の権威をもってその意志を忠実に語る限り、彼は神の言葉を語ったのです。

 

牧師もまた、自分は牧師として立て、召してくださった方の意志を語っていると確信するところ で神の言葉を語りうるのです。むろん、牧師の権威を振りかざして、何事でも自分のいうことを聞 け、と命じるなどは乱暴な話です。牧師にはこの誘惑を避けることができません。自分の言っていることがどうして受け入れないのか、言うこと、つまり説教を聞かないのかと思うのです。牧師が いうことは何でも神の言葉だというほど単純でほありません。パウロ自身、彼が書いたり、話した りする何でもかんでも神の言われることだと主張しているわけではありません。神の言葉であるの は根拠があるのです,

 

2 -- 3節は今回省きす。

 

【死者を復活させる神】

パウロは,自分が神に使徒とされたと言いますが、1節では、キリストを死者の中からよみがえらせた神とも語ります。彼は確かに神の使徒であり、その神から遣わされました。それだけではないのです。その神は死者を復活させる神なのです。つまり、彼は復活の力を持ち、それを行う神の 使者なのですから、彼が語る言葉はこのことを切り離すことほできません。っまり、パウロは確か に神の言葉を語るのですが、懣然と神を語るのではなく、死者を復活させる神の言葉を語るのです。

 復活の力はイエス・キリストにおいてはっきり示されていると語ることを含みます。換言すれば、 復活のない神の言葉はありえないということです。いろいろな神の言葉があるようで、実はキリス トを復活させるほどまで死を打ち倒す神でなければ、その言葉は神の言葉とは言いえないのです。

 

【罪の支配下にある世界】

さらに、4節で、そのキリストは、この悪の世から私たちを救い出そうとして、ご自身を私たちのためにささげた方と言います。悪の世とはいうまでもなく、私たちが住んでいるこの世界です。ただし、この世界は悪の世界だと言う場合、ただ悪人がのさばっている世(事実そうなのですが)、 あるいは災害などの災いが生じる生きにくい世に中を指しているのではありません。この世は私たちには去って行きたいところと思っている人がたくさんいます。この世界は天国でも極楽でもありません。ただパウロがここで言うのは、単純な悪の世ではなく、罪の支配下にある世界という意味であり、罪の結果である死の支配する世界と言うべきです。

 

【罪と死の世界を打ち破られたキリスト】

死は大きな力を有します。人間のあらゆる部分を侵食しています。キリストはこの世界から私たちを救い出そうとしているのです。

 

キリストは私たちの罪のために自らをささげられました。あるいは犠牲としてささげられたというべきです。それはキリストが十宇架にかけられたことを意味しています。キリストが十本架につけられた亊実を誰も否定しないでしょう。事実間題として、復活のほうは信じられないと語る人は多くいます。でも、同時に、キリストの十字架の「意味」を否定する人も多いのです。単なる亊実 ではなく、そこに大きな意味があります。

 

【あらゆる罪を赦すキリスト】

キリストはあらゆる罪のためにご自身をささげ、十字架の上で死なれました。キリストはあらゆる罪を赦されます。例外はありません。ときどき「聖霊を汚す罪は赦されない(ルカ12 :10)」 とあり、赦されない罪もあると主張する人がいますが、聖霊を汚す罪とは神を拒否し、キリストを 否定し、背を向ける罪で、赦されない罪があるなどいうのもこれにあたります。

 

キリストはあらゆる罪を赦すために十字架にかかられたのです。そして、それはただ恵による というのがパウロの堅い信仰でした。

 

このキリストの使徒ですから、パウロはキリストの十字架を語り続けました。そのとき、パウロ はキリストの使徒として語っています。

 

【説教の生む実】

説教もまた同じことが言えます。牧師が自分の信念や聖書研究の結果だけを語っていてそれで神 の言葉だというわけではありません。牧師を召した方の御心を語るのでなければ、説教が自動的に神に言葉に変化するのではありません。

 

会衆はただの聞き手ではありません。説教で十字架と復活が真実に語られているかどうか吟味しなければなりません。語られておれば、好き嫌いの問題ではなく神の言葉として受け入れなけれ ばなりません。会衆には、その「義務」があります。他でもない、神が語るからです。

 

この職別する営みが説教を聞く人の中で生じてくるのでなければ牧師の説教はいかなる結果も生じないと言えましょう。(おわり)

2014年01月19日 | カテゴリー: ガラテヤの信徒への手紙 , 新約聖書

「神の子となった私たち」ウイリアム・モーア2011.5.15.

聖書:ガラテヤの信徒への手紙3章26~4章7

 

【韓国旅行の思い出】

数年前に家内と私は韓国の大田市で開催する、米国長老教会の宣教団の集まりに参加しました。そして、私達は帰りに用事があってソウルで二泊しました。その間にちょっと時間があったので、ある有名なデパートに入り、地下の食品売り場をうろうろしました。その中には勿論キムチの売り場や、お肉屋さんや、果物とお野菜の店などがありましたが、特に面白いのはお茶の売り場でした。何故なら、韓国は、戦争と貧困の故に、お茶の文化が大分衰えて来ましたが、最近の経済発展と伴い、お茶もブームになり、色んな昔のお茶の種類が盛んになりました。とにかく、歩きながら韓国伝統のお茶屋さんの前に止まりました。丁度試飲の時で足も疲れていたので、招待されるままに茶屋に座りました。

