霊の結ぶ実:節制 ウイリアム・モーア宣教師

コリントの信徒への手紙一9:19−27
ガラテヤの信徒への手紙5:22−23
 
【妻の犠牲と半額割引飛行】
アメリカの1920年頃、飛行機はまだ珍しい時代、あるパイロットは自分の風防のない小型飛行機で国中を巡回しながら、儲ける為に他の人を乗せていました。ある日、牧師とその奥さんが飛行場に来て、ひと乗りしてくれるように願いました。しかし、お金があんまりないから、聖職者割引にしてくれるように頼みました。すると、パイロットは、「聖職割引はないけれども、もし飛行機に乗ってる間に、お二人が黙って、口を何も聞かなかったら、半額で乗せて上げます。しかし、口を出せば、二倍ちょうだいたします」と提案しました。その二人はどうしても飛行機に乗りたかったので、すぐにその条件をのみました。それはあぶく銭と思ったパイロットは牧師と奥さんを飛行機に乗せ、早速離陸しました。そして、彼は色んな激しい曲芸飛行を実行し始めしました。ローラーコースターのように急速で空を上がってから、急降下しました。それから、飛行機を上下転倒して低く飛んで、橋の下を通りました。その激しい曲芸飛行をしたのに牧師とその奥さんは何も言わすに沈黙を守りました。パイロットは諦めて着陸に入ろうとする時、彼は言い出しました。「この飛行は私さえもぎょっとさせたのに、先生は何も言いませんでした。お二人の自制は大変驚くべきものです。」牧師はその事を聞いてこのように返事しました。「実は、飛行の中のある時点、私はもう少しで我慢出来なくて叫ぶところでした。」「それはどんな時でしたか」とパイロットに聞かれると、牧師は返事しました。「飛行機が引っくり返えて家内が陸まで落ちてしまった時は、さすがちょっとびっくりしましたよ。」
 
【聖霊の結ぶ実:節制】
今日は最後の聖霊の結ぶ実にやっと参りました。今まで、愛と喜びと平和と寛容と親切と善意と誠実と柔和を学んで来ました。そして、最後に節制と言う徳目が与えられています。もう一度強調したいのですが、この「実」は賜物です。キリスト者なら、聖霊なる神は私達に宿り、その実を現す可能性を十分与えて下さいます。しかし、私達の内にいらっしゃる聖霊の働きを許さなければなりません。つまり、それぞれの徳目を毎日の生活に実行する意志が必要です。

【自制:自分を監督出来る事】
さて、ギリシャ語の原文を調べますと、今日の個所で「節制」を翻訳された単語の文字通りの意味は、「自分を監督出来る事」となります。自分の欲や感情や言葉や本能的欲望などを支配する事です。ですから、ここで恐らく自制は節制よりも、正確な翻訳ではないかと思います。 
 
ある意味では、先程のストーリの牧師は素晴らしい自制を現しました。奥さんが飛行機から落ちてしまったのにも拘らず、沈黙を守りました。彼は切符代を節約すると言う目的があったので、その目的を達するように叫び声を出すのを我慢しました。最愛の妻の事よりも、節約する事を大事にしたので、笑い話になりますが、ある面で彼の自制は立派なものでした。
 
【『自分』の上の勝利】
多分私達の自制その牧師程立派ではないでしょうか。多くの人々は自制に憧れますが、それをマスターする者は割合に少ないです。何故なら、私達は自分自身に「no」と言いたくないのです。やりたい事や言いたい言葉や手に入れたい物などに対して自分に「no」と言えるのはなかなか難しいです。アリストテレスと言う古代ギリシアの哲学者はこのように語りました。「自分の敵を征服する人よりも、自分の欲を管理出来る者は勇敢です。最も難しい勝利は『自分』の上の勝利です。」
 
自制が足りなかったら、自分に多くのトラブルを起します。舌を監督出来なくて、人に不親切な言葉を言ってしまうと、その人間関係を害します。欲しい物を何でも購入すると借金取りの世話になります。又、食べ過ぎると、太って来て健康に障ります。
 
【自分に『no』】
実は、食べ放題のレストランは私には大きな誘惑になります。外食でバイキング料理などでは私の自制をよく試されます。特にアメリカへ行って、久しぶりに食べられなかった料理に直面すると負けてしまう時が多いです。そして、お腹が痛くなる程食べすぎ、バイキング•レストランから出ると、いつも、もう二度とその所に入らないと自分に誓います。しかし、その約束は忘れがちです。時間があんまり立たない内に、また食べ放題店へ入ってしまいます。やはり、自分に『no』と言えるのはなかなか難しい事です。皆さんはどうでしょうか。あなたの生活で『no』と言うべき事に『yes』と言う傾向がありませんか。それは人間の傾向ではないかと思います。
 
