2014年8月

2014年8月31日説教 「行なった実を刈り取る」金田幸男牧師

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2014831日説教「行なった実を刈り取る」金田幸男牧師

 

ガラテヤの信徒への手紙6

5 めいめいが、自分の重荷を担うべきです。

6 御言葉を教えてもらう人は、教えてくれる人と持ち物をすべて分かち合いなさい。

7 思い違いをしてはいけません。神は、人から侮られることはありません。人は、自分の蒔いたものを、また刈り取ることになるのです。

8 自分の肉に蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、霊に蒔く者は、霊から永遠の命を刈り取ります。

9 たゆまず善を行いましょう。飽きずに励んでいれば、時が来て、実を刈り取ることになります。

10 ですから、今、時のある間に、すべての人に対して、特に信仰によって家族になった人々

 

 

 要旨

【6節、御言葉を教えてもらう人と教える人】

キリスト者は御霊に導かれて前進しています。パウロはそのキリスト者に勧めを書いています。順序だって語っていませんが、彼がガラテヤ教会の実情をある程度知っていて、それを思い起こしながら書いているためだと思われます。

 

6節、御言葉を教えてもらう人は、教える人と持ち物をすべて分かち合いなさい。ガラテヤ教会では御言葉、聖書を教える専門家がいたということが分かります。それは長老と呼ばれていました。1テモテ5:17では「よく指導している長老たち、特に御言葉と教えのために労苦している長老たちは二倍の報酬を受けるにふさわしいと考えるべきです」と記されます。御言葉を教えるために全時間を割いて働いている長老は、宣教する長老と呼ばれ、信徒を指導していました。教会は始めから御言葉を語って信徒を導く人を必要としたのです。

 

 ガラテヤ教会の実情はよく分かりませんが、ユダヤ主義者の影響を受けていました。彼らの教えに傾いて行く人もいました。むろんパウロの教えに忠実な人もいたでしょうけれども、教会内部は混乱していたと思われます。このような事態になったのは、教会の指導者たちの力不足のせいだと考えてもよいと思われます。教会の指導者の実力の欠如のせいでガラテヤ教会にユダヤ主義者の侵入が起きたのかもしれませんが、また、ガラテヤの教会の御言葉の働き人が生活を支えるために、全時間を割くことができないという事態が生じ、そのために信徒への指導がなおざりになっていたとも考えられます。

 

パウロはそのような実情を思い起こしてこのような勧めをしたのではないかと思われます。パウロ自身は御言葉に専念する働き人(使徒)でしたが、教会から報酬を受け取っていませんでした。1コリント9:1-18で長い文章でその理由を述べます。権利はあるけれども行使しないというのです。しかし、彼自身受け取らなくても他の働き人が報酬を受けることを是認しています。1テモテ5:18以下に記されます。

 

【聖職者の贅沢また貧困】

また、旧約聖書も、祭司やレビ人が民のささげたものの一部で生活することを認めています(民数記18:8、申命記18:1など)。

 御言葉に仕えるものたちが贅沢三昧にふけり、非難されるべき堕落は教会の歴史の中で繰り返されます。教会の腐敗は聖職者の贅沢から始まります。しかし、御言葉に仕えるものたちへの粗略な扱いが、御言葉の軽視につながります。教会の扱いが御言葉に対する敬いの欠如の現われとなってしまうのです。こうして、教職者の貧困が教会を霊的に貧困にしてしまうこともありえます。どちらも本末転倒の事態です。

 

【キリスト者の思い違い】

 7節.思い違いをしてはいけません。自ら欺いてはならない、と訳す聖書もあります。この文が前の文章から続いているのか、あるいはこの文章のあとにかかるのか、決定できません。前の文に繋がるなら、御言葉を教えるものへの軽視は信徒の思い違いであり、そして、これは神を侮ることにも繋がっていくということになります。それは由々しい事態です。しかし、後の文章に続いていくと考えることも可能です。

 

【8節:肉に蒔く者は滅びを刈り取る】

キリスト者が肉の欲望に従って生きている、自分をひとかどのものと思って独り善がりに生きているならば、それは思い違いをしていることであって、そんなことをしておれば神に対して反抗していることになると言います。

 5章21では、肉の思いに従って生きていくならば、神の国を継ぐことはできないと言われていました。8節では、肉に蒔く者は滅びを刈り取るとあります。これらは深刻な叙述です。あってはならないような状況です。

 

 私たちはこのガラテヤの信徒への手紙で、「信仰によって救われる」という真理を学んできました。私たちは信仰によって神に義と認められるのであって、律法の行いは必要でありません。信仰さえあれば充分です。私たちの現状がどんなにひどくても神は信じるものを受け入れてくださいます。これはパウロの語る真実です。誤りのない福音の教理です。これを疑う必要は全くありません。

 

それなのに、イエスは主であると告白するものが、肉の思いにふけっているならば、そのようなものは滅びると言われます。これは矛盾しているように思われますが、そうではありません。私たちの救いは信仰によるのですが、それでは生活が好き勝手放題でいいのかというとそうではありません。私たちは一方では必ず救われるという約束によって生きて行きます。他方では、私たちは肉の欲情に支配されて滅びないように気を配らなければなりません。私たちキリスト者はこの緊張のもとでキリスト者として生きていかなければならないのです。