家内は座る途端、そのお茶の産地などを聞いたり、入れ方などで話が進みました。お茶の産地は南の方で1920年代から祖父がいた地方でもありました。

 

【ボイヨル先生】

私はお茶を頂き、「カムサハムニダ」と一言言いました。そしてお茶屋さんの御主人は私の顔をずーと見ながら「ボイヨル先生、ボイヨル先生」と言いました。実はボイヨルという名前は祖父の韓国名でした。

 

言うまでもなく、私はびっくりしました。全く初めて会ったお茶屋さんの主人が私の顔を見ると、40年以前に亡くなった祖父を思い出しました。私はそれ程祖父に似ていなかったと思っていたのですが、祖父に多少は似ていたようです。

 

もう少し話すと、お茶屋さんはキリスト者で、教会の長老でもありました。青年の時、私の祖父が携わったミッション・スクールの生徒であって、よく覚えていて祖父に助けてもらった話もしました。帰りにはお茶とか色々なお土産までくれました。

 

2011年05月15日 | カテゴリー: ガラテヤの信徒への手紙 , 新約聖書

「律法と約束」ウイリアム・モーア2011.1.16

聖書:ガラテヤの信徒への手紙3章15−29

 

 

【交通違反】

皆さん、交通違反でチケットを頂いた事がありますか。もし、日常的に車を運転するならば、多分少なくとも一度ぐらいは、そう言ういやな経験があると思います。駐車違反や、スピード違反や、信号無視などで捕えられた人は数え切れません。実は、私さえもちょっとした交通違反でネズミ取りをしている警察官によって捕えられた事があります。私は出来るだけ最高速度を守りますが、その時だけ超えて、不幸にも捕えられました。数年前の出来事ですが、今もその2万円の罰金を考えると惜しかったと思えてくるのです。しかも、保険料がそのために上がってしまいました。ですから、今もその場所を通ると思い出します。

 

【交通ルール】

交通違反で罰せられると、誰もが悔しむ事だと思いますが、そのチケットを切られる理由があります。確かに罰金は政府に結構な収入になりますが、それよりも、交通安全の目的の為に道路の最高速度が警察によって守られています。人々は決められた速度を越える傾向があるから、皆の安全の為に最高速度が実施されています。制限速度がなかったら、ある人は混雑した道であっても、130キロで走ろうとしてしまいます。ですから、国が速度のルールを定めて、皆がそのルールの標準を守るべきです。

 

2011年01月16日 | カテゴリー: ガラテヤの信徒への手紙 , 新約聖書

「正しい教理と教会の一致」ウイリアム・モーア2010.9.19.

ガラテヤの信徒への手紙2章1−14◆使徒たち、パウロを受け入れる

  1~6:(本文参照)――この人たちが そもそもどんな人であったにせよ、それは、わたしにはどうでもよいことです。神は人を分け隔てなさいません。――実際、そのおもだった人たちは、わたしにどんな義務も負わせませんでした。7:それどころか、彼らは、ペトロには割礼を受けた人々に対する福音が任されたように、わたしには割礼を受けていない人々に対する福音が任されていることを知りました。  8:割礼を受けた人々に対する使徒としての任務のためにペトロに働きかけた方は、異邦人に対する使徒としての任務のためにわたしにも働きかけられたのです。9:また、彼らはわたしに与えられた恵みを認め、ヤコブとケファとヨハネ、つまり柱と目されるおもだった人たちは、わたしとバルナバに一致のしるしとして右手を差し出しました。それで、わたしたちは異邦人へ、彼らは割礼を受けた人々のところに行くことになったのです。10:ただ、わたしたちが貧しい人たちのことを忘れないようにとのことでしたが、これは、ちょうどわたしも心がけてきた点です。

 

【ハンターと大熊】

この間、意味深いロシアの説話を読みました。それは、あるハンターが大熊に出会い、熊に銃を向けて引金を引こうとしました。しかし、驚いた事に熊は優しい声でこう言いました。「銃を撃つよりも、対話の方が善いではありませんか。あなたは何を求めていますか。聞こうではありませんか。話し合ってこの問題を解決しましょう。」びっくりしたハンターは銃を下ろして、「あなたが持っている温かい毛皮のコートが欲しい」と答えました。「それは宜しいです。私はただ満腹したいだけですから、話し合いで私達の相違は解決出来ると思います。妥協したいです」と熊が穏やかに言いました。そして、ハンターと熊はその森に座り込み、ゆっくり問題を話し合いました。時間がどのぐらい経ったのでしょうか。やがて熊が立ち上がり独りで帰りました。妥協が成立したのです。熊は満腹になり、そして、同時にハンターは温かい毛皮を得たのです。結局、ハンターは熊の餌になってしまいました。

 

