20014年7月20日 説 教 「十字架のつまづき」金田幸男牧師

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2014年7月20日説教「十字架の躓き」金田幸男牧師

聖書:ガラテヤの信徒への手紙5章

7 あなたがたは、よく走っていました。それなのに、いったいだれが邪魔をして真理に従わないようにさせたのですか。
8 このような誘いは、あなたがたを召し出しておられる方からのものではありません。
9 わずかなパン種が練り粉全体を膨らませるのです。
10 あなたがたが決して別な考えを持つことはないと、わたしは主をよりどころとしてあなたがたを信頼しています。あなたがたを惑わす者は、だれであろうと、裁きを受けます。
11 兄弟たち、このわたしが、今なお割礼を宣べ伝えているとするならば、今なお迫害を受けているのは、なぜですか。そのようなことを宣べ伝えれば、十字架のつまずきもなくなっていたことでしょう。
12 あなたがたをかき乱す者たちは、いっそのこと自ら去勢してしまえばよい。

 

要旨 

【競走のコースを曲げること】

 7節で、パウロは陸上競技を比ゆに用います。古代世界でも競争は盛んで、その勝者は民衆の尊敬を受けました。競走は全速力で走ったり、持久力で長距離を走ったりしますが、コースから外れることは許されません。ガラテヤの信徒は今まで全力で走ってきました。ところが誰かが邪魔をします。競走のコースを曲げるようなこと、ゴールを偽ものにすることなど、いろいろな工夫をしてガラテヤのキリスト者の信仰を途中で挫折させようとするものがありました。

 

パウロはここで邪魔をするもの、10節では「惑わす者」、12節では「かき乱す者」といいます。彼らは、福音だけではなく、律法の行いも必要だと教えました。そのために割礼を要求します。その他の律法の行いを実践しなければ救われない、異邦人もユダヤ人のようにならなければ神の国を継承できないと主張をしたのです。

 

 パウロはここでガラテヤの信者を厳しく断罪していません。信仰は個人の問題です。だから、ガラテヤの信徒たちが福音のみを信じる信仰から、律法の実践も救いに必要だという誤った教えに傾いていきましたが、その場合責任は決断した彼らにあるはずです。今日は自己責任の時代ですから、信仰を動揺させたガラテヤの信徒たちがその責任を問われなければならないはずなのです。

 

【偽教師、ユダヤ主義者】

パウロはこの手紙の中でガラテヤの人々厳しく責め、責任を問い、告発して当然です。パウロがそれをすることは正当であると思われます。ところがパウロが弾劾しているのは、彼らを惑わす偽教師たち、ユダヤ主義者です。福音信仰に律法の実践を加えてそれが救いの条件だとする異端をパウロは激しく非難します。それどころか呪い、呪詛さえします。誰であろうとも、ガラテヤの信徒を惑わし、最初の告白した信仰を歪めるものはさばきを受けなければなりません。パウロはこの偽教師には全く譲歩などしません。このパウロの姿勢には抵抗を感じる人もいるかもしれません。

 

本来厳しく責められても仕方がないガラテヤの信徒にはパウロは柔軟に対応しています。信頼さえ表明します。しかし、ユダヤ主義の偽教師にはもっとも過酷な裁きを願います。この落差は、人間的な感情と異なります。少々の違いなどには目をつぶる。これが私たちのすることです。福音理解に関してもそうです。ちょっとした違いなら何でも構わないと思います。

 

ところがパウロは福音の真理に関しては妥協しません。少しの妥協などしません。福音を捻じ曲げ、水増しし、曖昧にするようなものたちを許しておくことができないとするのです。一歩も退きません。彼らはれっきとしたキリスト者であると主張していたに違いありません。福音を奉じている。キリストを信じている。聖書を受け入れている。こういう点で同じだといい、そしてすぐあとで、ただし、行いも必要だと言い出すのです。パウロはこのような考え方を容赦しません。なぜなら、福音の真理、神の大きな恩寵をないがしろにするからです。福音を歪曲したり、曖昧にすることは決して許されないのです。

 

【勧誘する宗教】

 偽教師からの「誘い」がガラテヤの信徒に向けられていました。この語はパウロに向けられた言葉ではないかと言われています。ガラテヤの信徒たちを誤った方向に勧誘していると。しかし、パウロは偽教師たちこそガラテヤの信徒を勧誘するものだというのです。よく戸別のチラシ配付をしましたが、郵便受けに「セールス、宗教の勧誘、お断り」というステッカーが張ってありました。伝道などセールスと同じようなものと見なされています。パウロはそうではないといいます。ガラテヤの信徒の信仰を危うくするような偽教師たちこそ勧誘をしているのです。自分たちの陣営にガラテヤの信徒をお招きし、お誘いして、人数を増やすことが目的です。宗教団体の活動は多くの場合その団体の人数を増やすことを目的としています。まさしく勧誘することが伝道なのです。

 

【宣教】

私たちキリスト者も所詮同じだと言われてはなりませんし、自分にそんな言い訳をしてもいけません。勧誘に対置される言葉は「宣教」です。すなわち、キリストを救い主として宣言し、キリストの約束を恵みとして宣言するキリスト教会の伝道は単に自己の宗派の人数増やしに留まるものではありません。福音のみが救いに至る道であると確言し、明瞭に指し示すことです。