 

【種まきのたとえ】

 7節の後半から、種まきのたとえが用いられます。イエス・キリストも種まきのたとえを語っておられます。例えばマタイ13:1-23で、道端、石だらけの土地、茨の中、そして、よい土地に蒔かれた種の話が記されます。よい土地に蒔かれた種だけが豊かに実を結ぶようになります。その他は実を結ぶことはありません。他にもマタイ13章には、麦と毒麦のたとえ、からし種のたとえが記されます。キリストの身の回りには農村風景が広がっていたようです。ちなみにパウロも、2コリント9章6-12で、種まきのたとえを用いています。そこでは献金の勧めのためにこのたとえが記されました。ガラテヤ6章7-9では、種よりも蒔かれた土地が問題になります。どのような土地に蒔かれるかで、種は異なった成長をし、異なった結果を生みます。肉に蒔く者は、肉から滅びを刈り取ります。霊に蒔く者は、例から永遠の命を刈り取ります。種は同じでも蒔かれた土地の違いで種は異なった状態になります。

 

【霊に蒔く】

肉に蒔かれる、霊に蒔かれる、それぞれ意味しているところは容易に理解できます。肉の欲情のままに生きるようなことをしていると滅ぼされる。キリスト信者でも、肉の欲するままに、肉的な思いに従って生きているならば、滅びにいたる。私たちは滅ぼされてはなんにもなりません。そして、神のさばきは恐るべきです。霊に蒔くとは霊に導きに生きることを意味しています。御霊は、私たちを導かれます。私たちの霊を感動させ、霊の奥底で私たちを動かされます。その果実は5章22-23に記されているとおりです。このように生きていくものは、永遠の命を刈り取ります。

 

この比喩で言われていることは、私たちキリスト者のあり方を反省させます。日々の歩みがこれでいいのかという自問を発します。

 

【9節、たゆまず善を行なう】

 9節では、たゆまず善を行なうように勧められます。御霊に導かれて生きていくとは、善を行なうところで具体化します。善を行なうことは、易しいことではありません。ひとつの例として、私たちが人に善を行なっているつもりで結果として他の人を傷つけてしまっていることがあります。また、親切の押し付けもよく起こります。誤解を招いて不愉快な思いを残すということもあります。善を行なうということは単純ではありません。ですから、私たちには往々にして善を行なうのにためらいがあります。世間では善を行なうのはときにお節介とも受け止められます。ですから,もういやだと思うこともあります。

 

 パウロは、たゆまず善を行ないましょうと勧めています。飽きずに、善を行なう。私たちは善を行なうことにしばしばためらいを感じます。そして、抑止しようとする思いが出てきます。パウロはそういうためらいを起こす暇なく間髪をいれずに、善を行ないなさいと語っています。とにかく頻繁に、絶えず、繰り返して、善を行ないなさい。善を行なうとはこういうことなのだと教えています。善については数多いということはないとされているように思います。

 

【神の家族には特別に善を】

 誰に対して善を行なうか。10節では、まず全ての人に対して善を行ないなさいと言われます。例外なく、敵も味方も、よく知る人も、知らない人も、善を行なう対象です。どんな人でも善を行ないなさい。よく知られているように、「あなたの隣人を自分のように愛する」という律法をユダヤ人はその「隣人」を同胞に限定するという解釈を与えました。隣人以外は愛の対象にはならないのです。パウロはそのような限定を否定しています。

 

 ところが、そのあとで、信仰によって神の家族となった人々には特別に善を行ないなさいと言います。これは矛盾しているように思えます。

 パウロは同じ教会員を神の家族にたとえます。それは単なる比ゆではなく、むしろ擬似的といってもよいもので、お互いキリスト者は兄弟姉妹と呼びかけます。神を父なる神と呼び、信者は全てその子らであり、お互い兄弟姉妹であるのです。このような同信のものたちとの絆は極めて堅いものです。そのような結びつきにふさわしくお互いに善を行ないなさい。これは全ての人に善を行ないなさいという命令とは矛盾しません。どんな人にも善を行なう。そのことは決して退けられるべきではありません。

 

同時に私たちはお互い神の家族です。親が子どもをいつくしみ、兄弟が互いに結び合い、夫婦が愛し合うように、家族の絆は深く強いものです。そのような結びつきは良質の人間関係と言えます。そのように、お互いに愛し合わなければならないというだけではなく、その証しとして善を行なうことが求められています。教会でこそ善は行なわれるべきです。神の家族に対して、善を行いましょう。(おわり) 




2014年08月31日 | カテゴリー: ガラテヤの信徒への手紙

2014年8月24日説教「キリストの律法の実現」金田幸男牧師

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20148月24日説教「キリストの律法の実現」金田幸男牧師

聖書 ガラテヤの信徒への手紙61 兄弟たち、万一だれかが不注意にも何かの罪に陥ったなら、"霊"に導かれて生きているあなたがたは、そういう人を柔和な心で正しい道に立ち帰らせなさい。あなた自身も誘惑されないように、自分に気をつけなさい。

