十字架からの御言葉(その7):「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」ウイリアム・モーア

ルカによる福音書23章44-24章12

【イースター】
御存じのように今日はイースターです。今日、私達と全世界の教会は神の御子イエス・キリストの復活を祝い、主を死から蘇らさせた父なる神を讃美し、誉めたたえます。実は、その初めのイースターで起こった事は私達の信仰に最も重要な素晴しい出来事になります。何故なら、復活を通して全能の神はイエス・キリストがなさった事と言われた事を承認されたことの保証になるからです。主イエスの約束と教え、そして、最も大事な御自身与える救いは本当である事が復活を通して証明されました。その事が本当でなければ、真理の源、唯一の神は決して主イエスを蘇せるはずがなかったのです。ですから、私達は今日、復活の印と勝利を心から記念し、お祝いします。

【十字架上の七番目の発言】
今日、イースターの出来事がもっと深く分るようにイエス・キリストの十字架からの最後の御言葉を学びたいと思います。主イエスは十字架から七つの発言をなさいました。そして、今までその貴重な御言葉を通して私達はイエス・キリストについて重要な事を学んで来ました。私達罪人の為の御自身の赦しと愛と救い。また、十字架につけられた主の霊的と肉体的苦しみは私達の唯一の贖いになった事も学びました。そして、今日の最後の御言葉を通して、イエス・キリストの復活の信仰が分って来ます。今日与えられた聖書の個所によりますと、

「イエスは大声で叫ばれた。『父よ、私の霊を御手にゆだねます。』こう言って息を引き取られた」

と記されています。

「父よ、私の霊を御手にゆだねます。」

実はイエスはここで詩編を引用して発言なさいました。 詩編第31編6節にこの御言葉が書いてあります。

「まことの神、主よ、御手に私の霊をゆだねます。」

これはダビデの詩です。ダビデは敵によって苦しめられ、また、友人に見捨てられた大変困難な時、この信仰を告白しました。

「まことの神、主よ、御手に私の霊をゆだねます。」

そして、十字架で死ぬ直前に主イエスは最期の言葉として同じ信仰を告白しました。皆が聞こえるように大声で叫びました。

「父よ、私の霊を御手にゆだねます。」

【父よ】
主イエスの時代、ユダヤ人の母親はこの御言葉を幼い子供に教えました。暗い夜、寝る前に祈祷として子供達は、

「まことの神、主よ、御手に私の霊をゆだねます」

と祈りました。確かに、イエスは母マリアからこの御言葉を始めて聞いた事だと思います。しかし、イエスは

「まことの神、主よ」

の代りに、

「父よ」

と祈られました。イエスにとって神は愛する父のような存在でした。神に対して親しみと不動の信頼を持って、十字架で死なれた時、主イエスは自分の父に抱かれて眠り込む子供のように亡くなりました。イエス・キリストは自分の天の父なる神を完全に信頼して、十字架の大変な状態であっても、平安と希望を持って勝利者として息を引き取られました。主イエスはこの世にあるもの何一つ恐れなかったように、死も恐れませんでした。実際に、父なる神が御自分を復活させる力を信じ、神の御心に死ぬまで従いました。

皆さん、私達の愛する天のお父さんの手は信頼出来るものなので、私達もこの世にも死後にも、その御手に全てをゆだねられます。神は私達一人一人を創造して、そして、御自分の独り子をお与えになった程に、私とあなたを愛しますから、その愛を徹底的に信じる事が出来ます。イエス・キリストは神の御手を信じ、そして、その御手こそは主を死から復活させて下さいました。

【最初のイースター】
初めのイースターの出来事を見てみましょう。婦人達は主イエスの遺体を葬る準備をする為に朝早くお墓に行きました。愛する先生の残酷な処刑を目撃し、命のない遺体も自分の目で見ました。間違いなく、主イエスは死なれました。そして、イエスの死に伴って彼らの希望は消えてしまったのです。主は本当に救い主ならば、決してその悲惨な目にあうはずがないと思ったのです。深い悲しみの中で、婦人達はお墓へ行って、先生の為に最後の奉仕をしようとしました。しかし、墓場に着くと大変驚きました。聖書によりますと、

「見ると、石が墓のわきに転がしてあり、中に入っても、主イエスの遺体が見当たらなかった。その為、途方に暮れていると、輝く衣を着た二人の人がそばに現れた。」その御使いはこのように言いました。「なぜ、生きておられる方を死者の中に探すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになった事を思い出しなさい。人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活する事になっている、と言われたではないか。」

イエス・キリストは御自分の霊を父なる神の御手にゆだねました。そして、御子を復活させた事によって神は御自分の完全な信頼性を現して下さいました。ですから、私達もどんな場合でも、神の約束と神の愛を信じる事が出来ます。悩みと逆境の中にいても神は私達を支え強めて下さるので、絶対に負ける事がありません。そして、私達は使徒パウロと共にこのように告白出来ます。

「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くという事を、私達は知っています。」(ローマの信徒への手紙8章28)

【新しい命への復活】
さらに、私達の霊を御手にゆだねると、神は私達を霊的な死の状態から新しい命へと復活させて下さいます。使徒パウロは私達の救われる前の状態をこのように描写しました。