2010年09月19日 | カテゴリー: ガラテヤの信徒への手紙 , 新約聖書

「変化をもたらす福音の力」ウイリアム・モーア2010.9.12

聖書;ガラテヤの信徒への手紙1章11−24

◆パウロが使徒として選ばれた次第

 11:兄弟たち、あなたがたにはっきり言います。わたしが告げ知らせた福音は、人によるものではありません。12:わたしはこの福音を人から受けたのでも教えられたのでもなく、イエス・キリストの啓示によって知らされたのです。13:あなたがたは、わたしがかつてユダヤ教徒としてどのようにふるまっていたかを聞いています。わたしは、徹底的に神の教会を迫害し、滅ぼそうとしていました。14:また、先祖からの伝承を守るのに人一倍熱心で、同胞の間では同じ年ごろの多くの者よりもユダヤ教に徹しようとしていました。15:しかし、わたしを母の胎内にあるときから選び分け、恵みによって召し出してくださった神が、御心のままに、16:御子をわたしに示して、その福音を異邦人に告げ知らせるようにされたとき、わたしは、すぐ血肉に相談するようなことはせず、 17:また、エルサレムに上って、わたしより先に使徒として召された人たちのもとに行くこともせず、アラビアに退いて、そこから再びダマスコに戻ったのでした。18:それから三年後、ケファと知り合いになろうとしてエルサレムに上り、十五日間彼のもとに滞在しましたが、19:ほかの使徒にはだれにも会わず、ただ主の兄弟ヤコブにだけ会いました。20:わたしがこのように書いていることは、神の御前で断言しますが、うそをついているのではありません。

 21:その後、わたしはシリアおよびキリキアの地方へ行きました。22:キリストに結ばれているユダヤの諸教会の人々とは、顔見知りではありませんでした。 23:ただ彼らは、「かつて我々を迫害した者が、あの当時滅ぼそうとしていた信仰を、今は福音として告げ知らせている」と聞いて、24:わたしのことで神をほめたたえておりました。

 

【魔法の機械】

結構前のお話ですけれども、ある夫婦が60周年結婚記念日を祝う為に、地方から大都会へ上りました。都会を訪ねたのはその二人には全く始めての経験ですので、高層ビルや交通渋滞や賑やかな通りなどを見ると、あっけに取られました。彼等には一生の旅になりますので、第一級のホテルに予約しました。ご主人がホテル到着の手続きを済ませる間、奥さんはその宮殿のようなゴージャス•ロービを歩き回りました。そして、彼女は間もなくエレベーターの前に来て、戸惑いました。エレベーターの事を聞いた事も見た事も全くなかったので、どう言う機械がさっぱり分かりませんでした。ですから、彼女はエレベーターをじっと見つめて調べました。そのうちにぼろぼろの白髪の男の人がエレベーターに入るとドアが自動的に閉めました。そして、一分ならないうちにその同じドアが急に開けて、素敵な紳士が現れました。その驚くべき奇跡を目撃すると、彼女はエレベーターをうっとり眺めながら、ご主人に大声で呼びました。「お父さん、早く来て。この機械のドアに入って御覧」と思わずに叫びました。

 

2010年09月12日 | カテゴリー: ガラテヤの信徒への手紙 , 新約聖書

「変わりゆくこの世の為の変わらぬ福音」ウイリアム・モーア2010.9.5.

聖書;ガラテヤの信徒への手紙1章1−10

◆挨拶

  1:人々からでもなく、人を通してでもなく、イエス・キリストと、キリストを死者の中から復活させた父である神とによって使徒とされたパウロ、

  2:ならびに、わたしと一緒にいる兄弟一同から、ガラテヤ地方の諸教会へ。

  3:わたしたちの父である神と、主イエス・キリストの恵みと平和が、あなたがたにあるように。

  4:キリストは、わたしたちの神であり父である方の御心に従い、この悪の世からわたしたちを救い出そうとして、御自身をわたしたちの罪のために献げてくださったのです。

  5:わたしたちの神であり父である方に世々限りなく栄光がありますように、アーメン。

◆ほかの福音はない

  6:キリストの恵みへ招いてくださった方から、あなたがたがこんなにも早く離れて、ほかの福音に乗り換えようとしていることに、わたしはあきれ果てています。

  7:ほかの福音といっても、もう一つ別の福音があるわけではなく、ある人々があなたがたを惑わし、キリストの福音を覆そうとしているにすぎないのです。

  8:しかし、たとえわたしたち自身であれ、天使であれ、わたしたちがあなたがたに告げ知らせたものに反する福音を告げ知らせようとするならば、呪われるがよい。

  9:わたしたちが前にも言っておいたように、今また、わたしは繰り返して言います。あなたがたが受けたものに反する福音を告げ知らせる者がいれば、呪われるがよい。

 10:こんなことを言って、今わたしは人に取り入ろうとしているのでしょうか。それとも、神に取り入ろうとしているのでしょうか。あるいは、何とかして人の気に入ろうとあくせくしているのでしょうか。

    もし、今なお人の気に入ろうとしているなら、わたしはキリストの僕ではありません。

 

【ビリー•グラハム】

ビリー•グラハムと言う有名な伝道者は長いキャリアに亘って多くの国々で福音を述べ伝え、数え切れない程の人々にイエス・キリストの素晴らしい福音を分ち合いました。現在グラハム先生は九十数歳になり、大分進んだパーキンソン病の故に自宅からあまり出られなくなりました。実は、グラハム先生の家は私の両親の教会と数キロしか離れてない所です。ですから、今年の春のある日曜日の朝、オバマ大統領がグラハム師にお見舞いに行った際、その小さい町は大変な事になったそうです。特別護衛官が大統領防護対策として教会の駐車所の出入口を塞いで、数時間の間、誰も出入り出来なかったそうです。やはり有名人が近くに住むとそう言う事があります。

