2006年4月

自尊心はどこから来ますか ウイリアム・モーア

聖書:エレミヤ書1章4-10

【確かな希望】
先週の説教に私達は希望の重要性を一緒に学びました。確かな生き生きとした希望があれば、私達はどんな事があっても絶望せず、積極的に、力強く生きられます。さらにその希望が全能の唯一の神の約束と愛に基づいているのであれば、私達はその希望に徹底的に委ねる事が出来るのです。神の御子イエス・キリストが提供して下さる永遠の救いを受け入れると、私達の生涯は大きな意味と素晴しい目的地を得て、神の賜物、真の希望を豊に経験します。常に変わりつつある周りの環境から来る希望と違って、神が授けて下さる希望は誰も、何も、私達から取り上げられません。豊に生きる為には、神からの大きな、また、確かな希望が絶対に必要であります。

【神に喜ばれる適切な自尊心】
今日は、また人間には絶対に必要なものについて考えたいと思います。それは自尊心です。つまり、それは自分の尊厳と価値を正しく意識する事です。適切な自尊心があると、私達は自信を得て、生涯に起こる事を積極的に扱う事が出来、勝利と成功を経験します。また、自分を正しく評価する事によって、人間関係がより豊になります。なぜなら、自分自身を適切に愛すると、周りの者も愛し尊敬出来ます。

【自尊心の欠如】
その反面、自尊心が足りなかったら、自信を失う事があり、惨じめになります。そして、生涯に襲って来るチャレンジに積極的に扱う事が出来ず、失敗が大きくなります。さらに、自尊心が少ない場合、人間関係が上手く行く事が難しくなります。やはり、自分自身をあんまり愛さないと、相手の愛を信じ、受ける事が困難であります。最近、引きこもりの問題が深刻になりました。原因は色々あると思いますが、恐らく自尊心を段々と失った結果であると思います。

【過度の自尊心】
自尊心が足りない場合があれば、自尊心があり過ぎる場合もあると思います。つまり、適切な自尊心が自負心と高慢になります。自分が誰よりも優れていると言う態度をとり、周りの者の存在はただ自分に仕える為であると思い込んでしまいます。もちろん、そう言う自己中心的態度をとると、人間関係がすぐ駄目になり、極端な場合、人に対して酷い事をします。

2006年04月30日 | カテゴリー: イザヤ書 , エレミヤ書 , コリントの信徒への手紙一 , フィリピの信徒への手紙 , ヨハネによる福音書 , 創世記 , 新約聖書 , 旧約聖書

希望の力 ウイリアム・モーア

聖書:ペトロの手紙一1章3-9

【大やけどで入院の生徒】
ある町の教育委員会は入院する生徒がいる為、病院へ教師を派遣するプログラムを作りました。それは入院が長引く生徒達の勉強が遅れないように、派遣教師はマン・ツー・マンで病気の子供を教えたのです。ある日、教師はある入院生徒の訪問依頼を受けました。そして、病院へ行く前に彼女はその生徒の担任教師と連絡を取り、何を教えたら良いのかと相談しました。「最近、文法を勉強していますので、特に名詞と副詞の区別を教えて下さい」と担任教師に言われ、訪問教師が病院へ行きました。病室に入る派遣教師はびっくりしました。その生徒は火事で大火傷を負ってしまって、大変苦しんでいました。生徒の状態は良くないから、勉強するところではないかと思いましたが、派遣教師はせっかく来たので、一応名詞と副詞の区別を生徒に説明して、すぐ帰りました。

次の日、先生はもう一度病院へ行くと、看護婦がやって来て、「あの子に何をしましたか」と聞きました。そして、恐らく、うっかり何かの間違いを自分がしたのではと思って先生は謝ろうとしました。「そう言う意味ではありません」と看護婦さんが言いました。「あの子は昨日までも、調子は大変心配しました。しかし、昨日のあなたの訪問から急に良くなりました。特に態度が良くなって、今は一生懸命に生きようと、体調も十分よくなりました」と説明しました。

やっと退院の日が来た時、生徒が言いました。「派遣教師が来るまで生きる希望が全然ありませんでした。あんまり苦しいから死ぬかと思ったのです。しかし、先生が来ると生きる事が出来ると分りました。実際、私がこれから死ぬんだったら、先生が私に名詞と副詞をわざわざ教えに来るはずはないでしょう」と言いました。

【希望と絶望】
生きる為に人間誰でも希望が必要であると思います。字引きを引いて「希望」と言う単語を探すと、この定義があります。「希望はある事を成就させようと願い、望むと同時に、その事を達成出来ると信じる事です。」希望の反対はもちろん絶望です。そして、その絶望は落胆と鬱を伴います。希望がなかったら、生きる力とやる気を失って、全ては面倒臭くなります。ですから、食べ物が体に必要であるように、希望は私達の魂と精神に絶対に必要なものです。

