2014年7月27日説教 「愛によって互いに仕える」金田幸男牧師

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2014年7月27日説教「愛によって互いに仕える」金田幸男牧師

 

聖書:新約聖書ガラテヤの信徒への手紙5

13 兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。

14 律法全体は、「隣人を自分のように愛しなさい」という一句によって全うされるからです。

15 だが、互いにかみ合い、共食いしているのなら、互いに滅ぼされないように注意しなさい。

 

要旨

【真の自由と奴隷状態】

 パウロはガラテヤの人々がキリストによって自由にされていると語ります。キリストは彼らを自由にするために召されました。ガラテヤの人々は自由ではない状態、つまり奴隷状態から解放されました。

 

何からの自由なのか。まず第一に、律法の下からの自由です。彼らは律法の束縛下にありました。彼らは異邦人でしたが、心に律法が刻み込まれており、その律法が遵守を要求しました。律法によって自らが神の前に義とされなければならない、そのために律法を守らなければならない、さもなければ神から裁かれて滅びるるという、ユダヤ人同様の拘束下にありました。それは人間の力で救いを勝ち取る方法です。

 

そして、重大な問題は、神に対して傲慢な態度からその願望が出てくるということです。だから第二に、この肉的な思いの拘束からの自由のこともパウロが念頭に置いていました。肉の思いはガラテヤ5章19-21に列挙されています。私たちをがんじがらめにしている肉的な思い、願望からキリストはご自身にほうに呼び出して自由にしてくださいました。

 

【自覚されない罪】

このような肉の思いは罪から生じます。しかし、この思いはあまり自覚されていません。罪は自覚されているとは限りません。気がつかないなら、そこからの解放もまた意識されていません。

 

例えば、肉の思いの中に妬みがあります。妬みは、至るところに見られます。小さな子どもにも妬みは見られます。兄弟間でも親の愛をめぐって嫉妬が生じます。集団同士でもこの嫉妬は作用します。富める階級と貧しい階級の間で嫉妬が支配して対立が生じます。国同士が妬みから戦争を引き起こすことは珍しくありません。嫉妬などという心の動きが大きな災いを引き起こします。いろいろな大義名分を掲げてもその根本には妬みがある。妬みに世界中が支配され、束縛されています。この所の妬みは潜在化していて自覚・認識されていません。

 

妬みだけではなく、自尊心、うぬぼれ、過大な自己評価、過剰な自信に縛られている人が何と多いことか。逆に劣等感、自己憐憫、うつ状態に縛られて身動きできない人生を営んでいる人も多いのです。人間の心を支配する感情は複雑です。それがどういうものであれ、人の魂を束縛し、奴隷のように扱います。キリストはこのような心を縛る奴隷的な束縛から私たちを解放されます。

 

【十字架による解放】

キリストの十字架の意味はこの肉の支配からの解放なのです。自由はそこから生じます。霊的な束縛からの自由に他なりません。

 

今日、世界で支配的な思想は「ありのままでよい」というスローガンであると思います。

あなたはそのままでよろしい。そう言うのです。この思想が有力なのは当然です。

 

今日は他者を否定する時代です。才能や能力の欠如、営業成績不振などを理由にして、人間の価値を低く見積もる社会です。ときには金銭の多寡で人間の価値を計ります。このような社会では、ありのままの自分を認めて欲しいと誰もが思っています。ありのままの自己を肯定する思想も今日では殊の外、必要かもしれません。

 

しかし、結局この『思想』は自分で自分を認め、許す思想でもあります。それは究極的な魂の解放にはならないと思います。自分で自分を許してみても束縛そのものは消滅していません。結局のところ、気持ちの持ち方で終わってしまいかねません。許しは他者から来ます。

 

【キリストによる神の赦し・解放】

キリストは、私たちを赦されます。肉の思いに縛られていてがんじがらめになっている私たちを、ご自身の犠牲によって赦されます。神の御子が赦しを約束し、宣言し、保証されます。この赦しこそが究極的な自由の源であるといえます。

 

キリストはこの自由に私たちを召されます。つまり、呼び出されます。み言葉によって私たちを自由に導かれます。まず、わたしたちが肉の思いに縛られている事実を自覚させます。それから、私たちが霊的に奴隷状態であることをみ言葉によって知らせ、そこからの脱出を勧められます。まことの自由はキリストにあります。

 

私たちは長くこの束縛状態に置かれていました。あまりに長く奴隷状態であったために、キリストから解放されていることに気がつきません。足かせ、首かせは壊されています。ところが、束縛が日常となって、相変わらず束縛されているように錯覚しています。ガラテヤの信徒が味わっている状態はこれです。すでにキリストから自由にされていますが、また、肉の奴隷に戻って行こうとします。

 

自由人と奴隷状態の共存は、当時は社会の制度でした。その格差は大きいものです。奴隷身分であることは自由がないというだけのことではありません。人間ではなく、売買の対象であり、生殺与奪の権を一方が持っているということを意味していました。キリストに自由にされるということは、律法からの自由であり、肉の支配からの自由を意味していました。ガラテヤの信徒が奴隷の状態から自由を勝ち取ることができました。それなのに奴隷状態への逆行は信じがたい行動というべきなのです。