2010年09月05日 | カテゴリー: ガラテヤの信徒への手紙 , 新約聖書

「互いに重荷を担う」伊丹教会・城下忠司長老2010.5.16

  CIMG7604.JPG聖 書「ガラテアの信徒への手紙6110

 ◆信仰に基づいた助け合い

  1:兄弟たち、万一だれかが不注意にも何かの罪に陥ったなら、"霊"に導かれて生きているあなたがたは、そういう人を柔和な心で正しい道に立ち帰らせなさい。あなた自身も誘惑されないように、自分に気をつけなさい。2:互いに重荷を担いなさい。そのようにしてこそ、キリストの律法を全うすることになるのです。3:実際には何者でもないのに、自分をひとかどの者だと思う人がいるなら、その人は自分自身を欺いています。4:各自で、自分の行いを吟味してみなさい。そうすれば、自分に対してだけは誇れるとしても、他人に対しては誇ることができないでしょう。5:めいめいが、自分の重荷を担うべきです。

  6:御言葉を教えてもらう人は、教えてくれる人と持ち物をすべて分かち合いなさい。

  7:思い違いをしてはいけません。神は、人から侮られることはありません。人は、自分の蒔いたものを、また刈り取ることになるのです。8:自分の肉に蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、霊に蒔く者は、霊から永遠の命を刈り取ります。9:たゆまず善を行いましょう。飽きずに励んでいれば、時が来て、実を刈り取ることになります。10:ですから、今、時のある間に、すべての人に対して、特に信仰によって家族になった人々に対して、善を行いましょう。

 

【はじめに:神の言葉としての教会規則】

私たちの改革派教会は、学ぶ教会だと言われています。他教派のことは良くは知りませんが、教会では教理の学び、修養会など、神学校でも、西部中会でも色々の場が用意されています。

 

教会を建てあげていくのは、信者一人一人の信仰、愛の実践が大切で勉強はその次だと思われる方があるかも知れません。私たちの教会が系統だった学びを続けているのは、教会は一時の慰めを与えてくれるだけの場所ではなく、神さまの前に礼拝を捧げ、自分が満足して帰るだけというような場所とも違うのだ、ということをよく理解しているからです。

 

天地創造以来、神さまは私たち人間に特別な関わりをもち、特別な愛をあらわし、歴史の中で様々な出来事を通して、多くのものを与え続けてこられました。この神さまの側から私たちに与えられたよき音信、聖書という書物をとおして、私たちに論理的にきちんと理解し、納得させ信じさせてくれるものが神学です。私たちの改革派教会の神学というものは、宗教改革以来何百年もかけて作り上げられてきた信仰の基準といわれているものであります。ウエストミンスター信仰告白、大小の教理問答や、信徒の手引き、そして政治基準、訓練規定などです。

 

2010年05月16日 | カテゴリー: ガラテヤの信徒への手紙 , 新約聖書

妥協のない伝道のために 川瀬弓弦

川瀬弓弦

ガラテヤ1章6~10節

◆ほかの福音はない 6:キリストの恵みへ招いてくださった方から、あなたがたがこんなに も早く離れて、ほかの福音に乗り換えようとしていることに、わたしはあきれ果てています。7:ほかの福音といっても、もう一つ別の福音があるわけではなく、ある人々があなたがたを惑わし、キリストの福音を覆そうとしているにすぎないのです。8:しかし、たとえわたしたち自身であれ、天使であれ、わたしたちがあなたがたに告げ知らせたものに反する福音を告げ知らせようとするならば、呪われるがよい。9:わたしたちが前にも言っておいたように、今また、わたしは繰り返して言います。あなたがたが受けたものに反する福音を告げ知らせる者がいれば、呪われるがよい。10:こんなことを言って、今わたしは人に取り入ろうとしているのでしょうか。それとも、神に取り入ろうとしているのでしょうか。あるいは、何とかして人の気に入ろうとあくせくしているのでしょうか。もし、今なお人の気に入ろうとしているなら、わたしはキリストの僕ではありません。

【人の目を気にする自分】

私は人がどう自分を見ているのか、どんな評価をされているのか、ということが常に気になります。今この場に立ちながら、すでに人の目が気になります。これは私の弱さです。人の目が気になるということは、私の言葉や行動が自分の思いに反して左右されやすいということです。妥協をしやすいということです。

2009年05月03日 | カテゴリー: ガラテヤの信徒への手紙 , 新約聖書

奴隷ではなく、子です ウイリアム・モーア宣教師

ガラテヤの信徒への手紙4章

1:つまり、こういうことです。相続人は、未成年である間は、全財産の所有者であっても僕と何ら変わるところがなく、2:父親が定めた期日までは後見人や管理人の監督の下にいます。3:同様にわたしたちも、未成年であったときは、世を支配する諸霊に奴隷として仕えていました。

4:しかし、時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました。 5:それは、律法の支配下にある者を贖い出して、わたしたちを神の子となさるためでした。6:あなたがたが子であることは、神が、「アッバ、父よ」と叫ぶ御子の霊を、わたしたちの心に送ってくださった事実から分かります。7:ですから、あなたはもはや奴隷ではなく、子です。子であれば、神によって立てられた相続人でもあるのです。


【養子縁組】
最近、アメリカで「Adoption」、すなわち「養子縁組」と呼ばれるテレビ番組は結構受けているそうです。その番組は事実に基づいたもので、毎週の日曜日の夜、養子に行く子供とその子を受け入れる家族のストーリです。番組は記録映画のように毎週新しい家族を紹介して、そしてその家族の養子縁組の経験を見せます。家のない幼い子供と子を欲しかっている家族が一つになり、お互いの愛が段々増えて行くのを見ると、とても心温まる嬉しい事です。番組はアメリカ国内の養子縁組と外国から養子にする家族のストーリも紹介しています。特に国籍と言葉と文化と人種を超える養子縁組のドキュメンタリーを見ると、驚くべき愛の力を感じさせられます。

