「悲しむ人々は幸いである」 田村英典牧師/淀川キリスト教病院伝道部長

聖書:マタイ5章4節「悲しむ人々は幸いである。その人たちは慰められる。」

【悲しむ人々は幸いである】
今朝は、イエスの語られた山上の説教の冒頭の「幸福の教え」の二つ目に進みます。4節「悲しむ人々は幸いである。その人たちは慰められる。」

ここですぐ疑問が湧いてきます。「ちょっと待ってほしい。悲しみは不幸以外の何ものでもないではないか。何故こんなことが言えるのか。」恐らく誰もがこういう疑問を抱くと思います。

「悲しむ人々は幸い。」この逆説はどういうことでしょうか。イエスはどういう意味でこう言われるのでしょうか。

最初に一つのことを確認しておきます。イエスは悲しむ人の誰もがこうだと言われるのではありません。前回も申し上げましたが、ここの教えは皆、イエスを神の御子、また私たち人間を罪と永遠の滅びから救うことのできる、ただ一人の救い主と心から信じる真の信仰者、真のクリスチャンの幸いな特徴、特質を八つの角度から描いたものです。これはクリスチャンでない人たちを締め出すというのではありません。ただ、真のクリスチャンとはどういう人で、どういうことが真に幸いか、ということです。

次のような誤解もあります。これは世間にしばしば見られ、クリスチャンですら時に誤解しているものです。つまり、クリスチャンはいつも笑顔で明るいというものです。成程、教会へ行くと皆明るい。笑顔で挨拶し、爽やかな印象を与えます。「私はクリスチャンだから、人につまずきを与える苦しそうな暗い顔をしてはいけない。明るくなくては」と思って努力する人もいます。中には、常に明るいことを自分のトレードマークとし、他のクリスチャンにもそれを要求する人もいます。これでは、クリスチャンは悩んではならず、悲しむことはキリスト教信仰と相容れないみたいです。

しかし、本当にそうなのでしょうか。聖書によれば決してそうではありません。単に明るいとか暗いといった表面的なことが問題ではないのです。むしろ、真に幸いな信仰者とは悲しみの人であり、悲しむことを知っており、悲しまないではおれない人です。イエスによれば、悲しみのない人がいるとすれば、それは真の信仰者ではなく、幸いでも何でもありません。

「悲しむ人々は幸いである。」これが神の御子イエス・キリストの描かれる真の信仰者です。

こうして、まず、幸いな真の信仰者とは、むしろ悲しみの人だという点を確認しました。

では、その悲しみとは何であり、何故悲しむのでしょう。次にこの点に進みます。ここには直接悲しみの内容や理由は述べられていませんが、聖書全体から幾つか示されます。

【何故、悲しむのか】
一つは、私たちの生きているこの社会、世界、人間の問題です。このことに真のクリスチャンは悲しみを覚えないではおれません。ことさら深刻ぶって悲しもうというのではありません。楽しい明るい嬉しい話題も沢山あります。それらは素直に喜び、心から神に感謝すればいいです。嬉しいのに、わざわざ顔をしかめて小難しいことを言う必要などありません。喜ぶ時は喜び、感謝すべき時は素直に大いに感謝する。それでいいです。しかし同時に、そういう喜ばしいこととは正反対のことも、この世に沢山あることを忘れたり、そういうことに無頓着、無関心でありたくないと思います。

日本の景気は今も落ち込んでいるようですが、海外旅行に行く人の数はおびただしいです。おいしい物を食べ回っている人は、沢山います。でも、一旦世界に目を向けるなら、信じられない程貧しい人々がいて、悲惨な生活の中に短い一生を終えています。こういうことを私たちの無関心の故に、知ることも悲しむこともなく、そして自分は絶えず食べることで贅沢や好き嫌いを言い、ポイポイ投げ捨てているとするなら、これは異常ではないでしょうか。

【世界にある悲しい現実】
食べ物だけではありません。世界には悲しい問題が山積みです。国と国、民族と民族の間の果てしない抗争、流血が見られます。そして世界には憂えるべき真に悲しい人間の倫理的問題、罪の問題が後を絶ちません。昨日の午後、淀川キリスト教病院では、泌尿器科医師による性感染症についての講演がありました。今、若い男女の間に、恐ろしい程、性病が広がっています。何という性道徳の乱れでしょう。性に限らず、人間の罪の様相は、ずっと昔から変りません。ですから、人間として当然の鋭い倫理観を持っていた旧約時代の信仰者は、神にこう祈りました。

