希望の力 ウイリアム・モーア

聖書:ペトロの手紙一1章3-9

【大やけどで入院の生徒】
ある町の教育委員会は入院する生徒がいる為、病院へ教師を派遣するプログラムを作りました。それは入院が長引く生徒達の勉強が遅れないように、派遣教師はマン・ツー・マンで病気の子供を教えたのです。ある日、教師はある入院生徒の訪問依頼を受けました。そして、病院へ行く前に彼女はその生徒の担任教師と連絡を取り、何を教えたら良いのかと相談しました。「最近、文法を勉強していますので、特に名詞と副詞の区別を教えて下さい」と担任教師に言われ、訪問教師が病院へ行きました。病室に入る派遣教師はびっくりしました。その生徒は火事で大火傷を負ってしまって、大変苦しんでいました。生徒の状態は良くないから、勉強するところではないかと思いましたが、派遣教師はせっかく来たので、一応名詞と副詞の区別を生徒に説明して、すぐ帰りました。

次の日、先生はもう一度病院へ行くと、看護婦がやって来て、「あの子に何をしましたか」と聞きました。そして、恐らく、うっかり何かの間違いを自分がしたのではと思って先生は謝ろうとしました。「そう言う意味ではありません」と看護婦さんが言いました。「あの子は昨日までも、調子は大変心配しました。しかし、昨日のあなたの訪問から急に良くなりました。特に態度が良くなって、今は一生懸命に生きようと、体調も十分よくなりました」と説明しました。

やっと退院の日が来た時、生徒が言いました。「派遣教師が来るまで生きる希望が全然ありませんでした。あんまり苦しいから死ぬかと思ったのです。しかし、先生が来ると生きる事が出来ると分りました。実際、私がこれから死ぬんだったら、先生が私に名詞と副詞をわざわざ教えに来るはずはないでしょう」と言いました。

【希望と絶望】
生きる為に人間誰でも希望が必要であると思います。字引きを引いて「希望」と言う単語を探すと、この定義があります。「希望はある事を成就させようと願い、望むと同時に、その事を達成出来ると信じる事です。」希望の反対はもちろん絶望です。そして、その絶望は落胆と鬱を伴います。希望がなかったら、生きる力とやる気を失って、全ては面倒臭くなります。ですから、食べ物が体に必要であるように、希望は私達の魂と精神に絶対に必要なものです。

【悪魔の夜店】
ある日の事です。悪魔が夜店を開きました。そして、自分が使う道具に値段を付けて売り出しました。その道具は、憎しみや、妬みや、偽りや、高慢や、強欲などです。その全ての商品には高価な値段をつけましたが、その中でも、最も高い道具が一つありました。その道具は他の道具よりも使い古したものですが、悪魔には最も大事な物ですから、一番高価でした。その道具には「絶望」と言う張り札が付けてありました。悪魔に、「何故絶望はそんなに高いですか」と聞くとこう答えました。「絶望は俺には他の道具よりも遥かに役に立つ物です。人を倒す為、他の道具が効かない場合、絶望を用います。なぜなら、殆ど全ての人はその道具が私の物である事に気づかず良く効くからです」と言いました。

皆さん、悪魔はあなたに対して絶望と言う道具を使った事がありますか。望む事が叶えられなく、落胆して生きる喜びと希望が取られた事がありますか。全てがうまくいかないような時、気が滅入って来る経験があるでしょうか。誰でもそう言う時があると思います。

主イエスの弟子ペトロは小アジアに住む信徒を励ます為に今日の聖句を手紙として送りました。イエス・キリストの復活、約30年後の時ですが、信者達は様々な問題に向かって、希望を失う恐れがあったのです。ペトロの第一の手紙を念入りに読むと、その問題が明らかになります。キリスト者は無慈悲な雇い主によって利用されていました。また、キリスト者は未信者の配偶者に脅される事がよくあったようです。さらに、信者はイエス・キリストの名の為に周りの者によって非難の的となりました。その上、キリスト教会は信仰の違いの故、国家、つまりローマ帝国からの迫害を受け始めました。その社会は色々な面で反キリスト者になり、失望した信者が結構あったようです。ですから、ペトロは厳しい試練を受けながら、どのようにして希望を守り、喜びと勝利のある信仰生活を歩むかと言う課題を持ち上げました。私達と初代キリスト者の事情は全く同じではないんですが、私達も失望する恐れがあり、何よりも生きる希望が必要であります。

今日の個所の3節を見ますと、この御言葉が記されています。

「私達の主イエス・キリストの父である神が、誉めたたえられますように。神は豊かな憐れみにより、私達を新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与えたのです。」

私達はこの世で神の子供として相応しく生きるならば、この「生き生きとした希望」が与えられなければなりません。

今朝、御言葉に基づいて、この「生き生きとした」力強い希望について三つの質問に答えたいと思います。先ず、第一に、この生き生きとした希望は何ですか。第二に、どのようにして希望を得られますか。そして、最後に、この希望はどういうふうに私達に力を与えますか。

