奴隷ではなく、子です ウイリアム・モーア宣教師

ガラテヤの信徒への手紙4章

1:つまり、こういうことです。相続人は、未成年である間は、全財産の所有者であっても僕と何ら変わるところがなく、2:父親が定めた期日までは後見人や管理人の監督の下にいます。3:同様にわたしたちも、未成年であったときは、世を支配する諸霊に奴隷として仕えていました。

4:しかし、時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました。 5:それは、律法の支配下にある者を贖い出して、わたしたちを神の子となさるためでした。6:あなたがたが子であることは、神が、「アッバ、父よ」と叫ぶ御子の霊を、わたしたちの心に送ってくださった事実から分かります。7:ですから、あなたはもはや奴隷ではなく、子です。子であれば、神によって立てられた相続人でもあるのです。


【養子縁組】
最近、アメリカで「Adoption」、すなわち「養子縁組」と呼ばれるテレビ番組は結構受けているそうです。その番組は事実に基づいたもので、毎週の日曜日の夜、養子に行く子供とその子を受け入れる家族のストーリです。番組は記録映画のように毎週新しい家族を紹介して、そしてその家族の養子縁組の経験を見せます。家のない幼い子供と子を欲しかっている家族が一つになり、お互いの愛が段々増えて行くのを見ると、とても心温まる嬉しい事です。番組はアメリカ国内の養子縁組と外国から養子にする家族のストーリも紹介しています。特に国籍と言葉と文化と人種を超える養子縁組のドキュメンタリーを見ると、驚くべき愛の力を感じさせられます。

【孤児になったアリーナ】

この間インターネットでその番組を見ましたが、6歳のアリーナという女の子が東ヨロッパのルーマニアの子供の家に住んでいました。アリーナの母親が病気で亡くなり、お父さんはアルコール中毒者でアリーナの世話が出来なくなり、親としての権利を放棄しました。アリーナの世話が出来る他の親戚もなかった為、アリーナは国の世話になり孤児院に送られました。

捨てられても、アリーナちゃんはとても明るくて、孤児院でお友達も沢山出来ました。ある日、アメリカから来た夫婦一組が孤児院を訪ねて、アリーナを養子にする事になりました。その家は男の子二人いましたが、何よりもアリーナのような娘も家族に加えたかったのです。新しい家族を得たアリーナは大変嬉しかったですが、孤児院のお友達から離れる事は、とても辛かったのです。

【孤児院の友だちを招待】

アリーナちゃんはアメリカへ渡り、段々と言葉も覚え、生活にも馴染んで来ました。彼女は新しい両親と兄弟を愛しアメリカでも友達が沢山出来ました。しかし、ルーマニアに残した孤児院のお友達を忘れられなくて、どうしても会いたかったのです。そして、ある日彼女はアイデイアがありました。ルーマニアのお友達を自分の新しい家に招待する夢でした。夏休みの間でもアメリカに来て貰って、楽しい時間を過ごしたかったのです。アリーナの家族は彼女のアイデイアを積極的に受け入れ、出来るだけその夢を実現しようとしました。そして、養子支援グループとボランテイア達と共に、その夏、キャンプ場を借りて、16人のアリーナちゃんの孤児院のお友達を招待する事になりました。その計画がうまくいって、アリーナの仲間は二週間の間、自由に遊んだり、美味しい食べ物を食べたり、孤児院から離れた生活を楽しみました。

お友達が帰る前にアリーナちゃんはこう言いました。「皆の助けで私の夢が叶えられた。」その経験を通してアリーナちゃんは自分の新しい家族の愛の深さがよく分かりました。

今日の御言葉にこう記されています。4節を見て下さい。ガラテヤの信徒への手紙4章4節「時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました。それは、律法の支配下にある者を購い出して、私達を神の子となさる為でした。」聖書の原文を見ると、ここでの「私達を神の子となさる為でした」は「養子縁組を通して私達は(神の)子となる為でした」となります。この御言葉によりますと、初めてのクリスマスの際、神はイエス・キリストをこの世に遣わされた理由は私達の永遠の救いの為だけではなく、更に私達を御自分の子供として養子にする為でもありました。つまり、罪の故に私達は神との関係を壊し、孤児のようでした。罪人として私達は神との縁を切ってしまいました。しかし、主イエスの十字架の死のお陰で神は私達を贖い出し、養子として私達を御自分の子供のように受け入れて下さいました。

【身代金】

新約聖書の時代に養子縁組はよく使われた風習でした。特に家族は相続人がない場合、子供を養子にしました。そして、大抵、家族は新しい子を養子にする時、その子の実家に代金を払いました。あるいは、子供は奴隷の身分であった場合、その主人に代金を払いました。ちょっと冷たいように聞こえますが、それは法的要求でした。恐らく、お金を渡す事によって、正式な契約に入りました。養子にするお父さんは子の実家に代金を払ってから、役所へ行って申し込みました。申し込みが受け入れられた場合、養子縁組式が行って、数人の立会人の前で子と新しい親との関係の承認を受けました。

