2014年4月27日説教 「呪縛からの解放」金田幸男牧師

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2014年4月27日説教「呪縛からの解放」金田幸男牧師

聖書:ガラテヤの信徒への手紙3章12-14

12 律法は、信仰をよりどころとしていません。「律法の定めを果たす者は、その定めによって生きる」のです。

13 キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました。「木にかけられた者は皆呪われている」と書いてあるからです。

14 それは、アブラハムに与えられた祝福が、キリスト・イエスにおいて異邦人に及ぶためであり、また、わたしたちが、約束された"霊"を信仰によって受けるためでした。

 

要旨 

【律法の定めによって生きる】

パウロは旧約聖書を何度も引用しています。

12節「律法の定めを果たす者は、その定めによって生きる」は、レビ記18:5の引用です。新共同訳聖書ではレビ18:5は「わたしの掟と法を守りなさい。これらを行なう人はそれによって命を得ることができる。わたしは主である」とあって、この方がズバリ意味するところは明白です。

 

「律法を守れば永遠の命が与えられる」。だから、一所懸命になって律法を守らなければならないという結論が出てきて、それをそのまま受け入れられ、何とか律法を守ろうとする人も出てきます。

 

実際ユダヤ人、特にキリスト時代のファリサイ派は律法の掟を厳格に守ろうとしました。若いころのパウロもその一人でした。

 

【律法は、信仰をよりどころとしていません】

パウロはそのような聖書の読み方の誤りに気づきます。「律法は信仰をよりどころにしていません」。律法によって救い、永遠の命を獲得する道と信仰によって救いを得る道は全然違うのだという真実を見出したのです。救いに至る方法として律法と信仰は両立しないのです。

 

律法によって救いを獲得しようとする人は徹底的に律法を遵守しなければなりません。しかし、パウロはこのように語り、その不可能性を明らかにします。

 

「律法の書に書かれているすべての事を絶えず守らないものは皆、呪われている」(10節)。これは申命記27:26の引用ですが、「絶えず」と言われます。起きているときも眠っているときも律法を守らなければなりません。パウロはこのみ言葉によって自己吟味を求めます。実際にパウロはそれを実行した人物です。たいていの人は中途半端にしか自己評価しません。

 

【神は全てをご存知です】

残酷な行為をする夢を見ます。夢の中で淫らな思いにふけります。夢は無意識の中で見るものです。しかし、神は私たちの夢の中もご存知です。口には出さないけれども、腹の中で罵ったり、嘲ったりします。誰も知らないわけですが、神は心の中をご存知です。誰も人が見ていなければ恥ずかしいことも平気でやります。誰も非難しません。しかし、神は全てをご存知です。全て律法違反であって、神に呪われるに値します。

 

私たち自身は自己弁護に終始します。たまたまそうなったのだと偶然のせいにします。仕方がなかったのだと責任を放棄します。少しくらい構わないではないかと居直ります。私たちは誰でも罪の重大さを認めないことに長けています。律法は明白に罪過を明らかにします。律法の定めにそぐわないならばその人は神に呪われている。

 

パウロはかつてファリサイ派であって、人並み以上に律法に熱心でした。神と人に正しい人間であると評価されたいと思っていました。そのパウロが律法の所に記されていることを絶えず、全て守らなければ呪われるというのです。誰も神の前では誇ることができない。それどころか絶えず律法に逆らっている。これがパウロの実感でした。

 

【自分に正直とは】

パウロほど自分に誠実で正直な人はいません。自分に正直という表現はしばしば誤解されています。あるがままの自分でいいのだという居直りを自分に正直と言っているだけです。自分に正直とは真摯な自己批判のことです。パウロは自分自身を評価するときに、律法に完全に一致していない自己を見つけたのでした。誰も律法をことごとく守れないのです。

 

 他の人がどう見ようともそれに関わりなく、神の前で自分を判断しなければなりません。パウロはあるときそれに気づきます。それまで律法を完全に守ろうとし、守らなければならないと思っていました。パウロは神の前で自分自身を裸にして、どれほど神から離れているか気がついたのです。神の前で恥ずべき自分を発見したのです。神の前で絶えず律法を守っていなければ律法違反者であり、神に呪われるのです。

 

【律法違反者は神に呪われる】

「呪われている」と言われています。神の呪いとは不快を催す言葉です。躓きを感じる人もいるでしょう。

 

神に呪われているとは、不幸な目にあうこと、例えば愛するものとの死別、事業の失敗、病苦などに見舞われると、自分は呪われているとします。不幸は、ときどき連続してやってきます。不思議に不幸は繰り返され、積み重なります。運命に呪われているとか、神に呪われていると叫ぶ人もいます。

 