2008年12月28日 | カテゴリー: ガラテヤの信徒への手紙 , 新約聖書

生きた水の流れ 河内常男伊丹教会長老

聖書 ヨハネ7:37より38 

◆生きた水の流れ

 37:祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。38:わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」

 39:イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている"霊"について言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、"霊"がまだ降っていなかったからである。

【私の信仰の歩み】
私は、33歳のときに伊丹教会へ復帰しました。復帰したというより、放蕩息子がやっとの思いで、たどり着いたという感じです。神様の哀れみです。

私の洗礼は18歳の高校生のときでした。津山の日本キリスト教団 津山城西教会という小さい教会でした。私には5つ上の姉がおり連れられて日曜学校へ行くようになったのです。

牧師先生からあなたも、洗礼を受けなさいというそのひと言で受洗しました。今思えば先生が良く薦めて下さったと感謝しています。

 

【社会人として】
でも私には信仰の本当の深い意味が判っていませんでした。高校を出て伊丹で就職し、大阪で5年、その後又伊丹のもといた工場へ戻り、15年間は教会から離れていました。

私は、大学の受験に失敗してから、これを良いことにすぐ就職しました。仕事の内容はあまり問題ではなく、津山を出て行くことが、目的のようなものでした。自分にとって津山での10年は良い思いありませんでした。

2008年03月30日 | カテゴリー: ガラテヤの信徒への手紙 , ヨハネによる福音書 , ヨハネの黙示録 , 新約聖書

愛する神と悪の諸問題 ウイリアム・モーア宣教師

ローマの信徒への手紙8章28節
 
【偶然の悲しい出来事】
この間、ロスアンジェルス•タイムズと言う新聞でこの悲しい記事を読みました。記事の題は、「生まれたての赤ちゃんが流れ弾で殺された」とありました。「ベビーカーに寝っていた23日の新生児がロスアンジェルスのマッカーサー公園で流れ弾に撃たれました。日曜日の午後9時30頃、母親が赤ちゃんを公園へ連れたときに撃ち合いに巻き込まれました。三人のラテン・アメリカ系男性と屋台の主人との間で射撃事件が起きて、一人の男も銃で打たれました。彼は病院へ運ばれ、安定した状態で治療を受けています。しかし、赤ちゃんルイス•ガシアが午後10時過ぎに病院で死を宣告されました。当局は事件を調べていますが、犯人達とその動機はまだ不明だそうです。
          
公園の周辺には小さい売店と屋台が沢山あり、その殆ど全部はラテン系の人の経営です。事件の近くの店の店長が事件についてこのように語りました。「多くの家族が買い物と公園に、ここに集まって来るのに、 残念ながら、ここは危険な所です。 近辺は暴力で悪名になってしまいました。」
 
皆さん、このような悲惨な出来事を聞くと、その赤ちゃんの家族の悲しみと怒りを容易に想像出来ると思います。もし、自分の家族にそのような酷い乱暴があったら、もちろん悔しくてたまりません。産まれたばかり無邪気な赤ちゃんがそのように無意味に殺されたのは悲劇の中の悲劇になります。その事件はこの世にあるもっとも酷い悪の縮図であると思います。

2007年09月23日 | カテゴリー: イザヤ書 , ガラテヤの信徒への手紙 , ヤコブの手紙 , ルカによる福音書 , ローマの信徒への手紙 , 新約聖書 , 旧約聖書 , 民数記 , 詩篇

誘惑にNOと言えるあなた ウイリアム・モーア宣教師

聖書:コリントの信徒への手紙一10章13節
 
【厚かましいラクダ】
ある寒い夜、アラブ人が自分のテントに入り、寝ようとしました。彼が丁度眠りに入った時、自分のラクダが頭をテントに差し込んで、「外はあんまり寒いから足だけをテントに入れても良いですか」と願いました。ラクダが可哀そうと思ったアラブ人は少し考えてから、その願いを聞き届けました。そして、彼はもう一度毛布に包まって眠りに入りました。ラクダはたちまちにまた主人を起して、「あんまり寒いから寝られません。頭もテントに入れさせて下さい」と乞い求めました。アラブ人は臭いラクダの頭と近くに寝たくなかったのに、半分眠っていたからその願いも聞き入れて、ラクダは頭をテントの中に入れたのです。そして、しばらくしてから、ラクダはもう一度主人の目を覚めさせて、「お尻が凍ってしまうので、お尻もテントに入れたいですが、よろしいですか」と尋ねました。主人はラクダの大きなノミに食われたお尻をテントの中に許すのに抵抗を感じました。しかし、仕方がないと思って、自分のラクダの願いを叶えて上げました。
 
アラブ人は何とかもう一度眠り込みましたが、テントは段々狭くなった為、目が覚め起きてしまいました。そして、ラクダの足と頭とお尻だけではなく、ラクダ全体がテントにいました。アラブ人はびっくりして、「このテントはあなたと私、両方泊る余地がありません」とラクダに言ったところ、ラクダは、「余地がないと言えば、御主人の方が出たらどうでしょうか」と厚かましく返事しました。