2 互いに重荷を担いなさい。そのようにしてこそ、キリストの律法を全うすることになるのです。

3 実際には何者でもないのに、自分をひとかどの者だと思う人がいるなら、その人は自分自身を欺いています。

4 各自で、自分の行いを吟味してみなさい。そうすれば、自分に対してだけは誇れるとしても、他人に対しては誇ることができないでしょう。

5 めいめいが、自分の重荷を担うべきです。

 

 

 要旨

【御霊の導き】

私たちは御霊に導かれています。「イエスは主である」と告白し洗礼を受けるという事実が御霊の導きのもとにあるという証拠です。御霊に導かれているものは肉の欲望を十字架につけています。つまり極刑に処しています。そうはいうものの、私たちは完全に肉の欲望の罠から脱出できていません。私たちの内なる魂に罪の残りかすがこびりついています。

 

だから、私たちは意志を固め、自分の足で前進しなければなりません。キリスト者になればエスカレーターでそのまま救いの完成に至るのではありません。キリスト者はただ信仰によって救われるのであって、律法の行いは不要です。信仰プラス律法の行いでもありません。

 

しかし、救われたものは律法(の成就)を必要とします。御霊に導かれたものにはキリストの律法を全うする目標があります。またそれはどうでもよい勧めではなく、キリスト者の義務でもあります。

 

パウロは5:26で、「うぬぼれて、互いに挑戦しあい、嫉みあってはならない」と命じます。パウロは論理的、順序だてて勧めを書いているように思われません。これが第一に挙げられているのは理由があると思います。ガラテヤ教会は設立されて10数年しか経っていませんでした。最初は教会員の間では区別などなかったと思いますが、次第に教会員が増え、組織が整ってきますと、指導力を持つものが出てきます。

 

【ガラテヤ教会の実情

そういう人の中に権力を振るい、他の会員を支配する傾向が出てきたのではないかと思います。そうすると必ず反抗する人が出てきます。教会員に亀裂が生じ始めます。パウロはそのようなガラテヤ教会の実情を念頭に置きながら、この言葉を語っていると見てよいのではないでしょうか。

 

自己主張、自己過信が教会員の間を裂く。こういうことは教会が形を取り始めたときに起きやすいのです。嫉妬や競争心が分裂を招きます。そして、教会が割かれるとき、教会は存立の危機に直面せざるを得ません。だからこそこの命令を最初に置いたのだと想像することができます。せっかく教会が形を取り、整い始めた矢先、大きな問題を抱えることになります。パウロはそのようなことがあってはならないと考えています。

 

【6章1節「万が一」】

パウロは万が一、と仮定を立てて文章を書き始めます。誰かが罪を犯すようなことがあれば。万が一ということは仮初にもそんなことがあるはずがないけれども、という気持ちが表されているように思えます。教会にはそんなことがあってはならない。教会の中に平然と罪が見逃されているようなことがあってはならない、そんなはずがない。パウロはこのように教会は本来罪はあるべきではないと言いたいのでしょう。しかし、現実がそうではありません。教会に罪が認められます。いえ、世間でも起きないような、忌むべき、罪が犯されています。だから、霊に導かれているものは、そのような罪を犯している人を正しい道に戻さなければなりません。正しい道へ方向転換させるとは悔い改めさせるということでもあります。

 

【教会の「訓練」と役員】

霊に導かれているものはキリスト者のことです。同じ教会員であるものが罪を犯していたら、教会はその罪を矯正する必要があります。このような働きを「訓練」といいます。けれども、訓練はいわゆるトレーニングではありません。この言葉はいろいろな意味を含みます。鍛錬、教練、しつけ、懲戒・折檻というような意味が含まれています。教会はこのような訓練を行なうために教会役員を立てました。教会役員の最も重要な務めは訓練を実施することです。

 

罪を犯している信徒がおればその人を戒め、正す必要があります。厳格に信徒の訓練ができるかどうか、教会は問われています。キリスト者とその共同体である教会が御霊に導かれているならば、その教会は、罪を犯している人を悔い改めに導かねばならないのです。ところがたいていの場合は、うまく行きません。特に今日、信徒訓練は有名無実化しています。教会役員は教会員の単なる世話役、相談役になっています。

 

教会の中で罪が犯されていても見過ごされたり、黙認されたりしています。罪を犯している人は反省することもありません。なぜなのだろうかと思います。訓練というと厳しく叱責し、ときには暴力的な仕打ちをしてまで罪を犯した人を懲らしめるという誤解があります。教会は訓練を伝家の宝刀として用いて、教会員を責めたり、批判したりするだけではその効果はありません。

 

【柔和な心で】

パウロはここで「柔和な心で」はといいます。これは「謙遜な気持ちをもって」と訳される場合もありますが、強権的に信徒を訓練するのではなく、その反対のやり方で信徒を訓練すべきであると言われます。そんな甘いことを言っていても罪を犯した人は悔い改めることはないと、断固たる手段を選ぼうという誘惑に駆られますけれども、そのようにして成功したためしはありません。教会の訓練は別の原則、方法でなされます。

 