【悪魔の夜店】
ある日の事です。悪魔が夜店を開きました。そして、自分が使う道具に値段を付けて売り出しました。その道具は、憎しみや、妬みや、偽りや、高慢や、強欲などです。その全ての商品には高価な値段をつけましたが、その中でも、最も高い道具が一つありました。その道具は他の道具よりも使い古したものですが、悪魔には最も大事な物ですから、一番高価でした。その道具には「絶望」と言う張り札が付けてありました。悪魔に、「何故絶望はそんなに高いですか」と聞くとこう答えました。「絶望は俺には他の道具よりも遥かに役に立つ物です。人を倒す為、他の道具が効かない場合、絶望を用います。なぜなら、殆ど全ての人はその道具が私の物である事に気づかず良く効くからです」と言いました。

2006年04月23日 | カテゴリー: ペトロの手紙一

十字架からの御言葉(その7):「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」ウイリアム・モーア

ルカによる福音書23章44-24章12

【イースター】
御存じのように今日はイースターです。今日、私達と全世界の教会は神の御子イエス・キリストの復活を祝い、主を死から蘇らさせた父なる神を讃美し、誉めたたえます。実は、その初めのイースターで起こった事は私達の信仰に最も重要な素晴しい出来事になります。何故なら、復活を通して全能の神はイエス・キリストがなさった事と言われた事を承認されたことの保証になるからです。主イエスの約束と教え、そして、最も大事な御自身与える救いは本当である事が復活を通して証明されました。その事が本当でなければ、真理の源、唯一の神は決して主イエスを蘇せるはずがなかったのです。ですから、私達は今日、復活の印と勝利を心から記念し、お祝いします。

【十字架上の七番目の発言】
今日、イースターの出来事がもっと深く分るようにイエス・キリストの十字架からの最後の御言葉を学びたいと思います。主イエスは十字架から七つの発言をなさいました。そして、今までその貴重な御言葉を通して私達はイエス・キリストについて重要な事を学んで来ました。私達罪人の為の御自身の赦しと愛と救い。また、十字架につけられた主の霊的と肉体的苦しみは私達の唯一の贖いになった事も学びました。そして、今日の最後の御言葉を通して、イエス・キリストの復活の信仰が分って来ます。今日与えられた聖書の個所によりますと、

「イエスは大声で叫ばれた。『父よ、私の霊を御手にゆだねます。』こう言って息を引き取られた」

と記されています。

「父よ、私の霊を御手にゆだねます。」

実はイエスはここで詩編を引用して発言なさいました。 詩編第31編6節にこの御言葉が書いてあります。

「まことの神、主よ、御手に私の霊をゆだねます。」

これはダビデの詩です。ダビデは敵によって苦しめられ、また、友人に見捨てられた大変困難な時、この信仰を告白しました。

「まことの神、主よ、御手に私の霊をゆだねます。」

そして、十字架で死ぬ直前に主イエスは最期の言葉として同じ信仰を告白しました。皆が聞こえるように大声で叫びました。

「父よ、私の霊を御手にゆだねます。」

2006年04月16日 | カテゴリー: エフェソの信徒への手紙 , ルカによる福音書 , 新約聖書

十字架からの御言葉(その5,6):「渇く」と「為しとげられた」ウイリアム・モーア

ヨハネによる福音書19章28-30

聖書によりますと、イエス・キリストは十字架に掛けられた間に、七つの御言葉をおっしゃいました。 今日は5番目と6番目の二つの十字架からの御言葉を学びたいと思います。それは

「渇く」と「成し遂げられた。」

です。

【渇く】
先ず「渇く」を学びましょう。実は、先の四つの意味深い発言に比べると「渇く」と言う単純な表現はあんまり大した御言葉ではないかのように見えます。私達も何度もそのような言葉を言った事があるし、子供から聞いた事も結構あります。喉が渇いた事、誰でもその経験があります。人間の体重の約7割は水だそうです。そして、身体の正しい働きは水に頼っています。人間は食べなくても結構長く生きられますが、水が飲めないと大低数日が限界です。

【脱水】
私はカリフォルニアに行く度に山歩きをします。いつも泊る所はロサンジェルスの近い郊外になります。そして、そこには鹿と熊と山猫が出るMt.Wilsonと言う高い山があります。南カリフォルニアは乾燥した砂漠のような気候ですから、山歩きをすると、十分な水を持って行く事は何よりも大事です。そして、喉の渇きを感じる前に少しずつ水を飲む必要があります。そうしないと、脱水状態になって、倒れます。実は、山道に迷って脱水で亡くなる人も珍しくはありません。

