2014年1月19日、説教「キリストと神の使徒からのよき知らせ」金田幸男牧師

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転入式:金田益美姉

2014年1月19日説教「キリトと神の使徒からのよき知らせ」金田幸男牧師

聖書:ガラテヤの信徒への手紙1章1 -- 5

1 人々からでもなく、人を通してでもなく、イエス・キリストと、キリストを死者の中から復活させた父である神とによって使徒とされたパウロ、2 ならびに、わたしと一緒にいる兄弟一同から、ガラテヤ地方の諸教会へ。3 わたしたちの父である神と、主イエス・キリストの恵みと平和が、あなたがたにあるように。4 キリストは、わたしたちの神であり父である方の御心に従い、この悪の世からわたしたちを救い出そうとして、御自身をわたしたちの罪のために献げてくださったのです。5 わたしたちの神であり父である方に世々限りなく栄光がありますように、アーメン。

 

(説教要旨)

【使徒とは】

まず最初に、パウロは、自分のことを、「使徒」であると語ります。「使徒」とは全權を委託された使者、国家間では「全権大使」のような役割を与えられたものを意味しています。

外交官である大使は本国政府や(古代世界では)王侯の意志を正確に伝える義務があります勝手に自分の所信や考えで.発言したり、行動することは許されていません。使徒も同様です。

 

【父なる神とイエス・キリストの使徒であるパウロ】

パウロは、自分は、父なる神とイエスキリストの使徒であると言います。つまり、パウロは父なる神とイエスキリストから派遣されて語るものです。彼は神とキリストの言葉を語るものだと主張しているのです。

 

これはとても重要なことです。神が不在と思われ、神の言葉など聞けないと思っているこの世の中に生きる人に、パウは神の言業を語るものなのだと主張しているからです

 

【聖書は神の言葉】

聖書は、聖なる書というのですが、多くは、しかし、普通の人間が書いたもののように思われて います。古代のひとつの宗教的文書に過ぎない、あるはユダヤ教という民族宗教の経典に過ぎないとも思われています。

 

また、聖書は神の言葉と言われます。でも、所詮人間が書いた書物に過ぎないと考えられています。つまり多くの古典のひとつに過ぎないと見られています。けれども、パウロの主張によれば、彼の書いているこの書物こそ神の言葉だということになります。

 

古代世界では、私的な手紙のほかに、書簡といわれる公的な手紙が用いられていました。私的な ことは、多くの場合、蝋の張った板に鉄筆で書きます。これはすぐに消すことができます。それと共に、羊皮紙あるいはパピルス紙という材料に書かれる公的な文書がありました。

 

【神の言葉であるパウ口の手紙】

パウ口の手紙は 私的な内容を含んでいるから単なる私信と言うのではありません。彼は使徒として、その資格で公的な權威ある書簡を書いているのです。それは神の言葉もあります。

こうして、私たちは神の言葉を読み、また聞くことができるのです。この亊実はとても重いことです6

【牧師も神の言葉を語る】

牧師は説教を主とする働きに従事しています。牧師の説教は神の言葉だといわれます。それをいて多くの人はそんな馬鹿なと思うに違いあません。牧師も一人の人間に過ぎません。その牧師がどうして神の言葉を語ることができるのか。畏れ多いことではないでしょうか。神の言葉を語れるのは、牧師もまた神から派遣されているからです。どうしてそれが分かるのか。

【パウロの驚くべき体験】

パウロの場合、使徒言行録にある劇的な経験をしました。彼はキリスト教の迫害者でしたが、ダマスコという町に行く途中、そこで驚くべき体験をします。それはイエスキリストの出現ですが、それと同時に彼が経験したことは、主イエスのために仕えるものとされたという亊実です。

 

パウロはそのときアナニヤという人物から洗礼を受けていますし(使徒9:18〕、彼が使命を伝えられたのもアナニヤによりますが、パウロはそのような一連の出来事を経験して、主が直接使徒に任命されたのだと確信をしています。

 

それがガラテヤ1章1節の言葉となっています。「人からでも、人を通して でもなく」、いかなる団体の任命によってでもなく、自分はキリストと神から使徒として任じられた と強く断言しています。

 

これはパウロの、特異ではあるが単なる宗教体験だと切り捨てることはできるかもしれません。しかしどうであれ、パウロはおそらくその体験は真実であると語るはずです。 これはパウロにとって否定しがた事実であるのです。

 

【牧師の召命感】

牧師の体驗はパウロと違います。けれども、似たような経験を踏んで牧師になっています。それは召命感と言われています。それぞれの体験は異なっている様相を示します。どうして牧師になったのかは人それぞれ千差万別です。同じ体験はありません。強烈な自覚を持っている人もおれば、そうでない人もいます

 

