霊の結ぶ実:柔和 ウイリアム・モーア宣教師

マタイによる福音書11章28−30節
ガラテヤの信徒への手紙5章22−23節
 
【柔和なロッキー】
三週間前から家内と娘セーラと私は家の家族にロッキーと言う新しい一員を引き受けて世話をするようになりました。その新しい一員はまだ7歳なのに、とても毛深いです。更に、ロッキー君は50キロで、結構重いのですが、背はまだ70センチしかなっていません。また、鼻が大きいし、耳もでっかいです。今朝、教会に連れて来て、皆に紹介したかったのですが、その子は臭うから、多分歓迎されないと思いました。実は、ロッキー君は人間ではありません。その子は四つ足で歩くゴールデンレトリーヴァーと言う犬です。近所の家内の英国人の友達は夏休みの帰国為、ロッキーを家に預けました。
 
ロッキー君は何よりも散歩が大好きです。ですから、降っても照っても、必ず朝と晩、近所を散歩しなければなりません。そして、歩きながらロッキーは常に道にあるものを嗅ぎ出します。また、餌を捜します。ロッキーは道にある物、何でもかんでも食べてしまうので、散歩をさせる私達は危ない物を食わないように、気をつけなければなりません。
 
ロッキー君はとても大人しい犬で、吠える事は滅多にないです。不思議だと思いますが、散歩の時、他の犬に巡り合っても、ロッキーはあんまり反応しません。ある日、そう言うロッキーを連れて歩いているとある小さい犬はロッキーを見る瞬間、震えて動けませんでした。また、ロッキーは、吠えられても、お返しに吠えません。他の犬が一生懸命に吠えながらロッキーの方へ走っても、ロッキーは、その犬をただちらっと見て、平然とゆっくり散歩を続きます。脅かされても、ロッキーは相手を脅かしません。他の犬より大きく力強いので、ロッキーはどんな相手であっても勝つ事が出来るはずですが、戦う興味が全くないようです。それは訓練の為か、生まれつきの性格の為なのかが分かりませんけれども、ロッキーは素晴らしい徳目を示します。ロッキーはきっと私達人間に教える事があると思います。

【柔和のギリシャ原語:コントロールされた力】
今朝、礼拝で、皆さんは私が犬のお話をするとは不思議に思うかも知れません。実は、ロッキーの事を見てると今日与えられた聖霊の結ぶ実「柔和」を思い出します。又、「柔和」と関連があるのです。日本語の「柔和」と訳された聖書に於けるギリシア語の単語を調べますと、独特な使い方があります。それは、農夫が牛や馬や犬などのような力強い家畜を訓練し、その力を管理する事です。つまり、家畜を有効的に使う為、その力をコントロールしなければなりません。管理されてない動物の力は危険で、役に立ちません。その反面、家畜の力をコントロール出来れば、有効によく働けます。そのような家畜は「柔和」であると言われました。そしたら、聖書に於ける柔和を定義しますと、「管理された力」となります。ですから、ロッキーは柔和です。力が結構あるけれども、その力はコントロールされています。
 
【柔和と言う聖霊の結ぶ実】
今日は柔和と言う聖霊の結ぶ実を学びたいと思います。 今まで愛と喜びと平和と寛容と親切と善意と誠実を学んで参りました。覚えていると思いますが、聖霊の結ぶ実は神の賜物です。キリスト者なら、聖霊なる神は私達に入り、その実を賜ります。つまり、その実を結ぶ可能性を授けて下さいます。しかし、一つの条件があるのです。私達の内に宿って下さる聖霊の働きを許さなければなりません。それぞれの徳目を実行する意志が必要です。だからこそ、「霊の火を消してはいけません」(テサロニケの信徒への第一の手紙5:19)と聖書に記されています。神の助けでその聖霊の「火」を消せずに、私達はそれぞれの賜物を豊かに生かす事が出来ます。いかがでしょうか。今まで学んで来た聖霊の結ぶ実を毎日の生活に前より、もっと実行出来ましたか。実は、その賜物が授けられたのは理由があったのです。それは、私達の行動を通して神の栄光を現す為です。つまり、回りの者は私達を見て、神の愛と力を見られる訳です。
 
【モーセの柔和】
聖書の多くの人物の中で、二人は特に柔和の模範を示しました。御言葉によりますと、

「モーセと言う人はこの地上の誰にもまさって柔和であった。」


(民数記12:3)。モーセの生涯を見ると彼は非常に印象的な人生を送った事が分かります。彼はイスラエル人なのにエジプトの王の宮廷で育てられ、優れた教育を受けました。そして、神御自身がモーセに現れ、モーセを御自分の民をエジプトの奴隷の家から解放するように選びました。その民を自由にする為、モーセは色んな奇跡を行いました。また、民と共にエジプトを逃げた時、モーセは自分の手を海に向かって差し伸べると、海は渇いた地に変わり、水は分かれました。そして、イスラエル民族が渇いた所を進んで行ってから、水は追って来るエジプト軍の上に流れ返って全員が滅ぼされました。その上、モーセは山の上で神に会って、神から律法を受けました。間違いなく、モーセは力がありました。神の助けと導きで民を自由にさせました。色んな力強い印を行いました。しかし、モーセは自分の民から裏切られ、悪口を言われ、また、彼の指導を拒否し、「殺せ」とも言われました。これが人間の姿ですね。しかし、モーセは忍耐強く人々を扱いました。高慢にならず、いつも謙遜でした。
 
