2014年9月14日説教「福音のはじめ」金田幸男牧師

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2014914日説教「福音のはじめ」金田幸男牧師

 

聖書:マルコによる福音書1

1 神の子イエス・キリストの福音の初め。

2 預言者イザヤの書にこう書いてある。「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、/あなたの道を準備させよう。3 荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、/その道筋をまっすぐにせよ。』」そのとおり、4 洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。

5 ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。

6 ヨハネはらくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた。

7 彼はこう宣べ伝えた。「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。8 わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。」

 

要旨

【福音のはじめ】

 「神の子イエス・キリストの福音のはじめ」。子どもに物語を話し始めるとき「さあ、お話を始めましょう」と言います。「さあさあ、なになにの物語の始まり・・・」といった調子でしょうか。マルコも1節をそのように始めたかもしれませんが(つまり福音書開始の口上)、もうひとつの解釈は2-8節、洗礼者ヨハネの物語を福音のはじめととる解釈です。

 

2節以下には洗礼者ヨハネの言動が記されます。ヨハネという人物のことは殆ど知られません。ヨセフスという当時の歴史家の著作に名が出てきますが、詳しいことは何も知られません。しかし、キリスト教信仰においてはとても重要な役割を果たした人物です。彼の存在と働きは私たちの信仰には大きな意味があります。

 

【預言者たちの書に】

 「鍵括弧」に入っている2-3節を指して、預言者イザヤの書に書かれているとありますが、実はイザヤだけではありません。旧約聖書の他の個所からの引用でもあります。

 

2節は、マラキ書3:1見よ、わたしは使者を送る。彼はわが前に道を備える。あなたたちが待望している主は/突如、その聖所に来られる。あなたたちが喜びとしている契約の使者/見よ、彼が来る、と万軍の主は言われる。」と、出エジプト3:20「見よ、わたしはあなたの前に使いを遣わして、あなたを道で守らせ、わたしの備えた場所に導かせる。」の混合引用です。

 

【福音の使者】

マルコはヘブライ語旧約聖書をそのまま引用せず、ふたつの個所を自由に引用混合しています。この引用でマルコが言わんとするのは、まもなく神の大きな業が行なわれるがその前に使者が送られるというものです。

 

大きなわざとは、マラキによれば大いなるさばきです(マラキ1:2-3を見ると恐るべき神のさばきが記されます)。わたしはそう思っていませんが、大きな災害があると神のさばきだと考える人がいます。また個人的にも突然の不幸を経験すると神のさばきと思うのです。しかし、ちょっとしたさばきでも、私たちは耐えられません。神の大きな御業は災いばかりではないと思います。

 

【預言者エリヤと洗礼者ヨハネ】

それはむしろ神の救いの御業です。イスラエルはメシヤ=救世主の到来と信じていました。ユダヤ人はメシヤが必ず来る、そのとき救いは達成される。その前に使者が送られる。それがエリヤだと信じていました(エリヤは列王記下2:11.彼は死なないで火の車で天に挙げられました。ユダヤ人はもう一度エリヤは戻ってくる。神のさばきの前に使者として送られてくると信じられて)。

 

しかし、マルコは、そして、教会は、それこそが洗礼者ヨハネだと信じたのです。イザヤが引用されます(40:3「呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備え/わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。」)。荒野にその使者は出現するとイザヤが言っているとマルコは理解したのです。洗礼者ヨハネは荒野で活動を開始します。イザヤの言うとおりであり、使者は民に主の来臨の備えをさせます。

 

 「荒野」と言っても人間が寄り付けない広大な砂漠を指しているのではありません。人里離れた寂しいところという意味です。耕作や居住にふさわしくありませんが、そこに庵を設けたり、時には集団生活をして、もっぱら禁欲に努め、清い生活を求める人々がいました。荒野は清らかな生活をするのにふさわしいと考えられたのです。当時、ユダの荒野で、禁欲生活を実行した人々がたくさんいました(エッセネ派、クムラン)。ヨハネもそのうちの一人であったと思われます。

 

ただ、ヨハネは孤立して世俗世界から断絶するような態度をとっていません。ヨハネ自身、イナゴと蜂蜜を常食としたとありますが、粗食をしたという意味で、断食などしていません。栄養の点で不足のない、普通の生活をすることができました。ここでヨハネは徹底的にひとつの問題を瞑想し、考え込み、そして、熟考しました。ヨハネは清さを追及したに違いありません。砂漠に後退した修行者は禁欲を実践しましたが、それは聖潔を求める生きかたでありました。ヨハネはそこに留まらず、清さの反対の「罪」の問題を追及したと思われます。私たちの観念では清さの反対は穢れと考えます。しかし、砂漠の修行者たちは罪と考えます。ヨハネは罪の問題をどう解決すべきかを考え続けたのです。

 

【罪】

 罪とは何か。定義はできます。「罪とは律法に違反すること」。しかし、私たちは、罪の問題をあまりよく分かっていないのではないでしょうか。この世間では、法律に違反することを罪といいます。殺人、強盗、詐欺など犯罪といいます。刑法という法律はその犯罪に対する処罰まで記します。

