2014年8月3日説教「御霊なる神の導き」金田幸男牧師

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20148月3日説教「御霊なる神の導き」金田幸男牧師

 

聖書:ガラテヤの信徒への手紙5

16 わたしが言いたいのは、こういうことです。霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。

17 肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反するからです。肉と霊とが対立し合っているので、あなたがたは、自分のしたいと思うことができないのです。

18 しかし、霊に導かれているなら、あなたがたは、律法の下にはいません。

19 肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、

20 偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、

21 ねたみ、(殺人)、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。以前言っておいたように、ここでも前もって言いますが、このようなことを行う者は、神の国を受け継ぐことはできません。

 

 要旨

【キリスト者はどのように生きるべきか】

律法の束縛から解放され、罪の赦しをいただいているキリスト者はどのように生きるべきか。

洗礼を受けた後の生き方について明確な理解を持っていなかったために、ガラテヤの信徒たちはパウロの教えた福音から外れていきました。彼らは信仰だけではだめだ、律法の行いも救いに必要だというユダヤ主義者の教えを簡単に受け入れてしまいました。そのために割礼やユダヤの宗教的な暦の遵守などに血道をあげることになりました。

 

これとは別にコリントの信徒のように救われたら後は自由だといって放縦にふける人たちもいました(コリント1 5:1)が、どちらもキリスト者がいかに生きるべきかの明確な知識を持っていなかったせいです。

 

ガラテヤ5:16以下でパウロは答えます。その場合、ふたつの観点から見ています。ひとつは消極的な観点からで、肉の欲に従って歩まないということです。もうひとつは積極的な観点からで、御霊の導きに従って生きて行きなさいというものです。

 

【キリスト者も罪の支配下にある】

まず、私たちが知らなければならないことは、キリスト者といえども肉の欲望は全く消滅していないという事実です。キリスト者は罪赦され、もはやその奴隷ではありません。しかし、依然として罪は残存し、支配しているのです。神を信じたとたん一切の罪から自由になったのではありません。全く聖とされたのではありません。時間が経っても肉の思いは残るのです。それどころか火山の噴火のよう突然肉の欲望が爆発します。枯野の野火のように急激に拡大し、肉の欲の支配下に戻ります。 

 

肉の欲とは何か。19-21節にそのリストが挙げられています。しかし、肉の欲は多種多様でこれだけではとても描き切れません。ある翻訳聖書(KJV欽定訳)にはねたみの後に殺人を加えますが、肉の思いの数はもっともっと多いということができるでしょう。

 

ある人はこのリストを4種類に分類します。

 

第1は、姦淫、わいせつ、好色。いずれも性に関わる欲望です。なぜパウロはこれを最初に挙げたのでしょうか。当時のギリシヤ世界では、禁欲が徳目として挙げられていました。しかし、禁欲には反動が起きやすいものです。肉欲の命じるままに生きることが幸福だという考えが生じ、美しいものは肉体美だとされます。ギリシヤの彫刻には肉体の美しさを追求する作品が多く見られます。そして、性を謳歌する傾向が伴います。実際、ギリシヤ文化は、性的放縦を伴う場合が多かったのです。買春、姦通、不倫、不貞が横行する社会でした。ローマ人の社会も同様です。パウロはその有様を直視しているのです。

 

フランシスコ・ザビエルが日本伝道を志したのはインドで出会った日本人の聡明さであったといわれます。論理的にものを考え、理路整然とその考えを示す。こうして日本宣教のため上陸しますが、ザビエルは日本人の欠陥は性的なことに関しては野放図だと指摘しています。性的な放縦は人間の目立つ、さらに制御できない肉の思いなのです。だからパウロはここで最初に列挙します。

 

第2は偶像礼拝と魔術。これらは「霊的な」=宗教的な面での肉の思いです。矛盾した表現ですが、宗教の領域こそ人間の欲望の発露の場所にもなります。自分で神を作り出し、超自然的な力を誇示し、それを欲望の実現のために乱行をします。

 

第3は、敵意以下ですが、これらは対人的に作用する肉の思いです。一番多く挙げられています。それだけ一般的かつ多様ということでしょう。これらは心の中で生じるだけではなく、実践に移されます。その結果は醜い人間同士の争いとなり、多くの不幸の源泉となってしまいます。

 

第4は泥酔と酒宴ですが、これらは自己に対する肉の思いです。

 

肉の思いは多様ですし、時代が変わると形を変えます。また個人によってその現われは異なります。しかし、キリスト者といえどもこの肉の思いから逃れられません。私たちは肉の思いにいつも縛られています。キリスト者はどうすればこの肉に縛られない生活を構築できるのでしょうか。

 

【キリスト者は御霊に導かれなければならない】

答えは一言で言えば、キリスト者は御霊に導かれなければならないということです。肉の思いの縛られないためには霊に導かれるべきなのです。なぜなら、霊と肉は対立し、決して両立しないからです。肉に従いたくないなら御霊に従うべきなのです。御霊の導きを拒否すれば肉に縛られて生きていくし中のです。

 