呪いという言葉はおどろおどろしいのですが、不運な経験をしますと、自分は呪われているとか、自分の家は呪われているとか・・・そして、そこにつけ込んで、何かの宗教に勧誘されたりします。不運の連鎖を切断する効果のある信心があると言うのです。厄払いとか、何かの呪詛で呪いを消し去ることができると言われるとそのような教えに傾いてしまうのです。

 

【呪いとは】

 呪いはそのようなものではありません。呪とは神に捨てられることです。神に遺棄され、見捨てられ、厳しいさばきを受けることです。永遠の滅びに投げ込まれることです。これがさばきです。

 

 このようなことを言いますと、そんなことは作り話、フィクションだとします。神のさばきだといってもそんなものはあるはずがないと反論します。不快感を示します。人間を怖がらせる創作だともいいます。別段深刻に考えません。むしろ、先に挙げた不幸や不運を呪いとしてしまうのです。神のさばきなど無視しながら、人間を襲う不幸に怖れます。

 

 【木にかけられるものは皆、呪われている】

不幸なことや不運なこと以上に、神のさばきのほうが深刻です。何故そんなことが言えるのでしょうか。13節に「キリストはわたしたちのために(「わたしたちに代わって」と訳すべきです)、呪いとなって(呪われたものとなって)」とあります。そして、申命記21:23を引用します。「木にかけられるものは皆、呪われている」

 

申命記の記された時代には十字架刑はありませんでしたが、パウロはこの申命記の文章とキリストの十字架を結び付けました。申命記では、神に呪われていると見なされたものの死体を木の上で曝し、見せしめとしたことを指しています。神に呪われたもの、それは犯罪人だけに限られていませんでしたが、たいていの場合、神に罪を犯し、神から罰せられたと思われるものと考えられたのです。

 

十字架刑はローマ帝国では、身分の卑しい出の犯罪人の処刑方法でした。また政治犯に対しても行なわれました。それは極刑でした。ちなみにローマ人は、処刑方法にもランクをつけていたのです。

一番高貴な処刑法は自死です。血管を切り開いて徐々に死に至るようにするやり方です。十字架刑はその反対に一番惨めで残酷は処刑法で囚人をもっとも過酷に苦しませるやり方でした。

 

キリストはこの残忍で恐ろしい処刑の仕方で処刑されただけではなく、律法によれば神に呪われたものとして死なれたのでした。

 

イエス・キリストは神の子であられました。神の愛するひとり子でした。キリストの中に私たちは神の現われを見ます。イエス・キリストは素晴らしい方です。ところがそのキリストが十字架にかけられて死なれました。キリストは呪われたものとなりました。キリストの十字架に神の呪いを見ました。

 神の呪いはこのように恐ろしいのです。

 

 キリストは私たちに代わって十字架につけられました。私たちの身代わりとなって十字架の上で神の呪いとなってくださいました。

 「キリストはわたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました」(13節)。

 

これはキリスト教のもっとも重大な核心部分を記します。ここに書かれていることは最大の神の真実であり、この真実は何度も繰り返して語られなければなりません。

 

贖い出すとは、奴隷を買い戻す意味もありますが、ここは出エジプト記21:23以下に記される、有名な「目には目を、歯には歯を」と対応します。死刑囚を解放するために支払いが必要ですが、その場合は、命が要求されます。その命は何よりも人間の命でなければなりません。身代わりの命です。

 

【キリスト教信仰の中心】

キリストは、身代わりに命を投げ出し、それによって私たちは死刑に値するところから解放されました。律法のもとで、律法を完全に守れないで、呪われたものとなっている私たちを呪から解放してくださったのはキリストであり、十字架のキリストなのです。ここにキリスト教信仰の中心があります。

 

【永遠の祝福】

14節は、6,7節の主題に戻ります。アブラハムに与えられた祝福とは、単に、アブラハムの子孫が天の星の数ほど増えると言うだけではありません。死後を越えて神は約束を反故にされることはなく、永遠にまで続く祝福だということです。歴史の中でそれが明らかになります。

 

約束の地はカナンの地にとどまらず、永遠の御国にまで拡張されます。その約束はまずユダヤ人に限られず、イエス・キリストにおいては異邦人にまで及びます。救いの恵みは決してユダヤ人に限定されません。そして、ここで「わたしたち」というのはパウロを含めたユダヤ人を指していることは明らかです。アブラハムに与えられた約束は単なる地上に存在するイスラエル民族の国家ではなく、約束された霊が与えられるという約束です。

 

この霊は、御霊なる神であり、全てを新たにし、力の源であり、新しい命を与える霊です。ユダヤ人であろうともそれは信仰によって与えられるのです。決して律法の行いによるものではありません。

 この祝福を受けるという点で、ユダヤ人も異邦人も変わることがありません。共通しています。信仰により恵みによるのです。異邦人が排除されることはありません。(おわり) 

2014年04月28日 | カテゴリー: ガラテヤの信徒への手紙

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