「あなたがたは、以前は自分の過ちと罪の為に死んでいたのです。この世を支配する者、かの空中に勢力を持つ者、すなわち、不従順な者たちの内に今も働く霊に従い、過ちと罪を犯して歩んでいました。私達も皆、こういう者たちの中にいて、以前は肉の欲望のおもむくままに生活し、肉や心の欲するままに行動していたのであり、ほかの人々と同じように、生まれながら神の怒りを受けるべき者でした。」それは私達の霊を神にゆだねる前、つまり、イエス・キリストを救い主として受け入れる前の希望のない状態であります。しかし、主イエスを受け入れると全てが変わります。「憐れみ豊かな神は、私達をこの上なく愛して下さり、その愛によって、罪の為に死んでいた私達をキリストと共に生かし、......キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせて下さいました」と使徒パウロはエフェソの信徒への手紙2章16に書きました。

イエス・キリストの贖いの死のお陰で私達は神を知る事が出来、御自分の愛された子供のように主との交わりを楽しむ事も出来ます。神の敵の希望のない霊的に死んだ状態から、神の子供としての恵まれた立場に復活させられたのです。その故に私達は主イエスと共に、霊を神の御手にゆだねます。

イエス・キリストは十字架に架かっていた時、御自分の霊を神の御手にゆだねて、死んでも生きる事が出来ると心から信じたのです。この世での事が全てではないと信じ、平安と希望を持って息を引きとられました。そして、永遠の命の印として、神は御子を復活させて下さいました。従って、イエス・キリストの復活のお陰で私達も死に対する神の勝利を期待し、楽しみに待つ事が出来ます。主イエスの贖い死のお陰で、信じる者には天国の戸が開かれ、言い尽くせない素晴しい神との永遠の命に入ります。

【ある双子の話し】
昔々、男の双子が母の胎に孕みました。その二人は段々成長して、自分達が生きている事と胎内の環境を認識するようになりました。彼らは喜んでその安全な所で生き、一緒に楽しい日々を過ごしました。ある日、一人はもう一人に、「この素晴しい所に孕まれ、良かったですね。私達のこの世界は本当に良いですね」と言いました。そして、もう一人は大賛成して、「母が命を下さり、二人で共にこの所で生きる事は大変有り難い」と返事しました。彼らは少しずつ大きくなり、自分の小さな世界で自由に遊びました。そして、自分達の環境を探検して、ある日へその緒を見つけました。へその緒を通して母から栄養を頂く事が分って驚きました。「母の愛はどんなに大きいでしょう。自分が持っている全ての物を私達と分け合って下さいます」とその二人は思いました。

時間が経つと共に自分の体が変わって来る事に気が付きました。「体が変わって来るって、どう言う意味でしょうか」と一人がもう一人に聞きました。「その意味はもうすぐこの所を出なければならない」と返事をしました。間もなく自分の素晴しい世界を去ってしまわなければならない事を思って二人は非常に不安になりました。「もし可能だったら、いつまでもこの所にいたい」と一人が言いました。「それはそうですが、実は、私達は生まれなければなりません。それは絶対に避けられない事です。私は誕生後の命を信じる。あなたはどう思いますか」ともう一人が言いました。「誕生後の命?それは不可能でしょう。この所から出たら、へその緒が切られ、栄養が受けられなくなり、死ぬでしょう。あなたは生まれた人と話した事がないでしょう。生まれてから母の胎に帰った人がいませんから、誕生後の命を信じられません。」この事を思いながら彼は絶望しました。「もし私が生まれる為だけに孕まれ、胎内で十ヶ月も成長していたならば、全ては無意味で空しいです。そして、母もいないかも知れません」と彼は言いました。もう一人は、「母は絶対にいるよ。いなかったら、私達が受ける栄養は何処から来ますか」と返事しました。「栄養はこのへその緒から頂く。そして、この胎内の世界は永久にあったのです。母が本当にいれば、どうして私達は母を見た事がないでしょうか。私達が何も知らない小さい時、私達は何かにすがりつきたい、また慰めになるから、母と言う存在を作り上げたに違いありません。」

双子の一人はこのように絶望しましたけれども、もう一人は母の愛を信じ、自分の命を母の手にゆだね、安心しました。そして、やがて生まれる日が来ました。出産は大変ですけれども、やっとその二人は狭い母の胎から新しい世界に入りました。息もちゃんと出来て落ち着くと彼らはゆっくりと目を開き、大喜びの母の美しい顔を見る事が出来ました。そして、彼らは母に抱かれた時、悟りました。自分達は母の家にいたのです。

「父よ、私の霊を御手にゆだねます」

と主イエスは祈られました。そして、イースターに真実である父なる神は御子を復活させて下さいました。イエス・キリストの贖い死と復活のお陰で私達も霊を真の神の御手にゆだねられます。そして、私達もこの世にも、死後にも、神の愛された子供のように豊に、豊に生きられます。(おわり)

2006年04月16日 | カテゴリー: エフェソの信徒への手紙 , ルカによる福音書 , 新約聖書

コメントする

トラックバック(0)

トラックバックURL: http://www.nishitani-church.jp/cgi-bin/mt/mt-tb.cgi/60