確かに教会の訓練は困難を極めています。訓練のことを「戒規」ともいいますが、これが効果あるように執行された例をあまり知りません。それほど訓練は有名無実化しているわけですが、だからこそ、霊に導かれたものは罪を犯した人を反省させ、悔い改めさせるために真剣さと祈りが求められています。

 

罪を犯している人を非難し、叱責するとき、あるいは告発し、弾劾するときに陥りやすい過ちは自分のことを棚に挙げて他人の罪を責め、攻撃することだけに集中してしまい、自分も同じような過ちを犯しているということを看過してしまうことです。同じ罪を犯している、あるいは、その誘惑に曝されている場合もあります。

 

【互いに重荷を負いなさい】

2節で、パウロは互いに重荷を負いなさいと命じます。これこそキリストの律法を成就することとされます。キリストの律法はキリストが命じられる律法という意味ですが、キリストは律法を要約されています。

 

【律法の要約】

マタイ22章34-37で、キリストは律法を、「神を愛すること」と「隣人を愛すること」に要約されています。また、これは当時の律法研究者の共通の認識でもありました。マタイ19:16で、キリストに永遠の命を獲得するために教えを請うた若者が自ら律法の大切な項目として隣人を愛することを挙げますし、よきサマリヤ人のたとえ(ルカ10:25-38)でキリストの問い、律法には何が書かれているのか、に律法学者が隣人への愛と答えているところから分かります。

 

パウロもガラテヤ5:14で律法はこの隣人への愛という一句にまとめられると語っています。ところがここではパウロは互いに重荷を負うことが律法の成就だと語ります。隣人を愛することは結局互いの重荷を負うことということになります。重荷とは何か、ここでは明確に語られていません。

 

【5節:自分の重荷を負え

しかし、私たちの人生は数え切れない重荷を負っています。他人の重荷を負うことがキリストの律法の実現に他なりません。どんな重荷でもそうすることが求められます。ところで、5節では、各自、自分の重荷を負えと命じられます。こうして、私たちは他人の重荷と自分の重荷を負うことになります。これには納得できない人も多いでしょう。

 

結局、キリスト者は自分だけではなく他人の重荷を背負わなければならないのか。パウロはそう言います。だから、結論的には、わたしの罪を他人には負わせられないということにもなります。私たちは何とかして重荷を軽くしたいものです。しかし、他人には重荷を負わせてはならず、自分自身の重荷も背負う。何ともキリスト者の人生はしんどいということになるかもしれません。

 

できるだけ荷物は軽くしたい。他人に荷物を背負ってもらえれば大助かりです。ところが、パウロは、自分の重荷を他人に負わせるなと命じているのです。だから、私たちは背負えない重荷に打ちひしがれてしまいかねません。私たちはとどのつまり、神に重荷を背負っていただくしかありません。キリストは私たちの重荷の全てを背負って下さる方です。

 

私たちは自分の重荷を背負い、誘惑に負けないように気をつけよと命じられています。まさに個人責任です。誰も個人としては弱いものです。神に助けを求めていく以外に道はありません。

 

【自分を過大評価するな】

3-4節は5章26との関連で見れば同じようなことが語られます。自分をえらいものと思う。過大評価です。自分には力がある。うぬぼれです。だから、他人と比較して自分のほうが立派だと採点します。こうして、他人を見下します。けれども、このようなことがあってはならないとされます。

 

私たちは実際には何ものでもない。教会という少数者の中では権力があるかのように思い、そのように振舞います。他者を支配しようとします。パウロはこれを戒めています。そうであってはいけないのです。自分がひとかどのもの、実力者と思いあがって、権力を振るおうとします。だからこそ自分自身をしっかり見極めなければなりません。自分を過度に評価するものは自分を欺いています。それは虚構です。何の根拠もありません。絵空事です。

 

自分の行いを吟味せよ

しかし、私たちはしばしば真実ではない自分の姿を勝手に描き出して、それをあたかも真実であるかのように錯覚してしまいます。特に自分の行いを吟味せよと求められます。行いは外に現れていますから、自分で評価できます。外に現われたものを直視すれば本当の姿と評価されます。

 

パウロは自分に対しては誇れるが、と申しますが、自分が善であると思ってしたこと、誠実に行なったことまで否定する必要はないと語ります。そのようにして行為したことは、自分がよく知っています。自分で自分の行動を見極めることができます。けれども、私たちの行動は、どんなことであっても、他人に対して誇ることができません。だから、実力があるなどと思ってはならないのです。行いを冷静に見つめれば自己評価できます。大したことはないと分かります。

自分の良心にかけて正しいことをしておればそれだけでいいのであって誰かに誉めてもらう必要はありません。(おわり)


2014年08月24日 | カテゴリー: ガラテヤの信徒への手紙 , 新約聖書

2014年8月17日説教「御霊の結ぶ果実」金田幸男牧師

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20148月17日説教「御霊の結ぶ果実」金田幸男牧師

聖書:ガラテヤの信徒への手紙5

22 これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、

23 柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。

24 キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。

25 わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう。

26 うぬぼれて、互いに挑み合ったり、ねたみ合ったりするのはやめましょう。

 

 

