2014年5月4日説 教 「神の約束は反古にされない」金田幸男牧師

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20145月4日説教「神の約束は反故にされない」金田幸男牧師

聖書 ガラテヤの信徒への手紙3章15-18

15 兄弟たち、分かりやすく説明しましょう。人の作った遺言でさえ、法律的に有効となったら、だれも無効にしたり、それに追加したりはできません。

16 ところで、アブラハムとその子孫に対して約束が告げられましたが、その際、多くの人を指して「子孫たちとに」とは言われず、一人の人を指して「あなたの子孫とに」と言われています。この「子孫」とは、キリストのことです。

17 わたしが言いたいのは、こうです。神によってあらかじめ有効なものと定められた契約を、それから四百三十年後にできた律法が無効にして、その約束を反故にすることはないということです。

18 相続が律法に由来するものなら、もはや、それは約束に由来するものではありません。しかし神は、約束によってアブラハムにその恵みをお与えになったのです。

 

 

要旨

【ガラテヤの信徒への手紙の主題】

私たちは今まで、律法の行いではなく、信仰によって神に義と認められ、救われるということを学んできました。これがガラテヤの信徒への手紙の主題です。

パウロの敵対者は、信仰だけでは救いには不十分であり、律法を実行することも救いの要件であると主張し、異邦人であっても律法の規定を守らなければ救われないと教えたのでした。パウロはこれに強く反論します。

 

【律法を完全に守らなければ呪われる】

律法の行いによって救われようとするものは、律法を完全に守らなければなりません。もし、律法を少しでも守らなければ義と認められないどころか、呪われます。呪われるとは神に遺棄されること、見捨てられることを意味します。神との生命的な交わりを失うことです。

 

このパウロの立場を明白にするために、パウロはアブラハムを引き合いに出します。アブラハムはイスラエル民族の祖先というだけではありません。アブラハムはイスラエルにとって最も重要な人物ではありますが、それは、神との関わりでそのようにいうことができます。神はアブラハムを選んで、大きな祝福を約束されました。それは子孫が増えるというだけではありません。ただ、イスラエル民族が定住地を獲得し、強大な国家を作り上げたというだけならば、歴史の中でそれ以上に強大な帝国はいくつも発生しました。

 

イスラエルが幸いなのは、神が特別扱いをされたという点です。神がアブラハムを選び、大きな祝福を何の対価も要求しないで一方的に救いを約束されたのです。その救いはイエス・キリストにおいていっそう明確になります。それは新しい神の民にされること、神の御国に入れられる特権を約束されるということです。

 

【アブラハムの選びと彼の信仰】

ところで、アブラハムのことをなぜ私たちは学ばなければならないのでしょうか。旧約聖書を研究しなければならないのでしょうか。アブラハムは大昔の人、しかも遠くで生きた人です。あまり、私たちに関わりがないように思われます。アブラハムはユダヤ人の先祖であっても、私たちには縁遠い存在に過ぎない。

 いえ、そうではないのです。神がアブラハムにしたことは時間を超え、空間を隔てていても私たちにも同じように行なわれるのです。神はアブラハムを選んだように私たちをも自由に選び、ただ信仰によってアブラハムを義としたように、イエス・キリストを救い主として信じる私たちをも救われるのです。神は生きておられます。生きた神はそのいのちを今もなお与え続けておられます。アブラハムはその意味で過去に存在した、しかも、私たちと関わりのない人ではなく、それどころか、アブラハムを学べば学ぶほど私たちの救いが明瞭になってきます。

 

アブラハム個人の問題ではなく、21世紀に生きる私たちに対する神のメッセージが聞こえてきます。

 

【遺言は修正されない】

15-18節において、パウロは信仰による救いと律法の義による救いの違い、両者は両立しないということを語ります。

そのためにまず、パウロは遺言という人間社会の中で一般に行われている事柄を取り上げます。遺言は現在でも重要な法的行為です。法律上の手続きで書かれた遺言書は有効です。今日でも遺言は法律できちんと書式などが規定されています。例えば、遺言は、自筆でなければならず、日付も入れられ、その上、本人の署名捺印を欠くことができません。法律に従って書かれた遺言の内容は、この世を去っていくものが残された人に約束するものです。遺産をだれだれにこれだけ残す、といったことは約束でもあります。その約束は確実に実行されます。ローマ帝国の時代でも遺言は法的に保護されていました。

 

そのような遺言は重要な法的行為ですが、それだけに、遺言は後になって書き加えられたり、削除されたり、訂正されては遺言にはなりませんし、法律はそのようなことを許しません。いったん作成された遺言は修正されません。

 

これをパウロは例として用います。遺言も一種の約束です。神はアブラハムに祝福を約束されました。それは驚くべき、大きく豊かな素晴らしい約束でした。

 

 

【人はただイエス・キリストを信じる信仰により救われるという契約】

ただ神の恵みによってイエス・キリストを信じる信仰により、人は救われる、これはアブラハムに対する神の約束でした。遺言がそうであるように、アブラハムへの約束は後になって何かが追加されたり、修正されたりすることはありません。それは不変の約束です。まして神がなされた約束です。それは撤回されたり、内容が変更されたりすることは無いのです。