【使徒パウロ:自分の望む善は行わず・・】
実は、使徒パウロさえもその自制の問題に常にぶつかりました。

「私は、自分のしている事が分かりません。自分が望む事は実行せず、かえって憎んでいる事をするからです。......善をなそうという意志はありますが、それを実行出来ないからです。私は自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。......私はなんと惨めな人間なのでしょう」


とローマの信徒への手紙7章15に書きました。皆さん、使徒パウロの気持ちが分かるのでしょうか。実は、使徒の言葉は私の状態をよく描写します。

「 自分が望む事は実行せず、かえって憎んでいる事をするからです。」

 
【競技場で走る者】
使徒パウロはその傾向があて、自制は私達にも難しい事であるとよく分かりましたので、コリントの信徒への手紙一にこのように教えて下さいました。今日の御言葉、コリントの信徒への手紙一9:24から見て下さい。

「あなたがたは知らないのですか。競技場で走る者は皆走るけれども、賞を受けるのは一人だけです。あなたがたも賞を得るように走りなさい。競技をする一は皆、すべてに節制します。彼等は朽ちる冠を得る為にそうするのですが、私達は、朽ちない冠を得る為に節制するのです。だから、私としては、やみくもに走ったりしないし、空を打つような拳闘もしません。むしろ、自分の体を打ちたたいて服従させます。それは、他の人々に宣教しておきながら、自分の方が失格者になってしまわない為です。」


この個所には使徒パウロは自制への道を教えて下さいます。競技のイメージを用いて大事な真理を私達に伝えます。
 
【賞を受ける為に】
自制を得ようとすると、積極的な、又、良い目標が必要です。選手のゴールは何でしょうか。もちろんそれは賞を受ける為です。24節にこの御言葉が記されています。

「あなたがたは知らないのですか。競技場で走る者は皆走るけれども、賞を受けるのは一人だけです。あなたがたも賞を得るように走りなさい。」


やはり、選手には賞を受ける事は刺激と目標になります。その素晴らしい目的があるからこそ、激しいトレーニングに耐えられます。また、必要があれば、自分にnoと言えます。例えば、トレーニングをサボるようにと誘惑されたら、栄えある素晴らしい目標を考える事によって誘惑と戦い、 noと言えるようになります。
 
【はっきりした目標と計画を】
もし私達の自制が足りなかったら、恐らくはっきりした目標がないからかも知れません。あるいは、目標はあんまり大したものではないので、自分に noと言える動機が強くてはありません。ですから、勝利を得ようとしますと、はっきりした、大事な目標を立てなければなりません。例えば、健康を増進する為、運動と食生活は大事です。その故に毎日、運動時間と適切な食事を決めるべきです。そうしないと、失敗は保証されています。競技をする人のように、自制を実行しようと、はっきりした目標とその目標を得る計画を立てなければなりません。
 
【朽ちない冠を得る為に】
25節の後半を見て下さい。

「彼等(すなわち、競技をする人)は 朽ちる冠を得る為にそうするのですが、私達は、朽ちない冠を得る為に節制するのです。だから、私としては、やみくもに走ったりしないし、空を打つような拳闘もしません」


と書いてあります。私達キリスト者が受ける賞、私達の目標は神の働きをするのです。

「神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶ事です。」


又、

永久の命


です。言うまでもなく、それは選手が受ける冠よりも遥かにもっと素晴らしいです。ですから、その素晴らしい目標を焦点に私達は自制する事が十分可能です。すなわち、27節に書いたように、私達は選手と同様に、

「自分の体を打ちたたいて服従させます。」


我々ははっきりした目標と動機があるので、自制を現す事が出来るのです。
 
【自制は聖霊の結ぶ実】
その上、私達は自分の力だけで自制を行いません。それはちょっと矛盾と聞こえるかも知れませんが、自制は聖霊の結ぶ実なのです。聖霊なる神の賜物です。その賜物は「自制」と呼ばれていますが、実は聖霊は私達をコントロールする程、私達は自制を現せます。
 
愛する兄弟姉妹、

「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。」


どうか私達一人一人は霊の導きに従って生きるように祈っております。(おわり)

2007年07月29日 | カテゴリー: ガラテヤの信徒への手紙 , コリントの信徒への手紙二 , ローマの信徒への手紙 , 新約聖書

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