2014年6月29日説 教 「自由と束縛]金田幸男牧師

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説教「自由と束縛 」金田幸男牧師

聖書:ガラテヤの信徒への手紙4章21―27

21 わたしに答えてください。律法の下にいたいと思っている人たち、あなたがたは、律法の言うことに耳を貸さないのですか。

22 アブラハムには二人の息子があり、一人は女奴隷から生まれ、もう一人は自由な身の女から生まれたと聖書に書いてあります。

23 ところで、女奴隷の子は肉によって生まれたのに対し、自由な女から生まれた子は約束によって生まれたのでした。

24 これには、別の意味が隠されています。すなわち、この二人の女とは二つの契約を表しています。子を奴隷の身分に産む方は、シナイ山に由来する契約を表していて、これがハガルです。

25 このハガルは、アラビアではシナイ山のことで、今のエルサレムに当たります。なぜなら、今のエルサレムは、その子供たちと共に奴隷となっているからです。

26 他方、天のエルサレムは、いわば自由な身の女であって、これはわたしたちの母です。

27 なぜなら、次のように書いてあるからです。「喜べ、子を産まない不妊の女よ、/喜びの声をあげて叫べ、/産みの苦しみを知らない女よ。一人取り残された女が夫ある女よりも、/多くの子を産むから。」

 

要旨 

【初期のがラテやの信徒の信仰】

ガラテヤの信徒への手紙4章8-20でパウロはガリラヤ伝道をしたころのガラテヤ人のパウロに対する態度を思い起こさせていました。パウロが心身ともに弱くなっているときに福音を宣教しました。そういうパウロの状態にもかかわらず、ガラテヤの人々はパウロを好意的に受け入れました。まるで天使でもあるかのように、キリスト・イエスでもあるかのようにパウロを受け入れました。

 

【ユダヤ主義者キリスト教師の悪影響】

ところが今は両者は敵対関係になってしまいました。その理由はユダヤ主義キリスト教の教師たちの教えをガラテヤ人が受け入れてしまったからです。ユダヤ主義者たちはユダヤの宗教的な暦を遵守すること(4:10)、割礼を受けること(5:2)、その他のユダヤ人が守っている律法を異邦人キリスト者も守らなければ救われないと教えていました。

 

彼らはおそらく汚れの規定には神経質であったのではないかと思います。特別な病気になったり、死体に触れたり、あるいは汚れた動物の肉を食する外国人との付き合いで汚れるという考えです。このようなユダヤ人が厳格に守ろうとしている規則を異邦人キリスト者にも要求するという立場がユダヤ主義者で、彼らは信仰だけではなく、律法の行ないも救いに必要だと語っていたのです。

 

パウロはこのような律法を守らなければ救われないというユダヤ主義者の教えを採用した人々に問いかけます。律法のもとにいたいと思っている人たち、律法の行いで救われたいと思っているガラテヤの信徒に呼びかけます。あなた方は律法の言っていることに耳を貸さないのか。この場合の律法は、モーセの律法、旧約聖書のはじめに記されるいわゆるモーセの5書のことで、ここでは特に創世記を意味しています。

 

【アブラハムの2人の妻とその子ども】

そこにはアブラハムの子たちとその母親のことが記されます。アブラハムには2人の子どもがいました。ひとりはイシュマエルという名前で、母はハガルといいました。もうひとりはイサクです。イシュマエル誕生の次第は創世記16章に記されています。

 

アブラハムにその子孫が増え広がるという約束が語られていましたが、一向に実現しません。そこでサラは自分の奴隷であったハガルを夫に与えます。こうして生まれてきたのがイシュマエルでした。パウロはこのイシュマエルの誕生を「肉によって生まれた」と語ります。肉的な思いによって、という意味で、何とかして、子どもを獲得し、そのことで子孫増加という神の言葉を強制的に実現しようとするものでした。

 

これに対してイサクはアブラハム100歳、サラ90歳のときに生まれました(創世記21章)。高齢で子どもを産める年齢ではありません、しかし、サラはイサクを産みます。それは全く神の約束によるものでした。

 

確かにここには処女降誕のような奇跡が記されていません。アブラハムとサラは夫婦であり、2人の間からイサクは生まれました。天変地異、あるいは思いも及ばないような奇跡がここに起きたのではありません。しかし、やはり、奇跡と言わなければなりません。

 

【100歳の夫と90歳の妻が子を】

100歳の夫と90歳の妻から子どもが生まれてくるなどというようなことが普通起きません。しかし、それは神の約束により、神の介在によって実現しました。これは神の約束の実現でした。神の約束は神の言葉です。このみ言葉が成就したのです。それを信じることによって神は介入し、介在してくださいます。

 

【奴隷の女ハガイの場合】

ガラテヤ人は肉の思いで、神から祝福を引き出そうとするハガイの立場と同じです。何とかして人間的に神を思うように動かそうとしています。しかし、そこからは神の恩恵を期待することはできないのです。

 

【正妻サラの場合】

他方、アブラハムはただ神を信頼します。その信頼に応えて神は行動されます。神の言葉とおりに神は実行されます。律法の働きによって神は行動されることはなく、ただ神を信じ、神の信頼するところから神は行動されます。神は祈れと命じられます。主の御名によって祈ることは何でもかなえてあげようと約束されました。私たちはこの神の約束を信じるのです。そして、信じるものに約束を実現されます。祈るしかないのですが、祈ることは神の約束を基礎としています。

 神の約束を放棄して、律法の行ないに頼ることほど愚かしいことはありません。

 