 

神の約束は後になって変ることがない、それは聖書の神が一貫して矛盾することのない神だからです。時代が変わると神の御心も変わるというような方ではないのです。このことは神の重要な特質であられます。

 

遺言は神の約束、契約とほぼ同じ意味です。ちなみに、私たちは英語で新約聖書はThe New Testamentと書きますが、ここで使われている遺言を意味するギリシヤ語の原語です。つまり、遺言の意味ではなく、契約の意味に用いています。

 遺言が変更できないように、神はアブラハムになされた約束を変更されることはありえません。後になって、律法の行いという救いの方法がユダヤ人に示され、アブラハムとの契約、ただ信仰によって義とされるという約束が破棄されて、ユダヤ人には律法の実行という別の救いの道が開かれたというようなことはありえないとパウロは強調します。

 

【イエス・キリストにあってひとつの民とされているアブラハムの子ら】

このように語ってから、パウロは16節で、この約束は誰に向けられていたかを語ります。遺言は遺言する本人だけの問題ではありません。誰のために遺言が書かれるのか。子孫のために書かれます。アブラハムへの約束も、その約束が果されるべき子孫がいます。それは誰か。ユダヤ人はアブラハムの子孫がそうであると考えていました。ここでパウロは子孫という表現が単数形であることに着目します(創世記12:7、13:15,17:8)。じつはヘブライ語もギリシヤ語も、単数形は一個とか一人を表すだけではなく、集合名詞といって、ひとつの塊をさす場合もあります。ここではその集合名詞です。「子孫」もまた一人の子孫ではなく、子孫全体をさします。パウロがあえてこのこと、つまり、「子孫」と「子孫たち」の区別をするために単数形、複数形を取り上げたのはなぜか完璧に明らかではありません。ちなみの複数形の「子孫たち」は「植物の種子」とも訳すべき表現になります。パウロはこのような言葉の使い方を知らないわけではなかったと思います。パウロが言いたいことはおそらく、複数形ではないというところで、アブラハムの子孫とはここではアブラハムの血縁関係にある多くの民を指していないと語ろうとしていると解されます。複数形が使われないのは、アブラハムの子どもがすべて約束を受けたのではないと言いたいのです。

 

【アブラハムの子孫だからといって】

つまり、アブラハムにはイサクのほかにイシュマエルという子どもがいました。しかし、イシュマエルは排除されます。ヤコブ、別名イスラエルも双子の兄弟、エサウがいましたが、神はエサウを選ばれませんでした。だから、ユダヤ人がアブラハムの子孫だからといってそれだけで約束の担い手になったわけではない。パウロはこのように語ります。ユダヤ人だからといってそれで神の約束を受けることにはならないのです。むしろ、単数形の子孫という言葉が用いられるのは、一人の人イエス・キリストに神は新しい契約、約束を与えられ、キリストにあってひとつの民とされている集団、キリスト者たちこそ神はアブラハムへの約束を成就されるのだといいたいのです。単数形の子孫はキリストにあるものたちだとパウロは言おうとしています。

 

【人は律法の実行によっては義とされない】

こうして、17-18節で15節の主題に戻ります。パウロはアブラハムへ約束が与えられてから430年目に起きたことに触れます。この430年は聖書記載の年数をどう計算したか不明なのですが、およそという意味かもしれません。パウロが指摘しているのは出エジプト記に記されるモーセを通してなされた律法の授与です(出エジプト20章以下)。ユダヤ人の中には、このモーセが律法を与えられてからは、律法を遵守することで救いを勝ち取ることができると思い、律法の実行によって神に義とされる道が示されたのだと考える人が出てきました。そして次第に、その考えが有力になっていきます。ユダヤ人の大半はそう思いました。

 

パウロはこのような考え方を否定します。遺言はあとで書き加えられたり、修正されてはなりません。法的に認められた遺言は有効です。ところが、パウロの反対者の考え方が遺言を無造作に修正しようとするのと同じなのです。神の約束はそのように扱われてはならないのです。

 

 【アブラハム契約は反故にされない】

神はアブラハムと契約を結ばれました。その契約は約束でもあります。神はアブラハムの神となり、アブラハムに対して救いの恵みを提供されます。それはただ信仰によるものです。この神の約束は修正されることはありません。神がアブラハムになされた約束は反故にされることは絶対にありえないのです。神は430年後、モーセを通してかつてアブラハムに与えられた約束を破棄されたり、別の内容を付加したりすることはありません。そうだとすると、一部のユダヤ人キリスト者の信徒が、異邦人もユダヤ人のように律法に従って割礼が必要だとか、さまざまな律法の規定を遵守しなければ救われないなどというような教えは全く真実に反します。

 

アブラハムについて言えることは今日においても同様です。アブラハムはただ神の言葉を信じて神に義と認められました。私たちもただイエス・キリストを信じて救われるのであって、この真実は不変であり続けます。(おわり)


2014年05月05日

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