2014.5.25.朝拝説教「あなた方は神の子です」金田幸男牧師 

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2014525日説教「あなた方は神の子である」金田幸男牧師 

 

聖書:ガラテヤの信徒への手紙3

26 あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。

27 洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。

28 そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。

29 あなたがたは、もしキリストのものだとするなら、とりもなおさず、アブラハムの子孫であり、約束による相続人です。

 

 

 要旨

【救いは律法の行いによるのではなく、福音を信じる信仰による】

パウロはこのガラテヤの信徒の手紙において、律法の行いによるのではなく、福音を信じる信仰によって救われると教えてきました。ところが反対者たちは、信仰だけではなく律法の規定に定められていることも守らなければ救われないと教えました。ガラテヤの異邦人信者の中にその教えに聴き従うものが出てきました。パウロは断固反対します。

 

【律法は何のために】

それでは、律法は何のためにあるのか。

神はアブラハムに恵みによる約束を与えられました。アブラハムに、その子孫は数多くなると約束され、人間的には高齢であり、子どもを与えられる可能性が全くないと思われたのですが、ただ神の言葉を信じました。神はそのアブラハムの信仰をよしとされました。

 

【モーセ律法の役割】

ところが、430年経ってから、アブラハムの子孫であるイスラエルに、モーセを通して律法を授けられました。これはアブラハムへの約束の変更では決してありません。

 

【違反を明らかにするため】

では、律法の役割は何か。目的があって、律法が与えられたのです。

律法の役割の第一は、違反を明らかにするためだといわれます(19節)。律法という掟が与えられ、その律法に言行を照らして見るならば、律法に違反している、つまり罪を犯していることが明白になります。罪は白日に曝されます。

 

【生来与えられた良心という律法】

むろん、律法を歪曲したり、無視したりすれば罪の自覚は薄れます。人間には生来良心という律法も与えられていますが、良心を麻痺させれば罪の意識も弱まってしまいます。律法はそれ自体、救いの手段ではありません。律法によって人は決して救われません。律法は批判し、非難するだけです。

 

【律法は養育掛】

第二の役割は、養育掛に喩えられます。

養育掛はローマの上流社会の子弟の教育のやり方であり、多くの場合、奴隷から任命されます。養育掛である奴隷は、子どもの躾け、あるいは読み書きを担当します。奴隷所有者から子どもの訓育を命じられていますから、その命令のとおりにしなければ彼自身が処罰されます。鞭や棍棒で、教育します。子どもから見れば、その教育は憎むべき体験に他ならず、養育掛を憎み続け、嫌悪します。律法という養育掛はただ目標であるキリストのところに導いていくだけです。

 

律法という養育掛の元に縛り付けられていても、ついに、子どもは成人に達します。そのとき、もはや養育掛の言い成りにはなりません。成人のときとは何を意味しているでしょうか。「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです」(26節)とありますように、私たちがキリストを信じたとき、成長し、もはや、律法という養育掛のもとで拘束されてはいないのです。何事も指示され、命令され、制限される幼児ではなく、自由に行動できる神の子とされています。信じるとき、私たちは神の子とされます。信仰によって救われるということは神の子とされるという意味でもあります。

 

【救われるとは神の子とされること】

救われるとは神の子とされること以外の何ものでもありません。子とされること、それは救いの別の表現でもあります。信仰によって救われているありようを言い表す言葉として、「神の子とされる」ほど素晴らしい表現は見出せません。

 

ウエストミンスター信仰告白第12章では子とされる恵みを端的に述べています。ウエストミンスター信仰告白の中で珠玉の言い方であると思います。

 

要点を記せば、次のように記されています。

   の子の数に入れられ、神のことしての特権を与えられる 

   神の御名が信じるものの額に刻印されていて決してそれは消え去ることはない 

   子とする霊を授けられている 

   神の臨在される、恵みのみ座に大胆に憚ることなく近づくことができる 

   アッバ、父よと神を呼ぶことができ、信じるものは決して孤児にはされない 

   神から憐れみを受け、守られ、したがってときに懲らしめられることがあっても決して捨てられることはない。そして、神の相続人として、もろもろの約束を与えられる。

 

ウエストミンスター信仰告白は生硬な面白みのない教理文書ではありません。そこに記されていることを吟味すれば心が励まされ、心が温かくなってくるものです。

 

私たちは今や神の子です。律法の元で、自分の力で救いを獲得しようとしても神の子とされる恩恵に浴することがありません。この神の子とされる祝福をパウロはいくつかの比喩的表現を含め、豊かに語ります。

 