【イサクとイシュマエルの誕生をめぐる深い意味】

 ところで、パウロはこの創世記のイサクとイシュマエルの誕生をめぐる記事には別の意味が隠されている(24)と言います。

 

これは当時の聖書解釈の方法です。表面上の言葉や意味に現れてきていない、あるいは関係のない意味を想像をたくましくして引き出す解釈の仕方がありました。寓話という文学形式があります。この巧者はイソップです。いくつもの寓話を残しています。それはただ面白い話というのではなく、表面には出てきていない隠された意味があります。例えばウサギとカメの喩え話ですが、競争して、はじめウサギが大きくリードします。ところがゴール寸前で、ウサギはカメがなかなか姿を現さないので、居眠りをし始めます。カメはその間、のろのろと、しかし休まず歩き続けたのでウサギに勝ちます。この話で、勤勉の徳が説かれます。ウサギとカメには勤勉とか忍耐とかの徳目が意味されているわけではありませんが、連想して、あるいは想像して、ときにはこじつけと思われるような仕方で、つまり、別の意味を引き出す解釈法で当時流行していました。

 

ハガルとサラはふたつの契約を意味する。ハガルとサラは直接契約と関係ありません。しかし、ハガルが奴隷であり、サラが自由人であるというところから連想して、旧約における有名な二つの契約を象徴するもの、そこから連想されるものとして取り上げられています。

 

【シナイ契約】

ひとつの契約はシナイにおける契約です。シナイ山でモーセは神から律法を与えられます。イスラエルはその律法を守らなければならないとされます。律法授与から始まってイスラエルは民族として国家として形作られていきます。そのための規範が律法でした。律法を完全に守って神から栄光を受けようとします。しかし、現実は律法違反の積み重ねでした。そのために、バビロンによるイスラエル滅亡を言う歴史的事件を招来しました。律法違反に対して神に赦しを求めるべきでした。

 

本来、律法はこのような目的に用いられるべきでありましたが、イスラエルは律法を神の民になるための必須の条件としてしまいました。律法を完全に守ることができる。だから守らなければならないとされたのです。律法はそのときからイスラエルを縛り付けるものとなり、律法の行いによって救いを勝ち取ろうとするのは律法の奴隷となることなのです。

 

シナイ山での律法授与はシナイ契約と呼ばれますが、イスラエルにとっては律法の遵守と結びつく契約とされてしまいました。本来はそうではありません。イスラエル国家の基本的な法規、そして、その違反に対しては神からの赦しを求めるべき契約でありました。だから、結局、当時のエルサレムの住民が律法を守ろうとしている態度と同じです。彼らは神殿で律法の通り儀式を守ったりしています。それによって神の恩寵を獲得できると思っていたのです。ユダヤ主義者と同じです。  

 

パウロはハガル、シナイ山、エルサレムをこうして繋ぐようにしたのです。奴隷女であったハガルが現している別の意味は律法遵守を強制する契約理解です。

 

【サラによるアブラハム契約】

他方、イサクを生んだサラが示していたのは、もうひとつの契約です。アブラハムとの契約を指していることは言うまでもありません。ただ信じることによって神の義を確保できる契約です。ハガルが示しているのは、地上のエルサレム、つまり律法を何とかして厳守し、神の恩寵を引き出そうとする立場です。

 

サラはアブラハム契約を示し、ハガルは律法の遵守を求めるシナイの契約を意味するといいます。この聖書解釈は文字そのものや文法的解釈でありません。ある飛躍がなければ解釈できません。その意味でこの解釈は面白いのです。しかし、聖書の語句、語彙、あるいは文脈との照合などの解釈と違い、とんでもない推測まで突き進んでしまいます。恣意的な解釈は警戒しなければなりません。パウロはとても自制的に解釈をしています。特に文字や数字の恣意的な解釈は警戒しなければなりません。

 

サラは自由の女、つまり、奴隷ではありません。律法の奴隷ではありません。律法を遵守して神からの救いを獲得しようとするものは奴隷の系譜に属します。ただ神を信じて救われたいと願うものの自由な判断からそうするのです。

 

【不妊の女:イザヤ預言】

 パウロはこのようにサラを、約束に従って生きていくものとして捉えています。先の創世記16章に記されるように、彼女こそイシュマエルの誕生に大きな役割を占めたのですが、そのことは触れられていません。サラは神に約束を保証され、それを信じて生きたとされます。このように神の約束に生きていく女性はサラだけではありません。

 

イザヤがそのことを預言しているとして、パウロは預言の1節を取り上げます。不妊の女。古代世界では蔑まれるべき存在でした。また、彼女は結婚もできなかったのです。そのような境遇の女性が幸福であるはずがありませんでした。ところが事態は一変します。エルサレムはバビロンに滅ぼされます。栄華を極めたダビデとソロモンの建設した町です。ところが徹底的な破壊を蒙ります。律法を誇りとし、律法を守れる自らを評価した民の都は滅亡します。しかし、神はある少数の者たちを残されたものとされます。その中の一人が不妊の女性、以前は未婚で過ごした女性がいました。

 

彼女はバビロン滅亡後、ひとり残されますが、彼女から多くの子どもが生まれてくる。それまで蔑まれ、ひどい扱いを受けていたこの女性が最高の祝福を受けることになります。それはただ神の御心によって実現することです。残された民から神はまことの神の民を起こされます。それは神の約束に依拠します。私たちが求められていることはただ約束を信じて生きていくことだけなのです。(おわり)

2014年06月29日 | カテゴリー: ガラテヤの信徒への手紙 , 新約聖書

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