要旨

【キリスト者はどう生きるべきか】

パウロは指摘します。私たちは、霊の導きと肉の欲望の対立の中で生きています。わたしという人間の中にふたつの人格があるかのようです。肉の思いは5:19-21に挙げられていますが、これだけに限定されるのではありません。神に背を向けるようなことども、疑い、不信、不安や恐れ、戸惑い、弱気などというものも含まれます。

 

パウロは、このように肉の思いに支配されていたら神の国を継ぐことはないと言います。要するに天国に入れないということになります。ガラテヤの信徒にとっては神の国に入れるかどうかは重大な問題であったはずです。彼らは信仰だけでは不足である。律法の行いも必要だと思って割礼や宗教暦を遵守しようとしていました。パウロはそのような生き方を否定します。では、キリスト者は肉の欲するままに生きて行ってもいいのか。むろんそれでは神の国を継ぐことはできません。では、キリスト者はどう生きるべきでしょうか。

 

【聖霊の導きのもとに生きる】

 パウロは言います。聖霊の導きのもとに生きていきなさい。聖霊の導きとは何でしょうか。コリント12:3で、「ここで、あなた方に言っておきたい。神の霊によって語る人は誰も『イエスは神から見捨てられよ』とは言わないし、また、聖霊によらなければ誰も『イエスは主である』とは言えないのです」。

 

イエスを主と告白し、洗礼を受け、教会員となるのは御霊の導きなのです。キリスト者とは御霊に導かれてイエスを告白したものです。それだけではありません。22節にあるように、同じ御霊により、実を結びます。

 

キリスト者の内面に起きる、愛、喜び、心の平和、対人関係において起きる、寛容、善意、親切、善意、キリスト者のあり方、誠実、柔和、節制は私たちの内に実る御霊の果実です。むろんのこと、肉の欲望がそうであったように、御霊はこれだけではなく、もっと豊かに実を結ばせてくれます。

御霊の導きのもとでこのような結果が賜物として与えられます。与えられるはずです。

 

しかしながら、私たちは、いつもこのような御霊の実を豊かに結んでいるとは限りません。その逆の場合もあります。いったいどうなっているのでしょうか。キリスト者は信者になったとたん肉の思いを解消できたわけではありません。むしろ罪の残滓に悩まされているのです。ときにはそのほうが圧倒的に強力になるように思われます。御霊に導かれているというのに、です。私たちの現実を見ればそのとおりです。キリスト者になったのに、あいも変わらず肉の思いに圧倒されているように思われて仕方がない状態です。どう考えればいいのでしょうか。

  

【御霊の導きのもとに必ず実を結ぶ】

 ここで確認しなければならないこと。私たちは御霊の導きのもとにあるということです。その御霊は神です。神はあらゆることを可能にし、思うがままに振舞われます。御霊にはできないことはありません。御霊は自由です。私たちの霊に働きかけられます。私たちが神を信じるようになるのは奇跡的な御霊の働きによります。私たちの心は頑なで決して心を動かしません。ところが御霊は私たちを打ち砕いて神を信じるようにされました。この御霊は必ず私たちを導き、その実を結ぶようにされます。だから、私たちは、御霊の導きのもとに必ず実を結ぶことができます。霊の導きのもとにあるならば肉の欲望は私たちを支配することはありません。霊と肉は両立せず、私たちは御霊の導きのもとにあります。これは神のなさる真実です。

 

【キリストの所有とされたキリスト信者】

 パウロはさらに語ります。キリスト・イエスのものとされた人はその肉の欲望、欲情をもろともに十字架につけた(24節)。イエス・キリストの所有になる、その所属になるということはどういうことでしょうか。所有者は所有しているものを思うままに扱うことができます。

 

私たちキリスト信者はキリストの所有とされています。その所有権は絶対的です。その上、強固です。私たちは聖霊に導かれてキリストの所属となったのです。もはや私たちは私たち自身のものではなく、キリストの所有となっています。この関わりは不動のものです。私たちがキリストを信じて告白したときにキリストのものとなりました。こうして、キリストの所有となったものは、肉の思いを十字架につけてしまいました。十字架につけられたとは言っていません。

 

【洗礼を受けたものは肉の思いを十字架につけた】

パウロはローマ6:3で「それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼をうけたことを。」

 

私たちはキリストと共に十字架につけられたのです。パウロはここでは十字架につけられたとは言わず、キリスト者が肉の思いを十字架につけたと、能動的に語ります。

 

十字架につけるとは処刑に付す、極刑に処するという意味です。キリスト者は二度と生き返ることがないように肉の欲望、欲情を死なしめるのです。私たちはキリストを信じて告白するときに、肉の思いを処刑にしてしまったのです。だから、肉の思いは私たちに対して決して支配者として振舞うことはできないのです。洗礼を受けたとき、わたしはキリストの所有となり、したがって、肉の支配化にはありません。

 

しかし、ここでも問うでしょう。別にそんなつもりもなかったし、そんな自覚もなかった。洗礼を受けるとき、肉の欲望の全てを切断し、消去できたわけではありません。事態は全くその逆で、何も分からないまま、あまり自覚もしないでキリスト者になってしまったのが実情だと誰しも思っているのではないでしょうか。洗礼を受けたところで何も変わらないのです。

 

