2015年10月25日説教「ホサナ、ダビデの子イエスよ」金田幸男牧師

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マルコによる福音書11章
1 一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山のふもとにあるベトファゲとベタニアにさしかかったとき、イエスは二人の弟子を使いに出そうとして、2 言われた。「向こうの村へ行きなさい。村に入るとすぐ、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、連れて来なさい。
3 もし、だれかが、『なぜ、そんなことをするのか』と言ったら、『主がお入り用なのです。すぐここにお返しになります』と言いなさい。」
4 二人は、出かけて行くと、表通りの戸口に子ろばのつないであるのを見つけたので、それをほどいた。
5 すると、そこに居合わせたある人々が、「その子ろばをほどいてどうするのか」と言った。
6 二人が、イエスの言われたとおり話すと、許してくれた。
7 二人が子ろばを連れてイエスのところに戻って来て、その上に自分の服をかけると、イエスはそれにお乗りになった。
8 多くの人が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は野原から葉の付いた枝を切って来て道に敷いた。9 そして、前を行く者も後に従う者も叫んだ。「ホサナ。主の名によって来られる方に、/祝福があるように。10 我らの父ダビデの来るべき国に、/祝福があるように。いと高きところにホサナ。」
11 こうして、イエスはエルサレムに着いて、神殿の境内に入り、辺りの様子を見て回った後、もはや夕方になったので、十二人を連れてベタニアへ出て行かれた。


説教「ホサナ、ダビデの子イエスよ」

聖書:マルコ11章1-11

 

要旨

【エルサレム入城を前に】

 イエス・キリスト一行はエルサレムに近づきます。オリーブ山はエルサレムの城壁から、キデロンの谷を隔てて東側に位置し、小高い山で海抜814メートル。エルサレムは海抜790メートルですから、ほぼ同じ高さの丘と言ってもいいでしょう。オリーブ山の東の麓にはベテファゲとベタニヤという村がありました。イエス・キリストはこれらの村を通過してエルサレムに入って行こうとされます。

 

【二人の弟子を遣わされた】

 キリストはその直前、二人の弟子をその村に送られましたが、その村はどちらであったか記されていません。ただベタニア村にはラザロ、マルタ、マリヤの兄弟姉妹が住み、ハンセン病患者のシモンの家もあり、キリストはそこで休息されています(マタイ21:17,26:6、マルコ14:3)。遣わされた二人の弟子がだれであったかマルコは記していません。

 

【だれも乗ったことのない子ロバ】

 キリストは二人の弟子に細かに指示をされています。用件はだれも乗ったことのない子ロバを用意することでした。キリストがその村にだれものったことのない子ロバがいたことをどうしていったのか。あるいはロバの持ち主がどうしてすぐにわけも聞かずロバを連れて行くのを許可したのか、マルコは詳細に記していません。キリストが予見する能力があったので、二人の弟子たちは障害なくロバを連れてくることができたのか、あるいは、キリストとロバの主人の間ではすでに了解済であったのか、詳しいことはここに記されていません。イエス・キリストがいわば遠目で先のことを知っていたのかもしれません。あるいはロバの主人公はイエス・キリストをよく知っていたのかもしれません。こういう問題は興味あるものには面白いでしょうけれども、この記事が訴えていることからするとあまり関係がありません。とにかく二人の弟子はキリストの言うとおりであったことに気がついています。

 

【なぜ小ロバか】

 二人の弟子はキリストのところへ子ロバを連れてきました。なぜ小ロバであったのか。ロバは今日、頭の悪い家畜であるとか、乗用ではあるが、高級な乗り物ではなかったという誤解があります。しかし、当時のユダヤ人の間ではロバはごく普通の乗り物でありました。身分の高いものはロバを使用しないなどということはありませんでした。

 

 なぜ、キリストはロバ、しかも子どものロバを所望されたのでしょうか。ロバは子どものときは人を乗せることはできません。成熟するまで人を乗せることができなかったのです。キリストはそのような間もなく乗用に供する若いロバを求められました。だれも乗ったことがない、それはこのロバが聖なる目的に用いられるためでした。キリストはご自身が聖なる目的でエルサレムに上って行こうとされます。だれも人を乗せたことのないロバが聖なる目的に用いられるのは相応しかったのです。

 

【預言を成就:見よ、あなたの王が来る・・雌ろばの子に乗って】

 それ以上にキリストは子ロバを用いられる目的がありました。ゼカリヤ書9-10をご覧ください。娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者/高ぶることなく、ろばに乗って来る/雌ろばの子であるろばに乗って。わたしはエフライムから戦車を/エルサレムから軍馬を絶つ。戦いの弓は絶たれ/諸国の民に平和が告げられる。彼の支配は海から海へ/大河から地の果てにまで及ぶ。」

 

 イエス・キリストはこの預言を成就するためにロバを求められました。ゼカリヤは間もなくユダヤにまことの王が立てられると期待していました。その預言を成就するためにキリストはエルサレムに入城する決心をされました。

 

【真に平和をもたらすメシヤ】

この場合、キリストはローマ帝国を打倒し、一大帝国を築くメシヤとしてエルサレムに入っていこうとされたのではありません。あるいは終末的な世界の救済者となるものでもありませんでした。ゼカリヤが預言するメシヤは平和をもたらすメシヤでした。キリストはゼカリヤの預言を成就するためにエルサレムに上って行こうとされています。平和の君としてエルサレムに上って行かれます。

 