 

しかし、キリスト教では、神の律法に反することを罪とし、心の中でも罪は犯されると言います。例えば殺意、憎悪、敵意、嫉妬なども罪とします。情欲まで罪とされます。

 

罪は厄介なものです。定義だけではすまないからです。私たちには良心があります。この良心は罪に痛みをおぼえます。誰でも良心はあります。良心の持たない人間はいません。良心は自分の犯した罪に苦しみます。しかし、罪が厄介なのは、罪を犯していても気がつかないこともあります。無自覚な罪。その数の多いこと。私たちは多くの場合気がつかないで罪を犯しています。ですから結果も気がつきません。

 

さらに罪は深刻です。罪は魂を傷つけます。深く傷つけます。その罪は魂の死を意味します。私たちが死の恐怖から抜け切れないのはこのためです。さらに、魂が負うこの深刻な傷は滅びをもたらします。心の中でおかされる罪は良心が自覚を促しますが、無自覚な罪、あるいは魂への傷を負わせる霊的次元の罪は、多くの場合軽視されています。しかし、結果は甚大です。

 

【悔い改めの洗礼】

 ヨハネは罪の問題を一所懸命追及したに違いありません。そして、当然その罪の問題の解決法も考えたはずです。どうすれば深刻な罪の問題を解決できるのか。罪が赦されること。それ以外にありません。罪を帳消しにされる道がなければなりません。どうすれば罪は赦されるのか。ヨハネはこの答えとして、悔い改めの洗礼を主張します。それを宣教しました。つまり、説教をしました。

 

4-8節でヨハネの活動と説教が記されます。「罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた」。罪の赦しはどうすれば得られるのか。悔い改めることだ。ヨハネはそう主張しました。   

悔い改めとは方向転換を意味することですが、聖書では神に立ち返ることを意味しています。自分の道を好きなように生きていた人間がその生き方を捨てて神に立ち戻っていくことを悔い改めと言います。単なる反省する、慙愧の念に駆られる、あるいは後悔するということとは異なります。  

 

罪の道を生きてきたものが悔い改めて神に立ち返る、そのときに罪は赦される。ヨハネはそのように教えたのでした。

 洗礼者ヨハネはさらに洗礼を授けました。これがヨハネの新しさであったということができます。悔い改めとは心の問題である。そう思う人が多いはずです。だから、心の中で悔い改めの気分になればそれでいい。犯した罪を反省します。それだけで終わることが何と多いことでしょうか。罪は謝ればすむではないか。そう考える人もいます。

 

 ヨハネは洗礼を求めます。彼はヨルダン川で洗礼を行ないました。それは単なる儀式ではありません。心に思った悔い改めを形に表すべきなのです。キリスト教という宗教は心に抱いた思いを形にすることを求めます。献金は献身のしるしといいます。神に献身する決心は本人しか分かりません。しかし、それを形にするのは献金なのです。賛美の心が湧いてきます。それを讃美歌という歌にします。ヨハネは悔い改めを洗礼と結び付けます。

 

 このような悔い改めの洗礼が罪を赦すと教えたのですが、続々とヨハネに共鳴する人が出てきました。罪の問題に悩んでいたユダヤ人はヨハネのところに来て悔い改め、罪を告白し、洗礼を受けました。こうして罪の赦しをいただこうと願ったのでした。

 

【悔い改めの水の洗礼は準備】

 ヨハネは懸命に教えましたが、なお不十分さを確信していました。彼の説教が7-8節に記録されていますが、むろん、これは説教のもっとも大切な部分です。水の洗礼だけでは限界がある。もっともっと魂の奥底で変化が起きなければならないと思ったのです。それを実行できるのは自分よりもはるかにすぐれたまことのメシヤ=キリストであると確信しました。自分はそのメシヤの到来の備えをするために来ただけだと自覚していました。つまり、悔い改めの洗礼は準備でしかないと思っていたのです。

 

【聖霊による洗礼】

 メシヤは同じく洗礼を授けます。しかし、その洗礼は聖霊による洗礼です。ヨハネの洗礼とキリスト教の洗礼はどう違うのか。ペトロが答えてくれています。

 

使徒言行録2:38-39「すると、ペトロは彼らに言った。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです。」

 

イエス・キリストの名による洗礼とはキリストの十字架の贖いとキリストの復活にあずかる洗礼であり、その恵みにあずかる洗礼です。これこそ聖霊による洗礼であり、ヨハネは自分の洗礼ではとても及ばない真実であると認めたのです。キリストを信じ、その贖いに預かる洗礼は聖霊によるのですから、その洗礼で約束されている祝福は確実です。必ず罪は赦されます。赦しの結果は確実な救いです。間違いなく神の国に入ることができます。そこには曖昧さはありません。

 この洗礼にあずかり、神の国の民としての特権を獲得していただきたいと願います。(おわり)

2014年09月14日 | カテゴリー: マルコによる福音書

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