 

【キリスト者の自由】

こうして、キリスト者は自由にされています。全く自由なのです。もはや律法を義と認められる方法は破棄されました。ところで、この自由を強く主張することは、律法の破棄に繋がることはありません。現実には、自由の主張が、放任、放縦につながって生きました。キリストを信じるものは律法の行いから自由です。それによって救いを勝ち取ることはありません。すると、律法を軽んじる傾向が生じます。自由を、肉が罪を犯す機会とするという弊害が生じます。

 

 【自由と奔放の違い】

なんでも自由だ、何でも赦される、何を仕様が、何を言おうが勝手だという主張がまかり通ります。あるいはそういう口実が平気で語られます。キリスト者は自由である。もはや何によっても束縛されることはない。こういう主張が出てきます。

 

戒律が厳しい宗派が存在します。そのような宗派に比較してプロテスタントは自由を強調しました。キリスト者は律法の行いや戒律などに縛られない。救いには関係ない。そこから律法の軽視が生じます。道徳的にたがが外れた状態が起きました。

 

残念ながらプロテスタントの有力なところで、このような誤った自由の観念が罷り通るという事態が生じました。厳格な戒律で救いを得られない、それはその通りなのですが、律法軽視、あるいは無視の傾向が生じます。

 

【偶像に捧げられた物を食すこと】

パウロは、自由を乱用したり誤用したりしてはならないと警告をします。実際にガラテヤの信徒とは違った極端が生じています。コリント教会で起きていたことです(コリント1 8:9)。当時ギリシヤでは神殿で犠牲がささげられますが、屠られた動物の肉は市場に払い下げられました。大量の食材が市場に出回っていて、それを買って食べることは一般的な市民の日常生活でした。偶像はただに石や木切れに過ぎない。神は唯一であるから、異なる神などありえない。そういう神に奉献された犠牲の肉を食べることは何ら差し支えないという人もいました。

 

しかし、そのような行動に躓きを覚える人もいました。一方では自由を主張します。他方では躓いている人もいました。パウロは自由な言動が弱い信徒を躓かせることになると警告をしています。自由は乱用されやすいのです。自由を主張する人は自由を行使しているだけだと思っています。やましさを感じているわけではありません。ところが、自由を乱用して、ある人たちを躓かせ、信仰から離れさせる結果となります。

 

【指針としての律法】

律法は廃止されるのではなく、救いの手段としての律法は不要となったけれども、律法そのものが不要になったのではありません。キリスト者の人生は律法から離れてあるのではありません。あくまで律法はキリスト者がそれを守って生きていく指針なのです。道しるべといった模様と思います。

 パウロは律法の要約をここで引用します。マタイ22:39で、律法の要約がレビ19:18を用いて語られます。パウロはローマ13:9でも同じ点を語っています。

 

新約聖書マタイによる福音書22:39

第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』

 

旧約聖書レビ記19:18

復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である。

 

ローマの信徒への手紙13:9

「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」、そのほかどんな掟があっても、「隣人を自分のように愛しなさい」という言葉に要約されます。

 

自分を愛するように隣人を愛しなさい。これこそ律法の要約で、律法の条文が不要になったり、無効になったりしているのではありません。愛して互いに仕えあうと言われます。

 

【律法の効用】

律法の要約は、律法全体を指し示します。律法は不要になったのではなく、律法はキリスト者には重要であるとされています。律法は廃棄されたのではありません。救いの手段としてユダヤ人が確信していたような仕方で律法が重視されるのではありませんが、律法はキリスト者の行動規範であり続けます。神を信じるものは律法を重んじるべきです。

 

 十戒、使徒信条、主の祈りと共に3要文と呼ばれます。キリスト教において、この三つは肝心要の位置を占め、キリスト教信仰を簡潔に表明するものです。

 

 パウロは警告します。だから、教会員が互いに挑みあい、噛みあい、共食いまでしているならば、そのときキリスト者も、教会も滅びてしまう。教会の外面的なものは存続するでしょう。しかし、教会の内部にあるものは失われます。教会がするべきことは互いに仕えあうことであるはずです。

 

ガラテヤの教会もまた律法を正しく用いないならばその破局は近くなります。教会は律法を正しく学ばなければならないのです。キリスト者にとって律法は生きていくために指針です。その律法を用いないで、あるいは無視してしまうとき、滅びに至るとは重大な警告です。

 律法を守っていないという現実は残ります。だから、律法などどうでもよいものとし、律法を学ばず、律法を生きていく術にしないならば、そのとき、律法は救いの手段ではないとしても、滅びの手立てとなるという皮肉な事態となってしまいます。そのようなことがあってはならないのは当然というべきです。(おわり) 

2014年07月27日 | カテゴリー: ガラテヤの信徒への手紙 , 新約聖書

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