【生き生きとした希望とは】
さて、今日の聖句にある「希望」とはいったいどう言うものでしょうか。聖書に於ける希望はただ願望か望みではありません。例えば、誰でも平和な世界を願望すると思います。しかしながら、その望みは非常に不確定的でしょう。つまり、その状態になって欲しいですけれども、実際になるかどうかは分りません。すなわち疑問があります。その反面、聖書が希望について語るとき、確かな物であると言っています。将来に神は確実に行う事を伝えます。4節と5節を読むと聖書に於ける希望の意味が分かって来ます。

「また、あなたがたの為に天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者として下さいました。あなたがたは、終わりの時に現されるように準備されている救いを受ける為に、神の力により、信仰によって守られています」

と記されています。この二つの節に確実な事を伝えています。つまり、主イエスを信じる者は、天国に蓄えられている素晴しい財産を受け継ぐ事になります。また、神はもうすでに私達を救って、そして、将来にその救いを完全に現して下さいます。愛である全能の神の約束ですから、疑いなくその事は行われます。私達の希望はただ漠然な望みではなく、確かな希望であります。将来、私達は本当に天に召され、その全ての恵みを与えられ、永遠に主と共にいられます。

その確かな希望を抱くと、現在、試練と悩みがあっても、私達は絶望せず積極的に生きる事が出来ます。この世での問題や心配は全てではありません。主イエスは現在も私達を助けて、一緒にいて下さいます。そして、人生の目的地と永遠の故郷まで導いて、天国のあらゆる特権を与えて下さいます。そう言う確かな約束と希望を抱くと、全てが変わります。力を与え、どんな事があっても、神の子供として積極的に生きられます。

【ある実業家と59人の貧しい生徒】
ある大金持ちの実業家は小学校6年生のクラスにお話をするように招かれました。実はその生徒達59人はあんまり恵まれていない環境で育てられ、また、その地域の学校は不十分で、高校を卒業する前にすでに中退生徒が多かったのです。実業家は考えて、考えて、その生徒達を励ます為、どんな話が良いかと思案しました。一応、お話を準備しましたけれども、学校に着いて、その無邪気な子供の顔を見た時、原稿を捨てる事を決心しました。それから皆の前でただこう言いました。「学校を中退してはいけません。高校を卒業したら、一人も残らず59人全部に大学の学費を払ってあげる」と約束しました。その瞬間から生徒達の人生がすっかり変わりました。初めて希望を得て、待ち望む事ができました。その日を振り返って見ると一人の生徒が言いました。「楽しみに待つ事がやっとできましたから、皆は頑張りました。本当に幸せな気分でした。」実に、その59人の中、9割程が高校を卒業して大学に入りました。それは人間を変える希望の力です。そして、全能の父なる神が授けて下さる恵みはどんな大金持ちが提供出来るものよりも遥かに豊です。愛する神が下さる生き生きとした希望は確かなものであり、私達の人生を永遠まで祝福する力があります。

【生き生きとした希望を得るには】
皆さん、生き生きとした希望を得るようにどうすれば良いのでしょうか。

「神は豊かな憐れみにより、私達を新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与えました」

と記されています。すなはち、救い主としてイエス・キリストを心から受け入れ、信じる事によって、確かな希望を神から授けられます。また、信仰によって神の子供として霊的に新たに生まれ変わります。つまり、神の目から見ると私達は主イエスの義を頂き、罪の全くない者のようになります。その事は主イエスの十字架の贖い死のお陰です。そして、信仰の対象は復活させられた神の独り子ですので、その救いを信じる事が出来ます。何故なら、神はその同じ力を用いて、私達も永遠の命に復活させて下さいます。

「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われる」

とローマの信徒への手紙10章9節に記されています。信仰によってその救いが神から授けられるとき、生き生きとした希望を頂きます。

【この希望は如何に私達に力を与えますか】
そして、この希望はどういうふうに私達に力を与えますか。実際、私達の生涯が大きな意味と素晴しい目的地、すなわち天国があると、希望が私達から湧き出て来て、生きる為の力を頂きます。それは神の賜物です。そして、大きな希望があるからこそ、試練があっても、諦めることなく、神の助けによって勝利を得ます。神から授けられた希望はそのエネルギー、その力を与えて下さいます。

愛する皆さん、神からの確かな希望を持っていますか。望むなら、心から今、私と一緒にこのように祈って下さい。「愛する天の父なる神様、あなたの御子イエス・キリストの十字架の贖いによって、あなたは私の全ての罪を赦し、あなたの子供のように私達を受け入れて下さり感謝します。また、主イエスの復活を通して私達の為に死を征服して、大きな希望を与えて下さりありがとうございます。どうか、どんな事があってもその恵みを覚えさせて下さい。そして、生き生きとした確かな希望を豊に与えて下さいますようにお願いします。主イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。(おわり)

2006年04月23日 | カテゴリー: ペトロの手紙一

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