2014年9月21日説教「イエスの働きの開始」金田幸男牧師

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2014921日説教「イエスの働きの開始」金田幸男牧師 

聖書:マルコによる福音書1

9 そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。

10 水の中から上がるとすぐ、天が裂けて"霊"が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。

11 すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。

(誘惑を受ける)

12 それから、"霊"はイエスを荒れ野に送り出した。

13 イエスは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた。

(ガリラヤで伝道を始める)

14 ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、

15 「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。

 

 

要旨

【イエス・キリストの働きの開始】

マルコはイエス・キリストの働きの開始を記します。イエスの受洗、悪魔の誘惑、宣教開始と陸上競技の三段跳びのように話が展開して行きます。

 

9節「そのころ」、マルコ福音書は正確な時間や場所にあまり関心がないかのように語ります。記事は次々に記されますが、「そのころ」「それから」「その後すぐ」といった言葉で記事が繋がっていきます。「そのころ」とはいつごろか分かりませんが、注解者によると紀元27年ごろとされます。

 

【ナザレ時代のイエス】

 イエスはそれまでナザレに住んでいました。マルコ6:3にこのように記されます。「この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか。」当時は大工の子は大工であるのは普通でした。イエスは父親のヨセフのもとで大工の修行をしたに違いありません。また、イエスにはたくさんの兄弟がいたことも分かります。ただ、イエスのナザレ時代については、福音書は沈黙していて、殆ど私たちは何も知らないのです。

 

【洗礼者ヨハネから洗礼を受ける】

 あるとき、イエスはヨルダン川で洗礼者ヨハネから洗礼を受けます。

この洗礼については大きな問題があります。ヨハネは罪からの悔い改めの洗礼を人々に授けました。イエスがこの洗礼を受けたということは、イエスが自分自身罪のあることを認め、洗礼を受けたのだとされかねません。

 

イエスは自分が罪人であると自覚しているということになります。キリストが単なる罪人では私たちの救い主にはなれません。しかし、これを否定する文章が記されます。「『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という声が、天から聞こえた。」この声は、天が裂けて聞こえます。天がびりびりと布を裂くように引き裂かれます。丁度絵画的な表現で書かれています。これは神の特別な啓示そのものであることを示しています。

 

そして、霊が降って来ます。霊は鳩のように可見的に降って来るということもとても驚くべきことでした。こんな異常な現象と共に語られたのは、イエスが神の子であるという告知です。イエスは罪人ではなく、神の子です。すなわち神です(神の子は神ではないということはありえません)。神の子が罪人であるはずがありません。

 

イエスは罪人ではないけれども、罪人であるかのようになってくださったということになります。イエス・キリストは私たちと同じようになってくださったのです。イエス・キリストは神であられたにもかかわらず、私たちと等しいものとへりくだってくださいました。

 

 洗礼者ヨハネはイエスの受洗の際、マタイ3:13以下では、思いとどまらせようとしたとあります。自分がイエスから洗礼を受けるべきだといいます。ヨハネはイエスが悔い改めの洗礼を必要とはしないと証言しています。しかし、イエスは「正しいことを行なうのだ」といってあえて洗礼を受けられました。

 

キリストは洗礼など必要ではありませんが、私たちと同じところに立たれて、すすんで洗礼を受けられました。私たちの罪を身代わりを引き受けて人間として歩まれます。イエスの洗礼ははからずも彼が神であることを示す出来事となったのです。

 

【サタンの誘惑】

 12節以下ではイエス・キリストがサタンから誘惑を受けたと記されます。誘惑とは罪に陥れようとする試みを指しています。イエスは試練を受けられたのです。

 誘惑したのはサタンです。サタンというとおどろおどろしい感じがします。

サタンは恐るべき力、強力な破壊力を持っているかのように思われています。人間にはサタンは厄介な存在です。サタンの本業は誘惑し、非難することです。ヨブ記1-2章ではヨブを試みます。彼の信仰を試す役割を果たします。しかし、サタンはヨブの命を奪うことは赦されていません。サタンは決して神以上ではありません。

 

 サタンはゼカリヤ書3:1でも出てきますがそこでは大祭司ヨシュアを訴える=告訴する役割を果たしています。告訴し、非難する専門家です。歴代志上21:1ではダビデを誘惑し告発します。脅し、文句をいい、批判するのがサタンの役割です。サタンは私たちを破滅させることはできませんが、人間に対してはしばしば勝利するかのように振舞います。誘惑して神から離れさせようとします。

 

イエス・キリストは私たちと同じようにサタンの誘惑に曝されました。キリストも大きな試練に直面しました。サタンは勝利するかのように振舞います。しかし、サタンは大敗北を喫します。