十字架につけられたイエス・キリストは大変な渇きを覚えました。出血と厳しい日差しと比べられない程の苦痛の故に喉が酷く渇いて来て、「渇く」と言われました。実際に、誰でも同じ状態だったら、「渇く」と言って、飲み物を願うでしょう。間違いなく、主イエスの右と左に十字架につけられた犯罪人も激しい乾きに苦しめられていました。ですから、イエス・キリストの「渇く」と言う御言葉を通して、主は人間であることを確かめられます。主イエスは100%真に神でありながら、同時に100%真に人間でもありました。

【人間となられたイエス】
私とあなたのように痛みを本当に感じ、私とあなたのように喉も渇いて来ました。主は本当に人間である事はなぜそんなに大事でしょうか。実際に、イエスが人間を贖おうとしたのなら、イエスは人間にならなければなりませんでした。私達をイエスのようにする為には、イエスが先ず、私達のようにならなければなりませんでした。だからと言っても、全く清い人間だけが私達の代わりに罪の罰を受ける事が出来、私達を神と和解させて下さいます。イエスが渇きを覚えた事を通して御自身が人間である事は明白になります。真の人間として十字架の痛みと苦悩とを経験されました。「渇く」という主イエスの発言は人間として御自分の苦しみが現実なものである事を保証します。

2006年04月09日 | カテゴリー: ヨハネによる福音書 , ローマの信徒への手紙 , 使徒言行録 , 新約聖書

十字架上の御言葉(その4):「我が神、我が神、なぜ私をお見捨てになったのですか」ウイリアム・モーア

聖書:マタイによる福音書27章45-50

【父に縁を切られたエリザベス】
英国の詩人エリザベス・バレットは四十一歳で詩人同士のロバート・ブラウニングと結婚しました。しかし、残念ながらエリザベスの父親はその結婚を認めず、娘との縁を切ってしまいました。何故なら、奥さんを亡くした彼には、今度は娘がお嫁に行く事は大変辛かったからです。ですから、エリザベスが家を出た時から、父は彼女とまったく連絡せず、彼女を死んだ者のように扱いました。

結婚してからエリザベスとロバートはイタリアへ移りました。年月が経つにつれて、お父さんの心が和らいで来ると信じたエリザベスは、毎週お父さんに手紙を書きました。その手紙に彼女はお父さんに対する愛を表し、これからどうしても父と和解したい熱望も伝えたのです。しかし、彼女が父に数百枚の手紙を書いたのにも関わらず、返事は全く帰って来ませんでした。

エリザベスはやがて英国に帰りました。そして彼女は仲介者を通して父との関係を回復しようとしました。ある日、突然父からの小包が届きました。しかし、小包を開けて見ると、心が沈みました。そこには彼女が今まで父に送った手紙が全部入ってありました。そして、手紙を詳しく見ると、エリザベスは大変なショックを受けてしまいました。それは父がその手紙の一つも開けなかった事が明白になりました。心の慰めのない状態で父によって見捨てられた彼女は国をもう一度出て、終生愛した父と会う事はありませんでした。

見捨てられる事。きっとそれは我々人間には大変恐ろしい事です。特に、愛した者によって縁が切られる事は、涙と心痛と耐えられない孤独感を伴います。

【十字架上の第四のお言葉】
今日、続けてイエス・キリストの十字架からおっしゃった御言葉を学びたいと思います。そして、今日与えられた第四の御言葉はこの苦悶に満ちた主イエスの叫べです。


「我が神、我が神、なぜ私をお見捨てになったのですか。」

聖書に記されていますが、主イエス・キリストの処刑は6時間程かかりました。朝9時頃兵士達は主イエスの手と足を釘で打ち十字架につけました。そして、9時から12時の間に、苦しみを受けながら最初の三つの御言葉をおっしゃいました。皆さんはそれを覚えているでしょうか。第一は、

「父よ、彼らをお赦し下さい。自分が何をしているのか知らないのです」

と主が祈られました。そして、第二は、共に十字架に掛けられた一人の犯罪人に永遠の救いの約束をして下さいました。

「あなたは今日私と一緒に楽園にいる。」

また、先週学びましたけれども、第三の御言葉として御自分の母マリヤに弟子ヨハネについてこのように言われました。

「婦人よ、ご覧なさい。あなたの子です。」

次に、ヨハネに向いて、マリアの事について、

「見なさい。あなたの母です」

とおっしゃって、マリアの将来を保証しました。

2006年04月02日 | カテゴリー: イザヤ書 , マタイによる福音書 , 新約聖書 , 旧約聖書