 福音に欠けがあり、人間が補いをする必要があるなどという教説は破棄されなければなりません。そんなことは決してありません。そんな教えを主キリストが認めるわけがありません。

 

【腐ったパン種の喩え】

 9節でまたパウロは比ゆを用います。パン種、イースト菌の喩えです。古代のイースト菌は雑菌も多かったといわれます。ですから、暖かく湿気の多いところにパンの生地を放置しますと、急速に膨らむのはいいのですが、食べるには適さなくなってしまいます。パン種が作用して練り粉全体が膨らみすぎると味も落ち、酸っぱくなったりして食用にならなくなってしまいます。

 

【別な考え】

パン種はいうまでもなく偽教師の教えを意味しています。10節で、それは「別な考え」とされています。異なる教えです。その間に何らかの共通点などない教えです。みかけは似たように思えます。実際、共通点がたくさんあるように思えます。福音そのものを否定しているのではありません。福音も必要、しかし、律法も上乗せされると教えるのです。このような偽教師たちの教えはパウロから見れば異なった教え、まったく別の教えとなります。見たところ共通点があっても、肝心の、イエス・キリストを信じる信仰だけが救いに必要だという教えとは水と油の関係なのです。

 

【パウロの信頼】 

これほどパウロは福音のみをいう教えに固執します。それはゆるぎない確信でした。救われるのはただ神の恩寵、恵みによるだけなのです。ここには妥協も譲歩もありません。それがパウロの姿勢でした。

 

 ガラテヤの信徒に対しては、パウロは驚くべき言葉を使います。「信頼する」という言葉です。ガラテヤの信徒が異なれる福音に行ってしまうことはありえない。パウロはそのように断定します。でも現状はどうであったでしょうか。ガラテヤの信徒とパウロの距離はすでにかなり離れていました。ガラテヤの人々はパウロに背を向けていました。しかし、ガラテヤの教会員が別の教えに傾いていくはずがないとパウロは語っています。それどころかあなた方を信頼している。現実は違っていました。ガラテヤの信徒たちは敵対さえしていました。パウロはその事実をよく認識していたはずです。ガラテヤの信徒たちはもうすでに律法の行いに拠って立っていたかもしれません。

 

 私たちの人間関係は少し溝ができると埋めがたいものとなります。そこにあるのは不信感です。教会でもこのことは起こりえます。そして事態は深刻になっていくものです。

 教会から離れて行ってしまった人々に、私たちはついそのような人が神から捨てられたのだと断言します。教会の外に救いはない。だから教会に背を向けたような輩は救いから漏れているに違いない。彼らは選ばれてはいない。こういう早合点をしているのです。

 

 パウロはそう言いません。彼らガラテヤの信徒を信頼している。なぜなら、主を拠り所とするからです。教会の人間関係の基礎はキリストです。この基礎の上に立っていたら信頼できる。ガラテヤの信徒たちは必ず戻ってくる。パウロは信じています。彼らが復帰する可能性は低いかもしれません。いったんパウロから離れてしまったのです。もう二度と戻ってくるはずもないと思いがちです。パウロはそう考えませんでした。

 

ガラテヤの信徒はユダヤ主義者の教えを捨ててもう一度戻ってくると信じています。あのユダヤ主義者の語る教えに満足できなくなるとパウロは思っていたに違いありません。なぜならキリストこそ宝だからです。そこに最大級の価値があるのです。福音の恵みを知ったものが、ユダヤ主義者の惑わしに惑わされ続けるはずがない。福音は素晴らしい。パウロはそのように確信をしていましたから、ガラテヤのキリスト者も同じようになるのだと信じていたのです。

 

キリストを拠り所にしてこそ、真の信頼が生じます。私たちの人間関係は相互不信と敵対や憎悪、嫉妬や疑念に満ちています。そのためにたがいの関係がばらばらです。教会だけではなく、キリスト者の家庭にもこの影響は及んでいます。パウロの言葉に耳を傾けるべきです。

 

【ユダヤ人には十字架は躓き】

 11節で、パウロが割礼を宣教しているという批判のあったことを推測させます。ユダヤ人には割礼を教え、異邦人には違ったことを言っているというのです。パウロははっきり否定します。相手がユダヤ人であろうとも割礼を宣伝したことはありません。割礼を宣教していたら迫害を受けることはない。ユダヤ人には十字架は躓きでした。十字架を語ったからユダヤ人からの迫害を受けるのです。ユダヤ人は、律法の行い、特にいけにえ奉献で贖われると思っていました。罪が許され、神の民として受け入れられると信じていました。だからキリストの十字架が贖いの犠牲だというようなパウロの教えは受け入れられず、伝統的なユダヤの宗教を破壊すると思われたのです。

 

1コリント1章23に記されているとおり、十字架はユダヤ人には躓きで受け入れがたかったのです。ユダヤの宗教がキリスト教の存在を認めがたいのはここにあります。律法を語っておれば、割礼を教えておればユダヤ人との摩擦は起きません。

 

 割礼は男性器の一部を切断する儀式ですが、男性器全部を取ってしまえと12節でパウロは語ります。激昂したような言い方です。しかし、福音のみを言う教えを否定して何かを付加する教えはパウロには決して認めることができない誤った教えなのです。(おわり)



2014年07月20日 | カテゴリー: ガラテヤの信徒への手紙 , 新約聖書

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