2007年09月16日 | カテゴリー: ガラテヤの信徒への手紙 , コリントの信徒への手紙一 , マルコによる福音書 , 新約聖書

霊の結ぶ実:節制 ウイリアム・モーア宣教師

コリントの信徒への手紙一9:19−27
ガラテヤの信徒への手紙5:22−23
 
【妻の犠牲と半額割引飛行】
アメリカの1920年頃、飛行機はまだ珍しい時代、あるパイロットは自分の風防のない小型飛行機で国中を巡回しながら、儲ける為に他の人を乗せていました。ある日、牧師とその奥さんが飛行場に来て、ひと乗りしてくれるように願いました。しかし、お金があんまりないから、聖職者割引にしてくれるように頼みました。すると、パイロットは、「聖職割引はないけれども、もし飛行機に乗ってる間に、お二人が黙って、口を何も聞かなかったら、半額で乗せて上げます。しかし、口を出せば、二倍ちょうだいたします」と提案しました。その二人はどうしても飛行機に乗りたかったので、すぐにその条件をのみました。それはあぶく銭と思ったパイロットは牧師と奥さんを飛行機に乗せ、早速離陸しました。そして、彼は色んな激しい曲芸飛行を実行し始めしました。ローラーコースターのように急速で空を上がってから、急降下しました。それから、飛行機を上下転倒して低く飛んで、橋の下を通りました。その激しい曲芸飛行をしたのに牧師とその奥さんは何も言わすに沈黙を守りました。パイロットは諦めて着陸に入ろうとする時、彼は言い出しました。「この飛行は私さえもぎょっとさせたのに、先生は何も言いませんでした。お二人の自制は大変驚くべきものです。」牧師はその事を聞いてこのように返事しました。「実は、飛行の中のある時点、私はもう少しで我慢出来なくて叫ぶところでした。」「それはどんな時でしたか」とパイロットに聞かれると、牧師は返事しました。「飛行機が引っくり返えて家内が陸まで落ちてしまった時は、さすがちょっとびっくりしましたよ。」
 
【聖霊の結ぶ実:節制】
今日は最後の聖霊の結ぶ実にやっと参りました。今まで、愛と喜びと平和と寛容と親切と善意と誠実と柔和を学んで来ました。そして、最後に節制と言う徳目が与えられています。もう一度強調したいのですが、この「実」は賜物です。キリスト者なら、聖霊なる神は私達に宿り、その実を現す可能性を十分与えて下さいます。しかし、私達の内にいらっしゃる聖霊の働きを許さなければなりません。つまり、それぞれの徳目を毎日の生活に実行する意志が必要です。

2007年07月29日 | カテゴリー: ガラテヤの信徒への手紙 , コリントの信徒への手紙二 , ローマの信徒への手紙 , 新約聖書

霊の結ぶ実:柔和 ウイリアム・モーア宣教師

マタイによる福音書11章28−30節
ガラテヤの信徒への手紙5章22−23節
 
【柔和なロッキー】
三週間前から家内と娘セーラと私は家の家族にロッキーと言う新しい一員を引き受けて世話をするようになりました。その新しい一員はまだ7歳なのに、とても毛深いです。更に、ロッキー君は50キロで、結構重いのですが、背はまだ70センチしかなっていません。また、鼻が大きいし、耳もでっかいです。今朝、教会に連れて来て、皆に紹介したかったのですが、その子は臭うから、多分歓迎されないと思いました。実は、ロッキー君は人間ではありません。その子は四つ足で歩くゴールデンレトリーヴァーと言う犬です。近所の家内の英国人の友達は夏休みの帰国為、ロッキーを家に預けました。
 
ロッキー君は何よりも散歩が大好きです。ですから、降っても照っても、必ず朝と晩、近所を散歩しなければなりません。そして、歩きながらロッキーは常に道にあるものを嗅ぎ出します。また、餌を捜します。ロッキーは道にある物、何でもかんでも食べてしまうので、散歩をさせる私達は危ない物を食わないように、気をつけなければなりません。
 
ロッキー君はとても大人しい犬で、吠える事は滅多にないです。不思議だと思いますが、散歩の時、他の犬に巡り合っても、ロッキーはあんまり反応しません。ある日、そう言うロッキーを連れて歩いているとある小さい犬はロッキーを見る瞬間、震えて動けませんでした。また、ロッキーは、吠えられても、お返しに吠えません。他の犬が一生懸命に吠えながらロッキーの方へ走っても、ロッキーは、その犬をただちらっと見て、平然とゆっくり散歩を続きます。脅かされても、ロッキーは相手を脅かしません。他の犬より大きく力強いので、ロッキーはどんな相手であっても勝つ事が出来るはずですが、戦う興味が全くないようです。それは訓練の為か、生まれつきの性格の為なのかが分かりませんけれども、ロッキーは素晴らしい徳目を示します。ロッキーはきっと私達人間に教える事があると思います。

2007年07月22日 | カテゴリー: ガラテヤの信徒への手紙 , マタイによる福音書 , 新約聖書 , 民数記

霊の結ぶ実:誠実 ウイリアム・モーア宣教師

詩編33
ガラテヤの信徒への手紙5:22−23
 
 
【アマンドと父の約束】
1988年に旧ソ連の共和国アルメニアでサミュエルとダニエルと言う両親は自分の幼い息子アマンドを小学校へ送り出しました。いつものように、お父さんサミュエルは息子を見て言いました。「学校でよく勉強してね。そして、万が一、あなたに何かが起きたら、どんな事があってもパパはあなたをすぐ助けに来る事を忘れないで。」そして、サミュエルは息子を強く抱きしめてから学校へ行かせました。
 