 

【天使たちが仕える】

13節に天使たちが仕えていたと記されますが、天使の最も大きな役割が神への奉仕です。天使が仕えていたということはイエス・キリストを神の子として仕えていたことに他なりません。ここでもマルコはイエス・キリストが神であることを証言しています。

 

 人間として洗礼を受け、人間として試練に会われますが、また神の子として、神として振る舞い、神であるがゆえに人間ができないことをされます。

 

【神が人となる】

私たちは、人間が神になるという宗教状況に生きています。しかし、その逆である、神が人間になるということは考えられない状況にいます。神が人となるというのであればそれはきわめて重大なことです。ありえないことが行なわれています。

 

神がわざわざ人間となり、人間と等しくなられました。人間となられたイエスは神であることを示されます。私たちはこの神のなさることを無視したりできないはずです。神が救いに必要な働きをまっとうされ、また御言葉を語られるのであれば、私たちはその神の働きを軽視することなどとてもできず、不信心を持って応じることなどできないはずです。

 

神の子が私たちと同じになり、私たちの苦しみ、悲惨を味わってくださいました。そのイエスが神であって、私たちに神として神の御心を啓示されます。それを斥けることなど愚かしい、おぞましい行為です。

 

【福音の要約】

そして、イエス・キリストは宣教を開始されます。神の福音を宣べ伝えたこと、その宣教された言葉が記されます。15「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」

 

9-15節はマルコ福音書の序論に当たります。序論において、全体の要点を記すのが一般的な書物の書き方です。イエス・キリストの公的な生涯の開始を記しますが、単に開始を告げるのではなく、マルコ福音書全体の要約ということができます。イエス・キリストの生涯の言動をここはその方向性を語ります。

 1章7-8は洗礼者ヨハネの説教の要約ということができますが、15節は宣教者イエス・キリストの説教の要約だといえるでしょう。イエス・キリストが語ろうとしたことがここに要約されています。

 

イエスの説教はまず、時は満ちた、です。私たちは時間が水の流れのように流れていくようなものだと思っています。しかし、ここで時間は器に充満するがごとくです。時間はついに溢れ出します。充満し、ついに破裂してしまうようです。そのように時間には節目があり、その節目が来たとき一挙に神は働かれます。イエス・キリストが宣教を開始されたのは満を持して、ついにそのときが来たという感じを表現しています。

 

 「神の国は近づいた」

 神の国は「神の支配」を意味します。時間と共に、時間が始まって以来、つまりこの世界の創造からずっと、神の支配は開始されています。しかし、神の支配の完成はまだです。私たちは神の支配がすでに始まっている世に生き、「神の支配が完成する間近」に生きています。

 

神に支配が完成するとき、私たちの救いも完成します。私たちは神の国に入れられます。イエス・キリストは神の国の完成は近づいていると宣言されます。つまり、救いの完成は近いのです。そのときは近づいている。これがイエスの説教の主題です。神は私たちの救いを完成しようとしておられる。

 

【神の国の備え:神に立ち返れ】

悔い改めて福音を信ぜよ。神の国の備えは、悔い改めと福音を信じる信仰だと語られます。悔い改めは単に反省すること、あるいは後悔することと異なります。神に立ち返ることを指しています。福音はよき知らせです。神が語るよき知らせを信じることが神の国に入る条件です。

 

 洗礼者ヨハネは悔い改めを語りました。イエス・キリストの場合、福音を信じなさいという命令が含まれています。ここがヨハネとの違いです。ヨハネは悔い改めを語っただけでした。悔い改めてするべきことは洗礼を受けることです。イエスはヨハネと違います。悔い改めることだけではなく、福音を信じることを命じるのです。

 

こうして、福音を信じるものに神の国に入る特権は約束されます。約束するのは神の子です。

 このような説教=宣教は人間がしてもよさそうなものです。誰でもよさそうなものです。実際、族長や預言者たちにその役割が与えられていました。しかし、神の子が直接この神の国に至るための道を宣告されます。

 

キリストは人間であるだけではなく、神が降臨されて、福音を語られるのです。それだけ、私たちは神の熱心を知らされます。神は御子を遣わして、福音を宣教させたのです。

 

私たちはキリストの福音を耳にしています。福音書はそのイエスの言行を記します。それは単にイエスという宗教的天才の言葉の羅列ではありません。また、福音は単なる慰安の言葉ではありません。神の子が私たちのところに来て、救いに必要なことを全て行なわれ、その御言葉を信じ、約束を受けいれるならば必ず救われるという神の使信を語られたのです。神のこのような決意を私たちはどのように考えるべきでしょうか。(おわり)

2014年09月21日 | カテゴリー: マルコによる福音書

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