でも、パウロは何を言っているのでしょうか。これは、わたしが洗礼のときに御霊に導かれているのだから、そのとき同時に肉の欲望も消滅したという意味であり、実際には私たちのうちにはまだ頑固に肉の思いがこびりついています。それは決して絶滅したのではありません。御霊の導きのもとに主を告白し、洗礼を受けたものは、御霊の導きのもとで肉の思いを十字架につけて処刑したのです。洗礼を受ける行為はそのような意味を持っています。自覚しているかどうかの問題ではありません。私たちはそうしたのです。

 

それでも、私たちは納得できない部分があります。やはり、肉の思いがあるのです。どうしようもなく、肉の思いはわたしたちのうちに生起し、活躍します。ときには神に背を向け、神から離れていくような気配もありますし、実際に罪の誘惑に陥ってしまい、肉の欲するままに生きていく傾向さえあります。

 

パウロはどういうのでしょうか。聖霊に導かれているのであれば、御霊に導かれて前進しよう。私たちは間違いなく御霊の導きのもとにあります。だからこそ、主を信じ告白したのです。これには間違いはありません。そうだとすれば、同じ御霊に導かれて前進しよう。パウロは勧め、命じます。前進はわたしの足で前に進むことです。誰かがではなく、わたしが前進するのです。足を動かし、前に進むという意志を明白にします。そうでなければ動きません。歩くのも走るのも私たち自身です。私たちは御霊に導かれると言っても、まるで操り人形のようになるのではありません。リモコンで操作されるロボットでもありません。わたしの意志は消し去られることはありません。聖霊に導かれているものは無我夢中で誰かに引っ張られて前進するのではありません。自覚して、前に進みます。困難な状況が待ち受けているかもしれません。肉の思いは強力でうっかりすれば負けてしまいます。それでも前進するべきなのです。

 

 【御霊に導かれて前進するように祈ろう】

ここでも、私たちは戸惑います。とても前に進めない。私たちはみんながみんな勇ましいわけではありません。信仰厚いものでもありません。その反対です。小心で弱気で、覇気がない。すぐに不安になり、苛立ち、ぐらぐらする。試練が来たらたちまち逃げ出すようなものです。こんな私たちが御霊に導かれて前進することができるのだろうか。

 私たちは、御霊に導かれているものです。これは間違いありません。そうだとすれば、私たちはそれを信じて、御霊に、実を結んでくださいと祈るほかはありません。御霊の支配下にあるわけですから、御霊にしっかり強められ、力を受けることができるように祈るほかありません。私たちは御霊の働きを充分に理解していません。御霊の働きはあらゆる局面にあります。私たちが導かれるのは偶然の積み重ねのようです。ときには、偶然に人と出会い、たまたま書籍を読み、現在ならばネットで情報をつかみ・・・という具合に私たちはさまざまな機会を得て、結果を見ます。それは御霊の導き方なのです。御霊に信頼して御霊に願うのです。

 

しかし、私たちの意志が隠されているのではありません。絶えず前に進もうという気持ちがなければ前に進めません。私たちの前に困難が控えています。そのときに、勇気を持って乗り越えていこうとする。このような意志も重要です。私たちは御霊に動かされるのですが、私たちの心情、感情を無視することはありません。私たちの好み、私たちの思い、願望を御霊は用いられます。前進しようという気概を用いられます。

 御霊は導かれます。もしそうであれば、私たちは勇気をもって前進するべきなのです。前に進むとき、エネルギーが必要です。全力を投入しなければなりません。激しい信仰の闘いがあります。 私たちはときには勇気を失うこともあります。意志薄弱であることもあります。でも、そのときこそ主に委ねて、祈ることも大切です。神は私たちを必ず祝福される方でもありますから。(おわり)

 

 


2014年08月18日

2014年8月10日説 教「決して動揺しない生き方へ!」赤石純也牧師

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新約聖書
使徒言行録
2:25 ダビデは、イエスについてこう言っています。『わたしは、いつも目の前に主を見ていた。主がわたしの右におられるので、/わたしは決して動揺しない。
2:26 だから、わたしの心は楽しみ、/舌は喜びたたえる。体も希望のうちに生きるであろう。
2:27 あなたは、わたしの魂を陰府に捨てておかず、/あなたの聖なる者を/朽ち果てるままにしておかれない。
2:28 あなたは、命に至る道をわたしに示し、/御前にいるわたしを喜びで満たしてくださる。』

旧約聖書
詩編
16:1 【ミクタム。ダビデの詩。】神よ、守ってください/あなたを避けどころとするわたしを。
16:2 主に申します。「あなたはわたしの主。あなたのほかにわたしの幸いはありません。」
16:3 この地の聖なる人々/わたしの愛する尊い人々に申します。
16:4 「ほかの神の後を追う者には苦しみが加わる。わたしは血を注ぐ彼らの祭りを行わず/彼らの神の名を唇に上らせません。」
16:5 主はわたしに与えられた分、わたしの杯。主はわたしの運命を支える方。
16:6 測り縄は麗しい地を示し/わたしは輝かしい嗣業を受けました。
16:7 わたしは主をたたえます。主はわたしの思いを励まし/わたしの心を夜ごと諭してくださいます。


