十字架からの御言葉(その5,6):「渇く」と「為しとげられた」ウイリアム・モーア

ヨハネによる福音書19章28-30

聖書によりますと、イエス・キリストは十字架に掛けられた間に、七つの御言葉をおっしゃいました。 今日は5番目と6番目の二つの十字架からの御言葉を学びたいと思います。それは

「渇く」と「成し遂げられた。」

です。

【渇く】
先ず「渇く」を学びましょう。実は、先の四つの意味深い発言に比べると「渇く」と言う単純な表現はあんまり大した御言葉ではないかのように見えます。私達も何度もそのような言葉を言った事があるし、子供から聞いた事も結構あります。喉が渇いた事、誰でもその経験があります。人間の体重の約7割は水だそうです。そして、身体の正しい働きは水に頼っています。人間は食べなくても結構長く生きられますが、水が飲めないと大低数日が限界です。

【脱水】
私はカリフォルニアに行く度に山歩きをします。いつも泊る所はロサンジェルスの近い郊外になります。そして、そこには鹿と熊と山猫が出るMt.Wilsonと言う高い山があります。南カリフォルニアは乾燥した砂漠のような気候ですから、山歩きをすると、十分な水を持って行く事は何よりも大事です。そして、喉の渇きを感じる前に少しずつ水を飲む必要があります。そうしないと、脱水状態になって、倒れます。実は、山道に迷って脱水で亡くなる人も珍しくはありません。

十字架につけられたイエス・キリストは大変な渇きを覚えました。出血と厳しい日差しと比べられない程の苦痛の故に喉が酷く渇いて来て、「渇く」と言われました。実際に、誰でも同じ状態だったら、「渇く」と言って、飲み物を願うでしょう。間違いなく、主イエスの右と左に十字架につけられた犯罪人も激しい乾きに苦しめられていました。ですから、イエス・キリストの「渇く」と言う御言葉を通して、主は人間であることを確かめられます。主イエスは100%真に神でありながら、同時に100%真に人間でもありました。

【人間となられたイエス】
私とあなたのように痛みを本当に感じ、私とあなたのように喉も渇いて来ました。主は本当に人間である事はなぜそんなに大事でしょうか。実際に、イエスが人間を贖おうとしたのなら、イエスは人間にならなければなりませんでした。私達をイエスのようにする為には、イエスが先ず、私達のようにならなければなりませんでした。だからと言っても、全く清い人間だけが私達の代わりに罪の罰を受ける事が出来、私達を神と和解させて下さいます。イエスが渇きを覚えた事を通して御自身が人間である事は明白になります。真の人間として十字架の痛みと苦悩とを経験されました。「渇く」という主イエスの発言は人間として御自分の苦しみが現実なものである事を保証します。

【主イエスの霊的渇き】
間違いなくイエス・キリストは大変な肉体的渇きを覚えられました。しかしながら、肉体的渇きだけではなく、激しい霊的な渇きも経験されたのです。先週の説教で強調しましたけれども、十字架で私達の刑を受けた間、天の父なる神はイエスから遠ざかってしまいました。そうしないとイエスは私達の代りに罪の為の罰を受けられなかった事になります。十字架の時点まで父なる神は主イエスといつも共にいて、常に力や慰めや助けや愛などを与えて下さいました。イエスにとってその交わりは何よりも大事で、なくてならない信頼関係です。しかし、十字架に架かっていた間、父なる神は御子を見捨てて、共にいて下さいませんでした。

イエスは始めてその空しさと孤独を経験して、激しい霊的な渇きを覚えられました。神との交わり、つまり御自分にとって一番貴重な関係がなくなることは、何よりも辛かったのです。詩編42篇24に主イエスの霊的な渇きがよく表現されています。

「涸れた谷に鹿が水を求めるように、神よ、私の魂はあなたを求める。神に、命の神に、私の魂は渇く。いつ御前に出て、神の御顔をあおぐ事が出来るのか。昼も夜も、私の糧は涙ばかり。人は絶え間なく言う、『お前の神はどこにいる』と。」

十字架に掛かっていた主イエスこそ、そのお姿でした。

愛する兄弟姉妹、イエス・キリストがその霊的な渇きを経験されましたので、私達は霊的に渇かなくても良いのです。主御自身の苦しみと贖いの死を通して私達の全ての罪が赦され、神と和解されたのです。つまり、その犠牲は、信じる者の為に、神との平和をもたらして、私達は御自身の子供のように神を知る事が出来ますし、神はいつも、この世にあっても、永遠にも私達と共にいて下さいます。主イエスが井戸で会ったサマリアの女におっしゃった事を思い出させます。井戸で汲んで飲む水について、

