「律法と約束」ウイリアム・モーア2011.1.16

聖書:ガラテヤの信徒への手紙3章15−29

 

 

【交通違反】

皆さん、交通違反でチケットを頂いた事がありますか。もし、日常的に車を運転するならば、多分少なくとも一度ぐらいは、そう言ういやな経験があると思います。駐車違反や、スピード違反や、信号無視などで捕えられた人は数え切れません。実は、私さえもちょっとした交通違反でネズミ取りをしている警察官によって捕えられた事があります。私は出来るだけ最高速度を守りますが、その時だけ超えて、不幸にも捕えられました。数年前の出来事ですが、今もその2万円の罰金を考えると惜しかったと思えてくるのです。しかも、保険料がそのために上がってしまいました。ですから、今もその場所を通ると思い出します。

 

【交通ルール】

交通違反で罰せられると、誰もが悔しむ事だと思いますが、そのチケットを切られる理由があります。確かに罰金は政府に結構な収入になりますが、それよりも、交通安全の目的の為に道路の最高速度が警察によって守られています。人々は決められた速度を越える傾向があるから、皆の安全の為に最高速度が実施されています。制限速度がなかったら、ある人は混雑した道であっても、130キロで走ろうとしてしまいます。ですから、国が速度のルールを定めて、皆がそのルールの標準を守るべきです。

 

【神のルール:律法】

唯一の全能の神もルール、すなわち律法を人間の為に授けて下さいました。そして、交通規則のように、主の律法は私たちの為に神の標準を啓示します。

 

今日、聖書に於ける神の律法の事について学びたいと思います。つまり、神の律法は私たちキリスト者にどんな役割を果たすのでしょうか。

 

 

【旧約聖書の律法】

旧約聖書を読みますと沢山のルールが記されています。特に、レビ記と民数記と申命記の内容は殆ど律法です。例えば、レビ記19章1−3にこう記されています。「主は、モーゼに仰せになった。イスラエルの人々の共同体全体に告げてこう言いなさい。あなたたちは聖なる者となりなさい。あなたたちの神、主である私は聖なる者である。父と母とを敬いなさい。私の安息日を守りなさい。私はあなたたちの神、主である。」

 

レビ記にまたこの戒めがあります。「寄留者があなたの土地に共に住んでいるなら、彼を虐(しいた)げてはならない。あなたたちのもとに寄留する者をあなたたちのうちの土地に生まれた者同様に扱い、自分自身のように愛しなさい。なぜなら、あなたたちもエジプトの国においては寄留者であったからである。」(19章33-34)

 

 

【ユダヤ教の律法】

ユダヤ人の律法学者によりますと、神は全部で613程の戒めをイスラエルに授けて下さいました。そして、学者たちは戒めを研究して、その具体的な守り方を人々に細かいところまで教えたのです。ユダヤ人は神の律法を何よりも重んじて、守る為に努力しました。現在も敬虔なユダヤ人は努力します。なぜなら、律法を守る事によって彼等は神の目に義となり、主を喜ばせようとしています。つまり、主の律法を完全に守ると、神との正しい関係に入り、主の豊かな祝福を頂きました。

 

【礼拝に遅れたユダヤ教の教師】

この間アメリカのニュースに出た一つの事件はユダヤ人の律法に対する態度を例証します。あるユダヤ人の先生は安息日の礼拝に遅れ、信号を無視して道路を横断しました。お巡りさんがその違反を見て先生を止め、違反呼出状を切る為に先生から身分証明書を要求しました。しかし、旧約聖書の律法によりますと安息日に働いてはなりませんので、その先生の教派の解釈で、財布でも持ち歩く事は労働になるから、彼は身分証明書を家に置いて出掛けました。お巡りさんは身分証明書を見る為に先生と共に家へ戻ろうとしましたが、そうすると先生は礼拝にさらに遅くれてしまいます。とにかく、その事件は大きな騒ぎになり、先生の宗教的義務が無視されたと言う理由で警察官が厳しく批判されました。

 

主イエスの時代にもユダヤ人は頑張って神の律法を守ろうとしました。そして、多くのユダヤ人は自分たちが完全にその律法を守って来たと思い込んでしまい、非常に自己満足しました。ですから主イエスは彼等を注意しました。「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。薄荷、いのんど、茴香の十分の一は献けるが、律法の中で最も重要な正義、慈悲、誠実はないがしろにしているからだ。これこそ行うべきことである。もとより、十分の一の献げ物もないがしろにしてはならないが。ものの見えない案内人、あなたたちはぶよ一匹さえも漉して除くが、らくだは飲み込んでいる。」(マタイによる福音書23章23−24)