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2014年08月10日 | カテゴリー: 使徒言行録

2014年8月3日説教「御霊なる神の導き」金田幸男牧師

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20148月3日説教「御霊なる神の導き」金田幸男牧師

 

聖書:ガラテヤの信徒への手紙5

16 わたしが言いたいのは、こういうことです。霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。

17 肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反するからです。肉と霊とが対立し合っているので、あなたがたは、自分のしたいと思うことができないのです。

18 しかし、霊に導かれているなら、あなたがたは、律法の下にはいません。

19 肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、

20 偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、

21 ねたみ、(殺人)、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。以前言っておいたように、ここでも前もって言いますが、このようなことを行う者は、神の国を受け継ぐことはできません。

 

 要旨

【キリスト者はどのように生きるべきか】

律法の束縛から解放され、罪の赦しをいただいているキリスト者はどのように生きるべきか。

洗礼を受けた後の生き方について明確な理解を持っていなかったために、ガラテヤの信徒たちはパウロの教えた福音から外れていきました。彼らは信仰だけではだめだ、律法の行いも救いに必要だというユダヤ主義者の教えを簡単に受け入れてしまいました。そのために割礼やユダヤの宗教的な暦の遵守などに血道をあげることになりました。

 

これとは別にコリントの信徒のように救われたら後は自由だといって放縦にふける人たちもいました(コリント1 5:1)が、どちらもキリスト者がいかに生きるべきかの明確な知識を持っていなかったせいです。

 

ガラテヤ5:16以下でパウロは答えます。その場合、ふたつの観点から見ています。ひとつは消極的な観点からで、肉の欲に従って歩まないということです。もうひとつは積極的な観点からで、御霊の導きに従って生きて行きなさいというものです。

 

【キリスト者も罪の支配下にある】

まず、私たちが知らなければならないことは、キリスト者といえども肉の欲望は全く消滅していないという事実です。キリスト者は罪赦され、もはやその奴隷ではありません。しかし、依然として罪は残存し、支配しているのです。神を信じたとたん一切の罪から自由になったのではありません。全く聖とされたのではありません。時間が経っても肉の思いは残るのです。それどころか火山の噴火のよう突然肉の欲望が爆発します。枯野の野火のように急激に拡大し、肉の欲の支配下に戻ります。 

 

肉の欲とは何か。19-21節にそのリストが挙げられています。しかし、肉の欲は多種多様でこれだけではとても描き切れません。ある翻訳聖書(KJV欽定訳)にはねたみの後に殺人を加えますが、肉の思いの数はもっともっと多いということができるでしょう。

 

ある人はこのリストを4種類に分類します。

 

第1は、姦淫、わいせつ、好色。いずれも性に関わる欲望です。なぜパウロはこれを最初に挙げたのでしょうか。当時のギリシヤ世界では、禁欲が徳目として挙げられていました。しかし、禁欲には反動が起きやすいものです。肉欲の命じるままに生きることが幸福だという考えが生じ、美しいものは肉体美だとされます。ギリシヤの彫刻には肉体の美しさを追求する作品が多く見られます。そして、性を謳歌する傾向が伴います。実際、ギリシヤ文化は、性的放縦を伴う場合が多かったのです。買春、姦通、不倫、不貞が横行する社会でした。ローマ人の社会も同様です。パウロはその有様を直視しているのです。

 

フランシスコ・ザビエルが日本伝道を志したのはインドで出会った日本人の聡明さであったといわれます。論理的にものを考え、理路整然とその考えを示す。こうして日本宣教のため上陸しますが、ザビエルは日本人の欠陥は性的なことに関しては野放図だと指摘しています。性的な放縦は人間の目立つ、さらに制御できない肉の思いなのです。だからパウロはここで最初に列挙します。

 

第2は偶像礼拝と魔術。これらは「霊的な」=宗教的な面での肉の思いです。矛盾した表現ですが、宗教の領域こそ人間の欲望の発露の場所にもなります。自分で神を作り出し、超自然的な力を誇示し、それを欲望の実現のために乱行をします。

 

第3は、敵意以下ですが、これらは対人的に作用する肉の思いです。一番多く挙げられています。それだけ一般的かつ多様ということでしょう。これらは心の中で生じるだけではなく、実践に移されます。その結果は醜い人間同士の争いとなり、多くの不幸の源泉となってしまいます。

 

第4は泥酔と酒宴ですが、これらは自己に対する肉の思いです。

 

肉の思いは多様ですし、時代が変わると形を変えます。また個人によってその現われは異なります。しかし、キリスト者といえどもこの肉の思いから逃れられません。私たちは肉の思いにいつも縛られています。キリスト者はどうすればこの肉に縛られない生活を構築できるのでしょうか。

 

【キリスト者は御霊に導かれなければならない】

答えは一言で言えば、キリスト者は御霊に導かれなければならないということです。肉の思いの縛られないためには霊に導かれるべきなのです。なぜなら、霊と肉は対立し、決して両立しないからです。肉に従いたくないなら御霊に従うべきなのです。御霊の導きを拒否すれば肉に縛られて生きていくし中のです。

 