数時間後、力強い地震がその地域を揺らしました。大混乱の中でサミュエルとダニエルは息子の事を尋ねようとしましたが、情報は何もなかったのです。ただ、ラジオのニュースは、「何千人の犠牲者が出た」と伝えるだけです。その事を聞くと、サミュエルは忽ち学校へ走り出しましたが、現場へ着くと悪夢のような光景でした。アマンドの小学校は瓦礫の山と化してしまいました。そして、多くの生徒の家族は泣き悲しんでその酷い場を見詰めていました。
 
しかし、サミュエルはアマンドの教室があった所を捜し、自分の素手で瓦礫を取り始めました。コンクリートの塊と壊れた木の柱と割れた瓦も必死に取り除きました。
 
ある父親は、「何をやってますか」と彼に聞きました。そして、「息子を掘り出している」と返事をすると、「止めなさい、瓦礫は不安定なので、もっと悪くする」と言いました。しかし、サミュエルは続けて瓦礫を取り除こうとしました。彼を見ている他の両親たちは一人ずつ帰りましたが、サミュエルはその作業を止めませんでした。やっと、消防士が来た時、サミュエルは、「助けて下さい、私の息子がこの中にいるんです」と願いましたが、消防士も彼を止めさせようとして、やがて帰りました。
 
サミュエルは休まず一人でその晩ずっと努めました。そして、朝になると生徒の家族は現場に来て子供の写真とお花を瓦礫の前に置いて帰りました。しかしながら、サミュエルは瓦礫を掘るのを止めませんでした。大きな柱を動かそうとした瞬間、「助けて、助けて」と言う子供の小さい叫び声を聞きました。そして、少し後で、「パパ?、パパ?」と言う聞き慣れた声も耳に入りました。そのアマンドの声を聞くとサミュエルは鬼のように瓦礫を掘りました。やっと、 瓦礫の中の空洞に息子の姿を見ました。ほっとひと息つくと、「速く上って来い」とサミュエルは叫びました。しかし、アマンドは、「パパはきっと私を救うから、友達を先に出させて、お願い」と言ったのです。それから、生徒達一人一人はサミェルが掘った穴から出て来ました。最後に小さいアマンドがお父さんの腕に入ってこう言いました。「友達にパパがどんな事があっても僕を助けに来ると言っていたので、みな心配しなかった。」一人のお父さんが誠実であったので、その日14人の命が助けられました。

2007年07月08日 | カテゴリー: ガラテヤの信徒への手紙 , フィリピの信徒への手紙 , 新約聖書 , 旧約聖書 , 詩篇

霊の結ぶ実:善意 ウイリアム・モーア宣教師

マルコによる福音書10:17−22
ガラテヤの信徒への手紙5:22−23
 
【あなたは善人ですか】
皆さん、少し想像してみて下さい。もし電車を乗っている時、誰かがあなたの側に座り、突然、「あなたは善い人ですか」と尋ねられると、どう答えられますか。赤の他人にそのように聞かれると、多分びっくりするでしょう。又、恐らく、その人は正気かと疑うかも知れません。誰がそのような個人的な質問を知らない人に聞くでしょうか。しかし、もしその質問、「あなたは善い人ですか」に答えようとしたら、どう答えられますか。実は、人間誰でも自分が善い人だと思いたいのです。「私は善くない人、悪い人」と言う者はめったにありません。
 
アメリカの教会を牧会した間、私は長年刑務所の訪問を毎月しました。教会の会員の息子が殺人で投獄され、私は彼に会いに行きました。行く度に彼は自分の無罪を主張して、不正な判決を嘆きました。彼が犯した罪の証拠が沢山あったのに、最後まで「他人がやった」と言い張りました。結局、そのような犯罪を認めれば、自分が善い人ではない事を認める事になりますので、なかなか自白出来なかったと思います。
 
私達人間は「自分が善いのだ」と思いたいのです。また、回りの人々に善い人として思われたいでしょう。それは自己像の大事な一部ですから、「あなたは善い人ですか」と聞かれると、それに対して答えるとしたら、殆ど誰でも、「私は善い人だと思う」と答える事でしょう。
 
【聖霊の結ぶ実「善意」】
今日、聖霊なる神の結ぶ実の学びを再び始めたいと思います。今まで愛と喜びと平和と寛容と親切を学んで来ました。覚えていると思いますが、聖霊の結ぶ実は神の賜物です。つまり、キリスト者なら、神の霊は私達に宿って下さり、霊の結ぶ実、愛と喜びと平和など、そのものは自分のものになりました。しかし、その徳目を現す為、私達の内に聖霊の働きを許さなければなりません。それぞれの徳目を実行する意志が必要です。すなわち、神の助けでその賜物を生かす訳です。今朝は「善意」と言う徳目について一緒に考えたいです。神はキリスト者にその実をもう既に授けたのです。ですから、私達はその聖霊の結ぶ実「善意」を豊かに現すべきです。
 
エフェソの信徒への手紙2章10節にこの大事な聖句が記されています。

「私達は神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備して下さった善い業の為に、キリスト•イエスにおいて造られたからです。私達は、その善い業を行って歩むのです。」