同じよう神は主イエス・キリストの犠牲を通して私達の代金を払って、御自分の子として私達を受け入れて下さいます。また、私達が犯した全ての罪が完全に赦され、罪のない主の子供として、神の御前に立つ事が出来ます。主イエス・キリストを自分の救い主として心から受け入れると、神は私達を養子にして下さいます。

【養子の三つの権利:その1、神が霊的父親となる】

新約聖書の時代、子供が養子に行くと、三つの権利が与えられました。第一に、自家との縁を切る事によって新しい親と新しい家族を儲けました。実は、その家族に生まれた子供と全く同じ地位と権利が与えられました。ですから、キリスト者の霊的父親こそは愛である父なる神です。神は私達を贖って、養子にして下さり、御自分の子供としての全ての特権を賜ります。

【霊的家族の交わりが与えられる】

養子に行くと、私達は新しい霊的親だけではなく、新しい霊的家族も与えられました。その家族はキリスト教会の兄弟姉妹です。キリスト者になると大きな家族の一員になり、その交わりに加えられます。その兄弟姉妹とはここにいる数えられる人数だけではありません。世界中どこへ行っても数えられないほど沢山います。

【その2:神の国の相続人になる】

第二に、養子に行った人は親の相続人になりました。養子に行ってから、その家族に子供が生まれても相続の権利は変わりませんでした。それは奪う事が出来ない権利だったのです。私達キリスト者は神の国を相続し、この世でも相続人として神のお働きをします。又、この世の生涯が終わると、私達は天に召され、神の子供としてその永遠の喜びと満足を受け継ぐのであります。

【その3:新しい人生が与えられる】

養子の第三の権利は、新しい家族に入ると、新しい人生が与えられました。過去にある過ちや借金や法的問題などが赦され、全く新しい再出発を頂きました。以前の人生が現在の人生と関係がないような新しい生き方の始まりであります。

コリントの信徒への第二の手紙で使徒パウロはこう書きました。「キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。」(5:17)

神によって養子にされると、私達は再出発が与えられています。主は私達が犯した罪と、その生き方を赦し、完全に忘れて下さいます。そして、これからの私達の新しい歩みを共にいて、助けて下さいます。

【養子と実子を区別しない神様】

ある娘が最初の子供の出産の為に実家に帰りました。赤ちゃんが無事に生まれると、彼女は自分のお母さんにこう言いました。「不思議ですね。主人と私は金髪なのに、赤ちゃんの髪の毛は黒いです。」その事を聞くとお母さんはこのように答えました。「多分それはあなたのお父さんの髪が黒いからでしょう。」そして娘は、「私は養子だから、それは関係ないはずだと思う」と返事しました。そうすると、お母さんは恥ずかしそうに笑ってこう言いました。「私はその事をいつも忘れてしまうのよね。」娘にとって、それはお母さんから聞いた事の中で、一番素晴らしいものでした。神は私達一人一人を養子にして、そのお母さんと同じように私達を受け入れ、無条件に愛し新しい出発を下さいます。実は、養子と実子を区別しない父なる神は主イエス・キリストを愛するように私達を愛して下さいます。

【聖霊は私達の証人】

子供が養子になるには法的に7人程の立会人がいりました。その理由はもし後で誰かがその養子の資格を疑ったら、立会人がその事実について証言する義務があるからです。同様に神の聖霊は私達の資格を証言して下さいます。今日の御言葉の6節を見て下さい。「あなたがたが子である事は、神が、『アッバ、父よ』と叫ぶ御子の霊を、私達の心に送って下さった事実から分かります。ですから、あなたはもはや奴隷ではなく、子です。子であれば、神によって立てられた相続人でもあるのです。」

【父なる神】

「アッバ」と言う言葉は「パパ」の意味です。子供が愛するお父さんを呼ぶ言葉です。決して、奴隷が主人を呼ぶ言葉ではありませんでした。実は、主イエスは神に祈られた時、その同じ言葉で呼びました。愛する兄弟姉妹、信仰によって神の子供になると、私達も大胆に主を「パパ」と呼ぶ事が出来ます。そして、パパなる神は、「私の子よ」と私を呼んで下さり、私達と共に歩んで、一歩一歩を助けて下さいます。人が私を去る事があっても、主は決して私と離れる事なく、どんな時でも、この世の果てまでも共にいて下さると約束して下さいます。愛する兄弟姉妹、2008年も振り返って見ると、いつも主が共に歩き、辛い時にも、喜びの時にも、私達は父なる神からの勇気と希望によって沢山の恵みを受けました。今までのこの神がこれからも共にいて下さる事を覚え喜びと感謝を持って主に従いましょう。(おわり)

2008年12月28日 | カテゴリー: ガラテヤの信徒への手紙 , 新約聖書

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