【キリストと結び合わされる】

21節では、キリストと結び合わされると言います。「キリストとも結合」「キリストと一致すること」とも言い表されます。この結合は何ものも切り離すことができません。今このとき、キリストは私たちの目には見えません。キリストは天におられます。私たちと、昇天したキリストとはあまりにも離れています。では、キリストと私たちは縁遠いだけなのでしょうか。

 

復活したキリストは天におられますが、聖霊によって、私たちはキリストとひとつに結び合わされています。私たちは、生けておられるキリストとひとつなのです。だから、私たちはまだこの世にありますが、不可解な仕方でキリストに結ばれていますので、どんなときでも、試練のときでも、意識を失っているときでも、臨終の床でも、キリストと結び合わされています。キリストとひとつであるならば、キリストは常に私たちの傍らにおられます。生きているときも死にかけているときも、キリストは共にいてくださいます。これ以上慰めに満ちた御言葉はありません。

 

 パウロは、そのキリストとの結合は洗礼のときであると語っています(27節)。

洗礼を受けて、私たちはキリストと結ばれます。神の子とされるのは洗礼のときです。

洗礼は、単なる形式、入会儀式ではありません。信じて洗礼を受けるならば、そのとき、洗礼を受けた人はキリストと結び合わされ、神の子とされ、神の子に伴うあらゆる祝福を受けるものとされます。

 

【キリストを着る】

パウロはもうひとつの表現を用います。「キリストを着る」。

衣服は現在ではファッションとなっています。また、実用的には防寒の機能があります。しかし、古代世界では衣服は身分を表しました。

 

貴族は決まった服装があり、もし身分の違うものが貴族の衣服を着るならば処罰されました。衣服の色もそうです。高貴な色というものがあって、身分の低いものはそのような色の衣服を着用することができませんでした。キリストを着るとはキリストと一体になることも含められますが、それと共にキリストと同じ立場、身分、権威を持っているという意味があります。

 

キリストを着ているならば、私たちは外見上キリストのようにみなされます。少なくとも私たちはキリストのいのち、キリストの力を有します。

 

パウロはこのような結果、キリストに結び合わされるならば、もう民族の違い、身分の違い、性=ジェンダーの違いは問題になりません。ユダヤ人は異邦人と大きな違いを強調します。パウロは洗礼を受けたものはそのような違いはなく、平等に神の民、神の子、キリストを着用するものとされるといわれます。

 

ただ念のために言っておかなければならないことは、信じて神の子とされたら、一切合財、人間が皆同じになるというのではありません。同じ顔をし、同じ体つきをもち、性の違いはなくなって中性化するというようなことはありません。ただ、違いが差別や区別となるわけではありません。多様性は残されますが、だからといって子とされる恵みが変わるのではありません。

 

【キリスト・イエスにおいてひとつ】

キリスト・イエスにおいてひとつにされます。ひとつの神の民とされます。私たちは今ここでは互いに離れて生きています。しかし、そのときには私たちは皆ひとつに集められます。神の国で、神の御許に集められます。これこそ私たちの希望です。

 

パウロは私たち神の子とされたもののことを「キリストのもの」と語ります。所有を指しています。私たちは誰かの所有になるなどといわれますと反感を感じるかもしれません。誰の所有でもないと。

私たちが神の子とされるというのは、同時にキリストの所有になることも意味しています。へりくだってこの言葉を耳にします。私たちはキリストに属し、キリストの所有されているもの、従って、決して神に高ぶることが出来ませんが同時に、神から離されることはありません。

 

【私たちは信仰によりアブラハムの子孫】

そうであれば、私たちはアブラハムの子孫です。血縁でアブラハムの子孫となるのではありません。また血統上アブラハムの子孫でなければならないというのでもありません。信仰により、全てのものはアブラハムの子孫であり、アブラハムの子孫が与えられた約束、つまり、カナンの地の相続を保証されます。アブラハムへの約束は決して地上の、現在ではパレスティナと呼ばれている地域を指すのではなく、それは影に過ぎず、本体は天にある神の国、あるいは完成された御国なのです。そこに私たちも導かれていきます。

 

【神の国の相続人】

そして、相続人でもあります。子どもはどんな出来の悪い子どもでも父の遺産を相続する権利を持っています。私たち自身弱く小さく、愚かです。怠慢でどうしようもない劣等生です。けれども、私たちは神の国とそれに伴うあらゆる神に帰属する宝物を相続します。

 

旧約の約束はこうしてそれが本質的にはどういうものか明らかになります。キリストにおいて、私たちは計り知れない幸いを約束され、その約束の実現は間近です。(おわり) 







2014年05月25日 | カテゴリー: ガラテヤの信徒への手紙

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