【モーセの力】
彼は十分人に仕返しが出来る力があったにもかかわらず、しないと決心しました。それは自分の力をコントロールしていたからです。柔和です。モーセは誰よりも柔和であっても、もちろん弱虫ではありませんでした。もし必要あれば、怒りを現しました。神の命令、神の名誉に関わる事だったら、モーセは遠慮なく人々を正しました。例えば、モーセは神から十戒を受けて山を下った時、人々は金の子牛を造って、真の神を礼拝する代わりにその偶像を拝んでいました。その光景を見ると、モーセは十戒が書かれた石の板を投げつけてしまいました。そして、子牛の像を取って火で焼き、それを粉々に砕いて、水の上にまき散らし、イスラエルの人々に飲ませました。結局、モーセは自分自身の為ではなく、返って神の為に、人々の為に、自分の力を現しました。だからこそ、「柔和」と呼ばれていました。力がコントロールされているので、柔和でありました。
 
【主イエスの柔和】
主イエス・キリストも私達に柔和の模範を示しました。御自分についてこのように言われました。今日の朗読、マタイによる福音書11章28節の所を見て下さい。

「疲れた者、重荷を負う者は、誰でも私の元に来なさい。休ませてあげよう。私は柔和で謙遜な者だから、私の軛を負い、私に学びなさい。私の軛は負いやすく、私の荷は軽いからである」


と主は仰いました。
 
【主イエスの力】
主イエスのこの世の歩みを調べますと、本当の柔和と謙遜が分かって来ます。主は常に御自分の力を管理したのです。つまり、御自分の力を自分自身の益の為に用いたのではなく、神の御旨と人々の為に力を現しました。主は人々を憐れんで、自分の力を使って彼等の病気を治して、悪霊を追い出して下さいました。死んだ者も生き返らせたのです。嘆きの中にいる者も慰めてくれました。
 
また、彼等を分かりやすく神について教えられました。更に、主イエスは常に父なる神に従いました。神の御言葉を正しく人々に教え、十字架の死までも神の御旨に忠実であったのです。フィリピの信徒への手紙2章6節に記された通りです。
 


「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者である事に固執しようとは思わず、却って、自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至まで、それも十字架の死に至まで従順でした」


と書いてあります。
 
主イエスは柔和なお方です。御自分の大きな力を自分の益の為ではなく、神の栄光と人々の救いの為にその力を用いました。しかし、モーセと同じように主イエスも必要であれば、人に対して自分の力を現しました。例えば、主は当時の宗教的指導者達に何回も対立しました。偽善者である彼等は人々を間違えて教え、自分の益の為に宗教を利用したのです。主は又、両替人と生け贄になる動物を売る者をむちで神殿から追い出しました。彼等は神の家を

「強盗の巣」


にしてしまったから、主の怒りを招きました。
 
イエス・キリストは御自分の力をいつもコンとロールしましたので、柔和なお方です。しかし、主イエスは御自分の敵の手に渡された時、どうして戦いませんでしたか。どうして、打たれた時、自分の身を守りませんでしたか。更に、十字架に付けられると、どうしてか御自分を救う為、天から万軍の天使を呼び出しませんでしたか。
 
【御心のままに】
実は、逮捕される前の夜、主はオリーブの山へ行って、父なる神の御旨を知るように祈られました。そして、最後にこのように祈祷したのです。

「父よ、出来る事なら、この杯を私から過ぎ去らせて下さい。しかし、私の願い通りではなく、御心のままに。」


(マタイ26:39)。それは本当の力です。コントロールされた力、柔和です。そして、その柔和のお陰で私達は大きな恵みを頂きました。
 
【今日の私たちに】
今、この世の国際社会を見ると何よりもこのような柔和が必要であると思います。環境の問題に対して全人類は柔和を現さなければなりません。キリスト教会にも柔和がいります。私達は小さい群れでありますが、西谷集会にも柔和が必要です。子育ちにも柔和が絶対にいると思います。私達の行動と力が神の御心によって監督されたら、私達一人一人は回りの皆に大きな祝福になるでしょう。愛する兄弟姉妹、私達は聖霊の実、柔和はもう既に賜られています。どうか、神の助けによって柔和をよりもっと生かす事が出来るように祈りましょう。(おわり)
 

2007年07月22日 | カテゴリー: ガラテヤの信徒への手紙 , マタイによる福音書 , 新約聖書 , 民数記

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