では御霊の導きに従って生きるとはどういうことなのでしょうか。

 霊の導きに従って歩みなさい。歩むというのは「生きる」ということです。日常生活を営みなさい。新共同訳聖書は、「霊」と翻訳していますが、従来の翻訳聖書は「御霊」と訳しています。

 

このような訳の違いは意図があります。なぜ、「御霊」とせず、「霊」と訳したのか。御霊は、私たちの霊に働きかけられますが、その場合、私たちの自覚、意識、理性、判断、記憶などを無視されることはありません。むろんときに聖霊は奇跡的超自然的に作用されることもあります。預言者の場合、全てではありませんが、恍惚状態、無意識で神の託宣を与えられる場合があります。

 

しかし、このような御霊の働きは例外的であるといってもよいと思います。たいていの場合、人間の自覚、自意識が用いられます。預言者の場合もそうですが、別段意識を失うことなく、神の言葉を語ります。それは聖霊の導きです。聖書の著者、例えばパウロは冷静に、自覚して書簡にペンを走らせます。彼は決して恍惚状態で書いてはいません。しかし、御霊の働きかけ、霊感によって記したのです。

 

コリントの信徒への手紙一123 ここであなたがたに言っておきたい。神の霊によって語る人は、だれも「イエスは神から見捨てられよ」とは言わないし、また、聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えないのです。4 賜物にはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ霊です。

 

私たちは自覚的にイエス・キリストを信じます。そして、そのみ言葉に従います。私たちは操り人形のようにそうするのではありません。ロボットのように神に命令されて、考え、思い、行動するのではありません。わたしはわたしです。決してわたしを失ったりしません。それどころか、わたしが決心し、わたしが決意するのです。最終的には、わたしの霊が意志し、実行します。

 

ところが、そのわたしの霊の思っているところが御霊の思いなのです。わたしの精神と御霊の思いが一致するのです。こういうことが信仰において起きます。だから、新共同訳聖書では、御霊と訳さないで、「霊」と訳されたのです。ここで「霊」は純粋に人間の霊、精神、心ではなく、聖霊に導かれ、聖霊と同じ思いになっている霊のことなのです。

 

私たちは肉の思いに支配されやすい現実の中を生きています。その肉の支配から脱出するためには御霊に導かれなければなりません。御霊に導かれるとは、わたしの心の命じるままに生きることです。むろん、単にわたしの心の思いではありません。わたしの心は絶えず肉の思いに支配されます。ここではそのような単純な心の思いではなく、御霊に導かれ、御霊と一致しているわたしの心の思いに従うことなのです。

 

では、私たちは、どうすれば御霊に支配されるのでしょうか。当然、御霊は御言葉をもって語られる方です。神の言葉、律法もまた神の言葉です。神の言葉によって御霊は私たちに語ってくださいます。神の言葉とは聖書のことです。聖書が説き明かされる。そのとき、私たちの肉の思いは反発します。しかし、御霊に導かれて、私たちの霊はそれが神の意志であると知ります。そして、示された神の御心に従うとき、あるいは従おうとするとき、私たちは肉の思いではなく、御霊に導かれます。礼拝において私たちは常に神の言葉を聞きます。

 

【私たちの内に残る肉の思い】

私たちには肉の思いに従って生きていこうとする傾向が残っています。それは強力である場合も多いのです。逆に私たちの心は頑なです。神の御旨であると知っても従おうとしません。信仰の決心がそれをよく示します。信仰はいいものだ、人間には救いが必要だ。神の恵みは素晴らしい、と思います。しかし、だからすぐに誰もが信仰を持つとは限らないのです。私たちの心はそう簡単に変わりません。

 

伝道を志す人は皆これを経験します。どんなに熱心に説得してもなかなか人は決心しません。暴力を持って脅しても人の心は信仰に入るわけではありません。しかし、その不信仰は砕かれます。とても神を信じると思えない人が神を信じるようになります。私たちの霊は、そのままでは決して神に服従などしません。抵抗するばかりです。ところが、その頑固な心も聖霊によって変えられます。

 このことはキリスト者の生涯にわたって言うことができます。私たちは聖霊によらなければ御霊の導きに服することはありません。そのままではかえって肉の思いに縛られます。それが人間です。だから、禁欲で解決しようとしたり、人間的な熱心(苦行難行など)で打開を図ります。でもそのような努力には甲斐がありません。人の心ほど堅固なものはありません、ちっとやそっとでは動きません。ではどうすることもできないのか。そうではありません。

 

【ここは「御霊の導き」と翻訳すべきでしょう】

やはりここは「御霊の導き」と翻訳すべきでしょう。御霊は神です。御霊なる神は全知全能です。だから、不可能と思われることも可能とされます。御霊が働かれるとき、人の心を生まれ変わらせることもできます。事実再生することもできます。私たちは聖霊に頼ります。聖霊は神です。神として働かれます。肉の思いに抵抗することは至難のわざです。肉の思いにいつも敗北するのが現実です。しかし、私たちの魂を揺り動かしているのは聖霊です。私たちは霊に導かれます。決して、御霊は間違った方向に導かれません。御霊に信頼して行くことが信仰です。(おわり)

2014年08月03日 | カテゴリー: ガラテヤの信徒への手紙 , 新約聖書