では御霊の導きに従って生きるとはどういうことなのでしょうか。

 霊の導きに従って歩みなさい。歩むというのは「生きる」ということです。日常生活を営みなさい。新共同訳聖書は、「霊」と翻訳していますが、従来の翻訳聖書は「御霊」と訳しています。

 

このような訳の違いは意図があります。なぜ、「御霊」とせず、「霊」と訳したのか。御霊は、私たちの霊に働きかけられますが、その場合、私たちの自覚、意識、理性、判断、記憶などを無視されることはありません。むろんときに聖霊は奇跡的超自然的に作用されることもあります。預言者の場合、全てではありませんが、恍惚状態、無意識で神の託宣を与えられる場合があります。

 

しかし、このような御霊の働きは例外的であるといってもよいと思います。たいていの場合、人間の自覚、自意識が用いられます。預言者の場合もそうですが、別段意識を失うことなく、神の言葉を語ります。それは聖霊の導きです。聖書の著者、例えばパウロは冷静に、自覚して書簡にペンを走らせます。彼は決して恍惚状態で書いてはいません。しかし、御霊の働きかけ、霊感によって記したのです。

 

コリントの信徒への手紙一123 ここであなたがたに言っておきたい。神の霊によって語る人は、だれも「イエスは神から見捨てられよ」とは言わないし、また、聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えないのです。4 賜物にはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ霊です。

 

私たちは自覚的にイエス・キリストを信じます。そして、そのみ言葉に従います。私たちは操り人形のようにそうするのではありません。ロボットのように神に命令されて、考え、思い、行動するのではありません。わたしはわたしです。決してわたしを失ったりしません。それどころか、わたしが決心し、わたしが決意するのです。最終的には、わたしの霊が意志し、実行します。

 

ところが、そのわたしの霊の思っているところが御霊の思いなのです。わたしの精神と御霊の思いが一致するのです。こういうことが信仰において起きます。だから、新共同訳聖書では、御霊と訳さないで、「霊」と訳されたのです。ここで「霊」は純粋に人間の霊、精神、心ではなく、聖霊に導かれ、聖霊と同じ思いになっている霊のことなのです。

 

私たちは肉の思いに支配されやすい現実の中を生きています。その肉の支配から脱出するためには御霊に導かれなければなりません。御霊に導かれるとは、わたしの心の命じるままに生きることです。むろん、単にわたしの心の思いではありません。わたしの心は絶えず肉の思いに支配されます。ここではそのような単純な心の思いではなく、御霊に導かれ、御霊と一致しているわたしの心の思いに従うことなのです。

 

では、私たちは、どうすれば御霊に支配されるのでしょうか。当然、御霊は御言葉をもって語られる方です。神の言葉、律法もまた神の言葉です。神の言葉によって御霊は私たちに語ってくださいます。神の言葉とは聖書のことです。聖書が説き明かされる。そのとき、私たちの肉の思いは反発します。しかし、御霊に導かれて、私たちの霊はそれが神の意志であると知ります。そして、示された神の御心に従うとき、あるいは従おうとするとき、私たちは肉の思いではなく、御霊に導かれます。礼拝において私たちは常に神の言葉を聞きます。

 

【私たちの内に残る肉の思い】

私たちには肉の思いに従って生きていこうとする傾向が残っています。それは強力である場合も多いのです。逆に私たちの心は頑なです。神の御旨であると知っても従おうとしません。信仰の決心がそれをよく示します。信仰はいいものだ、人間には救いが必要だ。神の恵みは素晴らしい、と思います。しかし、だからすぐに誰もが信仰を持つとは限らないのです。私たちの心はそう簡単に変わりません。

 

伝道を志す人は皆これを経験します。どんなに熱心に説得してもなかなか人は決心しません。暴力を持って脅しても人の心は信仰に入るわけではありません。しかし、その不信仰は砕かれます。とても神を信じると思えない人が神を信じるようになります。私たちの霊は、そのままでは決して神に服従などしません。抵抗するばかりです。ところが、その頑固な心も聖霊によって変えられます。

 このことはキリスト者の生涯にわたって言うことができます。私たちは聖霊によらなければ御霊の導きに服することはありません。そのままではかえって肉の思いに縛られます。それが人間です。だから、禁欲で解決しようとしたり、人間的な熱心(苦行難行など)で打開を図ります。でもそのような努力には甲斐がありません。人の心ほど堅固なものはありません、ちっとやそっとでは動きません。ではどうすることもできないのか。そうではありません。

 

【ここは「御霊の導き」と翻訳すべきでしょう】

やはりここは「御霊の導き」と翻訳すべきでしょう。御霊は神です。御霊なる神は全知全能です。だから、不可能と思われることも可能とされます。御霊が働かれるとき、人の心を生まれ変わらせることもできます。事実再生することもできます。私たちは聖霊に頼ります。聖霊は神です。神として働かれます。肉の思いに抵抗することは至難のわざです。肉の思いにいつも敗北するのが現実です。しかし、私たちの魂を揺り動かしているのは聖霊です。私たちは霊に導かれます。決して、御霊は間違った方向に導かれません。御霊に信頼して行くことが信仰です。(おわり)

2014年08月03日 | カテゴリー: ガラテヤの信徒への手紙 , 新約聖書

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