書かれた通りに、私達は善い業、つまり善意の業を行う為に神によって特別に造られました。迷わず言える事ですが、それは主から与えられた私達の目的と使命です。その事を通して造り主と救い主なる愛する神の栄光を現します。ですから、私達はこの徳目「善意」を特に注目すべきです。

2007年07月01日 | カテゴリー: エフェソの信徒への手紙 , ガラテヤの信徒への手紙 , マルコによる福音書 , ローマの信徒への手紙 , 新約聖書 , 旧約聖書 , 歴代誌上

霊の結ぶ実:喜び ウイリアム・モーア宣教師

ヨハネによる福音書15章1−12

◆イエスはまことのぶどうの木

  1:「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。2:わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。3:わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。4:わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながってい    る。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。5:わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。6:わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。7:あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。8:あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。  9:父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。10:わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることに    なる。11:これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。12:わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。


 

ガラテヤの信徒への手紙5章22−23

「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です」



【イエス・キリストに似るために】
今日、先々週から始まった「霊の結ぶ実」の学びを続けたいと思います。キリスト者になると、神の霊は私達に宿って下さいます。そして、霊の導きに従って歩むと言うのは、すなわち私達の内に霊の働きを許す事です。そして、私達キリスト者は「霊の結ぶ実」を現します。そのものは先程読まして頂いたガラテヤの信徒への手紙5章22−23に記されています。「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です」と書いてあります。毎日の生活にその実を現すと、私達はイエス・キリストに似て行って、キリスト者として相応しく生きられます。この霊の結ぶ実の学びを通して私達の内にいらっしゃる聖霊の全ての働きを許し、その霊の実をよりもっと豊かに結ぶ事が出来ます。

2007年05月20日 | カテゴリー: ガラテヤの信徒への手紙 , ヨハネによる福音書 , ローマの信徒への手紙 , 新約聖書

霊の結ぶ実:愛 ウイリアム・モーア宣教師

聖書:ガラテヤの信徒への手紙5章16−25

【霊の実と肉の業】  16:わたしが言いたいのは、こういうことです。霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。  17:肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反するからです。肉と霊とが対立し合っているので、あなたがたは、自分のしたいと思うことができないのです。  18:しかし、霊に導かれているなら、あなたがたは、律法の下にはいません。  19:肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、20:偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、21:ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。以前言っておいたように、ここでも前もって言いますが、このようなことを行う者は、神の国を受け継ぐことはできません。  22:これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、23:柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。  24:キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。25:わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう。26:うぬぼれて、互いに挑み合ったり、ねたみ合ったりするのはやめましょう。

 
【キリスト者とは?】
皆さん、「キリスト者であると言うのは、どんな事ですか」と聞かれると、どう答えられますか。その事について考えた事がありますか。多分色んな正しい答え方があるのですが、やはり一番大事なのは、キリスト者はイエス・キリストを唯一の救い主として信じ、頼ります。そして、更にキリスト者は毎日の生活にイエス・キリストに従って生きようとする者なのです。つまり、私達は主イエスを模範として生きたい。又、主イエスに似て行く熱望を持っています。

2007年05月06日 | カテゴリー: エフェソの信徒への手紙 , ガラテヤの信徒への手紙 , コリントの信徒への手紙一 , コロサイの信徒への手紙 , ヨハネによる福音書 , ヨハネの手紙一 , ルカによる福音書 , 新約聖書

「さらに愛し合う教会」 グラハム・スミスKGK主事/CMS宣教師

詩編133篇1--3

1:【都に上る歌。ダビデの詩。】見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び。

2:かぐわしい油が頭に注がれ、ひげに滴り/衣の襟に垂れるアロンのひげに滴り

3:ヘルモンにおく露のように/シオンの山々に滴り落ちる。シオンで、主は布告された/祝福と、とこしえの命を。

テサロニケの信徒への手紙一4章9--10

【1.愛がないと。】

(スキット:持ち物をめぐる争い)

先のふたりの間の会話と行動を見てどう感じましたか。びっくりしたでしょう。恥ずかしかったでしょう。気持ちがわるかったでしょう。

これはスキットに過ぎませんでしたが、残念ながら、日常生活ではこのようなことが繰り返して起こっています。家庭とか会社とか学校の中で似ている問題が起こっています。我が家では下の二人の子供の間では、本当につまらないことで争いがしばしば起こっています。「兄弟喧嘩」と呼ばれていますね。大人は子供よりコントロールができますから目立つ程の喧嘩にならない場合が多いですが、心のレベルでの戦いは態度や言葉使いなどによって起こります。

先のスキットのように、心の感情が外に出ると大変な経験になります。喧嘩の姿がばれるといやな気持ちがしますね。

教会のなかでも愛がないと本当に辛いです。メンバーに傷つけられたり、外への証のつまずきになります。そうならないようにパウロの言葉に聞きましょう。パウロは兄弟愛について語っています。

2006年10月01日 | カテゴリー: エフェソの信徒への手紙 , ガラテヤの信徒への手紙 , コリントの信徒への手紙一 , テサロニケの信徒への手紙一 , テトスへの手紙 , マルコによる福音書 , ヨハネによる福音書 , ヨハネの手紙一 , ルカによる福音書 , ローマの信徒への手紙 , 新約聖書 , 旧約聖書 , 詩篇