共通していることは、牧師として神から召しだされたという思いです。あるいは確信と言ってもよいと思ます6この召命感はその人の確信で、そんなの自己満足だと他人は言っても、妄想だと批判しても、牧師に召されたと思っている人には通じませんそれを確かめる方法を教会の組織や制度は有していますが、決定的なものではありません。人間的な能力という点では、牧師以上の知識を持ち、話術や雄弁さをはじめ多くの才能に恵まれた人はいます。牧師にそういう能力が不要と言うのではありませんし、だからこそ自己修練は常に求められるのですが、牧 師の立っているところは神から牧師に召されたという確信です。

 

パウロは自分が使徒に任命されたという信念に生きていました。だから、彼は自分の語るところは神の言葉だと確信できました。派遣した方の権威をもってその意志を忠実に語る限り、彼は神の言葉を語ったのです。

 

牧師もまた、自分は牧師として立て、召してくださった方の意志を語っていると確信するところ で神の言葉を語りうるのです。むろん、牧師の権威を振りかざして、何事でも自分のいうことを聞 け、と命じるなどは乱暴な話です。牧師にはこの誘惑を避けることができません。自分の言っていることがどうして受け入れないのか、言うこと、つまり説教を聞かないのかと思うのです。牧師が いうことは何でも神の言葉だというほど単純でほありません。パウロ自身、彼が書いたり、話した りする何でもかんでも神の言われることだと主張しているわけではありません。神の言葉であるの は根拠があるのです,

 

2 -- 3節は今回省きす。

 

【死者を復活させる神】

パウロは,自分が神に使徒とされたと言いますが、1節では、キリストを死者の中からよみがえらせた神とも語ります。彼は確かに神の使徒であり、その神から遣わされました。それだけではないのです。その神は死者を復活させる神なのです。つまり、彼は復活の力を持ち、それを行う神の 使者なのですから、彼が語る言葉はこのことを切り離すことほできません。っまり、パウロは確か に神の言葉を語るのですが、懣然と神を語るのではなく、死者を復活させる神の言葉を語るのです。

 復活の力はイエス・キリストにおいてはっきり示されていると語ることを含みます。換言すれば、 復活のない神の言葉はありえないということです。いろいろな神の言葉があるようで、実はキリス トを復活させるほどまで死を打ち倒す神でなければ、その言葉は神の言葉とは言いえないのです。

 

【罪の支配下にある世界】

さらに、4節で、そのキリストは、この悪の世から私たちを救い出そうとして、ご自身を私たちのためにささげた方と言います。悪の世とはいうまでもなく、私たちが住んでいるこの世界です。ただし、この世界は悪の世界だと言う場合、ただ悪人がのさばっている世(事実そうなのですが)、 あるいは災害などの災いが生じる生きにくい世に中を指しているのではありません。この世は私たちには去って行きたいところと思っている人がたくさんいます。この世界は天国でも極楽でもありません。ただパウロがここで言うのは、単純な悪の世ではなく、罪の支配下にある世界という意味であり、罪の結果である死の支配する世界と言うべきです。

 

【罪と死の世界を打ち破られたキリスト】

死は大きな力を有します。人間のあらゆる部分を侵食しています。キリストはこの世界から私たちを救い出そうとしているのです。

 

キリストは私たちの罪のために自らをささげられました。あるいは犠牲としてささげられたというべきです。それはキリストが十宇架にかけられたことを意味しています。キリストが十本架につけられた亊実を誰も否定しないでしょう。事実間題として、復活のほうは信じられないと語る人は多くいます。でも、同時に、キリストの十字架の「意味」を否定する人も多いのです。単なる亊実 ではなく、そこに大きな意味があります。

 

【あらゆる罪を赦すキリスト】

キリストはあらゆる罪のためにご自身をささげ、十字架の上で死なれました。キリストはあらゆる罪を赦されます。例外はありません。ときどき「聖霊を汚す罪は赦されない(ルカ12 :10)」 とあり、赦されない罪もあると主張する人がいますが、聖霊を汚す罪とは神を拒否し、キリストを 否定し、背を向ける罪で、赦されない罪があるなどいうのもこれにあたります。

 

キリストはあらゆる罪を赦すために十字架にかかられたのです。そして、それはただ恵による というのがパウロの堅い信仰でした。

 

このキリストの使徒ですから、パウロはキリストの十字架を語り続けました。そのとき、パウロ はキリストの使徒として語っています。

 

【説教の生む実】

説教もまた同じことが言えます。牧師が自分の信念や聖書研究の結果だけを語っていてそれで神 の言葉だというわけではありません。牧師を召した方の御心を語るのでなければ、説教が自動的に神に言葉に変化するのではありません。

 

会衆はただの聞き手ではありません。説教で十字架と復活が真実に語られているかどうか吟味しなければなりません。語られておれば、好き嫌いの問題ではなく神の言葉として受け入れなけれ ばなりません。会衆には、その「義務」があります。他でもない、神が語るからです。

 

この職別する営みが説教を聞く人の中で生じてくるのでなければ牧師の説教はいかなる結果も生じないと言えましょう。(おわり)

2014年01月19日 | カテゴリー: ガラテヤの信徒への手紙 , 新約聖書

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