「この水を飲む者は誰でもまた渇く」

とイエスは言われました。けれども主イエスが与える霊的な水は違います。

「私が与える水を飲む者は決して渇かない。私が与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水が湧き出る」(ヨハネによる福音書4:13、14)

と主が約束されました。

イエス・キリストのみが人間の霊的な渇きを満たす事が出来ます。本当の希望と目的、また生きる力と慰めを与えて下さいます。主イエスが十字架で渇きを覚えられましたので、私達は渇かなくても良いのです。

【成し遂げられた】
今日の個所の30節を見ますと、主イエスの十字架からの第六の御言葉が記されています。

「イエスは、この葡萄酒を受けると、『成し遂げられた』と言い、頭を垂れて息を引き取られた」

と書いてあります。

【勝利宣言】


「成し遂げられた。」

これは敗北感からの叫びではなく、主イエスは勝利の叫びをあげて息を引き取られました。主は悔しい気持ちで「全てが終わった」と言ったのではありません。勝利を得た喜びで

「成し遂げられた」

とおっしゃいました。闘争は終わって、戦いに勝ちました。そして、十字架の上にありながら、イエスはその喜びを味わいました。父なる神から託せられたもっとも大事な使命を果たして、満足と平安のうちに天に帰る事が出来ると言う気持ちで、イエスは

「成し遂げられた」

と叫んでお亡くなりになられました。

【十字架で主が成し遂げられた三つの恩恵】
主イエスは御自分の十字架の死を通して何を成し遂げられたか。そして、その出来事は私達と何の関係があるのでしょうか。実は、主の十字架の死を通して全人類は比べられない程大きな恩恵を受けたのです。神から少なくとも三つの賜物が与えられました。

【全人類の罪の贖い】
先ず、キリストは十字架で私達の罪を贖って下さいました。その最も大事な事を成し遂げられました。聖書によりますと、

「罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、私達の主キリスト・イエスによる永遠の命なのです。(ローマ6:23)」

罪の全くないイエスは十字架で私達に代って死んで下さいましたので、

「主の血によってあらゆる罪から清められます」(ヨハネ一1:7)

と記された通りです。

私達罪深い人間は自分だけの罪の報酬を払えます。しかし、唯一の清い人間である主イエスは御自分の十字架の贖い死によって、私達を清める事が出来ます。罪のない主イエスは私達の為に死んで下さいましたから、神の目から見ると私達は全く罪のない者になります。

【神との和解】
イエス・キリストが成し遂げられた第二の恩恵は、神との和解です。罪の故に神の敵になった私達は主イエスの死によって神と和解されました。清められましたので、愛する造り主との関係が回復され、神の仲間として受け入れられました。そして、神と和解させて頂いた私達は主の怒りの代りに、御自身の愛と交わりの中に生きる事が出来ます。イエス・キリストは十字架でその素晴しい恵みを授けて下さいました。

【救いの不動の確信】
最後に、主イエスは永遠の救いの確信を私達に与えて下さいました。その事も十字架の御業で成し遂げられました。主の犠牲は完璧ですから、有効と力はいつまでも続きます。繰り返さなくても良いのです。ですから、私達の永遠の救いは確かなものになります。罪を犯しても神の赦しを受けつつ、神の裁きと怒りの恐れは完全に除かれて、救いは永遠に保証されています。

主イエスはこのように約束されました。

「私の羊は私の声を聞き分ける。私は彼らを知っており、彼らは私に従う。私は彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、誰も彼らを私の手から奪う事は出来ない」(ヨハネ10:27)

と記されています。

主イエスの十字架の贖いのお陰で私達の救いは安心で、確かな事です。誰も、何もその恵みを私達から取り上げる事が出来ず、失う事もありません。現在この世にても、永遠までも、神の子供のように生き、主の豊かな、豊な恵みを受けられます。主イエスは御自分の使命を成し遂げられましたので、私達はそう言う不動な確信を持つ事が出来ます。

この三つの最も貴重な恵みは誰でも受ける事が出来ます。どのように受けられるかと言いますと、それは全く神の賜物ですので、自分の努力で勝ち得る事が出来ないし、自分の善い行いによって儲けられません。神の救いは始めから終わりまで信仰によって得るものなのです。

「主イエスを信じなさい。そうすれば、救われます」(使徒言行緑16:31)

と記された通りです。つまり、自分の救い主としてイエス・キリストを心から受け入れる事です。

「成し遂げられた」とイエスが十字架からおっしゃいました。すなわち、主イエスは人間の唯一の救いを成し遂げられました。御自分の死を通して私達を贖って下さいました。何よりもそれは神の福音の本質です。どうか私達一人一人はその福音を信じ、愛する神の素晴しい恵みを経験出来るように祈ります。(おわり)

2006年04月09日 | カテゴリー: ヨハネによる福音書 , ローマの信徒への手紙 , 使徒言行録 , 新約聖書

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