 

【律法を完全に守る人はいるか】

実は、神の子イエス・キリスト以外には、誰も主の律法を心から、完璧に守る事は出来ません。罪深い人間はそういう力がないからです。その故に律法を守る事によって神の愛と好意を勝得る事は不可能であります。

 

【律法の目的】

律法の目的は神に人間の義を見せるのではありません。その目的は他にあります。実は、神の律法の大事な目的は私たち人間に自分の弱さを悟らせる事です。そして、私たちは自分の足りない義の代わりに、救いの為に神の大きな恵みに頼るようになります。

 

その恵みは神によって約束された主イエス・キリストの贖い死です。主イエスの犠牲のみによって私たちは義とされ、罪のない人のように神の御前に立つ事が出来ます。今日の御言葉はそう言う意味なのです。

 

皆さんは、今までのガラテヤの信徒への手紙を継続的に学んで来ているので、覚えていると思いますが、ガラテヤの教会は大きな問題がありました。それは、間違った教えで信者達が救いの為にイエス・キリストの贖い死だけではなく、律法を行う事も必要であると思ったのです。ただ主イエスを信じる事は不十分であって、その上にユダヤ教の613のルールも従わなければならないと教えられてしまいました。つまり、神の恵みの上にガラテヤにいる信者たちは自分の力で神の救いを勝得ようとしました。

 

使徒パウロによりますと、神の律法は始めから人間を救う力がなかったのです。今日の御言葉の21節の後半を見て下さい。「万一、人を生かす事が出来る律法が与えられたとするなら、確かに人は律法によって義とされたでしょう。しかし、聖書はすべてのものを罪の支配下に閉じ込めたのです。それは、神の約束が、イエス・キリストへの信仰によって、信じる人々に与えられるようになるためでした。」

 

やはり、神が授けて下さった律法は他の目的がありました。それは19節に記されているように、律法は「違反を明らかにするために付け加えられたもの」です。つまり、律法を通して私たちは神の水準が教えられ、しなければならない事と、してはいけない事が悟られます。例えば、十戒には神の基本的な律法が啓示されています。「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」や「安息日を心に留め、これを聖別せよ」という掟は私たちでは明白な事ではありません。神によって教えられないと、分かりません。また、「殺してはならない」と「姦淫してはならない」と「盗んではならない」のような掟を通して人間が互いに害を及ぼさない目的があります。つまり、罪を明らかにする為に神が人間に掟を授けたのです。

 

とにかく、律法の目的は、人間がそれを守る事によって自分の救いを勝得る事ではありません。罪深い私たちには完璧に掟が守れないから、それは不可能です。私たちの中に、誰か一人でも、神の掟を完全に守れる人がいるのでしょうか。

 

【救いの約束は律法に優先する】

更に、神の救いの約束は律法の前に啓示されたのでそれは律法に優先すると使徒パウロが言います。と言うのは、神に創世記のアブラハムにこう約束しました。「地上の諸国民はすべて、あなたの子孫によって祝福を得る。」(創世記22章18)

 

そして、その子孫こそは主イエス・キリストです。唯一の救い主、神の御子イエス・キリストによって地上の諸国民は最高の祝福を得たのです。

 

【律法はキリストに導く養育係】

24節を見ますと、こう記されています。「こうして律法は、わたしたちをキリストのもとへ導く養育係となったのです。わたしたちが信仰によって義とされるためです。」前に言いましたけれども、律法の一つの目的は私たちの弱さを悟らせることです。人間はいくら頑張っても神の戒めを十分に従えないので、自分の足りない義の代わりに、私たちは信仰によって救いに至る神の豊かな恵みに頼ります。キリストのみは私たちを救う力がありますので、完全に守れない神の律法は私たちをキリストのもとへ導くのです。

 

【プライドを捨てる】

愛する兄弟姉妹、今日の御言葉は私たちに何を語り掛けているのでしょうか。プライドの為に私たち人間それぞれは、自分の義に頼りたいのです。つまり、自分の力で自分の救いと神の愛を勝得ようとしています。しかし、それは全く不可能です。聖書にこう書いてあります。「事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。」(エフェソの信徒への手紙2章8)

 

どうか、私たち皆は自惚れたプライドを脱ぎ捨てて、信仰によって神の賜物のみに頼りましょう。(おわり)

2011年01月16日 | カテゴリー: ガラテヤの信徒への手紙 , 新約聖書

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