2014年8月17日説教「御霊の結ぶ果実」金田幸男牧師

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20148月17日説教「御霊の結ぶ果実」金田幸男牧師

聖書:ガラテヤの信徒への手紙5

22 これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、

23 柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。

24 キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。

25 わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう。

26 うぬぼれて、互いに挑み合ったり、ねたみ合ったりするのはやめましょう。

 

 

要旨

【キリスト者はどう生きるべきか】

パウロは指摘します。私たちは、霊の導きと肉の欲望の対立の中で生きています。わたしという人間の中にふたつの人格があるかのようです。肉の思いは5:19-21に挙げられていますが、これだけに限定されるのではありません。神に背を向けるようなことども、疑い、不信、不安や恐れ、戸惑い、弱気などというものも含まれます。

 

パウロは、このように肉の思いに支配されていたら神の国を継ぐことはないと言います。要するに天国に入れないということになります。ガラテヤの信徒にとっては神の国に入れるかどうかは重大な問題であったはずです。彼らは信仰だけでは不足である。律法の行いも必要だと思って割礼や宗教暦を遵守しようとしていました。パウロはそのような生き方を否定します。では、キリスト者は肉の欲するままに生きて行ってもいいのか。むろんそれでは神の国を継ぐことはできません。では、キリスト者はどう生きるべきでしょうか。

 

【聖霊の導きのもとに生きる】

 パウロは言います。聖霊の導きのもとに生きていきなさい。聖霊の導きとは何でしょうか。コリント12:3で、「ここで、あなた方に言っておきたい。神の霊によって語る人は誰も『イエスは神から見捨てられよ』とは言わないし、また、聖霊によらなければ誰も『イエスは主である』とは言えないのです」。

 

イエスを主と告白し、洗礼を受け、教会員となるのは御霊の導きなのです。キリスト者とは御霊に導かれてイエスを告白したものです。それだけではありません。22節にあるように、同じ御霊により、実を結びます。

 

キリスト者の内面に起きる、愛、喜び、心の平和、対人関係において起きる、寛容、善意、親切、善意、キリスト者のあり方、誠実、柔和、節制は私たちの内に実る御霊の果実です。むろんのこと、肉の欲望がそうであったように、御霊はこれだけではなく、もっと豊かに実を結ばせてくれます。

御霊の導きのもとでこのような結果が賜物として与えられます。与えられるはずです。

 

しかしながら、私たちは、いつもこのような御霊の実を豊かに結んでいるとは限りません。その逆の場合もあります。いったいどうなっているのでしょうか。キリスト者は信者になったとたん肉の思いを解消できたわけではありません。むしろ罪の残滓に悩まされているのです。ときにはそのほうが圧倒的に強力になるように思われます。御霊に導かれているというのに、です。私たちの現実を見ればそのとおりです。キリスト者になったのに、あいも変わらず肉の思いに圧倒されているように思われて仕方がない状態です。どう考えればいいのでしょうか。

  

【御霊の導きのもとに必ず実を結ぶ】

 ここで確認しなければならないこと。私たちは御霊の導きのもとにあるということです。その御霊は神です。神はあらゆることを可能にし、思うがままに振舞われます。御霊にはできないことはありません。御霊は自由です。私たちの霊に働きかけられます。私たちが神を信じるようになるのは奇跡的な御霊の働きによります。私たちの心は頑なで決して心を動かしません。ところが御霊は私たちを打ち砕いて神を信じるようにされました。この御霊は必ず私たちを導き、その実を結ぶようにされます。だから、私たちは、御霊の導きのもとに必ず実を結ぶことができます。霊の導きのもとにあるならば肉の欲望は私たちを支配することはありません。霊と肉は両立せず、私たちは御霊の導きのもとにあります。これは神のなさる真実です。

 

【キリストの所有とされたキリスト信者】

 パウロはさらに語ります。キリスト・イエスのものとされた人はその肉の欲望、欲情をもろともに十字架につけた(24節)。イエス・キリストの所有になる、その所属になるということはどういうことでしょうか。所有者は所有しているものを思うままに扱うことができます。

 

私たちキリスト信者はキリストの所有とされています。その所有権は絶対的です。その上、強固です。私たちは聖霊に導かれてキリストの所属となったのです。もはや私たちは私たち自身のものではなく、キリストの所有となっています。この関わりは不動のものです。私たちがキリストを信じて告白したときにキリストのものとなりました。こうして、キリストの所有となったものは、肉の思いを十字架につけてしまいました。十字架につけられたとは言っていません。

 

【洗礼を受けたものは肉の思いを十字架につけた】

パウロはローマ6:3で「それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼をうけたことを。」

 