詩編119篇136「わたしの目は川のように涙を流しています。人々があなたの律法を守らないからです。」

神を恐れず、倫理性を失い、平然と罪深いことを行なっている人の行く末は、そのままなら永遠の地獄です。しかも自分が裁かれるだけでなく、他の人をも罪と悲惨に巻き込んでいきます。何と悲しむべきことでしょうか。

これだけではありません。残念ですが、目に見える地上の教会とクリスチャンにも、例外なく弱さと罪があります。真の信仰者であればある程、それがよく分るはずです。ですから、ここにも悲しみがあります。

【自分自身についての悲しみ】
これに加えて第二に、真の信仰者には何より自分自身についての悲しみがあります。自らの罪深さ、信仰の弱さについての悲しみです。確かにイエス・キリストを心から信じている真の信仰者は、罪赦されています。神に義と認められ、間違いなく神の子としての身分をいただいています。しかし、罪に汚れた古い性質は残っています。それが時々頭をもたげ、思いと言葉と行いにおいて愚かで情けない罪を私たちに犯させます。しかも信仰がありますから、遅かれ早かれ自分の罪深さと不信仰に気づかずにはおれず、愕然とします。自分が呪わしい程に悲しくなります。偉大な信仰者パウロでさえ、こう告白しています。

ローマ7章15節「わたしは自分のしていることが分りません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。」19節「わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。」24節「わたしは何と惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。」

これが偽らざる告白です。ご自分の独り子を私たち罪人の救いのためにこの世に送り、あのむごい十字架につけて下さった程に、神が私たちを愛して下さっている。このことをよく知っている故に、いつまでも信仰が弱く、罪を犯す自分が情ないのです。

【辛い試練】

更に私たちにはこの世に生きる限り、大なり小なり辛い試練があります。思い掛けない重い病気、事故、トラブル、失敗、人間関係における問題を初め、色々な不幸や悲しみが次々に私たちを襲います。この世自体が神に対する人類の背きのために、歪んでしまっているからです。クリスチャンはキリストのお蔭で救われている。これは間違いない。これはどんなに感謝しても足りません。だが、この世はまだ天国ではない。ですから、真の信仰者にはこの世で必ず悩みがあります。イエスは弟子たちに言われました。

ヨハネ16章33節「あなたがたには世で苦難がある。」

神の前に清く誠実であろうとする程、悲しみがある。これが現実です。

【悲しみがなぜ幸いか】

しかし、主の御言葉はこれで終りません。「悲しむ人々は幸いである。その人たちは慰められる。」ではどういう意味で幸いかを、残りの時間で見てみたいと思います。

一般論として第一に、私たちは悲しみに会って、初めて真剣に物事を考えるようになるから、幸いと言えます。コヘレトの書7章14節は言います。

「順境の日には楽しめ。逆境の日には考えよ。」(口語訳・伝道の書)。

確かに逆境に直面して、私たちは初めて大切なことを真剣に考えさせられるということがあります。悲しみを体験しないと、私たちは薄っぺらな生き方で満足し、恐ろしい速さで人生を浪費しかねません。しかし、悲しみに会うことで、私たちは立ち止り、自分と自分の生き方を深く考えさせられ、時間を初め、物事を一つ一つ大切にし、深く生きることが可能となります。 

第二に、本当の意味で人との交流も深められるから幸いです。悲しみを知らないと、私たちは他人の悲しみ、特に人格が変る程の人の悲しみ、痛み、絶望感が中々分りません。すると私たちはそういう人たちを安易に批判したりして、その結果、本当の意味での交流は持てません。しかし、自分も悲しみに遭うと、僅かでも人の気持に近づくことができ、より深い真実な交流が可能となると思います。