【戦車でなく】

当時の勝利者、凱旋する軍隊の司令官は凱旋すると、二頭の馬に引かれた戦車の乗ってその勝利を誇示しました。あるいは人が担ぐ床几の上に乗って祖国に凱旋するのが普通でした。そこで用いられる家畜はロバではありません。イエス・キリストはご自身ゼカリヤの言うようにメシヤとしてエルサレムに上って行かれます。キリストは固くご自身がメシヤであると自覚されていたことを示します。ゼカリヤの預言は成就しなければなりません。ゼカリヤの言うとおり、軍人でもなく、卓越して政治家でもなく、そのような栄光を受けたメシヤではありません。キリストはロバに乗られます。キリストは決して当時の人々が期待するような働きでメシヤであることを知らされませんでした。ロバは普通の人が乗る常用の家畜でした。征服者でも、暴力で覇者になるのではなく、キリストは平和をもたらす救済者でありました。

 

【群衆は上着を脱いで、葉のついた木の枝を】

 二人が村に入るとイエス・キリストの言うとおりでした。ロバの所有者はすぐに応答します。ロバがキリストのところへ連れてこられます。弟子をはじめ人々がしたことが記されます。弟子たちは鞍の代わりにするために上着を脱ぎます。群衆は上着を脱いで、それを道路に敷き詰めます。さらに葉のついた木の枝を切ってきて道路に敷き詰めます。これらの行動は旧約に前例があります。

まず、列王記9:13です。この記事には預言者エリシャが油を注いでイエフが反乱を起す次第がすりされています。エリシャが油を注いで、イエフを王としたのですが、彼の家臣たちが上着を敷きます。いまでも国賓を迎えるとき、じゅうたんが敷かれます。じゅうたんはこのように身分の高い人を賛辞する行為です。ここではそのじゅうたんが即時準備できなかったので、部下たちが上着を敷物にしてイエフを王として迎えました。この故事に倣って、ユダヤ人はキリストをメシヤとして受け入れようとしています。

 

イエフは革命家と言ってもよいでしょうか。ヨラム王に反抗して王位を確保します。イエフを王としようとした人々はこのように急遽じゅうたんを確保できなかったので上着を敷物にしたのですが、この行為はイエス・キリストにおいても繰り返されました。葉のついた木の枝も道路に敷かれます。これも過去のユダヤ人の行動を反映しています。

 

【マカバイ家のシモン】

マカバイ第一、13:51に記されていることですが、紀元前142年ごろ、ユダヤは隣国で強力な力を持っているシリアと戦います。シリアのほうがむろん軍事力では強力であったと考えられます。しかし必死の戦いで、マカバイ家のシモンはシリアからの独立を樹立します。シモンがエルサレムの神殿の近くにある要塞まで登っていくとき、葉のついた木の枝が道路に敷き詰められたのでした。それは棕櫚に気でした。棕櫚の木はエリコのような熱帯性気候の地域ではよく育ちます。人々は棕櫚の木などを切ってきて道路に敷いたのでした。

 これらの記事から分かりますが、人々が求め願ってきたメシヤはユダヤを軍事大国にしようとするメシヤに他なりません。旧約にあったように革命を引き起こし、暴力によって統治しようとするメシヤが期待されていました。

 

【ハレル詩編歌】

 さらに、人々は詩編118;25-26を歌ったと記されます。詩編113-118はハレルの詩編歌といい、仮庵の祭り、過越しの祭といった大きな祭のときエルサレムに上って来る巡礼がこの詩編を歌いました。巡礼を待ち構える神殿の祭司の聖歌隊がこの詩編を歌い、群衆もその詩編で応答しました。この詩編はエルサレムに上っていく人々がメシヤの到来を期待したのです。その詩編は今まで慣習的に歌われていましたが、いまやその歌と共にメシヤがエルサレムに上っていこうとしていると人々は考えたのでした。

 

【ホサナ「今、救ってください」】

 人々はホサナと歌ったとあります。ホサナとは「今、救ってください」という意味ですが、この語は神讃美に用いられるようになっていました。メシヤの到来を喜び讃美する詩編と思われていました。

 このあとキリストは神殿を見てまわり、遅くなったので、ベタニや村に戻っていかれました。

 この記事はイエスのエルサレム入城のことであり、とても華やかな光景とも思えます。棕櫚の日は教会カレンダーでは受難週の開始を告げる、教会行事にはなくてならない大事な日として記憶されました。子どもの聖書物語ではこの場面はイエス・キリストの栄光のみ姿に描かれます。

 

【メシア理解:キリストと群衆の大きな隔て】

 けれども、よく考えてみると、キリストと群衆の理解には大きな隔てがありました。齟齬があったというべきでしょう。あくまで群衆はこの世界に大きな変革をもたらすメシヤを期待していました。ところがキリストはそういうメシヤではありません。

 

 キリストを正しく完璧に理解できるのでしょうか。私たちのキリスト理解ははじめから完全ではありません。その反対です。ここの登場する群衆は過越しを都で守ろうとする巡礼ですが、彼らはもう少し時間が経つと「十字架につけろ」と叫び出す人々です。あまりにも格差があります。

 キリストを正当に理解していない、そのためにキリストを十字架につけてしまいました。無知が解決されず、キリストを十字架に追いやるものたちとなります。

 

 はじめからすべての人がキリストを理解しているわけではありません。時間はかかりますが、キリストを理解することは肝心なことです。次第にキリスト理解は異なっていきます。

 私たちもそうです。何もかも正確にキリストのことが分かっていなくてもいいのです。短期間でキリストのことを完璧に知ることなど不可能なことです。それでもいいのです。徐々にキリストを理解していく。それが肝心なことなのです。

 


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2015年10月25日 | カテゴリー: マルコによる福音書

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