私たちはキリストと共に十字架につけられたのです。パウロはここでは十字架につけられたとは言わず、キリスト者が肉の思いを十字架につけたと、能動的に語ります。

 

十字架につけるとは処刑に付す、極刑に処するという意味です。キリスト者は二度と生き返ることがないように肉の欲望、欲情を死なしめるのです。私たちはキリストを信じて告白するときに、肉の思いを処刑にしてしまったのです。だから、肉の思いは私たちに対して決して支配者として振舞うことはできないのです。洗礼を受けたとき、わたしはキリストの所有となり、したがって、肉の支配化にはありません。

 

しかし、ここでも問うでしょう。別にそんなつもりもなかったし、そんな自覚もなかった。洗礼を受けるとき、肉の欲望の全てを切断し、消去できたわけではありません。事態は全くその逆で、何も分からないまま、あまり自覚もしないでキリスト者になってしまったのが実情だと誰しも思っているのではないでしょうか。洗礼を受けたところで何も変わらないのです。

 

でも、パウロは何を言っているのでしょうか。これは、わたしが洗礼のときに御霊に導かれているのだから、そのとき同時に肉の欲望も消滅したという意味であり、実際には私たちのうちにはまだ頑固に肉の思いがこびりついています。それは決して絶滅したのではありません。御霊の導きのもとに主を告白し、洗礼を受けたものは、御霊の導きのもとで肉の思いを十字架につけて処刑したのです。洗礼を受ける行為はそのような意味を持っています。自覚しているかどうかの問題ではありません。私たちはそうしたのです。

 

それでも、私たちは納得できない部分があります。やはり、肉の思いがあるのです。どうしようもなく、肉の思いはわたしたちのうちに生起し、活躍します。ときには神に背を向け、神から離れていくような気配もありますし、実際に罪の誘惑に陥ってしまい、肉の欲するままに生きていく傾向さえあります。

 

パウロはどういうのでしょうか。聖霊に導かれているのであれば、御霊に導かれて前進しよう。私たちは間違いなく御霊の導きのもとにあります。だからこそ、主を信じ告白したのです。これには間違いはありません。そうだとすれば、同じ御霊に導かれて前進しよう。パウロは勧め、命じます。前進はわたしの足で前に進むことです。誰かがではなく、わたしが前進するのです。足を動かし、前に進むという意志を明白にします。そうでなければ動きません。歩くのも走るのも私たち自身です。私たちは御霊に導かれると言っても、まるで操り人形のようになるのではありません。リモコンで操作されるロボットでもありません。わたしの意志は消し去られることはありません。聖霊に導かれているものは無我夢中で誰かに引っ張られて前進するのではありません。自覚して、前に進みます。困難な状況が待ち受けているかもしれません。肉の思いは強力でうっかりすれば負けてしまいます。それでも前進するべきなのです。

 

 【御霊に導かれて前進するように祈ろう】

ここでも、私たちは戸惑います。とても前に進めない。私たちはみんながみんな勇ましいわけではありません。信仰厚いものでもありません。その反対です。小心で弱気で、覇気がない。すぐに不安になり、苛立ち、ぐらぐらする。試練が来たらたちまち逃げ出すようなものです。こんな私たちが御霊に導かれて前進することができるのだろうか。

 私たちは、御霊に導かれているものです。これは間違いありません。そうだとすれば、私たちはそれを信じて、御霊に、実を結んでくださいと祈るほかはありません。御霊の支配下にあるわけですから、御霊にしっかり強められ、力を受けることができるように祈るほかありません。私たちは御霊の働きを充分に理解していません。御霊の働きはあらゆる局面にあります。私たちが導かれるのは偶然の積み重ねのようです。ときには、偶然に人と出会い、たまたま書籍を読み、現在ならばネットで情報をつかみ・・・という具合に私たちはさまざまな機会を得て、結果を見ます。それは御霊の導き方なのです。御霊に信頼して御霊に願うのです。

 

しかし、私たちの意志が隠されているのではありません。絶えず前に進もうという気持ちがなければ前に進めません。私たちの前に困難が控えています。そのときに、勇気を持って乗り越えていこうとする。このような意志も重要です。私たちは御霊に動かされるのですが、私たちの心情、感情を無視することはありません。私たちの好み、私たちの思い、願望を御霊は用いられます。前進しようという気概を用いられます。

 御霊は導かれます。もしそうであれば、私たちは勇気をもって前進するべきなのです。前に進むとき、エネルギーが必要です。全力を投入しなければなりません。激しい信仰の闘いがあります。 私たちはときには勇気を失うこともあります。意志薄弱であることもあります。でも、そのときこそ主に委ねて、祈ることも大切です。神は私たちを必ず祝福される方でもありますから。(おわり)

 

 


2014年08月18日

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