第三に、私たちは悲しみを体験することで、初めて真実の世界に気づかされます。星野富弘さんをご存じと思います。24歳の時、中学校の体育の時間に器械体操の模範演技をしていて、ちょっとしたミスのために首の骨を折り、一瞬にして首から下が不随になってしまいました。その後、クリスチャンとなり、現在は美しい絵と詩で多くの人に感動を与え、障害を持つ人々に大きな希望を与え続けておられますが、彼は以前を振り返ってこう書いておられます。「体が丈夫で、しかも自分が自信に満ち溢れていた時には、見えない世界がある。けれども自分の弱さを知り、否、弱さそのものとなった時、見えてくる世界がある。」

その見えてくる世界とは何でしょうか。一つは人の優しさでしょう。重い病気で入院された患者さんの中で、そう言われる方が少なくありません。しかし、更に深い真実の世界があります。それは神の実在の世界であり、人は自分で生きているというより、ただ神の憐れみによって生かされているという事実です。イギリスの文学者C.S.ルイスは最愛の妻を亡くした後、人間の苦痛と悲しみについて書いています。「神は楽しみにおいて私たちにささやきかけ、また良心において語られる。しかし苦痛においては、神は私たちに向かって激しく呼びかけられる。苦痛は耳の聞こえない世界を呼び覚まそうとされる神のメガフォンである。」

確かに、何もかも順調な時、私たちはいつしか傲慢になり、人のことも造り主なる神のことも見えず、聞こえなくなる。でも悲しみを体験することで、真実の世界に目を開かれます。ですから、幸いです。

第四に、こうして神を知らされることから、更に色々な幸いが伴ってきます。例えば、この世界の問題と真正面から取り組もうとすると、普通なら私たちは絶望的にならざるを得ないでしょう。問題が余りにも複雑で大きいからです。しかし、悲しみを通して全知全能の神の力を知らされる時、私たちは悲しみを覚えつつも、最終的には神に一切を委ね、希望をもって前進することができます。そしてこのように生きる者に、

詩編126篇5節は励まします。「涙と共に種を蒔く人は、喜びの歌と共に刈り入れる。」詩編30篇6節も言います。「泣きながら夜を過ごす人にも、喜びの歌と共に朝を迎えさせて下さる。」


また私たちは自分の罪や失敗の悲しみを通して自我を砕かれ、へりくだった者とされて、真に人を生かす神の清い御心をますます深く学ばせられるという幸いにも与ります。ですから、

詩編119篇71節は神に告白します(口語訳)。「苦しみに会ったことは、わたしに良いことです。これによって、わたしはあなたの掟を学ぶことができました。」


更に私たちは、自分の罪や不信仰や弱さを知る悲しみを通し、キリストによる救いの恵みが如何に絶大かを一層知らされ、いよいよ神を信頼する者へと高められます。そうして本当に神を信頼する者には、

Ⅰコリント10章13節の約束通り、神は「耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共にそれに耐えられるよう、逃れる道をも備えていて下さ」いますし、ローマ8章28節「神を愛する者たち、つまりご計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働く」ように神はして下さいます。

こうして人生の旅路において、神から実に色々な慰めを受けます。

【真の信仰者に与えられる決定的な幸い】
しかし、真の信仰者には第五にもう一つ決定的な慰めがあります。それはこの世と自分のことで悲しみつつも、主イエスを固く信じ、ついにこの世の旅路を終え、天の御国に迎え入れられる時のことです。その終りの時のことを、ヨハネ黙示録21章3、4節はこう語ります。

「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとく拭い取って下さる。もはや死はなく、もはや悲しみも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」

神に従順な信仰者として、この世の問題と自分の問題に、誠実に一生懸命に取り組んだために悲しみの大きかった人程、永遠の天の御国における慰めはひとしお大きく、神から与えられるその恵みのあまりの大きさに驚き、嬉しくて「神様、どうして私にこんなに良くして下さるのですか」と言わないではおれないでしょう。イエスは言われます。「悲しむ人々は幸いである。その人たちは慰められる。」

どうかこのことが、私たち一人一人において現実となりますように。(おわり)

2006年09月17日 | カテゴリー: コヘレトの言葉 , コリントの信徒への手紙一 , マタイによる福音書 , ヨハネによる福音書 , ローマの信徒への手紙 , 新約聖書 , 旧約聖書 , 詩篇

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